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Living Well Is the Best Revenge

 「コレクション 戦争×文学」について評するのは三回目となる。このコレクションに収められたアンソロジーを読むこと自体が三回目であるから、読むたびに書評として応接していることになるが、無理もない。いずれの巻もなおざりに読み飛ばすことができない重い内容だ。この暑い夏に私が手に取ったのは5月に刊行された「オキナワ 終わらぬ戦争」。沖縄を舞台にした小説に関しては国書刊行会による「沖縄文学全集」というアンソロジーが先行しているらしいので、作品の選定自体は比較的容易であったかもしれないが、ほぼ半世紀にわたり、小説や詩、川柳、戯曲にいたる幅広い表現を通じて戦争、差別、暴力といった主題を扱った作品が丹念に集められている。
 全20巻から成るこの叢書はそれぞれ5巻ずつ、「現代編」「近代編」「テーマ編」「地域編」という四つのテーマに分けられている。このうち「地域編」は満州、帝国日本と朝鮮・樺太、帝国日本と台湾・南方、ヒロシマ・ナガサキ、そしてオキナワによって構成されている。前の三者は中国、北方、南方という日本のかつての版図と関わり、後の二つは第二次世界大戦によって日本国内で最も熾烈な被害を受けた土地と関わっている。このうちかつての日本の植民地については今日も検証されるべき多くの問題が残されており、例えば近年、満州や南方諸島が美術作品としていかに表象されてきたかを主題とした興味深い展覧会が次々に開催されたことは記憶に新しい。これらの地域のうち、オキナワの受難の特殊性は「終わらぬ戦争」というサブタイトルが雄弁に語っている。広島、長崎に今日も残存する被爆の問題を別にするならば、満州や朝鮮、南方諸島において第二次世界大戦はひとまず終結した問題だ。しかし沖縄のみ、大戦の爪痕は今も生々しく残されているのだ。すなわち大戦後もアメリカに統治され、日本に返還された後も広大なアメリカ軍の基地が残留し、基地に由来する事故や兵士たちによる市民への暴行が続く。国土のごく一部にすぎない沖縄県に米軍基地の大半が存在し、政権が交代してもその一部を移転すらできないという苦い体験を私たちは味わったばかりである。「ヒロシマ・ナガサキ」の巻末年表は福島第一原子力発電所事故で終わっていたが、琉球処分と関わるいくつかの事件で始まる本書の巻末年表も2011年に集団自決をめぐる裁判で大江健三郎・岩波書店が勝訴したという記事で終わる。私たちはなお戦争の中にいるという思いが強い。
 内容について触れよう。高橋敏夫の解説によると本書は琉球処分をめぐる沖縄の近代を背景とした作品による第一部、沖縄戦とアメリカの軍事支配を描いた作品による第二部、そしてヤマトの作家による沖縄を主題とした小説を集めた第三部から構成されているといえよう。書き手がウチナンチュであるかヤマトンチュであるかによって私は作品の内容が区別できるとは考えないので、このような構成には疑問を感じない訳でもないが、今は措く。興味深い点は、私たちが沖縄と戦争との関係を考える時、すぐに思い浮かべる第二次大戦末期の沖縄戦を直接の主題とした作品は11編の小説中、霜多正次の「虜囚の哭」と田宮虎彦の「夜」というわずか2編であることだ。逆に言うならば沖縄戦に触れずとも沖縄という地域が琉球処分以降、常に戦争と暴力の下にあったことが暗示されている。日本にこれほど長きにわたってかかる苦痛を経験した地域がほかにあるだろうか。実際にいくつかの小説においては戦争と暴力がこの島の歴史を貫通していることが暗示されている。形式的にもこの点をみごとに作品化した桐山襲の『聖なる夜 聖なる穴』については後で詳しく触れる。知念正真の戯曲「人類館」では調教師と沖縄出身の男女一組を主人公として、交錯する支配/被支配の関係が役割のめまぐるしい交代、多様な言語を用いて暗示され、沖縄の人々が生きた長い苦難の時代が示されている。「人類館」は1903年に大阪天王寺で開かれた内国勧業博覧会で「学術人類館」なるパヴィリオンが設置され、「アイヌ」「朝鮮」「琉球」などといった看板の下に現地の人々が「展示」されたという差別事件に想を得たものであろうが、沖縄において戦争と差別が分かちがたく結びついている点も本書は明らかにしている。琉球処分以前は中国と関係が深く、東アジア一円と密接に結びついた沖縄はさらに戦後、大量のアメリカ兵が駐留したことによって、ウチナンチュ、ヤマトンチュ、朝鮮人、ニグロを含むアメリカ人といった多様な人種が時に自らの意図に反して生を営むこととなった。このような社会は重層的な差別構造を生む。本書に収録された作品の大半においてはウチナンチュとヤマトンチュ、つまり沖縄と日本の関係が問われるのに対して、大城立裕の「カクテル・パーティー」と又吉栄喜の「ギンネム屋敷」はともに沖縄に生まれ、芥川賞を受賞した作家の佳作であるが、前者では日本人とアメリカ人、後者では日本人と朝鮮人の間の差別的な葛藤が仮借ない筆致で描かれる。戦争と差別はいわばコインの両面であり、これらの作品において戦争は少なくとも前景化されることはないが、物語の暗い背景を形作っている。
 戦争が暴力機械であるならばその中心に位置するのは誰か。本書は日本において長くタブーとされてきたこの問題に鋭く切り込むだけでなく、同じ暴力機械が戦後も駆動していることを白日のもとにさらす。戦争の中心、それはいうまでもなく天皇制だ。長堂英吉の「海鳴り」、「人類館」、「夜」、あるいは岡部伊都子の「ふたたび『沖縄の道』」、そして灰谷健次郎の「手」といった主題も時代も異なった多くの作品、いや収録されたほとんど全ての作品の中にあたかも不吉な記号であるかのように「テンノウヘイカ」あるいは「天皇陛下」という言葉が刻まれていることを私たちは知る。20巻から構成されたこのコレクションの中でも、天皇裕仁に対する呼びかけは本書が一番多いはずだ。そこには沖縄という美しい島が天皇の名のもとに蹂躙されたことに対する作家たちの激しい怒りがうかがえようし、天皇が敗戦後、アメリカによる琉球諸島の軍事占領を希望したという史実も反映されているだろう。この暴力機械は戦後も軍隊に代わって警察や機動隊を身にまとって、沖縄の地を苛んできた。さすがに裕仁は沖縄の地を踏むことはできなかった。しかしその名代としての皇太子の沖縄訪問が直ちに本書に収録された二つの小説の主題へと転じている点はなんとも暗示的であり、天皇一族に対するこの島の拒否反応の激しさを示している。一つは沖縄出身の目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」であり、もう一つは東京に生まれた桐山襲の「聖なる夜 聖なる穴」である。前者は1983年7月に皇太子夫妻が日本赤十字社の名誉副総裁として那覇で開かれた献血運動推進全国大会出席のため来沖した際に行啓の順路となった街路から物売りが暴力的に排除された事件、そして警察によって厳重な警戒が敷かれる中、少年と老婆によるささやかな反抗を扱っている。ここで描かれる出来事はかつてコペンハーゲンで起きた天皇襲撃を連想させないでもないが、おそらくは作者の創作であろう。これに対して「聖なる夜 聖なる穴」は現実の事件、すなわち1975年7月17日に沖縄海洋博開会式に出席するために来沖した皇太子夫妻が戦跡のひめゆりの塔を訪ねた際に火炎瓶を投げられた事件に向かって収斂していく。しかしほぼ時系列に沿って語られる目取真の短編とは異なり、この中編は説話論的にかなり複雑な構造をとる。この優れた小説は現在、おそらく本書によってしか読むことができないであろうから、ここでは内容にも立ち入りながら若干の分析を加えておきたい。
 この小説では時代を違えたいくつかのストーリーが並行する。しかもそれらは1872年の沖縄処分から1972年の沖縄返還まで一世紀の振幅を伴っているのだ。冒頭と末尾に語られる二つの史実、70年のコザ暴動、そして75年の皇太子へのテロ未遂をはさんで沖縄と日本の歪んだ交渉史が入子構造の複雑な語りの中に語られる。開発の調査に沖縄を訪れたヤマトンチュの技師とコザの娼婦の間の一夜の物語、そして二人のかみあわない睦言の中に登場する一人のテロリストの独白、そして琉球処分直前に沖縄に生まれ、県費留学生として日本に渡り、明治天皇の拝謁の栄に浴しながらも、沖縄に戻るや日本国家の走狗として沖縄の山林を収奪し、最後には狂死するジャハナと呼ばれる男の生涯の物語、さらにテロリストが皇太子を待ち伏せする洞穴の中で幻視する沖縄戦で惨死した娼婦たちの物語。これらの物語を媒介するのは性的な暗喩に富んだ穴としての洞窟、そしてなによりも天皇制であろう。従来の物語は唯一の話者によって私有されてきた。このような語りはあからさまに天皇制の隠喩であったが、この作品においては複数の話者、しかも多く死者の独白が幾重にも重ねられることによって、小説の形式の面でも唯一的なイデオロギーによる束縛を解体し、歴史の私有を拒否するのである。桐山はこの小説の中で詩的言語を自在に駆使しながら、この重い内容をはらんだ小説の主題と形式をみごとに一致させている。
 桐山は連合赤軍や東アジア反日武装戦線といった70年代にあって体制にまつろわぬ者たちを一貫して作品の主題に据えてきた。初期の代表作である「パルチザン伝説」を発表した後、「週刊新潮」の悪質な宣伝によって右翼からの攻撃が始まり、桐山は一時沖縄に避難し、その印象を「亡命地にて」という旅行記風の短編にまとめている。桐山の沖縄への共感はこの際に生じたかもしれない。しかし早世したこともあり、「首都の街路に炎の絶えていく」時期に闘争を続けた者たちへの哀切に満ちた共感をたたえた一連の作品を今日読むことは難しい。桐山の作品はいずれも完成度が高いが、その中でも白眉とも呼ぶべき「聖なる夜 聖なる穴」が今回、このコレクションの一冊に収録されたことは、その内容から考えてもきわめて適切であり、この機会に多くの読者の手に渡ることを望みたい。 
 最後に一言付け加えておきたい。このブログで以前、高橋哲哉の『犠牲のシステム 福島・沖縄』を取り上げた。先ほど私は、これほど長きにわたって苦痛を経験した地域が沖縄のほかにあるだろうかと述べた。この言葉は今日大きな留保が必要だろう。これから福島県に住む人々も沖縄とはまた異なった耐え難い苦痛を経験する可能性が高いからだ。そしてこのような苦痛は原子力発電所が立地する地域であればどこの住民が味わってもなんら不思議はない。しかし政府は次々に原子力発電所を再稼働して、国家のための棄民政策を改めようとはしない。オキナワからヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマ。これらの地域は完全につながっている。琉球処分から一世紀半が経過しようとしている。そこから垣間見えるのは国土が(砲火による/放射能による)焦土と化しても、多くの「国民」が(戦争による/被曝による)犠牲となったとしても天皇や電力利権を死守しようとする日本という国家の本質である。
『オキナワ 終わらぬ戦争』_b0138838_2050361.jpg

# by gravity97 | 2012-08-06 20:54 | 日本文学 | Comments(0)

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予告されたタイトルでまとめられた友人の最終の本がニューヨークの地味な書店から出た時(その本のうしろカヴァーに私の短文がある)、私は長編小説を書いていた。そしてそのまま続けて来たが、「3・11後」それに興味を失った。しかも私はこれまでの仕方で本を読み続けることができなくなっている。あれこれ読んでみないのではないが、かつてのようには集中できなくなった。読み始めるとすぐ、心ここにあらずというふうになる。それでは、残っている過ごすべき時間をどうしたものか?
# by gravity97 | 2012-07-26 22:44 | PASSAGE | Comments(0)

「『具体』ーニッポンの前衛 18年の軌跡」_b0138838_14441259.jpg 具体美術協会の活動の全貌を紹介する「『具体』―ニッポンの前衛 18年の軌跡」展が国立新美術館で始まった。1954年に芦屋で結成され、1972年にリーダー吉原治良の死去とともに解散した「グタイ」は日本の戦後美術において海外に最もよく知られた作家集団である。今回の展覧会の売り物は彼らの活動の全幅を初めて東京で紹介した点であるという。グローバリズムが喧伝される今日、東京で回顧されることに何か意味があるのかとも感じられようが、このグループが甘んじてきた地政学的な不利益を考えるならば一定の感慨がある。具体は当初から東京を意識し、実際に何度も大規模な発表を東京で行ったにも関わらず、東京の美術界から徹底的に黙殺された。かつてクレメント・グリーンバーグはすべての優れた美術はニューヨークを経由すると言い放ったが、日本においてもこれまで美術に関する展示施設や大学、ジャーナリズムや批評家が集中する東京で評価されることなくして、注目されることは困難であった。これに対し、具体は東京ではなく、海外での評価を足がかりに戦後美術史に楔を打ち込んできた。この経緯もきわめて興味深い。活動時には1950年代後半、フランスのミシェル・タピエにアンフォルメルの作家集団として高く評価され、一方、1966年に発行された大著『アッサンブラージュ・エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス』においてハプニングの理論家アラン・カプローは初期の具体にみられたアクションをハプニングの先駆として評価する。これら二つの立場が、以後、具体の評価を二分するようになることはよく知られているが、さらに重要な意味をもつのは、比較的近年の具体再評価の動向である。すなわち1986年にポンピドーセンターで開かれた「前衛芸術の日本」において戦後美術の出発点と位置づけられ、破格の扱いを受けたことに始まり、90年前後には兵庫県立近代美術館が組織したいくつかの展覧会がヨーロッパを巡回し、99年のパリ、ジュ・ド・ポーム美術館における具体展、あるいは97年のロサンジェルス現代美術館における「アウト・オブ・アクション」、あるいは2006年、デュッセルドルフにおける「ゼロ」といった展覧会では海外の美術館が自らの手によってグループの活動やパフォーマンス芸術における位置づけ、ゼロ・グループとの関係などを検証した。そして来年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館においてアレクサンドラ・モンローの企画する具体展が準備されているという。それを見越してであろうか、プレヴューの会場には欧米のディーラーもしくはバイヤーらしき人々も見かけた。ここで論じる余裕はないが、それぞれの時代に具体の作品が欧米のどのような視線のもとに要請されたかについては今後も検証されるべきであろう。
 展覧会に向かおう。東京で初めて具体を紹介するにあたって、企画者は正攻法で臨んだ。すなわち作品の配置には厳密なクロノロジーを適用し、18年もの長きにわたる活動を時間軸に沿って紹介している。展覧会のプロローグで私たちは作品や宣言ではなく、ただ一冊の雑誌に出会う。具体の最初の活動は『具体』と題された小冊子の発行であり、逆にこの冊子のタイトルとして「具体」という名が考案されたのである。なにげない導入であるが、初期具体の活動の特異さを考えるうえでは巧みな演出である。具体はこの冊子を世界各地の作家や批評家に送り、ともに新しい美的規範を樹立することを求めた。戦前より欧米の美術雑誌に親しんでいた吉原ならではの戦略であり、このグループの最初の事業が機関誌の発行であったことは記憶されてよい。続いて第二室で来場者は巨大なオブジェ群に出会う。これらはやはり活動の端緒に芦屋川の河畔で開催された野外美術展に出品された作品である。(厳密にはこの展覧会は芦屋市美術協会の主催であり、具体はグループとして参加した)真夏の野外に出品されたという事情から、巨大で派手、さらに安価な素材で制作されたこれらのオブジェのほとんどは会期終了後に解体撤去され、今日に残されていない。これらの伝説的オブジェを今日見ることができるのは、現在兵庫県立美術館に収蔵されている山村コレクションという具体に関する画期的なコレクションの中で美術館であれば尻込みする再制作という手法が積極的に取り入れられたこと、さらには芦屋市立美術博物館の手によってこの野外展が1992年に同じ場所で再現され、当時存命であった作家たちによって制作のノウ・ハウが再確認されたという理由による。サイズが大きいため、これまでの具体に関する展覧会では会場入口などにいわばモニュメント的に展示されることが多かったこれらの作品を一室に集約することで、このような活動が具体の本質と深く関わることが理解される。今回の展示が暗示しているのは初期の具体の活動が絵画や立体の制作といった通常の美術制作とは全く異なった次元にあったという事実である。私の考えではこのような指摘は重要であり、それを展示によって示す点にこの展覧会の批評性が示されている。次のセクションにようやく絵画が登場する。しかし意外なことに最初期に制作された絵画は小ぶりなものが多い。それらの絵画は物質性が濃厚で、時に金属や異素材が導入されている。作家同士の作品の類似性、ドローイングとの関係など、会場でいくつもの発見があった。
 会場入口に設けられた村上三郎の「紙破り」(今回は、家のふすまを破って父の元にたどりついた行為が作家にインスピレーションを与えたという村上の子息によって演じられていた。このパフォーマンスは作者以外によっても代行される場合があり、海外を含めた具体の回顧展では定番である)の裂け目から入場した私たちは、かかる曲折を経たうえでようやく激しいアクションと圧倒的な絵画の数々、スクリーンに映示される舞台上でのパフォーマンス、《電気服》をはじめとするショッキングなオブジェに彩られた1950年代後半の具体、具体神話の核心へとたどりつく。今回の展示で私はあらためて具体の活動の多様さ、そしてそこで発表された多くの作品の強度を確信した。私が驚くのは、かくも多くの発表や作品が集団の中で生成されたことである。いうまでもなくこの時代、ニューヨークでは抽象表現主義と一括される作家たちがアメリカの絵画の幕開けを宣言する多くの傑作を発表していた。両者の関係についてもさらに検証されるべき余地はあるが、基本的に個々の作家のブレイクスルーとして達成されたニューヨーク・スクールの作家たちに対して、具体の作家たちは吉原スクールの一員として軽々と世界的にも特筆されるべき作品を量産したのである。確かにこのグループがメンターとその弟子たちという旧態依然とした構造をとったこと、作家間のレヴェルの格差(この場合吉原も作家の一人と考えられる)、そして何よりもタピエと接触するや、作家集団としての主体性を放棄してアンフォルメルに追随した点など、今日にいたるまで批判されるべき点は多々ある。しかしそれにも関わらず、残された作品を実見するならば、私はこれほどの質の作品を集団として制作したグループが日本の戦後美術史はもとより、世界的もほとんど例がないことを確言することができる。そして最初に述べたとおり、これほどの作品が批評の側から完全に黙殺されたことも異常と呼ぶほかない。
 今回の展示は作品をクロノロジカルに配置する一方で、いくつかのトピックについてはテーマ的な展示を行い、両者が相互を補完している。例えば『具体』誌、海外との交流、万国博覧会での「具体美術まつり」といったその歴史を点綴するエピソードがうまく紹介されていた。特に吉原治良の回顧展示では具体結成以前の作品も含めて、この稀代のモダニストの全貌がコンパクトに紹介され、展覧会に奥行きを与えている。このようなテーマの一つとして具体の作家たちが作品を常設したグタイピナコテカの内部が模された展示室がある。ここに展示された白髪一雄や村上三郎の1960年前後の絵画は、この集団の創造の絶頂をかたちづくっているといってよいだろう。今回の展示はほとんどが国内の美術館からの借用であり、しかもその多くが比較的近年収蔵されている。この20年余の具体評価の高まりを反映したものであり、喜ばしく感じると同時に、何人かの作家については既に検証されつつあるとはいえ、今後も個々の作家のレヴェルで作家研究、回顧展による検証などが必要に思われた。
 60年代前半、中期の具体においては新しく加わった作家の作品もさほど異和感なく展示に溶け込んでいる。松谷武判、向井修二、前川強ら、3Mと呼ばれる一世代若手の作家たちの作品も物質性や記号性の強調、不透明な表面と濃密な存在感において具体の伝統に連なる。しかし60年代後半、ライト・アートやキネティック・アートといった当時の最新流行を持ち込む作家たち、とりわけハードエッジ抽象の若手が加わることによって具体の気風は大きく変わる。むろん吉原がブレイクスルーを遂げて一連の円の絵画に到達したことがその背景にあるかもしれない。しかし1965年以降、具体の表現が急速に散漫となっていく印象はおそらく来場者のほとんどが感じるだろう。一人新たな境地に達した吉原を除いて、多くの有力な会員が退会し、創立以来の会員の作品も著しく弱体化する。80年代以降、東京で開かれた数少ない具体の回顧展が活動の初期と中期に焦点をあてて、いわばその絶頂においてグループを回顧したのに対して、結成から解散までを射程に収めた今回の展覧会は作家集団の凋落という一面も仮借なく伝えている。知られているとおり、具体にとって実質的に最後の活動は1970年の万国博覧会における「具体美術まつり」であった。今回の展示ではその模様を記録した珍しい映像も出品されている。「もはや戦後ではない」という言葉が流行した時代に誕生したグループが万国博とともにその活動を停止する。カタログの章解説にあるとおり、「戦後日本の高度経済成長と歩調を合わせるかのように、ひたすら明るく前向きに、独創的、革新的な表現を追い続けた『具体』であったが、その活動が高度経済成長の絶頂点を象徴する大阪万博でフィナーレを迎えたことは、あまりにもできすぎた偶然と言うほかはない」
 カタログも具体の18年の活動を過不足なく伝え、充実している。具体に関しては既に1992年に芦屋市立美術博物館の手によって決定版とも呼ぶべき資料集が刊行され、最近ではこのブログでも触れた『具体』誌の完全復刻版も出版されたから、資料的な面の充実はそちらに譲り、ヴィジュアル的な側面にも意を注いだ美しい内容だ。初めて具体に触れた東京の若い人々にもよい導き手となるだろう。冒頭に企画者の比較的短い概論が掲載され、各論として先述の万国博との関係に触れたエッセイと、「ヌル」や「ゼロ」といったグループとの関係、そして建築との関係を論じたエッセイが掲載されている。いずれも新しい視点であり、興味深い。この展覧会ではこれまで語られることが少なかった後期の具体に焦点をあてることが一つの目的とされており、二つのエッセイはこのような問題意識に即しているだろう。しかしあえて言うならば、私たちは具体の絶頂とも呼ぶべき1960年前後の絵画に対しても今なお明確な批評言語で対峙していないのではない。白髪一雄の作品がジャクソン・ポロックの作品と並んで「アンフォルム」展のカタログに掲載されていたことは記憶に新しい。この展覧会は具体の絵画の達成をあらためて世界的な視野から再検討するよい機会となるだろう。具体という異例の集団が提起した問題の輪郭を知るうえでも必見の展覧会といえよう。
# by gravity97 | 2012-07-18 14:47 | 展覧会 | Comments(0)

「アラブ・エクスプレス」_b0138838_20281660.jpg

 森美術館で開催中の「アラブ・エクスプレス」展を訪れる。「The Latest Art from Arab World」というサブタイトルの通り、アラブの最新の美術動向を紹介する展覧会だ。しかし「アラブ」とは何か。担当したキューレーター自身もカタログのテクストで述懐するとおり、私たちは「アラブ」美術に対してほとんど前提となる知識をもたない。カタログによれば本展覧会はいわゆる中東と呼ばれる地域のうち、エジプトからレバント(東部地中海)諸国、湾岸諸国を対象とし、民族、宗教が異なるトルコ、イラン、イスラエルなどは原則として除外されるという。このように言われても具体的なエリアをイメージすることは困難であろう。カタログに掲載された地図を参照してようやくおぼろげに私たちはその広がりを理解することができる。
 しかしながらこの地域に関して、文学や映画の領域では既に優れた表現が輩出していることを私はこのブログでも取り上げたガッサーン・カナファーニーの小説や岡真理のエッセー、あるいは四方田犬彦の『パレスチナ・ナウ』といった評論を通じて既に知っていた。当然、美術の分野でもそれらに類した表現が存在するだろうという予測はこの展覧会で十分に裏づけられた。これらの地域を旅したことがない私にとって、現代のアラブ社会について想像することは難しい。担当したキューレーターはこの地について「実際にアラブ地域を数回訪れると、これら(ステレオタイプなアラブ観)がまったくの偏見であったことを痛感した。(中略)むしろ、日本のテレビでは見たことがない、時に活気に満ち、時に穏やかな、生き生きとした日常生活がアラブ社会にもあり、非常に活発な現代美術シーンがあることを学んだ」と記している。しかし展覧会を一巡した感想としては、実際には多くの表現が安穏とした日常から大きくかけ離れている。例えば最初の部屋に展示されたエジプトのアマール・ケナーウィという女性作家の《羊たちの沈黙》という作品はカイロの路上で20人ほどの人々が群れをなして匍匐前進するパフォーマンスであり、会場ではその模様が映示されている。都市に唐突に介入する美術は前例がない訳ではない。日本ではハイレッド・センターやゼロ次元といった60年代の一連のパフォーマンスがあり、四足歩行という点では犬に扮したペーター・ヴァイベルをヴァリー・エクスポートがウィーンの市中を引き回すパフォーマンスも連想されよう。あるいはリレーショナル・アートと呼ぶのであろうか、最近ではサンチャゴ・シエラがトレイラーを用いてさらに暴力的にメキシコ・シティの交通に介入した例もある。しかし日本そして欧米で挙行されたこれらの作品はかろうじて美術という範疇に回収された。自分たちの営為が芸術か犯罪かという問いかけは赤瀬川原平の一連の作品の主題でもあったが、民主化以前、秘密警察が跳梁するエジプトにおけるパブリック・スペースへの侵犯は60年代の日本とは比べものにならない危険を秘めている。ケナーウィのパフォーマンスは当局によって途中で阻止され、作家は三日間拘束されたという。映像の中で、「これは国家の恥だ」と作家やパフォーマーに詰め寄る険しい表情の男たちからもこのような緊張はうかがえる。
 展覧会は「日々の生活と環境」、「『アラブ』というイメージ:外からの視線、内からの声」、「記憶と記録、歴史と未来」という三つのセクションから構成されている。それぞれアラブ世界の日常と関係のある作品、オリエンタリズムとして外から与えられた「アラブ像」とかかる「アラブ像」を鏡面的に内在化したアイデンティティーの分裂に関わる作品、そして出来事の記憶のアルカイヴとしての作品といった分類がなされているが、展示は必ずしも画然と分かたれる内容ではなく、むしろ多くの作品はこれらのテーマのいずれもと深く関わっているように思えた。象徴的な例として、パレスチナに生まれたシャリーフ・ワーキドという作家の《次回へ続く》という映像作品を挙げよう。画面には機関銃とアラビア文字がデザインされた緑の旗を背景にメッセージを読み上げる青年が映し出されている。かつてパレスチナに生まれたハニ・アブ・アサドという監督の「パラダイス・ナウ」というフィルムを見たことのある私は、この情景が「自爆テロ」を前に実行者が自らの信条を遺言としてヴィデオに収める様子を模していることが容易に推察された。日本では認識されにくいが、欧米で中東に関する報道に見慣れた者であれば、かかるイメージがイスラエルに対して次々と「自爆テロ」を敢行する匿名のアラブの青年たちに対応しており、机の上に置かれた機関銃がこのような理解を補強することは直ちに理解される。しかし実際にこの情景を演じているのはパレスチナで有名な俳優であり、彼が読み上げるのは犯行声明ではなく『千夜一夜物語』なのだ。つまりここには自爆テロが日常化されたアラブ世界をめぐる荒んだ環境、アラブ社会をテロリストの巣窟とみなす欧米の視線(これはサイードが『オリエンタリズム』において分析し、9・11以後、流布しているアラブの表象だ)、そしてアラブ世界の共同的記憶としての『千夜一夜物語』が混然と重ねられている。さらに『千夜一夜物語』とは語り部シェヘラザードが毎夜王の伽を務め、話が佳境に入ったところで次の夜に繰り越すことによって(ワーキドの作品のタイトルはこれに由来するだろう)娘たちを斬首される運命から救う物語であったことを想起するならば、この作品は禍々しい暴力のメタファーと遅延というモティーフ(自爆テロを敢行する若者たちもメッセージを読み上げる時点では生存している、つまり遅延とは彼らの生死と関わる、この点は「パラダイス・ナウ」でも主題とされていなかったか)がきわめて複雑に織り込まれ、「アラブの表象」に対する高い批評性を秘めている。
 私はこの展覧会をめぐって、アラブの人たちが直面する様々な暴力や圧制が時に生々しく、時にメタフォリカルに作品の中に現前する思いがした。例えばパレスチナ人居住区とエルサレムの間に設置された検問所での検問の情景を撮影したルラ・ハラワーニ、あるいはイスラエルによるレバノン侵攻の爆撃の模様を自宅から撮影したアクラム・ザアタリはそこに暮らす人々が常に緊張の中で生活しなければならないという事実を即物的に提示する。あるいはシリアに生まれたハラーイル・サルキシアンという作家は何の変哲もない中東の街頭の情景を写真として提示するが、「処刑広場」というタイトルを一瞥する時、私たちは戦慄を覚える。いうまでもない、それらの広場は公開処刑が行われた現場なのであり、現在もこの地で続く戦乱を想起する時、私たちはいたたまれない気持ちとなる。あるいはイラク人作家、ジャナーン・アル・アルーニはヨルダンを上空から空撮した《シャドウ・サイト》という作品を出品している。焦点が地表に近づくにつれて、初めは幾何学図形かと思われた線や起伏が道路や農地に姿を変える。解説にはこの作品は砂漠が空白ではなく、人びとの生活する場であることを示しているとあるが、私はこのような超高空からの視覚は端的にイラクを、アフガニスタンを空爆する兵士の視覚と同一ではないかと考える。スーザン・ソンタグの言葉を用いるならば「報復の恐れのない距離、高度の上空から殺戮を行う者たち」の視覚である。したがってこのような視覚は決して中立的ではない。地表との距離がきわめて政治的な含意をもつように、パレスチナ人のターレク・アル・グセインが緑の布を用いて地表に緑の線を引く時、それは大国の利害によって砂漠の中に引かれた国家の境界を象徴している。(グリーン・ラインとは国連決議によって決定されたパレスチナとイスラエルの境界線の呼称でもあるという)私はこの作品からすぐさまウォルター・デ・マリアがモハヴェ砂漠に引いた1マイルのドローイングを連想したが、アラブにおいて地面に線を引くことはランド・アートとは無縁の政治性をもちうるのである。この問題はドローイングの政治性という文脈においても検証されるべきであろう。あるいはマハ・ムスタファの喚起的な作品《ブラック・ファウンテン》はどうか。文字通り、黒い水が噴水のように噴き上がるきわめてシンプルなインスタレーションであり、油田や油井を連想させる暗示的なイメージは六本木ヒルズの窓越しに東京の市街を黒く染める時、なにやら不吉な印象を与える。
 このほか私はまだ十分に論じる知識をもちあわせていないが、女性の表象と関わるいくつかの作品も興味深かった。解説を読んでも、作家の性別に関しては必ずしも判然としないが、きわめて特徴的な点は作品の中に登場する女性たちがほとんどの場合、ヴェールもしくは布やテープで顔を覆っていることである。個々の作品にまで論及することは控えるが、いうまでもなくこれらの表現はアラブ世界における女性の位置を暗示しているであろうし、フェミニズムという観点からもきわめて示唆に富む。私はこの問題はアラブ文学における女性の表象という問題と重ね合わせて検証することによってさらに多くの発見をもたらすと考える。このほかにも論及すべき作品は多いが、最後にもう一点、強く印象に残った作品について触れておく。パレスチナに生まれ、ベイルート在住のエミリー・ジャーシルという女性作家の《リッダ空港》という作品だ。リッダ空港とはイギリス領パレスチナに実在した空港の名であり、スクリーンには手前にこの空港の模型を配したうえで後方のスクリーンに複葉機、花束をもつ女性、上空からの視界、地面に残された血痕などが脈絡なく映示される。知られているとおり、リッダ空港は1948年のイスラエル建国とともにイスラエルによって占領され、ロッド空港、そしてイスラエルの首相の名を冠したペン・グリオン国際空港へと名前を変えた。この空港自体がナクバ(パレスチナ人の追放)という歴史的事件と深く関わる土地に位置していたことが解説によって説明されているが、さらにこの空港の名は日本人にとって忘れることができない。1972年5月30日、パレスチナ解放人民戦線に呼応した日本赤軍はロッド空港で小銃を乱射し多くの市民を殺害した。今回、この作品がいかなる理由で選ばれたかは不明だが、この作品の前に立って、私はこの地域と日本が決して無縁ではないことをあらためて思い知った。
 以上で論及した問題からも理解されるとおり、本展はきわめて問題提起的な展覧会であり、なおも論じるべき問題は多いが、ここではひとまず展覧会の輪郭を示すにとどめる。本展の意義は単にこれまで知られていない地域の現代美術を紹介したことでなく、私たちが他者を表象するとはいかなることかにあらためて思いを馳せる契機を提供したことに求められるのではないか。アラブ世界、アラブの人々とは疑いなく日本人にとって、もっとも想像することが困難な社会である。しかしこの展覧会を一覧する時、テロリスト、石油王、アラーの神といったステレオタイプのイメージから離れて、彼の地でも真摯に表現をする作家たちが存在すること、そして苛酷な環境の中でそのような努力が地道に積み重ねられてきたことを知る。私の考えで抑圧や検閲が存在する時、表現は必ず深められる。この意味でもきわめて示唆的な展覧会であった。
 しかしながらあえて最後に一言付け加えておきたい。企画者たちもカタログの中で言及するとおり、2000年以降、グローバリズムの高まりに後押しされるようにアラブ美術は特に欧米の美術界で注目を浴びた。カタログを参照するならば、この展覧会にも何人かの現地のアドバイザーがいたことが示唆されている。この展覧会が具体的にどのように企画され、作家や作品がいかにして選定されたかは必ずしも明確ではないが、私はむしろこの展覧会が日本人という他者にとってあまりにもわかりやすい点が気になるのだ。今述べたとおり、私はこの展覧会に出品された作品について比較的容易に分析を加えることができた。オリエンタリズムからポスト・コロニアリズム、フェミニズム、ディアスポラ。この展覧会を分析するにあたってさしあたって動員される符牒はいずれも西欧に起源をもち、さらにいえば近年の学知の中で彫琢された概念である。つまりこの展覧会は結局のところ「西欧からみたアラブの表象」の最新版にすぎないのではないか。もちろん同様の疑念は例えば近年の中国や南アジア、あるいはアフリカの現代美術を欧米で紹介する際にも惹起されようし、いわば異文化を表象する際の宿命ともいえるアポリアである。私はこの展覧会を見た翌日、この美術館のごく近くでオープンした具体美術協会の回顧展のプレヴューにも足を運んだ。異文化の表象とは日本に向けられた西欧の眼差しでもある。この点を認識したうえで、近くこの回顧展についてもレヴューしたい。
# by gravity97 | 2012-07-09 20:31 | 展覧会 | Comments(0)

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# by gravity97 | 2012-06-30 20:55 | NEW ARRIVAL | Comments(0)