<   2018年 01月 ( 3 )   > この月の画像一覧


ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』

b0138838_21242699.jpg

 ウンベルト・エーコといえば、私にとってはまず「開かれた作品」と「記号論」の著者として知られる先鋭な記号学者だ。特に芸術作品における受容者、すなわち読者、観者、聴衆の役割の拡大を論じた前者はジョイス、アンフォルメル、シュトックハウゼンといった対象の選択が興味深く、邦訳が刊行される以前、イタリア語に歯が立たない私はスイユ社のポワン叢書、フランス語で序章を読んだ記憶がある。エーコが研究者ならざる小説家として才能を発揮したのが1980年に発表した「薔薇の名前」であり、こちらも翻訳されると直ちに読んでおおいに驚き、かつ楽しんだ。エーコはその後も何冊かの小説を発表しており、私はほかにも「フーコーの振り子」を読んでいる。エーコは2016年に没したが、本書は2010年に発表された六番目の長編小説である。エーコの博覧強記というか衒学趣味、とりわけヨーロッパ史に関する膨大な学識が横溢する本書はとりわけ今日の日本においてこそ読まれるべき問題作であろう。
 「薔薇の名前」においてボルヘスの図書館を、「フーコーの振り子」においてテンプル騎士団の伝説を文字通り自家薬籠中のものとして迷宮のごとき小説を作り上げたエーコのことであるから、この小説も一筋縄ではいかない。訳者の解説によればこの小説の形式自体が、この小説の舞台となった19世紀のフランスで大流行した連載小説(フイユトン)と呼ばれる通俗小説のパロディであるという。作中でも言及されるアレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」などが典型であろうし、実際に裏切りや暗殺、秘密警察の陰謀渦巻く物語はそのような定型を踏襲している。しかし読み始めるや、読者は物語の錯綜とあまりの情報量に思考停止に陥ってしまうだろう。刺激的な内容はとはいえ、後述する通り語りの構造も相当に複雑であり、必ずしも読みやすい小説ではない。おそらくヨーロッパの近代史、とりわけガリバルディによるイタリア統一、パリ・コミューン、ドレフュス事件などについての予備知識があれば、本書をさらに楽しむことができるはずだ。この意味において本書は「薔薇の名前」同様にきわめて知的でメタ・テクスト的な内容の小説といえるだろう。私は本書を読みながら、このブログでも論じた一つの小説との類似性が気になった。ルーサー・ブリセットの「Q」である。いずれも歴史の影に潜み、暗躍する人物が主人公となっている。このためであろう、匿名の作家集団によって執筆された「Q」については、エーコが著者ではないかという噂が流れたという。「Q」において教皇ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファの密偵Qが途中まで名前を明かさないのに対して、「プラハの墓地」の主人公は最初から名を与えられている。すなわちシモーネ・シモニーニなる偽書作家であり、物語の中でシモニーニは今日「シオン賢者の議定書」と呼ばれる偽書を作成することとなる。ただし私が読んだ限りでは、最後の書の冒頭に「墓地の議定書」という言葉が引かれる以外に本書中でかかる偽書の名前に言及されることはない。先回りするが、本書を理解するうえでは事前に「シオン賢者の議定書」がいかなる内容の文書であるかを知っておいた方がよいだろう。私も本書を読むまで未知であったこの文書についてウィキペディアで確認してみた。次のような記述がある。

「シオン賢者の議定書」は、「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、「ユダヤ議定書」「シオンのプロトコル」「ユダヤの長老達のプロトコル」とも呼ばれるようになった。ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、世界中の反ユダヤ主義者、特に国家社会主義ドイツ労働者党に影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたともいえることから「史上最悪の偽書」、「史上最低の偽造文書」とされることもある。

 しかし本書においてこの偽書自体はさほど前景化されない。ヨーロッパの歴史の暗部をたどるシモニーニの生涯こそが本書の主題だ。シモニーニはトリノで過ごした幼時より、ユダヤ人嫌いの祖父の教え、そして数々のいかがわしい文書や小説を介して、ユダヤ人とフリーメイソンによる陰謀や悪行を刷り込まれ、強い反ユダヤ人感情を抱く。バリュエル神父なる人物の手による「ジャコバン主義の歴史のための覚書」あるいはウージェーヌ・シューの「さまよえるユダヤ人」やデュマの「ジョセフ・バルモサ」といった実在する文書や小説が次々に引用され、小説に真実味を与えている。時間的に前後するが、シモニーニは長じて美食家としてパリのレストランに通い、作家や芸術家、科学者たちと席を共にする。美食への偏愛はシモニーニの生涯にわたる性癖だ。偽書作家は美食についての蘊蓄を本書のいたるところで語り、訳者は「登場する料理の数々は、彼のエゴイズムが許容する唯一の趣味、美食の反映だろう」と記している。同じレストランで美食を楽しむ医師たちの口から、シャルコー、サルペトリエール病院という固有名詞が語られ、ユダヤ人という主題が重ねられる時、次に召喚されるべき名前は一つしかない。いうまでもなくジークムント・フロイドであり、まもなくシモニーニは同じレストランでフロイドと邂逅する。フロイドの挿話はそれ以上展開されることはないが、本書はこのような知的な挑発に富み、続いて言及されるデュ・モーリエという医師のクリニックに通うディアナという女性の症例は物語の後半で重要な意味をもつこととなる。エーコ自身が巻末で述べるとおり、この小説に登場する人物も主人公シモーネ・シモニーニを除いて実在し、もしくは実在した人物に基づいて仮構されている。シモニーニの祖父とされるジョヴァンニ・バッティスタ・シモニーニもバリュエル神父への謎めいた手紙の書き手として実在しているという。
 祖父の死後、レバウデンゴという怪しげな公証人のもとで仕事を始めたシモニーニは遺言や贈与、契約といった公文書の偽造に手を染め、次第にその世界で知られることとなった。秘密警察の手先としてイタリア統一とフリーメイソン排斥をめぐる錯綜した陰謀に加わったシモニーニは一方でデュマとともにガリバルディに面会し、イタリア統一を支持する一方で、ガリバルディの帳簿係をめぐる陰謀に関わり、陰で私腹を肥やす。今、デュマの名を引いたが、物語の中に秘密の帳簿、爆弾の製造法、狂信と策謀といったデュマ好みの主題が渦巻く一方で、実際にデュマ自身も物語の中に登場するという趣向はいかにもエーコらしい。トリノに向けて出航したエルコレ号という輸送船を爆沈する陰謀を成功させながらも、細部の不手際を理由としてイタリアを追われたシモニーニはしばらくパリに身を潜めることを余儀なくされる。先に触れたフロイドとの邂逅はこの時期のエピソードであろう。パリにおいてもラグランジェなる秘密警察の担当者の指示を受けて、シモニーニは文書の偽造をはじめとする多くの悪事に加担する。時に目当てとする囚人から情報を聞き出すために偽装入獄し、時に偽造文書を用いて危険分子たちを攪乱しては社会不安を引き起こす。ラグランジュが属する秘密組織は明らかに国際的な広がりを有し、ユダヤ人を誹謗することを目的としているが、シモニーニに与えられる指示は多くの場合、目的が不明であり、しばしば裏切りと密告が伴う。まもなくシモニーニはパリでディミトリイ大佐なるロシア人との接触し、偽書の才能を買われてユダヤ人を中傷する文書の作成を命じられる。「プラハの一夜」なる章において彼はイスラエルの12支族の指導者たちがプラハの墓地に集い世界征服の野望を語るという偽書を作成する。これこそが後世に「シオン賢者の議定書」と知られる偽書であり、本書の「プラハの墓地」というタイトルはこのエピソードに由来する。続いてシモニーニはパリ・コミューンをめぐる血なまぐさい陰謀にも加担する。知られているとおり、パリ・コミューンとは普仏戦争の後にパリに成立した一種の自治政府であり、最終的にはヴェルサイユ政府軍によって鎮圧された。自治都市と政府の血みどろの争いは「Q」においても幾度となく語られた主題である。この混乱を象徴するかのようにラグランジュは殺され、エピュテルヌなる男がその任務を襲う。ゲトシェ、モーリス・ジョリ、オスマン・ペイ、シモニーニの周囲には次々に怪しげな男たちが登場し、なかでもレオ・タクシルなるセルビア人は先に触れたディアナという女性の二重人格の症例をめぐってフリーメイソンへの帰順と裏切りを繰り返して、この結社の信用をかき乱す。物語の終盤で語られるのはドレフェス事件である。ユダヤ系の将校ドレフュスは国家機密を漏らしたとして無実の罪に問われ、裁判の結果、仏領ギアナで禁固刑を受ける。偏見に基づいた誤審に対して多くの文学者が抗議の声をあげ、エミール・ゾラは「私は告発する」という文章を発表した。「プラハの墓地」においては機密漏洩の証拠物件とされた書類が実はシモニーニの手による偽書であったという落ちがつく。物語の中でもこの疑獄事件の真相は明らかとなり、ドレフュスの冤罪が晴らされる。陰謀が失敗しても偽書作家は挫けない。老境にあるシモニーニが性懲りもなく、地下鉄工事現場に爆弾を仕掛けに出かける場面でこの小説は終わる。
 今私はこの複雑なプロットをもつ小説を主にシモニーニの側に立ってきわめて単純に要約した。実は本書は二人の人物が交互に語る形式で構成され、二人の語りは活字の書体を変えることによって明確に区別される。しかしこれら二つの語りは内容において複雑に絡み合っているため、どちらかに焦点化しないと脈絡をもった物語として記述することが困難である。もう一人の語り手はダッラ・ピッコラという神父だ。いや、正確には正しくない。冒頭の章において、非人称の語りは読者をパリの汚い裏通りに面した骨董屋に誘い、螺旋階段を上がった一室で机に向かう老人へと焦点を定めていくが、実はこの老人こそが本書の「語り手」なのである。しかしこの「語り手」は、この後、明示的には物語に介入しない。続く第二章が「私は誰なのか?」と題されていることは象徴的だ。冒頭における語りの複雑さは本書を読み進むうえでの最大の難所であるが、ある程度読み進むと、本書の構造は明確になる。今、二つの語りと書いた。しかしこれはシモニーニとダッラ・ピッコラが交互に語ることを意味しない。それどころか、シモニーニはしばしば他人からピッコラと混同され、次第に自分がいずれかわからなくなる。シモニーニは住居の中に隠し部屋を見つけ、そこに見覚えのないピッコラ神父のかつらや僧服を見つける。シモニーニとピッコラはお互いの日記や書き付けを介して間接的な対話を続ける。書き言葉による対話という点が重要だ。シモニーニの語りについてはそれぞれの章の冒頭には日付があるから、私たちはそれが日記という体裁をとっていることを推定できる。一方で多くピッコラ神父による書きつけも(書体の違いが直ちに暗示するとおり)「紙に書かれた」文書である。したがって私たちは本書において、語り手が語る/記す一つの物語を読むのではなく、すでに書き言葉として残された複数の文書を読むことになる。文書を私たちに順番に差し出す存在こそが最初の章に登場した「語り手」なのである。しかしここで私たちはシモニーニが文書の偽造を生業としていたことをあらためて想起すべきであろう。偽書とはいうまでもなく他人の筆跡や書体をまねて書かれた「あらかじめ存在する」文書であり、したがって私たちは本書を構成する各テクストがすべてシモニーニの手による可能性を捨てることはできない。別の面から論じてみよう、一つの主体が二人に分裂するとき、そこに浮かび上がるのは分身、ダブルというモティーフだ。私はこの主題が扱われた小説をポーから村上春樹までいくつでも挙げることができる。本書は偽書という装置を介してダブルという主題を物語に導入する試みと見なすこともできよう。しかし本書におけるダブルは幻想的あるいは精神分析的な主題というより、むしろミステリーのトリックに近い。シモニーニとピッコラがダブルとして登場した理由については、物語の終盤で驚くべき種明かしがなされる。このあたりは「薔薇の名前」の著者の面目躍如たるものがある。
 例によって小説の形式に着目したが、内容についてはどうか。本書が「プラハの墓地」を舞台として作成された偽書の成り立ちをめぐる物語であることはいうまでもない。ユダヤ人をはじめ、様々な民族に対する誹謗中傷に満ち、差別的な言辞があふれた本書を読み進むことはかなり辛い。そしてヨーロッパ史に疎い私にはどこまでが真実に即しているか正確な理解ができないにせよ、描かれる事件や登場する人物は現実の事件と人物である。なぜエーコはこのような小説を執筆したのであろうか。本書が2010年に発表されたことを想起すべきであろう。今ほどひどくはないにせよ、既に私たちは同時多発テロの後、世界が不寛容で満たされ、他民族への憎悪が新たな憎悪によって応酬される事態になじんでいたはずだ。訳者はあとがきの中で本書の翌年に出版された「敵を作る」というエッセイに注意を喚起している。訳者によれば「エーコはこの評論のなかで、集団のアイデンティティを強化し自らの価値を確信するために脅威となる『敵』を見出すことはきわめて自然な現象であると述べて、歴史上、敵の姿がどのように表現されてきたのかに注目する。キケロの『カティリナ弾劾演説』から始まり、異民族、異教徒、異分子がいかに醜く、臭く、犯罪者として描かれてきたかが列挙される」本書で明確に述べられているとおり、ユダヤ人を中傷する一連の文書は書き手の根拠のない悪意に根ざした偽書であり、そこには一片の真実もない。しかし私たちはこのような中傷をたやすく受け入れる。本書の最初、第二章の冒頭でシモニーニはユダヤ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、フリーメイソンとイエズス会について順番に聞くに堪えない罵倒を重ねる。このあたりも正直言って私は読むのが辛かったが、ここでユダヤ、ゲルマン、ラテンといった人種を問わず悪罵が投げつけられていることは、シモニーニにとって憎しみの対象はどの人種であってもよかったことを暗示しているのではないか。しかし彼が制作した偽書によってユダヤ人は辛酸をなめる。本書中、オスマン・ベイなるセルビア人はユダヤ人について次のように説く。「いつか、唯一の合理的な解決法、最終解決を試みなければならないでしょう。つまりあらゆるユダヤ人の抹殺です。子供も? そう、子供も含めて。ええ、わかっています。ヘロデ王のようなアイデアだと思われるかもしれません。しかし悪い種があるときは、草を刈り取るだけでは不充分で、根こそぎ引き抜かなくてはならないのです。蚊が嫌ならばボウフラを殺しなさい」一つの人種を害虫に喩えるこのような言葉が、半世紀もしないうちに文字通り「ユダヤ人問題の最終解決」としてナチス・ドイツの手で実現されたことを私たちは知っている。ソール・フリードランダーらによってこの問題が「最終解決と表象の限界」という主題として焦点化されたのは1990年のことであったから、当然エーコはこの歴史哲学上のアポリアを知ったうえで本書を執筆したはずだ。
 偽りの言葉に煽られて、人が他の民族への憎しみを抱く状況を私たちは今まさに現実として体験している。このブログでも何度か論じた在日コリアンに対するヘイトスピーチはその例であり、新聞を開くと「シオンの議定書」さながら特定の国への悪意に満ちた中傷を重ねるヘイト本の広告を目にしない日はない。先日も超大国の大統領がアフリカ諸国に対して、知性ある人間なら決して口にしないような言葉を用いて罵倒したとの報道があった。そしてこれらの差別主義者にあたかも範を垂れるかのように、日本の宰相は特定の国家への憎悪を煽りながら各国を行脚して、良識ある指導者たちから嘲笑されている。このような指導者を擁した国がかつてどのような蛮行を行ったかは歴史に学ぶことはたやすい。「プラハの墓地」は私たちにとって偽書ではない。予言の書なのである。

by gravity97 | 2018-01-24 21:34 | エンターテインメント | Comments(0)

NEW ARRIVAL 180119

b0138838_21111299.jpg


by gravity97 | 2018-01-19 21:11 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

BEACON, 2003.6.19

b0138838_10475224.jpg
 2003年であるから、もう15年も前のこととなる。展覧会の出品交渉でニューヨークを訪れていた私は、訪れた作家やギャラリストたちが異口同音にごく最近開設された新しい現代美術の展示施設について語るのを聞いた。ディア・アート・ファウンデーションがニューヨーク郊外に開設したディア・ビーコンである。知られているとおり、ディア・アート・ファウンデーションは1980年代以降、アメリカ各地に現代美術に関する先端的で恒久的な展示施設を開設し、私もそのいくつかを訪れたことがある。例えばウォルター・デ・マリアの《アースルーム》はその名のとおり、50立方メートルの黒土によってギャラリーの内部を深さ50センチメートルほどまで埋め尽くした作品である。確認したところ、1968年、ドイツのギャラリーで最初に発表されたこの作品はディア・アート・ファウンデーションの手によって1980年に「ニューヨーク・アースルーム」としてソーホーに移設された。しっとりとした土の質感を湿度の低いニューヨークでどのように保持しているのか不思議に思ったことを記憶している。あるいは同じ作家による《ライトニング・フィールド》も私は訪れたことがある。ニューメキシコ州の何もない平原を半日ほどドライブし、たどり着いたクマドという辺鄙な町(この町には《ブロークン・キロメーター》の恒久展示施設もあったと記憶する)に設けられたディア・アート・ファウンデーションの事務所を訪ね、カウボーイのごとき管理者が運転する4WDに乗り換えてさらに悪路を1時間、アースワークの伝説的な作品を訪ねた体験については、いずれこのカテゴリーで振り返ることもあろうから、ここでは詳述しない。さらに以前に記したドナルド・ジャッドのチナティ・ファウンデーションも確か最初はディアが運営に関与しており、ジャッドとの間で裁判沙汰になったのではなかっただろうか。
 
b0138838_10482837.jpg
 ディアに関しては、もう一つ私には忘れられない記憶がある。このファウンデーションは1987年以来、DISCUSSIONS IN CONTEMPORARY CULTURE という新書版の叢書を何冊か発行した。とりわけ最初に発行され、ハル・フォスターによって編集された薄緑色の冊子中、「1967/1987 美術と理論の系譜学」と題されたシンポジウムではマイケル・フリード、ロザリンド・クラウス、ベンジャミン・ブクローというグリーンバーグ門下そしてオクトーバー系の批評家たちがディスカッションを行っている。ちなみに1987年とはこのディスカッションが行われた年、1967年とはフリードが「アート・アンド・オブジェクトフッド」を発表した年だ。このディスカッションはミニマリズムの規範的な論文の書き手とその批判的な乗り越えをはかる論客たちが切り結んだ奇跡のような機会であったから、私はこのディスカッションを文字通り舐めるように読み込み、1991年にフリードが来日して東京で講演した際にはフリードの発表の冒頭部分にサインさえ求めたのであった。冊子としては貧弱であるが、内容において実にゴージャスなこの叢書はその後も継続的に刊行され、翌年、やはりフォスターによって編集された「視覚と視覚性」においてもマーティン・ジェイ、ジョナサン・クレイリー、ロザリンド・クラウス、ノーマン・ブライソンそしてジャクリーン・ローズといった論客たちが刺激的な議論を交わしている。大学院の後輩たちとこの論集の読書会を開いて、それぞれの論者になり替わって議論したことは楽しい思い出である。さいわいこちらの冊子は『視覚論』というタイトルで2000年に平凡社から訳出されている。つまりディア・アート・ファウンデーションはフォーマリズム批評とそれを批判的に継承するいわゆるオクトーバー派を結ぶうえでテクスチュアルな貢献を行ったのであり、彼らと問題意識を共有する私にとってこれらの冊子で提起された問題がどれほど重要な指針となったかについては容易に想像していただけるだろう。視覚性、凝視(ゲイズ)、あるいはパルス、90年代中盤に私はこれらの主題についていくつかののテクストを記した覚えがある。
 ディア・ビーコンに戻ろう。小雨の降る初夏の昼下がり、私は当時イェール大学に留学していた同行者とグランド・セントラル駅で待ち合わせた。ディア・ビーコンはメトロノースでハドソン川沿いに北上し、1時間半ほどの距離にあるから、半日を費やす小旅行となる。ビーコン駅で降りて、駅から歩いて15分ほどの距離に煉瓦造りの平屋の広大な施設が見えてくる。かつてはナビスコ社が包装資材の製造をしていた工場であったと聞いた。出張して初めてこの施設の存在を知った訳であるから、当然ながらどのような作品が展示されているかについてほとんど予備知識がないまま私はそこを訪れた。展示の手法としてはさほど目新しさはない。一人の作家に広い空間が与えられ、連続個展形式で展示は構成されている。最初の部屋にはマイケル・ハイザーが巨大な石を壁龕したインスタレーションが設置されていたと記憶する。現在はどうか知らないが、少なくとも当時は会場内に展示作品についての資料やパンフレットはほとんど用意されていなかったから、以下の記述は記憶を頼りにしており、不正確さを伴うことを初めにお断りするが、それにせよ展示されていた作品はいずれも今も強く印象に残っている。ここに展示された作品に特徴的な点としては、コミッションワークであるか否かはともかく、多くが巨大な空間を想定した大作でほかの場所に移動することが不可能であるように感じられた点だ。例えばアンディ・ウォーホルに関しては巨大な「シャドウズ」シリーズが画面を連ねて壁面を埋め尽くしている。一種の抽象性を宿した作品が反復されることによってポップ・アートというよりミニマル・アートを連想させる独特の効果をあげていた。
b0138838_1049558.jpg 今述べたとおり、基本的に展示は一人の作家に一つの区画が充てられており、順路による展示的効果には乏しい。したがって以下の印象も個別的となるが、部屋ごとに私は圧倒的な作品と対面した。例えばマイケル・ハイザーは先に述べた巨石の壁龕のほかに広い部屋の床を円錐や角錐のかたちにくり抜いて底が見えないほどの深い穴を展示していた。ロバート・スミッソンと並んでアースワークを代表するハイザーの作品を私はあまり見たことがないが、この作品をとおして充実ではなく虚としての量塊というハイザーのコンセプトを確認することができたように思う。知られているとおりハイザーは有名な《ダブル・ネガティヴ》をはじめ、アメリカ中西部の砂漠の地表を掘り崩した一連の彫刻を発表したが、空虚によってマッスを造形するという彼の手法はビーコンの経験がなければ未だに理解できなかっただろう。ハイザーの穿った穴は足を滑らせて落ちるならば大怪我を招くような危険さを秘めていたが、スミッソンの出品作もひけをとらない。割れたガラス片を一面に撒布した作品が展示されている。うずたかく積まれた鋭く尖ったガラス片は危険きわまりなく、先端恐怖症の私としては見ているだけでも背筋が寒くなる思いであった。以前私は同様に板ガラスを粉砕したバリー・ル・ヴァの作品を見たことがある。これらの作品は床に素材を撒布するフロア・ピースと呼ばれる手法が当時、作家たちの間に膾炙していたことを暗示し、同時に当時共有されていた独特の素材観を反映しているだろう。いうまでもなくこれらの作品は作品として聖別されることなく現実の中に場所を占めることが重要であるから、作品の周囲に柵や結界が存在しないことは当然であるとはいえ、施設の管理責任が問われる日本の美術館では想像できない展示状況であった。美術史的に述べるならばこれらの作品はミニマル・アートが解体していく過程で発表された訳であるが、ミニマル・アート以上に場との関係を強めたこれらの作品はディア・ビーコンという格好の場を得て実に力強く感じられた。逆にドナルド・ジャッドやダン・フレイヴィンら、ミニマル・アートの作家たちの作品は綺麗に並べられてはいるが、これらの猛々しい作品の傍らではむしろ洗練され過ぎているように感じられた。
 壁面に設置された作品も興味深かった。ブリンキー・パレルモとハンネ・ダーヴォベンはいずれも名前は知っていたが、これほどの数の作品を見るのは初めてであった。いずれもミニマルおよびコンセプチュアル系の優れた作家であり、私は十分に堪能した。どのような経緯でここに収められたかはわからないが、それ以前も以後も私はこの二人の作家をこれほどまとめて見る機会はない。コンセプチュアル・アートに関連してはソル・ルウィットのウォール・ドローイングと河原温のデイト・ペインティングも充実した展示であった。そういえば、私にディア・ビーコンを訪ねるように勧めてくれた関係者の一人はルウィットのもとで働くドラフトマンであり、まだ存命されていた河原氏をソーホーに訪ねたのも同じ滞在中ではなかっただろうか。平面作品の中でも私が最も感銘を受けたのはゲルハルト・リヒターのグレー・ペインティングであった。ガラスにエナメル塗料を塗布したこの絵画は当然ながら何も表象せず、ただ室内を自らの中に映し出していた。ミニマリズムの極限において作品が絵画と物体のいずれであるかという問いを誘発したことはよく知られているが、私は同じ問いが21世紀に入って、ミニマリズムとは全く異なる文脈に立つリヒターの作品を通して繰り返された点に興味を抱いた。絵画を窓ととらえる伝統的な立場に対して、モダニズムは鏡という対案を提示した。文字通りガラスにエナメルを塗布することによって、現実の鏡としての絵画を提示したこれらの作品はリヒターの絵画の中でも特異な位置にある。この二年後、金沢で再びグレー・ペインティングを含む大規模な回顧展を見ることができたのは私にとっておおいに幸運であった。
奥に進むと部屋は次第に狭くなり、むきだしの煉瓦の物質感はさらに濃厚になった。ルイーズ・ブルジョアの蜘蛛を模した立体は六本木ヒルズのそれを連想させ、リチャード・セラの曲面の立体は部屋の中に押し込められた印象がある。展示をめぐるほぼ最後に私は思いがけない作品を発見した。初めはそれが作品であるかどうかわかならなかった。背後に窓を備えた狭い部屋の中央に汚らしいゴムの塊がうずたかく積まれている。しばらく眺めてようやく私は思い当たった。これはリチャード・セラが1967年に発表した名高いソフト・スカルプチュア、《スキャター・ピース》ではないか。
b0138838_10493512.jpg
 私は以前より図版を介してこの作品を知っていたし、実見していないとはいえ、セラの初期作品の中でもお気に入りの一点であった。まさかこの廃物のごときゴムの塊が《スキャター・ピース》であったとは。私が作品を同定できなかったことにはいくつかの理由がある。私はモノクロ写真を通してこの作品を知っていた。色彩を失うことによって作品は一種の抽象性を宿し、しかもモノクロ写真において散らかったゴムの塊はフォトジェニックな効果を帯びていた。モノクロ写真だけではそれが何か識別しがたい一種の神秘性まで秘めていた作品が、単に散らかった汚らしいゴムの塊にすぎないことに気づいた時、私は強い衝撃を受けた。あらためて顧みるに、私はセラの作品をほとんどモノクロ図版でしか知らない。私はニューヨーク近代美術館における二度にわたる回顧展のカタログをはじめ、セラの主要な作品集、展覧会カタログをほぼ所持しているが、いずれにおいてもセラの作品は全てモノクロ写真で収録されている。もちろんセラの作品は多くが色彩を欠いているし、色彩があったとしてもそれは素材の固有色であって表現とは無関係だ。しかしあえて作品集やカタログをモノクロ図版のみによって構成する点に作家の作意も明らかであろう。この問題はさらに検討されてよいのではなかろうか。《スキャター・ピース》を前にして、私は作品のあまりの卑俗さに驚いた。スキャター・ピース、ばらまいた作品とは床を支持体もしくは地として、雑多な品々を撒布した作品の総称であり、同じ時期に、バリー・ル・ヴァ、カール・アンドレあるいはロバート・モリスといった作家たちがこれに連なる作品を制作している。ディア・ビーコンでもスミッソン、そして広くとらえるならばハイザーの作品がこれに連なることは理解できようし、工場の広大な室内がこれらのフロア・ピースの展示を可能としたといえるかもしれない。これらの作品はクラウス/ボアが論じた水平性という主題と深く関わっている。クラウスがフロイトを援用しつつ説くとおり、ポロックの作品は水平の状態、すなわち制作の過程では自然に属すが、垂直に展示することによって文化へと転じる。セラの場合、最初私が作品であると認知できなかったことはそれが床の上に積み重ねられていたことも大きな理由だと思う。ここで注意すべきは作品の背後に窓が配されていることだ。作品集を参照するならば、《スキャター・ピース》はなんとドナルド・ジャッド旧蔵の作品であり(ただし2007年のニューヨーク近代美術館の展覧会カタログでは「個人蔵」という表記に代わっている)、確かジャッド・ファウンデーションからの長期貸与である旨がキャプションにも記されていたと記憶する。作品集に掲載された図版は当然ながらビーコンでの展示とは異なるが、同様に背後に三つの格子状の窓が配されている。このような写真の構図、そして作品の配置は水平性と垂直性の対比を際立たせるものであり、私はおそらく作品の移設設置に関わったであろうセラ本人がどのような意図のもとに、ディア・ビーコンのこの区画を選んだのかという点にも関心を抱いた。
 述べてきたとおり、ディア・ビーコンには多くの多様な作品が展示してある。あらためてそれらを通覧する時、私は自分の美的感性が最も深く共鳴するのは1960年代後半、ミニマル・アートが解体していく過程で成立した一群の作品であることを再度認識した。中原佑介の言葉を借りれば、そこでは作品が「名状しがたいもの」として出来し、私たちはそれが美術であるか否かという問いから始めなければならないからだ。この意味でディア・ビーコン訪問はきわめて有意義な機会であった。半世紀前に発表されたエフェメラルな作品と同じ空間をともにする体験など誰が想像することができようか。それを可能とした文化的度量にも深い感銘を受けたことはいうまでもない。展示を見終えて、私はいつものように優れた作品を見た後の満ち足りた気分をワインとともに反芻すべく、同行者と施設内のカフェに向かった。唯一残念だったことにはカフェにはアルコール類が置かれていない。私はルートビアで我慢するしかなかった。

[付記]施設内は撮影不可であったため、外観以外のイメージはDIAのホームページをはじめとするインターネットから引用した。不都合なイメージがあれば連絡いただきたい。

by gravity97 | 2018-01-14 11:00 | SENSATION | Comments(0)
line

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
line