優雅な生活が最高の復讐である


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紀田順一郎『蔵書一代』



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 今年を締めくくる最後の読書は愛書家の私にはこたえられない一冊であった。帯に「蔵書一代、人また一代、かくてみな共に死すべし」となんとも恐ろしいエピグラムがある。著者の紀田順一郎について私は幻想文学の研究者であり、古書や書誌学にも造詣の深い書き手として知っていた。蔵書一代、本書は本を所有することのデーモンに憑かれた愛書家の体験と回想として実に興味深いエピソードに満ちている。

 冒頭で私たちはいきなり紀田が書斎12畳、書庫10畳半に収めていた蔵書3万冊を手放すショッキングなシーンに立ち会う。しかし読み進めていくうちに紀田が大量の蔵書を古書店に売却する経験はこれが最初ではなく、これまでにも幾度となく同様の体験を重ねてきたことが理解される。そしてさらに読み進めるならば、この出来事には前史がある。紀田は阪神大震災を契機に、自然災害の少ない岡山、吉備高原のニューシティ―に広い書斎を備えた新居を設け、多摩の自宅に保管していた蔵書を移し、しばらくの間、初めて過ごす岡山での田舎生活を楽しんだ。しかしリーマンショックに始まる不況、とりわけ紀田が身を置く出版業界の不景気と自らとパートナーの老いと病気、あるいは親の介護の問題などのために、岡山と多摩の往復生活をついに断念して、都内の手狭なマンションへの引っ越しを余儀なくされ、必然的に大量の蔵書の処分に直面したのである。蔵書をまとめて手放すことは私にとって文字通り片腕をもぎとられるような思いであるから、紀田の思いは想像すらできない。私は紀田と同様に地方に移ったことによって広く天井の高い書斎と書庫の中に身を置くことが可能となり、膨大な蔵書の保管に関しては今のところストレスがない。しかしもはや老境に向かう今、本書を読んで、大量の蔵書とはまことに愉しく、かつ厄介な遺産であることをあらためて感じた。

 内容に従って所感を記すことにしよう。「永訣の朝」と題された序章においては、今述べた、蔵書3万冊との永訣が語られる。3万冊の蔵書とはどのくらいの分量であろうか。少し先に飛ぶが、第2章の冒頭に記されているところによれば井上ひさしが生前より山形県に段階的に寄贈した蔵書が14万冊、谷沢永一の関西大学への寄贈は13万冊、山口昌男の蔵書は膨大すぎるため、その総数は本人にも不明、渡部昇一は77歳で借り入れた銀行ローンによって15万冊を収める書庫を建設したという。渡部については思想的に共感するところは毫末もないが蔵書への思いはかろうじて理解できる。立花隆の地下一階、地上三階の書庫ビル(確か猫ビルと呼ばれていた)に35千冊を収めていたとのことであるから、おそらく私の書斎と書庫に収められた本は美術書が多いことを勘案するに1万冊から2万冊の間であろう。「文化的変容と個人蔵書の受難」と題された第1章は一方で図書をめぐる一般的な状況と今も触れた紀田の個人的な事情を関連させていくつも興味深い話題が論じられている。例えば岡山で蔵書を書架に配架することによって記憶が空間化されたという次の感慨は、先に私がこのブログで松原隆一郎と堀部安嗣の『書庫を建てる』について論じた際に述べた所感と同一である。「蔵書に関していえば、自分の蔵書を一部ではあるが、はじめて整然と並べ、一定の距離において、遠近法のような感覚で眺めることができたのも、予想以上の喜びだった。自分が何を読んできたかということ、その時代背景ということや、今それらの本の前にいる自分の立ち位置といった、重要なことがらである」あるいは紆余曲折を経て移設された岡山の書庫で図書の配架にあたって、アルバイト女性たちが書棚ごとに図書を配置することには気を遣いながらも巻数順の配架について全く斟酌しなかったために結局は紀田が再配架することになったといったエピソードはバックナンバーを順番に配架するためにはどんなに時間をかけても惜しくない私としては我が意を得た思いであった。さらにこの章において蔵書が散逸されることに対する恐れを主題とした二つの小説、一つは私にとって未知の作家である由紀しげ子が敗戦後まもなく発表した芥川賞受賞作「本の話」、そしてもう一つはかつて愛読したドストエフスキーの「貧しき人々」からの引用にも深く共感した。

 序章と第一章で自らの蔵書の来歴と始末について語った後、第二章以降は蔵書についてさまざまの蘊蓄が語られて楽しい。「日本人の蔵書思考」と題された第二章においては冒頭で先に触れた井上ひさし以下の現代の蔵書家について瞥見した後、この問題と深く関わる図書館へと話題が転じる。私も大学と大学院の頃には大学図書館のヘビーユーザーであったが、大学の場合、使用したり検索したりする資料はある程度限定されているし、司書とも顔見知りとなるからそれなりの使い勝手があったが、大学に籍を置いていない状況では使いづらく、現在通っている図書館では一般利用者としての本の借用しか行っていない。紀田は「図書館や物書きには使いづらいとうのが、半世紀にわたって図書館を利用し続けた私の個人的感想である」と結んでいる。図書館の問題についてはこのブログでも何かの機会に論じてみたい。紀田は日本において図書館の原点が実は個人蔵書であったことを奈良時代に遡って検証した後、今日知られた蔵書家や愛書家は日本においては明治中期から大正期に誕生したと論じる。これには日本では書物の入手手段が筆写に限られ、印刷業の発達が遅れたという事情が関係しているという。ここで私が興味深く読んだのは、紀田そして鴎外の居宅を訪ねた荷風の経験として述べられる、蔵書家の一つの類型である。すなわち1960年代に紀田が訪ねた未知の蔵書家と鴎外の場合、ほとんど蔵書が見当たらず紀田や荷風は当惑する。しかし実は蔵書家と鴎外は本を隠していたのであり、蔵書家の場合は紹介者もなく訪れた紀田に対して本の借用を頼まれることを嫌い(紀田も記すとおり「貸した本は返ってこないものと相場が決まっている」)、鴎外の場合は書斎の理想として「明窓浄机」を目指していたからであるという。紀田によれば雑然と大量の書籍が積み上げられた環境と、明るい窓と清潔な机、すなわち学問をするのに適した環境という両極のあいだで、日本の蔵書家の理想は揺れ動いてきたという。来客があれば書斎と書庫を自慢するのを常とする私にとって「明窓浄机」という境地は理解しがたいが、それもまた書斎の一つのイデアルタイプかもしれない。大正期には出版業の隆盛と読者層の拡大に伴っていわゆる円本ブームが発生し、大衆蔵書家が生まれる。このような状況に村山知義や杉浦非水といった私もよく知っている美術家やデザイナーが関わっていたという記述も興味深い。

 続く第四章は「蔵書を守った人」と題され、蔵書を保存することの困難が説かれる。まず19世紀の書誌学者ウィリアム・ブレイズが分類した「書物の敵」10種について論じられる。火や水、埃や紙魚から無知と子ども、召使いにいたる「書物の敵」は今日でも十分に通用する。しかしなんといっても蔵書の大敵は天災と戦災であろう。紀田は第二次大戦中に東京市が市立図書館の蔵書を疎開させた事例について言及している。戦時中に大量の図書を移送することの困難は誰でもたやすく予想できよう。前章でもゲオルグ・グロスの画集を購入したために役人に難癖をつけられ、なんとも人を食った受け答えで対応したエピソードが紹介されている秋岡梧郎という日比谷図書館の管理課長らが中心になって、東京帝大の付属図書館長、中田邦造らとともにこの事業は遂行された。結果として40万冊の書籍が戦火を免れたが、その大半が1949年のキティ台風によって損傷、廃棄されたとは紀田も述べるとおり「九死に一生を得て復員した兵士が、母国の地を踏んだ途端、無念にも病に斃れたという思い」であろう。かかる損傷は戦争がなければありえなかった。まことに秋岡が記すとおり、「戦禍から文化や貴重な文献を守るということは、図書館員だけがいくら一生懸命やっていても、また図書館がどんなに力を入れても結局はだめで、文化財を完全に戦禍から守るためには戦争はやめる以外にはないでしょうか」図書館の蔵書を守った人々と並んで詳細に論じられるのは個人レヴェルで自らの蔵書を守った江戸川乱歩である。乱歩は25千冊におよぶ蔵書を土蔵に収納していた。紀田は乱歩の蔵書の成立過程を四期に分けて説明している。乱歩が蔵書を守ることができたのは、空襲に焼け残ったといった幸運も作用しているが、戦時中は蔵書を疎開させたこともあるらしいし、蔵書を守るということが艱難辛苦であったことが暗示される。土蔵というハードウエアが温湿度や空気環境といった点で書庫に最適であることも興味深い。これらの蔵書は乱歩の長男が立教大学に勤務した関係上、現在は立教大学の関係施設に収蔵されているとのことであるが、これほどの量の蔵書が散逸することなく保存される例はほとんどありえず、紀田はこの書の最後を次のように締めくくっている。

なにより乱歩の蔵書は創作に劣らない「業績」である。作家の全体像を窺うには蔵書に如くものなし。その蔵書を守るという事は文化を守ることであり、蔵書の第一の意義がここにあるということが実感されよう。

 「蔵書維持の困難性」と題された最後の章ではタイトルのとおり蔵書を維持することの困難と日本における出版と読者層との関係が論じられる。今触れた乱歩の蔵書の処理はきわめて幸運な例外であり、「一括性を備えた蔵書は公共性を帯びるいともまもなく古書市場で奪い合いとなり、無残に解体せざるをない」。紀田は蔵書という資料群が散逸し、学問の公共化への意志が十分に育たなかったことに日本の蔵書思想の限界があるとみなす。日本の出版界の通史を論じた部分は蔵書というテーマとは直接関係しないが、忘れがたい記述がある。1952年に角川書店が「昭和文学全集」の刊行を始めた際、内容見本には次のような投書が掲載されていたという。「無学な貧農の主婦が本を読んでいけないいわれはありませぬ。多忙な農事の暇を見つけて、一生かかっても昭和文学全集、一巻ずつ読んで行きたいと存じます。就きましては貧農の身とて、お恥ずかしいことで御座いますが、購買にも現金の持ち合わせがありませぬ。それでお米を御送り致して本にかえて頂く訳には参らぬものでしょうか」米が配給制度であったという時代背景があるにせよ、私は紀田と同様に「一生かかっても昭和文学全集、一巻ずつ読んで行きたいと存じます」という言葉にうたれた。かつて書籍はこれほどの渇望とともに必要とされていたのだ。今でも私も彼女の思いを十分に理解することができる。しかし今日、大学生でさえほとんど書籍を求めないと聞くにつけて、教養といった言葉が死語になりつつある時代を私たちは生きているという思いを強くした。本書では最後に「蔵書の死蔵を避けるために」という小見出しとともに、蔵書と関わるいくつかの新しい取り組みが紹介されている。すなわち「一箱古本市」やシェア・ライブラリー、書斎の開放、蔵書館といった取り組みである。いずれも興味深い試みであるが、いずれもなお多くの問題が残されているように感じた。

ちょうど昨日のニュースだったと思う。書籍と雑誌、今年の出版部数が最盛時の半分に落ち込み、昨年を下回ったという報道に接した。電子書籍が普及し、読みたい本をいつでもデータとして呼び出し、アマゾンを通せば現実の書籍さえもワン・クリックで入手できるという時代にあって、蔵書をもつという幸福はもはや時代遅れなのであろうか。大晦日の午後、書斎のPCに向かいながら四囲の壁を埋め尽くす蔵書を眺め、しばし沈思した。


by gravity97 | 2017-12-31 16:10 | エピキュリズム | Comments(0)

フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』

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 フィリップ・K・ディックは今なおカルト的な人気を誇るSF作家であり、かくいう私もディック・フリークであることは、これまでこのブログの端々にディックの名が引かれたことで理解していただけよう。この人気を証明するかのようにディックのSFは殆どすべて邦訳されている。
そしてこのたび「最後の本邦初訳SF長編」と銘打って訳出されたのが本書「ヴァルカンの鉄槌」だ。ディックの著作については創元推理文庫の「ザップ・ガン」の巻末に一覧リストが掲載されている。それによるとディックは未発表作品も含めて生涯に51冊のSF長編を刊行している。リストを確認したところ、私は4冊を除いてすべての長編を読んでいるはずだ。しかも私はサンリオSF文庫に収録されているディックの作品をほぼすべて所有しており、その中にはたとえば『シミュラクラ』のごとく長く入手が困難な傑作も含まれている。(ただしこの稀覯書はつい最近ハヤカワ文庫で再刊された)したがって私はディックについては傑作から駄作まで相当の読書の厚みをもっていると自負している。一方でディックの根強い人気を勘案するにせよ、50冊に及ぶ著書の中で最後に翻訳されたということであれば、本書が相当な駄作であろうことは容易に想像がつく。通読してみると、確かに御都合主義の場面転換やストーリーの無意味な混乱など、いかにもやっつけ仕事じみた欠点も多いが、逆にそれらを含めて実にディックらしい小説であり、私は十分に楽しんだ。このブログでディックの小説を直接に取り上げるのは今回が最初で最後となろうが、まことにそれにふさわしい怪作といえよう。

 全体主義が支配するディストピア社会はディックにとっておなじみの舞台だ。物語の背景は文庫の裏表紙に次のように簡潔にまとめられている。「20年以上続いた核戦争が終結したのち、人類は世界連邦政府を樹立し、重要事項の決定をコンピュータ〈ヴァルカン3号〉に委ねた。極秘とされるその設置場所を知っているのは統括弁務官デイルただ一人。だがこうした体制に反対するフィールズ大師は、〈癒しの道〉教団を率いて政府組織に叛旗を翻した」すでにこの要約の中にディックおなじみのテーマがいくつも連ねられている。核戦争後の世界、人間と機械の闘争、全体主義と宗教の抗争。小説の中で語られる歴史によれば核戦争は1992年に終結し、翌年に世界連邦が樹立されたとのことであるから私たちはディックが空想した未来以後を生きている。世界連邦という言葉には本書が執筆された1960年には一種の理想が投影されているかもしれないが、物語が始まるや統括弁務官のデイル、北部アメリカ担当弁務官ウィアリム・バリス、南部アメリカ担当弁務官トーブマンらの暗闘が描かれ、きわめて個人的な葛藤を介して大状況、世界の命運を賭けた物語が語られる点も多くのディックの小説と共通している。本書では基本的に三つの勢力の対立が描かれる。世界連邦、世界連邦の決定を司る巨大コンピュータ〈ヴァルカン3号〉、そして〈癒しの道〉教団である。三者の拮抗が物語を構成する作品はディックには多い。冷戦という状況を反映して、多くが自由主義陣営と共産主義陣営の対立に第三者が絡むことによって物語の推力が与えられる。この小説においても弁務官たちは自分たちの政策決定に関わるコンピュータを信頼していないし、フィールズ大師に率いられた教団は明確に機械による支配に対抗し、〈ヴァルカン3号〉の破壊という、一種のラッダイト運動を組織する。しかしこの教団もいかにも怪しい。ディックの小説において読者は登場する人物のいずれにも感情移入できない場合が多い。さらに読み進めるうちに〈ヴァルカン3号〉にはその前身とも呼ぶべき〈ヴァルカン2号〉が存在し、両者の関係も緊張をはらんでいることが明らかとなる。このように関係項が多すぎて相互の関係が複雑きわまりないため、小説家がそれを破綻なくまとめることができず、物語がぐちゃぐちゃになってしまうというのが、ディックの失敗作のパターンであるが、『ヴァルカンの鉄槌』もその典型といえるだろう。デイルは洗脳的な教育が着実に実施されていることを確認するため、学校を視察するが、そこで反抗的な態度をとる少女がフィールズの娘であることを知り、直ちに彼女を管理下に置く。物語の最初の部分を要約しただけで、いかに御都合主義に物語が展開するか理解されよう、しかし逆にこのような適当さこそがディックの真骨頂だから、ディック・フリークたる私には何の違和感もない。一つだけネタバレを記すならば、フィールズの娘を担任する教師アグネス・パーカーは「細長い棒状の体に二つのレンズが付いた金属製の野球バットほどの機械」に襲撃されて殺される。このあたりも何の必然性も感じられない、相当に訳のわからない展開であるが、この奇妙なガジェットこそが巨大コンピュータ、ヴァルカン3号が操るヴァルカンズ・ハンマー、「ヴァルカンの鉄槌」なのであり、解説にあるとおり、「『そのまんまやないかいっ』とツッコミたくなることうけあい」である。ヴァルカンの鉄槌に象徴される奇怪なガジェットもディックの小説におなじみだ。「シミュラクラ」であったか「最後から二番目の真実」であったか、要人を暗殺し、任務を終了した後は変態して室内の家具に完全に同化するという自動機械が登場し、あまりの偏執狂的な発想に私はぶっとんでしまったが(しかしよく考えるならば、完全なる偽装、つまり私が人間かそれとも機械か、私の審級では区別がつかないというニューロティックな妄想はディックの作品の本質でもある)本書にも多くの奇怪なガジェットが登場する。

 さらに興味深いのはヴァルカン3号とヴァルカン2号の関係である。小説の中で1975年に作られたという表記のあるヴァルカン2号は単なる3号のプロトタイプではない。3号が稼働を初めて以来、沈黙を続ける2号は実は3号に対して強い敵意をもっていたことが次第に明らかになる。今、私は沈黙とか敵意といった通常であれば機械に対して用いられることのない言葉を用いた。両者の関係は物語の根幹に関わるため深入りした説明は避けるが、ディックの小説において機械と人間を区別することは困難である。それどころか人間と機械を隔てる一線がどこにあるのかという問題こそディックが執拗に追究したテーマであり、さらに同じ目的のために製造された機械同士が互いに反目しあうという物語は直ちに短編の傑作「変種第2号」を連想させる。弁務官同士の権力闘争に始まる物語は次第に世界連邦と「癒しの道」教団の闘争、さらにはヴァルカン2号の破壊、「ヴァルカンの鉄槌」を用いた要人の暗殺と拡大し、ロボットやビーム銃、核手榴弾といった、いかにも安っぽいSF的ガジェットを駆使しての大乱戦にいたる。確かにこのあたりはもし最初に本書で初めてディックに触れた読者であれば思わず引いてしまう安易さにあふれている。しかし別の観点から考えるならば、ここに描き出されるのは、人間同士、人間と機械、そして機械同士、お互いに誰も信じることができないという袋小路の状況であり、本書が執筆された時代、冷戦下における相互不信と相互監視を象徴しているかもしれない。当時、アメリカの社会に流布していた隣人が共産主義者ではないかという疑心暗鬼は「お父さんみたいなもの」「まだ人間じゃない」といった短編のタイトルが暗示するとおり、ディックの手にかかれば、人間と人間ではないものの区別の不可能性という主題へと展開される。とりわけディックが終生にわたって拘泥したマン・マシーンのモティーフは「電気蟻」「贋者」、あるいは先に言及した「変種第二号」といった傑作短編においてことにサスペンスフルに開示され、私たちを戦慄させた。同じ主題がディックの傑作を下敷きにした「ブレードランナー」においても変奏されている点についてはこのブログでも論じたとおりである。

それにしてもディックの描く未来世界の閉塞感は普通ではない。本書においても日常が監視され、体制が市民を睥睨する核戦争後の世界が不気味なリアリティーとともに描き出されている。ディックの短編集を編集したジョン・ブラナーは次のように記している。「ディックがみごとに描いてみせる種類の世界に、私は住みたくない。できればわれわれがそこに住んでいないことを信じたいというのが、私の願い―痛切な願いである。もし、もっと大勢の人がディックの作品を読めば、私がああいう世界に住まなくてすむ可能性が、それだけ強くなるのではなかろうか」このコメントはディックの生前、1976年に書かれているが、それから半世紀近く経った現在、私たちはこの言葉にどのような感慨を抱くであろうか。少なくとも本書が発表された当時においては具体的なイメージに乏しい「ヴァルカンの鉄槌」の描写は今日において、中東で使用されているドローン兵器に恐ろしいほど似ている。真空管や変圧器によって組み立てられた巨大コンピュータ、ヴァルカン3号こそ存在しないが、よりスマートで精巧な機能をもった電子機器が個人を生体認証し、すべての通信を司る世界を私たちは生きている。冷戦そして共産主義国家こそ終結したが、私たちは異なる体制、異なる世界観を直ちに悪と断定して、その殲滅を口にしてはばからない愚かな大統領や首相を戴き、世界は他者への憎悪に染まっている。ブラナーが40年前に指摘したとおり、ディックが描き出す悪夢のごとき世界は一方で相変わらず荒唐無稽でありつつ、一方で不気味なほど現実を予示しているように感じるのは私だけだろうか


by gravity97 | 2017-12-22 21:06 | エンターテインメント | Comments(0)

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

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 今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を読む。イシグロについてはすでに二冊の小説をこのブログでレヴューした。ノーベル賞受賞の報が届いた日、このブログへのアクセスが600件以上あったのには驚いたが、通常でもイシグロの小説のレヴューは私のブログのアクセス・ランキングの上位に位置しており、この作家の根強い人気をうかがわせる。『忘れられた巨人』は2015年に発表され、同じ年に日本でも翻訳が刊行された。イシグロは寡作の作家であり、長編としては『わたしを離さないで』以来、10年ぶりの小説であった。以前のブログを確認していただければわかるとおり、私は2011年に『日の名残り』で初めてイシグロの小説に触れて以来、折りにふれてイシグロの小説を読んできたから、『忘れられた巨人』が刊行された時点で既に『浮世の画家』以外、邦訳のある長編と短編をほぼ通読していた。ノーベル賞受賞後というタイミングで読んだことに特に意味はない。私はイシグロの小説をすべて文庫で所持しているので、この小説についても文庫化される時機を待っていた訳である。読み終えていつもながらの深い感銘を受ける。この小説も疑いなくイシグロの代表作の一点となるだろう。

 寡作であるだけでなく、小説によって作風が大きく異なることもイシグロの特徴である。

家族をめぐるシリアスなドラマである『遠い山なみの光』、カフカを連想させる不条理小説『充たされざる者』、次第に明らかになるSF的設定に戦慄する『わたしを離さないで』。今までレヴューしていない三つの長編だけでもこれほどの幅がある。新作がどのような内容となるかおおいに期待されたゆえんである。といっても原著が刊行されてからすでに2年が経過しており、ノーベル賞とは無関係にこの小説の内容についての風評は耳に入っていた。意表を突いて、新作はファンタジーであるという。いったいイシグロがどのようなファンタジーを執筆するのか。読み終えて私の期待が裏切られることはなかった。裏表紙のシノプシスおよび解説に記されている程度に内容に触れつつ論じることとする。

 舞台は67世紀のブリテン島。鬼や悪い妖精が闊歩しているという情景から、私たちは単なる過去ではなく、ファンタジーの世界に踏み込んでいく。これから読む人のために少し整理しておくならば、ブリテン島とはいうまでもなく今のイギリスのことであるが、この時期、二つの勢力がそこで抗争していた。一方は以前よりこの地に居住していたブリトン人であり、もう一方は大陸からこの島へ侵攻を試みるサクソン人である。物語には随所にアーサー王への言及がある。私はこのブログを執筆するために少し調べてみたが、本書をよりよく理解するうえではあらかじめアーサー王の位置を確認しておいた方がよいだろう。すなわちアーサー王とはブリトン人の王であり、円卓の騎士とともにサクソン人の侵攻を撃破してイギリス全土、そしてノルウェーからガリアにまたがる巨大な王国を築いたとされる。本編の主人公はアクセルとベアトリスという年老いた仲のよい夫婦。彼らはいにしえのブリテンで穴居人のような暮らしを送っていた。彼らが村落の中で必ずしも幸せに遇されていなかったことは、住まいの中で蝋燭の使用を禁じられる冒頭のエピソードからも明らかだ。この事件を機に二人は息子のことを「思い出し」、平原や山地を突っ切って、息子が暮らす村へ旅立つことを決意する。ここから物語はよく知られた一つの類型として稼働する。ロードノヴェルである。東に向かって村を旅立ったアクセルとベアトリスはサクソン人の村、要塞のような修道院といった様々な場所を遍歴し、道中で何人かの同行者を得る。ファンタジーとロードノヴェルは相性がよい。同様の類型は「指輪物語」や「オズの魔法使い」を想起すればたやすく理解されよう。しかしイシグロの小説は次第に単純なファンタジーとは次元の異なった深みを宿していく。老夫婦がブリトン人であることにあらためて注意を喚起したうえで、もう少しだけストーリーを追うことにしよう。彼らは最初にサクソン人の村を訪れる。先に述べたとおり、ブリテン島にもともと居住していたブリトン人と侵略者としてのサクソン人は本来であれば敵対関係にある。実際に直前に「悪鬼」の襲撃にあって倉皇とした状態にあるサクソン人の村で二人は歓待されたとは言い難い。しかし彼らは村の長老に手厚く保護され、ベアトリスはサクソン人の薬子(くすし)から修道院に行き、ジョナスという修道士の助言を仰ぐように忠告を受ける。このようなエピソードから少なくともこの時代、ブリトン人とサクソン人は干戈を交える状況にはなく、平和裡に共存していたことが暗示される。物語を読み進むにつれて、このような設定の重要性は明らかとなるだろう。この村で二人はさらに二人の同行者を得る。サクソン人の騎士であるウィスタン、そしてエドウィンという少年である。二人が村に滞在中、悪鬼にさらわれたエドウィンを見知らぬ旅人であった騎士ウィスタンが救い出し、やむを得ぬ事情で四人は一緒にサクソン人の村を立ち去ることとなる。しかし彼らの道中は決して安穏としたものではない。見知らぬ兵士に会えば、即座に敵味方を判断してどのようにやり過ごすかを思案せねばならない。修道院も内部で修道士同士が隠然たる抗争を繰り返しており、修道士たちの力関係は彼らのうえにも微妙な影を落とす。老夫婦と騎士と少年、奇妙な縁で結ばれた四人は協力しあいながら、苦難に満ちた旅路を続ける。一方で彼らが生きる世界には奇妙な現象が発生していることが明らかになる。老齢にあるアクセルとベアトリスのみならず、人々の記憶がなぜかあいまいとなって、同じ体験の記憶が異なり、現実と夢の境界が混濁するのだ。その原因は比較的早い段階で示唆される。クエリグという竜が吐き出す霧のために人々の記憶は失われるのだ。セント・ジョージとドラゴン、騎士と竜が登場するのであれば両者の対決が物語のクライマックスとなることはたやすく想像されようし、実際にそのような予想は的中するのであるが、結果として訪れるのは予定調和的なハッピーエンドではない。

 カズオ・イシグロの物語が記憶と関わるということはしばしば論じられてきたし、本書について評した多くのレヴューでもこの点が指摘されている。読書の楽しみを残すためにここでは詳しく語らないが、この小説は記憶の喪失あるいは混濁の物語であると同時に、記憶の回復の物語でもある。そもそもアクセルとベアトリスの道行きの理由が、ある日、自分たちの息子のことを「思い出した」ことであったことを想起しよう。そして記憶を回復する中でアクセルとウィスタン、そしてガウェインというもう一人の騎士の意外な関係がおぼろげに浮かび上がる。この小説を読みながら、私は「わたしを離さないで」と本書のテーマ的な近似性に気がついた。映画や舞台としても上演されイシグロの小説の中でも「日の名残り」と並んでよく知られたこの小説は、寄宿舎風の施設で暮らすクローンの若者たちの物語である。彼らは自分たちの身体を他者に提供するために生を与えられ、短く残酷な青春を送っている。ところで私たちのアイデンティティーの核心、他者と決して共有できない本質とはなんであろうか。私は身体と記憶ではないかと思う。私は他者の痛みを共感することができないし、他者の記憶を共有することもできない。現在、続編が公開されているフィリップ・K・ディック/リドリー・スコットの「ブレードランナー」においてレプリカントと呼ばれる人造人間たちは自分たちの幼少期の写真に執着する。なぜなら(他者から移植されたにせよ)自らの記憶、つまり自分がレプリカントではなく人間であることを物質的に保証する手段は写真のみであるからだ。自身の記憶をめぐる真正性の問題はやはりディックの短編を原作としたポール・バーホーベンの怪作「トータル・リコール」の主題であった点も想起されよう。「わたしを離さないで」と「忘れられた巨人」は身体と記憶という本来的に人が自らのアイデンティティーの核心とすべき根拠が失われている状況を描いている点で一致するのだ。このことと関係するのであろうか、私はいずれの小説も鋭い痛みの感覚が貫いているように感じる。「わたしを離さないで」においては他者にとって必要とされる身体の部位を切除される文字通りの痛覚であるが、「忘れられた巨人」の場合は私たちの記憶を覆うかさぶたが次々に剥がされていく痛みとでも言おうか、ひりひりするような感覚が物語の進行とは無関係に私を苛んだ。「わたしを離さないで」における傷と「忘れられた巨人」における記憶は対応している。この問題はさらに深めることができるかもしれない。イシグロの小説に関してはしばしば「信頼のおけない語り手」という主題が論じられてきた。「忘れられた巨人」においては神の視点が採用され、それぞれの章によって焦点化される人物が異なる。三人称で語られながらも、彼らの記憶のあいまいさは語り手としての信頼を大きく殺ぐ。この小説がロードノヴェルという現在進行形の体裁をとった理由の一つはこの点にあるかもしれない。つまり私たちは、眼前で繰り広げられる登場人物たちの道行きについてはその事実性を認定することができる。しかし彼らの来歴や回想、過去に関わる部分に関しては正当性が保証されない。むしろ過去に関わる真実は物語をとおして次第に浮かび上がるのだ。

 「忘れられた巨人」の場合、記憶のあいまいさは個人的な問題に留まらない。そしてこの点が小説にさらなる深みを与えている。最初に述べたとおり、記憶の奇妙な欠落、歪みを体験するのはアクセルたちだけではない。彼らが暮らした村に住むブリトン人も彼らが通過した村のサクソン人も、さらに勇壮な騎士たるウィスタンやガウェインさえ部分的に記憶を失っている。この世界では個人の記憶のみならず集団的記憶も失われているのだ。物語の中では竜の吐き出す霧が記憶の不全の原因であることが示唆される。したがって竜を殺そうとする騎士と竜を守る騎士の闘いは記憶をめぐる闘争でもある。記憶は失われたままであるべきか、それとも取り戻されるべきか。そしていずれが人々にとって幸福であるのか。この問題に答えることは難しい。先にも触れたとおり、ブリトン人であるアクセルとベアトリスがサクソン人の村にも逗留しえたことはかつて民族間に存在した憎悪の記憶が薄れていることを暗示している。そしてかかる問題はもはやファンタジーの領域に留まらない。たとえば従軍慰安婦問題だ。かかる蛮行が存在した以上、このような事実を否定する立場を歴史修正主義と呼んで批判することはたやすい。しかし同時に私たちはこのような事実は悲惨な経験を負った女性たちがトラウマとも呼ぶべき個人的な記憶を開封することによって初めて光をあてられたことに自覚的であるべきではなかろうか。封印されていた記憶の回復はしばしば痛みを伴う。この小説の原題はThe Buried Giant 、埋められた巨人である。「忘れられた巨人」と意訳された理由は、これまで述べた本書の主題、記憶と忘却を考慮する時、容易に理解されるが、小説の終盤で「埋められた巨人」への言及がある。ウィスタンはアクセルに次のように語る。

「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出しました。遠からず立ち上がるでしょう。そのとき、二つの民族の間に結ばれていた友好の絆など、娘らが小さな花の茎で作る結び目ほどの強さもありません。男たちは夜間に隣人の家を焼き、夜明けに木から子供を吊るすでしょう。川は、何日も流れ下って膨らんだ死体とその悪臭であふれます。わが軍は進軍を続け、怒りと復讐への渇きによって勢力を拡大しつづけます。あなた方ブリトン人にとっては、火の玉が転がってくるようなものです。逃げるか、さもなくば死です。国が一つ一つ、新しいサクソンの国になります。あなた方ブリトン人の時代の痕跡など、せいぜい山々を勝手にうろつきまわる羊の群れの一つ二つくらいしか残りません」

 この言葉は記憶が暴力の抑止であると同時に暴力への衝動としても機能することを暗示している。ブリトン人とサクソン人の対立は今日も正確に繰り返されている。イシグロ自身、本書を構想する契機の一つがボスニア・ヘルツェゴビナで、ルワンダで繰り広げられた民族浄化という凄惨な内戦であることを語っているが、それは決して過去の問題ではない。現在の日本でも在日コリアンに対するヘイト・スピーチが吹き荒れ、書店の店頭には見るに堪えない他民族へのヘイト本が平置きされている。奇しくもこのブログをアップする今日、私は朝刊でイシグロのノーベル賞受賞演説を読んだが、昨日の同じ紙面にはアメリカの社会病質者の大統領が今後中東の民族間抗争の決定的な火種となる決定を下したことが報じられていた。そしていつもながら私たちの政府はそれらの不正義を意図的に拱手している。

 物語に戻ろう。この小説は神話や民族といった大きな主題とアクセルとベアトリスの旅路という個人的な主題の間を往還する。先にも触れたとおり、この小説では三人称と神の視点が採用されているが、最後の章のみ「おれ」という人称が導入される。「おれ」とは人を島に渡すことを生業とする船頭であり、もしかすると「おれ」は老夫婦が旅路の最初に出会った船頭と同一人物かもしれない。一人称が導入されることによって、初めて二人の姿は具体的な人格をもった視点から描写される。果たして巨人の再生によってアクセルとベアトリスの関係にも変化が生じたのであろうか。そもそもこの船頭もまた「信頼のおけない語り手」ではないのか。結末についてはあえてここでは記さないことにする。おそらくそれを見届けることこそが、二人と長い道行を共にした読者の務めであるからだ。


by gravity97 | 2017-12-09 10:08 | 海外文学 | Comments(0)