Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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0024

私が学生時代に描いていたような、いわゆる「抽象画」は現在の私の心にはほとんど訴えかけてこなかった。私はそのようなタイプの絵画にもう心を惹かれなかった。今の時点から振り返ってみれば、私がかつて夢中になって描いていた作品は、要するに「フォルムの追求」に過ぎなかった。青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられていた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にあるべき魂の深みにまでは手が届いていなかった。そのことが今ではよくわかった。私が当時手に入れることができたのは、比較的浅いところにある造形の面白みに過ぎなかった。強く心を揺さぶられるようなものは見当たらない。そこにあるのは、良く言ってせいぜい「才気」に過ぎなかった。



by gravity97 | 2017-02-26 15:53 | PASSAGE | Comments(0)

池野絢子『アルテ・ポーヴェラ』

 b0138838_21253281.jpg 本書はイタリアの戦後美術において最も重要な動向の一つであるアルテ・ポーヴェラを主題とした研究であり、2014年度に京都大学大学院に提出された博士論文に加筆修正した内容であるという。日本においてアルテ・ポーヴェラはかつて『アール・ヴィヴァン』誌で特集されたことがあり、私は未見であるが、展覧会としても2005年に豊田市美術館で大規模な回顧展が開催されている。ヤニス・クネリスやジョゼッペ・ペノーネなどの作品は一部の美術館に収蔵されているから、日本でもその片鱗に触れることは不可能ではないが、ミニマル・アートやアンチフォームなどの関連する動向と同様、アルテ・ポーヴェラはこれまで紹介される機会が少ない美術運動であった。これから述べるとおり、その理由自体もこれらの動向の本質と深く関わっている。したがって本書はこれまで十分に論じられることのなかったこの運動に関して日本語で書かれた初めてのモノグラフといえよう。博士論文としては量的にやや物足りず、章ごとにテーマを違えた構成は必ずしもわかりやすくないが、この運動の本質と広がりを知るうえでは示唆に富む手引きといえよう。

 序章で著者も述懐するとおり、本書の構成は必ずしもクロノロジカルではないし、状況の検証、批評の分析、個々の作品の記述といったレヴェルの異なる議論が意図的に導入されている。しかし読み通すならば、この運動の輪郭のみならずデ・キリコやマグリットといった歴史的前提、ポップ・アートやミニマル・アートといった同時代の美術との関わり、さらには美術館の制度論や作品の同一性といった抽象的な問題にいたる多様な問題がアルテ・ポーヴェラという分光器を得て次々に浮かび上がって興味深い。巻末の年表と関連展覧会のリストは資料的な価値が高く、本文の中で語られる内容についても私にとって初めて知るエピソードが多かった。例によって章を追いながら本書の内容を確認しておこう。

 b0138838_21271465.jpg 1969年、ローマのラッティコ画廊に11匹の生きている馬を繋いだクネリスの衝撃的な《馬》の図版を冒頭に掲げた序章においては、ジェルマーノ・チェラントによって組織され、布や木材、石や鉄板といった素材を無媒介的に提示するアルテ・ポーヴェラの輪郭が粗描されるとともに本書の構成が簡単に説明される。注目すべきは各章の最終節でそれぞれ一人の作家を取り上げ、作家論的な記述がなされている点である。変則的な構成であるが、このような記述をとおして具体的な作家論と理論的な分析がシャッフルされてこの運動の理解に深みを与えるように感じた。第一章ではアルテ・ポーヴェラの登場前後の状況が検討される。いくつもの興味深い発見があった。例えばアルテ・ポーヴェラの「ポーヴェラ」、「貧しい」という言葉がポーランドの演出家イェジェイ・グロトフスキーの「貧しい演劇」に由来することを私は初めて知った。ただしここで池野が「貧しい」という概念をメディウム・スペシフィシティーと関連づけてクレメント・グリーバーグのフォーマリズム理論と対比するのは全くの見当違いであろう。私がアメリカ美術を専門としているためのないものねだりかもしれないが、本書を通読してやや残念なのは同時代のアメリカ美術との比較が十分になされていない点である。この章を読んで私はあらためてアルテ・ポーヴェラがアメリカの戦後美術を強く意識した運動であったことに思い至った。例えば今触れた「貧しい」という言葉である。アルテ・ポーヴェラの理論的指導者チェラントは1967年に「アルテ・ポーヴェラ―ゲリラ戦のためのノート」というテクストを発表している。ゲリラ戦とは穏やかではないが、当時アメリカの手によってベトナム戦争が続けられていたことを想起するならば、すでにこの言葉の選択に明確なメッセージが込められていたと考えてよかろう。それでは何に対するゲリラ戦か、チェラントは次のように説く。「あちら側には複雑な芸術があって、こちら側には貧しい芸術(アルテ・ポーヴェラ)がある」あちら側の複雑な芸術、ゲリラ戦の仮想敵は池野によればポップ・アート、オプ・アート、プライマリー・ストラクチュアであるという。いうまでもなくそれはアメリカの同時代の動向であり、大量消費社会のアイコンであるポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアにみられる華やかで工業用素材を使用した彩色彫刻を連想するならば、それらを豊かさの象徴とみなすことは理解できよう。そしてあらためてこの運動も美術の覇権をめぐるアメリカとヨーロッパの闘争の一つの局面であったことが理解される。興味深いことにはかかる応酬は国家間というよりも有力な批評家の間で交わされた。50年代のミシェル・タピエが失脚した後、ヨーロッパではチェラント、そしてハロルド・ゼーマンが新しい美術を唱導した。このブログでも取り上げたゼーマンの「態度がかたちになる時」がイタリア、アメリカ、ドイツの作家を中心に中立国スイスのベルンで開催されたという事実は興味深い。この章では最後の節でミケランジェロ・ピストレットのケース・スタディがなされる。鏡というこの作家特有の装置を介して、鑑賞者という要素が作品の中に取り入れられるという発想は興味深く、ミニマル・アートを連想させる一方でウンベルト・エーコの「読者の役割」とも結びつく。さらにジャック・ランシエールを援用して展開される議論はなお敷衍する十分な余地があるように感じられる。

 「トリノの地政学」と題された第二章も興味深い。この章ではタイトルのとおり、フィアットで知られる工業都市、トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの展開を論じている。池野は特にジャン・エンツォ・スペローネというギャラリストとデポジト・ダルテ・プレゼンテというオルターナティヴ・スペースが果たした役割について検証しつつ、作家たちが採用した手法がブリコラージュであったという重要な指摘を行っている。ブリコラージュという言葉から直ちに連想されるのはレヴィ・ストロースであり、必然的に構造主義との関係も視野に収められよう。デポジト・ダルテ・プレゼンテにおける作品の展示風景の写真も掲載されているが、この図版から連想されるのは「態度がかたちになる時」やホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」の会場風景だ。この時代の気風が浮かび上がるとともに、これらの作品が展示されるべき理想の空間は果たして美術館であったかという問題も浮上する。この問題は最後の章においてあらためて主題化される。この章で驚いたのはアルテ・ポーヴェラと映画監督として知られるピエル・パオロ・パゾリーニとの関係である。トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの牙城であったデポジト・ダルテ・プレゼンテにおいてパゾリーニは1968年に「オージー」という「言葉の演劇」の上演を試みたという。(「オージー」からウィーン・アクショニズムを連想するのは私だけだろうか)しかし両者の関係は必ずしも良好ではなく、この空間が閉鎖される遠因となったことが暗示されている。あるいは本書には同じ会場でアメリカのリヴィング・シアターによる公演の写真も掲載されている。行為の問題については続く第三章で論じられるが、美術のみならず、映画や演劇と関わる異才たちが当時のトリノに結集したことが理解されよう。この章の最終節で特集される作家はアリギエロ・ボエッティであるが、世界地図の作家として知られるこの作家についても多くのことを学んだ。私は初めて知ったのであるが、世界地図のそれぞれの領土を国旗として切り分けた有名な作品は実は作家の指示に従って、アフガニスタンの無名の女性たちが縫ったものであるという。インストラクションとタスク、ここには明らかにコンセプチュアル・アートにつながる発想が存在し、先日、このブログで応接したクレア・ビショップが言う「参加型アート」のきわめて早い例として考えることができるかもしれない。そして地図というモティーフはきわめて多様なコノテーションをはらんでいる。ルチアーノ・ファブロの名高い「吊されたイタリア」の写真も掲載されているが、地図とは国家の表象でもある。ボエッティがベトナムの地図をトレースする含意は先に述べた当時の国際情勢を考慮する時、明らかであろうし、池野も指摘するとおり同時代のランド・アートの作家たちもしばしば地図を作品の中に取り込んだ。さらにこの問題圏にアメリカの美術史家スヴェトラナ・アルパースが提起した「描写の芸術」、そしてハル・フォスターが説く「民族誌家としてのアーティスト」といった古今の理論的概念が召還される様子は刺激的である。ただしここでも問題の輪郭は文字通り、マッピングするにとどめられ、検証の余地があえて残されている。

 続く第三章「実践のパラダイム」においては行為という問題が導入される。アルテ・ポーヴェラからも9人の作家が参加した「態度がかたちになる時」の輪郭を粗描し、そこでは作品が脱物質化され、プロセスが重視されることを指摘される。このような回路を経て具体的な作品ではなく、生あるいは行為という問題の重要性が明らかとなり、チェラントはアルテ・ポーヴェラからアツィオーネ・ポーヴェラ(貧しい行為)への移行を提唱する。この状況は例えばトリノで開かれた「観想=行動」という展覧会で演じられたピストレットの「散歩彫刻」といったアクションによって説明されるが、68年という時代背景を念頭に置けば、行為のさらに過激な含意も明らかである。ヨーロッパ各地で学生叛乱が発生したこの年、ヴェネツィア・ビエンナーレは参加ボイコットを叫ぶ学生たちで占拠され、一時的に閉鎖された。ただし私たちはアルテ・ポーヴェラにおいて「行為」の質が大きな変貌を遂げていることに注目しなければならない。彼らに先んじて作家の行為に意味を見出したのはハロルド・ローゼンバーグであり、アクションとして定式化された。ローゼンバーグが引用するジャクソン・ポロックのアクションからアラン・カプローはさらにハプニングという概念を導出し、ハプニング芸術を提唱した。これら一連の活動にみられる行為が作家という主体を強く全面に押し出し、行為の成果としての作品、あるいは行為の前提としての環境を伴ったのに対してアルテ・ポーヴェラの作家たちの行為は作家性を欠く場合が多い。先に挙げたクネリスやボエッティもそうであるが、池野はこのような特質を1968年にアマルフィで開かれた「アルテ・ポヴェーラウ+アツィオーニ・ポーヴェレ」という暗示的なタイトルをもつ展覧会に即して詳しく報告している。これらの活動から私が連想したのはいうまでもなく「もの派」による一連の発表であり、クネリスと李禹煥の作品の近似性については以前何かで論じられていた覚えがある。この問題もさらに論じる余地はあるが、池野はむしろ作家性の喪失を「作者の死」という問題へと結びつけ、フーコーからバルト、さらにジョルジョ・アガンベンにおける芸術の主体について論じる。繰り返しとなるが、この運動の周囲に思いがけない問題圏を広げていく点こそが本書の大きな魅力である。そしてこの章では作者と作品との関係という軸に沿って、ジュリオ・パオリーニという比較的マイナーな作家の写真作品が詳しく検討される。

 「前衛以後の古典主義」と題された第四章は比較的短く、一つのテーマが設定される。それは何人もの作家を横断して認められる石膏像というモティーフである。まずクネリス、パオリーニらのパフォーマンスや作品における石膏像の使用が概観される。アルテ・ポーヴェラは集団としての結束力が弱く、どの時点をもって運動が解消されたとみなすかは難しい問題であるが、興味深い点としては彼らが石膏像を使用するのは1970年以後、池野の言葉を用いるならば「アルテ・ポーヴェラ以後」の出来事であることだ。この章ではイコノクラスム、シミューラークル、あるいは古典への回帰といったキーワードと関連させて議論が進められ、最後にアルテ・ポーヴェラが前衛と古典主義という、相反するベクトルを合わせもつ運動であるという注目すべき見解が示される。

 最後の章ではこの運動をめぐる最新の状況が論じられる。すなわち1984年にトリノ、マドリッド、ニューヨークを巡回した回顧展における展示である。チェラントによって組織されたこの展覧会においては初期の作品とともにそれぞれの作家の近作も展示されたという。このような展示においては作品の同一性が問題となることはいうまでもなかろう。この問題を池野は異なった会場に展示されたジョヴァンニ・アンセルモの作品のインスタレーションが異なった印象を与えた点から説き起こしているが、これは現代美術の展覧会を手がける学芸員にはおなじみの難問である。アルテ・ポーヴェラの作品においては布きれや藁、炎や植物といった永続性がなく、不定形の素材が用いられる場合が多い。最初の発表と同じ素材、同じ形状の作品を発表することは最初からありえない。かかる作品の同一性を何に求めるかという点に答えることは簡単ではない。もしそれが作家に帰属するならば、作家が死亡した後は作品の同一性を保証することは困難となる。いうまでもなくこの問題は同時代のアンチフォームやプロセスアート、さらにはもの派などにも共通する。この問題を傍らに置く時、第四章で論じられた「作者の死」、あるいはしばしば言及されるウンベルト・エーコの「開かれた作品」といった概念は新たな意味を宿すかもしれない。最初に述べたとおり、これらの運動を回顧することが困難であったのも同じ理由による。池野はこの章の冒頭にミケランジェロ・ピストレットの《ぼろ切れのヴィーナス》の二つの展示風景の写真を並置し1985年の展示風景においては建築との関係において作品の異化効果が強められていると述べている。つまり実体をもった作品であっても展示された場所との関係において別々の作品と見なされる場合さえあるのだ。しかしミニマル・アートを念頭に置く時、このような作品の特性は意外ではない。作品は場の函数として存在し、それゆえ作品のインスタレーションが問題とされるのだ。「再制作/再構築の(不)可能性」と題された第三節においては近年の注目すべき試みとして、このブログでも応接したヴェネツィアにおける「態度がかたちになる時 ベルン/1969年 ヴェネツィア/2013年」(2013)を挙げる。ブログで詳述したとおりこの展覧会はゼーマンの伝説的な展覧会を、会場を含めて完全に再現するという画期的な試みであった。この展覧会を検証しながら池野はアルテ・ポーヴェラの作品が常に同時的時間にしか存在しえないというアポリアを確認するとともにそれを再構築する試みが常にずれを伴うことを指摘する。興味深いことにこのような過去の展示のリテラルな再現は近年次々に試みられている。このブログで扱った展示だけでも2014年、ニューヨーク、ユダヤ美術館における「アザー・プライマリー・ストラクチュア」、そして2015年、東京国立近代美術館における「Re: play 1972/2015」などが挙げられる。再現不可能な作品に対する美術館の対応としては別の手法もある。本書においてニューヨーク近代美術館の館長ウィリアム・ルービンの言葉を引きながら、池野は「作品自体を収集することが不可能である場合、その代替物であるドキュメンテーションを収集する」手法を示す。この点も近年の美術館において注目を浴びている手法であり、奇しくも私は先日の国際美術館における「THE PLAY」に関する展覧会の展示と関連してこの問題を論じた。あるいはやはり近年、美術館において大きな注目を浴びているアーカイヴもこの問題と深く関わっているだろう。この章では最後にジョゼッペ・ペノーネの《流形彫刻の庭園》というプロジェクトに触れて作品と場の関係、作品の同一性の問題が論じられる。

 本書はアルテ・ポーヴェラという運動を扱いながらも、求心的というより遠心的であり、多様な主題を巻き込んでいく点が理解されたことと思う。半世紀前に繰り広げられた、必ずしも輪郭のはっきりしない運動でありながら、そこで提起された問題は「貧しい」どころか、今日においてもアクチュアリティーをもつ。参加型アート、展覧会の再現、アーカイヴとしての芸術、先に私が言及したいくつかのテーマは21世紀に入って鮮明となった主題であり、この運動の先見性を暗示している。アンチフォームやプロセスアートといった対応するアメリカの動向がフォーマリズムへの明確な批判として成立しているのに対して、かかる運動はいかなる出自をもつのであろうか。十分に深められていないが、先に触れた「前衛と古典主義の結合」という発想は一つの手がかりとなるかもしれない。現代美術が美術史学に登録されたことの証明は、そのテーマで博士論文が執筆されることであるという。私たちはようやく半世紀前の美術を美術史学の対象として検証する視座を得つつある。ラウシェンバーグ、具体、そしてアルテ・ポーヴェラ。近年上梓され、このブログでレヴューしたこれらの作家や運動についての優れたモノグラフの数々は現代美術が歴史化される過程を雄弁に語っている。



by gravity97 | 2017-02-17 21:29 | 現代美術 | Comments(0)

三浦英之『五色の虹』

b0138838_15295242.jpg 本書はサブタイトルにあるとおり、日本が中国東北部を満州国として植民地化していた時代、現地に設置された満州建国大学の卒業生たちの人生をたどるドキュメントである。著者の三浦英之は朝日新聞の記者。三浦について、私は本書に先行して別の機会に知っていた。三浦は現在、アフリカ特派員としてヨハネスブルグの支局長を務めているが、以前よりツイッターを通してアフリカの現在を生々しく伝える情報を発信し、最近も現政権の下で日本の自衛隊が配置される南スーダンの苛酷な状況について、タイムリーなレポートを記していたように記憶する。恥ずかしげもなく首相の饗応に応じる御用編集委員がコラムを執筆するこの新聞社にあって、三浦や「メルトダウン」の大鹿靖明ら、きちんとした調査報道ができる若手記者が存在することはせめてもの救いだ。

 歴史の中にはいくつもの闇がある。以前、このブログで取り上げた北朝鮮への帰還事業しかり、中国での大飢饉しかり。あたかもそれがなかったように葬り去られた多くの真実は粘り強い調査を通じてようやく白日のもとに晒される。本書の主題である満州建国大学が闇に埋もれた理由は明らかである。それは満州という日本の植民地、ありえざる場につかのまに花開いたユートピアであったからだ。三浦はかつて新潟支局に赴任していたことを縁として、この大学の卒業生と知り合い、関心を抱いて取材を始める。町田、神戸と関係者を訪ねた後、朝日新聞社の許可を得て、三浦は三週間の取材旅行に出かける。目的地は大連、長春、ウランバートル、ソウル、台北、そしてカザフスタンという広い地域に及ぶ。必ずしも治安や日本との関係がよい地域ばかりではない。三浦によれば、「所属新聞社の推薦状がない限り、中国やモンゴル、カザフスタンなどの国々は取材に必要なビザを発給しない。万が一不正が発覚した場合には海外拠点で勤務する特派員にペナルティーが科せられる恐れがあるため、新聞記者という身分を有して取材にあたる以上、観光ビザで入国するという行為が私にはどうしてもとれなかった」後述するとおり、この取材にあたって検閲に近い妨害を三浦は体験することになるが、この記述は21世紀に入っても世界が厳しい緊張の中にあることを暗示している。実際に先般、社会病質者が下した「大統領令」によって私たちはいまや移動の自由さえ奪われている。この取材旅行に基づいて夕刊に四回にわたる記事が掲載されたとはいえ、2010年にこのような取材旅行が許可されたことに私は新聞社の度量を感じる。それというのも、本書はまさにこの時点に取材がなされたことによって可能になった記録であるからだ。高齢の関係者は次々に他界し、あとがきには取材から本書が刊行するまでに鬼籍に入った登場人物の名前が列挙されている。

 2010年に東京で開かれた建国大学の「最後の同窓会」の模様をプロローグとして、新潟からカザフサタンのアルトマイまで、記者が取材で赴いた地をタイトルとした11の章によって本書は構成されている。比較的短い期間の取材と三週間の海外取材を素材としているから徹底性には欠けるが、スピード感があって読み物としてまとまっている。卒業生を各地に訪ねる内容は一種のオムニバス形式といってよいだろう。卒業生のその後の人生は彼らが生きた国、生きた時期によって実に様々だ。その広がりこそが本書の主題であるといってもよかろう。最初にこの大学について簡単に述べておくならば、満州建国大学とはその名の通り、かつての満州国の首都、長春(新京)に1938年に開学し、敗戦による満州崩壊とともに1945年に消滅した。わずか10年に満たない時期の開設であったが、9期生1,400名の卒業生があったとウィキペディアにある。三浦によればこの大学の在学生は日本政府が傀儡国家満州国の運営を担わせるために日本全土と満州全域から選抜した戦前戦中のスーパーエリートであった。五族共和の実践をめざして開設されたこの大学は日本初の国際大学であり、国内の帝国大学とは異なり、日本人は定員の半分に制限され、残りは中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生に配分されていたという。使用言語についても日本語と中国語のほかに欧米諸言語を含めて自由な選択が許されていたという。さらに当時としてはまことに異例なことにこの大学においては言論の自由が認められていたという。学生の国籍や言語の選択はともかく、言論の自由が保障され、学内では日本政府への批判が公然となされていたという指摘にはその真偽は措くとしても驚かされるが、プロローグで語られる同窓会の席上で、同窓生の一人が様々な国籍の同窓生の名を呼び上げて慟哭するというエピソードに、そのような理想郷が存在しえたかもしれないという思いを強くする。

 先に述べたとおり、三浦は日本、中国、モンゴル、韓国、台湾、カザフスタンという六カ国をめぐって取材を続ける。このことからも満州国という傀儡国家の版図の広がりを理解することができるが、興味深いのはそれぞれの国に散らばった同窓生たちの運命が大きく異なることだ。例えば韓国で取材した姜英勲はかつて韓国で首相を務め金日成と会談まで行った人物である。三浦によれば韓国は終戦時より建国大学の出身者を積極的に登用し、政府や軍、大学や企業内に建国大学の人脈が出来ていたという。あるいは台湾で面会した李水清は台湾を代表する製紙企業のトップを務め、子供たちは全員アメリカの一流大学で博士号を取得している。一方、中国で面会を予定していた二人の卒業生はいずれもなお共産党の監視下にあり、終戦後、長春を包囲した共産党軍の籠城戦、多くの市民が餓死したいわゆる長春包囲戦について三浦が不用意な質問をしたため、その時点で取材がすべてキャンセルされた。モンゴルとカザフスタンに住む卒業生たちも監視こそされていないが、韓国や台湾の卒業生たちと比べるならば、決して恵まれた生活をしている訳ではない。本書は取材旅行というかたちをとるから基本的に彼らの現在に焦点を当てているが、おそらくそこまでに彼らがたどってきた道も一様ではない。本書においてもその一端が明かされているとおり、この大学に在籍した中国人、ロシア人、モンゴル人の学生たちは日本帝国主義への協力者とみなされて迫害を受け、殺された場合もあったという。そしてそのような事実を明かすことさえも現在の彼らに危害を及ぼす可能性があるという。本書には三浦の手によるインタビューイたちのポートレートも掲載されているから、おそらくそのような可能性を注意深く取り除いたうえでの刊行であろうが、戦中のある時期、一つの大学に在籍したという事実が半世紀以上も時を経た人々になおも重い影を投げかけているのだ。

 一方で述べたような状況にも関わらず、卒業生たちがなおも連絡を取り合い、同窓生名簿を作成し、同窓会を開くという事実もまた重い。建国大学は教育内容のみならず全寮制で学費も免除されるという厚遇を保証したから150人の定員に対して日本と満州から2万人の志願者があったという。三浦のいうスーパーエリートという比喩は誇張ではないし、実際に姜英勲のように戦後要職に就いた卒業生もいれば、日本でも国立大学の教授となったインタビューイもいる。彼らのポテンシャルはきわめて高い。建国大学への入学は本来ならば未来を嘱望されるべき出来事であったはずであるが、逆にそれが帝国主義への協力の徴、一種のスティグマとみなされた訳だ。独ソ戦においても祖国のために戦い、捕虜となった兵士たちがスパイの疑いをかけられて拷問や苦役の犠牲となった点を私はこのブログのいくつかの記事で検証したが、戦時においては真摯に生きたがゆえに汚名を着せられるという悲劇が洋の東西で繰り返された。したがってここにおいて同窓会名簿に登載されることは生命にまで及ぶ不利益を被る可能性がある。それにも関わらず、「彼らはたとえ国家間の国交が断絶している期間であっても、特殊なルートを使って連絡先をたどり、運良く連絡先が判明すると、手製の名簿に住所や電話番号を書き足していった」かかる熱意の由来を、私はこの大学が一つの理想を掲げ、少なくとも学生たちがそれを共有していたことに求めたいと思う。以前、このブログで「官展にみる近代美術」についてレヴューした。今読み返してみるならば、長春における「満州国美術展覧会」もまた満州国の瓦解まで8回にわたって開かれていた。出品者の中に白系ロシア人らしき名前が含まれていたことは述べたとおりだ。展覧会の開催期間は建国大学が存在した期間とほぼ同期しており、満州国においては敗戦にいたるおよそ8年間の間、五族共和の名の下に一種のコスモポリタニズムの気風が醸成されていたことを暗示している。もちろんそれは所詮満州国という日本の帝国主義が作り出した擬制の上に開いた徒花であったかもしれない。しかし少なくとも一抹の理想主義が存在したからこそ、卒業生たちは弾圧や迫害を承知のうえで、戦後も団結を続けたのではないだろうか。実際、本書の中では三浦が卒業生の一人に同行してカザフスタンを訪ね、同期生のロシア人の再会に立ち会う場面が一つのクライマックスをかたちづくっている。65年ぶりに再会した二人の老人の交流は胸をうつ。これに先んじてこのうちの一人、85歳の宮野泰が自宅にNHKのロシア語講座の教材を揃えていたというエピソードが示される。三浦の賞賛の言葉に宮野は「これでも建大生の端くれであるから」と返すが、それはコスモポリタンとしての自負ではなかっただろうか。満州については今なおあまりに多くのことが手つかずに残されている。建国大学についても「敗戦時に大学に関する資料の多くを焼却し、戦後、それぞれの祖国へと散った卒業生たちが、後世に記録として残されることをひどく嫌った」と本書中にある。しかし満州とは全否定されるべき対象であろうか。近年、文学と美術の領域でようやくそれらを相対化する試みが始まったことを私はこのブログで何度か論じた。民族も国籍も違えた若者たちが集い、時に宗主国である日本を批判するような談論が風発したという建国大学の気風は、たとえそれが選良主義と植民地性を前提にしていたとしても、世界市民という意識へと通じる可能性を秘めていたのではなかっただろうか。

 今や私たちはかつてない憎悪の奔流の中にいる。憎悪を焚きつける言葉が政治家やメディアの口からひっきりなしに流れ、差別と排除が公言される。なぜ国籍や民族が異なるだけで人は憎しみ合わなければならないのか。「五色の虹」の五つとはいうまでもなく五つの民族、虹とは三浦の現在の赴任地、南アフリカでネルソン・マンデラが他民族国家の調和を比喩した言葉である。現在も日本を含む五つの民族は複雑な関係の中にいる。しかしかつて私たちが満州という地で(スローガンとしての政治性は措くとして)「五族協和」という理念をなんとか実現させることができたとすれば、再び同じ理想のもとに手を携えることができない理由はないはずだ。



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by gravity97 | 2017-02-05 15:34 | ノンフィクション | Comments(0)