優雅な生活が最高の復讐である


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「官展にみる近代美術」

 
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  早いうちに見て、もっと早くレヴューしておくべきであったと悔やまれる展覧会が神戸で開かれていた。福岡、府中、神戸と三つの美術館を巡回した「官展にみる近代美術」である。既に終了しているので事後報告となるが、地味ではあってもきわめて重要な展覧会であったと感じられる。私は官展にも、「植民地の美術」にも全く疎いから、適切な批評ができるか心もとないが、少なくともこの展覧会について何かしらの感想を文字として残す必要を感じる。
 展覧会のタイトルの上に四つの都市の名前が重ねられる。東京、ソウル、台北、長春。東京はともかく、残りの四つの都市は韓国(旧朝鮮)、台湾、満州国という日本によって統治されていた国の首都であり、このうち中国東北部に存在した満州国は今はない。出品リストを参照するならば最も古い作品は1909年、新しい作品は1945年に制作されている。カタログに付された年表の上限は1889年、下限は1947年である。1989年とは大日本帝国憲法が発布され、東京美術学校が開設されたというこの展覧会にとってメルクマールとなる年であるが、下限としては第二次世界大戦終結の2年後が設定されている。あらかじめこのように空間と時間を限定したうえで本展のテーマとして設定されたのはタイトルに示されたとおり、国家によって組織された公募美術展、官展である。舞台が四つあるから、当然ながら官展も四つの名前をもつ。すなわち東京においては「文部省美術展覧会」もしくは「帝国美術院展覧会」であり、それぞれ文展、帝展と略称された。朝鮮では「朝鮮美術展覧会」、台湾では「台湾美術展覧会」そして満州国では「満州国美術展覧会」。それぞれの地域で第一回展が開かれたのはそれぞれ1922年、27年、37年であり、それはこれらの地域が大日本帝国の版図に組み入れられた時期を暗示しているだろう。これらの展覧会名が韻を踏んでいることも当然である。これらの展覧会は日本の植民地政策の一環、一種の宣撫工作として実施されたのだから。これらは1907年に開始された日本の文展をモデルとして組織され、植民地主義が貫徹している。したがって朝鮮と台湾における官展の劈頭に掲げられた文書に現地の美術に関する次のような認識が明記されていたとしても驚くには値しない。すなわち朝鮮に対しては「朝鮮の美術は曾て三国時代より高麗時代に亘りて非常なる発達を為し、次で李朝時代の初期に於ても尚燦然たる光華を放つて居つたのであるが、其の中庸以来漸次陵夷して復た振はず、遂に制度の廃弛時運の衰微に伴い殆むど昔日の観を失ふに至つたのは真に遺憾に勝へぬ次第である」台湾に対しては「領台四十有余年、皇化に潤ふ島民は楽土安業に其の日を送っているのであるが、さてかうなつてはじめて心の余裕も取り戻し、美術に対する関心も持ち始めるようになつた。そして目覚めた眼をあげて島内の美術界を眺め渡しときに、そこには非芸術的な建物と服飾、幼稚な色彩に色どられた寺廟の装飾を得ただけであって、美術的には全く荒廃しきった姿の外何物もなかつたのである」偏見に満ちた、書き写すだけで気分が悪くなるような文章であるが、宗主国が植民地を教化し、善導するという発想は日本に限らず当時の欧米列強と同一であり、もちろんだからといって免罪されるはずもない。さらに官展という発想自体が本質において美術の国家統制であり、民主的な運営からはほど遠いものであることは、文展設立当初からの審査制度をめぐる紛糾、展覧会の改組をめぐる混乱からも明白であり、昨今の日展の審査をめぐる数々の疑惑を想起するならば、同じ体質が今日まで持ち越されていることもまた明らかではある。今回のカタログは資料的価値が高く、各展覧会に関する貴重な情報が掲載されているが、それによればこれら外地における展覧会の審査にあたっては審査員として日本画であれば結城素明から山口蓬春、洋画であれば藤島武二から梅原龍三郎にいたる錚々たる面々が現地に赴いている。これらの資料を繙いても実際の審査がどのように進められたか、とりわけどの程度現地の関係者が加わったかについては判然としないが、例えば朝鮮美術展においては日本人受賞者の賞状からは朝鮮人審査員の名が削除され、日本人審査員への謝金は現地の審査員への謝金の10倍近かったといった記述からも、おそらく審査自体が植民地主義を濃厚に反映させ、当落や入賞者の決定に関しては日本人審査員が決定的に与っていたと考えてほぼ間違いないだろう。作品ジャンルの変遷やジャンルごとの作品数、あるいは各地に伝えられてきた絵画と「日本画」の関係など、詳しく検討してみたい問題は多いのだが、残念ながら私の能力を超えている。ここでは私が関心を抱いた点についていくつかの所感を記すに留める。
 この展覧会の地味な印象は、出品された作品がいずれもよく似ている点に帰せられるかもしれない。出品作品はジャンルとしては大半が東洋画と西洋画に分類されるが、後者がいわゆる洋画として西欧に由来し、東アジアのいずれの国にとっても外来の表現であったのに対して、東洋画という概念は日本画も内包しつつ、朝鮮や台湾固有の絵画も包摂することが可能な便利な概念といえよう。実際には朝鮮美術展覧会には「書・四君子」と呼ばれる独特のジャンルが一定期間存在していたことが検証されている。もしそれぞれの地域に「日本画」に対応する固有の表現が存在したとすれば、それらの表現が官展という制度といかなる摩擦を引き起こしたかという点に私は興味を覚える。もっとも実際にはかかる抵抗はさほどなかったかもしれない。なぜならば第一に日本も含めて東アジアの美術は中国の圧倒的な影響を受けてきたから、「日本画」が特に独自性をもつということはなかっただろう。逆にこのような親近性が官展という制度を植民地に導入するうえで助けとなったと考えらるかもしれない。第二に先に述べたとおり、このような官展の実施が宗主国による宣撫工作の一環であるならば、必ずしも強権的な文化支配が目指される必要はなかったからだ。実際に収録された論文によれば、例えば朝鮮において総督府が朝鮮美術展の審査員を決定するにあたっては現地画壇の意向が重視され、この結果、内地の官展では諸団体の確執が続いていたにもかかわらず、「鮮展では内容的にも内地の展覧会より多様性をおびていて、なによりもうれしいことである」という伊原宇三郎の物言いは興味深い。まさに「五族協和」という展覧会の理想を逆説的に暗示しているかもしれない。それにしても「植民地の美術」が提起する問題の射程は実に深い。例えば近年いくつかの展覧会で検証されつつあるとはいえ、大陸ではなく南方諸島と美術の関係はどうか。近年、文学の領域では何人かのキーパーソンをめぐってこの問題が深められつつある。あるいはかつてこのブログでもレヴューした維新派にみられる南太平洋への志向など、大日本帝国の版図の表象は今日にいたるまで多くの作家の想像力を刺激してきた。ずいぶん以前に読んだため小熊英二であったか李孝徳であったか判然としないが、昭和初期の国家の表象という問題に触れた論文の中で、私は当時の日本に時差があったという指摘に驚愕したことを覚えている。あるいは当時の時刻表を参照するならば、今日のトーマスクックのごとく、国内と大陸が鉄路によって結ばれている状況は一目瞭然である。かかる空間的拡張が当時の人々の美的感性に決定的な影響を与えたことに疑いの余地はない。
 少し話がずれた。展覧会に戻ろう。展示された作品の穏健さ、同質性は出品作家の多くが日本で美術教育を受けたことにも起因しているだろう。宗主国が高等教育をとおして植民地の文化に決定的な影響を与えることは驚くに値しない。実際に大陸の官展に出品された作品のいくつかは日本の文展や帝展に並んでいたとしても異和感がない。多くの作品が一種のエキゾチシズムを漂わせていたとしても、それは扱われた主題による。朝鮮であればチマ・チョゴリや祭礼、台湾であれば熱帯的な樹木や草花の繁茂。しかしこの展覧会を見るならば、これらのモティーフは当時の日本の画家たちにも好まれ、実際に山口蓬春や和田三造(いずれも大陸の官展で審査員を務めた作家だ)らによって日本でも作品の主題とされていたことが明らかとなる。現地の画家が描いた大陸の風景と日本の画家が描いたそれに積極的な差異を見出すことは難しい。日本の画家が描いた大陸、かかる主題系列から直ちに連想されるのが戦争記録画であることはいうまでもない。ここで戦争画の問題にまで踏み込むことは問題をあまりに広げてしまうが、同じ大陸の風景を記録した日本人による絵画として朝鮮美術展覧会や満州国美術展覧会に出品されていた作品と、いわゆる戦争記録画がいかなる補完関係にあったかという問題は今後深く掘り下げられるべきであろう。おそらくそれは平時と戦時の対立のみに還元されることはない。構図や技法、人物と観者の関係なども含めて多角的な分析が可能ではないだろうか。
 四つの官展に出品された作品に積極的な差異を見出しにくいことは今述べたとおりであるが、作品の数としては圧倒的な不均衡がある。東京、ソウル、台北の作品はほぼ同数が出品されているのに対し、長春の作品はきわめて少ない。巻末の資料によれば展覧会の開催数自体が、文展帝展は30余回、朝鮮美術展覧会は23回、台湾美術展覧会が16回を数えるのに対して満州国美術展覧会は8回、しかも最後の回は設営直後にソ連軍が新京に侵攻したため公開されなかったという。そして満州国という国家自体も混乱の中に消滅してしまったため、美術館や大学といった作品を庇護すべき機関も存在せず、さらに日本人の引き揚げに際しては書画類の持ち出しが禁止されたため、多くの絵画が現地に遺棄されたという。これらの作品の命運は満州国という虚構の国家を象徴しているようではないか。このため今回の展覧会では記録写真によって展示の模様が紹介され、逆に写真図版を通して、この展覧会に出品された作品が同定されて国内の美術館から追加出品された例もあったと聞く。満州国美術展覧会のセクションに出品された作品は少ないが、何点かの洋画にきわめて独自のモティーフが導入されている。それは地平線である。例えば劉榮楓という画家の二点の洋画はいずれも画面が地平線で二分され、落日と虹が描き込まれている。いうまでもなく地平線は広大な大陸において初めて一望可能なヴィジョンであり、ほかの地域の絵画には認められない。ただしほぼ同じ時期に地平線というモティーフがこの時期、広くに日本に導入されつつあったことは2003年に東京国立近代美術館で開かれた「地平線の夢」という展覧会で綿密に検証されたとおりだ。この展覧会を企画した大谷省吾はこのような構図の由来をダリの影響、古代ギリシャ・ローマへの憧憬、そして大陸の風景に求めている。今述べたとおり実景としての地平線は内地では得ることの困難なヴィジョンであり、その起源をダリやイヴ・タンギー、デ・キリコといったシュルレアリスムに求めることは決して強引ではないだろう。この時、当然ながら日本の官展からは排除されていたシュルレアリスム的な構図が長春の官展では広く受容されていた可能性が浮かび上がる。さらにいえば同じ時代に地平線や水平線を伴った構図が多用されたもう一つのジャンルは戦争記録画である。戦況を俯瞰するうえでは深い奥行をともなったプラトー構造が適切であったのだ。なおも論を敷衍するならば、戦争記録画には今述べた構造が顕著な、例えば鶴田吾郎の《神兵パレンバンに降下す》のごとき作例とともに藤田嗣治の一連の絵画に顕著な、蝟集する兵士たちが垂直の壁をかたちづくるオールオーバーで平面的な作例も数多い。このような対照、つまり戦争記録画の形式的分析にはなお多く研究の余地がある。
 この展覧会から浮かび上がる問題は際限がない。最後にもう一点だけ、私が関心を抱く主題を記して筆を擱くことにしよう。それは官展とモダニズムの関係である。今、シュルレアリスムとの関係について触れたが、基本的にアカデミズムとして成立する官展とモダニズムの関係は微妙である。日本国内における両者の関係についてはいくつかの先行研究や展覧会が存在するが、大陸という函数を得て、新しい視野が広がる。残念ながらこの展覧会でこの問題は十分に検証されていない。それは満州国美術展覧会のセクションの相対的な貧弱さと関係しているだろう。私の考えではソウル、台北が東アジアの一端としてヨーロッパに対して同じようなポジションを占めるのに対して、「出品者名簿には日本人や中国人だけでなく白系ロシア人と思われる名前が混じっていた」満州国にはコスモポリタニズムの萌芽が認められる。長春ではないが、例えば同じ満州国の大連において1924年から27年にかけて安西冬衛らは日本のモダニズム詩の先駆的な存在となる詩誌『亞』を発行し、尾形亀之助も参加している。当時の大連が国際都市であったことについては多くの証言が残されており、この地域が東アジアにあって早くからヨーロッパのモダニズムを受容していたことが理解される。もし満州国美術展覧会の作品が多く残されていたら、この問題にも多くの知見がもたらされたと考えられるのだ。カタログの裏表紙にこの展覧会のタイトルの英訳が記されている。Toward the Modernity : Images of Self & Others in East Asian Art Competition まことに含蓄のあるタイトルではないか。
by gravity97 | 2014-07-27 10:35 | 展覧会 | Comments(0)

ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(再掲)

 現在のガザをめぐる情勢に鑑み、2010年8月に掲出したレヴューを再掲する。

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 テーバイの王権をめぐる争いの後、敗れたポリュネイケスの遺体は弔いを禁じられ、反逆者として野晒しにされる。遺体が放置されることに耐えられぬポリュネイケスの妹、アンティゴネは自らの死を覚悟して兄の亡骸を埋葬しようとする。よく知られたギリシャ悲劇、ソフォクレスの『アンティゴネ』のエピソードである。この物語が暗示するとおり、人間の死体を遺棄することは人倫への重大な侵害であり、人間の尊厳と関わっている。しかしこのような人間性への侵犯は絶えることがない。つい先日も大阪で私たちはなんとも胸のつまるような事例を知ったばかりである。
 1982年、ベイルート。長く続いた内戦はアメリカの調停でようやく終結し、パレスチナ解放戦線(PLO)の戦闘員たちは、シリアやヨルダンへの果てることなき転進に旅立っていった。監視にあたっていたアメリカ軍、多国籍軍も撤退する。停戦の合意内容の中にいわば丸腰で残されたパレスチナ民間人の保護という条項が含まれていたことはいうまでもない。しかし9月14日、一月ほど前に選出されたレバノンの新大統領、キリスト教マロン派指導者バシール・ジュマイエルが爆殺されるとイスラエル軍は協定を破り、西ベイルートに進駐し、パレスチナ・キャンプを包囲する。なるほどイスラエル軍が直接に手を下した訳ではない。しかし彼らの傍らでテロリスト掃討の名目でキャンプ内に侵入したキリスト教右派の民兵は三日三晩にわたって殺戮を繰り広げ、イスラエル軍が打ち上げる照明弾の煌々とした明かりは夜間もキャンプを照らし出していた。これらの事実は虐殺がイスラエルの暗黙の承認のもとで遂行されたことを暗示している。数千人の民間人が虐殺されたと推定されるキャンプの名前はサブラ・シャティーラ。
 虐殺の現場にいちはやく入った人々の中には日本人ジャーナリスト広河隆一氏がいた。さらに一人のヨーロッパ人によってこの事件は直ちに文学的に総括されることとなった。出生後、母親によって養護施設に遺棄され、窃盗を繰り返し、獄中で執筆した小説や詩がコクトーやサルトルに認められて恩赦を与えられた特異なフランス人作家、ジャン・ジュネの手による『シャティーラの四時間』、すなわち本書である。
 『パレスチナ研究誌』に招待されていたジュネはこの虐殺の直前、正確には9月12日、パレスチナ人女性活動家ライラ・シャヒードとともにダマスカスを経てベイルートに入る。その翌々日、ジュマイエルが暗殺される。虐殺は16日に始まり、18日まで続く。ジュネはキャンプに入ろうとするが、全ての入口がイスラエルの戦車によって封鎖されていた。虐殺が終了した翌日、19日にイスラエル軍は撤退し、キャンプはレバノン軍に引き渡される。本書はその日の昼前後、シャティーラでのジュネの4時間の見聞に基づいている。路上には無数の死体が放置され、「年寄りには親しみやすい」死臭が町を覆う。遺体に引き寄せられたおびただしい蝿の群れがジュネにもたかる。「蠅も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。一つの死体から他の死体に移るには死体を飛び越えてゆくほかはないが、このことも写真は語らない」炎天下、無数の死体が遺棄された場所を彷徨するという体験は私には想像がつかない。しかもジュネの見た限り、全員の死体にはここに記すことをためらわれるほどの残忍な拷問が加えられた形跡があり、目撃者の証言によれば兵士たちは「面白半分に」犠牲者たちに蛮行を加えたという。ジュネは次のように述べる。「多分私は一人きりだった。つまりただ一人のヨーロッパ人だった。それにしてもこの5、6人の人間(同行したフェダイーンやパレスチナの老女たち)がもしそこにいなかったら、しかもこの打ちのめされた町を、水平の、黒くふくれたパレスチナ人を発見してしまったとしたら、私は気が狂っていただろう。それとももう狂っていたのだろうか。この目で見た、あるいはすっかりそう思い込んだ粉々になって地に倒れ伏したあの町、強力な死の臭気が走りぬけ、持ち上げ、運んでいたあの町、あれは皆現実の出来事だったろうか」
 このような極限の中でジュネは思考する。「愛(アムール)と死(モール)。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはや何も隠そうとしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある」ジュネにとってシャティーラの体験は愛と死を重ね合わせることの発見であった。さらにいえばジュネの場合、愛とは明らかに同性愛の含意をもつ。ジュネのパレスチナへの支持が多分にフェダイーン(戦士たち)への同性愛的な共感に基づいていることもこの短いテクストを一読すると直ちに了解できる。訳者の鵜飼哲は本書に収録された興味深い論考の中で、ジュネがジャコメッティについて論じた文章を手がかりに、ジュネにとって芸術作品が死者に手向けられたものではないかと論じ、ジュネにおける死体と芸術作品の接近を語る。凄惨な虐殺について論じたこのテクストが単なる告発や糾弾の文書に終わることなく、読むに足る一つの作品へと昇華しているのはこのような発見や洞察による。このルポルタージュの特質は、蛮行がまさに行われた直後の現場で、安易な糾弾や問責の言葉を書きつけるのではなく、自らの体験を死をめぐる一つの思索へと深めている点に求められるだろう。私は例えばヒロシマの、あるいは光州の惨劇を一個の芸術に昇華させたいくつかの作例を思い浮かべることができる。それらは多く韻文でなされている。これほど残酷な現実に直面し、ルポルタージュというかたちをとりつつ、個人の死、いや、はっきりと言おう、放置された無数の無残な死体、無数の蠅と死臭を死そのものへの思考へと深め、遍在する死から唯一の死を観想するジュネの態度に私は強い感銘を受けた。
 「シャティーラの四時間」は1983年1月1日に発行された『パレスチナ研究誌』6号に発表された。本書にはこのほかにジュネ(とライラ・シャヒード)がオーストリア・ラジオの記者のインタビューに答えるかたちで「シャティーラの四時間」が執筆された経緯について語った「ジャン・ジュネとの対話」、さらに書下ろしではないがここで扱われた問題と深く関わる鵜飼哲の「〈ユートピア〉としてのパレスチナ―ジャン・ジュネとアラブ世界の革命」と題された論文、さらに最後にいわば本書全体の総括として置かれた「生きているテクスト―表現・論争・出来事」という鵜飼の論文が収められている。「シャティーラの四時間」と「ジャン・ジュネとの対話」は既に翻訳が存在したが、いずれも今日では入手することが困難な雑誌に発表されており、本書の刊行は喜ばしい。ここに収められた4篇のテクストは相互に乱反射するかのようにジュネの思考の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。そしてイスラエルが虐殺への加担を否認している以上、このテクストは政治的な意味を負わざるをえない。鵜飼が巻末のテクストで詳しく報告しているように、とりわけ「9・11」以後フランスでも高まる反イスラム感情を背景に、何人かの論者がジュネを反ユダヤ主義者として批判している。先ほど述べたとおり、ジュネは同性愛者で犯罪者であったため、このキャンペーンはユダヤ人問題、ジェンダー、さらにはフーコー的な犯罪/処罰の問題を包摂した多様な議論へと道を開くこととなった。鵜飼はパリの社会科学高等研究院のジャック・デリダのゼミで鵜飼自身が本書について発表を行った際、ジュネを反シオニズムとして批判する論者の一人が来場し、デリダに対して質問を投げかけた緊迫したやり取りを書き留めている。ジュネはこの後、やはりパレスチナへの深いシンパシーを表明した遺作『恋する虜』を著し、刊行される直前、1986年に没した。そしてインティファーダ以後のパレスチナ解放運動が深い混迷の中にあり、シャティーラの虐殺が時と場所を変えつつも現在にいたるまで繰り返されていることは知られているとおりである。
 なお『シャティーラの四時間』は1992年、虐殺から10年後にアラン・ミリアンティによって同名の舞台として上演された。ジュネが多くの戯曲を執筆したことを考えるならば驚くには値しないが、この上演は大きな反響を呼び、同年に『シャティーラのジュネ』という論集が刊行される契機となった。舞台『シャティーラの四時間』および関連するジュネの戯曲の上演は日本でも複数の演出家や劇団によって試みられており、『舞台芸術』誌11号でこれに関連したジュネの小特集が組まれている。
by gravity97 | 2014-07-13 11:12 | 思想・社会 | Comments(0)

奥泉光『東京自叙伝』

b0138838_2135565.jpg 先日、レヴューしたポール・オースターもその例であるが、数年にわたってこのブログを続けているとどうしても好みの作家、何度も取り上げる作家が出てくる。オースター同様、奥泉光も新刊を中心に取り上げること、これで三回目となった。本書も奥泉らしい奇想と巧妙な語りが一体となった秀作である。
 「私の記憶と云うのは大変に古くまで遡るのですが、その大半は切れ切れの断片にすぎず、だから纏った人生の記憶の始まりと云う事になると、弘化二年、西暦で云えば一八四五年、この年の正月二十四日、青山権田原三筋町から火が出て、一帯を焼いた火事がありました。これが最初の記憶だ」人を食ったような一文から本書は始まる。全六章から成る本書の第一章は「柿崎幸緒」という人名らしきタイトルが付され、ほかの章も人の名を冠しているから、おそらく柿崎とはこの章の語り手と推察される。そして実際に章ごとに語り手は変わるが、通常の小説における視点の交代とは様相を違える。火事とともに記憶を語り始めた柿崎はまもなく安政の大地震に遭遇し、次のような感慨を得る。「一個の確信が私に出し抜けに押し寄せた。即ち、私が地震に遭うのは今回が初めてではないとの確信だ」火事と地震の記憶が繰り返し刻印された語り手、本書のタイトルを参照するならば、それが何の暗喩であるかは明白だ。本書の語り手は東京という土地のゲニウス・ロキ(地霊)なのである。そして読み進めば明らかとなるとおり、この語り手はしばしば人以外のかたちをとる。ミミズやカゲロウといったエフェメラルな生き物、そしてとりわけ好むのは鼠である。奥泉の小説、例えば『神器 軍艦「橿原」殺人事件』の読者であれば、奥泉の小説の中で鼠に与えられた特権的な位置に馴染んでいるから、さほど驚くこともないだろう。火事や空襲、襲撃などで語り手が危機に陥るや何処からともなく大量の鼠が発生し、語り手を導く。この小説における語り手は、江戸末期に武士の養子となる孤児「柿崎幸緒」から東日本大震災発生時の福島第一原子力発電所の作業員「郷原聖士」まで6人の人物に、小説中で用いられる言葉を使えば「凝集」、私の好む言葉では焦点化しつつ、一世紀半にわたる東京の変貌を語る。レオボルド・ブルームのダブリン、フランツ・ビーバーコップのベルリン、私たちは一つの都市を文学によって表象するいくつかの先例を思い浮かべることができる。それらの小説においては主人公たちの彷徨を介して、都市が空間的に立ち現れるのに対して、本書の特異さは複数の語り手を得て、空間のみならず時間的にも都市像が形成されていく点であろう。東京の地霊という本書のテーマからは荒俣宏の『帝都物語』が直ちに連想される。実際に明治から現代へといたる時間的な広がり、実在の人物を点在させる手法、平将門や震災といったモティーフは両者に共通している。しかし荒俣の小説がウェルメイドな伝奇小説であって、あくまでも伝統的な小説の結構を保っているのに対し、奥泉は小説の形式にも様々の企みをこらす。例えば各章を無数のパートに分割し、それぞれの冒頭に短いレジュメを書きつける手法だ。章の冒頭にその章の梗概を記す手法はさほど珍しくない。例えば今挙げたアルフレート・デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』がその例だ。しかし章の梗概は通常であれば冒頭に書き込まれるのに対して、本書では梗概というより短いキーワードが太い活字とともにきわめて頻繁に地の文章に介入する。キーワードと本文を併置する書式から私が連想したのは小説ではなく歴史の教科書である。b0138838_21354597.jpg縦書きと横書きの差異こそあるが、私が昔学んだ歴史の教科書はその時代のトピックを太ゴシックで短く示したうえで詳細を地の文で解説するという形式がとられていた。両者の相似は本書が一種の歴史記述であることを念頭に置くならば不思議はないが、この部分がなくてもテクストをつなぐことは可能であるから、このような表記はある意図のもとになされている。つまり読者は、次の章の成り行きをあらかじめ目にしたうえで物語を読み進めるのだ。説話論的に述べるならば、本書は先説法の集積によって形成されている。かかる時制は興味深い。ここでは未来を予告しつつ現在が記述される。このような手法がはらむ意味については後で論じるとして、読者の意識を中断する仕掛けは無数のキーワード表記だけではない。この小説は主に口語調の敬体で語られるが、時折奇妙な表記に出会う。ソンナ、コンナ、スッカリ、マアといった副詞や連体詞がなぜか片仮名で表記されるのだ。「この頃はソンナ酒好きでもなかったがマア付き合った」といった調子だ。読み進むうちに慣れてくるとはいえ、このような表記はかなり異様である。レジュメとぎくしゃくした片仮名表記によって物語はたえず中断され、私たちは読書に集中することができない。このような揺らぎは語り手にも共有されている。先にも述べたとおり、本書は主として6人の語り手によって順番に語られるが、それぞれの語り手は必ずしも自らの位置を把握していない。一例を挙げるならば第二章の「榊春彦」に焦点化する前、つまり第二章の最初の部分で「私」は猫、カゲロウ、浅蜊、そして鼠へと次々に焦点化し、しかもそれらの記憶は曖昧である。関東大震災の到来を機に「私」は榊春彦として語りを始めるが、その後も榊の意識の中には様々な生き物の記憶が混在する。語り手の意識のぶれ、一貫した意識の流れをたえず阻害する夾雑物は、小説の形式を介しても暗示され、読み手にも経験されるのである。
 いつもながら形式に拘泥してしまった。内容に戻ろう。先に述べたとおり、本書では江戸末期から現代にいたるまで六人の話者がまるでリレーをするかのように、東京という土地をめぐる物語を語る。「柿崎幸緒」は江戸から明治、幕府の武士から新政府の官員へと変わり身の早い男だ。「榊春彦」は軍隊との関係が強い。陸軍幼年学校から士官学校、陸軍のエリートコースを歩み、英国留学から関東軍、ノモンハン事件に立会い、敗戦にいたるまでの日本陸軍の栄光と転落を体現している。第三章の「曽根大吾」は戦後の裏面史であろうか。曽根は東京大空襲のあたりから記憶を獲得し、闇市で頭角を現し、ヤクザたちとの闘争を繰り返して勢力を拡大し、ヒロポンから取り込み詐欺、不動産売買に手を広げ、裏の世界の顔役となるが、最後は軍の隠匿物資をめぐる暗闘に引き込まれ、車ごと焼き殺される。第四章の「友成光宏」は混乱から繁栄への戦後史の分身だ。京都大学を卒業して商社に勤務し、サンフランシスコ講和条約絡みのアジア賠償、労働争議といった騒然たる世情を背景に勢力を拡大し、保守党政権と密接な関係を築く。一方で皇太子成婚、浅沼委員長刺殺から東京オリンピック、さらにはビートルズ来日といった戦後日本のメルクマールとなった事件とも関わっていたことを自慢する。友成に関してもう一つ特筆すべきは、テレビ放送と原子力発電の日本への浸透を画策した点である。物語の中で友成は「読買新聞」の正刀杉次郎、いうまでもなく読売の正力松太郎とともに戦後日本の核アレルギーを払拭すべく策動するのであるが、実は友成は長崎で被爆も体験している。安保闘争あたりで語り手は友成から離脱し、第五章の「戸部みどり」で初めて女性の視点をとる。時代は昭和から平成へ、バブルの狂熱が東京を包む。八百屋お七の生まれ変わりでもあり、放火現場で自分に覚醒した戸部は都立大学の法学部を卒業し、法律事務所に勤務する一方で、夜な夜な都心のディスコに足を運んではバブルに沸き立つ東京を満喫する。戸部は地下鉄サリン事件や山一證券廃業といった事件にも関わり、彼女自身がバブルの絶頂から崩壊へという時代の病理を正確に再現するかのごとき転落を続ける。最後に登場する「郷原聖士」は先にも述べたとおり、東日本大震災の際に福島第一原子力発電所で自らに覚醒する。この章は比較的短く、原発事故の顛末の後、派遣労働、ネットカフェ、通り魔事件といった比較的最近の出来事が郷原を通して語られる。
 今、ごく簡単に要約したが、このような内容を知ったとしても本書を読む楽しみが損なわれることはない。六人の人物の物語は相互に複雑に入り組み、このあたりはいつもながら奥泉の語りの真骨頂といってよいだろう。そして東京をめぐるおよそ一世紀半の物語も虚実入り乱れたまま物語の中に嵌入し、現実と創作の境界は不明確となっていく。本書の語りの独自性は複数の話者にあるが、興味深いことにこれらの話者は必ずしも相互に排他的ではない。それが典型的に示されるのは第三章の最後の場面だ。曽根は軍の隠匿物資の隠し場所を知るために、ある男を脅してほしいと依頼される。その男とは榊春彦、いうまでもなく第二章の語り手である。友成は自分に会って自分を脅すことを求められるのだ。まことにフィリップ・K・ディックの「スキャナー・ダークリー」的な状況というべきであろう。「榊晴彦はかつて私だった人間にすぎない。いまは全然私ではない。したがって榊は赤の他人である。とコウ箱根へ来る道すがら、私は自分に言い聞かせてきたのですが、実際会ってどうだったかと云えば、これがヤッパリどうにも薄気味悪い」しかしかかる説話論的矛盾を奥泉はあっさりと解決する。つまり語り手が同時に存在する場合は章のタイトルを与えられた話者が優位に立つのである。第三章の終わりで曽根は榊を撃ち殺すが、同時に乗っていた車が炎上する。それを目撃していたのが第四章の語り手、友成であるから、この場面では殺す私と殺される私、そしてそれを目撃する私、三人の「私」が共存している訳だ。動物から人間までさまざまのかたちをとる「私」というトリックがこのような状況を可能にしている。ちなみにかつて「私」であった者の固有名を羅列してみよう。ビートルズ来日時のジョン・レノン、三億円事件の実行犯、三島由紀夫、数々の通り魔事件の犯人。ほとんど錯乱的な内容であるが、実は物語の初めでは一人の人物の中に比較的固く「凝集」ないし焦点化されていた「私」は物語の進行につれて、つまり時代が下るにつれて拡散し遍在することとなる、戸部みどりに至っては超満員のディスコに蝟集する若者たちが全て「私」であるという「原生動物的快楽」を味わいさえするのである。とめどなく増殖、拡散する「私」というテーマは星野智幸の「俺俺」を連想させないでもない。
 さて、交代する語り手というテーマは文学史において一つの主題系列をかたちづくる。それは転生という主題だ。私はこの系譜を形成するいくつかの作品を連想する。例えば三島由紀夫の「豊饒の海」五部作であり、なによりも中上健次の「千年の愉楽」である。中上の小説においては紀州の「路地」を舞台に高貴で不吉な血の宿命で結ばれた若者たちが、淫蕩と悪行の果てに次々に夭逝していく様が描かれ、彼らの短い生涯を見届けるのがオリュウノオバと呼ばれる産婆である。(このような構造が「百年の孤独」の登場人物とウルスラの関係と相似であることはいうまでもない)この時、興味深い問題が浮かび上がる。つまり転生という主題はしばしば反復という問題と結びつくのだ。「千年の愉楽」では半蔵、文彦、オリエントの康といった別々の名前をもつ美貌の青年たちが憑かれたかのように無残な死を繰り返す。この傑作を読み終えた時、私たちはこの反復が実に豊穣であることを知る。中上の死後、熊野大学にも出講した経験のある奥泉が本書を執筆するにあたってこの小説を意識しなかったと考えることは難しい。本稿を書き進めるにあたって「千年の愉楽」をぱらぱらと参照した私は「ラプラタ綺譚」の冒頭に書きつけられた次のテクストに引き寄せられた。

 オリュウノオバは或る時こうも考えた。自分の一等好きな時季は春よりも生きとし生ける物、力のありったけを出して開ききり伸び切った夏、その夏よりも物の限度を知り、衰えが音もなしに量を増し幾つもの管が目づまりし色あせ、緑色なら銀色に、紅い花なら鉄色に変わりはじめる秋、その秋よりも枯れ切った冬、その冬よりも芽ぶく春。オリュウノオバは時季ごとに裏山で鳴く鳥の声に耳を澄まし、自分が単に一人のオリュウではなく、無限に無数に移り変る時季そのものだと思っていた

 引用の最後の部分など「東京自叙伝」を予示するかのようではないか。さらにこのパッセージは奥泉の小説の本質と関わる重大な問題を提起している。前段で言及されるのはいうまでもなく四季の循環である。「東京自叙伝」が歴史、つまり時間を主題としていることは明らかだ。ところで古代ギリシャ人は時間をクロノスの時間とカイロスの時間に区別していた。クロノスが線的に流れる時間であるのに対して、カイロスとは循環する時間であり、端的な例は四季である。中上の引用は「千年の愉楽」における時間がクロノスではなくカイロスのそれ、回帰し、循環する時間であることを暗示している。ひるがえって「東京自叙伝」の場合はどうか。確かにここで語られるのは1845年から2011年まで一世紀半にわたるクロノスの時間、帝都東京のクロニクルである。しかし実はそれは本質においてカイロスの時間、反復される時間ではなかったか。かかる反復を保証する出来事は何か。いうまでもなく震災と火事だ。原子力災害を一種の火災と考えるならば、私たちはこの土地でこれらの二つの災いが幾度となく反復され、2011年3月には凶々しく同期さえしたことを知っている。壊滅の予感。その日以来、私も仕事で東京に行くたびに語り手たちと同様に興奮と緊張を味わう。なぜなら今や、いつ次の大震災が襲うかもしれず、一方で日々放射能によって汚染されているこの都市はもはや一種の死相を呈しているからだ。その一方、このメトロポリスは6年後のオリンピックに向けて、日本中の富を収奪して異様な虚飾をまといつつもある。確かに今日、かくもエキセントリックな都市は世界でもほかに例がないだろう。未来を予告しながら現在を記述する本書の叙述は、東京という都市の繁栄が常に壊滅を前提に築かれていることを暗示しているかのようだ。「マアどちらにせよ、近い将来、東京は壊滅してしまうのだから―と申しますか、すでに壊滅しつつあるわけですから、あれこれ考えても仕方がありません」本書は富士山爆発の幻視とともに幕を閉じる。しかしこのような壊滅もまた東京の転生の一つの相に過ぎないと考えるならば、本書はこの異例の都市にふさわしいまことに特異な「自叙伝」といえよう。
by gravity97 | 2014-07-10 21:37 | 日本文学 | Comments(0)