Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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by gravity97 | 2010-03-21 08:43 | MY FAVORITE | Comments(0)

佐々木敦『ニッポンの思想』

 佐々木敦に関してこれまで読んだ本といえば『テクノイズ・マテリアリズム』と『(H)EAR』しかなかったので、てっきりノイズ/音響系が専門と思っていた。文芸評も著していることは知っていたが、現代思想を正面から扱った新書を刊行したことにやや驚く。下に示したイメージを撮影するにあたってはさすがに外したが、カバーに「この一冊で、思想と批評がわかる入門書」というなんとも軽薄な惹句がタイトルより大きく印刷されていて、手に取る前からげんなりだ。読み終えても結局はこの惹句以上の内容ではないようにも感じるが、まともな類書がほとんど存在しないこともあり、ひとまずこのブログで応接する。
 最初に佐々木も記すとおり、思想や哲学の専門家でないという立場が、逆に単純化や図式化を恐れずに1980年代以降の「ニッポンの思想」を論じることに奏功したのではなかろうか。単純化と図式化が本書の最大の特徴といってよい。80年代以降の「ニッポンの思想」を佐々木はわずか8人の「思想家」、佐々木の言葉使いによれば「プレイヤー」の活動によって総括する。すなわち「ニューアカ」(ジャーナリズム好みのなんとも軽薄な言葉だ)を代表する浅田彰と中沢新一、この二人よりかなり年長であるが、「ニューアカ」の名バイ・プレイヤーと佐々木がみなす蓮實重彦と柄谷行人、90年代のニッポンの思想を代表する福田和也、大塚英志、宮台真司。そしてゼロ年代における最後かつ最強のプレイヤーたる東浩紀である。私はこのうち宮台真司以外の「プレイヤー」が80年代後半以降に発表した著述についてはそれなりに親しんできたつもりだ。福田、大塚、宮台が最初の四人と同等の品格をもった「プレイヤー」であるか、さらに東が「ゼロ年代」に一人勝ちをしていると断じうるほどユニークな「プレイヤー」であるかについて私としては大いに疑問があるが、今は措く。多様な現代思想の論客をわずか8人に絞り込んで、比較的単純な、あえていえば弁証法的な図式の中に解き明かす議論は確かに一つの卓見といえよう。構成は基本的に時間軸に沿っており、1983年、浅田の『構造と力』のブームに始まり、『批評空間』から出発しながらも浅田、柄谷と袂を分かった東と浅田が2009年のシンポジウムで同席したというエピソードで締めくくられている。先ほど惹句以上の内容ではないと述べたが、逆にいえばこの30年ほどの日本の「現代思想」の入門、見取り図としてはよくできており、日本の社会状況や海外の現代思想の隆替にもよく目配りされている。論じられる内容は、個人的にも私がいわゆる現代思想に親しむようになった時期とほぼ同期しており、私の体験に照らしても思想の推移、変貌が行間から浮かび上がる。例えば中村雄二郎、山口昌男といった「ニューアカ」以前の思想家から最近の東やさらに若い世代への顔触れの推移は、最先端の知がもはや大学というアカデミズム内には収まっていないことを暗示しているだろうし、論文が発表される媒体が『現代思想』や『批評空間』といった専門誌から論壇誌に変わってきたという指摘も、広い意味で現代思想の大衆化を暗示しているかもしれない。あるいは章のタイトルにもなっている「悪い場所」という概念はかつて美術批評家椹木野衣によって『日本・現代・美術』の中で提起された。戦後の日本美術を検証するにあたって提起された作業仮説が、オウム事件以後の日本を論じる際にもキーワードとして使用可能である点は興味深い。検討したい問題は多岐にわたるが、いずれもこの短いブログで論じるには大きすぎる。ここでは本書のエッセンスとも呼ぶべき図式について所感を述べるに留める。
 佐々木は最後の章で、80年代以降のニッポンの思想を80年代、90年代そしてゼロ年代と10年ごとに区切ったうえで次のように総括する。80年代の思想は現状(現実と言い換えてもよかろう)に対して、批判的、否定的であり、世界の変革を志した。これに対して90年代の思想は現状に対して関与的(留保つきで肯定的)であり、世界の記述を試みた。そしてゼロ年代の思想は現状に対して受容的(肯定的)であり、世界を甘受する。これらの言葉はもっと陶冶されてよいと感じるし、現状や世界に対する態度もそれぞれのプレイヤーによって微妙な屈折を伴っていることは本書の中でも詳しく述べられている。このうえで佐々木は80年代と90年代がなおも一つの連続としてとらえられるのに対して、90年代とゼロ年代の間に一つの大きな断絶が存在するとみなす。そこでプレイヤーたちは佐々木のいう「ゲームボード」の再設定の必要に迫られたのであるが、この再設定に成功したのは東のみであり、それゆえ東はゼロ年代のプレイヤーとして一人勝ちできたという。さらに再設定されたゲームボードが備える特質として佐々木は二つの条件を挙げる。一つは「勝敗」がはっきりしていること、第二にその勝敗が具体的な「成功」(端的にいえば金銭的なそれ)に結びついているということである。この言明から私はある時期においては東の盟友であり、今では微妙な関係にある現代美術の「スター・プレイヤー」、村上隆を直ちに想起した。オークションで高額で取引されたことを自らの「成功」の証左とする村上はかつてこの国の「現代美術」には存在しなかったタイプの作家であり、現代思想ならぬ現代美術というゲームボードを再設定したといえるかもしれない。しかしそれは単に美術市場における成功を意味するにすぎない。(むろんそれが全てであるという反論が可能であろうが)このような条件に呼応するかのように佐々木は冒頭で本書のキーワードとして「プレイヤー」と並んで「思想市場」という概念を提起する。私はきわめて危険な発想であると感じる。思想の品格を「勝敗」あるいは「売れる」という尺度で測ることは、思想にとって自殺行為であり、このような発想を容認している点に本書の致命的な過誤がある。
 端的に言って私は本書で語られる90年代以降の「思想」の大半はくだらないものであり、それこそ10年も経たないうちに忘れ去られると考える。そもそも福田や大塚に「思想」を彫琢するような発想はなかろう。本来ならば使い捨てにされるべき思想がたまたま時代を風靡したにすぎない。このような状況が先のブログで論じたこの10年ほどの日本の現代絵画の状況ときわめて似ている点はまことに興味深い。そしてその背景を粗描した点においてのみ本書は一読に値する。本書中でも指摘されている点であるが、私はこのような断絶の原因として二つの点にあらためて注意を喚起したい。一つは80年代の「プレイヤー」が志した社会変革の挫折であり、具体的には柄谷が提唱したNAMという運動の挫折、それと密接な関連をもつ『批評空間』の終刊である。現実に対して距離をとる浅田に対して、みずからの思想の問題として現実との接点を探り、変革を志した柄谷の蹉跌は、ゼロ年代において真摯に思想を生きることの困難を暗示するとともに思想を実践することに対するシニシズムを蔓延させることになったように感じる。そして浅田と柄谷が主宰した『批評空間』の終刊によって、この国からまともな思想誌はほぼ消滅してしまった。第二点として、このことと表裏一体の関係にあるインターネットの発達である。90年代後半以降、インターネット上に無数の言説が飛び交い、その量たるや活字メディアをはるかにしのぐ。私はこのような状況に批判的である。匿名性と上書きを本質とするインターネット上の言説は思想や批評という営みの対極にある。これほど無数の言説が生成されているにも関わらず、私はいまだにPCのディスプレイを介して真に感銘を受ける思想や批評と出会ったことがない。このブログに関しても私は同様の限界を感じており、それゆえ匿名で記すのである。それはともかく、もはや身体的な受容力を超えた膨大な(しかし私の考えでは無意味な)批評が氾濫する状況の中で多くの者は一種の思考停止を余儀なくされる。佐々木が説く、世界を変革するのでも記述するのでもなく、甘受する無気力な感受性とはここに由来するのではなかろうか。コンピュータの発達に伴う全能感と膨大な情報を前にした無能感がないまぜになった奇妙な感慨を私たちは共有している。
 b0138838_202144.jpgあとがきにもあるように「ニッポンの思想」とは丸山真男の「日本の思想」を下敷きにしている。両者では「思想」として名指しされる営みの品格がまるで異なるが、両者を比較しようとは思わないし、特に「ニッポンの思想」を批判しようとも思わない。再び絵画のアナロジーで語ろう。絵画は常に存在する。しかし常に優れた絵画が存在する訳ではない。同様に常に優れた「思想」が存在する訳ではない。私たちはインターネットの発達と同期するかのようにニッポンに蔓延した、くだらない「プレイヤー」のとるにたらない「思想」をしばらくやり過ごせばよい。J回帰とか呼ばれる気持ちの悪いナショナリズムも「ニッポン」の思想の特徴であるが、そもそもニッポン以外にも思想は存在するのであるから。

by gravity97 | 2010-03-14 20:22 | 思想・社会 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 100309

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by gravity97 | 2010-03-09 20:30 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

「絵画の庭 ゼロ年代日本の地平から」

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 国立国際美術館で「新築移転5周年」を記念して「絵画の庭―ゼロ年代日本の地平から」が開催されている。地下二階と地下三階のフロア全てを使い切る規模の展示は、私が記憶する限り昨年の「杉本博司 歴史の歴史」以来であり、これまでにもほとんど例がない。この一事からも美術館の力の入れ方が理解できよう。出品作家は草間彌生を別格として1956年生まれのO JUNから1984年生まれの厚地朋子まで合わせて28名。基本的に各作家が一つのブースを割り当てられ、個展形式で作品を展示している。
 タイトルが示すとおり、展示された作品は原則として絵画に限定されるが、作風においても世代においても多様である。過去に同じ美術館で開かれた展覧会の中から私は同様の展示を直ちに想起することができる。すなわち1987年の「絵画1977―87」、89年の「ドローイングの現在」あるいは近年の「エッセンシャル・ペインティング」である。これらのうち、おそらく1975年にニューヨーク近代美術館で開催されたバーニス・ローズの「ドローイング・ナウ」から着想され、ドローイング概念の拡張、特に建築家のドローイングの独自性を再認識させた「ドローイングの現在」以外、私はあまり感心しなかったが、今回の展覧会もこれらの展示に連なり、作家選定の基準を意図的にあいまいにしている。この点は、絵画のみを対象とした企画ではないが、東京国立近代美術館が断続的に開催してきたシリーズ展「現代美術への視点」と好対照を示している。後者は例えば「色彩とモノクローム」とか「連続と侵犯」といったテーマの下に毎回実施され、私の印象ではいずれも韜晦的でテーマと作品の関係が判然としない。展覧会とは端的に批評であり、政治である。したがって私はこれら二つの系列の展覧会におけるテーマの欠落と晦渋に対して批判的であるが、テーマが与えられれば、展示が引き締まるわけでもない。学芸員のマスターベーションのように垂れ流されてきた多くの「テーマ展」を顧みるならば、本展にみられる批評性の意志的な不在もそれなりに一つの見識と考えられよう。
 今回の出品作家の選定は企画者が一人で行ったらしい。分厚いカタログに一篇だけ収録されたテクストの中でその詳細が語られている。しかし草間を除いて1956年生まれ以降の世代から選ぶこと、男女の比率を同じ程度にすること、関西在住、あるいは関西出身の作家を重視することといった選考理由はあまりにもネガティヴであり、むしろ最終的な顔ぶれからあとづけされたと考えられる。ただしこのような基準自体は特に批判するにあたらないだろう。何人かの学芸員が議論して作家を選ぶという手法は結局責任逃れに終始する。企画者がきわめて丹念に作品を実見したうえで作家を選定したことは、展覧会を一覧する時、明らかであり、責任を引き受ける姿勢は好ましい。例えば「プライマリー・ストラクチュアズ」や「態度がかたちになるとき」といった後世に名を残す展覧会がキューレーターや批評家のディクテイターシップに貫かれていたことを念頭に置くならば、優れた展覧会は本質において専制的であるはずだ。
 本展で扱われるいわゆる「ゼロ年代」というディケイドを考えるにあたってこの問題は意味をもつ。なぜなら「ゼロ年代」の美術を規定した二つの展覧会はいずれも今や日本を代表する二人の批評家の専制の下に企画されたからである。カタログテクスト中でも言及されているが、二つの展覧会とは1999年に椹木野衣が企画した「日本ゼロ年」と2007年に松井みどりが企画した「マイクロポップの時代―夏への扉」であり、いずれも水戸芸術館現代美術ギャラリーで開かれている。私の見るところ「絵画の庭」は(実際の年齢的にはさほど離れていないが)意識の上で断絶した三つの世代によって構成されている。まず会田誠、奈良美智、(本展への出品を辞退したという)村上隆ら、「日本ゼロ年」に連なる作家たちであり、「ゼロ年」にできやよいも出品していたことを想起するならば、草間もこの範疇で理解することが可能であろう。第二の世代は青木陵子、杉戸洋、タカノ綾、森千裕ら「マイクロポップ」に出品し、あるいは「マイクロポップ」的な感性を共有する作家たちである。私の考えでは加藤泉や村瀬恭子もこのグループに属す。そして最後に彼らよりさらに若く、およそ2008年頃より作品の発表を始めた作家たちである。もちろん奈良は「ゼロ年」ではなく「マイクロポップ」に出品しているし、O Junや小林孝亘といった企画者好みの、いずれのグループにも属さない作家が何人も存在しており、例外を指摘することは容易であるが、大枠としてこのような理解に誤りはないだろう。この時、本展覧会は椹木と松井によってかたちづくられた「ゼロ年代美術」を絵画の領域で追認する試みと考えることができよう。一見批評性や政治性を欠いたこの展観は実はその欠落によって一つの政治性を行使するのである。
 私はこの展覧会自体はきわめて意義のある試みであると考える。中国からデンマークまで世界中の作家を麗々しく紹介する展覧会が続くこの国で今日、日本の若い世代の作家をまとめて紹介する展覧会は皆無に等しい。関西であれば「アート・ナウ」や「つかしんアニュアル」、関東であれば「ハラ・アニュアル」や「今日の作家」。かつては若い世代に焦点をあてた多くの集団展が組織され、若い作家たちの目標が存在した。しかし美術館が冬の時代に入り、最初に消滅したのはこの種の展覧会であった。比較的ヴェテランの世代を対象とした「近作展」を継続してきた国際美術館が今回、1980年前後に生まれた若手までを包摂したかかる展覧会を開催したことは国立美術館として当然とはいえ、意味のある試みである。出品作家選考にあたって関西という地域性が多少加味されたということであれば、国立新美術館で開催されている「アーティスト・ファイル」のごときアニュアル展が国際美術館発信の展覧会として今後企画されてもよいように感じる。
 展覧会の開催の意義を十分に認めつつも、やはり私が納得できないのは出品されている作品の質だ。私がこの展覧会を見て関心をもったのは先に述べた三つの世代のうち、最後の世代、多く20歳代の若手の作品である。一つにはこれらの作家を初めて見たという理由があるだろうが、この理由は形式的にも説明することができる。あらためてカタログを参照する時、何人かの若手においてきわめて独特の画面分割がなされていることに気づく。ことに年齢順に配置されたカタログの最後に置かれた二人、つまり最若手の二人である坂本夏子の有機的なグリッド構造、厚地朋子における画面の奇妙な連続と切断は新鮮に感じられた。この点は画面の地と像が初めから明確に分節されている先行する世代と対照的である。つまり先行世代は画面の中にイメージを置くことに何の疑問も感じていないのに対し、最若手の画家たちは少なくともそれが自明ではなく、絵画がなんらかの枠組の中に成立することに対して自覚的なのである。いうまでもなく支持体への関心はモダニズム絵画の中心的な課題であった。私は今もなお平面性や視覚的イリュージョンを信奉する頑迷なモダニストではないが、絵画を質において判断するだけの経験と感性はもちあわせていると思う。例えば奈良美智の稚拙でプライヴェイトなドローイング、悪趣味な発想に単なる技術で形を与えただけの会田誠の面白主義のどこに絵画的な価値があるのか。彼らの絵画がこの十年の日本のペインティングを代表し、ここに並べられた絵画が絵画史を形成するとするならば私は索漠とした思いにとらわれざるをえない。おそらくこのような状況には美術市場における商業主義の蔓延と美術ジャーナリズムの退廃が大きく与っているだろう。ここで詳述するつもりはないが、村上隆が作品によって収益を確保することを制作の目的として公言して以来(それは展覧会の価値が入場者数と利益率によって判定されると「改革論者」が恥ずかしげもなく公言した時期とほぼ同期している)、作家やギャラリストの意識が大きく変わってしまった。一方、『美術手帖』に象徴される美術「ジャーナリズム」がギャラリーと結託して、一部の画家のプロモーションとしか理解できない低俗な情報誌となっていることも自明のとおりだ。いずれも一つの見識であろうから、勝手にすればよいが、結果として私たちの目に触れる絵画の質が著しく低下していることに憂慮の念を禁じえない。私は具象的な傾向の回帰そのものを否定するつもりはない。しかし私が具象性に意義を認めるのはゲルハルト・リヒターのごとくたえず絵画という形式との間の緊張を失わない場合に限る。ここに出品された大半の絵画において具象性は絵を描くことにお気軽なアリバイに終始している。この点はリヒターと例えば「エッセンシャル・ペインティング」のエリザベス・ペイトンを絵画の質において比較すれば直ちに明らかではないだろうか。
 展覧会のカタログには詳細で情報に富み、考え方によっては不毛の年表が収録されている。目をとおしてあらためて驚く。この国では1995年、今はなきセゾン美術館で開かれた「視ることのアレゴリー」以来、モダニズムの系譜に連なる絵画のまともな展覧会が途絶えているのだ。代わって絵画の動向を物語る指標となっているのがVOCA展である点は象徴的だ。(このあたりの経緯をVOCA展の講評を手掛かりに論じた福住廉のエッセイは示唆に富む。国際美術館の月報に掲載されているから参照されたい)一方で「マイクロポップ」と「絵画の庭」、もう一方でVOCA展。もしも日本の21世紀初頭の現代絵画が本当にこのような二極の間に形成されたとするならば、私がもはや自らの信じる批評言語によって応接すべき余地はないだろう。

by gravity97 | 2010-03-01 10:14 | 展覧会 | Comments(0)