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ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』

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 ウンベルト・エーコといえば、私にとってはまず「開かれた作品」と「記号論」の著者として知られる先鋭な記号学者だ。特に芸術作品における受容者、すなわち読者、観者、聴衆の役割の拡大を論じた前者はジョイス、アンフォルメル、シュトックハウゼンといった対象の選択が興味深く、邦訳が刊行される以前、イタリア語に歯が立たない私はスイユ社のポワン叢書、フランス語で序章を読んだ記憶がある。エーコが研究者ならざる小説家として才能を発揮したのが1980年に発表した「薔薇の名前」であり、こちらも翻訳されると直ちに読んでおおいに驚き、かつ楽しんだ。エーコはその後も何冊かの小説を発表しており、私はほかにも「フーコーの振り子」を読んでいる。エーコは2016年に没したが、本書は2010年に発表された六番目の長編小説である。エーコの博覧強記というか衒学趣味、とりわけヨーロッパ史に関する膨大な学識が横溢する本書はとりわけ今日の日本においてこそ読まれるべき問題作であろう。
 「薔薇の名前」においてボルヘスの図書館を、「フーコーの振り子」においてテンプル騎士団の伝説を文字通り自家薬籠中のものとして迷宮のごとき小説を作り上げたエーコのことであるから、この小説も一筋縄ではいかない。訳者の解説によればこの小説の形式自体が、この小説の舞台となった19世紀のフランスで大流行した連載小説(フイユトン)と呼ばれる通俗小説のパロディであるという。作中でも言及されるアレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」などが典型であろうし、実際に裏切りや暗殺、秘密警察の陰謀渦巻く物語はそのような定型を踏襲している。しかし読み始めるや、読者は物語の錯綜とあまりの情報量に思考停止に陥ってしまうだろう。刺激的な内容はとはいえ、後述する通り語りの構造も相当に複雑であり、必ずしも読みやすい小説ではない。おそらくヨーロッパの近代史、とりわけガリバルディによるイタリア統一、パリ・コミューン、ドレフュス事件などについての予備知識があれば、本書をさらに楽しむことができるはずだ。この意味において本書は「薔薇の名前」同様にきわめて知的でメタ・テクスト的な内容の小説といえるだろう。私は本書を読みながら、このブログでも論じた一つの小説との類似性が気になった。ルーサー・ブリセットの「Q」である。いずれも歴史の影に潜み、暗躍する人物が主人公となっている。このためであろう、匿名の作家集団によって執筆された「Q」については、エーコが著者ではないかという噂が流れたという。「Q」において教皇ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファの密偵Qが途中まで名前を明かさないのに対して、「プラハの墓地」の主人公は最初から名を与えられている。すなわちシモーネ・シモニーニなる偽書作家であり、物語の中でシモニーニは今日「シオン賢者の議定書」と呼ばれる偽書を作成することとなる。ただし私が読んだ限りでは、最後の書の冒頭に「墓地の議定書」という言葉が引かれる以外に本書中でかかる偽書の名前に言及されることはない。先回りするが、本書を理解するうえでは事前に「シオン賢者の議定書」がいかなる内容の文書であるかを知っておいた方がよいだろう。私も本書を読むまで未知であったこの文書についてウィキペディアで確認してみた。次のような記述がある。

「シオン賢者の議定書」は、「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、「ユダヤ議定書」「シオンのプロトコル」「ユダヤの長老達のプロトコル」とも呼ばれるようになった。ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、世界中の反ユダヤ主義者、特に国家社会主義ドイツ労働者党に影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたともいえることから「史上最悪の偽書」、「史上最低の偽造文書」とされることもある。

 しかし本書においてこの偽書自体はさほど前景化されない。ヨーロッパの歴史の暗部をたどるシモニーニの生涯こそが本書の主題だ。シモニーニはトリノで過ごした幼時より、ユダヤ人嫌いの祖父の教え、そして数々のいかがわしい文書や小説を介して、ユダヤ人とフリーメイソンによる陰謀や悪行を刷り込まれ、強い反ユダヤ人感情を抱く。バリュエル神父なる人物の手による「ジャコバン主義の歴史のための覚書」あるいはウージェーヌ・シューの「さまよえるユダヤ人」やデュマの「ジョセフ・バルモサ」といった実在する文書や小説が次々に引用され、小説に真実味を与えている。時間的に前後するが、シモニーニは長じて美食家としてパリのレストランに通い、作家や芸術家、科学者たちと席を共にする。美食への偏愛はシモニーニの生涯にわたる性癖だ。偽書作家は美食についての蘊蓄を本書のいたるところで語り、訳者は「登場する料理の数々は、彼のエゴイズムが許容する唯一の趣味、美食の反映だろう」と記している。同じレストランで美食を楽しむ医師たちの口から、シャルコー、サルペトリエール病院という固有名詞が語られ、ユダヤ人という主題が重ねられる時、次に召喚されるべき名前は一つしかない。いうまでもなくジークムント・フロイドであり、まもなくシモニーニは同じレストランでフロイドと邂逅する。フロイドの挿話はそれ以上展開されることはないが、本書はこのような知的な挑発に富み、続いて言及されるデュ・モーリエという医師のクリニックに通うディアナという女性の症例は物語の後半で重要な意味をもつこととなる。エーコ自身が巻末で述べるとおり、この小説に登場する人物も主人公シモーネ・シモニーニを除いて実在し、もしくは実在した人物に基づいて仮構されている。シモニーニの祖父とされるジョヴァンニ・バッティスタ・シモニーニもバリュエル神父への謎めいた手紙の書き手として実在しているという。
 祖父の死後、レバウデンゴという怪しげな公証人のもとで仕事を始めたシモニーニは遺言や贈与、契約といった公文書の偽造に手を染め、次第にその世界で知られることとなった。秘密警察の手先としてイタリア統一とフリーメイソン排斥をめぐる錯綜した陰謀に加わったシモニーニは一方でデュマとともにガリバルディに面会し、イタリア統一を支持する一方で、ガリバルディの帳簿係をめぐる陰謀に関わり、陰で私腹を肥やす。今、デュマの名を引いたが、物語の中に秘密の帳簿、爆弾の製造法、狂信と策謀といったデュマ好みの主題が渦巻く一方で、実際にデュマ自身も物語の中に登場するという趣向はいかにもエーコらしい。トリノに向けて出航したエルコレ号という輸送船を爆沈する陰謀を成功させながらも、細部の不手際を理由としてイタリアを追われたシモニーニはしばらくパリに身を潜めることを余儀なくされる。先に触れたフロイドとの邂逅はこの時期のエピソードであろう。パリにおいてもラグランジェなる秘密警察の担当者の指示を受けて、シモニーニは文書の偽造をはじめとする多くの悪事に加担する。時に目当てとする囚人から情報を聞き出すために偽装入獄し、時に偽造文書を用いて危険分子たちを攪乱しては社会不安を引き起こす。ラグランジュが属する秘密組織は明らかに国際的な広がりを有し、ユダヤ人を誹謗することを目的としているが、シモニーニに与えられる指示は多くの場合、目的が不明であり、しばしば裏切りと密告が伴う。まもなくシモニーニはパリでディミトリイ大佐なるロシア人との接触し、偽書の才能を買われてユダヤ人を中傷する文書の作成を命じられる。「プラハの一夜」なる章において彼はイスラエルの12支族の指導者たちがプラハの墓地に集い世界征服の野望を語るという偽書を作成する。これこそが後世に「シオン賢者の議定書」と知られる偽書であり、本書の「プラハの墓地」というタイトルはこのエピソードに由来する。続いてシモニーニはパリ・コミューンをめぐる血なまぐさい陰謀にも加担する。知られているとおり、パリ・コミューンとは普仏戦争の後にパリに成立した一種の自治政府であり、最終的にはヴェルサイユ政府軍によって鎮圧された。自治都市と政府の血みどろの争いは「Q」においても幾度となく語られた主題である。この混乱を象徴するかのようにラグランジュは殺され、エピュテルヌなる男がその任務を襲う。ゲトシェ、モーリス・ジョリ、オスマン・ペイ、シモニーニの周囲には次々に怪しげな男たちが登場し、なかでもレオ・タクシルなるセルビア人は先に触れたディアナという女性の二重人格の症例をめぐってフリーメイソンへの帰順と裏切りを繰り返して、この結社の信用をかき乱す。物語の終盤で語られるのはドレフェス事件である。ユダヤ系の将校ドレフュスは国家機密を漏らしたとして無実の罪に問われ、裁判の結果、仏領ギアナで禁固刑を受ける。偏見に基づいた誤審に対して多くの文学者が抗議の声をあげ、エミール・ゾラは「私は告発する」という文章を発表した。「プラハの墓地」においては機密漏洩の証拠物件とされた書類が実はシモニーニの手による偽書であったという落ちがつく。物語の中でもこの疑獄事件の真相は明らかとなり、ドレフュスの冤罪が晴らされる。陰謀が失敗しても偽書作家は挫けない。老境にあるシモニーニが性懲りもなく、地下鉄工事現場に爆弾を仕掛けに出かける場面でこの小説は終わる。
 今私はこの複雑なプロットをもつ小説を主にシモニーニの側に立ってきわめて単純に要約した。実は本書は二人の人物が交互に語る形式で構成され、二人の語りは活字の書体を変えることによって明確に区別される。しかしこれら二つの語りは内容において複雑に絡み合っているため、どちらかに焦点化しないと脈絡をもった物語として記述することが困難である。もう一人の語り手はダッラ・ピッコラという神父だ。いや、正確には正しくない。冒頭の章において、非人称の語りは読者をパリの汚い裏通りに面した骨董屋に誘い、螺旋階段を上がった一室で机に向かう老人へと焦点を定めていくが、実はこの老人こそが本書の「語り手」なのである。しかしこの「語り手」は、この後、明示的には物語に介入しない。続く第二章が「私は誰なのか?」と題されていることは象徴的だ。冒頭における語りの複雑さは本書を読み進むうえでの最大の難所であるが、ある程度読み進むと、本書の構造は明確になる。今、二つの語りと書いた。しかしこれはシモニーニとダッラ・ピッコラが交互に語ることを意味しない。それどころか、シモニーニはしばしば他人からピッコラと混同され、次第に自分がいずれかわからなくなる。シモニーニは住居の中に隠し部屋を見つけ、そこに見覚えのないピッコラ神父のかつらや僧服を見つける。シモニーニとピッコラはお互いの日記や書き付けを介して間接的な対話を続ける。書き言葉による対話という点が重要だ。シモニーニの語りについてはそれぞれの章の冒頭には日付があるから、私たちはそれが日記という体裁をとっていることを推定できる。一方で多くピッコラ神父による書きつけも(書体の違いが直ちに暗示するとおり)「紙に書かれた」文書である。したがって私たちは本書において、語り手が語る/記す一つの物語を読むのではなく、すでに書き言葉として残された複数の文書を読むことになる。文書を私たちに順番に差し出す存在こそが最初の章に登場した「語り手」なのである。しかしここで私たちはシモニーニが文書の偽造を生業としていたことをあらためて想起すべきであろう。偽書とはいうまでもなく他人の筆跡や書体をまねて書かれた「あらかじめ存在する」文書であり、したがって私たちは本書を構成する各テクストがすべてシモニーニの手による可能性を捨てることはできない。別の面から論じてみよう、一つの主体が二人に分裂するとき、そこに浮かび上がるのは分身、ダブルというモティーフだ。私はこの主題が扱われた小説をポーから村上春樹までいくつでも挙げることができる。本書は偽書という装置を介してダブルという主題を物語に導入する試みと見なすこともできよう。しかし本書におけるダブルは幻想的あるいは精神分析的な主題というより、むしろミステリーのトリックに近い。シモニーニとピッコラがダブルとして登場した理由については、物語の終盤で驚くべき種明かしがなされる。このあたりは「薔薇の名前」の著者の面目躍如たるものがある。
 例によって小説の形式に着目したが、内容についてはどうか。本書が「プラハの墓地」を舞台として作成された偽書の成り立ちをめぐる物語であることはいうまでもない。ユダヤ人をはじめ、様々な民族に対する誹謗中傷に満ち、差別的な言辞があふれた本書を読み進むことはかなり辛い。そしてヨーロッパ史に疎い私にはどこまでが真実に即しているか正確な理解ができないにせよ、描かれる事件や登場する人物は現実の事件と人物である。なぜエーコはこのような小説を執筆したのであろうか。本書が2010年に発表されたことを想起すべきであろう。今ほどひどくはないにせよ、既に私たちは同時多発テロの後、世界が不寛容で満たされ、他民族への憎悪が新たな憎悪によって応酬される事態になじんでいたはずだ。訳者はあとがきの中で本書の翌年に出版された「敵を作る」というエッセイに注意を喚起している。訳者によれば「エーコはこの評論のなかで、集団のアイデンティティを強化し自らの価値を確信するために脅威となる『敵』を見出すことはきわめて自然な現象であると述べて、歴史上、敵の姿がどのように表現されてきたのかに注目する。キケロの『カティリナ弾劾演説』から始まり、異民族、異教徒、異分子がいかに醜く、臭く、犯罪者として描かれてきたかが列挙される」本書で明確に述べられているとおり、ユダヤ人を中傷する一連の文書は書き手の根拠のない悪意に根ざした偽書であり、そこには一片の真実もない。しかし私たちはこのような中傷をたやすく受け入れる。本書の最初、第二章の冒頭でシモニーニはユダヤ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、フリーメイソンとイエズス会について順番に聞くに堪えない罵倒を重ねる。このあたりも正直言って私は読むのが辛かったが、ここでユダヤ、ゲルマン、ラテンといった人種を問わず悪罵が投げつけられていることは、シモニーニにとって憎しみの対象はどの人種であってもよかったことを暗示しているのではないか。しかし彼が制作した偽書によってユダヤ人は辛酸をなめる。本書中、オスマン・ベイなるセルビア人はユダヤ人について次のように説く。「いつか、唯一の合理的な解決法、最終解決を試みなければならないでしょう。つまりあらゆるユダヤ人の抹殺です。子供も? そう、子供も含めて。ええ、わかっています。ヘロデ王のようなアイデアだと思われるかもしれません。しかし悪い種があるときは、草を刈り取るだけでは不充分で、根こそぎ引き抜かなくてはならないのです。蚊が嫌ならばボウフラを殺しなさい」一つの人種を害虫に喩えるこのような言葉が、半世紀もしないうちに文字通り「ユダヤ人問題の最終解決」としてナチス・ドイツの手で実現されたことを私たちは知っている。ソール・フリードランダーらによってこの問題が「最終解決と表象の限界」という主題として焦点化されたのは1990年のことであったから、当然エーコはこの歴史哲学上のアポリアを知ったうえで本書を執筆したはずだ。
 偽りの言葉に煽られて、人が他の民族への憎しみを抱く状況を私たちは今まさに現実として体験している。このブログでも何度か論じた在日コリアンに対するヘイトスピーチはその例であり、新聞を開くと「シオンの議定書」さながら特定の国への悪意に満ちた中傷を重ねるヘイト本の広告を目にしない日はない。先日も超大国の大統領がアフリカ諸国に対して、知性ある人間なら決して口にしないような言葉を用いて罵倒したとの報道があった。そしてこれらの差別主義者にあたかも範を垂れるかのように、日本の宰相は特定の国家への憎悪を煽りながら各国を行脚して、良識ある指導者たちから嘲笑されている。このような指導者を擁した国がかつてどのような蛮行を行ったかは歴史に学ぶことはたやすい。「プラハの墓地」は私たちにとって偽書ではない。予言の書なのである。

by gravity97 | 2018-01-24 21:34 | エンターテインメント | Comments(0)

フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』

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 フィリップ・K・ディックは今なおカルト的な人気を誇るSF作家であり、かくいう私もディック・フリークであることは、これまでこのブログの端々にディックの名が引かれたことで理解していただけよう。この人気を証明するかのようにディックのSFは殆どすべて邦訳されている。
そしてこのたび「最後の本邦初訳SF長編」と銘打って訳出されたのが本書「ヴァルカンの鉄槌」だ。ディックの著作については創元推理文庫の「ザップ・ガン」の巻末に一覧リストが掲載されている。それによるとディックは未発表作品も含めて生涯に51冊のSF長編を刊行している。リストを確認したところ、私は4冊を除いてすべての長編を読んでいるはずだ。しかも私はサンリオSF文庫に収録されているディックの作品をほぼすべて所有しており、その中にはたとえば『シミュラクラ』のごとく長く入手が困難な傑作も含まれている。(ただしこの稀覯書はつい最近ハヤカワ文庫で再刊された)したがって私はディックについては傑作から駄作まで相当の読書の厚みをもっていると自負している。一方でディックの根強い人気を勘案するにせよ、50冊に及ぶ著書の中で最後に翻訳されたということであれば、本書が相当な駄作であろうことは容易に想像がつく。通読してみると、確かに御都合主義の場面転換やストーリーの無意味な混乱など、いかにもやっつけ仕事じみた欠点も多いが、逆にそれらを含めて実にディックらしい小説であり、私は十分に楽しんだ。このブログでディックの小説を直接に取り上げるのは今回が最初で最後となろうが、まことにそれにふさわしい怪作といえよう。

 全体主義が支配するディストピア社会はディックにとっておなじみの舞台だ。物語の背景は文庫の裏表紙に次のように簡潔にまとめられている。「20年以上続いた核戦争が終結したのち、人類は世界連邦政府を樹立し、重要事項の決定をコンピュータ〈ヴァルカン3号〉に委ねた。極秘とされるその設置場所を知っているのは統括弁務官デイルただ一人。だがこうした体制に反対するフィールズ大師は、〈癒しの道〉教団を率いて政府組織に叛旗を翻した」すでにこの要約の中にディックおなじみのテーマがいくつも連ねられている。核戦争後の世界、人間と機械の闘争、全体主義と宗教の抗争。小説の中で語られる歴史によれば核戦争は1992年に終結し、翌年に世界連邦が樹立されたとのことであるから私たちはディックが空想した未来以後を生きている。世界連邦という言葉には本書が執筆された1960年には一種の理想が投影されているかもしれないが、物語が始まるや統括弁務官のデイル、北部アメリカ担当弁務官ウィアリム・バリス、南部アメリカ担当弁務官トーブマンらの暗闘が描かれ、きわめて個人的な葛藤を介して大状況、世界の命運を賭けた物語が語られる点も多くのディックの小説と共通している。本書では基本的に三つの勢力の対立が描かれる。世界連邦、世界連邦の決定を司る巨大コンピュータ〈ヴァルカン3号〉、そして〈癒しの道〉教団である。三者の拮抗が物語を構成する作品はディックには多い。冷戦という状況を反映して、多くが自由主義陣営と共産主義陣営の対立に第三者が絡むことによって物語の推力が与えられる。この小説においても弁務官たちは自分たちの政策決定に関わるコンピュータを信頼していないし、フィールズ大師に率いられた教団は明確に機械による支配に対抗し、〈ヴァルカン3号〉の破壊という、一種のラッダイト運動を組織する。しかしこの教団もいかにも怪しい。ディックの小説において読者は登場する人物のいずれにも感情移入できない場合が多い。さらに読み進めるうちに〈ヴァルカン3号〉にはその前身とも呼ぶべき〈ヴァルカン2号〉が存在し、両者の関係も緊張をはらんでいることが明らかとなる。このように関係項が多すぎて相互の関係が複雑きわまりないため、小説家がそれを破綻なくまとめることができず、物語がぐちゃぐちゃになってしまうというのが、ディックの失敗作のパターンであるが、『ヴァルカンの鉄槌』もその典型といえるだろう。デイルは洗脳的な教育が着実に実施されていることを確認するため、学校を視察するが、そこで反抗的な態度をとる少女がフィールズの娘であることを知り、直ちに彼女を管理下に置く。物語の最初の部分を要約しただけで、いかに御都合主義に物語が展開するか理解されよう、しかし逆にこのような適当さこそがディックの真骨頂だから、ディック・フリークたる私には何の違和感もない。一つだけネタバレを記すならば、フィールズの娘を担任する教師アグネス・パーカーは「細長い棒状の体に二つのレンズが付いた金属製の野球バットほどの機械」に襲撃されて殺される。このあたりも何の必然性も感じられない、相当に訳のわからない展開であるが、この奇妙なガジェットこそが巨大コンピュータ、ヴァルカン3号が操るヴァルカンズ・ハンマー、「ヴァルカンの鉄槌」なのであり、解説にあるとおり、「『そのまんまやないかいっ』とツッコミたくなることうけあい」である。ヴァルカンの鉄槌に象徴される奇怪なガジェットもディックの小説におなじみだ。「シミュラクラ」であったか「最後から二番目の真実」であったか、要人を暗殺し、任務を終了した後は変態して室内の家具に完全に同化するという自動機械が登場し、あまりの偏執狂的な発想に私はぶっとんでしまったが(しかしよく考えるならば、完全なる偽装、つまり私が人間かそれとも機械か、私の審級では区別がつかないというニューロティックな妄想はディックの作品の本質でもある)本書にも多くの奇怪なガジェットが登場する。

 さらに興味深いのはヴァルカン3号とヴァルカン2号の関係である。小説の中で1975年に作られたという表記のあるヴァルカン2号は単なる3号のプロトタイプではない。3号が稼働を初めて以来、沈黙を続ける2号は実は3号に対して強い敵意をもっていたことが次第に明らかになる。今、私は沈黙とか敵意といった通常であれば機械に対して用いられることのない言葉を用いた。両者の関係は物語の根幹に関わるため深入りした説明は避けるが、ディックの小説において機械と人間を区別することは困難である。それどころか人間と機械を隔てる一線がどこにあるのかという問題こそディックが執拗に追究したテーマであり、さらに同じ目的のために製造された機械同士が互いに反目しあうという物語は直ちに短編の傑作「変種第2号」を連想させる。弁務官同士の権力闘争に始まる物語は次第に世界連邦と「癒しの道」教団の闘争、さらにはヴァルカン2号の破壊、「ヴァルカンの鉄槌」を用いた要人の暗殺と拡大し、ロボットやビーム銃、核手榴弾といった、いかにも安っぽいSF的ガジェットを駆使しての大乱戦にいたる。確かにこのあたりはもし最初に本書で初めてディックに触れた読者であれば思わず引いてしまう安易さにあふれている。しかし別の観点から考えるならば、ここに描き出されるのは、人間同士、人間と機械、そして機械同士、お互いに誰も信じることができないという袋小路の状況であり、本書が執筆された時代、冷戦下における相互不信と相互監視を象徴しているかもしれない。当時、アメリカの社会に流布していた隣人が共産主義者ではないかという疑心暗鬼は「お父さんみたいなもの」「まだ人間じゃない」といった短編のタイトルが暗示するとおり、ディックの手にかかれば、人間と人間ではないものの区別の不可能性という主題へと展開される。とりわけディックが終生にわたって拘泥したマン・マシーンのモティーフは「電気蟻」「贋者」、あるいは先に言及した「変種第二号」といった傑作短編においてことにサスペンスフルに開示され、私たちを戦慄させた。同じ主題がディックの傑作を下敷きにした「ブレードランナー」においても変奏されている点についてはこのブログでも論じたとおりである。

それにしてもディックの描く未来世界の閉塞感は普通ではない。本書においても日常が監視され、体制が市民を睥睨する核戦争後の世界が不気味なリアリティーとともに描き出されている。ディックの短編集を編集したジョン・ブラナーは次のように記している。「ディックがみごとに描いてみせる種類の世界に、私は住みたくない。できればわれわれがそこに住んでいないことを信じたいというのが、私の願い―痛切な願いである。もし、もっと大勢の人がディックの作品を読めば、私がああいう世界に住まなくてすむ可能性が、それだけ強くなるのではなかろうか」このコメントはディックの生前、1976年に書かれているが、それから半世紀近く経った現在、私たちはこの言葉にどのような感慨を抱くであろうか。少なくとも本書が発表された当時においては具体的なイメージに乏しい「ヴァルカンの鉄槌」の描写は今日において、中東で使用されているドローン兵器に恐ろしいほど似ている。真空管や変圧器によって組み立てられた巨大コンピュータ、ヴァルカン3号こそ存在しないが、よりスマートで精巧な機能をもった電子機器が個人を生体認証し、すべての通信を司る世界を私たちは生きている。冷戦そして共産主義国家こそ終結したが、私たちは異なる体制、異なる世界観を直ちに悪と断定して、その殲滅を口にしてはばからない愚かな大統領や首相を戴き、世界は他者への憎悪に染まっている。ブラナーが40年前に指摘したとおり、ディックが描き出す悪夢のごとき世界は一方で相変わらず荒唐無稽でありつつ、一方で不気味なほど現実を予示しているように感じるのは私だけだろうか



by gravity97 | 2017-12-22 21:06 | エンターテインメント | Comments(0)

小松左京『果しなき流れの果に』

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 ハルキ文庫に収録された小松左京の「果しなき流れの果に」を読む。小松左京の読書体験については微妙な問題がある。小松左京と星新一、そして筒井康隆は私が最初に読んだ大人向きの小説であった。小学校高学年の頃だ。例えば私は「日本沈没」を発売と同時に読んだ記憶がある。日本SFの最初の黄金期といってよいだろう。実際に書庫で確認するならば、私は当時ハヤカワ文庫と新潮文庫に収められていた小松左京の小説をほとんど所有しているから、疑いなくそれらの小説を通読していたはずだ。当時文庫化されていなかった「復活の日」を単行本で読んだことについては明確な記憶があるし、亡き祖父が生頼範義によるカバーに使用されている彫刻がミケランジェロの《奴隷》であると教えてくれたことさえ覚えている。しかし蔵書のラインナップには奇妙な欠落がある。初期の代表作のうち「果しなき流れの果に」と「継ぐのは誰か?」の二冊が見当たらない。私はいずれもハヤカワ文庫に収められていたことを記憶しており、裏表紙に記されたこれらの小説のシノプシスもおぼろげに浮かぶから、おそらく一度は買い求めていたのではないかと思う。しかしこの二冊については通読した明確な記憶がない。数年前に私はやはり現在ハルキ文庫に収録されている「継ぐのは誰か?」を通読し、そして今回「果しなき流れの果に」を読み返した。ハルキ文庫版の解説の冒頭に大原まり子が記すとおり、この小説が1965年という時点で執筆されていたことにあらためて驚く。それから半世紀が経った。しかし本書は今日においても全く古びていない。(ちなみに大原の解説はこの小説がハルキ文庫に収録された1997年、執筆から32年後に書かれているが、それから20年経った今でさえ私は同じ感慨を抱く)私の知る限り、現在も発表当時の新鮮さが衰えないもう一つの稀有の作品はスタンリー・キューブリックの1968年のフィルム「2001年宇宙の旅」である。キューブリックの描いた宇宙旅行は今日においても新鮮であり、「ゼロ・グラビティ」から「エイリアン・コヴェナント」まで、宇宙旅行のイメージはいまだにそのイメージの圏域に留められている。熱心なSFの読み手ではない私でさえ「果てしなき流れの果に」の影響を受けたと思しきSFを列挙することはたやすい。このようなとんでもないSFが半世紀前に日本語で書かれたことを私たちは誇りに思ってよいのではないだろうか。

 これから読む読者の興趣を殺がない程度に内容に立ち入ることにしよう。プロローグには蘇鉄が密生する森林の中、剣竜とティラノザウルスが死闘を繰り広げる太古の地球の情景が描かれる。今挙げた「2001年宇宙の旅」の冒頭を想起させないでもない始原の光景を一瞬点描した後、物語は本書が執筆された時代と同じ、1960年代の関西へと舞台を移す。N大学理論物理研究所の助手、野々村は上司の大泉教授に呼び出され、史学を講ずる番匠谷といういわくありげな教授と引き合わせられる。番匠谷は中生代白亜紀の地層の中から出土したという「砂時計」を示すが、その砂時計は上から下に永遠に砂の落ち続ける、ありえない砂時計であった。このような魅力的な冒頭からは直ちにいくつかのSFが連想される。例えば本書の10年ほど後に発表されたイギリスのバリントン・J・ベイリーの「時間衝突」。本書と同様、波乱万丈の時間SFである「時間衝突」も主人公の考古学者のもとに「時間が経つにつれて新しくなる遺跡」の写真が届けられることから始まる。考えてみるならば、常識的に説明不可能な何かが発見されることによって起動するSFは数多い。例えばジェイムス・P・ホーガンの「星を継ぐ者」は月面で宇宙服を来た人類の遺骸が発見されたことから始まる。(余談となるが、私はこの設定と半村良の「産霊山秘録」中の「月面髑髏人」とのあまりの類似に驚くが、偶然としか考えられない)あるいは「過去に通じる通路」の発見とともに始まるスティーヴン・キングの「22/11/63」はどうだ。もちろん「果しなき流れの果に」がこれらの作品に直接の影響を与えたとは考えられないが、そうであってもなんら不思議がないほどの本格SFとしての風格を本書は宿している。このような小説が1960年代に発表されたことはやはり一つの奇跡と呼んで差し支えないだろう。

 さらに驚くべきことには、本書は当時のSFが主題化したいくつものトピックを軽々と重ね合わせている。本書は二部に分かれ、二つのエピローグをもつ。前半は今述べたとおり、砂が永遠に落下し続ける砂時計の発見をめぐる現代、執筆時と同じ20世紀中盤の物語であるが、後半にいたるや時代はそれから100年以上経過し、登場人物は軌道エレベーターで宇宙空間へと上昇していく。このレヴューを執筆するにあたって「軌道エレベーター」をウィキペディアで調べてみたが、おそらくこの小説は、今日ではウィキペディアで検索可能な程度に知られたこのような装置に言及された最初の例ではないだろうか。軌道エレベーターという発想から私は直ちにこのブログで論じた村上龍の「歌うクジラ」の終盤の場面を連想したが、SFの領域でかかる装置が導入された最初はアーサー・C・クラークが1979年に発表した「楽園の泉」であるという。散りばめられた未来的なガジェットばかりではない。第二部を読み始めると、私たちはこの小説が未来における二つの勢力の葛藤を主題としていることを理解する。かかる勢力は人間の理解をはるかに凌駕した存在であり、おそらくは未来人である。人類を超えた存在という主題からはやはりこのブログで論じたクラークの「地球幼年期の終わり」がたやすく連想されよう。21世紀の地球は大きな災厄に見舞われようとしていた。太陽の異常活動によって放射線が地上に降り注ぎ、生物が死滅する破局が近づいていたのだ。世界連邦の指導のもとに多くの人類はシェルターに避難し、一握りの優秀な人々はさらに遠く火星に逃れようとしていた。いうまでもなくこのような設定は破滅SFのそれだ。小松は1972年に生物兵器による人類の死滅と再生を描いた破滅SFの傑作「復活の日」を発表している。人類を超越した存在、世界の破滅、これらの主題は黄金時代のアメリカSFが好んだ主題である。この小説からは日本という場で先行するアメリカのSFの設定に新たな観点から挑戦しようという野心がうかがえる。そして最初に述べた通り、この小説はクラークやジョン・ウィンダムと比べても決して遜色がない。それどころかここには小松自身がこれ以後の小説の中で深めていく主題がいわば原石のままで贅沢に散りばめられている印象だ。あらためて驚いたのであるが、この小説の中にはヤップという民族が登場する。21世紀の半ば、思いもかけぬ大地震と地質変動で祖国が海底に沈み、それ以後漂泊の民族となった彼らは「君が代」を斉唱しつつ見知らぬ星系に旅立っていく。ヤップ、つまり日本人の運命はベストセラーとなった「日本沈没」の構想を正確に予告している。あるいは人を超えた存在についての執拗な問いかけは「継ぐのは誰か?」に始まり、多くの短編、そして遺作となった「虚無回廊」においても繰り返される。作家は処女作を超えることができないとしばしば言われる。「果しなき流れの果に」は小松にとって長編の処女作であるが、確かにこの作品にはそれ以後の小松の作品のエッセンスがぎっしりと詰め込まれている。

 本書を特徴づけるのは語り急ぐかのような場面転換の激しさである。白亜紀の恐竜の戦いに始まり、現代の大阪、そして未来の地球。未来人によって別の時間相の地球に拉致された科学者たちは石槍を手にした原始人たちによって直ちに惨殺される。もし小学校高学年の私が本書を通読できなかったとしたら、それはおそらくかかる荒唐無稽さに小学生でさえついていくことができなかったからではないかと今になって思う。確かに荒唐無稽であるが、このような小説の類型に対しては、今日ではワイドスクリーン・バロックという名が与えられている。やはりウィキペディアを参照するならば、ワイドスクリーン・バロックとはブライアン・オールディスによって提唱されたSFの一類型であり、「時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄」な小説のことであるという。この定義自体は1980年に発表されているが、その15年前に発表された「果てしなき流れの果に」への完璧な注釈といえるのではないだろうか。白亜紀から未来世界という広大な時間の広がり、冥王星の衛星ケルベルスから鯨座タウにいたる広大な宇宙の広がり、私は何よりもかかる広漠とした時間と空間を対象に物語を紡ごうとした作家の野心の気宇壮大に感銘を受ける。それはアメリカSFの黄金時代の残照を受け、日本のSF作家たちが新しい野望に燃える、いわば日本SFの青春において唯一可能であった志であったかもしれない。本書において小松はやや語り急いでいる印象がある。後続する小説の中で、作家は本書で提起された問題をあらためて様々な角度から深めていくが、博覧強記をもって知られる小松でさえ、さすがにこの時点でこれほどのテーマに見合った表現を与えることは困難であっただろう。本書の終盤で物語は著しく抽象化される。(もしかするとそれもかつて本書を読み通せなかった理由かもしれない)このあたりの心境を今回のハルキ文庫に付された初版のあとがきの中で小松は次のように述懐している。「書けば書くほど、どうにもならないほど気が滅入り、(連載の)四、五回ごろには、連載を放棄しようかとさえ思うようになりました」「(苦しみ抜いて脱稿した直後に)そのままベッドの上にぶったおれて、美しく開けて行く夏の朝を呆然とながめているうちに、いつかもう一度、この主題について書こう、今度はもっと慎重に、もっと十分に準備して、体力や気力も充実させて、今度こそ、何一つ書きもらすことなく書いてやろう、という気が起こってきました。―その時はじめて、本当に、SFというものが全身でぶつかって行ってもいいほど、やりがいのある仕事かもしれない、という気がしてきました」しかし本書は放棄されかけた小説、準備の足りない小説ではない。それどころか小松の代表作に数えられるべき傑作である。未読の読者のために言い添えるならば、作家が苦しみぬいたにも関わらず、本書の読後感、とりわけエピローグは美しく、私たちの胸をうつ。大原まり子も解説に書いているとおり、小松の短編にはきわめて抒情的で私的な印象を残す作品がいくつか存在する。本書はその最初のきらめきであるかのようだ。

 私が本書を再読しようとしたきっかけは書店の店頭でハヤカワ文庫から最近発行された「日本SF傑作選2 小松左京」を目にしたからである。この傑作選はすでに筒井康隆の巻も刊行され(編者によれば、初巻としては当初星新一を予定していたが、今も多くの作品の版権を新潮社が保持しているために実現できなかったらしい)今後も隔月で刊行されるということである。小松については「地には平和を」や「物体O」といったいくつかの短編とともに長編「継ぐのは誰か?」が収録されている。このシリーズには続くラインナップとして平井和正や半村良も予定されており、70年代の日本のSFの充実を知るうえで格好のアンソロジーとなるだろう。小松の小説も一時入手が困難であったが、幸いにも現在では代表作はほぼハルキ文庫に網羅されている。この傑作選の刊行を機に日本のSFの最初の黄金期に再び光が当てられることを望みたい。



by gravity97 | 2017-11-11 09:57 | エンターテインメント | Comments(0)

宮内悠介『エクソダス症候群』

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 火星を舞台にしたSFには名作が多い。思いつくままに挙げるだけでもレイ・ブラッドベリの「火星年代記」は言うにおよばず、フィリップ・K・ディックの「火星のタイムスリップ」、日本では神林長平の「あなたの魂に安らぎあれ」といくつもの作品が浮かぶ。宮内悠介についてはすでに「ヨハネスブルグの天使たち」についてこのブログで論じたが、本作も今挙げたマーシャンSFの系譜に連なる新たな傑作である。巻頭のアブストラクトに「舞台は火星開拓地、テーマは精神医療史」という言葉があるが、まさに火星と精神医療という二つの要素のアクロバティックな結合が本書の核心である。小説の内容にも立ち入りながら論じる。

 舞台は近未来。テラフォーミングが進む火星、開拓地に唯一の精神病院、ゾネンシュタイン病院に一人の若い医師が赴任する。若い医師、カズキ・クロネンバーグはかつて日本の大学病院に勤務していたが、恋人が特発性希死念慮と呼ばれる理由のない自死を選んだことにより、自責の念に駆られて火星開拓地へと自らを流謫したことが比較的早い段階で明らかになる。まずここでは特発性希死念慮(ISI)なる「精神病」が一つの鍵である。着任早々、カズキは救急外来の担当を命じられ、騒然たる現場で患者たちの「治療」にあたる。そもそも精神病院に「救急外来」が存在することは奇妙に思われるが、火星という異郷の地では精神疾患を突発する患者が多いということであろうか、医師の一人は、今日は月(ファボス)の位置が悪いと本気とも冗談ともつかぬ言葉を口にする。外来の雑踏の中でカズキは何人かの症例が一致していることに気づく。小説のタイトルとなった「エクソダス症候群」だ。エクソダス症候群とは統合失調症と同様に幻覚や妄想を伴うが、強い脱出衝動、具体的には火星から地球へ「脱出」しようとする強い欲求を伴うことで知られる。外来病棟の喧噪が一段落し、チーフのリュウ・オムスク、看護師のカタリナといった同僚たちとつかの間の休憩をとっていたカズキの前に院長のイワン・タカサキが現れ、いきなりカズキを救急病棟である第七病棟の病棟長に任命する。

 今、私は本書の冒頭を要約した。さすがに手練れの著者による巧妙な導入である。すでにこの部分に本書の核となるアイディアがいくつも盛り込まれている。さらに読み継ぐならば、この病院にはかつてカズキの父も勤務していたが、何らかの事件を起こして病院から追放されたであろうことが示唆されるとともに、カズキの火星への「帰還」の一つの理由がその真相の解明であることをうかがわせる。カバラの「セフィロト(生命)の樹」状に病棟が配置されたゾネンシュタイン病院には全部で10の病棟があるが、そのうち特殊病棟とよばれる第五病棟、医者に見放された患者を収容する病棟はチャーリー・D・ポップなる患者にして病棟長が支配しており、彼はカズキの父親の一件についても知悉しているようだ。カズキの前に姿を現したチャーリーは18世紀の癲狂院に始まる精神病者の隔離施設について語る。そこで繰り広げられる治療の名を借りた虐待と拷問をチャーリーは「18世紀の暗黒」と呼ぶ。いうまでもなかろう。ここで語られる話題はミシェル・フーコーが「狂気の歴史」の中で論じた問題であり、思想史的な射程をはらんでいる。この点は章のエピグラフにフーコーが引用されていることでも理解できよう。チャーリーは精神医療の歴史を語り続ける。やがて精神病者の収容施設は次第に洗練され、ウィーンの「阿呆塔」にみられる開放的な施設が誕生する。精神病は治癒可能とみなされ、回復可能な患者のために次々に病院が建てられた。ドイツにおけるそのような麗しき試みの一つが火星の診療施設の名前の由来となったゾネンシュタイン病院である。しかし精神医療の理想、ゾネンシュタイン病院はその後どうなったか。チャーリーは戦慄的な言葉を口にする。「ガス室が作られ、それがアウシュビッツのガス室のプロトタイプとなった」かくして精神医療の暗部に光が当てられる。ナチスドイツの優生政策が精神医療と手を携え「生きるに値しない命」が淘汰されたことは例えばこのブログで論じた「ブラッドランド」の中でも記述されていた。最終的にはユダヤという民族へと拡大される「生きるに値しない命」という発想が最初、精神病者に対して適用されたことは歴史的にも明らかだ。チャーリーはこのような暗黒はその後も続いていると断じる。例えば戦後、アメリカを中心に広まった精神外科、前頭葉白質切裁術(ロボトミー)であり、21世紀における患者に対する多剤大量処方である。我々は進歩しているのか後退しているのか、チャーリーは次のように断言する。「精神医学の歴史とは、つまるところ、光と闇、科学と迷信の強迫的なまでの反復なのだよ」その果てに生じたのが突発性希死念慮であり、エクソダス症候群であった。そして彼はカズキに父についての情報が収められたメモリースティックを渡す。それが病棟のコンピュータに挿入された瞬間、なんらかのウイルスが病院内のコンピュータを汚染するであろうことをカズキは予感する。

 未読の読者も多いだろうから、これ以上ストーリーに踏み込んで内容を紹介することは控えよう。多くの登場人物とさまざまな謎を巻き込みながら物語は展開する。カズキの父、イツキはこの病院で何を企てたのか。チャーリーあるいは院長のイワンはどのように関わったのか。第七病棟の入院患者たちはカズキといかなる関係を結ぶのか。あるいは特殊病棟の通称、EL棟とは何を意味するのか。これらの問いは物語の後半で解答を与えられるから、本書を一種のミステリーと読むことも可能であろう。本書で引用されるフーコーの言葉は次のように結ばれている。「18世紀末になると、ただ一つだけ緩和策がとられたが、それは、狂気が何であるかを証拠立てるのは狂気自体であるかのように、狂人を見世物にする世話を別の狂人にまかせたことであった」この引用は本書の主題を凝縮している。地球から孤絶した火星の精神病院、そこで「狂人」たちを世話する医師たちも実は「狂人」ではないか。比較的早い時期にカズキもまた「エクソダス症候群」に罹患している可能性が示唆される。ここではないどこかへの憧憬。そもそもそれがカズキを火星へと向かわせたのではないか。しかしこの症状の発現はカズキの場合は複雑だ、次第に明らかにされるとおり、カズキは火星に生まれながら地球に放逐されたからだ。カズキにとってエクソダスとはいずれの星への志向であるのか。さらに「妄想」をふくらませてみよう。エクソダス症候群とは何か。「脱出衝動を伴う妄想や幻覚。それまで平穏に暮らしていたはずの患者が、突然、海外の辺境や紛争地帯を目指したりするようなケースも、一部は、この病によるものと目されている」「エクソダス症候群」は架空の精神病であるが、今日、私たちはこのような「症例」を現実に知っている。ここではないどこか。恵まれた環境にいたはずの若者たちが911の同時多発テロに赴き、あるいはISの戦士となるべくシリアへ向かう。広く「西欧社会」を蝕むこのような「症例」は実に現実におけるエクソダス症候群と呼べるのではないか。

 深読みに過ぎるだろうか。再び「狂人」の問題に戻ろう。人の狂気を判定するのは誰か。普通に考えるならば精神医療に携わる者であろう、しかし私たちは彼らが「精神病者」たちに加えた虐待の事実を知る時、―いうまでもなく第五病棟の病棟長にして最古の患者、チャーリー自身がこのような二重性を体現しているが、彼が語る精神医療の負の歴史を知るならば、私たちは患者と医者のいずれが狂気に冒されているか、直ちには判断できない。誰が人を狂人と見立てるのか。そもそも精神医療とは医学なのだろうか。それは「狂人の世話を任された狂人」のふるまいではないのか。正気と狂気の境界は古今多くの小説において作品の主題とされてきた。本作品を通して繰り返されるいくつかのモティーフがある。閉鎖、監禁、強迫観念。あるいはチャーリーが言及したガス室という主題も本書の終盤において別のかたちで繰り返される。これらは多くが密閉された空間と関わっている。閉鎖された空間に置かれた時、人はいかなる行動を希求するか。いうまでもない、そこからの脱出、エクソダスであり、本書のタイトルは象徴的である。最初に火星開拓地と精神医療史の組合せをアクロバティックと評した。しかし以上の点を勘案するならば、両者の結びつきは必然かもしれない。なぜなら火星そのものが巨大な密室であり、精神病棟と考えることができるからだ。ここでは触れるに留めるが、本書の中で明らかとなる近未来の二つの精神疾患、エクソダス症候群と突発性希死念慮の関係もまたきわめて暗示的である。

 最初に私は火星を舞台にしたいくつかのSFについて言及した。私はこのうちディックの「火星のタイムスリップ」と本書の関係が気になる。やはり荒廃した火星に植民した人類の物語であるディックの小説の中で、物語の鍵を握る少年は時間に対して特殊な能力をもつが、彼は分裂病とみなされている。ディックにはほかにも精神疾患を主題としたいくつかの長編があるが、小説の中に登場する様々なガジェット同様に火星と「精神病」を結びつける発想に私はディックの影響をうかがう。考えてみるならば以前レヴューした「ヨハネスブルグの天使たち」におけるロボットと人間の交渉という主題は、ディックにおいては自分が人間か機械か判別ができないというアイデンティティーの危機へと変奏された。本書においても正気と狂気を誰が区別するかという共通する主題が語られていたことを念頭に置く時、本書をディックへのオマージュと考えてもよいかもしれない。



by gravity97 | 2017-09-23 13:42 | エンターテインメント | Comments(0)

中島らも『中島らも 短編小説コレクション 美しい手』

b0138838_22474677.jpg中島らもが急逝というか不慮の死を遂げてから、もう10年以上の歳月が経った。しばらく前であるが、ちくま文庫からエッセイ・コレクションに続いて短編小説コレクションが刊行された。編者は小堀純。かつて「ぷがじゃ」の編集長を務め、演劇批評でも知られている。今、「ぷがじゃ」という固有名を挙げたが、この雑誌は1980年代を関西で過ごした者にとっては懐かしく感じられるだろう。私が中島の名を初めて知ったのは正式名称を「プレイガイドジャーナル」というこの雑誌に連載されていたカネテツデリカフーズの「微笑家族」という奇怪な広告記事の制作者としてであったはずだ。ただし今確認したところ、「ぷがじゃ」は実質的に1987年に廃刊されているから、私がこの広告を初めて見たのが、この後、最初朝日放送が発行していた「Q」という情報誌を乗っ取るようなかたちで進出した東京資本の関西版「ぴあ」のいずれであったかは判然としない。ここに「Lマガジン」、通称エルマガを加えて、四半世紀前の関西における情報誌の乱立というか戦国時代もそれなりに興味深い問題ではあるが、それはこのレヴューの主題ではない。
b0138838_2249980.jpg  私はこれまでにずいぶん多くの中島の小説、エッセー、自伝的エッセーを読んできた。私が感じた共感は80年代から90年代の関西という自分の生活圏が中島とシンクロナイズしていたからであろうし、ことに阪神大震災以前の阪神間というトポスは私にとって懐かしいものであるからだ。私は中島がエッセーの中で言及する店や場所の多くに心当たりがあり、実際に訪れたこともある。中島の生活史を知るうえでは朝日新聞のサービス誌に連載された「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」を読むのがよかろう。尼崎の歯科医の息子として生まれた中島は灘校(灘中と灘高を総称してこう呼ぶらしい)に進む。しかしそこで完全にドロップアウトした中島は神戸で「フーテン」生活を送り、シュルレアリスムやロック、ドラッグに馴染んでいく。この後、中島は有名大学に進む友人たちを横目に大阪芸術大学に進学するが、富田林の地の果てに所在する大学にはほとんど通うことなく異能のコピーライターとして頭角を現す。中島自身も記す通り、中学高校における異様なテンションの高さと大学における暗転の対比は印象的である。しかし中島によるとさらにこの後、「超絶的に明るい、おじさん時代」が横たわっているとのことであり、私が知っているコピーライター、劇団の主宰者、放送作家や作家といういくつもの顔をもつ中島はこれ以後のことであろう。
 前置きが長くなった。本書には未発表の二編を含めて、1989年から2004年の間に執筆された15編の短編が収録されている。私は中島の短編をずいぶん読んだつもりであったが、それでも読んだことがある短編はごくわずかであった。もっともどの小説もテイストとしてはよく見知ったものであり、ホラーやロック、小噺、プロレスといったおなじみのテーマが満載されている。この中で未発表の二編、特に表題とされた「美しい手」は中島としてはかなり異質の、抒情性の高い佳作である。編者の解説によればこれらの小説の原稿は死後に発見され、おそらくは中島が広告代理店に勤務していた1983年から86年の間に執筆されたまま放置されていたであろうとのことだ。つまり中島としても最も初期の作品である。「美しい全ての手は哀しい。/封も切られず捨てられた手紙のように哀しい。夜明け前のガソリン・スタンドのように哀しい。ささくれたヴィオラの弓の馬の毛のように哀しい」という詩的な文章に始まり、断章風の文章が連ねられている。小噺風の断章もあれば、回想風の断章もあるが、最後に落ちをつけてまとめるあたり、才人たる中島の片鱗が早くもうかがえる。先に異質と記したが、確かに作家として正式にデビューする以前に執筆されたと思しき冒頭の二編は本書に収められたほかの短編とはテイストがやや異なる。しかしこのような抒情性は決してほかの小説に認められない訳ではない。例えば「今夜、すべてのバーで」という長編はアルコール依存症として入院した中島の自伝的な小説であり、例によって飲酒をめぐるドタバタの繰り返しであるが、読後になんともいえない寂寥感が残ったことを覚えている。おそらくそれは中島の破滅願望と関わっているだろう。周知のとおり、中島はしばしば著書の中で自らの自殺念慮について記しているし、2003年には大麻取締法で逮捕されている。突然の死も飲酒した後の階段からの転落が原因であった。躁鬱病、ドラッグ、アルコール依存は長編短編を問わず中島の小説の主題系を形成しており、エッセーもそれに関連した内容が多い。そしておそらくその裏返しであろうが、中島は人として常に一種の含羞を漂わせていたように感じる。私は中島とは面識がないが、彼の死後、多くの関係者が故人を偲ぶ文章を発表している。それらを参照する限りにおいても彼が過激な書きぶりとは対照的なナイーヴな性格であったことは間違いないだろう。この意味で「美しい手」と「“青”を売るお店」という繊細な味わいの二編を冒頭に置いた構成は作家本人をよく知る小堀ならではの配慮であり、「私は『美しい手』が出版されれば、もう編集者を辞めてもいいと思った。この作品が陽の目を見るまでは死ねないと思った」という述懐もあながち編者としての気負いばかりではなかろう。中島は早世したが、よい編集者に恵まれたと思う。
 ほかの作品にも触れておこう。いずれも甲乙つけがたい怪作揃いである。「日の出通り商店街 生き生きデー」は商店街の日常に年に一度、誰を殺してもよい日がめぐってくるという設定のドタバタ劇。筒井康隆の「銀齢の果て」なども連想されようが、中島らしく格闘技に関する蘊蓄が随所で語られる。格闘技といえば「お父さんのバックドロップ」も実在のプロレスラーを念頭に置いた一種のファンタジーである。「ねたのよい」と「寝ずの番」はそれぞれロックバンドのギタリストと噺家のプロフェッショナリズムと関わる短編。いずれも中島の実体験と関係しているのではないだろうか。前者は伝説のロッカー、山口富士夫へのオマージュと呼ぶべき作品であり(このレヴューを記すために確認したところ、山口も喧嘩の仲裁に入って突き飛ばされ、脳挫傷で2013年に没している。因縁というべきであろうか)、後者は噺家の師匠の死後に集った弟子たちによる師匠をめぐる艶笑小噺であり、この類の下ネタを中島が愛好していたことも想起される。「ココナッツ・クラッシュ」と「琴中怪音」はいずれもどこともしれない国における一種の奇譚であり、中島敦を連想させるなどと書けば褒めすぎであろうか。「邪眼」と「EIGHT ARMS TO HOLD YOU」はいずれもグロテスクな味わいの短編である。私はこれらが収められた「人体模型の夜」こそ、中島の短編集中のベストではないかと思う。この短編集に収められた短編は海外で言えばロアルド・ダールあたりを彷彿とさせる奇妙な後味を残す。小松左京や筒井康隆、かつては日本でもSFの分野を中心にこのような書き手、このような短編が多く発表されていたが、近年ではあまり読んだ記憶がない。「クロウリング・キング・スネイク」と「DECO-CHIN」も中島らしい短編だ。前者は蛇へと変身していく姉の姿をコミカルに描き、後者はロッカーによる自らの身体毀損、身体改造を主題としている。特に後者は相当にグロテスクで反倫理的な内容である。本書の巻末、「本書のなかには今日の人権意識に照らして不適切な語句や表現がありますが、時代的背景と作品の価値にかんがみ、また著者が故人であるためそのままとしました」という但し書きは明らかにこの短編を指している。しかし明治大正の小説ならばともかく、10年ほど前に書かれた小説に対して「今日の人権意識」もあるまい。逆にこの点は中島の確信犯的な悪趣味を反映している。そして転落事故の三日前に脱稿され、ゲラが出た時に著者は集中治療室にいたというこの短編をあえて選んだところに編者の思いが反映されているように感じた。
 本書に先だって刊行され、同様に「今日の人権意識」云々といったエクスキューズが付された「中島らも エッセイ・コレクション」とともに、本書は特に初めて中島に接する読者に対してはよい導入となるだろう。しかしこれはまだ序の口にすぎない。それぞれの短編をさらに過激にしたような長編がいくつも存在するし、そもそも小説、エッセーというカテゴリーからは抜け落ちる多くのテクスト、コントや悩み相談への回答、広告、漫画や対談の中にこそ、この作家の本質を垣間見ることができるのではないだろうか。テクストの無秩序な広がりこそが中島らもという鬼才の輪郭をかたちづくっており、それゆえ事故による早世が惜しまれるのだ。しかしあえて問うならば、かかる夭折を本人が無意識に欲していたということはありえないか。私は先に「阪神大震災以前の阪神間というトポス」について論じた。1980年代にあって阪神間モダニズムの揺籃の地、尼崎から神戸にいたる地域は気候においても風土においても一種のパラダイスであった。しかし1995年の阪神大震災によって、この地域は壊滅的な打撃を受けた。幼い頃より親しみ、とりわけ青年期を過ごした美しい街が文字通り灰燼に帰したことを中島はどのように受け止めただろうか。私の知る限り中島に阪神大震災に言及した文章やエッセーはないように思う。しかし逆にこの不自然な沈黙こそが、中島の思いを暗示しているのではないだろうか。最初に述べたとおり、本書に収められた小説はほとんど全てが震災以後に執筆されている。これに対して叙情性に富んだ二つの短編、あるいは「今夜、すべてのバーで」といった小説が震災以前に執筆されていたことは何かしらの意味があるのであろうか。中島の自己破壊衝動、生に対するペシミズムというよりニヒリズムについてはいくつかの理由を想定することができる。それは生来のものであったかもしれず、薬物やアルコール依存の副産物であったかもしれない。しかし私は震災のトラウマもまたそこに大きく働いているように感じるのだ。思うに中島が世に出た1980年代とはおそらくこの国にとっても最も幸せな時代であった。それから二つの震災を経験し、私たちは経済的な余裕、そして精神的な余裕を失っている。今日、私たちを蝕む自己破壊衝動とニヒリズムに対して、中島はいわば「炭鉱のカナリア」として自らの生を代償として警告したのではなかっただろうか。

by gravity97 | 2016-10-12 23:02 | エンターテインメント | Comments(0)

スティーヴン・キング『ドクター・スリープ』

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スティーヴン・キングが2013年に発表した「ドクター・スリープ」の翻訳が刊行された。なんと1977年に発表された「シャイニング」の続編とのこと。読む前から期待が高まる。「シャイニング」を私はパシフィカ版で翻訳された直後に読んだ。いわゆる幽霊屋敷を主題とした傑作であり、この前後に次々に翻訳された「呪われた町」「キャリー」ともども、初期作品を立て続けに読んでたちまち私はキングという未知の作家に魅了された。パシフィカ版は今手元にないため、私はまず同じ訳者による文春文庫版の「シャイニング」を再読してから「ドクター・スリープ」に向かうことにした。本書のレヴューにやや時間がかかったのはこのためである。しかしこの迂回、あるいは準備は必要であった。30年以上の時を隔てて発表された「シャイニング」と「ドクター・スリープ」を通読することによって二つの小説の世界ははるかに広がるように感じられるからだ。
 このところ私はキングの長編が翻訳されるたびにこのブログでレヴューしてきた。私はこれまで「暗黒の塔」シリーズ以外、ほとんどのキングの長編を読んできたが、実はキングの長編にはかなり出来不出来のばらつきがある。これまで私は「悪霊の島」「アンダー・ザ・ドーム」「11/22/63」についてレヴューしたが、今となってみれば「悪霊の島」はさほどの名作ともいえない。しかし09年の「アンダー・ザ・ドーム」、11年の「11/22/63」そして13年の「ドクター・スリープ」とほぼ2年ごとに発表された作品の完成度の高さには目を見張る。この作家は60歳を超えて新たな黄金期に入ったかのようだ。「シャイニング」は「呪われた町」、「ペット・セマタリー」と並んで初期のキングを代表する屈指の名作であったが、キングとしても初めて先行する作品の続編として構想した本書は「シャイニング」に完全に拮抗している。今回は「シャイニング」にも論及しながら、内容にもかなり立ち入って論じる。
b0138838_226219.jpg「シャイニング」は後にスタンリー・キューブリックによって映画化され、これも歴史的なフィルムであるから先にキューブリックの映画をとおしてこの小説を知った者も多いだろう。しかし両者はいくつかの重要な点、とりわけ結末部において決定的な相違がある。言うまでもなく「ドクター・スリープ」は小説「シャイニング」の続編であるから、両者を混同するとわかりにくくなる。この意味でも事前に「シャイニング」を再読することをお勧めする。「シャイニング」のストーリーを手短にまとめるならば次のとおりだ。作家を志望するジャック・トランスは冬の間閉ざされるコロラドの由緒あるホテル、オーバールックホテルに管理人として赴任する。雪に閉ざされて外界から途絶するオフシーズン、この大きなホテルを保守することがジャックの仕事であった。しかしこのホテルには呪われた歴史があり、悪霊に憑依されていた。一方、ジャックの5歳の息子、ダニーは「かがやき(シャイニング)」と呼ばれる一種の超能力をもち、言葉を介さずに意思を疎通したり、他者の思考や未来を読むことができた。ダニーは空想の中で交信する想像上の友達、トニーから、ホテルは忌まわしい場所であるから行くべきではないという警告を受けるが、母ウェンディとともに父に同行する。穏やかな日々とともに平穏に始まった一家三人の暮らしはいくつかの不気味な予兆とともに暗転し、ホテルが雪に閉ざされる頃からジャックは精神に変調を来す。ジャックはホテル内に出没する幽霊のような者たちから、長年断っていた(実際には存在しない)酒を勧められ、妻と息子を殺すように唆される。雪によって隔絶された世界に次第に狂気が渦巻いていく描写はキングの独擅場といえようし、キューブリックの映画も原作をかなり改変しながらも鬼気迫るものであった。未読の読者もいることと思うから、物語の結末はここでは述べないが、「ドクター・スリープ」はオーバールックホテルの惨劇を生き延びたダニーの36年後の物語である。
 序章とも呼ぶべき「その日まで」という冒頭の章においては、いわば本編への緩衝として「シャイニング」の3年後、8歳のダニー、ダン・トランスの物語が語られる。(ちなみに「シャイニング」においても最初の章は「その日まで」と題されて、オーバールックホテル到着までのトランス一家の物語が語られているから両者は韻を踏んでいるともいえようし、いずれの小説にも「生死の問題」と題された章が存在する)ここではダンはなおも惨事のトラウマを引きずり、同時に「かがやき」と呼ばれる能力が健在であることも暗示されている。ダンほどではないが「かがやき」の持ち主で「シャイニング」においてダニーを救った黒人のコック、ディック・ハローランも登場する。ここでハローランがダニーに授けた「忌まわしい存在」への対処法は物語の終盤で大きな意味をもつこととなる。続いて既に成人となったダンが登場する。しかしあろうことか、ダンもまた亡き父、ジャックを破滅へと追い込んだアルコール依存へ落ち込みかけている。おそらくここにはかつて薬物に依存していたというキングの実体験が反映されていよう。アルコール依存との相剋は「シャイニング」「ドクター・スリープ」を通底する裏のテーマなのである。この章の最後でダンは一つの恥ずべき行いを犯し、以後の彼を苦しめるトラウマとなるが、これは「シャイニング」においてジャックが怒りにまかせて幼いダニーの腕を折った事件が何度となくフラッシュバックするエピソードを反復している。このほかにも「シャイニング」と「ドクター・スリープ」の対照はいたるところに認められる。
 ダンはアメリカ各地のホスピスで看護師として渡り歩いている。禁酒と飲酒を繰り返す生活が定職と定着を許さないのだ。ニューハンプシャー州のフレイジャーという町に流れてきたダンは、トニーの「ここがその場所だよ」という声を聞く。ダンは再び自分の中の「かがやき」が増したことを知り、ここから物語が起動する。同じ頃、フレイジャーの近郊の町で一人の女の子が生まれる。出生時に羊膜をかぶって生まれたというエピソードはいうまでもなく「シャイニング」におけるダニー誕生のエピソードの再話であり、この少女、アブラもまた強い「かがやき」をもっていることを暗示している。アブラは幼少時からサイコキネシスや予知といった超能力を使い始めるが、娘の力を彼女の両親、デイヴィッドとルーシーが初めて思い知ったのは2001年9月11日のことであった。この日、同時多発テロの発生を感知したかのごとく同じ時刻、幼いアブラは原因不明のパニックをきたして大声で泣き続けるのみならず、両親にそれぞれテロの現場を幻視さえさせたのであった。そしてアブラと同様に同時多発テロを予知し、ワールドトレードセンターの対岸に陣取ってその一部始終を見守る一団がいた。ローズ・ザ・ハットという女性のリーダーに率いられた「真結族 true knot」たちである。彼らは人間から「命気(スチーム)」と呼ばれる生気を吸い取りながら生き続ける長命の邪悪な種族であり、多くの人間が苦しみ死んでいく場に臨場しては命気を補給していたのである。同時多発テロの惨劇の場に彼らが赴いたのは、そこがありえないほどの栄養補給の場であったためだ。しかし長い年月が経つ間に彼らも少しずつ数を減らし(彼らの場合は「死ぬ」ではなく「転じる」と呼ばれる)、リーダーのローズにとって自分たちの勢力をいかに保持するかが喫緊の問題であった。彼らにとって「かがやき」をもった者の命気はことに貴重であり、彼らはそのような存在、多くは年少者を誘拐し、残忍な方法で殺害し、犠牲者たちから命気を吸い取ることによって生きながらえようとしていた。ダン、アブラ、そして真結族という三つの物語が出揃ったあたりで、物語は加速する。ダンとアブラは出会う前から互いを感知する。ダンはアルコール依存から脱しようとする者たちの会合で無意識のうちにメモ帳にアブラの名前を書き留め、アブラはダンの勤め先の黒板にメッセージを浮かび上がらせる。しかし彼らが互いに感応しあったように、「真結族」、とりわけローズも彼らの存在を感知する。ブラッドリー・トレヴァーという「かがやき」をもつ少年をローズたちが誘い出して殺したことを知って、アブラは「真結族」に強い敵意を抱く。そしてトレヴァーの命気を吸ったことは「真結族」にとって別の意味で決定的な意味をもった。第1部の最後の一文「おなじその二年のあいだ、『真結族』の血流のなかでなにかが眠っていた。それはブラッドリー・トレヴァー、別名、野球少年のちょっとした置き土産とでもいうべきものであった」はキングらしく暗示に富んだ先説法である。
 第2部以降、互いに様々の策略を弄して繰り広げられる正邪の死闘について、ここでこれ以上触れることは控える。ダンはアブラの父親のデイヴィッド、ダンとアブラをともに知る医師のジョンとともに、あるトリックを用いてローズたちに挑む。これ以後のジェットコースターのような展開はキングの近作に共通している。予想されたことではあるが、物語は終盤において「シャイニング」の舞台となった呪われた地、オーバールックホテルの廃墟へと向かう。明示はされないが、「シャイニング」においてホテルに憑依した悪霊と「真結族」は同一であるかもしれない。両者はともに「かがやき」を持つ子供、「シャイニング」であればダニー、「ドクター・スリープ」であればアブラを自らの中に取り込もうとする。あるいは「ドクター・スリープ」においてローズは直接アブラやダンの意識に語りかけるが、これは「シャイニング」においてダニーを救おうとオーバールックホテルへ向かうハローランを、悪霊が彼の意識に直接語りかけることによって恫喝したことと似ている。「真結族」については作中でバンパイアという言葉が用いられるが、確かに彼らのふるまいは血液ではなく精神力を貪るバンパイアといってよく、この点から太古よりのバンパイア伝説、キングであれば「呪われた町」に登場する邪悪な存在も連想されるかもしれない。一方で「シャイニング」において邪悪な存在は名をもたず、一種の匿名的な幽霊であるのに対して、「ドクター・スリープ」においては固有名詞と人格をもち、複数の具体的な存在として描かれる。「シャイニング」においてオーバールックホテルという場に憑依した正体不明の悪霊は「ドクター・スリープ」においては擬人化されている。物語の怖さという点で「シャイニング」の方が一枚上手に感じられるのはこのせいであろうか。「アンダー・ザ・ドーム」「22/11/63」はいずれもどちらかといえばSF的な設定の物語であり、そのためか先ほどジェットコースターと呼んだリーダビリティーに富んでいた。正統的なホラーに回帰した本作でも、「シャイニング」や「ペット・セマタリー」にみられた物語全体に霧のように立ち込める不分明な恐怖に代わり、具体的でわかりやすい擬人化された悪との闘争が描かれている。この点は本書を論じるにあたって評価が分かれる点かもしれない。
 「シャイニング」においては冬の間、雪によって隔絶されるホテルに閉じ込められた恐怖、移動できないことの恐怖が描かれる。この点も「ドクター・スリープ」とは対照的だ。「真結族」は多くのオートキャンプ場を所有し、多くの車を連ねてそれらをめぐりながら生活している。忌まわしい行為を通じて通常の人間とは比較にならない長命を得た彼らにとって、同じ場所に留まることは自分たちの異質さを周囲に気づかせる危険があるからだ。あるいは久しぶりにトニーの声を聞いてニューハンプシャーの小さな町に留まることを決意するまで、ダンもまた移動によって人生を消費してきた。移動と滞留という対立的な主題からキングの小説を分析することも可能ではなかろうか。「呪われた町」や「スタンド」、あるいは「セル」においては移動が優勢であり、「ミザリー」や「アンダー・ザ・ドーム」では滞留もしくは移動の不可能性が主題とされている。「シャイニング」と「ドクター・スリープ」を同じ物語の前編後編と考えた場合、滞留から移動へ、主題が逆転する様は興味深い。
最初に述べたとおり、「ドクター・スリープ」は36年後のダニーの物語であり、小説自体も「シャイニング」の36年後に発表されているから、物語の時間と現実の時間は同期している。そして物語自体も一つの歴史的現実と接している。いうまでもなく9・11の同時多発テロだ。警察署に保管されたビュイック、突然に立ちこめる霧、なにげない品物や現象が実はこの世界とあの世界を隔てる皮膜であり、それが破れておぞましい恐怖が私たちの現実になだれ込んでくる状況をキングはいくつもの作品の中で迫真的な筆致で描いた。思えば同時多発テロもそのような特異点、皮膜の破れではなかっただろうか。日常の背後に広がる暗黒、キングが繰り返し描いた闇はもはや超自然的なそれではなく、私たちの時代に遍在する。私は村上春樹から宮部みゆきにいたる現代日本の小説に同様の闇を認めることができるし、それはディケンズからドストエフスキーにいたる西洋文学の主流にも共通している。私がキングを読む切実さのゆえんでもある。

by gravity97 | 2015-06-30 22:08 | エンターテインメント | Comments(0)

宮部みゆき『ソロモンの偽証』

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 さすがに通読には時間がかかった。本書は宮部みゆきの小説の中でも最長の長編であり、量にして文庫六分冊。しかし文庫版が発売されてから読み始めるまでに躊躇があったのは長さばかりが理由ではない。同じ著者による本書に匹敵する長編としては文庫五分冊の「模倣犯」がある。私は「模倣犯」もまた傑作であると思うが、人間の悪意の連鎖、そして物語の展開の救いのなさに読み進めるのが辛かった。悪を通して人は自分たちの魂の深淵をのぞき込む。私たちの日常の中に陥穽のように潜む悪意を抉り出すことにおいて、宮部の筆は仮借がない。例えば私は杉村三郎を主人公とした連作長編のうち、「誰か」と「名もなき毒」をそれぞれ文庫化されたタイミングで読んでいるが、一見ごく普通の人間の内部に巣食う名状しがたい悪意を描くこれらの作品は一種のサイコホラーとしても読めなくはないし、思えば「魔術はささやく」や「火車」といった初期の代表作においても同様のデモーニッシュな悪意との遭遇が描かれていた。「模倣犯」や「名もなき毒」に類した物語がこれほどの長尺で続くのであれば少々きついなと感じ、さらに本書が学校で死んだ少年をめぐる物語だと聞いて、おそらく相当に深刻な内容となるのではないかと推測したからだ。
 読み始めると、私の危惧は杞憂に終わった。物語は実によく練られており、頁を繰る手は止まらない。10日ほどを費やして読み続け、私は深い感動とともに本書を読み終えた。確かに忌まわしい事件があり、輻輳する悪意がある。しかしここには人間が善でもありうることへの高らかな希望が謳われている。活躍するのは15歳、中学三年の少年少女たちであり、本書は一種の少年少女小説として読むこともできる。私は登場人物たちと同じ世代、そして実際にここで描かれているような状況の中で苦しんでいる若い人々にこそ読んでほしいと思った。
 物語は三部構成をとり、量的にもほぼ等しい。文庫版ではそれぞれが上下に分かれて六分冊となっている。後でも触れるとおり、この小説は形式的にもきわめて巧みに構成されており、三つのパートは時間的、内容的に画然と分かたれている。すなわち「第一部 事件」においては少年の謎の死とそれをめぐって次々に連鎖する出来事が描かれる。少年が学校の屋上から身を投げた日時は特定されている。1990年のクリスマス・イヴ。日付が特定されていることに留意しておこう。いうまでもなくバブルの絶頂期であり、ここで語られる事件の背景にはバブル景気に狂騒する社会がある。宮部の代表作「理由」の背景と同一であり、この時代に対する作者の拘泥がうかがえる。そして実際にこの小説の中でもこの時期でなければありえなかった事件が描かれている。第一部はこの日からほぼ三カ月間の物語であり、この時点で主人公たちは中学校2年生である。このパートの最後で主人公の一人、藤野涼子は一つの決意をする。それは少年の死の真相を自分たちの手で究明することであった。「第二部 決意」も冒頭に日付が与えられている。1991年7月20日、夏休みの直前の一日だ。この日、藤野はクラスメイトたちに中学3年に課題として与えられた「卒業制作」として同級生の死の真相解明を行うことを提案し、それは少年を突き落とした疑いをかけられている少年に対する「学校内裁判」という異例の試みとして実現されることとなった。陪審員制をとり、検事と弁護士、判事から廷吏までを生徒たちが務める模擬法廷の開廷に向けて、それぞれの役割を買って出た生徒たちは真相の究明に向かって調査を開始する。準備は8月1日から14日までの二週間。15日に法廷を開廷し、5日間の審理の後、20日に判決を言い渡すというスケジュールはあらかじめ定められている。第二部ではこのうち8月10日までの出来事が語られる。「第三部 法廷」はタイトルのとおり、学校内裁判を実況し、8月15日から20日までの出来事を描く。このあたりの構成も巧みだ。今述べたとおり、8月11日から14日までの主人公たちの動静は意図的に省略されている。つまり検事役と弁護士役の生徒たちがこの間にどのような調査をしたか知らされないまま、読者は法廷での証言に立ち会うこととなるのだ。宮部は読者が知りうる情報を巧妙に制限したうえで物語を進める。同様の工夫は話法にも認められる。第一部と第二部で話者は全能の位置にあり、登場する少年少女の家庭の情景がていねいに描き込まれる。刑事の父と司法書士の母をもち、両親と姉妹の愛情の中で育っている藤野、病弱な母と仕事に追われる父の間で疎外感に苛まれる野田健一、兄との冷たい確執の中にある柏木卓也、やくざのような父親の暴力に脅かされ、そのはけ口を求めるかのように橋田祐太郎と井口充を引き連れて校内外で暴力を働く大出俊二。いつもにも増して登場人物たちの周辺が丹念に書き込まれ、物語はくっきりとした立体感を帯び始める。いくつもの挿話の中に周到に伏線が張りめぐらされており、一見物語とは無関係なエピソードが重要な意味をもつ点は宮部のミステリーの定石だ。物語の展開も正統的なミステリーを踏襲している。すなわちまず第一部で事件=事実が提示され、第二部で関係者への聞き取りがなされる。そして第三部で「真相」が開示される。第三部において全能の話者に代わり、裁判の場に立ち会う関係者たちの視点をとおして物語が語られる点は注目に値する。多くの場面が裁判における証人とのやりとりとして記述される第三部に全能の話者を導入すると物語が平板化されてしまうためであろうか。いや、何よりもそこで明らかにされる真実が登場人物たちの内面と深く関わっているからではないか。裁判の中で明らかになる意外な事実に対して話者は自らの思いを開陳する。思いがけない事件で審理が中断される裁判四日目を除いて、初日から結審の日まで裁判の進行は物語と深く関わる四人の登場人物、少年課の女性刑事、廷吏、陪審員、検事の父、弁護人助手の目を通して、彼らの心の揺れとともに語られる。通常のミステリーであれば途中で語りの視点が変わることはありえないだろうし、少なくとも謎が解明される局面においては中立的な視点こそが要請されるはずだ。しかし宮部はあえて複数の登場人物たちを次々に焦点化して、謎解きを行う。さらに踏み込むならば、このような語りは真実が一つではないこと、それぞれの登場人物が異なった真実を見出したことを暗示しているとはいえないか。かかる発想は実はこのミステリーの根幹と深く関わっている。
 未読の読者も多いであろうから、ここでは裁判の終盤で明かされる驚くべき事実については触れない。ただし、それは決して意想外ではない。私自身、第二部のあたりでおぼろげに想像できたし、実際に何人かの登場人物は物語の中でそれを予感し、口にさえしている。そもそも少年の死が殺人であると告発する手紙を書いた人物は第一部において、つまり全能の話者によって名指しされているから、その真偽も含めて読者にはあらかじめ判断の材料が与えられている。先にも述べたとおり、本書の読みどころは唯一の真実をめぐるトリッキーな謎解きではなく、学校内裁判という前代未聞の試みによって登場人物たちがそれぞれの「真実」にたどり着くまでのさまざまな葛藤ととらえるべきであろう。最初から告発者が特定されている点から本書を一種の倒叙推理とみなすこともできようし、第三部にいたっては堂々たるリーガル・ミステリーである。しかし本書を何らかのジャンルに分類するならば、何よりもビルドゥング・ロマンスという名こそがふさわしい。ビルドゥング・ロマンス、教養小説とは登場人物が様々な経験を通して内面的に成長していく過程を描いた小説のことである。この小説では同級生の死をめぐる同級生を被告とした裁判という痛みを伴う体験をとおして、15歳の中学生たちがわずか数日のうちに大きく成長していく姿がみごとに描かれている。大人顔負けの駆け引きで不可能と思われていた学校内裁判を実現させる藤野涼子、判事として悠然と審理の総指揮にあたる優等生の井上康夫、転落死を遂げた柏木の知り合いでほかの中学に在籍しながら弁護人を引き受けた謎めいた少年、神原和彦。物語の中心となる三人のふるまいはとても中学生とは思えない大人びた印象を与える。一方で陪審員に名乗り出た藤野の親友とその幼馴染、バスケットボール部と将棋部の主将、あるいは被告とされる少年のガールフレンド、さらには廷吏を務める空手家の少年といった、どこにでもいるような、そしてこの事件がなければ交わることのなかった生徒たちもそれぞれの務めを果たす中で成長していく。宮部はもともと少年少女の描写に長けているが、この作品における描写は精彩に富み、細やかな書き込みを通して、読者は彼らの内面へと深く分け入っていく。とりわけ「決意」の章の前半、藤野の呼びかけに応じ、クラスメイトたちが次々に馳せ参じて来る場面はこの小説の一つのクライマックスであろう。「事件」の章を覆っていた暗い曇天に、さながら一条の光が差し込んだかのようであり、私たちはその光に導かれてこの暗鬱な事件の真相へと向かう。これに対し、真相を究明しようとする生徒たちに対して、学校側はそれを妨げようとする。体罰やいじめ、自殺といった現実の事件に対して多くの学校で教師たちがとった態度を知る私たちにとってこのような展開は意外ではないし、本書でも生徒たちに寄り添おうとする教師と事件を隠蔽しようとする教師たち、学校内裁判を支援する教師たちと阻止しようとする教師たちの葛藤が描かれる。しかしかかる抑圧は教師個人の問題といよりも学校という制度に固有のものではないか。学校という制度に内在する抑圧性は本書の隠れたテーマといえよう。死を遂げた柏木が中学校で唯一心を開いた美術教師、丹野は、裁判の席で柏木が好んだブリューゲルの絵の暗喩について次のように証言する。「学校という体制の中では生徒はそれに従うしかない。体制に反抗すれば処罰されるわけですから」「密告者と密告された者の関係は、たとえばいじめられている生徒と、その生徒がいじめられていることを知っていながら、自分に火の粉がかかることが怖ろしいばかりに、見ないふりをしているまわりの生徒たちの関係に似ています」「監視しながら同時に監視されている。先生に目をつけられたり、生徒同士の間でいじめの標的にされることを恐れて、本音を言うなんてとんでもない。本当の自分を見せることもできない、表面的なつきあいに調子を合わせて恭順を装うしかない生活」この主張は一面において真実であり、柏木の死の真相と深く関わっている。しかし一方でこの小説を読み終えて読者が感じる救い、カタルシスは学校という場で初めて可能となった生徒たちの友情、紐帯に負っている。この小説において学校という制度は一人の生徒を死に追いやる抑圧であると同時に、そこで育まれた連帯によってその死に意味を与えるという希望でもあり、両義的な意味をもつ。本書は学校という場でなければ成立しえない物語であり、それゆえ作者は「学校内裁判」というありえない設定を持ち込んだのであろう。
 裁判とは真実の前に人を傷つける場でもある。傷つく経験を共有し、それを乗り越えることによって少年たち少女たちは成長する。裁判をとおして成長するのは生徒たちばかりではない。教師や彼らの家族、学校内裁判に関わった者たちはそれぞれに傷つきながらも一種の浄化を経験することとなる。悪意が連鎖し、暗い緊張が張り詰めた第一部を読んでいる時には想像すらできないだろうが、裁判を経て「真実」が明らかになった最後の場面で、読者は登場人物たちに等しくいとおしさを覚えるはずだ。読後感は一言でいうならば清冽であり、ここで登場人物たちと別れることはあまりにも惜しい。彼ら彼女らがそれからどう生きたかを知りたいという思いに強く駆られるだろう。「2010年、春」と題され、最後に付されたエピローグ風の文章はこのような思いへ応答する。タイトルが示すとおり、そこには登場人物の一人の20年後の姿が短く書き留められている。さらに文庫版には最後に「負の方程式」という特別書き下ろしの短編も付されている。そこでは20年後の藤野涼子の活躍が描かれる。検事ならぬ弁護士となった藤野はここでも学校を舞台にしたもう一つの「偽証事件」に挑むこととなる。そして藤野の口をとおして語られるもう一人の登場人物の意外な消息に読者は思わず微笑することと思う

by gravity97 | 2015-02-19 20:50 | エンターテインメント | Comments(0)

ロバート・ラドラム『マタレーズ暗殺集団』

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 年末年始にヨーロッパを訪れた。前にも記したが、海外に赴く際には長時間のフライトに備えて事前に読みやすい長編小説を準備する。私の場合、必ず携える作家はロバート・ラドラムだ。以前より海外で飛行機に搭乗する際、私は現地の旅行者がどんなペーパーバックを持ち込むかに関心があり、常に横目でチェックするのであるが、少なくとも私が頻繁に海外で仕事をしていた10年前から20年前くらいの間、ラドラムとダン・ブラウンは航空機内で読まれている作家の双璧であった。
 私の考えではフライトの際に読まれる小説はいくつかの特質を兼ね備えるべきだ。まず少なくとも往路もしくは復路を費やして読む必要のある長さ、これから旅する土地が舞台となること、そしてリーダビリティーである。大半が厚い文庫本で二分冊、アメリカとヨーロッパを謀略の舞台とし、場面転換が多く飽きることのないラドラムはまさにうってつけなのだ。フライトのたびに新しい小説を持ち込んだから、今、書庫で確認しただけでも私は20作品近いラドラムの文庫本を所持している。述べたとおり、ラドラムの小説は多くが二分冊、中には三分冊の長尺であり、文庫にもかかわらず一つの書架を占有するほどの量がある。逆に言えばそれほど多くの作品が日本語に訳されている訳であるが、訳者もあとがきで嘆くとおり、アメリカと日本で受容にこれほどの差がある作家、つまりアメリカでは売れているが日本では知られていない作家はほかに例がないだろう。実際、アマゾンで検索してみるならば、ラドラムの小説は多くが入手可能とはいえほとんどが中古本であり、市場では品切れ状態なのである。一般にラドラムの名前はベストセラー作家というより単に映画「ボーン・アイデンティティー」の原作者と呼んだ方が通りがよい。「ボーン・アイデンティティー」は邦訳タイトルとしては「暗殺者」。記憶を喪失した秘密工作員を主人公にしたスリラーはラドラム作品中でも白眉と呼ぶべき佳作であるが、ほかの作品も極端な出来不出来はない。ひとまず機内に持ち込めば、片道分のフライトは楽しめ、こちらとしても特にそれ以上は期待していない。それぞれの物語は全く異なっているにもかかわらず、読み終えるといずれもよく似た印象を与える点も日本でラドラムが人気のない理由かもしれない。この点は同じようなスリラーを量産したフレデリック・フォーサイスやトム・クランシーと比べる時、直ちに了解されるだろう。
 さて、今回機内に持ち込んだのは1979年に原著が発表された「マタレ―ズ暗殺集団」。いうまでもなくベルリンの壁が存在し、冷戦が続いていた時期に執筆された作品である。北上次郎によれば、ラドラムで読むべき作品は「マトロック・ペーパー」「暗殺者」そしてこの「マタレーズ暗殺集団」の三冊のみであり、あとは同工異曲ということである。この発言がどの時点でなされたかは不明であり、80年代以降に発表された小説にも親しんだ私としてはやや厳しい評価であるように感じられないでもないが、確かにこの小説はよく描けている。冒頭でアメリカとソビエト連邦(ロシアではない)の二人の要人、アンソニー・ブラックバーンという将軍とディミトリー・ユーリエヴィッチという核物理学者が謀殺される。米ソ当局は暗殺者として、それぞれソビエト連邦とアメリカの腕利きの工作員、ワシーリー・タレニエコフとブランドン・アラン・スコフィールドを容疑者として割り出すが、いずれの国も彼らの関与を否定する。冒頭から米ソの冷戦を強く意識した内容である。このうちタレニエコフはKGBで指導を受けた老人から死の直前に「マタレーズ」なる秘密組織が暗躍を再開したという警告を受ける。マタレーズとは要人の暗殺を請け負い、世界史の闇を支配してきた謎の集団であり、スターリンやルーズベルトの死にも加担していたという。冒頭の二つの暗殺もマタレーズの手によるものであったのだ。秘密の暴露、任務の移譲、未知の敵。これらの説話論的主題に彩られた冒頭は、例えば主人公がジュネーブで再会した旧友から世界的な蜂起計画の進行を警告され、その直後に旧友が殺されるという「戻ってきた将軍たち」のオープニングと同一であり、先に述べたようにラドラムの小説の読後感が相似した印象を与える点はかかる物語の構造に由来しているだろう。さて、タレニエコフはこの陰謀を阻止するために老人のアドバイスに従ってスコフィールドと接触しようとするが、実はこの二人はかつて冷戦の中で恋人と弟を殺しあった仇敵同士なのである。このあたりの強引さというか御都合主義には呆れもするが、機上で頁を繰る分にはさほど気にならない。したがって両者が宿敵と和解し、世界規模の陰謀に立ち向かうまでの緊迫したやりとりは本書の読みどころといえよう。手を組んだ二人はかつて20世紀初頭、マタレーズが設立されたコルシカ島に渡り、その秘密を探ろうとする。この過程で二人が何度も危機に陥り、多くの殺人に立ち会うことはラドラムの読者であれば誰でも予想がつく。コルシカ島で二人はマタレーズ結成の瞬間に立ち会った老婆とその孫娘アントニアに出会う。毅然とした美女アントニアの登場によって二人のうちのいずれか、おそらくはスコフィールドが彼女と恋に落ちるであろうこともラドラムの定石である。ジェフリー・ディーヴァーとは異なり、読者の予想が裏切られることがないのがラドラムであり、予定調和をその本質としている。しかしながらたたみかけるような事件の連続、スコフィールド=タレニエコフの側とマタレーズ側をたえず往還する叙法は緊張を持続させ、読者は物語の帰趨から一瞬たりとも目を離すことができない。予定調和と緊張の両立こそラドラムの名人芸というべきかもしれない。舞台はニューヨーク、モスクワ、アムステルダム、ローマ、レニングラード、エッセンとめまぐるしく変わる。いずれの都市でもマタレーズ・サークル(本書の原題であり、暗殺者たちの胸に刻まれた円形のタットゥーと二重の意味をもつ)の暗殺者が暗躍し、関係者は次々に殺害される。最初は守勢に立たされたスコフィールドたちであったが、マタレーズ結成に関わった各国の実力者の末裔たちを突き止め、彼らの上に君臨する「羊飼いの少年」なる黒幕の正体を次第に暴き出していく。携帯電話もインターネットもない時代のマンハント、その圧倒的なディテイルについては直接お読みいだくのがよいだろう。欧米の主要都市、高級ホテルやクラブを舞台にマッチョなヒーローが敵と闘い、美女とベッドをともにするという荒唐無稽なストーリーはイアン・フレミングの007シリーズなどとも共通し、20世紀末のホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの男性にとっては一つのファンタジーを形成しているだろうが、ジェンダーや階級といった問題意識をくぐり抜けた私たちにとっては少々居心地が悪くも感じられる。
 b0138838_20483992.jpgさて、本書には実は続編がある。原著としては18年後の1997年に発表された「マタレーズ最終戦争」(原題 Matarese Countdown)である。本書も文庫二分冊のほとんど同じ分量である。今回のフライトでこちらも通読したが、こちらはラドラムらしからぬ凡作であった。マタレーズが復活したというダイイングメッセージを残して実業家たちが怪死する。CIA副長官のフランク・シールズは若手のエリート工作員キャメロン・プライスを抜擢し、カリブ海に隠棲し、妻アントニアとともに悠々とした余生を送るスコフィールドに接触し、彼とともに情報の真偽を確認するように命じる。しかしここでもマタレーズは先手を打ち、彼らは何度も窮地に陥る。前作のスコフィールドとアントニアに代わり、本作のヒーローとヒロインはプライスと陸軍情報部将校のレスリー・モントローズであり、彼らに加えて空軍パイロットのルーサー・コンシダイン、イギリスの情報機関M15長官のジェフリー・ウォーターズらがいわばチーム・スコフィールドを結成してマタレーズの陰謀に立ち向かう。しかしながら人物の描写はきわめて平板で(もっともラドラムの場合、人物描写に深みを期待することは最初から期待できない)、東西冷戦を背景として前作に導入された緊張も欠いているため、本書を通読するのは少々辛く感じられた。そもそも原題にあるカウントダウン、マタレーズの蜂起計画の詳細が最後まで明らかとされないため、人物たちの動きにリアリティーや必然性が感じられないのである。
 しかしながらこの小説が発表された時期を考えるならば、内容には示唆的もしくは予言的な部分がある。1997年という時代は端的に冷戦と9・11のはざまである。「暗殺集団」の背景をかたちづくったアメリカとソビエト連邦の対立は「最終戦争」の発表時にはもはや存在しない。一方で昨今の欧米のスリラーではテロリストのステレオタイプとも呼ぶべきイスラム系の人物も登場しない。私の知る限り、ラドラムの小説においては『暗殺者』にベネズエラ人の実在のテロリスト、ジャッカルが姿を現す以外に特定のモデルをもったテロリストやイスラム過激派は登場しない。ネオ・ナチ、退役した狂信的な軍人によって結成された秘密組織、国連に巣食う陰謀、登場する敵役もまた先に述べたとおり、常にWASP的な想像力の範囲内である点にラドラムの限界を指摘できるかもしれない。ラドラムが没したのは同時多発テロの半年前、2001年3月のことであったから、もしラドラムが生き長らえて同時多発テロを経験していたら、どのような小説として結実したかという問題は興味深いし、巨視的な観点に立つならならば、それは欧米のフィクションに登場する「テロリスト」が「アラブ・ゲリラ」から「イスラム戦士」へと名指し変えられる状況と関連しているだろう。冷戦が終結した後、「最終戦争」においてマタレーズがその影に隠れて陰謀を押し進める隠れ蓑は何か。それは多国籍企業である。小説の中では新聞の報道等を引用する形式で多国籍企業が関連企業を買収し、世界的な寡占状態が進行する過程が随所で語られる。かかる寡占化とマタレーズの世界支配に向けてのカウントダウンがどのように結びついているかが具体的に説明されない点はこの物語の致命的な弱点である。しかし今、私たちはマタレーズ暗殺集団が暗躍せずとも「グローバル化」という名の産業の寡占化が世界規模で進行していることを知っている。のみならず私たち自身がそのような状況を歓迎しているのではないだろうか。それはかつてこのブログで触れたギュンター・アンダースが「世界機械」と呼んだ趨勢であるかもしれず、マタレーズが存在せずともこの小説で描かれた世界は実現されつつあるのだ。
 このたび久しぶりにトランス・ヨーロッパ・イクスプレスならぬインターシティーに乗車して驚いたことがある。車内で若者たちが携帯を手にしている風景は日本の通勤電車と変わることがない。しかも何というゲームか私は知らないが、彼らが夢中でのぞきこんでいるゲームは明らかに日本でも若者たちが興じているそれだ。かかる風景の世界的画一化に私は軽い恐怖心さえ覚えた。かつては言語も習慣も異なる海外へ赴くことは異文化の中に身を置くことであった。しかし今や若い世代においては、少なくとも日本と欧米で携帯端末を中心とした文化にほとんど差異がないのである。私自身、初めて海外からWi-Fiでラインやメイルに接続し、それがいかにたやすいかを実感したのも今回の旅行であった。おそらく若い世代はかかる情報インフラをはるかに豊かに享受することができるだろう。しかし私はこのような一元化を必ずしも好ましいとは感じない。世界が選択と集中を加速化するうえで一元的な価値への統合は望ましいかもしれない。しかし私たちが望むのはそのような世界であろうか。ラドラムの小説を絵空事と呼ぶのはたやすいが、マタレーズのごとき荒唐無稽の存在ではなく、より狡猾で非人称の意志が今や世界を制覇しようとしており、私たちもそれを進んで受け入れようとしているのではないか。かかる不安は果たして長いフライトの疲れによって兆した妄想であったのか。

by gravity97 | 2015-01-12 20:55 | エンターテインメント | Comments(0)

ジェフリー・ディーヴァー『ゴースト・スナイパー』

b0138838_20433256.jpg 安楽椅子探偵の究極の姿、全身不随の科学捜査官リンカーン・ライムを主人公としたシリーズもこれで10作目となるという。このブログでも以前に「12番目のカード」について評したことがある。このシリーズに関して、私はこれまでに「エンプティー・チェア」以外は全て読んでおり、またこのシリーズからスピンオフしたキャサリン・ダンス・シリーズについても何冊か読んだ。「ボーン・コレクター」とともにライムという異形の主人公が登場した際は大きな衝撃を受け、現場に残された微細な手がかりから容疑者を特定していく緻密な推理も実に新鮮であったが、さすがに10作も発表されると作品によって出来不出来があることがわかる。とは言いつつ、毎年秋が深まる頃に翻訳が発売される新作を求めて、期待を大きく裏切られたことはない。本作もシリーズ中ではおそらく標準的な出来といえようが、読み始めるとしばらくほかの事に手がつけられないページターナーという点はいつもどおりだ。
 未読の読者も多いであろうから、ここでは帯に書いてある程度の情報しか内容に立ち入らないようにするが、今回はディーヴァー特有のけれん味あふれるどんでん返しはさほど盛り込まれていない。プライヴェイトにおいてもライムのパートナーの位置を占めるアメリア・サックス。ロン・セリットー、フレッド・デルレイといった捜査官たちから成るチーム・ライムの面々、さらに依頼者、今回はナンス・ローレルというニューヨーク州の女性地方検事補(彼女とサックスとの葛藤が一つのストーリーをかたちづくる)がライムのタウンハウスを訪れて捜査への協力を依頼するというオープニングもいつもどおりである。今回、ライムが立ち向かうのはアメリカの架空の政府組織、テロリストとみなされる人物を謀殺する諜報機関である。開幕冒頭、バハマのリゾート地に潜んだ反体制派ジャーナリストが2000メートルという超遠距離から狙撃されて死亡する。内通者からこの殺人が計画的な暗殺であることを知らされたローレルは国外であれ、アメリカ人を殺害したことを理由に関係者の訴追に乗り出す。(被害者の国籍はこの物語では重要な意味をもつ)ビンラディン暗殺の報に触れた私たちにとってこのような組織が架空であると断言することはもはや難しいとはいえ、このシリーズとしては珍しくサイコパスや殺人狂といった個人を相手にするのではなく、組織対組織の暗闘にライムが関わることとなる。といっても人物造型に長けたディーヴァーであるから、本作にもジェイコブ・スワンなる殺し屋を登場させて物語を引き締める。このような連作の場合、仇役とも呼ぶべき殺人者とライムとの死闘が物語をかたちづくるから、作を追うに従って悪役のインフレーションとも呼ぶべき事態が発生する。つまり新しい仇役は前作に登場したそれより劣ってはならないという法則だ。これは書く側にとっても一つのハードルとなるだろうが、今回登場するジェイコブ・スワンは残忍なナイフの使い手であり、しかも料理を得意とする。このあたり、来日した際には各種の包丁を買い求め、週末ごとに招いた客を自ら腕を振るった料理でもてなすという作者ディーヴァーの姿が投影されており、実際にスワンが小説の中で作る美味そうな料理のレシピはディーヴァーのホームページに掲載されているらしい。偏執的な殺人者と優れた料理人はしばしば一致する。いうまでもこのような存在から直ちに連想されるのはトマス・ハリスが一連の作品の主人公としたハンニバル・レクター博士であるが、この小説のジェイコブ・スワンのキレぶりもなかなかのものであり、悪役インフレーションをみごとにクリアしている。そして彼を操る政府の謀略機関も情報の収集という点において徹底的であり、サックスが発する電話やメイル、あらゆる通信を傍受して、関係者の暗殺をスワンに命じる。実際にこのような操作が現在可能とされているか否かについては、テロリストを未然に暗殺する謀略組織の存在同様、絵空事とはいえない気がする。実は私は本書を読む直前にやはり最近訳出されたテリー・ヘイズの『ピルグリム』という長いスリラーも通読し、どちらをレヴューするか迷いもしたのであるが、そこでもアメリカに対して大規模なテロを企てる顔のないテロリストに対し、アメリカ政府がインテリジェンス能力の全てを投じて追いつめていく様子が描かれていた。『ピルグリム』においてはエシュロン、アメリカの軍事目的の通信傍受システムの存在は自明のものとして描写されていたが、かくも電子機器が発達した社会において、ひとたび政府に抗うならば私たちのプライヴァシーはきわめて危ういことをこれらの小説は暗示している。
 先に登場人物や冒頭がいつもどおりだと記したが、このシリーズを読み続けてきた者としては驚くべき展開がいくつかある。冒頭に記したとおり、最初の設定では全身不随であったライムが本作においては右腕の自由をほぼ取り戻しているのだ。前作『バーニング・ワイヤー』の最後で最新の治療を受けリハビリに取り組むライムの姿が粗描されていたが、今回の物語は明らかにその延長上にある。そして驚くべきことに今まではマンハッタン、セントラル・パークを臨むタウンハウスから動くことのなかった/できなかったライムは今回の物語の中で証拠を求めてバハマまで自ら出向くのである。南国のリゾート、ビーチの上のライムとは想像しがたい情景である。この情景は今回の犯行現場が野外を含むことを暗示しているともいえようが、そのためであろうか『ゴースト・スナイパー』ではライムの独擅場とも呼ぶべき見せ場、つまり自分の部屋にいながら、グリッド捜索を行うサックスからの情報をもとに現場の遺留品から次々に犯人像を推理するライムの姿があまり登場しないのは残念である。ライムとサックスはこのシリーズにおける静と動、推理と行動、安楽椅子と現場という対比を象徴しているが、シリーズを追うに従って次第に前者から後者へと比重が移っているように感じるのは私だけだろうか。もう一点、本書においてはかなり時事的、今日的な問題が作品の中心に置かれていることも興味深い。トリックの核心とも関わるのでこれ以上は説明しないが、インターネットや最新の操作技術を駆使しながらも、これまでライムが扱う事件は重大事件の証人の警備や密入国者の捜査、あるいは天才的な犯罪者のトリックといったさほど時局と関わることがない内容であった。これに対して、今回の事件は9・11以後のアメリカの恥部とも呼ぶべき問題と深く関わっており、政府の機関を州の地方検事が告発しようとする物語の枠組自体に既にこの点は暗示されている。ひとつだけヒントを述べるならば、本書は原題を The Kill Room という。本書を通読するならば意味深長なタイトルであることはすぐさま理解されよう。
 このシリーズは登場人物の成長の記録でもある。以前、(どの事件であっただろうか)捜査の中で頭に重傷を負い、深刻なPTSDに苦しんだサックスの部下、「ルーキー」ことロナルド・プラスキー巡査は今回目を見張るような活躍をして、ライムやサックスを驚かせる。そして今回もまた物語の最後で一人の登場人物が重大な決断をする。おそらく次作に反映されるであろうこの決断がいかなるものであったかは本編を読んでお楽しみいただきたい。既にアメリカではリンカーン・ライム・シリーズの新作が今年発表されている。 The Skin Collector というタイトルからは「ボーン・コレクター」やトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」も想起されよう。邦訳は例によって一年後であろうか。楽しみに待ちたい。

by gravity97 | 2014-11-16 20:47 | エンターテインメント | Comments(0)

ルーサー・ブリセット『Q』

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 特に予定のないゴールデンウイークは長編を読んで過ごすことが多い。今年は偶然にも休日に入る直前、格好のエンターテインメントが翻訳され、十分に堪能することができた。1999年に原著がイタリアで刊行されたルーサー・ブリセットの『Q』という歴史小説だ。なぜイタリアで発表された小説の著者が英語表記なのか。著者名に不審を覚えるのは当然だ。種明かしをするならば、この小説は4人の匿名の執筆者の手による合作であり、商業性の否定と匿名性を主張するルーサー・ブリセット・プロジェクトの産物である。アンチ・コピーライトを唱える彼らは本書の全編をウェブサイト上にアップし、誰でも無料で読むことができるという。ちなみにルーサー・ブリセットとは1980年代にイギリスに現存した無名のサッカー選手らしい。このあたりイタリアのオートノミズムとの関係なども気になるところであるが、これ以上はよくわからない。もっとも匿名性は翻訳においても貫徹されており、あとがきを読んでも具体的な作者については「ボローニャ在住の四人のイタリア人」と記されるのみで、名前さえ示されていない。このあたりの事情も興味深いが、深入りする必要はない。読者は無用な詮索の前にまず頁を開くべきだろう。誰が書いたにせよ、この小説は抜群に面白い。たちまち物語に引き込まれることは間違いない。
 舞台は宗教改革と農民戦争の騒乱が続く16世紀のヨーロッパ。異端審問と傭兵による略奪が猖獗し、世界は荒廃の極にある。この世界で数十年の間隔を置いて、死闘を繰り広げる二人の男の物語が本書だ。一人は名前のない、いや、時代によっていくつもの名前をもつ主人公であり、本書の多くはこの主人公の一人称によって語られる。もう一人はローマ教会の枢機卿、ジャンピエトロ・カラファの密偵Q。Qの行動はカラファへの報告、あるいは日記をとおして私たちに明らかとなる。したがって本書は説話論的には比較的単純な構図をとるが、読み始めると途端に混乱してしまう。一つには巻頭に地図とともに登場人物一覧が掲載されているとはいえ、実に多くの人物が登場することによる。私も何度も一覧を参照し、以前の頁を繰りながら読み進めた。特に冒頭部において主人公が名前をもたないこともこのような混乱と深く関わっているだろう。本書は三部構成でそれぞれ物語の舞台を違えている。このうち第二部以降、主人公はいくつかの名前をもち、焦点化しやすい。しかし第一部において「私」の行動は描写されるが、固有名を伴って名指しされることがないため、「私」と他の登場人物の関係が読み取れないのである。(実は第1部でも主人公は名を与えられている。しかし注意深く読まないと読み過ごすだろう)さらにとりわけ冒頭部において時間構造、テクスト構造はともに複雑である。本書は短い無数の章の集積として成立している。それぞれの章の最初に時代と場所が書きつけてあるため、舞台を特定することは容易であるが、第2部以降では比較的単線化された時間が流れるのに対して、第1部では時間がシャッフルされている。つまり「1555年 欧州ではないどこかの町」を舞台とした序章に続き、読者はいきなり第1部の「1525年、テューリンゲン地方、フランケンハウゼン」において猛烈な戦闘のただ中に叩き込まれ、続いてこの戦闘の後日譚と前日譚を交互に読むこととなる。そしてこのような錯綜をさらに増幅するかのように、物語にはレヴェルの異なるテクスト、つまりQがカラファに当てた書状、登場人物に宛てられた手紙などが次々に挿入されている。つまりかなり集中して読まないと、物語の枠組が把握できないのである。読み手の緊張の中に次第に物語の輪郭が浮かび上がる様子はスリリングだ。以下、私はこの物語の梗概を記すが、おそらくこの程度の基礎知識があった方が本書は理解しやすい。さらに宗教改革、ドイツ農民戦争といった事項に関しては事前に最低限の予備知識を得ておくことをお勧めする。
 序章の最後で一つの歴史的事件が語られる。1517年10月31日、マルティン・ルターがヴィテンベルクの教会の扉に95条の論題を貼り出し、ローマ・カトリックによる贖宥状売買を断罪した。宗教改革の幕開けである。続いてカラファに宛てたQの二通の書簡が示される。いずれもルターの行為の重大性を警告し、脅威を早くに摘み取ることを慫慂する内容だ。教会と諸侯の利害が複雑に絡み合う宗教改革と反宗教改革、それはドイツ農民戦争という血で血を洗う地獄の幕開けであった。今述べたとおり、続く第1部第1章で早くもこの戦争の帰結が明らかとされる。1525年、フランケンハウゼンの戦闘において諸侯や王に刃向かった農民たちはことごとく虐殺され、首謀者とみなされたトマス・ミュンツァーも捕縛される。名前のない主人公はこの混乱の中で、彼が先生と呼ぶミュンツァーと最後まで行動をともにし、ミュンツァーが携えていた彼宛の書信を収めた袋を引き継ぐ。辛くも生き延びた主人公はエルタースドルフという街に逃れ、宗教改革からフランケンハウゼンの戦闘にいたる自らの闘争を回想する。したがって1925年以前(ヴィッテンベルク)と以後(エルタースドルフ)の二つの年記をもつものの、実際には第1部の記述は大半が宗教改革の発端からフランケンハウゼンの戦闘にいたる時代を記録し回想する内容であり、結末が最初に提示される先説法の語りである。ルターの同僚、メランヒトンをも論破する学識をもつミュンツァーは現世の秩序を肯定するルターと袂を分かち、ミュールハウゼンという自由都市を拠点に勢力を拡大する。ミュンツァーは農民と鉱山労働者、市民らの支持を受けて、諸侯や領主といった勢力を排除した共同社会を形成しようと試みるが、ルターはこれを激しく批判し、ルターに督促された諸侯たちは彼らの弾圧を図る。このあたりはほぼ史実を反映しており、重層的な語りの中に多くの陰謀や策略が浮かび上がる様子は圧巻だ。宗教弾圧をテーマにした傑作として私は直ちに二つの大長編を連想した。高橋和巳の「邪宗門」とバルガス=リョサの「世界終末戦争」だ。前者は日本における大本教(小説中では「ひのもと救霊会」)の弾圧、後者はブラジルのカヌードス戦争といういずれも国家による徹底的な宗教弾圧を描き、圧倒的な読後感を残す。本書もこのようなテーマに連なる小説といえようが、これらと比してもローマ・カトリックの強権を背景になされる弾圧はなんとも凄惨で無慈悲だ。神の王国を地上に再現することを望んだミュンターは逮捕され、拷問の果てに殺され、ミュンツァーの同志たちもそのほとんどが悲惨な末路をたどる。そもそもミュールハウゼンに糾合した農民や労働者たちはいかに意気軒昂であったにせよ、教会と結託した諸侯に雇われたプロの傭兵たちの軍隊に敵うはずがなかった。主人公はミュンツァーから預かった袋の中に不審な手紙を発見する。それはミュンツァーの信頼厚いと思われる匿名の人物から寄せられた誤った情報であり、結果的にこの偽の情報に基づいて自らを過信した改革派が圧倒的な敵に野戦を仕掛けた時点でフランケンハウゼンの戦闘の帰趨とミュンツァーの命運は決まっていた。手紙の署名はQ。カラファの密偵は単に農民戦争を内部から崩壊させるのみならず、農民や労働者とルターを離反させ、宗教改革の内部に亀裂を開ける使命を帯びていたことが次第に明らかになる。短い章の積み重ねの中に錯綜した裏切りと謀略がおぼろげに浮かび上がる過程はぞくぞくするほど刺激的だ。
 第1部の最後、カラファに宛てた手紙の中でQはミュンツァーの勢力に代わる新しい異端の一派にカラファの注意を喚起する。それは再洗礼派と呼ばれる異端だ。そしてフランケンハウゼンにおける敗走の13年後、主人公は「井戸から来たゲルト」という名前とともにアントウェルペン(アントワープのことだ)に姿を現す。すでにフランケンハウゼンの同志たちは多くが捕らえられて殺されていた。敗走に次ぐ敗走。この過程で主人公は何人かの預言者と知り合いになる。例えばヤン・マティス、メルヒオル・ホフマン、いずれも異端であり、ローマ・カトリックの敵だ。第2部においても先説法が用いられている点は注目に値する。すなわちアントウェルペンに敗走した主人公はこの地でエロイなる異端者に庇護され、つかの間の休息を過ごすのであるが、ここでも語られるべき事件は既に終えられている。エロイが主人公から聞き出そうとする過去とは再洗礼派の壊滅という事件であり、それは1534年、ミュンスターでの出来事だ。当時ミュンスターはローマ・カトリック、ルター派、そして再洗礼派が拮抗し異常な緊張下にあった。主人公と再洗礼派の仲間たちは激烈な戦闘の果てに前二者をミュンスターの城壁の外に放逐することに成功し、ついに理想的な自治都市を樹立するかにみえた。しかし異端の台頭を認めないカトリック教会と諸侯はルター派と手を組み、ミュンスターを包囲して籠城戦が始まる。敵は城壁の外だけではなかった。再洗礼派の預言者ヤン・マティスは戦闘が終了した後にミュンスターに入城して熱狂的に迎えられるが、オランダから連れてきた部下たちとともに強圧的な神権政治を開始し、多くの市民が殺され、離反していった。主人公も自分たちが奪い取った自由都市が狂信者たちによって蹂躙されることに耐えられず、ミュンスターから逃れるが、その後、町を包囲していた諸侯軍は何者かの手引きによって城内に侵攻し、市民の大虐殺を繰り広げる。「あらゆる路地に死体が転がり、町中に耐え難い悪臭が立ちこめています。中央広場には、服を剥がれて積み上げられた白い骸の山がそびえています」Qはミュンスターでも暗躍していたのだ。町の指導部に深く入り込みながら、城外の敵と通じ、守り手の手薄な城門から軍隊を招き入れ、市民の虐殺に手を貸したことをQはカラファに報告する。b0138838_10234014.jpg本書のとりわけ前半部は失敗した蜂起と革命、裏切りと拷問、虐殺と処刑のオン・パレードだ。ミュンスターが落城した後、ミュンスターに君臨していた再洗礼派の狂える指導者たち、ヤン・ボッケルソン、ベルント・クニッパードルリンク、ベルント・クレヒティングの三人は「真っ赤に焼けた鋏」で拷問を受けた後、処刑され、死体は檻に入れられて教会の鐘楼から吊して晒された。巻末に掲載された多くの図版のうちの一葉は宗教戦争の残虐さを今に伝えている。前半は凄惨な描写も多いが、次々に繰り出される謎と意外な展開に目を奪われるため、残酷さはさほど感じられない。
 アントウェルペンで主人公、「井戸から来たゲルト」はエロイに紹介された謎の男から奇妙な話を聞く。ヨーロッパを陰で支配する銀行家フッガー一族と深いつながりをもつこの男はケルンでフッガーからQと名乗る男に無条件で金を渡すように命じられたことを語る。Qは信用状を多額の現金に替えてミュンスターへ赴いた。現金はミュンスターの再洗礼派に取り入るための寄付金として用いられたのだ。かくしてQは異端派の内部に入り込み、ここでも裏切りによって彼らの共同体を崩壊させた。ミュールハウゼンとミュンスター。教会と結託した王や諸侯に反旗を翻した民衆の理想の共同体は、顔をもたない男、ローマ・カトリックの密偵Qの暗躍によって崩壊した。Qはこれらの共同体の中心にいたはずだ。主人公は自らの理想を二度にわたって葬った密偵Qの存在を知る。ここで物語はようやく現在に追いつき、舞台もドイツからイタリア、水の都ヴェネツィアへ移る。
 主人公とQの立場が逆転する。Qを狩り出すために、ルートヴィヒ・スカーリエデッケル(この名前も物語の中で重要な意味をもつ)と名を変えた主人公は一つの罠を準備する。それはルターと並ぶ宗教改革の立役者、ジャン・カルヴァンが関与した「キリストの恵み」という書物である。ルター派とカトリックの和解の可能性を論じたこの小冊子の危険性についても早くからQがカラファに警告している。ルートヴィヒは当時、出版の自由度が高かったヴェネツィアで新しい仲間たちを得てこの禁書を印刷し、ヨーロッパに流通させる。いくつかの歴史的主題が浮かび上がる。一つは印刷術である。グーテンベルグ聖書が印刷されたのが1455年であるから、この物語は印刷術が成立してまもない時期を舞台としている。印刷術と宗教改革の関係について縷述する余裕はないが、早くもこの時点で主人公はこの技術が教義の普及に決定的な意味をもつことを理解している。もう一つはヴェネツィアとユダヤ人の関係だ。私は以前、徳永恂の「ヴェニスからアウシュビッツヘ」という論考の中でユダヤ人ゲットーがヨーロッパで最初にヴェネツィアの地に建設されたことを知って驚いたことを覚えている。ルートヴィヒはこの地でセファルディム(小説ではセファルディーと表記)と呼ばれる亡命ユダヤ人たちと知り合うことによってQを捜索する大きな足掛かりを得る。ローマ教会、ヴェネツィア共和国、ユダヤ人資産家、宗教と権力と富の関係は複雑に入り乱れる。そしてQもまた禁書を配布する主人公(既にティツィアーノと名を変えている)の存在を察知し、捕縛を試みる。顔見知りでありながら未知の宿敵、いくつもの名を持つ主人公と名前のない密偵Qが互いを探索するクライマックスは映画「インファナル・アフェア」を連想させないでもない。そして第3部ではかかる暗闘に、ローマ教皇の死去を受けて、次の教皇の座をめぐるカラファとレジナルド・ポール(「キリストの恵み」の成立に深く関わるイギリス人枢機卿)のコンクラーヴェが重ねられ、物語は大団円に向かって直進する。
 結末については触れない。しかしこれだけ長大で、しかも前半では二つの理想郷の壊滅という暗澹たる物語が語られると聞いて、読む前から恐れをなしてしまう読者のために一言だけ付け加えておく。読後感は悪くない。そして読み終えたら直ちに再読したいという思いに駆られるだろう。実際にこのレヴューのために部分的に再読して、実によく練られていることをあらためて痛感した。この一文はこのきわめて入り組んだ小説を評した早いものの一つであろうから、未読の読者の一助として本ブログとしては異例にも内容を中心に論じた。しかしこの小説の魅力が形式にも由来していることは明らかである。たとえば時制だ。フランケンハウゼンとミュンスターにおける壊滅は既に事件が終えられた時点から語りが始まり、謀略の全貌が見えてきたあたりで時制は過去から現在へと変わる。30年以上にも及ぶ長い物語は中盤で時制が転換することによって緊張を持続する。そしてこの転換は主人公とQが互いの存在を認識する瞬間とほぼ一致するのだ。あるいは『フィネガンズ・ウエイク』のごとく序章と終章が円環を形成する構造、手紙や布告といったレヴェルの異なったテクストを交える手法。あらためて論ずべき問題は多いが機会を改めたい。
 本書は長大であるだけでなく、キリスト教や様々の言語についての知識を必要とする内容である。翻訳は大変な作業であっただろうと推測されるが訳文はこなれており、読みやすい。翻訳者の労を多としたい。

by gravity97 | 2014-05-17 10:39 | エンターテインメント | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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