Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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カテゴリ:現代美術( 26 )


椹木野衣『震美術論』

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 「後美術論」に続いて「後美術論 第二部・流浪編」と題して『美術手帖』に連載された一連の文章が加筆修正のうえ、昨年秋(奥付によれば9月1日、関東大震災が発生した日付だ)に「震美術論」として刊行された。単行本の厚さにたじろいでしばらく書架に積んだままであったが、本書の中で椹木が「西の大震災」と呼ぶ阪神大震災からちょうど23年が経過した1月17日、思い立って読み始めた。これもまた実に刺激的な著作であり、日本の戦後美術を全く新しい角度から問い直す内容であった。
 「後美術論」が美術と音楽というジャンルを横断ではなく破壊する試みであったとするならば、「震美術論」は美術と地学とを「共振」させることを目指しているように思われる。しかし美術と音楽ならばともかく、美術と地学はどのように結びつくのか。執筆の契機となったのはいうまでもなく「後美術論」執筆中に著者が体験した「東の大震災」、東日本大震災だ。本書の刊行にあたって新たに書き下ろされた「はじめに」の冒頭にその事情が説明されている。

 2011年3月11日午後2時46分、東北地方を中心に太平洋沿岸で甚大な被害を出した歴史的な大震災は、美術批評家としての私の姿勢や具体的な活動に多大な影響を及ぼした。『美術手帖』での連載「後美術論」が始まってまもなく、机上で執筆中に「揺れ」が始まったが、そのときのことは、前著『後美術論』の中でありのままに書かれている。(中略)『後美術論』は、直接に震災を扱うものではなかったが、その余波は以後、随所に顔をのぞかせ、美術をめぐる私の考えに少しずつ、だが着実に変更を余儀なくしていった。

 『後美術論』中、「…ここまで書いてきたとき、突然、文章を書いている机がカタカタと揺れ始めた。2011年3月11日に起きた、恐ろしい震災の、それは最初の、前触れだった」という記述がそれにあたる。この箇所を読んだ際の切迫感はよく覚えている。通常、批評の文章にはそれがどこでいつ執筆されたかといった情報は不要である。しかしかつてこのブログで「後美術論」についてレヴューした際にも記したとおり、「後美術論」の冒頭に近い箇所に突然に挿入された被災のエピソードはそれでなくても暗鬱なこの著作をさらに暗転させた。「後美術論」全体に張り詰めるカタストロフへの怯えは本書の主題へと転じる。この意味において「後美術論」と「震美術論」の関係は第一部と第二部、あるいは正と続といったそれではなく、前者を内部から食い破るように出現したのが後者といった見立てをすることが可能だろう。藤田嗣治から村上隆まで本書で取り上げられる美術家はさほど多くはない。しかし一見、異質に感じられる美術と地学という主題は本書を通読した後では広く日本の美術の本質と関わっていることが自然と理解される。ひとまず本書の内容をたどってみることにしよう。
 「再考『悪い場所』」と題された最初の章においては、これまでの椹木の著作との関係において本書の位置が定められ、著者の問題意識が明確に表明される。すなわちかつて椹木は「日本・現代・美術」において戦後日本美術を忘却と反復が繰り返される「悪い場所」として定義した。このような発想は続く椹木の著作、とりわけ椹木が編集した『日本美術全集 拡張する戦後美術』に濃厚に刻まれている。ここでいう「悪い場所」とは一種の修辞であったはずだ。しかし日本は字義どおり「悪い場所」に位置しているのではないか。椹木は次のように記す。「私はそのとき、この言葉を一種の抽象概念として使っていた。絶え間ない発展と蓄積からなる世界史の先鋒としての西欧の『歴史』に対し、そのような発展も蓄積もなされず、ただ礎らしきものが組まれたそばから地が揺れて崩れ、そのことさえすぐに忘れられ、いつしかまた前とさして変わらぬ礎=石積みを健忘症のように周期的に反復するだけの『悪い場所』―(中略)いま、私はこの概念を比喩ではなく、より端的に使う必要を強く感じている。それはこの言葉を地質学的な水準で、より即物的にとらえ直すことを意味する。『悪い場所』とはすなわち、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートがひしめくように重なり合い、その境界付近で周期的に大きな地震が誘発され、こうした歪みの蓄積から、内陸でも至るところ毛細血管のように岩盤にひびが入った日本列島そのものにほかならない」続いて椹木は日本の戦後美術が成立、展開した時期がたまたま震災の少ない静穏期であったことに私たちの注意を喚起する。具体的には1948年の福井地震から1995年の阪神大震災まで日本は大きな震災を経験していない。それが偶然の産物にすぎないことは明らかだ。椹木も説くとおり、それ以前日本では大きな震災が頻発しており、特に敗戦をはさんで1943年から46年まで、鳥取、東南海、三河、昭和南海とマグニチュード7クラスの大震災が続々と発生していたが、戦時下という特殊な状況下でその被害は隠蔽されていた。そして95年の「西の大震災」から2011年の「東の大震災」までの10余年の間に各地で地震が頻発したことをさすがに私たちは記憶している。言い換えるならば日本の戦後復興、経済成長は敗戦後半世紀ほどの間、たまたま大震災が発生しなかったという地学的な理由に多くを負っており、かかる偶然をその下部構造として日本の戦後美術は展開されたのである。椹木は以上のような歴史的事実を前提として示したうえで、結果として日本の美術が盤石の大地の上に築かれた西欧の美術とは異質の営みではなかったかと問う。それでは西欧ではかかるカタストロフは存在しなかったのか。いくつかの例外がある。まず1755年のリスボン大地震であり、それに先立つ1347年のペストの大流行である。椹木はこれらの大厄災がヨーロッパに与えた影響を子細に検証し、その功罪を問う。この箇所はあたかも歴史書を読むかのようだ。
 続いて「日本・列島・美術」と題された章において、椹木は震災後、気仙沼のリアス・アーク美術館を訪ねた記憶から説き起こし、美術館という施設が震災に対していかに脆弱であるかを指摘した上で、興味深い類比を示す。すなわち美術館と原子力発電所の相似性である。いずれの施設も内部に未来にわたって保存、保管しなければならない対象を保有し、その管理を任されている。すなわち美術館にあっては作品であり、原子力発電所にあっては放射性廃棄物である。椹木は「収蔵庫のメルトダウン」なる刺激的な小見出しとともに、西欧においては動乱や盗難から作品を守るために開設された美術館という施設が、日本においては制度としてのみ導入され、天災に対する備えを決定的に欠いていることを指摘する。かつて勤務する美術館で「西の大震災」を経験した私にとってもこれはきわめて重要な指摘であるように感じた。現在、多くの美術館では年に数回、火災に対応した防災訓練が実施されている。しかし震災について定期的な訓練を行っている美術館施設を私は寡聞にて知らないし、おそらく対応マニュアルも存在しない。原子力発電所に対する津波同様に、美術館にとって震災ははじめからありえないことと想定されているのだ。さらに椹木が指摘するとおり、美術館の収蔵庫にとって空調機能は死活的に重要であり、そのためには膨大な電力を必要とする。電力が断たれれば、収蔵庫は原子炉同様「メルトダウン」を起こす訳であるし、エネルギーを生産する施設と消費する施設としての両者の対称性も興味深い。先に日本の美術館が震災への備えを欠いていると述べた。しかし皮肉にも被災したリアス・アーク美術館においては勤務する学芸員によって「事前に」震災と津波をテーマとする展覧会が開催されていた。しかしその展示に対する関心は驚くほど低かったという。椹木は日本において美術が震災を主題とすることがまれであった点を指摘し、本来であればそれは西欧において戦争や動乱を描いた絵画と同等の重要性を持つはずであったと説く。もし震災が繰り返されるこの列島において、震災が美術の主題とされるならばそれは「事前の記憶」という意味をもったはずだ。椹木は美術のみならず文学や歴史的文書を渉猟してこの点を検討したうえで日本においては被災の歴史が記憶されないと断じる。いうまでもなくそれは「悪い場所」という現実的なトポロジーに起因する。それでは「事後の記憶」はどうか。椹木は赤瀬川原平と東松照明という二人の作家を召喚し、同じ被災の体験、伊勢湾台風と結びつける。二人とも台風の被災という「事後の記憶」をもとに表現を一新し、独自の境地に達したという。詳しくは本書を参照していただくとして、このような「震美術」の発見も私にはきわめて刺激的な発想であるように感じられた。
 続いて再び美術館の問題が問われる。震災から二年後、椹木は再びリアス・アーク美術館を訪問する。先にも触れた展示を企画した学芸員たちが常設展示として企画した「東日本大震災の記録と津波の災害史」という展示に触れ、当事者が美術館において被災という事実をいかに表象するかという問題について思考が重ねられる。ここで試みられたキャプションの工夫などは興味深いが、私は別のことを考えた。前節で「津波てんでんこ」に触れて、明治の三陸大津波の際には一つの集落が全滅することがあったと記されている。証言者のいない記憶、私が直ちに連想したのはホロコーストの表象というアポリアである。このブログで幾度となく論じたとおり、ナチス・ドイツによるユダヤ人の絶滅政策においては収容所によっては収容されたユダヤ人がすべて殺されたケースがある。証人のない惨事、証拠のない出来事の表象は可能かという重い問題と津波による被災は直結しているのだ。そういえばホロコーストを「あまりに巨大すぎて地震計を破壊してしまう地震」にたとえたのはJ.F.リオタールであっただろうか。しかし津波には証拠が残る。椹木が「ものもの」とよぶ災害によって発生した廃物である。この問題についてはあとでもう一度立ち返ることにして、リアス・アーク美術館の展示に関して椹木は仙台で教鞭を執り、気仙沼にアトリエを構えようとしていたもの派の作家、高山登の作品との類似性、とりわけ前年に宮城県美術館で発表されたインスタレーションとの類似性について論じている。続く章では二人の写真家、畠山直哉と笹岡啓子の作品を通じて震災で一変した陸前高田の光景と椹木の故郷である秩父の風景が重ねられる。畠山は震災で実母を亡くしており、その後に制作された震災に取材した連作を私は東京都写真美術館で見た記憶がある。笹岡は私にとって未知の作家であるが、石灰石の採掘と各地の「海岸線」を主題とした二人の写真家の作品には地学的な共鳴が認められる。最後に問われる当事者性の問題は被災をめぐる議論の中では常に念頭に置かれるべき問題であろう。
 「溺れる世界と『ソラリスの海』」と題された章においてもいくつもの主題が論じられている。最初に言及されるのは美術館の展示室が水没するという学芸員にとって悪夢のような光景だ。これは虚構ではない。関係者の間ではよく知られた話であるが、1998年9月、豪雨のために高知県立美術館は浸水し、展示室も一メートルくらいまで水没した。続いて椹木は浸水ならざる親水、あるいは水没をキーワードに磯崎新の一連の建築を検証する。椹木によればかつて1970年の大阪万博の折りに磯崎によってお祭り広場に人工湖を造成し、そこでは気象も人工的に制御されるというプランが練られていたという。「ソラリス」とはいうまでもなく1972年にアンドレイ・タルコフスキーによって映画化されたスタニスワフ・レムのSF小説であり、その中にはソラリスという惑星の知性をもった海が登場した。人の無意識を実体化する海が建築家の無意識を反映したと考えることはたやすいが、さらに磯崎の出身地である大分には一夜にして別府湾に沈んだ瓜生島という島をめぐる伝説が存在するという。椹木はこの伝承を丁寧にたどり、史実の異化効果をめぐって地震学と民俗学が興味深い一致を示すことを論じる。磯崎はこの後、海市あるいは都市ソラリスといった水と深く関わるプロジェクトに関係し、2006年のオリンピック招致の際にも博多湾岸に施設を集積する「博多湾モデル」を提出した。磯崎の建築について水との関係という点から検討されたことは私が知る限り初めてであるが、確かに垂直ならざる水平性、ツリーならざるリゾームを提唱する磯崎の建築は本質において水との親和性が高いかもしれない。続く「七難の美術」と名付けられた章においては震災の後、美術界で話題になったいくつかの出来事が「震美術」という視点からとらえられる。まず2012年にカタールの首都ドーハで初めて公開された村上隆の《五百羅漢図》と、その凱旋展ともいうべき2016年、森美術館における「村上隆の五百羅漢図」展であり、村上にインスピレーションを与えた2011年、江戸東京博物館での狩野一信による「五百羅漢図」の公開である。なんという偶然であろうか、法然が遷化して800年となることを記念して企画された狩野一信の展覧会は3月15日に開幕する予定であり、内覧会を待つばかりの11日に東日本大震災が発生したため、展覧会の開催自体も危ぶまれたが、震災から49日後の4月29日に公開された。内覧会に先立って「東日本大震災物故者追悼法要」が営まれた会場は異様な雰囲気であったという。さらに驚くべきことには狩野一信がこれらの羅漢図を描いたのも安政東海地震と安政南海地震が一年のうちに発生する騒乱の中であった。村上が羅漢図を制作した経緯については本書に詳しいが、本書を読んで私がおおいに感心したのは村上の作品を先行する二つの作例と比較する発想の鮮やかさである。一人は藤田嗣治である。本書において「震災記録画」は「戦争記録画」と対比されており、先述のとおり、藤田が《アッツ島玉砕》といった凄惨な戦争記録画を制作していた太平洋戦争末期、日本国内ではマグニチュード7クラスの大震災が頻発していた。不幸な運命をたどったこの不世出の画家が戦前の比較的平穏な日本でのひととき、平野政吉の求めに応じて描いた壁画《秋田の行事》と岡本太郎が明らかに核惨事を意識して描き、震災の中でこのような悪夢が現実化したことを私たちが知るところの壁画《明日の神話》、そして村上の《五百羅漢図》といういずれも壁画スケールで極端に横長の大画面が図版として併置された時(416-417頁)、私は世代も作風も異なるこれら三つの才能がいずれも日本という「悪い場所」において「震美術」の刻印のもとにあることをまざまざと実感した。
 「七難」という名のとおり、本書においては震災に水害、台風に土石流、様々な災害についての言及がある。そして私たちが初めて出会った災厄が原子力災害であることはいうまでもない。「帰還困難地域の美術」と題された最終章では椹木自身が関わるプロジェクト「Don’t Follow the Wind」が紹介される。福島県の帰還困難区域に作品を設置し、したがって誰も見に行くことができない一種の概念性を帯びたこの展覧会については、私も昨年の横浜トリエンナーレでその片鱗に触れた。先に日本において震災を主題とした美術作品が極めて少ないと述べたが、私の漠然とした印象としては原子力災害に関してはこれまでいくつかの優れた表現を目にした覚えがある。何の展覧会の折であっただろうか、山川冬樹が東京都現代美術館で発表した映像作品に深い感銘を受けた。あらためて思うに、震災はカタストロフ自体が瞬時であって表現にはなじみにくい。これに対して原子力災害は私たちが持続的に直面すべき問題を提起する。皮肉にもこの災厄は日本の美術家たちに新しい表現の可能性を開いたといえるかもしれない。
 さて、今私は震災のカタストロフが瞬時であると述べた。しかしその後には多くの廃物が残される。先にも触れたとおり、椹木はそれらを「ものもの」と呼ぶ。もの派の高山登と関連してこの言葉が提起されていることから理解されるとおり、「ものもの」とは「もの」に対応している。椹木の言葉を引こう。「高山の活用する物体は、すでに60年代末の《地下動物園》の頃から、そのような意味の『もの』ではなかった。それは、主客の構造を『もの』を媒介して批評的に浮かび上がらせるというより、つねに環境と一体で主客未分の『ものもの』であり、身体的にも志向性のうえでもその内部へと意図して進んでゆくことができる空間の器であった」この言葉はリアス・アーク美術館における被災物の展示に触れる中で発せられており、「ものもの」とは文字通り主客未分化の廃物のアマルガムであることが理解されよう。例えばオブジェという言葉が象徴的に示す通り、西欧における美術は対象、あるいは客体として主体の外に存在する。これに対して震災の被災物は別の在り方を示している。椹木は「被災物には安易な解説など寄せつけない強靭な即物性が備わっている。というよりも、強固な『即物性』そのものである」と述べている。私はこのような即物性への関心が日本の戦後美術において別の文脈で語られていたことを思い出した。次の言葉である。「ここに興味のあることは過去の美術品や建築物の時代の損傷や災害による破壊の姿に見られる現代的な美しさだ。これらは頽廃の美としてとりあつかわれているけれど、案外人工の粉飾のかげから本来の物質の性質が露呈しはじめた美しさではないか。廃墟が案外に温かく親しみ深く我々を迎え入れ、さまざまな亀裂や剥だつの美しさをもって語りかけることは物質が本来の生命をとりかえした復讐の姿かもしれない」誰の言葉かおわかりだろうか。これは1956年に発表された「具体美術宣言」の中の一節である。具体美術宣言といえば精神と物質が対立したまま握手している云々の箇所が常に引用されるが、実はこのような独特の物質観も表明している。このパッセージに続いて、ポロックやマチウへの共感が語られているから、かかる物質観は具体美術協会、吉原治良の美学の根幹に関わっている。具体美術協会と震美術、これは興味深いテーマではないか。そしてリーダーである吉原が本書の主題に連なるとすれば、それはまず1938年に発生した阪神大水害と関わっているだろう。吉原が居住していた精道村(現芦屋市)でも多大の被害が出ていたことが記録されている。あるいは具体美術宣言が発表された同じ年、ライフ誌の取材に応じて開催された一日だけの野外展の会場が武庫川河口の戦災による廃墟であったことを想起してもよかろう。「震美術論」は天災を主題としているため、被爆以外に戦災に関する記述は少ないが、震災や噴火同様に空襲や爆撃による壊滅的状況も「ものもの」の顕在化としてとらえる時、吉原そして具体の作家たちがなぜかかる対象に関心をもったかは私にはおおいに興味深く感じられる。それというのも以前より私は日本の戦後美術には西欧では顧みられることのまれであった二つの主題の系列が脈々と保持されているように感じていたからだ。すなわち身体と物質であり、具体美術協会にはじまり、読売アンデパンダン展周辺の作家、そしてもの派からポスト・モダンにいたる日本の戦後美術の中にこれらの系譜をたどることはたやすい。とりわけ西欧とは根本的に異なる物質観について、私はそれが何に由来するのか以前より気になっていたが、なるほど「震美術」は一つの説得的な仮説である。日本美術における物質観が繰り返される天災と不可分であったとするならば、美術に永続性を求める西欧の美術史と異なった問題意識が発生したとしても不思議ではない。ここからさらに連想するのはこのブログでレヴューした飯島洋一の「建築と歴史」において論じられた日本の建築における「複数の起源」という問題だ。「『戦災』から『震災』まで」というサブタイトルを持つ飯島の著作への言及はないが(参考文献には「建築と歴史」ではなく「破局論」が挙げられている)、私はこの二つの著作が日本の建築や美術に関して、多くの共通点を有しているように感じる。
 建築という話題に接した以上、最後に私は本書を読んで戦慄した一つの思いについて触れずにはおれない。「ゼロメートル地帯の美術館」という小見出しが付された章で椹木は東京都現代美術館と国立国際美術館がいずれも大規模水害によって水没する可能性について触れている。以前、『ゲンロン』の「脱戦後美術」という特集の中で同様の指摘がなされていたことを覚えていたのであらためて確認したところ、やはり椹木の発言であった。以前東京都現代美術館を訪れた際に学芸員から館内に防潮壁の存在を知らされて驚いた記憶があるし、国立国際美術館にいたっては中之島の中州の地下に建設されていることは周知の事実だ。私は以前より地下ないし高層に建設された美術館が好きではなかった。地下や高層とは本来人が住むべき場所ではないように美術作品も所在すべき場ではない。東日本大震災において被災美術品の修復作業がしばしば注目を浴びる一方で、実際の作品の被害については一種のタブーであって、語られることが少ない。しかし超高層に設置された森美術館、あるいは川の中州を掘って造成された国立国際美術館が大きな地震、あるいは大規模水害に襲われることはありえないどころか、下手をすれば私が生きているうちに見ることとなる光景であり、その被害は想像を絶する。常設展や収蔵品をもたない前者であれば被害は少ない場合もありうる。しかしピカソやセザンヌの名品を所蔵する後者が水没することは人類にとっての損失といってもよかろう。先に述べたとおり、私はかつて「西の大震災」の際に被災した美術館に勤務していた。粉々になった窓ガラスや弾け飛んだ彫刻台。私が目撃し、学芸員としての仕事を続けるうえでトラウマとなった光景もまた一つの「事前の記憶」であり、「二度とあってはならない」ことは「必ずまた繰り返される」だろう。かつてリアス・アーク美術館の学芸員によって予言された事態が数年のうちに到来したように、椹木の危惧が現実のものとなることを私はほぼ確信している。日本という「悪い場所」に建設された美術館は、オリンピックを当て込んだ観光客誘致に浮かれる前に、文字通り自分たちの拠って立つ場を確認する必要があるのではないだろうか。美術館のダブル、原子力発電所は大津波をありえないものとして排除したためにあれほどの惨事を引き起こした。ひるがえってありえないものを想像することこそが美術の、そして美術館の本質であったはずだ。

by gravity97 | 2018-02-03 21:47 | 現代美術 | Comments(0)

林道郎『静かに狂う眼差し』

 

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 このところ、外部の関係者にキューレーションを依頼するコレクション展が話題を呼んでいる。先にレヴューした豊田市美術館における岡崎乾二郎による「抽象の力」に続いて、佐倉のDIC川村記念美術館で美術批評家林道郎をゲスト・キューレーターに招いた「静かに狂う眼差し―現代美術覚書」が開催され、関連書として水声社より本書が刊行された。展示はすでに終了しており、残念ながら私は見ることができなかったが、カタログというより一種のコンセプトブックとして刊行された本書によって展示のおおよその輪郭を知ることができる。この美術館について私は開催された展覧会についてこのブログで何度か論じているし、ロスコ・ルームを含むコレクションについてもよく知っている。この美術館がとりわけ戦後アメリカ美術に関しては優れたコレクションを有している/いたという事情、あるいは同じ批評家による「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」という連続公演の中で、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマンといった、まさにDIC川村記念美術館で個展を開催した作家たちが取り上げられていたことを勘案するならば、この美術館が林に企画を任せた理由を推測することは容易である。私は展示を未見であるため、本書以外に展覧会のカタログが発行されたかどうかわからないが、主要作品の図版を収め、展覧会と関連した多くの興味深い話題が論じられた本書があれば十分であろう。

 本書の内容はおそらく展示の構成に準拠しており、四つの章から構成されている。すなわち「密室の中の眼差し」「表象の零度―知覚の現象学」「グレイの反美学」「表面としての絵画―ざわめく沈黙」であり、マティスに始まり60年代のミニマル・アートにいたるモダニズム美術が俎上に上げられている。タイトルからうかがえるとおり、テーマに沿って時代やジャンル、国籍の異なる美術家が次々に召喚され、刺激的な議論が展開される。例えば最初の章で最初に触れられるのはブラッサイによるアトリエの中のマティスとモデルを記録した一葉の写真である。林はこの写真をめぐる伝記的な事実の確認に始まり、マティス、ピカソ、さらにはコーネルから瀧口修造、リチャード・ハミルトンから中原佑介によって企画された「不在の部屋」展へと議論を展開する。林の議論のアクロバティックな展開は本書を読む醍醐味であるが、言及される作品は多くの場合、DIC川村美術館のコレクションという範疇の中から選ばれている。この美術館は洋の東西、時代を問わず多くの優れた作品を所蔵しているが、逆にいえば必ずしも体系立ったコレクションとして成立している訳ではない。しかしかかる限定のゆえにそれを逆手にとって斬新なテーマによる展示の組み立てが可能となる訳であり、このような視点の発見こそがコレクションを用いたテマティックな展示の成否に関わっている。紹介されている多くの所蔵作品には見覚えがあるとはいえ、展示を実見しないままでコメントすることに少々気おくれもするが、以下、本書の内容についてコメントを加えておく。

 最初の「密室の中の眼差し」はタイトルがすでに様々なコノテーションをはらんでいる。密室という言葉はひとまずは画家のアトリエを示しているが、日本の戦後美術においては「密室の絵画」という問題提起がなされたことも連想されようし、眼差しという言葉からはノーマン・ブライソンのいう gaze という概念を介して画家とモデル、ジェンダーや視線と権力といった主題も浮かび上がるだろう。冒頭で論じられる、ポーズするモデルをマティスがスケッチする様子を記録したブラッサイの写真からは直ちに画家とモデル、男性の眼差し、絵の中の絵あるいは写真の中の絵といった問題が浮かび上がる。林はきわめて実証的な議論をとおしてモデルを同定し、この写真が撮影された当時のマティスをめぐる状況を確認する。このあたりの手つきの鮮やかさは実際に本書をお読みいただくのがよかろう。この中で林は画家とモデルという主題には常に他者が介在するという興味深い仮説を提示する。他者とは時にモデルや妻といった具体的な位置をとることもあるが、おそらくマティスが想定した最も気がかりな他者とはピカソであったという指摘は説得的だ。二人の関係についてはすでにイヴ=アラン・ボアが重要な研究を発表している。そして林はかかる興味深い主題を惜しげもなく中断して、コーネル、ベンヤミンを介してポップ・アートへと議論を進める。先にも述べた通り、議論の意外な飛躍こそ本書の大きな魅力であり、アトリエという密室は個室そして室内といった主題を介して20世紀後半にはポップ・アートにおいてもしばしば主要なテーマへと転じた。本書の議論からやや離れるが、この章の議論はアトリエの変貌という側面からも検証できるではないだろうか。すなわち画家とモデルのインティメイトな関係の上に成立していたアトリエは第二次大戦後、大きな変貌を遂げる。戦後において画家の仕事場としてのアトリエのイメージとしてまず思い浮かぶのはポロックのそれであり、そこにはモデルはいないしイーゼルもない。ポロックが特異な手法で抽象的なイメージを描くということが理由ではない。林は戦後の作家の仕事場をスタジオ(林はステュディオと表記する)と呼び替えて次のように指摘する。「この『胃袋』(スタジオのこと)は、物だけではなく人やテクノロジーをも飲みこむ、強靭な雑食の胃袋であり、作家自身がストリートから廃物などありとあらゆる素材を持ち込むだけではなく、間断なく他の作家やダンサーや技師らが出入りをし、その痕跡を残していく場であり、自然現象であるかのように刻々と変貌をしつづける『プロセスの時間』―それも同時平行的に進行する複数の時間―が刻印されていた」ここで具体的に想定されているのはトゥオンブリーによって撮影されたラウシェンバーグのスタジオであるが(この作品については同じ美術館で開かれたトゥオンブリーの写真に関する展覧会で私も見た)、この系譜にリチャード・セラやロバート・モリス、さらにアンディ・ウォーホルらを加えるならば私たちはアトリエからスタジオへの変貌という側面から現代美術の展開を検証できるかもしれない。やや話が逸れた。林は「不在の部屋」と「密室の絵画」といういずれも中原佑介が関係する日本の戦後美術のトピックについて短く触れた後、ポップ・アートとエロスの問題を論じてこの章を締めくくる。これも余談的な話題であるが、このセクションに関して最後に一点、私が以前より気になっていたことを記しておきたい。最後に林は「ポップ・アートのダークサイド」としてエドワード・キーンホルツを挙げ、家族写真とポルノ写真がごっちゃになったような《結婚のイコン》という作品の図版が掲出されている。この作品については私も実見したことがないが、実はキーンホルツについては1972年に制作された代表作の一つである《ファイヴ・カー・スタッド》がかつてDIC川村記念美術館に所蔵されていたという情報を耳にしたことがある。人種差別によるリンチ事件を扱ったこの作品については本書の中でも短い言及があるが、かつてロスアンジェルスで見た彼の大規模な回顧展には出品されておらず、手元の画集を確認するならば、確かに日本の個人所蔵家の所蔵という表記がある。作品の所蔵はデリケートな問題であるからこれ以上詮索するつもりはないが、もしキーンホルツのこれほどの大作が日本に存在する/したとすれば、来歴も含めて興味深い。

 第二章では最初にほとんど知られることのない一人の作家に焦点があてられる。1898年に生まれ、西海岸に居住したジョン・マクロフリンという作家だ。私も名前のみ知っていたこの作家について林は興味深い事実を次々に明らかにする。一見、淡白な色面抽象とも呼ぶべき画風で知られるマクロフリンは実は日本と関係が深く、日本に滞在したことがあるのみならず、日本の美術にも造詣が深かったという。林は彼の抽象絵画と雪舟、あるいは日本の建築との関係について論及する。その当否はともかく、長谷川三郎をキーパーソンとしてこれまで前衛書を介して語られることが多かった日本とアメリカ西海岸の美術に関して、全く新しい参照項が与えられた訳であり、この作家については今後も研究がなされるべきであろう。そもそもなぜDIC川村記念美術館が彼の油彩画やリトグラフのまとまったコレクションを所蔵しているかという点も気になるが、残念ながらマクロフリンに限らず本書には作品のプロヴァナンスについての記述が一切ない。そしてここでも林はすぐさま話題を転じて、ミニマリズムにおける東海岸と西海岸の作家たちの関心の差異について論じる。この箇所は本書の中でも私が深い共感とともに読み進めた。東海岸と西海岸のミニマリズムの相違について林は次のように述べる。「(東海岸の)ステラやジャッドは平面の内部に生じるイリュージョンを否定するために平面を、イメージの投影面ではなく、それ自体の物体性、触知的な存在性においてとらえることに関心をもっていた―ゆえにその物体が生じさせる影などは、副次的な効果としかとらえられなかった―のに対して(西海岸の)アーウィンやベルは、画面内のイリュージョンを排するだけではなく、すべて視覚に生起する出来事を均等に情報としてとらえる方向を目指したという相違が生じていたのだ」このパッセージは時にミニマリズムの範疇に一括されるモリスとラリー・ベルのキューブ作品の本質的な相違を明確に指摘しており、目から鱗が落ちる思いであった。端的に述べるならば東海岸のミニマリズムは作品の精密さを求めていない。これに対して西海岸のミニマリズムは作品の精妙な構造に注目し、しばしば知覚の構造へと遡及する。この章のサブタイトルとして「知覚の現象学」というメルロ・ポンティの著作の名が引かれていることは象徴的であり、同じ現象学から出発しながらもアメリカの西海岸と東海岸で作家たちの関心の所在が分岐していく様子が説得的に論じられている。西海岸の作家たちの視覚への関心はニューヨークにおいては別のかたちで検証される。それは1965年にニューヨーク近代美術館で開催された「リスポンシブル・アイズ」という展覧会である。「応答する目」といった訳語が与えられたこの展覧会は美術史的にはいわゆるオップ・アートを紹介する展覧会とみなされている。マクロフリンとベルという既に言及した作家がこの展覧会に出品していたことを私は初めて知った。多様な作家が出品したこの展覧会を、林はクレメント・グリーンバーグが主張した絵画の還元的過程が一つの極点に達していた状況(それを象徴する作家こそ、この美術館が多くの優品を所蔵するフランク・ステラである)の中で手際よく整理する。ここでは西海岸の作家という補助線を引くことによって当時のアメリカの美術界の新しい見取り図が与えられる訳だが、それを可能としたのは例えばマクロフリンやベルといった日本においてもおそらくこの美術館しか所蔵していない作品が展覧会に加えられたことであった。この意味でもコレクションから出発したこの展示は思いがけない発見をもたらしたといえよう。

 続く「グレイの反美学」のセクションでは色彩もしくは非色彩としてのグレイ、灰色が主題とされるが、ここで林の関心は飛躍というより乱反射するかのようである。ジャスパー・ジョーンズで語り始められることに特に驚きはない。ジョーンズの鉛のレリーフは確かにグレイであるし、地図や国旗をグレイで覆った作例も直ちに思い浮かぶ。ジョーンズとジャコメッティを経由して林はモノクローム絵画という問題へと踏み込み、ステラやイヴ・クラインといった予想される顔ぶれ、ウォーホルや田中敦子といったやや意外な顔ぶれの作品に触れた後、ゲルハルト・リヒターの一連の絵画について達する。ジョーンズが用いた鉛という素材から私はむしろリチャード・セラを連想し、ミニマル・アートからアルテ・ポヴェラ、もの派にいたる一連の非芸術的な動向における色彩の欠落、非色彩の系譜に興味を抱くが、本書ではこれらの作家は軽く触れられるだけで、意外な方向に議論が進められる。すなわち意味のグレイゾーンとしてのベッヒャー夫妻の一連の写真作品が紹介され、同様の意味の不在において赤瀬川原平の「超芸術トマソン」が引用される。おそらくこれらの作品もコレクションに収められていたためであろうが、少々牽強付会という感じがしないでもない。手術台の上のミシンと蝙蝠傘ではないが、意外な作品が展示において隣同士に配置された場合、時に思いがけない発見がもたらされる一方、下手をすればちぐはぐな印象を与える。このセクションでは続いてグレイ=コンクリートという連想から車、そしてタイヤの跡といったテーマが導出され、オルデンバーグやラウシェンバーグが召喚される。疾走するハイウェイの車窓風景と関連させてアメリカ美術を論じた宮川淳などもかすかに想起されるが、さらに梱包という主題を介して赤瀬川とクリストに及ぶにいたっては議論の飛躍がいささか激しすぎるように感じた。

 「表面としての絵画―ざわめく沈黙」と題された最後の章は比較的短いが、ポロックからルイス、ステラ、ライマン、そして中西夏之といったこの美術館の現代美術コレクションの絶頂とも呼ぶべき作品について論じられる。この章では主として二つの問題が検討される。一つは作品のサイズとスケールの問題であり、抽象表現主義を語る際にはしばしば論及される主題である。本書の装丁にも用いられているポロックの絵画が小さなサイズであることはいささか皮肉に感じられるが、林はサイズとスケールの問題についてメキシコの壁画運動やWPA、あるいはペギー・グッゲンハイムの今世紀の美術ギャラリーといった問題と絡めて論じる。後述するとおり、この章の議論は必ずしも十分に深められていないように感じられ、それには一つの原因があるだろう。この章で論じられるもう一つの問題は水平と垂直の関係だ。この問題についてもすでにオクトーバー系の批評家たちによる研究が存在し、例えばロザリンド・クラウスは「視覚的無意識」の一章をポロックにおける水平と垂直の問題に割いている。以前林らが『美術手帖』に連載した美術史学の方法論に関する研究の中でも触れられていたと記憶するが、ここで林は中西夏之とライマンというお気に入りの画家二人を取り上げ、壁面との関係において示唆に富む議論を行っている。

この章の冒頭で林は「川村のコレクションにその名を発見することのできる戦後の抽象を代表する作家」であり「私たち見る者の身体を包むようなスケールをもった作品」の描き手として以下の名を列挙している。ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、モーリス・ルイス、フランク・ステラ、アド・ラインハート、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマン、李禹煥、中西夏之。しかしここにはかつてこの美術館で展覧会が開催され、スケールという点で当然触れられるべき一人の作家の名前が欠落している。なぜならばこの美術館が作品を所蔵していないからであり、正確に述べるならばかつて所蔵していた作品が今や存在しないからである。バーネット・ニューマンの傑作《アンナの光》の売却をめぐる経緯をここで繰り返すことはしない。しかし最後の章が抽象表現主義絵画を直接の主題としているにもかかわらず、あたかも一つの禁忌であるがごとくニューマンの名前は注意深く排除されている。ニューマンの名前の不在が意図されたものか偶然であるかはわからないが、画面のサイズや垂直性が論じられるこの章でこの画家の名前が一度も引かれないことはかなり不自然に感じられる。ニューマンに触れるならば、かつて彼の最高傑作をこの美術館が所蔵していたことに触れざるをえないだろうから、書き手に一種の配慮が働いたことも想像されるが、この結果、最後の章がいささか議論の深みに欠ける印象を受けたのは私だけだろうか。例えば本書においてはマーク・ロスコについての言及があまりない。もちろんロスコの素晴らしい連作はロスコ・ルームという別室に設置されているから、この展覧会とは一応切り離されている。しかし少なくとも本書が単なる展覧会カタログではなくこの美術館のコレクションに触発された思索の「覚書」である以上、ロスコの名品についてさらに論じられてよかったのではないだろうか。しかしロスコを語るならば、同じ色面抽象の画家であるニューマンに触れざるをえないから、あえて記述が抑制されたと考えるのはうがちすぎであろうか。求心性と遠心性の問題でもよい、壁面あるいは室内との関係という問題でもよい、ロスコとニューマンの対比は現代美術をめぐる考察にとってきわめて多産的で有意義であるはずだ。そして実際にかつてはこの美術館を訪ねて、同じ建物の中でロスコとニューマンの最高傑作と呼ぶべき優品を比較するという奇跡のような体験さえ可能であったのだ。

 本書は現代美術をめぐる刺激的なエッセイであり、読み進む中で多くの知見を得た。このようなエッセイが展覧会を契機として一般書籍として刊行されたことは意義深い。欧米、特にフランスでは哲学者や批評家を招いてコレクションによる展覧会を開催し、企画と関連した著作を世に問う試みが定着し、私たちはジュリア・クリステヴァからジョルジュ・ディディ=ユベルマンにいたる系譜をたどることができる。日本における同様の試みとして私はこの未見の展覧会を高く評価するし、実見できなかったことはおおいに悔やまれる。しかし最後に指摘したとおり、もしこの展示の一角に《アンナの光》が含まれていたとすれば、私たちはさらなる議論の深まりや飛躍に立ち会えたはずだ。優れた作品はさまざまな思考を誘発する。そのような思考を誘発する場所として美術館が果たすべき責務について私たちはもう一度考えてみるべきであろう。



by gravity97 | 2017-09-09 09:32 | 現代美術 | Comments(0)

『ニルヴァーナからカタストロフィーへ●松澤宥と虚空間のコミューン』

 

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以前、このブログでも少し言及したが、「ニルヴァーナからカタストロフィーへ●松澤宥と虚空間のコミューン」と題された資料集についてレヴューを残しておきたい。この資料集は今年の33日から422日までオオタファインアーツで開かれた同名の展覧会に際して刊行され、展示そのものは私は未見である。

 日本の戦後美術史にはあたかも虫喰いのごとく、重要な作家や動向であるにもかかわらず解明がほとんど進められていない対象が存在する。松澤宥と日本概念派もそのような盲点であった。厳密には松澤については過去に一度、美術館レヴェルでの回顧がなされている。すなわち1997年に埼玉の川口現代美術館で開かれた「スピリチュアリズムへ 松澤宥 1954-1997」であり、私も訪れた覚えがある。しかしこの展覧会は比較的小規模であり、カタログも過去の活動についての言及に乏しかったのに対して、今回の記録集は松澤が最も精力的に活動した1969年から73年という期間を主たる対象としたきわめて充実した内容であり、情報量に富む。フェミニズムの作家としても知られる嶋田美子が監修にあたったとのことであるが、本来ならば美術館のキューレーターによってなされるべき仕事がギャラリーと必ずしも美術史を専門としない研究者によって達成された訳である。京都のギャラリー16とギャラリーに勤務していた坂上しのぶの手によってまとめられた一連の関西の戦後美術に関する研究同様、美術館、キューレーターの手によらない、特筆すべき成果といえよう。

 以前にもこのブログに記したとおり、私が松澤の仕事に強い印象を受けたのは2014年に開催された横浜トリエンナーレ2014であり、初めて多くの作品を目にすることができた。同じ展覧会で松澤とともに焦点があてられていた殿敷侃についても先日、広島市現代美術館において大規模な回顧展が開かれたことは既に論じた。同じ年に二人の異端の前衛作家の仕事が検証されたことは意義があるだろう。私は横浜トリエンナーレで諏訪の松澤の旧宅に設置された「プサイの部屋」の再現に感銘を受けたのであるが、嶋田によれば横浜での展示は「同寸同大のホワイトキューブに『プサイの部屋』から取り出した数点を展示したにすぎず、実際の部屋とは似ても似つかぬもの」であったという。知られているとおり、松澤は1964年に「オブジェを消せ」という啓示を得たことを契機に独自の概念芸術を創出した。しかしこの一方でそれ以前に制作された作品、とりわけ読売アンデパンダン展に出品された一連の廃品芸術を中心に、自宅の屋根裏の蚕室に「プサイの部屋」と呼ばれる特異なインスタレーションが設置され、これらは移動することが困難であった。このため松澤のオブジェは紹介される機会を逸して、先行研究に乏しい。これまで日本の戦後美術の通史を扱った研究においても「現代美術逸脱史」においては「日本概念派」として高松次郎らとともに一括りにされ、「日本・現代・美術」においては脚注の中にしか登場しない。黒ダライ児の怪著「肉体のアナーキズム」においても、そこに主に論じられた作家たちとは微妙にテイストが異なるためであろうか、むしろ周縁的な話題として論及されている。逆に1999年にクイーンズ美術館で開かれた「グローバル・コンセプチュアリズム」、近年では富井玲子の近著「荒野のラディカリズム」といった英語圏での評価が逆輸入されつつある点は具体美術協会、あるいはもの派といった日本の戦後美術の動向と似ている。

 今述べたとおり私は今回の展示を見ていないので、作品ではなくこの記録集に基づいて論じる点を最初にお断りしておくが、記録集といえどもこの冊子は図版も多く、資料性が高い。そもそも松澤の作品は言語を媒介とする場合が多いから、必ずしも実体を必要とせず、写真や印刷物によって伝えることが可能だ。この記録集は作家の活動の全幅を簡潔に伝えており、さらに作家の没後残された膨大な資料を用いて編纂されている点はアーカイヴという問題と深く関わっている。この話題については後で立ち戻ることにしよう。本書はクロノロジカルに九つのセクションから構成されており、次のように分類されている。

1. ニルヴァーナ以前(1950年代~68年)/ 2. ハガキ絵画(1966年~68年)/ 3. 美術という幻想の終焉(1969年)/ 4. アート・アンド・プロジェクト(1969年~1973年)/ 5. ニルヴァーナ(1970年)/ 6. フリーコミューンの萌芽(1970年~1971年)/ 7. 世界蜂起(1971年~73年)/ 8. ひらかれている(1972年)/ 9. カタストロフィー・アート(1972年~)

年記を見れば明らかなとおり重複や逆転を伴うかなり恣意的な分類であるから必ずしもこの区分に拘泥する必要もなかろうが、松澤の1970年前後の活動に一定の見取り図を与えてくれる。私も90年代以降、松澤の儀式的なパフォーマンスを何度か見たことがあるが、それらはすでに形骸化した感があり、あまり感心しなかった。これらのパフォーマンスと比しても、ここで取り上げられた多くの活動は多様かつ先鋭であり、松澤の活動の絶頂をかたちづくっている。もっとも私は松澤の仕事についてこれまでほとんど知らず、正直に言えば思わせぶりで秘教的な作品にさほど共感を覚えることもなかった。しかしこの作品集を通読するならば、作家の活動が今日においても検討すべき多くの問題をはらんでいることが理解された。ここではいくつかの所感を書き留めておくことにする。

本書ではまず196461日深夜、松澤が「オブジェを消せ」という啓示を受ける前後の活動に遡ってその活動を検証する。「~を消せ」というネガティヴな定言は松澤の作品の本質と関わる。それまで読売アンデパンダン展に代表される美術展への出品を活動の中心に置いていた作家がこの年に企画した「荒野のアンデパンダン展」とは諏訪の高原湿地に出品者が作品ではなく想念を送るというまことに奇怪な内容であり、瀧口修造や池田龍雄らが「出品」したという。翌年の長良川におけるアンデパンダン展同様に、松澤が活動の初期に野外を舞台とした活動を繰り広げていたことは興味深い。具体美術協会の野外展から松澤、関根伸夫の《位相-大地》にいたる日本の戦後美術における野外展示の系譜はあらためて検証されてもよいのではなかろうか。あるいはこの時期から松澤は郵便を手段とした一連のメールアートを繰り広げていたことも理解される。この先例としては具体美術協会が機関誌を海外に送付したことが挙げられようが、松澤も同様にコレンスポンデンスの相手を海外へと広げていく。

 私があらためて驚いたのは、早くもこの時期に松澤がコンセプチュアル・アートをめぐる世界的なネットワークを形成し、メールアートというかたちで作品のやりとりを続けていたという事実だ。これについて本書は多くの知見を与えてくれる。このうえで重要な役割を果たしたのはアドリアン・ファン・ラヴェスティーンとギールト・ファン・ベイレン・ベルゲン・ハーネゴーヴァンという長い名前をもつ二人のオランダ人である。彼らの名前、そして二人が設立したアート・アンド・プロジェクトという組織を私は本書で初めて知ったが、この組織に関してはコペンハーゲン大学のピーター・ファン・ダー・メイデンという研究者が長いテクストを寄せている。それによれば松澤とアート・アンド・プロジェクトを仲介したのはオランダのコンセプチュアル・アーティスト、ヤン・ディベッツらしい。ディベッツは中原佑介と面識があり、1970年の東京ビエンナーレ、「人間と物質」にも出品しているから、松澤のオランダ・コネクションはここに由来するだろう。1975年頃まで続く両者の関係は基本的に良好であり、松澤は1970年の「ニルヴァーナ」へアート・アンド・プロジェクトへの出品を打診し、逆に同じ年のアート・アンド・プロジェクトの夏季展覧会に招待されたという。この展覧会に出品したというソル・ルウィットやロバート・ライマンの名は知っている。しかしヒデト・ミヤザキあるいは稲憲一郎とは一体何者であろうか。50年代から60年代にかけての具体美術協会、64年のロバート・ラウシェンバーグ、グローバリゼーションの端緒とも呼ぶべき集団や作家の国際的な活動についてはこれまでこのブログでレヴューした近年の研究でその一端が明らかとされたが、70年前後のコンセプチュアル・アートをめぐる日本とヨーロッパの交渉はなおも多くの研究の余地を残している。このような活発な交渉が可能となった背景としては、方法としてのメールアートの成熟と出版物を介した発表が制度化されたことがあるだろう。ここに収められた作品/資料は多くが書簡の形式をとっているし、アート・アンド・プロジェクトは多くのブルティン(bulletin、紀要とか報告の意味)を発行しており、図版から推測するに1971年に発行された42号は松澤のアート・アンド・プロジェクトにおける発表を特集している模様である。両者の関係はかなり微妙で、メイデンによれば次に述べる「ニルヴァーナ」と関連したブルティンも計画されていたが、一号を一人の作家に割り当てる方針と抵触するため中止されたとのことである。その後、72年の84号も松澤を特集しているようだ。

1970年には今触れた「ニルヴァーナ」展が京都市美術館で開催される。ニルヴァーナとは涅槃のこと。松澤のほか水上旬、春原敏之らが中心になって企画されたこの展覧会は次のようなものであったらしい。


「ニルヴァーナ」展は1970812日から14日まで京都市立(ママ)美術館で開催された。参加者は85名、展示作品のほぼ全てがいわゆる「概念芸術」とされるもので、絵画やオブジェなど既成の美術作品の形をとらず、文字や写真による作品、記録、または行為などによるものであった。展覧会は3日間だったが、初日は2階の全室を使い、2日目はその半分のスペースになり、最終日3日は一部屋になり、そして消滅した。


1970年といえば、大阪で万国博覧会が開催され、中原佑介の「人間と物質」も「ニルヴァーナ」と同じ会場に巡回している。一種騒然とした雰囲気の中、真夏の京都で三日間だけ開かれた日本で最初の「概念芸術」を主題とした展覧会についてはこれまでほとんど資料がなかった。今回の資料集には会場や出品作品―といっても書信や写真が多い―の図版が掲載されていて興味深い。明らかにこの展示には当時を代表するコンセプチュアル・アート系の作家たちが集結しており、松澤が世界的な作家のネットワークの中心であったことを物語っている。ここで注目すべきはこの展覧会が「消滅」を一つの主題としている点である。今引用したとおり、展示自体が日々縮小し最後には消滅してしまう。嶋田はたとえばルーシー・リパードによって1968年に提唱された「芸術の非物質化」と松澤の「物質の消滅」という二つの概念の親近性について論じている。作品や会場が徐々に小さくなり、最後に消滅してしまうという手法をこれ以後も松澤はしばしば用いる。松澤の場合、あまりに秘教的なテクストや身振りが過剰なコノテーションを作品に付着させているが、消滅を主題とした作品を現代美術の中で想起してみよう。イヴ・クラインの「空虚」、グスタフ・メッツガーのDIAS(芸術における破壊シンポジウム)、あるいはロバート・スミッソンのアースワーク。いくつも興味深い関係線を引くことができるだろう。

 記録集は続いていくつかの興味深いトピックを提起する。19711231日に始まる「世界蜂起」と題されたメールアートのプロジェクト、1972年に長野県信濃美術館で開催された「ひらかれている」展、1972年にミラノと東京で開かれた「カタストロフィー・アート」である。私はこれまで様々な機会に見知った覚えがある藤原和道の「音響測定」、野村仁のフォトブック、高松次郎や河口龍夫らの一連の作品がこれらのプロジェクトや展覧会と深い関係があることを知って驚いた。そこで紹介された作品は必ずしも言語や写真によるものばかりではない。今名前を挙げた作家たちがこの時期、概念的な作品を発表した背景に松澤からの働きかけがあったと考えることもできようし、この点は個々の作家に即して今後検討されるべき問題であろう。カタストロフィー、あるいはニルヴァーナ・コミューンといった名称は当時の気風も反映している。まず当時、公害や資源枯渇といった話題と関連して盛んに終末思想が唱えられていた。日本沈没やノストラダムスが盛んに喧伝され、このような終末観は松澤のいう「消滅」と結びついている。松澤は第10回現代美術展、いわゆる東京ビエンナーレに「人類よ消滅しよう行こう行こう(ギャティギャティ) 反文明委員会」と大書された垂れ幕を展示したが、オブジェの消滅、物体の消滅、人類の消滅はこのような時代背景と無関係ではない。さらにコミューンへの志向も当時様々なレヴェルで認められる。しかしかかる憧憬は1972年、いわゆる連合赤軍事件によって無残にも断たれることとなる。松澤における政治の問題も重要であるが、このブログの紙幅で扱うには大きすぎる。

 最後に一つの問題について論じておきたい。「ニルヴァーナ・コミューンその後」と題された最終章において嶋田は「カタストロフィー・アート」以後の松澤の次のような言葉を引用している。「芸術(art)というよりそれは証拠(document)と呼んだ方がよいだろう。どんなことでもそれにひっくるめられる可能性がある。だから大変に自由なものだ。Free Document だ。その人が死を意識してその代替として信じたもの、事、心がこれからの大変大事な人類の意識遺産となる。それだ、それが次の芸術だ。これは1972124日午前4時の意見だ」ほぼ同じ時期に松澤は現代芸術資料センターという機関を立ち上げ、全世界の先端的な仕事をしている作家や機関に向けて、作品資料、出版物などを送付するように求めた。実際に多くの資料が送られ、松澤がアーカイヴ化しようとした痕跡が認められるという。嶋田は「松澤の興味の中心が197273年頃からデータの集積とその活用に移っていったことは今日のアーカイヴ研究を先取りしていて興味深い」と指摘している。私はドキュメントと関わる松澤の作品が本質的にアーカイヴ的であり、ハル・フォスターが「アーカイヴ的衝動」と呼ぶ動向のきわめて早い例ではないかと考える。一方でオブジェや物体の消滅を提唱し、非物質化された芸術を標榜しながら、他方「プサイの部屋」に認められるアッサンブラージュの混沌が併存したことはこの点から説明することができよう。私が「プサイの部屋」の写真から連想したのは、かつてポンピドーセンターで見たアンドレ・ブルトンの書斎の再現であった。それは美術館の整理されたコレクションとは全く異なり、ジャンルが異なる品々、さらには美術と関わるもの関わらぬものが無秩序に配置され、カテゴライズを拒む空間であった。「消滅」の対極にあるような混沌がシュルレアリスムの法王の書斎に認められたことは、瀧口修造が諏訪の松澤宅を訪れて一泊しながらも「プサイの部屋」に上がることを固辞したというエピソードの傍らに置く時、なんとも暗示的である。繰り返しとなるが、物体の消滅を主張した松澤が個々に区別もつかない大量の作品や書類を残したという逆説は作品の本質と関わる。先に引いた松澤の言葉も実は残された書類の中から発見されたものであり、松澤亡き後に残されたこれらの資料体の解明こそが作家を理解する重要な手段となるだろう。アーカイヴの問題は、近年、現代美術そして美術館において主要な課題となりつつある。私たちはフォスターが「アーカイヴ的衝動」で取り上げるような作家と日本でもしばしば出会うようになった。彼らの作品はアーカイヴという視点を導入することによって、初めて意味を了解することができる。そして今日、多くの美術館がその職能に新たにアーカイヴを取り入れようとしていることはよく知られている。偶然ではあるが、名古屋を中心に発行されている『REAR』も最新号で「アーカイヴは可能か?」という特集を組み、多くの興味深い記事を掲載している。今後、この記録集を通じてその輪郭が明らかとなった松澤のアーカイヴがどのように運営されるかを私は注視したいと思う。願わくば生前の松沢が念願したような「現代芸術資料センター」として70年前後のコンセプチュアル・アートをめぐる研究の拠点として整備されることを。b0138838_09273050.jpg




by gravity97 | 2017-07-02 09:38 | 現代美術 | Comments(0)

池野絢子『アルテ・ポーヴェラ』

 b0138838_21253281.jpg 本書はイタリアの戦後美術において最も重要な動向の一つであるアルテ・ポーヴェラを主題とした研究であり、2014年度に京都大学大学院に提出された博士論文に加筆修正した内容であるという。日本においてアルテ・ポーヴェラはかつて『アール・ヴィヴァン』誌で特集されたことがあり、私は未見であるが、展覧会としても2005年に豊田市美術館で大規模な回顧展が開催されている。ヤニス・クネリスやジョゼッペ・ペノーネなどの作品は一部の美術館に収蔵されているから、日本でもその片鱗に触れることは不可能ではないが、ミニマル・アートやアンチフォームなどの関連する動向と同様、アルテ・ポーヴェラはこれまで紹介される機会が少ない美術運動であった。これから述べるとおり、その理由自体もこれらの動向の本質と深く関わっている。したがって本書はこれまで十分に論じられることのなかったこの運動に関して日本語で書かれた初めてのモノグラフといえよう。博士論文としては量的にやや物足りず、章ごとにテーマを違えた構成は必ずしもわかりやすくないが、この運動の本質と広がりを知るうえでは示唆に富む手引きといえよう。

 序章で著者も述懐するとおり、本書の構成は必ずしもクロノロジカルではないし、状況の検証、批評の分析、個々の作品の記述といったレヴェルの異なる議論が意図的に導入されている。しかし読み通すならば、この運動の輪郭のみならずデ・キリコやマグリットといった歴史的前提、ポップ・アートやミニマル・アートといった同時代の美術との関わり、さらには美術館の制度論や作品の同一性といった抽象的な問題にいたる多様な問題がアルテ・ポーヴェラという分光器を得て次々に浮かび上がって興味深い。巻末の年表と関連展覧会のリストは資料的な価値が高く、本文の中で語られる内容についても私にとって初めて知るエピソードが多かった。例によって章を追いながら本書の内容を確認しておこう。

 b0138838_21271465.jpg 1969年、ローマのラッティコ画廊に11匹の生きている馬を繋いだクネリスの衝撃的な《馬》の図版を冒頭に掲げた序章においては、ジェルマーノ・チェラントによって組織され、布や木材、石や鉄板といった素材を無媒介的に提示するアルテ・ポーヴェラの輪郭が粗描されるとともに本書の構成が簡単に説明される。注目すべきは各章の最終節でそれぞれ一人の作家を取り上げ、作家論的な記述がなされている点である。変則的な構成であるが、このような記述をとおして具体的な作家論と理論的な分析がシャッフルされてこの運動の理解に深みを与えるように感じた。第一章ではアルテ・ポーヴェラの登場前後の状況が検討される。いくつもの興味深い発見があった。例えばアルテ・ポーヴェラの「ポーヴェラ」、「貧しい」という言葉がポーランドの演出家イェジェイ・グロトフスキーの「貧しい演劇」に由来することを私は初めて知った。ただしここで池野が「貧しい」という概念をメディウム・スペシフィシティーと関連づけてクレメント・グリーバーグのフォーマリズム理論と対比するのは全くの見当違いであろう。私がアメリカ美術を専門としているためのないものねだりかもしれないが、本書を通読してやや残念なのは同時代のアメリカ美術との比較が十分になされていない点である。この章を読んで私はあらためてアルテ・ポーヴェラがアメリカの戦後美術を強く意識した運動であったことに思い至った。例えば今触れた「貧しい」という言葉である。アルテ・ポーヴェラの理論的指導者チェラントは1967年に「アルテ・ポーヴェラ―ゲリラ戦のためのノート」というテクストを発表している。ゲリラ戦とは穏やかではないが、当時アメリカの手によってベトナム戦争が続けられていたことを想起するならば、すでにこの言葉の選択に明確なメッセージが込められていたと考えてよかろう。それでは何に対するゲリラ戦か、チェラントは次のように説く。「あちら側には複雑な芸術があって、こちら側には貧しい芸術(アルテ・ポーヴェラ)がある」あちら側の複雑な芸術、ゲリラ戦の仮想敵は池野によればポップ・アート、オプ・アート、プライマリー・ストラクチュアであるという。いうまでもなくそれはアメリカの同時代の動向であり、大量消費社会のアイコンであるポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアにみられる華やかで工業用素材を使用した彩色彫刻を連想するならば、それらを豊かさの象徴とみなすことは理解できよう。そしてあらためてこの運動も美術の覇権をめぐるアメリカとヨーロッパの闘争の一つの局面であったことが理解される。興味深いことにはかかる応酬は国家間というよりも有力な批評家の間で交わされた。50年代のミシェル・タピエが失脚した後、ヨーロッパではチェラント、そしてハロルド・ゼーマンが新しい美術を唱導した。このブログでも取り上げたゼーマンの「態度がかたちになる時」がイタリア、アメリカ、ドイツの作家を中心に中立国スイスのベルンで開催されたという事実は興味深い。この章では最後の節でミケランジェロ・ピストレットのケース・スタディがなされる。鏡というこの作家特有の装置を介して、鑑賞者という要素が作品の中に取り入れられるという発想は興味深く、ミニマル・アートを連想させる一方でウンベルト・エーコの「読者の役割」とも結びつく。さらにジャック・ランシエールを援用して展開される議論はなお敷衍する十分な余地があるように感じられる。

 「トリノの地政学」と題された第二章も興味深い。この章ではタイトルのとおり、フィアットで知られる工業都市、トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの展開を論じている。池野は特にジャン・エンツォ・スペローネというギャラリストとデポジト・ダルテ・プレゼンテというオルターナティヴ・スペースが果たした役割について検証しつつ、作家たちが採用した手法がブリコラージュであったという重要な指摘を行っている。ブリコラージュという言葉から直ちに連想されるのはレヴィ・ストロースであり、必然的に構造主義との関係も視野に収められよう。デポジト・ダルテ・プレゼンテにおける作品の展示風景の写真も掲載されているが、この図版から連想されるのは「態度がかたちになる時」やホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」の会場風景だ。この時代の気風が浮かび上がるとともに、これらの作品が展示されるべき理想の空間は果たして美術館であったかという問題も浮上する。この問題は最後の章においてあらためて主題化される。この章で驚いたのはアルテ・ポーヴェラと映画監督として知られるピエル・パオロ・パゾリーニとの関係である。トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの牙城であったデポジト・ダルテ・プレゼンテにおいてパゾリーニは1968年に「オージー」という「言葉の演劇」の上演を試みたという。(「オージー」からウィーン・アクショニズムを連想するのは私だけだろうか)しかし両者の関係は必ずしも良好ではなく、この空間が閉鎖される遠因となったことが暗示されている。あるいは本書には同じ会場でアメリカのリヴィング・シアターによる公演の写真も掲載されている。行為の問題については続く第三章で論じられるが、美術のみならず、映画や演劇と関わる異才たちが当時のトリノに結集したことが理解されよう。この章の最終節で特集される作家はアリギエロ・ボエッティであるが、世界地図の作家として知られるこの作家についても多くのことを学んだ。私は初めて知ったのであるが、世界地図のそれぞれの領土を国旗として切り分けた有名な作品は実は作家の指示に従って、アフガニスタンの無名の女性たちが縫ったものであるという。インストラクションとタスク、ここには明らかにコンセプチュアル・アートにつながる発想が存在し、先日、このブログで応接したクレア・ビショップが言う「参加型アート」のきわめて早い例として考えることができるかもしれない。そして地図というモティーフはきわめて多様なコノテーションをはらんでいる。ルチアーノ・ファブロの名高い「吊されたイタリア」の写真も掲載されているが、地図とは国家の表象でもある。ボエッティがベトナムの地図をトレースする含意は先に述べた当時の国際情勢を考慮する時、明らかであろうし、池野も指摘するとおり同時代のランド・アートの作家たちもしばしば地図を作品の中に取り込んだ。さらにこの問題圏にアメリカの美術史家スヴェトラナ・アルパースが提起した「描写の芸術」、そしてハル・フォスターが説く「民族誌家としてのアーティスト」といった古今の理論的概念が召還される様子は刺激的である。ただしここでも問題の輪郭は文字通り、マッピングするにとどめられ、検証の余地があえて残されている。

 続く第三章「実践のパラダイム」においては行為という問題が導入される。アルテ・ポーヴェラからも9人の作家が参加した「態度がかたちになる時」の輪郭を粗描し、そこでは作品が脱物質化され、プロセスが重視されることを指摘される。このような回路を経て具体的な作品ではなく、生あるいは行為という問題の重要性が明らかとなり、チェラントはアルテ・ポーヴェラからアツィオーネ・ポーヴェラ(貧しい行為)への移行を提唱する。この状況は例えばトリノで開かれた「観想=行動」という展覧会で演じられたピストレットの「散歩彫刻」といったアクションによって説明されるが、68年という時代背景を念頭に置けば、行為のさらに過激な含意も明らかである。ヨーロッパ各地で学生叛乱が発生したこの年、ヴェネツィア・ビエンナーレは参加ボイコットを叫ぶ学生たちで占拠され、一時的に閉鎖された。ただし私たちはアルテ・ポーヴェラにおいて「行為」の質が大きな変貌を遂げていることに注目しなければならない。彼らに先んじて作家の行為に意味を見出したのはハロルド・ローゼンバーグであり、アクションとして定式化された。ローゼンバーグが引用するジャクソン・ポロックのアクションからアラン・カプローはさらにハプニングという概念を導出し、ハプニング芸術を提唱した。これら一連の活動にみられる行為が作家という主体を強く全面に押し出し、行為の成果としての作品、あるいは行為の前提としての環境を伴ったのに対してアルテ・ポーヴェラの作家たちの行為は作家性を欠く場合が多い。先に挙げたクネリスやボエッティもそうであるが、池野はこのような特質を1968年にアマルフィで開かれた「アルテ・ポヴェーラウ+アツィオーニ・ポーヴェレ」という暗示的なタイトルをもつ展覧会に即して詳しく報告している。これらの活動から私が連想したのはいうまでもなく「もの派」による一連の発表であり、クネリスと李禹煥の作品の近似性については以前何かで論じられていた覚えがある。この問題もさらに論じる余地はあるが、池野はむしろ作家性の喪失を「作者の死」という問題へと結びつけ、フーコーからバルト、さらにジョルジョ・アガンベンにおける芸術の主体について論じる。繰り返しとなるが、この運動の周囲に思いがけない問題圏を広げていく点こそが本書の大きな魅力である。そしてこの章では作者と作品との関係という軸に沿って、ジュリオ・パオリーニという比較的マイナーな作家の写真作品が詳しく検討される。

 「前衛以後の古典主義」と題された第四章は比較的短く、一つのテーマが設定される。それは何人もの作家を横断して認められる石膏像というモティーフである。まずクネリス、パオリーニらのパフォーマンスや作品における石膏像の使用が概観される。アルテ・ポーヴェラは集団としての結束力が弱く、どの時点をもって運動が解消されたとみなすかは難しい問題であるが、興味深い点としては彼らが石膏像を使用するのは1970年以後、池野の言葉を用いるならば「アルテ・ポーヴェラ以後」の出来事であることだ。この章ではイコノクラスム、シミューラークル、あるいは古典への回帰といったキーワードと関連させて議論が進められ、最後にアルテ・ポーヴェラが前衛と古典主義という、相反するベクトルを合わせもつ運動であるという注目すべき見解が示される。

 最後の章ではこの運動をめぐる最新の状況が論じられる。すなわち1984年にトリノ、マドリッド、ニューヨークを巡回した回顧展における展示である。チェラントによって組織されたこの展覧会においては初期の作品とともにそれぞれの作家の近作も展示されたという。このような展示においては作品の同一性が問題となることはいうまでもなかろう。この問題を池野は異なった会場に展示されたジョヴァンニ・アンセルモの作品のインスタレーションが異なった印象を与えた点から説き起こしているが、これは現代美術の展覧会を手がける学芸員にはおなじみの難問である。アルテ・ポーヴェラの作品においては布きれや藁、炎や植物といった永続性がなく、不定形の素材が用いられる場合が多い。最初の発表と同じ素材、同じ形状の作品を発表することは最初からありえない。かかる作品の同一性を何に求めるかという点に答えることは簡単ではない。もしそれが作家に帰属するならば、作家が死亡した後は作品の同一性を保証することは困難となる。いうまでもなくこの問題は同時代のアンチフォームやプロセスアート、さらにはもの派などにも共通する。この問題を傍らに置く時、第四章で論じられた「作者の死」、あるいはしばしば言及されるウンベルト・エーコの「開かれた作品」といった概念は新たな意味を宿すかもしれない。最初に述べたとおり、これらの運動を回顧することが困難であったのも同じ理由による。池野はこの章の冒頭にミケランジェロ・ピストレットの《ぼろ切れのヴィーナス》の二つの展示風景の写真を並置し1985年の展示風景においては建築との関係において作品の異化効果が強められていると述べている。つまり実体をもった作品であっても展示された場所との関係において別々の作品と見なされる場合さえあるのだ。しかしミニマル・アートを念頭に置く時、このような作品の特性は意外ではない。作品は場の函数として存在し、それゆえ作品のインスタレーションが問題とされるのだ。「再制作/再構築の(不)可能性」と題された第三節においては近年の注目すべき試みとして、このブログでも応接したヴェネツィアにおける「態度がかたちになる時 ベルン/1969年 ヴェネツィア/2013年」(2013)を挙げる。ブログで詳述したとおりこの展覧会はゼーマンの伝説的な展覧会を、会場を含めて完全に再現するという画期的な試みであった。この展覧会を検証しながら池野はアルテ・ポーヴェラの作品が常に同時的時間にしか存在しえないというアポリアを確認するとともにそれを再構築する試みが常にずれを伴うことを指摘する。興味深いことにこのような過去の展示のリテラルな再現は近年次々に試みられている。このブログで扱った展示だけでも2014年、ニューヨーク、ユダヤ美術館における「アザー・プライマリー・ストラクチュア」、そして2015年、東京国立近代美術館における「Re: play 1972/2015」などが挙げられる。再現不可能な作品に対する美術館の対応としては別の手法もある。本書においてニューヨーク近代美術館の館長ウィリアム・ルービンの言葉を引きながら、池野は「作品自体を収集することが不可能である場合、その代替物であるドキュメンテーションを収集する」手法を示す。この点も近年の美術館において注目を浴びている手法であり、奇しくも私は先日の国際美術館における「THE PLAY」に関する展覧会の展示と関連してこの問題を論じた。あるいはやはり近年、美術館において大きな注目を浴びているアーカイヴもこの問題と深く関わっているだろう。この章では最後にジョゼッペ・ペノーネの《流形彫刻の庭園》というプロジェクトに触れて作品と場の関係、作品の同一性の問題が論じられる。

 本書はアルテ・ポーヴェラという運動を扱いながらも、求心的というより遠心的であり、多様な主題を巻き込んでいく点が理解されたことと思う。半世紀前に繰り広げられた、必ずしも輪郭のはっきりしない運動でありながら、そこで提起された問題は「貧しい」どころか、今日においてもアクチュアリティーをもつ。参加型アート、展覧会の再現、アーカイヴとしての芸術、先に私が言及したいくつかのテーマは21世紀に入って鮮明となった主題であり、この運動の先見性を暗示している。アンチフォームやプロセスアートといった対応するアメリカの動向がフォーマリズムへの明確な批判として成立しているのに対して、かかる運動はいかなる出自をもつのであろうか。十分に深められていないが、先に触れた「前衛と古典主義の結合」という発想は一つの手がかりとなるかもしれない。現代美術が美術史学に登録されたことの証明は、そのテーマで博士論文が執筆されることであるという。私たちはようやく半世紀前の美術を美術史学の対象として検証する視座を得つつある。ラウシェンバーグ、具体、そしてアルテ・ポーヴェラ。近年上梓され、このブログでレヴューしたこれらの作家や運動についての優れたモノグラフの数々は現代美術が歴史化される過程を雄弁に語っている。



by gravity97 | 2017-02-17 21:29 | 現代美術 | Comments(0)

ミン・ティアンポ『GUTAI 周縁からの挑戦』

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 ミン・ティアンポが2011年にシカゴ大学出版局から刊行した『GUTAI Decentering Modernism』がこのたび翻訳された。2013年のニューヨーク、グッゲンハイム美術館における回顧展以来、このグループが再び注目を集め、何人かの作家の絵画が信じられないような価格で取引されるようになったことは知られているとおりだ。ミンとアレクサンドラ・モンローによって企画されたこの展覧会を私も見たが、かつてこのブログでもレヴューしたとおり、批判的な印象を抱いた。したがって同じ企画者がこの集団をどのように英語で検証しているか、多少の危惧の念をもって本書を読み始めた訳であるが、実に興味深い内容であった。最後に述べる通り、私には同意できない部分もあるとはいえ、本書は具体美術協会(以下、具体)についての全く新しいアプローチであり、具体をとおしてモダニズム美術史観を相対化するきわめて野心的な研究である。ひるがえって本書は今触れた展覧会の意味を再考する契機ともなるように感じた。
 具体というグループを扱いながら、本書は通史のかたちをとらない。確かに理論的フレームワークを論じる序章に続いて、リーダーの吉原治良の経歴に始まり、日本の戦後美術の前史を高橋由一まで遡って論じる第一章以降、具体の活動はほぼクロノロジカルに検証されているが、それは意図されたものではなく、各章ごとに興味深いテーマが設定されている。それらを個別に述べるならば、「距離の相互詩学」と題された第二章においては郵便システム、第三章では『具体』という機関誌、第四章ではメルクマールとなる三つの具体美術展、すなわち1955年の東京、58年のニューヨーク、59年のトリノにおける展示が取り上げられる。そして第五章以降においては資料が少ないことを理由にこれまでほとんど論じられることのなかったいくつもの展示に光を当てられる。第五章では62年のグタイピナコテカの開設と65年、アムステルダムにおける「ヌル1965」、そして同年パリにおける具体美術展、第六章では「ヌル1965」の数カ月後にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展、67年、阪神パークにおける「グタイグループによる宇宙時代の美術展」、そしてよく知られた70年、大阪万国博での発表である。このような構成を確認するだけでこれまでの具体研究にはありえなかった二つの視点が導入されていることが理解されよう。それはまず具体の活動を広く世界的な規模で確認することであり、第二にこれまで低い評価しか与えられることがなかった60年代以降の具体の活動に新しい意味を与えることである。具体の評価についてはすでに一つのクリシェがかたちづくられている。それは初期具体の野外展やアクションに大きな意義を認め、1957年のミシェル・タピエとの接触によってアンフォルメル絵画へと転身することによってそのオリジナリティーが殺がれたという見解であり、かかる発想は具体の活動時から今日まで、例えば最近ではミンも引用する現代美術に関するエンサイクロペディアとも呼ぶべき『Art Since 1900』の中でイヴ=アラン・ボアが論じるところでもある。本書はこのような通説に対する根底的な批判である。しかしこれにあたって彼女が提起する「文化重商主義 cultural mercantilism 」という概念は必ずしも有効ではない。本書の意義は単純にその実証性に求められるべきであり、新しい理論的モデルの構築は必要なかったように感じる。むしろハロルド・ブルームの「影響の不安」という概念を拡張することによって事足りたのではなかろうか。
 ミンは大学院時代にインターンとして、当時、芦屋市立美術博物館に移管されていた具体に関する資料、ことに吉原治良旧蔵の資料の整理にあたっており、具体の研究者としてのアドバンテージの一端はこの経験に負っている。この成果は本書にも十分に反映されている。一例を挙げよう。ミンは吉原が具体を回顧した文章を引用しつつ、その典拠として『具体』誌の13号を挙げる。この箇所を一読し、私は不審に感じた。なぜなら『具体』誌は10号と13号を欠号としているからだ。しかし註を参照するならば、ミンは吉原のアトリエに遺された資料中、吉原の手書きによって13号の雛形に添えられたコメントを例証としてかかる記述を行っている。緻密な資料調査に感心するとともに、この点に本書の一つの限界も存しているように感じた。現在は大阪新美術館準備室に保管されているこれらの資料はまだアーカイヴとして整えられていないため、参照することが容易ではない。つまり本書においては典拠をこれらの資料群に置いた記録や発言について、関係者以外はその真正性を確認することが容易ではない。もちろんこれはミンの責任ではないし、世界的にみても資料として第一級の価値がある(それゆえ芦屋市立美術博物館の経済的危機が叫ばれた際には、海外の美術機関が一括して買い付けるのではないかという噂が流れた)これらの資料が遠からずアーカイヴとして整備され、可能であればインターネットを介した検索が可能となることを望むのは私だけではないだろう。
 やや話が逸れた。本書の理論的枠組とオリジナリティーの問題を扱った序章と第一章は抽象度が高く、先にも述べたとおり作業仮設もうまく機能しているとは思えない。筆者は序章の最後の箇所で本書の目的を次のように記している。

本書は非大都市型モダニズムのトランスナショナルな研究の拡大に寄与するものだと考えている。こうした研究はモダニズムを漸進的に再考する方向に向かってきたが、本書ではよりラジカルな視座を提唱したい。つまり、いかに文化重商主義の言説が影響という概念を通じて非西洋のモダニズムを周縁化したかを分析し、作家間の相互詩学的関係を考察するための正確かつ柔軟な方法を提案したい。この方法論を用いて、本書はモダニズムの物語、領域、そしてそれらの核心となる特徴さえも再考する方法論を構築する。

 翻訳の問題もあろうが、わかりにくい文章である。読者はここで立ち止まって考えるより次章に進むのがよい。「作家間の相互詩学的関係」が具体的に論証されるからだ。続く第二章でミンはまず具体と海外の作家たちの「トランスナショナル」な関係が郵便というシステムを用いて深められたことを説得的に論証する。郵便を用いた交渉は多様なレヴェルにわたっている。例えば裕福な実業家であった吉原のアトリエに戦前より海外の美術雑誌や展覧会カタログが国際郵便によってほぼリアルタイムで届けられていたことは既に指摘されてきた。この中で彼女は1951年、『アートニューズ』5月号に掲載されたロバート・グッドノーの有名な記事「ポロックが絵画を描く」に注目する。ミンによればこのテクストを吉原はわざわざ書き写し、その中には「抽象から具体(concrete)をめざす」という言葉があったという。この言葉が具体という集団の名称、あるいは具体美術宣言に影響を与えたとするならば、興味深い指摘であろうし、具体とポロックの関係を強く暗示する挿話である。郵便システムに関しては、郵送によって世界中の作家や批評家に送られた『具体』誌をめぐるそれが連想されようが(その一部がポロックのアトリエに届いたことはいうまでもない)、ミンは意外な主題につなげる。それは年賀状である。IT環境の発達した今日においても年賀状は視覚的な情報発信の手段であるが、当時会員間で交わされた年賀状に着目したミンはそれがメールアートの先例であったこと、さらにそれが小さなサイズのオリジナル作品という発想を導出し、第11回具体美術展の際に会場に置かれた「具体カードボックス」という作品カードの「自動」販売機へと展開されたと論じる。本書にはかつて具体からルドルフ・スタドラーに送られた多数の年賀状の図版も掲出されているが、年賀状をミニチュア絵画ととらえる発想は示唆に富み、具体におけるコンセプチュアル・アートの萌芽をこの点に求めることも可能であろう。かかるポータビリティは1960年に大阪高島屋上空に下絵を拡大した海外作家の作品をアドバルーンで吊り下げた「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」、さらに60年代には一連の海外での作品発表の際におけるインストラクションへと展開されるという。実はこの問題は『具体』誌とも深く関わっている。この冊子をめぐっては具体初期を彩る神話がよく知られているが、ミンが注目するのは1962年に発行される予定であった第13号であった。知られているとおりこの号はグタイピナコテカ開設時のパンフレットにその予告が写真とともに掲載された幻の雑誌であり、その詳細は今日もよく知られていない。ミンは次のように解説する。「1962年に具体がグタイピナコテカの開館に合わせて『具体』誌の特別記念号を出版する計画を立てた時、メンバーは表現媒体と展覧会場としての機関誌という初期の試みに立ち返った。(中略)構造としては13号の前半ではひとりにつき2作品の割り当てで作品掲載の予定だったようだ。それぞれ絵画作品の複製と葉書大の手描きのマルティプルの実物を貼り込んで併置するというアイデアである」具体がきわめて早い時期にマルティプルという発想を美術に持ち込んでいたことはこれまで指摘されることのなかった重要なポイントである。ここからはデュシャンやコンセプチュアル・アートと具体という新しい関係線を引くことも可能であろう。さらにミンは『具体』誌の発行部数や配布先についても詳細に言及するとともに、フランスで発行された『ロボ』という雑誌について言及する。ジャン・クレイ(あの美術史家のジャン・クレイであろうか)によって編集されたこの雑誌は1971年に発行された5/6号で具体の特集を組み、しかもそこではタピエへの批判的な視点が加えられていたという。この雑誌についてはこれまでの具体研究ではほとんど言及がない。このような新しい知見が得られることも本書の大きな魅力であり、それは世界各地で調査を続けた筆者の行動力と語学力に多くを負っている。
 しかしこれらの新知見以上に、私は本書をとおして具体が置かれた状況について全く新しい光が当てられたことに注目したい。私がそれを強く感じたのは「具体美術展の地政学」と名づけられた第四章である。ここでは具体の活動の中心であった具体美術展を軸にまさに美術の地政学が論じられる。最初に述べたとおり、タピエとの接触を機にアンフォルメルの一翼としての立場を鮮明にした具体は1958年、日本各地を巡回した「新しい絵画世界展」において、ヨーロッパのアンフォルメル、アメリカの抽象表現主義そして日本の具体という新しい国際様式のフロントを大胆に示した。このあたりの事情を確認したうえで、ミンは同じ年、ニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーで開かれた第6回具体美術展と翌年トリノで開かれた第7回具体美術展に注目する。これら二つの具体美術展に関する今までの定説は、ニューヨークの展覧会は抽象表現主義の亜流として酷評され、トリノの展示は資料が残されていないから詳細が不明というものであった。海外で開催された展示であるから資料調査が困難であることは当然とはいえ、この二つの展覧会は具体研究における一種のブラックボックスとなっていた。ミンは当時の資料を読み込んで前者についての批評が、具体におけるアクションや実験的な側面にあえて目を閉ざし、絵画に集中することによってもたらされた意図的な批判であった点を実証する。私が感心したのはミンがニューヨークとパリの間の美術の覇権をめぐる闘争の一端としてこのような状況を実証的に分析している点である。具体の様々な前衛性に関する情報は十分に与えられていたにもかかわらず、ニューヨークの美術界は具体の活動を単に絵画の問題へ矮小化して否定した。具体を尖兵としたタピエとジャクソンの世界戦略は破綻する。確かに時期といい場所といい、ニューヨークの具体展はパリとニューヨークの間の美術をめぐる覇権争いのメルクマールとなる出来事であった。私は日本の作家集団がこの歴史的局面に深く関与したことをあらためて思い知った。そしてさらに興味深いのはかかる現代美術のパワーゲームの中で具体は単に欧米の批評に左右される存在ではなく、時に自らもプレーヤーとして欧米の美術界に伍したという指摘である。ニューヨークにおける批評家たちの反発を目の当たりにした吉原はトリノの展示においては戦略を違える。いうまでもなく絵画そしてアンフォルメルの要素を切り詰めて、具体の前衛性を正面に押し出したのである。このうえでも雑誌が大きな役割を果たしたことは注目に値する。具体はあらかじめ『NOTIZIE』誌の特集を用いて自分たちの活動を紹介し、東洋の未知の前衛集団として自らをアピールした。ニューヨークでの冷遇に対してヨーロッパでの成功は続く60年代の具体の評価と密接に結びつくこととなる。
 かかる視点を得る時、先に述べたアドバルーンを用いた展示、「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」の評価も変わってくる。この国際展の開催、そして出品者の顔ぶれは具体の世界的な認知、針生一郎の言葉を借りるならば「国際的同時性」を暗示している。したがってミンはタピエとの接触によって具体の創造性が衰えたという通説には与しない。それどころかまさにこの接触を契機として具体は自らの表現の同時代性を意識し、さらに新しい冒険に乗り出した。その答えの一つが62年に開設された常設展示場、グタイピナコテカであることは言を俟たないだろう。ミンはそこを訪れた著名な作家や批評家を列挙してその国際性を強調する。さらに65年、アムステルダムのステデリック美術館で開催された「ヌル1965」と実現にはいたらなかったがその後、やはりオランダのスヘフェニンゲンで企画された「海上のゼロ」の構想についての詳細な検証からは、60年代にあって具体が再び絵画からオブジェや立体へと活動の中心を移そうとしていた様子がうかがえる。一方でタピエもまた具体の絵画によって巻き返しを図る。奇しくも同じ65年にパリ、スタドラー画廊で開かれた具体パリ展であり、展示は絵画のみで構成されていた。私たちはこれまでこれらの展示を同じ年にヨーロッパで開かれた具体による連続デモンストレーションとみなしてきたが、そこには美術の主流、海外での認知をめぐる関係者の激烈な暗闘が隠されていたのである。そして疑いなく吉原のリーダーシップに基づいて、具体はかかるパワーゲームに主体的に参加していた。
 かかる問題意識に立って、ミンは同じ65年にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展に具体の一つのピークを認める。吉原が円によるハードエッジ抽象に転じ、キネティック・アートやオップ・アートに分類される多様な作品が発表されたこの展示は初期のアンフォルメルの牙城として具体とは一線を画すものの、これまでむしろ初発時の創造性の衰退を示すものとして否定的に言及されることが多かった。これに対してミンはこのような多様性を肯定し、それが端的に「ヌル1965」に参加したことによって得られた自信に裏打ちされていると説く。これは同時に具体におけるアンフォルメルの終焉を画す意味をもち、タピエによる具体の専横の終焉であった。この後、具体はいくつかのインターメディア系の展示に参加し、多くの前衛作家が反対を表明した万国博覧会にもあえて「具体美術祭り」で応えた。しかし具体にはもはやさほどの時間は残されていなかった。72年、オランダでのスカイ・フェスティヴァル再現についてオランダ大使と電話で会話中、吉原は脳出血で倒れ、まもなく他界する。傑出したリーダーに支えられた具体にとって吉原の不在は集団の解消を意味した。かくして60年代に具体が提起した国際的同時性という問題は十分に深められることなく、またその後の具体研究においても等閑視されてきたことをミンはあらためて指摘する。
 実際にはミンの議論は相当に入り組んでおり、単純な要約を許すものではないが、以上で少なくとも本書の核心についておおよその見取り図を与えたことと思う。最初に述べたとおり、このような研究は語学に通じ、日本人ではない研究者によって初めて可能な発想である。本書を読んで、私は近年きわめて近似した意識に基づいて執筆された研究が上梓されたことを想起した。本ブログでもレヴューした池上裕子の「越境と覇権」である。池上も時間的な影響関係ではなく、空間的な交渉を主題として、1964年のラウシェンバーグの活動を論じたが、本書においても具体という集団の歴史ではなく、空間的な関係が主題とされている。資料の綿密な調査、存命の関係者へのインタビューといった点においても共通点を有する二つの研究が、1960年代中盤、モダニズムの首都の座をめぐってパリとニューヨークが角逐を繰り広げていた時期に焦点を当てていることは偶然ではないだろう。(いうまでもなくこの点がミンの具体研究の独自性でもある)モダニズムにおいては中心と周縁という関係が成立する。モダニズムの中心において洗練された前衛は変形を被りながら、周縁へと伝播する。キュビスムからシュルレアリスムまで私たちはこのようなモデルをいくつも指摘することができる。これに対して池上においては移動、ミンにおいては相互詩学や同時性といったキーワードを介して、時間ではなく空間、伝播ではなく同期が論じられる。中心はもはや一つではなく複数、さらに「脱中心化」というモデルさえも提出される。これらの発想はモダニズムがもはや金科玉条ではなく、その相対化が図られた1990年代より顕著となり、展覧会としては、1989年、ポンピドーセンターで開かれた「大地の魔術師たち」、1998年、ロスアンジェルス現代美術館における「アウト・オブ・アクションズ」、1999年、クイーンズ美術館における「グローバル・コンセプチュアリズム」などが連なる。私はソビエト連邦が崩壊した時期よりかかる趨勢が力を得たことは偶然ではないと考えるし、美術史研究の分野に応用されて多くの成果を生んだ「グローバル・アート・ヒストリー」の研究者の多くが非欧米系の女性であることもまた一種の必然性を秘めていると感じる。
 本書はきわめて独特の研究であり、多くの新しい知見を得ることができたが、最後に私の立場からいくつかの問題点を指摘しておきたい。まず60年代中盤の具体に対する肯定的な評価に私は同意することができない。これまでにも具体の活動がその全幅において回顧された機会は何度かある。近くは2012年に国立新美術館で開かれた「具体 ニッポンの前衛 18年の軌跡」がこのような展示であった。このブログでもレヴューしたとおり、具体の作品が歴史的に概観された場合、60年代以降の作品の脆弱さは誰が見ても明らかであり、この印象は今回本書に掲出された、例えば第15回具体美術展の会場写真を見ても変わることがない。作品はばらばらで展示も散漫で希薄に感じられる。「新たな自信とエネルギーに満ちた具体メンバーは素材、テクノロジー、空間、そして動きを使って、真に革新的成果をみせた」というコメントは過褒に過ぎる。第五章以降、国際性や同時代性に注目するあまり、本書からは作品に対する価値判断という視点が失われたように感じられる。国際性を論じるうえでは62年の常設の展示施設の設立は決定的に重要であり、それゆえミンは従来の三期区分に対して、グタイピナコテカ設立以前と以後という具体の二分法さえ提起する。しかし私はこのような国際的同時性の検証は60年代ではなく、むしろ初期から中期の具体についてこそ試みられるべきではないかと考える。むろんそこにはタピエという毀誉褒貶の激しいプレーヤーが介在した。しかしモダニズムの核心とも呼ぶべき彼らのオリジナリティーはミンも説くとおり、この時期にこそ横溢しており、さらに当時の彼らには明らかに国際的同時性への自覚があった。歴史に「もし」はありえないとはいえ、私はタピエなき具体を夢想する。タピエが介在せずとも、具体の絵画が当時において世界的な評価を受けたと考えるのはあまりに無邪気な認識であろうか。しかし実際にタピエと接触する以前に具体の絵画はサイズや物質性、あるいはアクションの介在といった点において、すでに抽象表現主義に比肩しうる資質を獲得していたと私は考えるのだ。つまりタピエやヌル、あるいはゼロを経由せずとも、すでに複数のモダニズムは存在していたのではないか。そして本書には具体の絵画についての言及がきわめて少ない。印刷物に掲載された写真、マルティプルのミニチュア作品、下絵を引き延ばしてアドバルーンから吊り下げた作品、それらはモダニズムの外部にあって興味深いエピソードではあるが、本書を読む限り、少なくとも初期の具体の活動の中心に絵画が存在し、しかも高いクオリティーを秘めていたことを理解することは困難である。絵画を軽視することは具体にとってその可能性の中心を素通りする偏った見解である。
 あらためてグッゲンハイムにおける具体展を振り返るならば、本書における主張が随所に取り込まれていることがわかる。児童美術や具体カードボックス、「間主観的な」落書板といった本書で言及されたアイテムが展示に組み込まれ、遊戯性やインターメディア性が強調される一方で、絵画はその自立性を意図的に弱めて展示されていた。これらへの批判はすでにこのブログで行っているので繰り返さないし、逆に本書を読むことによってあらためてこの展覧会の暗黙の意図を了解することができた。私は日本の戦後美術史にそれなりに通暁しているから本書をある程度相対化して論じることができる。しかし多くの英語圏の読者にとっては今後、本書とグッゲンハイムの展覧会カタログが具体に関する理解の基礎となるはずだ。それなりに興味深い視点であるが、今述べたとおり、私はそれらによって具体の達成の本質が検証されたとは考えない。自らの国で成立したきわめて独自な運動であるにもかかわらず、その評価において私たちはいまだ「中心」からはるかに離れた「周縁」にいるのかもしれない。

by gravity97 | 2017-01-05 21:00 | 現代美術 | Comments(0)

クレア・ビショップ『人工地獄 現代アートと観客の政治学』

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 ボードレールのLes paradis artificiels から引用されたのであろうか、楽園ならぬ「人工地獄」という奇妙なタイトルをもつ本書は20世紀の、そしてとりわけ1970年代以降、今日まで連なる、いわゆる「参加型」の美術の系譜を緻密に論じ、今日の美術の一つの趨勢を検証するきわめて興味深い研究である。ただしタイトル、そして構成は必ずしもわかりやすいものではない。「人工地獄」は本書の第二章のタイトルでもあるが、明確にその意味が提示されることがないため、一見したところ本書の内容はとらえがたいし、サブタイトルの「現代アートと観客の政治学」も抽象的でわかりにくい。本書を手に取り、レヴューすることが遅れた理由の一つはこの点に由来する。さらに序論と「社会的転回:コラボレーションとその居心地の悪さ」と題された第一章でいきなり本書の核心となる理論的枠組が語られるが、この箇所は全体の議論に慣れていない状態では相当に難度が高い。例えば第一章では本書の問題意識を反映した例として2001年、ジェレミー・デラーというイギリスの作家が発表した《オーグリーヴの戦い》と呼ばれる作品が参照される。おそらく日本の読者にとっては美術関係者であってもほとんど知ることのないこの作品は、確かに本書を通読するならば、議論の中で一つの参照点たりうることが理解されるが、最初に提示された際には本書の中でどのような位置づけを与えられているか判断することが困難である。逆にこの二つの章を通過するならば、論理の展開を追うことはさほど難しくない。第二章以降は「参加型」の美術の系譜が歴史的に概観される。ただしビショップがとる手法は網羅的な概観ではなく、いわばケース・スタディによって徴候をたどるそれだ。ケース・スタディとして選ばれた対象を列挙するだけでも本書の特色は明らかとなる。すなわち第二章においては20世紀の三つの前衛運動、未来派、ロシア・アヴァンギャルド、パリ・ダダが取り上げられ、続く第三章ではシチュアシオニスト・インターナショナル、視覚芸術探求グループ、そしてジャン=ジャック・ルベルによるハプニングについて論じられる。第二章の対象がよく知られているのに対して、第三章で論じられるグループや作家は相当にマニアックであるが、これらの連なりからは20世紀におけるパフォーマンス芸術の系譜が浮かびあがり、本書の類書として例えば翻訳も存在するローズリー・ゴールドバーグの『パフォーマンス』なども連想されよう。ただしゴールドバーグと比較するならば本書の特異性も明らかだ。すなわち本書においては、これまでパフォーマンスの歴史を語る際に必ず論及され、例えば同じテーマの展覧会としては過去最大級、日本にも巡回した「アウト・オブ・アクションズ」で中心的に取り上げられた北米におけるパフォーマンスが無視されているのである。このような姿勢がいかなる意味をもつかについては後で論じることにして、本書の概観を続けよう。続く第四章と第五章ではこれまで日本でほとんど紹介されることがなかった重要な動向について論じられる。すなわち1960年代から70年代にかけてのアルゼンチン、東欧、そしてソビエト連邦で繰り広げられたパフォーマンスの系譜である。先日、寺尾隆吉の「ラテンアメリカ文学入門」についてレヴューした際に、1960年代にアルゼンチンの文学がきわめて高い水準にあり、それを受容する知的に洗練された教養層が同伴したことについて論じたが、美術においても同様の深まりが認められる点は興味深い。例えばオスカル・ボニーという全く未知の作家が発表した、労働者の一家を「展示」するという試みは直ちにマリーナ・アブラモヴィッチやギルバート&ジョージを連想させよう。あるいはチェコスロヴァキアのミラン・クニージャークという作家については名前のみ知っていたが、本書を読んでパフォーマンスの詳細を確認することができた。以前よりラテンアメリカ、そして東欧がパフォーマンスにおいて多くの過激かつ重要な作品を生み出した地域であることを耳にしていたが、本書はパフォーマンスに関して、欧米中心の現代美術史とは別の美術史が脈々と存在することを説得的に論証している。ここで興味深いのは60年代のラテンアメリカ、70年代の東欧といった場がいずれも軍事政権や共産主義国家の圧政が支配する全体主義社会であったことだ。本書で紹介されるクニージャークの作品は圧政下での抵抗という文脈と複雑に絡み合っている。あるいはモスクワ・コンセプチュアリズムと深く関わる「集団行為」の一連のパフォーマンスは共産党の独裁という体制と深く結びついているだろう。これらの場における実践は実に興味深いが、詳細については本書を参照していただこう。第六章では再び西欧、イギリスにおける70年代の動向が論じられる。過激なパフォーマンスを繰り広げたジョン・レイサムの名は耳にしていたが、彼が芸術家斡旋グループ(APG)という活動に関わっていたことを初めて知った。作家と企業、産業をつなぐ興味深いプロジェクトは文字通りもはやパフォーマンスというよりプロジェクトと呼ぶべき内容である。著者の出身地であるイギリスにはこのような活動の長い歴史があることが、続くブラッキーやインターアクションといった運動との関係において検証される。第七章においても1990年以降、時にソーシャル・エンゲージド・アートと呼ばれる動向がドイツやフランスを舞台に様々な結実をもたらしたことが丹念に検証される。かかる傾向は単に作家のみならずドクメンタやミュンスター彫刻プロジェクトにおいてはキューレーションの問題とも深く関わっている。第八章で論じられる「委任されたパフォーマンス」の問題も私には実に新鮮に感じられた。「委任されたパフォーマンス」とは作家自身が行為するのではなく、「プロではない人々を雇い、一定の時間、一定の場所にアーティストの代理として存在し、アーティストの指示に従ってパフォーマンスを遂行する」試みである。この章を読んで私はとりわけ今世紀に入ってから世界の多くの場所で実見しながらも、その本質をつかめなかった一連の作品におおいに得心がいった思いがする。偶然ではあるが、私は先日、国立西洋美術館の「クラーナハ」展を訪れた。現代美術とクラーナハを交差させた興味深い展覧会についても機会があればレヴューしたいと考えるが、そこに出品されていたレイラ・バズーキというイランの作家の作品は、名画の模写によって生計を立てる中国の職人たちに制限時間内にクラーナハを模写させるというワークショップを課した結果の集積であった。アイ・ウェイウェイでもよい、田中功起でもよい。私は近年に発表された「他者によって代行されるパフォーマンス」の実例をいくつでも挙げることができる。本書の視点を得て、これらのなんとも名状しがたい試みに対して、目から鱗が落ちた思いがした。著者が「本書の執筆にあたって最大の難関となる」と述べる最後の章、第九章においては「教育におけるアート・プロジェクト」が論じられる。早くも60年代のヨーゼフ・ボイスによって創始されたペタゴジック(教育的)プロジェクトは今世紀に入って多くの作家、キューレーター、あるいは美術学校といった多様な関係者によって深められる。特にキューバ出身のタニア・ブルゲラ、アメリカのポール・チャン、ポーランドのパヴェウ・アルトハメル、そしてパリを拠点とするトーマス・ヒルシュホーンという四人の作家の実践が詳細に検証される。私はチャンのみ名前を聞いた覚えがある。ビショップが論じるチャンのプロジェクト、2007年の「ニューオリンズでゴドーを待ちながら」はハリケーン、カトリーナによって壊滅的な被害を受けたニューオリンズでベケットの演劇を上演するというものであり、単なる上演ではなく上演にいたる一連の教育プログラムがプロジェクトとみなされるという。このプロジェクト/作品は最近、そのアーカイヴがニューヨーク近代美術館に購入されたということであるが、この出来事はかかるプロジェクトと美術館の関係においても示唆的である。そういえば、おそらくは今も私たちも東京国立近代美術館のコレクション展を訪れるならば、ロビーで上映されている田中功起のプロジェクトを見ることができるはずだ。さらに私はここで今述べたチャンの作品を、1993年にスーザン・ソンタグが内戦下のサラエヴォでやはり「ゴドーを待ちながら」を上演した事例と比較したい誘惑に駆られる。終章においては本書の総括がなされるとともにアントニー・ゴームリーのトラファルガー広場を用いた「ワン・アンド・アザー」という公共的なプロジェクト、そしてドイツのクリストフ・シュリンゲンズィーフという映画監督/作家の「オーストリアを愛してくれ」という挑発的なプロジェクトに論及される。本書の最後で社会性の強い二つのプロジェクトが紹介されたことは暗示的である。
 以上、本書の内容を簡単に要約したが、このような概観からもこの研究が時間的にも空間的にも広い対象を扱い、リサーチに多くの時間を要する労作であることが理解されよう。本書全般について論じることは私の手に余るが、いくつかの所感を書き留めておきたい。本書は基本的にクロノロジカルに構成されているが、それは網羅的な通史を意味しない。先にも述べたとおり、ケース・スタディの連続によって一つの主題が深められている。第七章の冒頭でビショップは、かかる美術の系譜にいくつかの高まりがあることを指摘する。それは1917年、1968年、そして1989年という年記によって示される。これらの年代が革命や動乱とともに記憶に刻まれていることは偶然ではないだろう。すなわちロシア革命、五月革命、ソビエト連邦の崩壊であり、おそらくこの点は本書において北米についての言及が少ないことと関わっており、ここで論じられた試みが本質において「抵抗の美術」であることを暗示している。同じ箇所でビショップは1989年以降の美術の本質を次のようにまとめている。「私が1989年以後の芸術において重要だと考える意味での『プロジェクト』は、有限の物的対象としての芸術表現から離れ、可変=継続的(オープン・エンデッド)な特性、ポスト・スタジオ的なもの、リサーチ方式、社会的過程、長い期間をかけて拡張していくもの、そして柔軟性を形式とするものへの移行を希求する」プロジェクトという言葉からは直ちにヴィレム・フルッサーの「投企」といった概念なども連想されるが、議論をこれ以上拡張することは避けよう。可変=継続性という概念は本書の鍵概念の一つであり、参加型の美術の判定にあたっては一つの指標となるだろう。今述べたようないくつかの特性は具体的な作品のかたちをとらず、往々にして展覧会のかたちをとる。いわばモノからコトへの転換によって、作家以上にキューレーターが重要な役割を果たし、より正確には作家がキューレーターの役割を果たす場合が多かったことを本書は論証している。ユニテ・プロジェクト、中間の時間、インターポールといった私が初めて聞く展覧会/プロジェクトをとおしてかかる試みの成功や挫折が論じられる第七章は実に興味深く、個々に論じたい事例も多いが紙幅がない。
 「委任されたパフォーマンス」と題された第八章も問題提起的だ。私にとって本書はパフォーマンスとして一括りにされがちな20世紀中葉のそれと20世紀末から今世紀にかけてのそれとの間に明確な断絶を指摘し、理論化した点において画期的であるように感じる。例えば次の二つのパフォーマンスを比較してみよう。自らの下腹部を剃刀で星形に切り裂くマリーナ・アブラモヴィッチのマゾヒスティックなパフォーマンスと対価を支払うことを条件に応募者の背中にタトゥーの線を入れるサンチャゴ・シエラの作品。肉体を毀損するという点においては共通しているが、両者の相違もまた明らかだ。作家自身の身体を傷つける前者と金銭的契約を介して他者の身体に介入する後者。このうちシエラについては本書中にも言及がある。身体、契約、刻印、様々なコノテーションをはらんだシエラの作品をビショップは一つの言葉で要約する。「プロではない人々へ外部委託(アウトソース)されたアクション」アウトソースとはまさに今、私たちが日本の社会において目撃している不条理であり暴力ではないか。シエラの作品が可能であったのは、中南米においては低い対価を目当てに一生残る刻印を受け入れる、グローバリゼーションのしわ寄せを受けた低所得者層が存在しているためである。ここでは作家に帰属する身体ではなく、私たちが置かれた不均等な世界が作品の主題とされているのだ。そしてこの問題を作品の真正性と読み替える点にこそビショップの議論の鋭利さがある。彼は次のように説く。「アーティストはパフォーマーに権利を委任する。ただし委任は一方通行の上意下達というだけではない。ひるがえってパフォーマーもまたアーティストに一定のものを委任するのだ。それはもっぱら表象に取り組むアーティストには通常与えられていない、日々の社会的現実に接しているという真正性の保証である。支配的かつ自己規定的な真正性は、(裸であったり、自慰をしたり、腕に発砲したりする)単独のアーティストの存在から離れて、否定しようのない(ホームレス、人種、移民、障害といった)社会的、政治的な問題を換喩(メトニミー)として表す、そうしたパフォーマーの集団的存在に向けて再編される」作家自身が裸になったり、自慰をしたりする60年代のパフォーマンスに対して、半世紀後のそれはホームレスや移民といった代行者を得ることによって社会構造における真正性を獲得するという指摘は重要である。私はシエラの作品がはらむ反社会性あるいは反倫理性をいかに評価すべきか長い間考えあぐねていたが、本書を読んでようやく理解することができたように感じる。50年代において作家の肉体が素材とされたことは、よりリアルな感触を美術に持ち込むためであった。しかしもはや「作家の身体」はかかるリアリティーをもちえない。権力や暴力が不可視された世界において現実を取り込むためにはより巧妙な戦略が必要とされるのだ。この点をビショップは次のように指摘している。「この図式では倫理は重視されない。なぜなら芸術は既存の価値体系へとたえず疑問を投げかけるものとみなされ、そしてそこでは倫理観についても問われるためだ。より重要なのは、社会における矛盾を表象し、それを問題として取り上げるための、新しい語法を打ち立てることなのだ。社会的な視座の言説では、倫理観の欠如と実効性の無さをかどに、芸術的な視座の言説が批判される。なぜなら、世界を提示および複製すること、またはそれについて考察することだけでは、不十分だからだ。そこで重視されるのは、社会を変化させることなのだ」私はここで暗に示された、例えばアブラモヴィッチやヴィトー・アコンチ、クリス・バーデンらのアクションもまた既存の価値体系への批判であると考える。パフォーマンスが本質において「抵抗の美術」であったことを想起するならば、それは何の不思議もない。しかし本書が論証するのはもはやそのような戦略においては作品が社会と切り結ぶうえでの真正性が確保されないという認識である。それに代わる新しい戦略を導出し、新しい「抵抗の美術」を生み出すことが求められている。そして本書を読む限り、私たちは悲観的になる必要はない。今世紀に入って次々と発表された「参加型アート」は新しい抵抗の地平を広げつつあるからだ。本書においてアジアでの実践について全く触れられていないことはやや残念に感じる。先にアイ・ウェイウェイの名を挙げたが、かつてのアルゼンチンや東欧と同様に全体主義体制下にある現在の中国におけるアヴァンギャルドの沸騰は本書の問題意識と深く関わっているはずだ。そして例えば前回のブログで論じた小泉明郎をはじめ、美術館の検閲を受けつつも実施された「キセイノセイキ」における発表などを想起する時、今や戦時体制下にある日本においても美術家における抵抗が組織されていることを知る。本書は彼らにとって大きな励みとなるはずだ。まことに時宜を得た翻訳であり、私たちは抵抗しなければならない。

by gravity97 | 2016-12-16 22:43 | 現代美術 | Comments(0)

平芳幸浩『マルセル・デュシャンとアメリカ』

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 本書がしばらく前に刊行されていたことは知っていたが、読むまでに時間がかかった理由は、それぞれの章の原型となる論文について、既に『美術史』や大学の紀要で目を通した記憶があったためである。あらためて通読して、巧みに配置されたそれらの論文から個々の論文のみでは読み取ることの困難な、著者の意図をうかがうことができたように感じた。それは戦後アメリカ美術に新しい見取り図を与えるという発想であり、確かにこれまで見過ごされていた運動や美術家を取り上げ、作品を中心とした美術史観に立たない本書は戦後美術に対する新しい視野を提供する。しかしながら今述べた著者の野心的な企みが十分に実現されたかと問うならば、必ずしも成功していないというのが私の率直な感想だ。
 一読して明らかなとおり、そして著者もあとがきで述べているとおり、本書の特徴はマルセル・デュシャンという作家を主題としながら、デュシャンの作品についての記述がほとんど見受けられない点である。デュシャン研究の先例としては東野芳明の『マルセル・デュシャン』という大著が存在し、東野の研究が徹底して作品研究であったから、あえてこのようなスタンスをとったことは十分にありうるだろう。本書の原型となった博士論文が大学に提出された同じ年に平芳は勤務していた美術館で「マルセル・デュシャンと20世紀美術」という展覧会を企画している。カタログに収められたテクストはいずれも物足りないものであったから、著者としては本書と展覧会によって自身のデュシャン研究に一つの完結を与えようとしていたのかもしれない。
 序章と終章を除いて六つの章によって成立する本書においてデュシャンと対比される美術の動向は明確に名指しされている。第二章ではキュビスム、シュルレアリスムというフランスに由来する美術運動、第三章ではネオ・ダダ、第四章ではフルクサスとハプニング、第五章ではポップ・アート、第六章ではコンセプチュアル・アート、そして第七章では作家の死後に公開された《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》を中心に、本書では例外的に作品をめぐる議論が展開される。デュシャンと対比して論じられるこれらの動向の系譜は暗示的だ。いうまでもなくそれは一面ではパリからニューヨークへ、近代美術の王座の移譲を示唆しており、フランスに生まれ、1915年にニューヨークに渡ったデュシャンがかかる移動を体現しているとみなすことはあながち的外れではないだろう。しかしながら第三章以降で論じられる対象は近現代美術の正系と私たちが信じている作家や運動をみごとなまでに外している。すなわち本書においてクレメント・グリーンバーグが説いたモダニズム/フォーマリズムの系譜は一顧だにされない。したがって本書はデュシャンという補助線を引くことによって、戦後アメリカ美術の系譜をいわば裏側からたどる試みといえるかもしれない。フォーマリズムという正系に対する、かかる異端の系譜は果たして積極的な意味をもつのであろうか。
 個々の章について手短にコメントを加える。「記述するデュシャン/記述されるデュシャン」と題された第二章ではアメリカへのデュシャンの導入がキュビスムとシュルレアリスムという二つの運動との関係で論じられる。いうまでもなくデュシャンの名を広くアメリカの大衆に知らしめたのは1913年のアーモリーショーに出品された《階段を降りる裸婦》をめぐるスキャンダルであった。この作品自体、キュビスムというより未来派的な印象を与えるが、デュシャンをアメリカへ導入するうえでキュビスムと言う参照項は有効であった。私は本書を読んでデュシャンが1936年にニューヨーク近代美術館で開かれた二つの重要な展覧会「キュビスムと抽象美術」、「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」のいずれにも出品していることを初めて知った。しかしキュビスム、シュルレアリスムのいずれの側面を強調するかによってデュシャンの位置は微妙に異なる。さらに彼はいずれとも相容れない異物をすでにアメリカの美術界に投下していた。いうまでもなく1917年、ニューヨークのアンデパンダン展で発表(というか撤去)されたレディメイドの小便器《泉》である。この章においてはキュビスムとシュルレアリスム、そしてレディメイド-ダダイスムを暗示していることはいうまでもない-という三つ組みをめぐる美術界と作家のスリリングな駆け引きが分析され、さらにタイトルが示すとおり、デュシャン自身によるテクストも検討され、以後のデュシャンの活動を想起する時、重要な意味をもつ匿名性や科学性への志向が指摘される。
 ヨーロッパに起源をもつ「イズムとしての芸術」と関連してデュシャンの作品が論じられた第二章に続いて、第三章以降ではアメリカに由来する新しい美術とデュシャンの関係が分析される。まず俎上に上げられるのはジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグというネオ・ダダの二人である。ネオ・ダダという呼称から明らかなとおり、この章で問題とされるのはダダイストとしてのデュシャンの位置である。平芳はデュシャン評価の軸が絵画のみならず、レディメイドをはじめとする一連のオブジェへと推移した状況を確認しつつ、デュシャンとダダイスムの関係を確認する。著者も述べるとおり、この変化にはアメリカにおけるダダイスムの再評価という歴史的背景があり、かかる状況にはヨーロッパ美術に通じた抽象表現主義の画家、ロバート・マザウエルとデュシャンが深く関与していた。デュシャンをダダと結びつけるのは単にオブジェのみならず、作品の制作を放棄してチェスに没頭したという一種の芸術家伝説であっただろう。ここでダダイスムの作家としてのデュシャンと対比されるのは、章のタイトルが示すとおり、画家としてのデュシャンである。50年代のデュシャンが画家とダダイスムの間で分裂していたとみなす時、両者を再び統合することがネオ・ダダの作家たちの役割であったという仮説が提起される。その傍証として示されたネオ・ダダの作品における「絵画性」の問題について私としてはなお論じたい点もあるが、ひとまず本書の議論を追うことにしよう。続く第四章で比較されるのはフルクサスの芸術家、そしてマルチプルの問題である。先に本書の各章には原型となった論文が存在すると述べたが、第四章は書き下ろしである。フルクサスとは60年代にドイツのヴィスバーデン、ニューヨーク、そして東京などで同時多発的に発生した、行為を作品として発表する文字通り「流動的な」グループであり、その起源としてジョン・ケージが位置づけられる時、デュシャンとの親近性も自ずから明らかであろう。両者の関係はヴォルフ・フォステルの「デュシャンはオブジェに芸術への資格を与えた。私は生活に芸術の資格を与えた」という言葉に端的に示されている。デュシャンとの関係はいわゆるフルクサス・キットとヴァリーズ(トランクの箱)の関係にも認められよう。(私はこの問題を先日物故した東京フルクサス、中西夏之が構想していた一つのプランと結びつけたい誘惑に駆られるが、匿名を前提としたこのブログではこれ以上その詳細を記すことはできない)ここで提起されたハプニングとフルクサスのイヴェントの区別も興味深い指摘である。しかしながらこの章の最後で、不確定性という概念をアリバイに論じられるフルクサスと抽象表現主義、ことにポロックのアクションとの接続は強引に感じられる。具体的な作品論を欠いているため、議論は抽象的で飛躍がある。作品論の欠落に由来する同様の飛躍、議論の抽象性はポップ・アートとレディメイドと関係を論じる第五章にも認められる。平芳はデュシャンが生活していた60年代のアメリカで「ポップ・アート」がすでに「アメリカ性」のアイコンとなっていたことを確認したうえで、通俗性と芸術の対比、さらに匿名性と芸術性の関係がレディメイドを参照しつつ論じられる。しかし当初単独の論文として発表されたためか、この章では平芳がデュシャンとポップ・アートのいずれを念頭に置いて論じているのか判然としない。ポップ・アートを介して新しいデュシャン像が浮かび上がる訳でもなく、デュシャンを口実としたいささか平板なポップ・アートの解説に終始した印象は否めない。もっとも本書がデュシャンと戦後アメリカ美術という二つの主題を二つの中心、いわば楕円として取り込んでいる以上、このような二重性は避けられないかもしれない。続く第六章ではコンセプチュアル・アートの作家、ジョセフ・コスースとフォーマリズムの批評家クレメント・グリーンバーグの関係が論じられている。大学の紀要として読んだ際には特に違和感はなかったが、本書の中に組み込まれるならば、ほかの章といささか乖離した印象がある。この章ではコスースが提唱するコンセプチュアル・アートが戦後アメリカ美術のドグマ、グリーンバーグのフォーマリズムをいかに相対化するかという問題が論じられる。形式に対して機能という概念を提案することによってフォーマリズムの限界が明らかにされ、モダニズムの自己批判や視覚性といった主題を介して、実はコスースの説くコンセプチュアル・アートとフォーマリズムのフレームが相似性を有していたと説く平芳の主張自体はおおいに興味深い。しかしなぜコスース、なぜコンセプチュアル・アートなのか。ネオ・ダダ、フルクサス、ポップ・アートと論じられてきた「フォーマリズム美術の裏側」を論じるにあたって、続いて参照されるべきはミニマル・アートではないか。レディメイドが本書の主要な論点となっている点から考えても、次に対比されるべきはカール・アンドレの煉瓦やダン・フレイヴィンの蛍光灯であり、ロバート・モリスが初期に明らかにデュシャンを意識した多くの作品を制作していた点も論究されてよいはずだ。実体的な作品を伴うミニマル・アートではなく、美術作品をメタレヴェルで問題とするコンセプチュアル・アートを対照項としたために、個々の作品ではなくデュシャンとフォーマリズム美術という審級の異なった問題が比較されることになってしまったように私は感じた。もちろん本書が全体としてグリーンバーグ流のフォーマリズムへの対案を提示することを一つの目的としていることは理解できる。しかし「コスースの位置、グリンバーグの位置」という章のタイトルが示すとおり、この章でデュシャンは後景に退き、実際にデュシャンについての言及はほとんど見当たらない。これを補正するかのように続く第七章では逆にデュシャンの作品と作家性が主題とされ、特にデュシャンが秘密裡に制作し、死後公開された「遺作」をめぐる伝記的事実、そして本書としては珍しい作品についての具体的な記述を通して興味深い議論が展開される。ここでは作品の帰属や美術館という制度、あるいは(レディメイドの作家による)視覚的複製の禁止といった、これまでのデュシャン論では十分に取り上げられることがなかった問題に論及され、ヴァリーズや大ガラスにも新しい観点からの分析がなされる。ことにレディメイドという手法によって生涯にわたって芸術の遍在性、作品の複数性を主張したかにみえたデュシャンが、晩年にたった一点の作品、フィラデルフィアに赴くことによってしか体験できない作品を密かに制作していたこと、網膜的絵画を批判した作家が意識的に眼差しを向けること(意識的にならざるをえない、なぜならば覗き穴を介した窃視の視覚であるから)によってしか知覚できない作品を制作したことの逆説はなんとも皮肉に感じられた。作品論から制度論までを包摂するこの章の射程は深く、本書において最も興味深く感じられた。
b0138838_23185663.jpg 著者は国立国際美術館で企画した展覧会のカタログにおいて、デュシャンの影響を受けた作家たちに対して Mirrorical Returns、鏡の送り返しという奇妙な言葉を使っている。逃走線やら係争点、本書において繰り返される独特の言葉遣いやチェスに関するアナロジーが少々鼻につくとはいえ(そもそもmirrorical なる言葉は語義的に存在するのか?)、この言葉は戦後アメリカにおけるデュシャンの影響が、鏡が鏡を映すような一種の無際限の自己言及に陥ったことを端的に示しているだろう。デュシャンとアメリカの戦後美術がお互いを無限の鏡像とする「鏡の送り返し」の状況にあるという平芳の見立てはおそらく正しい。問題はこのような連鎖が果たして生産的な意味をもちえたかという点である。端的に述べるならば、ここで一つの歴史として提示されるデュシャンの「衣鉢を継いだ」作家たちの作品は、グリーンバーグが提起したフォーマリズムに連なる作品に比べておおいに見劣りがするように感じられる。おそらくこの点は本書において作品論が巧みに回避されていることと無関係ではない。戦後アメリカ美術においてデュシャンとは作品を通してではなく作家として、より正確にいえば作家としての無為を通して神格化されてきたのではないだろうか。キュビスムがポロックのポード絵画を生み、ポロックの晩年の絵画がステイニング絵画へと昇華されるような「創造的な過程」はデュシャンの周辺には発生しなかった。デュシャンを「一人だけの運動」と読んだのは確かデ・クーニングではなかったか。ロバート・モリス、森村泰昌、ゲルハルト・リヒターといった重要な例外は存在するにせよ、私はかつて「マルセル・デュシャンと20世紀美術」で見た「デュシャン以降の芸術」の出品作品の大半が凡庸であったことを、本書を通読してあらためて思い出した。デュシャンとは作家たちにとって甘美な罠ではなかっただろうか。作品を作らずとも作家になれるという囁きは偉大な抽象表現主義の達成に圧倒された作家たちにとっては一つの救済に感じられたかもしれない。しかし偶然性とレディメイドを導入したネオ・ダダ、生活を芸術と読み替えたフルクサス、大量消費社会のアイコンとしてのポップ・アート、いずれの場合も作家たちをめぐるささやかなエピソードには事欠かないとはいえ、真に優れた作品を欠いていると考えるのは私だけであろうか。作家研究は必ずしも価値判断を伴わないかもしれない。とはいえ、平芳の言葉を借りるならば、「与えられたとせよ 1. 戦後アメリカ美術 2. デュシャン」という錯綜した場の可能性は、もう一度作品に立ち返って検証されてよいだろう。平芳は冒頭で本書の問題意識を次のように要約する。「戦後アメリカ美術という言説空間において、デュシャンはどのように受容され、回収され、消費されていくことになるのであろうか」デュシャンであればこう答えて私たちを煙に巻くはずだ。「答えはない。なぜなら問いが存在しないからだ」

by gravity97 | 2016-11-26 23:21 | 現代美術 | Comments(0)

栗本高行『墨痕』

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 前衛書というきわめて難度の高い主題に対して、若手による画期的な論考が発表された。あとがきによれば本書は多摩美術大学に提出された博士論文を原型とするらしい。学術論文らしい生硬さは感じられもするが、多くの資料が渉猟され、示唆に富む内容である。なぜ前衛書というテーマの難度が高いか。その理由は明白だ。今日、一方で書は多くの結社や組織を抱えて、絵画や彫刻といったジャンルと比しても圧倒的な隆盛を誇っている。しかしその一方、一部の団体展を除いて、美術館で書作品が展示されることは稀であり、多くの美術館は書に対して堅く門を閉ざしている。一方に大衆による受容、一方に「美術」からの徹底的な疎外。今日、書と展示をめぐる奇妙な捩れは明らかであり、書を理論的に研究する場所をアカデミズムの中に見出すことはさらに困難である。そして本書の「書芸術におけるモダニズムの胎動」というサブタイトルも本書が直面する困難を暗示しているだろう。なぜならばモダニズムはメディウムの限定を前提としているにもかかわらず、前衛書とは文字とイメージという二つの可能性の間に開かれた場、本書の表現を借りるならば可視性と可読性のはざまに成立する奇跡のような表現なのであるから。
 いきなり本書の核心に触れてしまった。もう少しゆっくり本書の議論を追うことにしよう。本書の核心は帯に記された「書は文字か形象か」という惹句にも既に明らかであり、中心的な主題がいわゆる前衛書をめぐることも予示されている。1950年代に勃興した前衛書についてはこれまでにも若干の研究史は存在するし、その中核とも呼ぶべき墨人会、あるいは森田子龍の「墨美」に関しては展覧会として検証もされてきた。しかし私の見るところ、本書の第一の意義は前衛書の問題をさらに遡って金子鷗亭や手島右卿からていねいに説き起こし、比田井南谷らによる前衛書の発生と消長を歴史化していく点に求められる。私も前衛書と抽象絵画の関係については以前より関心をもっていたが、その前史についての研究は石川九揚の一連の著作くらいしか知らない。本書において筆者は小山正太郎の「書ハ美術ナラス」論争から始めて、比田井天来、上田桑鳩、大澤雅休といった書家の書論と作品を詳細に検証し、前衛書の発生にいたる経緯を明らかにしている。この過程では二つの作品の陳列拒否事件が重要な意味をもつ。すなわち二曲一隻屏風に描かれた上田の《愛》(1951)とやはり二曲一隻に描かれた大澤の《黒岳黒谿》(1953)である。はいはいをする孫の姿から着想され一見すると「品」という文字と読める前者、ミロの絵画を強く連想させる後者がいずれも展示を拒否されたという事件は書字の意味性、書字とイメージといったこれ以後の前衛書が主題化する問題を早くも予示するかのようだ。続いて栗本は比田井天来の門下の俊英たちがそれぞれ挑戦した三つのジャンルについて分析する。すなわち金子鷗亭の近代詩文書、手島右卿の少字数書、そして比田井南谷の前衛書である。具体的な作品の分析に基づく議論は説得的である。これらはいずれも従来の書概念を覆す可能性を秘めていたが、前二者がなおも文字性と深く結びつていたのに対して、比田井南谷は1945年の記念碑的な作品《心線作品第1・電のヴァリエーション》において前衛書の誕生を画した。この作品の誕生について栗本は次のように説く。「画家が大作の構想を練り上げる過程で下図を作るように『奇怪な線や点』を書く秀作を積み重ねた果てに、突如、それらの草稿にしまいこまれていた線の展開可能性が、書として新しい概念を持つ作品に昇華、結実する瞬間が訪れる。そして、その劇的な変化の触媒となったのは古文、すなわち漢字のきわめて古い書体を示す書の古典であった」このようなブレークスルーからほぼ同じ時代になされた抽象表現主義の画家たちによるそれを連想することは強引であろうか。
 次いで比田井門下の書道芸術社に連なる二人の書家が論じられる。上田桑鳩と宇野雪村である。字座や構図といった独特の概念を駆使して自らの書を語る上田と視覚性を重視してほとんど抽象絵画の域に達した宇野、彼らの書論の核心についてはこの短いレヴューで論じることは不可能であるから直接本書を参照していただきたいが、私があらためて驚いたのはすでにこの時点で書に関して極めて深い思考と実践が重ねられていた点である。あるいは掲載された小さな図版からの判断であるにせよ、1956年に制作された宇野の《直進》という作品は栗本も指摘するとおり60年代のミニマル・アートを連想させる一種凄絶な美意識を感じさせる。私はあらためて50年代の前衛書については造形性という観点から再検証されるべきであると強く感じた。しかし同時に造形性こそが前衛書にとって決定的な隘路となった点にも留意されるべきであろう。私はこれらの作品の造形性に感銘を受ける。しかしながら例えば宇野の作品に対して、本書では次のような評価が紹介されている。「(知・情・意のうち)意は抽象的な知覚能力であり、稀に見る確かな技術に支えられて昇華した作品群の根底に存在するものである」私が書についての批評を読む際の異和感は常にこのような言葉に関わっている。私は前衛書に関して、その形式において圧倒される。しかしその評価はしばしば書家の精神と関わり、さらに古筆との関連、つまり「その起源となったはずの数多の古典の存在」によって保証されるのだ。次に述べるとおりこのような発想は森田子龍ら、まさに前衛書の核心においても認められるのであるが、私は古筆を臨書することによって書家が新たな境地を得るという指摘が理解できないし、そもそもこのような発想はモダニズムの対極に位置するのではないだろうか。
 上田桑鳩のもとには多くの優れた才能が結集していた。宇野雪村もその一人であったが、前衛書という観点に立つならば、墨人会を結成した森田子龍、井上有一が本書にとって中心的な書家となることは容易に理解できよう。まず書論の極北とも呼ぶべき森田子龍の思想が俎上に上げられ、これらの発想が具体的な作品にどのように反映されているかが検証される。続いて井上有一については具体的にサンパウロ・ビエンナーレに出品された《愚徹》が制作された過程を検討し、さらに名高い「貧」の書のヴァリエーションを分析しつつ井上の書の特性が論じられる。後で論じるとおり、この二人の対比は前衛書の本質を考えるにあたって大いに示唆的である。「書壇からの脱出とその帰結」と題されたこの章は前衛書というテーマからして本書の中心的な位置を占める。そしてこれに続いて筆者はもともとの博士論文には存在しなかった章を補説として加えている。「書と美術の接点とは」と題された章は50年代における書と抽象絵画の関係をさらに広い視野から論じている。具体美術協会の作家たちと墨人会の書家たちの交流、あるいは『墨美』誌に拠る前衛書と欧米の抽象画家たちとの交流を想起するならば、かかる章が加えられたことの必然性は容易に理解されようし、筆者は書家と画家に限らずクレメント・グリーンバーグから東野芳明にいたる批評家たちの言説も視野に収めながら、書と抽象絵画の交流の可能性と限界について議論を展開している。
 最後の章ではやや意外な主題が扱われる。タイトルが示すとおり「漢字かな交じり書の可能性」である。栗本も指摘するとおり、現在、書とは漢字書、かな書、前衛書、漢字かな交じり書の四つに分類される。現在団体展等における書の分類もこのような前提に立つ場合が多い。筆者が指摘するとおり、このうち前衛書を志向する書家たちは「いずれも作家としての自己形成期に、漢字書の学習で線を鍛えた人物ばかりである」50年代の墨人会の書、そしてこれまで本書において言及されたほとんどの「前衛的」な作品は漢字に出自をもっていた。これに対して、かなを用いた前衛書は存在しないのかという問題が最終章で論じられる主題だ。表題のとおり、漢字かな交じり書こそがこの問いへの回答である。この章で論じられる書家にはこれまでほとんど論じられたことのない人物が多い。まず千代倉桜舟、そして大澤雅休と大澤竹胎という兄弟、青木香流、森田安次である。このうち比田井天来門下の大澤雅休については既に触れた。しかしほかの書家はおそらく相当書に詳しい専門家でなければ初めて聞く名前であろう。少なくとも書と抽象絵画という文脈で論じられることのなかった書家である。しかしこの章は私にとってきわめて興味深かった。漢字かな交じり書において宮沢賢治や草野心平の詩が好まれる理由、あるいはオノマトペとの関係など、より深く検討してみたい問題は多いが、詳細な議論は本書に譲るとして、ここでは書とは無縁と思われていた主題が一つの切実さ、あるいは重要性とともに浮かび上がる点に注目したい。それは戦争という主題だ。かかる主題が召喚される時、本書の中心的な書家の一人が再び取り上げられることは何の不思議もない。《東京大空襲》そして《噫横川國民学校》を発表した井上有一である。井上は50年代には漢字による少字数書によって、1978年には漢字かな交じり書を用いたこれらの作品によって圧倒的な存在感を示す。このような作風の広がりをもつ書家を私はほかに知らない。そして最後に結として筆者は本書における問題意識と議論を手短に要約するとともに、コンピュータがかくも発達した時代において書は全く新しい課題を与えられていると述べる。
 ひとまず本書の構成を示したが、きわめて多産的なテスクトである本書については、様々な主題から多くの可能性が開かれるだろう。ここでは私も本書に触発されて導かれたいくつかの思考を書き留めておきたい。本書の最後に漢字かな交じり書が一つの主題として提示されていることに私は最初やや異和感を覚えた。筆者も論じるとおり、前衛書が会場芸術としての存在感を帯びるためにはストロークの骨格が明瞭な漢字による一字書もしくは少字数書が最も効果的であるからだ。墨人会の初期の代表作がほとんどこのような書であったことには理由がある。さて、最初にも記したとおり「書は文字か形象か」という問いかけは本書を通底する主題であるが、漢字書とかな書の違いは実は字数にあるのではないだろうか。漢字書は一字ないし数字でも成立するが、かな書においては(千代倉桜舟の超大字かなという例外を除いて)数字書ないし大字書は成立しない。かな書はひとまとまりのテクストを書き写す場合が多く、宮沢賢治のテクストなどが好まれたことは先に記した通りである。前衛書の本質を検討するうえで文字の数は決定的に重要ではないか。一字書であれば私たちは書かれた文字/形象を瞬時に知覚する。このような知覚に対してマイケル・フリードがミニマル・アート批判の論文の末尾に書きつけた現在性 presentness という概念を差し向けるのは悪乗りにすぎようか。一方、二字以上で構成された書については必然的にそれらの文字を読む順番が成立する。そして私たちが文字を一定の順序に沿って読む時、そこには時間性が成立する。例えば森田子龍のほとんど判別することが困難な《灼熱》を前にする時、私たちは提示されたイメージを二つに分節し、右から左へ読む。この時、書は一瞬に把握されることはない。右から左への視線の運動を介して意味が成立する。つまりイメージが時間化されるのだ。これに対して一字書は瞬時に全体が知覚され、イメージが空間化されている。書は文字か形象かという問いはまさにこの問題に関わる。両者の対比が可読性と可視性へとパラフレイズされうることはいうまでもないが、この時、それぞれを時間性と空間性として区別することはできないか。このようなディコトミーを導入する時、森田子龍と井上有一という前衛書の二人の巨人の作品に対して明確な断絶を見出すことができよう。私の考えでは森田は文字、可読性、時間を重視する。これに対して井上は形象、可視性、空間に重きを置く。いうまでもなくもはや文字数は問題ではない。森田は多くの一字書を制作しているし、井上も少字数書を発表している。おそらく森田にとっては一字書であっても明確な時間性が内包されている。理由は単純だ。それが文字である以上、そこには正しい書き順があり、制作の時間が存在するからだ。このような事実を森田は制作者すなわち書家の生、森田の言葉を用いるならば、境涯の美しさの問題へと展開していく。森田は人間もまた時間的な存在とみなし、書にやり直しが効かないように、生もまた一回的であると説く。森田の書論の苛烈さはかかる認識に由来する。これに対して井上の書は空間性に拠っているのではないか。《愚徹》や《不思議》といった代表作を前に私たちはそれを文字として読み下す前に、イメージの強度に圧倒されないだろうか。この問題をさらに深めるのが漢字かな交じり書の達成である。
 森田ほどの境地に達さない限り、時間性を見出すことが困難な一字書に比べて、漢字かな交じり書は容易に時間を内包するはずだ。なぜならそこにはテクストが存在し、それを読む時間が存在するのであるから。確かに通常のかな書であればこのような理解は可能だ。しかし「漢字かな交じり書の可能性」の章で紹介される作品の多くはこのような理解を逸脱する契機をはらんでいる。先に触れたオノマトペの問題は深くこれに関わっている。たとえば草野心平の詩からとられた二つの作品において千代倉桜舟は「る」という仮名を、大澤雅休は「ぎやわろっ」というフレーズを繰り返すのであるが、時に重複し時に密集する仮名はもはや意味をもった文字としては読めず、一種の形象性を獲得している。さらに重大な問題を提起するのは東京大空襲に取材した井上有一の一連の作品である。子細にながめるとそこには確かに漢字と仮名をみとめることができる。次のような文言であるという。「一千難民逃げるに所なく/金庫の中の如し/親は愛児を庇い/子は親に縋る」そこには空襲の中の地獄のような情景が記されている。しかしそのような印象は文字ではなく形象によっても感得されるのではないか。栗本は次のように述べている。「多字数の書といえば、ひたすら文字を書く行為に徹したものだという先入主とはうらはらに、この書を眺める鑑賞者の視線は、あたかも阿鼻叫喚の地獄絵図を繙いてしまったかのように、その場に茫然と凝り固まる。つまり全体が一場の悲劇を描いた絵画のように見えるという効果を発するものとなっているのだ」そして栗本は作品における墨の線の塊が端的に死体のかたまりを連想させると説く。私もこの見解には同意する。そしておそらくこのような印象は書かれた言葉とは直接には関係をもたない。私が《噫横川國民学校》から直ちに連想したのは藤田嗣治の一連の戦争記録画、それも《アッツ島玉砕》や《サイパン島同胞臣節を全うす》といった死屍累々の情景を描いた絵画である。可読性の書であるはずの漢字かな交じり書の中にイメージが立ち上がるという逆説こそが、井上の漢字かな交じり書を比類ないものとしている。本書には奇しくも類似した情景を描いた書として青木香流の《春光五百羅漢》という作品の図版が掲載されている。フィリピンで散華した戦友たちを思って制作されたという作品には無数の「佛」という字が散らされている。おそらく山野に打ち棄てられた無数の骸を念頭において書かれたこの作品は静謐な印象を与え、一連の視覚詩を連想させる。これに対して井上において画面を満たす墨痕の鮮烈さは作品に圧倒的な存在感を与える。
 今、思わず墨痕という言葉に触れたが、本書のタイトルはまことに暗示的である。通常であれば墨象作品が名詞化された場合、用いられる言葉は墨蹟であろう。墨蹟がすでに生成された書のかたちであり静的であるのに対して、痕跡としてのイメージ、墨痕という言葉にはすでに一種の力動性が内包されている。おそらくはかかる力動性にこそ前衛書の本質が存しているのではないだろうか。先に述べたとおり、前衛書はいくつもの対立の中で引き裂かれている。そしてそれらの対立を止揚することによって優れた書作品は成立しているのではなかろうか。私は書における時間を重視する森田子龍の書論は前衛書のうえに屹立する存在であると信じるし、漢字による一字書から漢字かな交じり書における圧倒的な達成まで壮絶な作品の発表を続けた井上有一の一連の作品の圧倒的な存在感も思い知った。前者が還元的、内省的であるのに対し、後者は横断的、直情的であるが、それはいずれかが優れていることを意味しない。火と水のような二つの個性が少なくとも一つの時代を共有し、一つの集団を形成したのだ。形象にして文字、時間にして空間、このような表現は西欧のモダニズムには存在しないだろう。そして「墨痕」とはかかる奇跡的な事件の謂ではなかろうか。

by gravity97 | 2016-04-24 20:47 | 現代美術 | Comments(0)

関口裕昭『翼ある夜 ツェランとキーファー』

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 今年の読書の締めくくりにきわめて興味深い論考を読んだ。単に最後に読んだという意味だけでなく、この一年、そしてこれまでこのブログで論じた様々な対象と深く結びついた内容であった。サブタイトルからわかるとおり、ユダヤ人強制収容所を体験した詩人、パウル・ツェランと現代のドイツを代表する画家アンゼルム・キーファーの二人を軸に多様な主題へと広がる論考である。強制収容所をサヴァイヴした詩人としては今年、このブログでも細見和之による石原吉郎の評伝と研究について論じた。ツェランはセーヌ川に投身し、石原は「法医学的にはどうであれ、文学的に見る限り、明らかに自殺」を遂げたことが知られている。ツェランの死は1970年であるから1945年にドイツに生まれた画家と直接の知遇があったとは考えられない。しかし私も以前よりキーファーの作品をとおしてツェランの詩の一節を知っていた。キーファーの作品のタイトル《君の金色の髪、マルガレーテ》はツェランの有名な詩、「死のフーガ」から引かれている。冒頭と最後を引用する。

 夜明けの黒いミルク私たちはそれを夕べに飲む
 私たちはそれを昼に朝に飲む私たちはそれを夜に飲む
 私たちは飲むそして飲む
 私たちは空中に墓を掘るそこは寝るのに狭くない
 ひとりの男が家に住む彼は蛇たちと遊び彼は書く
 彼は暗くなるとドイツへ書くお前の金色の髪マルガレーテ
 彼はそれを書き家の間に歩み出るすると星々は輝く彼は口笛で猟犬を呼び寄せる
 彼は口笛でユダヤ人たちを呼び出し地面に墓を掘らせる
 彼は私たちに命令する奏でろさあダンスのために

 (中略)

 夜明けの黒いミルク私たちはお前を夜に飲む
 私たちはお前を昼に飲む死はドイツから来たマイスター
 私たちはお前を夕べに飲む朝に飲む私たちは飲むそして飲む
 死はドイツから来たマイスター彼の眼は青い
 彼は鉛の弾でお前を撃つ彼はお前をはずさず撃つ
 ひとりの男が家に住むお前の金色の髪マルガレーテ
 彼は私たちを猟犬で狩り立てる彼は私たちに空中の墓を贈る
 彼は蛇たちと遊び夢見る死はドイツから来たマイスター
 お前の金色の髪マルガレーテ
 お前の灰色の髪ズラミート

 明らかにこの詩は強制収容所を主題としており、壁際で射ち殺されたツェランの母親が反映されているかもしれない。この詩の中からキーファーのいくつかの作品のタイトルがとられている。最もよく知られているのは「お前の金色の髪マルガレーテ」だ。この句をタイトルにした作品は複数存在し、最近では国内を巡回した台湾のヤゲオ財団のコレクション展に《君の金色の髪マルガレーテ》というタイトルで出品された作品が記憶に新しいが、今いくつかのカタログを確認したところ、サーチ・コレクションにも《マルガレーテ》というタイトルの作品が収められているようである。あるいは画集を含めて私は未見であるが、《お前の灰色の髪ズラミート》というタイトルの作品も本書に図版として掲載されている。私はどちらかといえば、美術の領域からキーファーの名前に引かれて本書を手に取った訳であるが、実は私はキーファーの作品をさほど見ている訳ではない。私が最初にキーファーの作品を見たのは、以前、このブログにも記したとおり、1987年、カッセルのドクメンタの会場であった。《オシリスとイシス》という巨大な作品を見てのけぞるほど感銘を受けたことを覚えている。私はその後、フランクフルトとマドリッドで比較的まとまった数のキーファーの作品を見た記憶があるが、キーファーの個展は1993年に日本を巡回した展覧会しか見ておらず、ことに90年代以降のキーファーの絵画の展開を系統的に見ていない。もちろん90年代以降もヨーロッパの美術館でキーファーの作品は何度も見ており、国内にもすでにある程度の数のキーファーの作品が美術館に収められているから、ここで論じられる作品は平面、立体のジャンルを問わず、おおよそ知っているが、キーファーの作品は図版からは読みとることができないディテイルが重要だ。例えば今挙げた、「マルガレーテ」連作では本物の藁が画面に無数に貼り付けられ、ひまわりの花、ガラス片、あるいは灰といった独特の象徴性を秘めたオブジェが文字通り画面を覆っているのだ。キーファーの作品は移動や再現が困難であり、この意味でも大規模な展覧会は難しく、画面の物質的な精彩は作品の傍らに立たないと理解できない場合が多い。本書の内容も近年、ドイツで開かれた展覧会で作品を実見して構想されたと考えられるから、特に近年、キーファーの作品に接する機会の少なかった私は必ずしも十分な理解に立って本書をレヴューすることができないかもしれない。それにしても植物や灰といった永続や定着が困難な素材を多用するキーファーの作品は美術館においてどのように保全されるべきであろうか。最近、現代美術の作品の管理と修復をめぐるシンポジウムが国立国際美術館で開かれたと聞いたが、絵画として実現されながらもキーファーの作品はこのような問いと連なっている。
 本書に戻ろう。ツェランとキーファーというテーマ自体は決して独特ではない。今述べたとおり、キーファーはしばしば作品にツェランの詩篇からの引用を行い、2005年にはザルツブルツのギャラリーで「パウル・ツェランのために」という展覧会さえ開かれている。「『死のフーガ』と灰の花」と題された最初の章では「死のフーガ」を手がかりにキーファーの作品に強制収容所というテーマがどのように導入されているかという点が論じられる。興味深いことにはキーファーの場合は図像ではなく、使用される素材というリテラルなレヴェルでテーマの導入が図られることが多い。確かにキーファーがしばしば描く線路の情景は地平線が高い位置に置かれているため、その行き先が不分明であり、端的に収容所へ向かう鉄路を連想させるかもしれない。しかしキーファーの絵画において、ツェランの体験を直接に連想させるのはむしろ髪の毛、子供服、ガラスの破片といった素材ならざる品々であり、それはガス殺の前にあらかじめ刈り上げられた髪の毛、アウシュヴィッツのバラックに山積みにされた衣類、「水晶の夜」で破壊されたユダヤ人商店街のショウウインドウといったきわめて即物的で具体的な連想を伴うのだ。関口はこのうち、ひまわりという素材に着目し、それが「ナチス・ハンター」として知られるジーモン・ヴィーゼンタールの小説のライトモティーフからもたらされたのではないかと推測する。その当否はともかく、これらの品々を強制収容所の記号として用いるキーファーの手法は部分によって全体を示す提喩と考えられるだろう。同じことを関口は次のように論じている。「1990年、キーファーは久しぶりに《ズラミート》と題した64頁からなる一冊の鉄製の書物を制作した。その表紙の上には人間の黒い髪ひと房と一握りの灰が撒かれているだけである。これこそズラミートのイメージにぴったり合う傑作である。全体をその一部で代用する Pars pro toto と呼ばれる技法は、キーファーにもツェランにもふさわしい表現形態である」しかし物質が堤喩する意味は一通りとは限らないし、時にそれは変容する。この問題は後の章で錬金術との関連において回帰することとなる。
 続く章ではツェランの経歴のうち、インゲボルグ・バッハマンという女性文学者との関係に注目し、ツェランとキーファーの関係が論じられる。優れた詩人であったバッハマンとすでに妻帯していたツェランの関係は時に緊張に満ちていた。アウシュヴィッツの体験はバッハマンの大きな愛をもってしても癒すことができず、ツェランは投身自殺を遂げた訳であるが、キーファーはツェランのみならずバッハマンの詩からも作品のタイトルを引いている。本書を読んで私はあらためてキーファーの教養、特にその文学的な素養の深さに驚いた。関口は私がカッセルで見た《オシリスとイシス》が構図的にバッハマンの詩を引いた作品の先例にあたる点を指摘したうえで、最後にやはりバッハマンの詩のタイトルである《ボヘミアは海辺にある》という作品を紹介する。1996年に制作されたこの作品を私は未見であるし、白黒の小さな図版からはそれがどのような作品であるか理解できない。90年代以降のキーファーについても何らかの機会にまとめて作品を見てみたいと強く感じる。続く二つの章でもやはりツェランとキーファーの間に媒介者を立てて二人の関係が論じられる。それはオーストリアの作家アーダルベルト・シュティフターと音楽家のヴァグナーである。すなわち前者においては鉱物、特に水晶のイメージを介してツェランの「帰郷」という詩とキーファーの絵画が重ねあわされる。そこに「水晶の夜」(破壊されたユダヤ人商店のガラスが水晶のごとく煌めいたことによる)が連想され、さらに関口は結晶という概念からガス室で多くの命を奪ったチクロンBの結晶までも読みとる。一方、ヴァグナーに関してはツェランの「白鳥の危機」という言葉を伴う、謎めいてやや不気味な詩篇が引かれる一方で、キーファーについては白鳥の騎士伝説に基づいた歌劇「ローエングリン」そして「ニュルンベルグのマイスタージンガー」「パルジファル」に着想を得た一連の作品が検証され、さらにキーファー自身が舞台美術を担当したパリの国立オペラ・バスティーユのオペラ公演において白鳥というモティーフがガチョウに変えられていることを指摘する。関口はそこにキーファーの師であるヨーゼフ・ボイスの影響をうかがうが、ヒトラー式敬礼をする作家を撮影した初期の作品以来、異化効果はキーファーの作品の本質をかたちづくってきたことを想起するならば、白鳥がガチョウに転じたとしても私はさほど驚きを感じない。関口の所論は美術史学を専門とする私にとって時にやや強引に感じられないでもないが、本書からは私が詳しく知らない90年代以後のキーファーの作品について多くの知見を得ることができた。そして著者のツェランの専門家としての学識と本書のための調査からも多くを学ぶことができた。
 続く「ライン河とニーベルンゲン」と題された章において召喚されるのはライン河畔に生を受けたユダヤ系の詩人ハインリヒ・ハイネである。関口はライン河流域におけるユダヤ人迫害の歴史をローレライ伝説などと関連させて論じたうえで、ハイネの「ラビ」という未完の小説について言及する。キーファーとハイネの共通点について三つの点を指摘する。まず「不気味なもの Das Unheimliche」という視点、そして「笑い」、最後に上下もしくは垂直方向の運動である。「不気味なもの」とは英語で言えば uncanny 、フロイトの論文のタイトルとしても知られており、抑圧を経て回帰してきた慣れ親しんだものの謂である。関口によればキーファーもこの言葉を多用し、それは抑圧されたドイツ性、端的にナチス時代の歴史であるという。笑いについては容易に了解できる。玩具の兵隊やバスタブを用いて誇大妄想的なイメージを繰り広げるキーファーの方法は笑いと親和し、関口も指摘するとおり、先行する日本語による優れたキーファー研究が「シジフォスの笑い」と題されていたことを連想してもよかろう。垂直の運動については後の章で詳述される。この章ではさらにツェランとライン河河畔の文学者たちの交流が粗描され、さらにライン河を舞台とした英雄叙事詩「ニーベルンゲン」をめぐってツェランとキーファーの接近が論じられる。この章においてはドイツ性に対して詩人と画家がどのような距離をとったかが論じられているから、ナチスの記憶を呼び覚ました1980年のヴェネツィア・ビエンナーレへのキーファーの出品作について論じられることは当然であろうが、このほかに一つの興味深い主題が取り上げられている。それはキーファーと原子力発電所というテーマだ。関口によればチェルノブイリ原子力発電所の事故に関連してキーファーは87年に「太陽の誕生」という書物形式の作品を発表したとのことである。私はこの事実を初めて知った。いかなるイメージか、確認することとしたい。キーファーはフクシマについては一切言及していないとのことであるが、確かに事故以後、私たちにとって原子力発電所もuncanny な存在である。
 続く「《息の結晶》」という章は二人からやや離れて、ツェランの妻であり版画家、画家であったジゼル・ツェエラン・レトランジェについて語られる。私にとっては未知の版画家であるが、図版を見る限りなかなか興味深い抽象的な画風である。註によれば日本でも一昨年、神奈川県立近代美術館の鎌倉別館で開催された「西洋版画の流れ」という展覧会で初めて紹介されたという。ドイツの作家に関してはギュンター・グラスもまた細密な銅版画を制作することで知られているが、ツェランは妻の版画にインスピレーションを得て共作の詩画集「息の結晶」を制作したということだ。死者を想起させるタイトルをもつこの詩画集がツェランの詩作にとって転換点を画していると関口は述べる。ジゼルを媒介としてクレー、あるいはジャコメッティやゴッホといった作家がツェランの視野に入る。私は本書で初めて知ったが、ツェランはジャン・バゼーヌの「現代美術覚書」の独訳者でもあったという。パリに住んでいたツェランが同時代の作家と交流をもったことは当然であろうが、関口によればツェランは特にアンリ・ミショーと交流があったが、画家たちとの関係はなお究明されていないという。クレー、ジャコメッティ、ミショーといった作家たちからは確かにツェランの詩と関連を感じさせないでもない。この章では最後に一人の画家との関係が仄めかされる。それはニコラ・デ・スタールであり、本書のタイトルでもある「翼ある夜」にはスタールの絵画が反映されているという。次の章では美術に続いて、映画とツェランの関係が論じられる。ツェランはアラン・レネの「夜と霧」のナレーションのドイツ語版を監修しているから、このテーマは意外ではないが、これまで個別、限定的にしか論じられたことがないらしい。ここではアンジェイ・ワイダ、エイゼンシュテイン、パラジャーノフといった映画監督の名が引用されるが、キーファーとも関連する監督としてアンドレイ・タルコフスキーが引かれていることはよく理解できる。土や水、そして蝋燭の炎はキーファーの絵画にも頻出するモティーフであるからだ。この章では最後にアウシュヴィッツの表象不可能性をめぐって、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンとジェラール・ヴァイクマンの間で交わされた論争についても言及される。当然検討されるべき問題であるが、それ自体が一巻の書を要する問題であるから、本書では事実関係が短く言及されるに留まっている。
 続く「不在の書物を求めて」という章において、実に意外な人物に言及される。もう一人のポール、ポール・オースターだ。オースターは私のお気に入りの作家であり、このブログでも何度か論じた。オースターは1971年にパリに渡り、フランスの現代詩の研究を続けるが、オースターにとって規範となる詩人がツェランであったという。オースターはイヴ・ボヌフォアらが創刊し、ツェランも加わった「レフェメール」という雑誌をとおしてパリの詩人たちと思考を結んだ。残念ながらオースターがパリに渡った時点でツェランは亡くなっていた。オースターのツェランに対する理解の深さ、あるいは英語への翻訳の見事さについては本書において縷述されている。関口の分析を介すならば、「エレガントな前衛」と呼ばれるオースターの小説の端々にツェラン的なモティーフが登場していたことも理解される。「最後の物たちの国で」における焚書の暗示や、「偶然の音楽」における壁を背にした銃殺、「オラクル・ナイト」には実際に収容所のエピソードが登場する。関口によればオースターの父も東欧ユダヤ人であり、二人は文化的にも近いという。この章の最後はツェランから離れ、東日本大震災の被災地を訪れた関口がマシュー・アーノルドそしてレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を思いながら、寄せては返す波が書物の暗喩であることに想到した経験を語る美しい文章で終わる。
 最後の二つの章ではツェランとキーファーに共通する二つの主題が提示される。それは飛行と墜落というモティーフ、そして錬金術だ。まずツェランの詩に上空からの視線、つまり鳥瞰の視点およびかなり具体的に飛行機の操縦法の記述の反映がみられることが指摘され、空襲という主題に言及される。ゼーバルトの「空襲と文学」においてはドイツの空襲を主題とした文学はノサック以外にほとんど存在しないと記されているが、私はドレスデン空襲を扱った小説に心当たりがある。ゼーバルトの眼が届かなかったことは無理もない。それはアメリカ人捕虜の視点から書かれたたカート・ヴォネガットの「スローターハウス5」である。ツェランの滑空する飛行機に対して、キーファーは飛べない鉛の飛行機を提示する。関口が指摘するとおり、鉛の飛行機は単に鉛の重量のみならず記憶という歴史の負荷を負っているため地から離れることができない。キーファーの場合はむしろ落下もしくは墜落こそが作品の主題となる。この主題からはイカロスの伝説が連想されるほか、実際に搭乗中に撃墜されたボイスのクリミア半島での体験が反響しているかもしれない。この主題についてもイカロスあるいはイアソンといった参照項を得て、再びツェランが導入されるとともに、天使の墜落というモティーフからはヴェンダースの「ベルリン 天使の詩」そしてシャガールの一連の作品についても論及される。錬金術については詳しい説明は不要であろう。ツェランとキーファーにとって詩作と作品の制作は一種の錬金術的な営みなのである。関口は錬金術を簡単に紹介しうえで、ツェランにとって灰が、キーファーにとっては鉛が第一質量(プリマ・マテリア)であることを実際の作品を用いて論証している。錬金術はしばしばカバラとの関係において説明される。「器の破壊」といった独特のユダヤ教の概念とツェラン、キーファーの作品との関係も説得的に論じられる。ユダヤ教と美術といえばバーネット・ニューマンが連想されるが、キーファーもまたカバラについての深い知識をもった画家であることが理解されるだろう。
 論じ足りない点も多くあることは承知しているが、ひとまず本書の内容を概観した。ここからは主にキーファーと関連して私なりに若干の考察を加えたい。かつて私はマドリッドでキーファーの大作を眼前に長い時間を過ごしたことがある。その際にあらためて了解したことはキーファーの絵画は「読まれるべき絵画」である点だ。もちろんそれは図解や物語ではないし、一意的な読みは存在しない。本書でも詳しく論じられているとおり、そこにはしばしば結合と分解、飛行と墜落といった相互に矛盾する意味が封入されている。私たちは巨大な画面に視線を走らせ、それらの錯綜する物語を読み解かなくてはならない。b0138838_20202498.jpg私はキーファーのカタログや画集をあまり所持していないが、手元にあるいくつかの関連書のうちここに掲げた87年にアメリカを巡回した展覧会、そして93年の日本巡回展のカタログには奇妙な共通点がある。それはカタログの冒頭にテクストなしでモノクロ写真を連ねた一連の頁が存在し、カタログ内に一種の物語として提示されている点だ。キーファーが巨大な鉛の書物を連ねた書架を発表したことはよく知られている。キーファーには書物に対するフェティシズムがあるのではなかろうか。例えば87年のカタログの冒頭に掲げられた「紅海の通過」というフォト・ワークは波立つ海やキーファーの仕事場らしき乱雑なアトリエ内を銀色の直線が貫通し、タイトルともどもモーセの道行きを暗示するかのようだ。私たちも銀色の直線に案内されるように物語/写真の中を通過していく。かかる物語性はモダニズムが忌避したものである。先に私は作品を見る体験について記したが、モダニズム絵画の経験とはマイケル・フリードが「現在性は恩寵である」と喝破した通り、享受にあたって一種の非時間性を理想としている。しかしキーファーの作品を見る体験は徹底的に時間的、持続的なのである。本書を通読して、キーファーが様々な分野について深い知識をもち、それらを作品の中に込めていることをあらためて理解した。ニーチェからヘルダーリン、そしてツェランにいたる様々な文学的素養、カバラや錬金術に関する秘教の知識、さらには音楽や演劇についての関心、これらすべてが投入される芸術は一種の総合芸術であり、そもそもツェランとキーファーという本書の問題意識が成立し、様々なジャンルを横断して両者の関係が究明されるためには、かかる前提は必要不可欠であっただろう。同じように国家の犯罪を告発するにあたってゲルハルト・リヒターが刑務所内で謀殺された「過激派」のイメージのみをモノクロームで描き、あくまでも意味性を削ぎ落として提示したのに対して、キーファーの絵画はあまりにも過剰だ。この点がキーファーの絵画を不穏にしているのではないだろうか。モダニズムが真善美を切り分け、ジャンルごとの純粋化を目指したのに対して、キーファーは美術と文学を、絵画と書物を、イメージと物質をもう一度総合することによって新しい表現を生み出そうとしているように思われる。総合芸術といえばヴァグナーのオペラが連想されよう。かつてツェランが生きた時代、人々は総合芸術に陶酔する一方で、詩人を収容所へと追放した。「総合芸術」という誘惑はかかる危険性を秘めてはいないか。むろん私はキーファーの芸術を否定するつもりはないが、この問題はさらに徹底的に思考されるべきであると感じる。本書でその一端が示されたツェランとキーファーという対比の中から浮かび上がる問題群はおそらく20世紀芸術の本質と関わっているだろう。

by gravity97 | 2015-12-31 20:16 | 現代美術 | Comments(0)

池上裕子『越境と覇権 ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭』

b0138838_10441499.jpg 現代美術に関する実に刺激的な研究書が刊行された。日本人の研究者によるこれほどの水準の研究を私はほとんど知らない。本書が発表された経緯を知るならばその理由も明らかであろう。あとがきによれば、本書は「Dislocations: Robert Rauschenberg and the Americanization of Modern Art, circa 1964」というタイトルで2007年にイェール大学に提出された博士論文が原型であり、その後、序章を完全に書きかえて「The Great Migrator: Robert Rauschenberg and the Global Rise of American Art」というタイトルとともに2010年にThe MIT Pressから出版された研究の日本語版である。著者も述べるとおり、二つのタイトルの相違に著者の問題意識の微妙な変化がうかがえる。いずれにせよ、日本人の研究者がアメリカの大学に提出した論文をもとにアメリカの有力な出版社から刊行されたといった事情から本書は英語圏における優れた博士論文のレヴェルを知るうえでも大いに意味がある。
 専門的な学術論文であるにもかかわらず、本書は実に読みやすい。テーマがきわめて明確であるからだ。サブタイトルに「ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭」とある。本書は第二次大戦後、美術の「覇権」がフランスからアメリカに移譲される経緯を分析する内容であるが、かかる抽象的、地政学的な状況がきわめて具体的な時間と作家を即して検証される。それは1964年のロバート・ラウシェンバーグの活動であり、さらに具体的に述べるならば彼がマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーに美術監督として帯同し訪れた四つの都市、パリ、ヴェネツィア、ストックホルム、東京を舞台として語られる。したがってこの論文においては「覇権」の移譲という抽象的な問題が、国々を「越境」する具体的なエピソードをとおして分析される。おそらく本書の成功はかかる明快なテーマの設定に多くを負っているだろう。いうまでもなくこのツアーのクライマックスは6月、ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるグランプリの受賞である。しかし池上はこれによって現代美術の主流がパリからニューヨークに移ったという巷間に流布する通説とは距離をとり、さらに三つの都市をめぐる挿話を加えることによって、このような局面にいくつもの補助線を引く。具体的にはパリにおいてはそれ以前よりラウシェンバーグおよびアメリカの同時代美術がいかにヨーロッパに導入されていたかという問題がイリアナ・ソナベンドというギャラリスト、そしてアメリカの公的な文化戦略を参照しながら確認され、ストックホルムではラウシェンバーグのコンバインの代表作がなぜアメリカではなくスウェーデンの美術館に収蔵されているかという疑問を手がかりに、ポントゥス・フルテンという稀代の美術館ディレクターの活動が検証される。そして東京においては来日したラウシェンバーグに対して日本の若い作家や批評家がどのように反応したかという問題が問われる。いずれもそれ自体で一つの論文のテーマとなるような、魅力的な問題が次々に提起され、綿密な調査に基づいて説得的に検証されていく。
 原著のタイトルにあるMigrator とは渡り鳥とか越境者といった意味である。池上は愛知県美術館が所蔵し、実際に渡り鳥のイメージが転写された《コース》という作品の分析からラウシェンバーグの世界遍歴の確認作業にとりかかる。今日では国外で活動する作家、母国と異なった国で作品を発表する作家は珍しくないが、当時は自国以外で作品を発表する作家は稀であったし、さらに80年代にもラウシェンバーグは文化交流を目的としたROCIというプロジェクトを立ち上げて日本を含め、中国やチリといった非欧米の諸国において滞在、制作を試みている。移動や越境というテーマは作家の生涯と深く関わっているのだ。この点を確認したうえで池上は本論における問題意識について述べる。池上の立場は基本的に修正主義批判であり、モダニズム/フォーマリズムを相対化した修正主義のナラティヴの影響力について、次のような見解が示される。「アメリカ美術の覇権を文化帝国主義の結果とする見解―つまり、1945年以降、西欧で政治経済的な覇権を確立した合衆国が、今度は芸術でも勝利を収めたという分かりやすいナラティヴ―は根強く流通している。ラウシェンバーグ研究もその例外ではない。例えばヴェネツィア・ビエンナーレにおける彼のグランプリは、従来の研究ではおしなべて米仏の美術における覇権争いと画商の市場戦略という観点からのみ語られており、彼の作品が実際に海外ではどのような意味をもったのか、という点については詳細な分析がなされないままである」これに対して池上は近年提唱されている「グローバル・アート・ヒストリー」というアプローチを採用しつつも、そこではしばしばアメリカが中心化され、アメリカとの対比として議論が構築される点を批判し、アメリカ美術そのものを相対化する必要性を説く。おそらくこの点が、MIT Pressから出版されるにあたって、序章が刷新され、Americanization に代わって Global Rise of American Art というタイトルが採用された理由ではないだろうか。本書の目的は序章において次のように要約されている。

 本書では(ラウシェンバーグの)実際の作品やその展示手法、また主要人物たちの交流を詳細に跡づけることで、アメリカ美術の世界的台頭における美術家とキューレーター、批評家、画商たちの相互作用を検証する。こうした「ポスト修正主義」とも呼ぶべき立場から戦後美術史のカノンを内側から脱中心化すること、そしてアメリカ美術を世界美術史のトピックとして開いていくことがその狙いである。

 かつてミン・ティアンポによって発表された具体美術協会の研究書が「脱中心化されたモダニズム」と題されていたことも連想されよう。アメリカやフランスという一つの中心ではなく、複数の中心を想定するという発想は90年代後半以降、パフォーマンスやコンセプチュアル・アートといったフォーマリズムの教条に馴染まぬ運動に関してはしばしば提起されてきたが、本書では複数性に代わり、移動もしくは越境という概念が提起されている点が新鮮に感じられる。そしてこのような姿勢はラウシェンバーグの場合、作品の解釈とも深く関わっているのだ。例えば表紙にデザインされた《コカコーラ・プラン》を挙げよう。作家の代表作の一点であるこの作品はコカコーラというきわめてアメリカ的なモティーフと関わっているが、実はタイトルはアメリカによるヨーロッパ復興プラン、マーシャル・プランからとられている。この時、作品の意味は単に図像解釈や重層性に帰せられるのみならず、受容される場所と関係を結ぶ。言い換えるならば「アメリカ美術」の外部において初めて可能な意味が発生する。第四章で論じられるとおり、この作品に対して篠原有司男はイミテーション・アートとして彼自身の手による《コカコーラ・プラン》を制作し、来日したラウシェンバーグに提示した。日本の作家による創造的解釈が作品に新しい意味を与えたことは、アメリカの脱中心化という池上の立場の妥当性を例証するものであろう。
 さて、それでは実際に1964年のラウシェンバーグの活動を追うことにしよう。冒頭にマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーの公演日程のリストが掲出されている。6月6日にフランス、ストラスブールで幕を開けたツアーはイタリア、オーストリア、西ドイツ、イギリスで続けざまに公演した後、9月にはスウェーデン、フィンランド、そしてチェコスロヴァキアとポーランドを経て、ベルギーとオランダ、そして10月中旬からアジアに入り、インド、タイ、そして日本における11月25日、東京サンケイホールでの公演で楽日を迎えた。美術監督ラウシェンバーグに加えてカニングハムとジョン・ケージという夢のような顔ぶれが揃ったこのカンパニーのツアーはインドの王家や草月アートセンターからの招待があったとはいえ、基本的に自費で賄われており、決してアメリカのなんらかの機関の意志や目的を反映するものではなかった。チェコスロヴァキアとポーランドという、鉄のカーテンが存在した頃の東欧諸国で公演を試みた点も興味深いが、このリストで注目すべきはイタリア公演が6月18日の一日のみ、ヴェネツィアで日程に上がっている点である。この公演こそがラウシェンバーグの世界的認知にとって決定的に重要であった点が後述される。
 「巴里のアメリカ人」と題された第一章ではまず、本論の前史とも呼ぶべき50年代後半のアメリカ美術とフランス美術の角逐が粗描される。抽象表現主義とアンフォルメルという名で呼ばれる動向の関係は今日もなお検討すべき多くの余地を残しているが、本書では比較的簡単に触れられている。ラウシェンバーグは1961年ニダニエル・コルディ画廊でパリにおける最初の個展を開く。興味深いことにはワールドツアーの三年前にラウシェンバーグの作品は既にパリで好意的に受け取られていた。おそらくそこには時代背景が強く関与している。アンフォルメルはこの時期既に退潮期にあり、レディメイドを使用したヌーヴォーレアリスムが勃興しつつあった。同様の傾向をもったアメリカの作家たちをパリの美術界が歓迎したとしても不思議はない。一方で同じ時期、ニューヨーク近代美術館ではウィリアム・ザイツが「アッサンブラージュの芸術」を企画していた。ピカソのコラージュに始まるこの展覧会は逆にこれら一群の作家をアメリカの文脈に組み込もうとする試みであり、これらをめぐる様々な資料を検証しながらアメリカとフランスの美術界の駆け引きが論じられる。一つの象徴的な事件は同じ61年にパリのアメリカ大使館で開かれた「デヴィッド・チュードアへのオマージュ」である。ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファールそしてラウシェンバーグ、ジョーンズらが参加したこのイヴェントはハプニングの歴史においても特筆すべき事件であったが、パリのアメリカ大使館で開催されたことに注意を喚起しておきたい。このイヴェントを企画したのは大使館の文化担当官ダルシア・スパイヤーであった。スパイヤーはニューヨーク近代美術館とも協力して50年代よりアメリカ美術の紹介に努めた。スパイヤーのごとき、これまで美術史においてほとんど知られることのなかったバイプレイヤーについてもていねいな検証を加えている点もこの研究の特色である。大使館に代表されるアメリカ政府とニューヨーク近代美術館の関係が必ずしもよくなかった点を本書は資料によって裏づけている。かかる事実によって例えば冷戦下においてアメリカ政府によって抽象表現主義絵画が一種の武器として使用され、自由主義陣営の盟主としてのアメリカ美術の優越が確立されたといった修正主義的な歴史観が相対化されるのだ。ポロックやロスコではなく、ラウシェンバーグに代表されるアメリカ美術をヨーロッパに紹介し、結果的に「アメリカ美術の勝利」に貢献したのはギャラリスト、イリアナ・ソナベンドであった。レオ・キャステリ前夫人でもあるソナベンドは画期的な手法によって未知のアメリカ人作家たちパリに導入し、その重要性を認識させた。詳しくは本書を読んでいただくのがよいが、一点だけ触れておくならば、私は「アート・インターナショナル」などに掲載された広告からソナベンドの戦略を読み取る分析に大いに感心した。トラックの後ろに画廊に所属する作家たちの名前が記された広告、封筒に入った招待状に同じ作家たちの名前が記された広告。これら二つの広告が伝えるメッセージを池上は次のように説く。「最初の広告が商品としての美術作品が輸送されるところを挑発的にイメージ化しているとすれば、次の広告はヨーロッパの観客に彼女の展覧会を見に来るよう、招待しているものだと読みとることができる」そしてさらに「ルイユ」に掲載された三枚目の広告がある。ヴェネツィアのサン・マルコ広場を望む運河の上に一人、ラウシェンバーグの名が配され、下に「イリアナ・ソナベンド、パリ」とのみ記されている。時系列に沿って並べるならば、これらの三枚の広告の中にアメリカから多くの作家をパリにもたらし、パリの美術関係者の目に触れさせたうえで、その中の一人をヴェネツィアへと送るという「アメリカ美術の勝利」の図式が暗示されているかのようだ。
 続いて本書のクライマックスとも呼ぶべきヴェネツィアのラウシェンバーグをめぐるエピソードが分析される。ここで焦点化されるのはラウシェンバーグとともにアメリカ館のコミッショナーを務めたアラン・ソロモンである。私ももちろんソロモンの名は知っていた。しかしそれは単に「1964年のヴェネツィア・ビエンナーレにおけるアメリカ館のコミッショナー」としてのソロモンであり、私は本書を読んで初めて彼が現代部門を創設した際のユダヤ美術館の館長であり、1970年に早世していることを知った。先にも触れたとおり、作家主義の陰でこれまで論じられることがなかった関係者に光を当てたところに本書の大きな意義がある。ラウシェンバーグにグランプリを与えるためにソロモンが練った戦略は本書の読みどころの一つであるから本書を参照していただくとして、ここではいくつかの発見のみを記しておく。例えばこの時のアメリカ館にはラウシェンバーグ、ジョーンズとともにモーリス・ルイス、ケネス・ノーランドというグリーンバーグ直系の色面抽象絵画も展示されていた。ここでルイスではなくラウシェンバーグが受賞したことはフォーマリズムの批評家たちにどのような感慨を与えただろうか。あるいはラウシェンバーグの作品がアメリカから軍艦で運ばれたというよく口にされるエピソードがあるが、これが真実でないことは本書に収録された写真の一枚、アメリカ軍の巨大なグローブマスター機の傍らでパレタイズされる作品のクレートを見るならば明らかである。しかしこの光景は著者も言うとおり、「それ自体がスペクタクル」であり、軍艦を用いて搬入されたという噂もあながち的外れではないことがわかる。ソロモンはラウシェンバーグの受賞に向けて様々な策略をめぐらすが、審査員たちに全面的に受け入れられた訳ではなかった。結果的に最終的な投票の直前に行われたカニングハムの公演が彼らに与えた心証が受賞へと道を開いた。この意味で、ワールドツアーのスケジューリングは絶妙だった訳である。このあたりの事情についても詳細な検証がなされている。しかしグランプリ受賞はラウシェンバーグにむしろ失意をもたらした。受賞に際しての陰謀説がささやかれ、奇妙なことにアメリカの美術ジャーナリズムも否定的に受け取られたのである。さらにラウシェンバーグのみが脚光を浴びたことによってダンス・カンパニーのほかのメンバーとの間に溝が生じたのだ。この章を終えるにあたって池上はこれらの事情があるにせよ、ラウシェンバーグの受賞が、ヴェネツィア・ビエンナーレをそれまでの西欧中心モデルからグローバル・モデルに変えたこと、そして現代美術の商業主義とスペクタル化の契機であった点を正確に指摘している。
 「ストックホルムでの衝突」と題された第三章は、9月初めのストックホルム公演について論じられている。ここでもいくつもの興味深い観点が提起されているが、注目すべきはこの章において緻密な作品分析が行われている点である。現在、ストックホルム近代美術館に収められている《モノグラム》は剥製の山羊とタイヤを組み合わせたラウシェンバーグのコンバインの代表作であるが、この作品はこの美術館のディレクター、フルテンの求めに応じてコレクションに加えられた。1962年には同じ美術館で「四人のアメリカ人」展が開催され、ラウシェンバーグを含む、ネオ・ダダ、ポップ・アート系の作家が紹介され、この前後、ヨーロッパ各地でこれらの作家が出品する展覧会が続いていたため、《モノグラム》はアメリカを含めいくつもの美術館が食指をのばしていた。ラウシェンバーグとフルテンを結ぶキーパーソンとして私は意外な名前を見つけた。ビリー・クリューヴァーである。彼こそは66年の「九つの夕べ―芸術とエンジニアリング」を企画したE.A.T.の中心人物であった。この試みにはラウシェンバーグも中心的な役割を果たしたから両者の関係は不思議ではないが、クリューヴァーがスウェーデン出身であることを私は本書で初めて知った。池上によると《モノグラム》がフルテンの美術館に収蔵されることはストックホルムでの公演の際にラウシェンバーグとの間で合意された可能性が高いとのことである。したがって64年にラウシェンバーグがストックホルムを訪れた際にはこの作品はまだ収蔵されていなかったのであるが、池上はダンス・カンパニーの公演とは別にラウシェンバーグがストックホルムで関わった「五つのニューヨークの夕べ」という連続パフォーマンス、とりわけ「エルギン・タイ」というパフォーマンスと《モノグラム》の関係を鮮やかに解き明かす。「エルギン・タイ」については私も以前より知っていたが、天井からラウシェンバーグがロープを伝って降下し、最後は牛を引いて退場するというパフォーマンス(牛を引いて退場するのは作家とは別人であることを本書で知った)が何を意味するのか全く理解できなかった。しかしこのパフォーマンスをコンバインという概念を手掛かりに《モノグラム》と関連づけて分析するならば両者の共通性が浮かび上がってくる。このあたりの分析の鮮やかさは本書中の白眉といってよい。池上はさらに後日談として、ヴェトナム戦争などを背景にしてストックホルムとニューヨーク、さらにはヨーロッパの美術家とアメリカの美術家の関係が次第に悪化する状況を素描して本章を終える。
 最後の公演地、東京においてもラウシェンバーグは熱狂的に受け入れられる。実は東京には既に彼を受け容れる素地があったのだ。59年に渡米した批評家東野芳明が早くからネオ・ダダの作家たちと知り合い、同じ64年にはジョーンズが南画廊で個展を開いている。ジョン・ケージやデヴィッド・チュードアはこれ以前に来日したことがあり、ティンゲリーも南画廊で個展を開いている。グランプリを獲得したラウシェンバーグはいわば真打ちとして最後に東京に現れたのであり、熱狂には理由があった。ラウシェンバーグにとって東京は初めて訪れる土地であったが、日本側には十分な作家についての知識があった訳だ。彼の来日をめぐる一連の騒動の背景にこのような情報の不均衡があったことは確かであろう。11月28日、東野芳明の企画によって草月会館で開かれた「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」という公開質問会は戦後美術史において特筆されるべき事件であった。この質問会においては東野や篠原らがラウシェンバーグに電子化された音声や自らが制作したオブジェを用いて質問を発したが、作家は一言も答えず、壇上で金屏風のコラージュ《ゴールド・スタンダード》を助手の手を借りながら制作したのである。池上は関係者へのインタビューを通してこの出来事の模様を正確に再現し、様々な角度から分析を加える。さらに滞在中に制作され、これまでほとんど知られることがなかったいくつかのコラージュについても言及されている。そのうちの一つ、読売新聞の依頼で制作された《トーキョー》は実際に新聞紙上に掲載される可能性があったという。ヨーロッパの作家たちがカウンターパートとしてラウシェンバーグに対したのに対して、日本の作家たちは現代美術の「権威」たるアメリカ人作家にいかに対応したか。きわめて特徴的な例が篠原有司男の一連のイミテーション・アートである。かかる非対称を池上はホミ・K・バーバのミミクリ理論などと関連づけて論じている。そして東京公演はラウシェンバーグとカニングハムのダンス・カンパニーとの決別の場でもあった。公開制作への対応をめぐって、ラウシェンバーグはカンパニーから離脱することを決めて、両者の協働関係は最後の公演地で終わりを告げたのである。1964年のラウシェンバーグの活動、それが現代美術の神話をかたちづくる奇跡のような事件がであったことはこの一事によっても明らかであろう。本書では終章において65年以後のラウシェンバーグについて論じられている。グランプリ受賞は必ずしも評価につながらなかったが、これ以後、ラウシェンバーグがアメリカを代表する作家として認知されていく過程が短いサクセス・ストーリーとしてまとめられている。しかし通読するならば、作家の活動が最も刺激的であったのは、おそらくそれ以前であり、64年という年がメルクマールとなったことは明らかである。そしてそれは一人の作家にとってのブレイクスルーであっただけでなく、美術の覇権をめぐる重大な転機でもあったのだ。かかる二重性の認識とそれについての綿密な分析がこの研究の独自性を裏づけている。
 いささか長くなったが、ひとまず私はこの研究書の概略を示した。最初に述べたとおり、この研究の成功はテーマを設定した時点でほぼ明らかであったように感じられる。しかしながら、かかる壮大なテーマを具体的な研究として実現することはまた別の話だ。直ちに理解されるとおり、本書を準備するためにはラウシェンバーグのホームグラウンドであるアメリカはもとより、ダンス・カンパニーが巡回した四つの都市での徹底的な調査が必要となる。調査自体が文字通りのワールドツアーとならざるをえないのだ。博士論文の執筆に8年、英語版の出版までにさらに3年という時間はこのような事情を背景としているだろう。およそ半世紀前の関係者を探し出すだけでも大変な苦労が予想されるが、池上は先に名前を挙げた関係者のうち、例えばダルシア・スパイヤー、ポントゥス・フルテンあるいは篠原有司男といった存命する当事者に対しては直接インタビューを試みたことが註によって示されている。さらに英語、フランス語からイタリア語、スウェーデン語にいたる文献を渉猟して、発掘された当時の資料も実に貴重である。かかる研究が可能となった前提としては著者の語学力のほかに、これらの国で作品に関する二次資料がアーカイヴとして整備されていること、そしてそれを使いこなすリテラシーを備えている必要がある。実際に註を参照するならば、AAAを初めとする多くのアーカイヴをめぐって資料を検証した形跡が認められ、著者が日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの立ち上げに参画し、今日にいたるまで多くの作家や美術関係者にインタビューを試みてきたことの動機も推測される。まことに労作と呼ぶべき研究である。この水準の研究が最初に英語で出版されたことは大きな意義があり、実際、あとがきでは原著に対するレオ・スタインバーグを含む世界各地からの反応の大きさについて触れられている。ラウシェンバーグのみならず戦後美術についての見方を一新するこの研究を著者の母語である日本語で読むことができるようになったことを私たちにとって大いに幸運であったといえよう。
 本書によって触発される問題は数多く、今後、ここで提起された問題に基づいてラウシェンバーグ、そして戦後美術の展開についてもさらに議論が深められることであろう。ひとまず私からは一点のみ話題を提供しておきたい。本書の中でも触れられているが、現代美術のグローバリズムの起源としては、50年代後半にも一つの先例がある。それはミシェル・タピエによるアンフォルメルの布教であり、とりわけしばしばタピエに帯同したジョルジュ・マチウは世界各地でアクション・ペインティングの実演を公開している。日本でも具体美術協会の招きに応じて大阪と東京で行ったアクションが有名であるが、今確認するならば1957年から59年にかけてマチウはヨーロッパ各地はもちろんアメリカそしてブラジル、アルゼンチンなどラテンアメリカでも公開制作を実施している。しかしながら今日、タピエそしてマチウの名が戦後美術の文脈で語られることは稀である。アンフォルメルのグローバリゼーションはなにゆえ挫折したのか。抽象表現主義とアンフォルメルの関係を再考するにあたってもラウシェンバーグとの対比は新しい視座を与えてくれるのではなかろうか。

by gravity97 | 2015-12-29 10:52 | 現代美術 | Comments(0)