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Living Well Is the Best Revenge

ガッサーン・カナファーニー『太陽の男たち/ハイファに戻って』

ガッサーン・カナファーニー『太陽の男たち/ハイファに戻って』_b0138838_9255054.jpg『オリエンタリズム』を持ち出すまでもなく、私たちはイスラム圏の人たちに対して、きわめてステレオタイプな理解しか持ち合わせていない。テロリスト、大富豪、遊牧民。映画や小説で増幅された貧困なイメージは多くネガティヴな印象を与える。ましてや私たちは「パレスチナ人」の表象としてどのようなイメージを抱くことができるだろうか。
 ガッサーン・カナファーニーは1936年、イギリス委任統治下のパレスチナに生まれ、第一次中東戦争の際に故郷を追われ、レバノンそしてシリアで難民生活を送る。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)のスポークスマンとして活動し、機関紙の編集に携わる一方でいくつかの小説を発表した。しかしイスラエルの秘密警察の手によってわずか36歳の時、ベイルートで姪とともに爆殺されるという悲劇的な最期を遂げた。このあたりの事情はスピルバーグの『ミュンヘン』を想起すればよかろう。カナファーニーの作品は近年、岡真理の手で翻訳され『前夜』という雑誌に数回にわたって掲出された。私も岡真理の著書をとおしてこの作家の主著が70年代に日本でも翻訳されていたことを知った。
 この本には表題となった比較的長い二編の小説と短編五編、あわせて七編の小説が収められている。いずれもパレスチナという土地を強く反映した研ぎすまされた刃物のような小説である。ここでは表題の二編の小説について内容にも踏み込んで論じる。
 「太陽の男たち」はイラクからクウェートへの密入国を主題としている。いうまでもなくこの移動は貧富の格差によるものである。バブル期の東京でも中東からの越境はみられたし、今日もメキシコからアメリカへ、トルコからドイツへの越境は続いている。しかしイラクからクウェートへ、苛酷な炎天下、砂漠の中での禁じられた越境は文字通り生命の危険を伴う。登場人物は彼らをめぐる挿話からパレスチナ難民であることが了解される。後で述べるとおり、1948年、イスラエル軍によって父祖の地から追放された彼らにとって貧困から逃れる数少ない手段がクウェートで出稼ぎし、故郷に送金することであった。国境付近には密入国を請け負ういかがわしいブローカーが暗躍し、密入国者たちのなけなしの金を奪おうとする。様々の「パレスチナ的背景」を抱えた三人の男が「竹竿親父」なる請負人の斡旋でクウェートへの集団密入国を図る。その方法とは空の給水車のタンクに潜んで二つの検問を通り過ごすというものであった。炎天下に鉄のタンクの中に潜むことは自殺行為である。しかし検問の書類審査の数分の間だけ耐えればクウェートの地を踏めると説得された彼らがほかに選ぶ道はない。最初の検問を息も絶え絶えに乗り切った三人であったが、二番目の検問で運転手が検問の職員の無駄話につきあわされているわずか数分を耐えることができずタンクの中で絶命する。物語は彼らの死体をごみ集積所に捨てた運転手が「なぜタンクの壁を中から叩かなかったのか」と絶叫するシーンで終わる。
 なんとも救いのない物語である。ブローカーとの間に生き馬の目を抜くようなやりとりがあるとはいえ、密入国者たちが悶死したのは何者かの悪意のゆえではない。単に検問所で運転手が数分の間拘束されたからであり、検問つまり国境の存在が罪なき者たちの死に関与している。国家や国境、自然には存在しない擬制がいともたやすく人を圧殺するという主題をこれほどむきだしに提示した物語は例がないだろう。カナファーニーがこれらの問題に敏感であるのはいうまでもなく彼自身が国籍を剥奪され、捏造された国境の外へと放逐された身であるからだ。自らの過失とも呼べぬ過失によって何人もの男を死に至らしめた運転手が物語の最後で発する「なぜタンクの壁を叩かなかったのか」という叫びは何かの寓意であろうが、それが何の寓意か、私はまだわからずにいる。
 1948年、パレスチナのデイルヤーシンという村でイスラエル軍と民兵による老人や子供も含めた住民の大量虐殺事件が発生する。恐慌に陥った多くのパレスチナ人はシリアやレバノンに一時避難する。彼らはこの退避は一時にすぎず、まもなく帰還すると考え、家も家財道具もそのままに脱出したが、彼らの土地はイスラエルに占領され、彼らが居住した土地には世界各地から帰還したユダヤ人が入植する。イスラエル建国と密接に関わるこの事件はナクバ(大災厄)と呼ばれ、先述のとおり12歳のカナファーニーにとって原体験とも呼ぶべき出来事となった。かつてナチス・ドイツはユダヤ人強制収用所を完全に破壊し、跡地を整地してホロコーストの痕跡を抹消しようとした。(ちなみにかかる暴挙は近年、イスラエルがパレスチナの難民キャンプをブルドーザーで建物ごと破壊する情景と完璧な相似形をなしている)その数年後、今度はシオニストが別のかたちで事件の痕跡を消し去ろうとする。生活の痕跡を抹消するのではなく、別の入植者を住まわせることによって元の入植者の生活の痕跡を消す試み。ナチス・ドイツによる記憶の絶滅が書字を全て削り取ることによってなされたとすれば、シオニストたちが試みたのは書字の上に別の字を重ね書きして本来の字を読めなくする、いわばパランプセストによる記憶の抹消である。かかる暴力が文学の主題にならぬはずがあろうか。
 「ハイファに戻って」はまさにこの問題を扱っている。ハイファとは地中海沿岸の都市の名。主人公はかつてこの街に住んでいたが、ナクバとそれに続くイスラエル軍侵攻のため、とるものもとりあえず街から逃れる。その際に主人公と妻は乳飲み子だった長男を置き去りにせざるをえなかった。二人は20年ぶりにハイファを再訪する。むろん住民も地名も変わってしまった街で生活することはできない。二人は自分たちが住んでいた家をもう一度訪れたいというささやかな希望を胸にハイファに向かう。彼らの家は残っていたが、そこにはイタリアから来たというユダヤ人の老女が暮らし、ずっと二人が訪れるのを待っていたと述べる。老女は父をアウシュビッツで亡くし、夫も中東戦争で戦死したらしいことが暗示される。彼女はあかたも絶滅収容所に始まる20世紀の暴力の歴史を一身にまとうかのようである。ゆえなくして故郷を追われた二人と意図せず彼らの家を占拠した老女との緊張をはらんだ対話はこの小説の白眉である。そしてさらに驚くべき事実が明らかとなる。彼らが残した生後五ヶ月の男の子は偶然にも老女に引き取られ、息子として育てられていた。ユダヤ人として育てられたパレスチナ人、ハルドゥンとドウフという二つの名をもつ息子はいずれを両親として認識するか。関連するいくつかの挿話を交えながら、再会の時が到来する。あろうことか、彼らの息子は実の両親を否定し、自分がイスラエルに帰属し、将来イスラエル国軍に参加するつもりであることを明言する。実の両親が拒絶されるというエピソードを、彼の弟、つまり主人公たちの次男がフェダーインというパレスチナの武装勢力に参加を表明し、主人公がそれを許さなかったという挿話の傍らに置く時、政治や国境が家族を、兄弟を引き裂いていく非情さの自覚は実際にナクバを経験したカナファーニーならではであろう。
 「ハイファに戻って」の主人公の名はサイードという。なんという偶然であろうか。私はこの小説に先んじてもう一人のパレスチナ人、もう一人のサイードがやはり45年ぶりに生地を訪ねた記録を読んでいた。1991年、白血病の宣告を受けたエドワード・サイードは翌92年、家族を伴って自らの生地エルサレムを再訪する。パレスチナ出身でアメリカを代表する知識人であるサイードの帰還は大きな反響を呼ぶ。サイードが生地を離れた理由や再訪のエピソードは「ハイファに戻って」ほど劇的ではない。しかし自らがかつて居住した家がそのまま残され、しかしそこには別の者が居住しているという同じ不条理をエドワード・サイードも味わう。事実は小説より奇なりというが、私にとって「パレスチナ/イスラエルに帰る」を読んだ後で「ハイファに戻って」を読む体験は、事実を小説で追認するがごとき奇妙な感覚であった。
先ほど私はナチスとイスラエルが行なった二通りの痕跡の抹消について述べた。一方では証拠と証人を完全に破壊し、抹殺することによって事件の痕跡を抹消する。他方では事件の上に別の事件を重ね書きして、本来の事件を読み取りがたくする。痕跡の抹消と痕跡の過剰。この二つの暴力がいずれもユダヤ人問題と関わっていることは暗示的ではないか。私はこの主題をさらにロバート・ラウシェンバーグのドローイング、そしてジャック・デリダの一連の著作へと押し広げたい誘惑に駆られるが、それはまた別の機会としよう。
カナファーニーを含む「現代アラブ小説全集」は河出書房新社から1978年に初版が刊行され、88年に新装版が刊行されている。現在ではインターネットでも入手困難であるが、大きな図書館に行けば閲覧可能であろう。いくつかの小説については最初に触れた岡真理がフェミニズムやコロニアリズムの視点なども絡めて興味深い論考を発表しており、ほかの作家についても読んでみたいと思う。決して部数が見込める出版ではないが、このような小説をきちんと翻訳して出版することは最初に述べた、他者の表象という問題と深く関わり、読書という行為の本質と関わっている。最近では感じることのまれな出版社の良心をうかがうことができる。
Commented by tsubu at 2012-09-10 16:34 x
なぜ捕まってもいいから死にたくないと叫ばなかった、と叫ぶ男。当然それは、闘わずに死んではいけないというメッセージだと。
by gravity97 | 2008-07-28 09:26 | 海外文学 | Comments(1)