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Living Well Is the Best Revenge

平野啓一郎『決壊』

 
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『新潮』に長期連載されていたとはいえ、平野としては『葬送』以来、6年ぶりの長編である。しかし優雅な芸術家小説『葬送』から一転し、凄惨きわまりない1500枚の物語には一片の救いもない。凶悪事件が頻発する昨今、この小説は例えば先般の秋葉原での無差別殺傷、続発する遺体損壊事件、インターネットを介した性犯罪などと関連づけて論じられることとなろう。しかし私たちが目を向けるべきは表面的な類似ではなく、これらの事件とこの小説が何と同期しているかという点である。
 決壊とは堤防や堤が崩れることであり、これまで堅く守られていた秩序が崩壊したことの比喩であろう。確かに昨今、日本という社会を少なくとも第二次大戦後、支えていた常識やモラルがいともたやすく突き崩されつつある不気味な感触を私たちは感じる。それは戦争や天災、テロといった目に見える崩壊ではなく、むしろ私たちの内部が蝕まれつつある予感である。今挙げた事件はその兆候であり、平野は小説家としての想像力を駆使して、かかる決壊の認識を一つの陰惨な物語として提示したといえるかもしれない。この物語は北九州、京都、東京、鳥取などの異なった都市を舞台として同時に進行する。一見ばらばらの物語を結びつけるのはインターネットであり、かかる「決壊」がインターネットの普及と密接に関わっていることを暗示している。平野はインターネットと親和した世代に属し、今までも小説の主要な小道具として携帯電話やPCを用いていた。最近の中篇『顔のない裸体たち』においてもインターネットによって媒介された性と暴力が主題とされていたことが想起されよう。平野は梅田望夫と『ウェブ人間論』という共著も著している。正直に言って私はこの対談に異和感を覚えた。インターネットで世界は薔薇色、ネットの中は善人ばかりといった梅田のオプティミズムはそれなりの見識であるから特に批判するつもりはないが、少なくとも文学は人間の暗黒面に関わるものであるはずだ。梅田の話に迎合していては作家として資質が問われるのではないかと考えていたところ、思いがけずこの暗澹たる長編の登場である。平野の愛読者としては逆に安堵した思いすらする。
 新刊でもあり、内容に深く立ち入ることは控えるが、いくつかの物語が錯綜しつつ進行する。一方で登場人物の人格の崩壊や家庭の崩壊といったいわば内部からの崩壊が描かれる。かかる主題は文学史にあってさほど新奇なものではない。これに対してこの小説がかくもセンセーショナルであるのは、インターネットを経由して外部からもたらされる未知の暴力が生々しく記されているからではなかろうか。例えば登場人物の一人はクラスメイトに対する陰湿な性的中傷を投稿サイトに書き込み、その報復として凄惨なリンチを受ける。登場人物の一人が「悪魔」を名乗る人物に殺害されることになったきっかけは彼が開設したブログの記事にあった。殺人事件の被害者と加害者のいずれに対しても心ない誹謗や中傷が投げかけられるが、多くの場合、それはネットへの書き込みというかたちをとり、あるいはネットを経由して実体化される。興味深い点はこれらの暴力が作品の形式、つまり文体としても実現されている点だ。かねてより私はインターネット上の掲示板への匿名の書き込みについて、その内容以前に文体、つまり単語の変換ミスの意図的な使用、絵文字や仲間内だけの特殊で野卑な言葉の多用といった文章の形式に強い嫌悪を感じていたが、この小説においては地の文の中にこれらの醜悪な文体が意図的に幾度となく挿入されることによって、私たちの日常的言語の中にインターネットを介した「おぞましい言語」が増殖しつつある状況が視覚化されている。これはまことに不気味な兆候である。知られているとおり、私たちは言語を自らの力で習得するのではなく、既に成立している言語というシステムの中に事後的に挿入されることによって、その体系に自身を馴致する。今後、インターネットを一つの参証源として言語のネットワークに囲い込まれる世代はいかなる文体を獲得することとなるだろうか。このほかにもこの小説の中には週刊誌の記事、TVでのインタビューやバラエティ番組でのタレントの発言といった私たちが日常でなじんだ多く匿名的な言葉が次々にコラージュされる。いずれも過剰な攻撃性において共通する。私は現在の日本を特徴づけるのは「犠牲者を非難する言説」の蔓延であると考える。社会的弱者や犯罪被害者、いわれなき差別の対象、本来ならば社会システムの犠牲者である弱者を逆に鞭打つ異常な言説はインターネットをはじめ、今挙げたようなメディアの中で増幅され、生きづらい社会を現出させている。平野はこれまでもテキストの視覚的な意味に関して自覚的であったが、コラージュが多用され、様々なフォントの活字が使用された独特の文体は、今述べた作品の主題と密接に関係している。
 物語の中に登場人物の一人が夫のブログを夫に知らせることなく盗み読むというエピソードがある。ブログはインターネットで公開されているから、正確には盗み読むという表現はあたらないが、ここでは配偶者の日記の窃視という谷崎的なモティーフが換骨奪胎されている。しかも妻はこのブログに対して匿名で書き込みをし、夫もそれが妻の書き込みとは気づかないというさらに倒錯した関係が結ばれている。さらに同様に書き込みを行い、妻が別人と誤認していた匿名の書き手こそ「悪魔」と呼ばれる殺人者であった。あるいは生の意味をめぐる「悪魔」の演説は直ちにドストエフスキーを連想させるが、彼の長広舌は絶命しようとする被害者の前でなされ、その模様は被害者の家族に送りつけられると同時にインターネットを介して公開される。匿名性と同時性、先行する作品に起源をもつ文学的主題がインターネットという場を経由して生じる歪みもこの小説の主題といえよう。インターネットが普及してまだわずか20年ほどにすぎない。しかしこの能動的で攻撃的なメディアが主体に及ぼす影響ははかりしれない。確かにインターネットは道具にすぎない。しかし本来道具にすぎないはずの、例えばカメラ・オブスクーラが、映画が、タイプライターが逆にそれを操る主体の内面をいかに変容させたかは、ジョナサン・クレーリーやフリードリッヒ・キットラーの近年の研究に明らかである。私たちはパンドラの箱をあけてしまったのではないか。炭鉱のカナリアではないが、かかる転機を極めて意識的に主題としたことにおいて『決壊』はすぐれて兆候的な小説といえよう。かつてポール・バーホーベンは映画の本質は暴力とセックスであると喝破し、実際にそれを体現するかのような怪作を確信犯的に次々と製作した。本書を読んで私はインターネットの本質もまた暴力とセックスではないかという暗然とした思いにとらわれた。そしてもはや私たちがそれを手放せないことも明らかである。
 最後に装丁について述べる。平野も自身のブログの中で言及しているが、菊池信義による装丁がすばらしい。タイポグラフィーのアクセントを効かした菊池らしいカヴァーもよいが、なんといっても黒く塗られた小口部分のインパクトが圧倒的である。単に内容を暗示した禍々しい印象を与えるだけでなく、読み進めるうちに小口部分のインクが指を、そして指を介して頁を汚す。本を汚すことなしに通読できない小説、このような実体性、物質性は私が本書の主題と考えるインターネット内のバーチャルなリアリティーの対極にある。同時に自らの手を汚しながら、このいたたまれない小説を最後まで読みぬく体験は、インターネットを用いることによって意図せずとも他者への暴力に加担するという、私たちの生の比喩であるかのようだ。
by gravity97 | 2008-07-12 21:38 | 日本文学 | Comments(0)