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Living Well Is the Best Revenge

「村上三郎 限らない世界」

「村上三郎 限らない世界」_b0138838_22143107.jpg 芦屋市立美術博物館で開催されていた「村上三郎展」を訪れる。村上は言わずと知れた具体美術協会の中心的な作家の一人であり、この美術館での回顧展も1996年に続いて二度目となる。また2017年には大阪のアートコートギャラリーで70年代のコンセプチュアルな作品を中心とした展覧会が開催され、その際には絵画のカタログレゾネと「紙破り」の全記録を兼ねた資料性の高いカタログが刊行されているので、これまでもこの作家についてはその全貌を知ることは必ずしも困難ではなかった。しかしながら、これらの展示と比べても今回の回顧展は画期的であり、多くの新知見を得ることができた。唯一残念なのは会期終盤に訪れたにもかかわらず、まだカタログが発行されていなかったことであり、私のごとき古手の学芸員にとって展覧会の初日にカタログが準備されていないというのは信じられない事態であるのだが、さいわい今回の展示については美術館のツイッターが充実しているため、出品作品についての情報はPCを介してほぼ得ることができる。カタログがないため若干の事実誤認はあるかもしれないことをお断りしたうえでこの展覧会についてレヴューを残しておきたい。

 今回の展示が前回、96年の展示と異なる最大の理由は作家の不在と関わっているだろう。前回の展覧会は964月に開催されたが、その直前、1月に作家は急逝し、私もおおいに驚いたことを覚えている。当然ながらこの際の展示は作家との話し合いで構成が定められたはずだ。作家存命中の展覧会はクロノロジカルな構成を取らざるをえない。村上は多作ではないからおそらく展示されていた作品自体は今回とさほど変わらないはずだ。この美術館は決して順路が明確な構造ではないが、96年の展示ではデビューから最新作まで作品は基本的に発表順に並べられていたと記憶する。これに対して、作家亡き後、私たちは作家の全仕事を一つのコーパスとして把握することができる。別の言い方をするならば、作家の仕事を俯瞰的に確認することができるのだ。今回の展示において企画者はこの立場を最大限に活用し、みごとな展示を構成した。焦点となるのは村上の代表的なアクション「紙破り」の位置づけだ。このアクションは村上の経歴の中で幾度となく繰り返されている。クロノロジカルな構成であれば、それぞれは挙行された時点を基準として展示に収められていく。しかし今回の展示では「紙破り」のみによって展示の一角が構成されている。正確に言えば、今回の展示は三つのセクションに大別され、それぞれ一階吹き抜けの広々としたスペース、第一展示室、第二展示室に振り分けられている。吹き抜けはこの美術館の建築上の特徴であるから、美術館の構造が展示にうまく取り入れられている。それぞれの空間に割り当てられているのが、紙破り、絵画、そして70年代のコンセプチュアルな仕事だ。これによって展示自体もすっきりとした印象があり、村上の作品の特質が浮かび上がる。私は常々展覧会とは作品の選択と配置であると唱えてきたが、96年とほぼ同じ作品を展示しながらも、全く異なった印象を与える今回の展覧会は巧まずしてこの理解の妥当性を証明している。

 エントランスに向かう来場者はまず入口横に設置された《空》に迎えられる。高さ3メートルほど、ロケット上のオブジェは中に入ることができて、円錐状の最上部には穴が開けられているから、この穴を通して空を仰ぎ見ることができる。この作品は兵庫県立美術館に作家監修のもとに再制作されたバージョンが収蔵されているが、直接前庭に設置された今回の出品作は新たに制作されたはずだ。監修やオーセンティシティーがどのように担保されているか確認したいところであるがカタログがないためわからない。再制作に類した作品、同様に具体野外展に出品された作品としては、二階の休憩コーナーに額縁の枠だけを上から吊るした《あらゆる風景》も展示されていた。こちらの作品については当時展示されたのと同じ木枠が出品されていたのではなかろうか。いずれの作品も世界に眼差しを向ける枠組そのものを提示しており、「通して見るための開いた窓」というアルベルティのよく知られた言葉を引かずとも、端的に絵画の暗喩であることが理解される。ここでは村上のアクション「紙破り」もまた垂直の平面に穴を開ける行為であることに注意を促しておきたい。「紙破り」は作家の生前も没後も何度となく繰り返されているが、私の知る限り次の二つの条件は常に遵守されてきた。一つは作家の身体によって破られる面は常に垂直方向に設置されることであり、もう一つは会場入口に設置されることが多いためにサイズやプロポーションこそ場合によってまちまちである、破られる面は基本的に矩形として成立することである。垂直の矩形。「紙破り」が絵画の制作にほかならないことは従来より指摘されてきたが、形式としての窓との類比も意味があるだろう。

 かくして私たちは美術館の外から中へ、「紙破り」のセクションへとゆるやかに歩みを向ける。エントランスの吹き抜けを使って「紙破り」を紹介したパネルと多くの資料類、さらに映像で伝説的な具体美術協会活動時のアクションから海外で挙行された多くの「紙破り」までを記録した映像が展示されている。もちろん私が実見した「紙破り」もいくつかの写真と映像として提示されており、懐かしく感じた。木枠に張られた紙を破るという単純な行為であるが、そこから派生する問題はきわめて広く深い。例えば会場にはいくつかのアクションの残滓として残されたと思しき紙が「個人蔵」というキャプションとともに展示されていた。それらの紙は多くの場合、金色の塗料で覆われている。あまり知られることのないエピソードだが、一瞬の「紙破り」のために作家は入念に事前の準備をする。最も制作頻度の高い、展示会場入口を閉ざすタイプの「紙破り」において、作家はまず入口を完全にふさぐかたちで木枠を組み、ハトロン紙をその両側に張り渡し、さらに金色の塗料を全面に塗る。なぜ私がそれを知っているかといえば、私も海外で「紙破り」が準備、挙行された場面に立ち会ったことがあり、準備の周到さに驚いたからだ。ちなみにその折に作家は金色の塗料を日本から持参していたが、それは以前にやはり海外でこのアクションを実施した際に現地でこの塗料を見つけることが出来ず、苦労したためであり、さらに言えば実際の作業は同行した作家の奥様によって進められていた。これらは些末なエピソードに感じられるかもしれないが、私の考えでは決定的に重要である。なぜならばこれらの事実は偶然に多くを負っているように感じられる「紙破り」が実は緻密な準備と規則を前提としていることを暗示しているからだ。私は今回の展示を見て得心したことがある。これまで「紙破り」はアクションとみなされていた。しかし実際は異なる。それはきわめて洗練されたコンセプチュアル・アートなのだ。両者を分かつのは一回性と反復性、作家性と代行可能性である。「紙破り」はいくつかのヴァリエーションがあるが、最も基準的なそれの場合、作家が破るスクリーンは次のように記述できるはずだ。


会場の入口となる空間を完全に覆うサイズのスクリーンを準備する。スクリーンの木枠としてはX cmの角材を使用し、スクリーンを覆う紙の間には X cmの隙間を空ける。使用する紙としてはXを用い、Xという塗料を均等に塗布すること。


それぞれのXの項目がどの程度精密に規定できるか、私にはわからないが、少なくともこのようなインストラクションに基づいて、破られるべきスクリーンの同一性を保証することは可能であろう。このインストラクションは実によく練られている。一つだけ証拠を挙げておこう。多くの人が誤解していると思うが、上の指示に示したとおり、作家は一枚の紙を破って飛び出してくるのではなく、スクリーンには常に二枚の紙が内部に隙間を残して張り渡されている。なぜか。私がこの点に気づいたのは1993年に神戸のジーベックホールで挙行された作家自身による「紙破り」に立ち会ったからである。藤本由紀夫によって企画されたこの試みは私の「紙破り」観を一新する内容であった。サウンド・アーティストである藤本はアクションの際の音に注目する。確かに紙を破る際のバシッという音は常に会場に高らかに響き渡る。それは紙が二重に張られて内部に空間が存在するからなのだ。私は「紙破り」をサウンド・アートと読み替えた藤本の慧眼に感心するとともに、このアクションの多様な可能性をあらためて思い知った。スクリーンの制作に一定の規則が反映されておれば、それを破るという行為は作家本人である必要はない。かかる発想は最初から認められる。上映されていた映像の中に1962年のグタイピナコテカ開館のレセプションに際して、吉原治良がスクリーンを破る模様が記録されていたが、実際に作家の生前と没後、いずれも村上以外によってアクションが挙行された例は数多く、その詳細については冒頭に言及したアートコートギャラリーが発行したカタログの「紙破り」のカタログレゾネの中に「Xによる制作」と代行者が表記されて、その真正性が保証されている。

 実際にインストラクションが存在するか否かについて私は知らないが、少なくとも作品に一定の同一性が保証され、作家以外によって代行が可能な作品を私たちはほかにも知っている。例えばソル・ルウィットのウォール・ペインティングだ。2007年に没したこの作家の大規模なウォール・ペインティングは近年、東京国立近代美術館の一室にも設置された。この場合、作家自身が描くことは特に重要ではない。一種のルールブックのごときインストラクションに従ってドラフトマンによって厳密に制作されることによって作品のオーセンティシティーが保証される。重要なのは作品の実体ではなくてコンセプトであるからだ。ルールに従って代行されることを許す村上のアクションを一種のコンセプチュアル・アートと考えることは出来ないか。ここから重大な問題が発生する。先に今回の展覧会に「紙破り」の現場に残されたと思しき紙切れが「個人蔵」という表記とともに展示されていたと記した。いかなる事情でこれらが展示されたか、あるいはこれらが美術館の収蔵のカテゴリーでいうところの「作品」であるか「資料」であるかについて今のところ私には情報がない。しかしながら、もし作品のコンセプトが重要であるとするならば、これらを展示することには問題があるのではないだろうか。再びルウィットに話を戻す。ルウィットの場合、作品の設置と収蔵ははっきりと分けられている。設置の場合はドラフトマンへ旅費や日当を支払うこと以外に作品の対価は要求されない。その代り作品は契約書にある一定の展示期間の後は完全に破棄されなければならない。一方、東京国立近代美術館のように恒久的に設置される場合は、それに加えて安くはない作品の代金が支払わなければならない。つまりコンセプトとして展示される場合は、作品は完全に破棄されなければならないし、作品として収蔵される場合は作品の対価が支払われなければならないのだ。これに対して残された作品の断片はきわめて微妙な位置にある。私はそれらを作品とみなすことは、一種の物神化、フェティシズムであって、作家の意図、作品のコンセプトに反するのではないかと考えるのだ。(フェィティシズムということでいえば、今回展示された品の中でなんとも衝撃的であったのは、村上が「紙破り」を着想する契機となった、村上の長男が破ったふすま紙が残されていたことである)ただしこの問題は一筋縄ではいかない。映像の中に1994年、パリのポンピドーセンターで開かれた「限界を超えて」展において、村上自身が7枚のスクリーンを破りながら通りすぎる「通過」の模様が記録されていた。この作品は現在ポンピドーセンターに収蔵されている。下衆の勘繰りとも受け取られかねないことを承知したうえで敢えて尋ねるが、ポンピドーセンターは対価を支払ってこの作品を収蔵したのであろうか。この問題は「紙破り」を一過的なアクションととらえるか、再現可能なコンセプチュアル・アートととらえるかによって理解が変わってくる。私自身もいずれの立場をとるべきかおおいに迷っている。ひとまずは今回の展示に触発された、一つの問題提起として書き留めておきたい。

 「紙破り」だけでかくも多くの紙数を費やしてしまったが、それはこの作品がいかに多産的であるかを証明している。そして第一展示室に展示された絵画もまた多くの問題を提起する。今回の展覧会の充実は圧倒的な資料調査を前提としている。おそらくこのためにカタログの刊行も送れているのであろうが、私がおおいに感心したのは具体美術協会以前、さらにはゼロ会以前の村上の絵画と関連資料が多数出品され、村上のみならず1950年代冒頭の関西の美術状況が瞥見できる点である。詳細な検討のためにはカタログを参照する必要があるので、現時点ではひとまず記憶と印象に基づいて記すことにするが、私は今回紹介された資料群は今後、この美術館でアーカイヴ化されるのがよいと思う。すでに吉原治良と具体美術協会については先日開館した大阪中之島美術館にアーカイヴが整理されつつある。あるいは白髪一雄については尼崎総合文化センターにアーカイヴの橋頭堡が整備されつつある。コレクション同様にアーカイヴもある程度属人化されるが、具体美術協会ほどの規模と活動歴をもつ集団について一人、あるいは一館で網羅的なアーカイヴを構築することは現実には難しいだろう。私は今後、それぞれの作家とゆかりにある都市や美術館に作家ごとのアーカイヴが形成されたうえで、さらにそれを横断して検索可能なシステムが構築されることを望んでいる。

 話が逸れた。村上の絵画に戻ろう。ここでも多くの発見があった。今述べたとおり、事実関係のレヴェルでは村上がゼロ会を結成する以前のいくつかの発表、新制作展やジャン展、あるいは白髪一雄との二人展などについての資料および出品作品は実に興味深い。初期の具象的な絵画は96年の展覧会には(カタログにモノクロ図版は掲載されているが)出品されていない。独自の表現を確立した作家がそれ以前の作品の公表に消極的であることはしばしばあり、おそらく作家存命中に企画された96年展では作家の指示によって外されたのであろうが、今回は展示に収められているため、村上が具象的な絵画においても巧みであること、そしてキュビスムの強い影響を受けていたことが理解される。1953年に画風は一転して抽象化する。この年、村上は白髪らとともにゼロ会を結成するから、ひとまず私は村上にとってブレークスルーの年が1953年であったことを確認したうえで、この時期の村上と白髪の絵画がよく似ている点にも注意を喚起しておきたい。いずれも筆触によって画面を充填する構造であり、村上の55年以後の絵画とは大きくタイプを違える。私は二人の作風の類似についても深く考えるところがあるが、ここでは措く。そして村上のブレークスルーを考えるうえで決定的に重要な作品が今回は見当たらない。96年展には出品されていた1954年制作の「投球絵画」である。絵具をつけたボールを投げつけて描いたこの作品は現在ニューヨーク近代美術館に収蔵されているが、作品の展開、あるいは絵画の文脈を考えるうえでこの作品の不在は惜しまれる。筆触の絵画が表面との接触を原理としているならば「投球絵画」は非接触を原理としているからだ。さらに私が興味深く感じるのは筆触の絵画については今回展示されているとおり、数点制作されているのに対して、「投球絵画」は私の知る限り今挙げた一点しか残されていない点である。果たして「投球絵画」は一度しか試行されなかったのだろうか。モンドリアンやポロックを連想すれば直ちに理解されるとおり、一つのタイプの作品について徹底的に試行するのがモダニズム絵画の常道であることを考えるに、このような作品の在り方はきわめて異例である。実は村上に関しては同様に一度しか試行されていない作品がもう一点存在する。今回の展覧会のメインヴィジュアルに使用された「剥落する絵画」である。現在残されているこのタイプの絵画は元々巨大な画面を分割したものであるから、複数存在するとしても一度しか制作されていないはずだ。私の考えでは村上の絵画のうち、「投球絵画」と「剥落する絵画」はきわめて独特の位置を占めている。この点は先に論じた「紙破り」の特性を考慮するならば直ちに明らかになる。

 今回、会場で手渡されるハンドアウトには出品作品のリストが掲載されているが、「紙破り」については個別化されず、「紙破り」というタイトルと1955-1994年という制作年のみが表記されている。なぜこのようなことが可能か。それは「紙破り」が一点によって全てを示すことが可能だからである。このハンドアウトもまた「紙破り」を個別のアクションではなく、一つのコンセプチュアル・アートとしてとらえている。つまり一点が与えられるならば、無限に反復が可能なのだ。この意味で「紙破り」を河原温の日付絵画と比較することも可能であろう。いずれもルールさえ決まれば、無限に反復することが可能である。そして日付絵画がなおも河原温という作家と結びついているのに対し、「紙破り」は他者が代行することが可能な点においてさらにラディカルではないか。私は同じ特性が「投球絵画」と「剥落する絵画」にも認められるのではないかと考える。そこで問題とされているのは方法であって実現された絵画ではない。ボールに絵具をまぶして投げつける。異なった塗料を塗りこんで剥離しやすい表面を形作る。これらの方法さえ決まれば、作品は無限に制作することが可能である。つまりこの二つの絵画は実体をもちながらも一種のコンセプチュアル・アートとして成立しているのである。むろん実際にはそれぞれの展覧会に出品する絵画は個別化される必要があるから、村上はストロークを強調した一連の絵画から一種の色面抽象まで絵画らしい絵画を具体美術展に出品している。そしてそれらの作品も強度においてほかの作家たちと遜色がない点は画家としての卓抜な力量を示してはいる。しかし私がここで指摘しておきたいのは、村上の絵画の中でも「投球絵画」と「剥落する絵画」は本質においてコンセプチュアル・アートとして成立している点において異質であり、その特質は端的に「紙破り」につながっているということだ。いずれもコンセプトが最初にあり、すべての作品はそのヴァリエーションに過ぎない。作品はコンセプトに従って(「紙破り」のごとく)無限に反復されてもよいし、(「投球絵画」や「剥落する絵画」のごとく)ただ一度で終えられてもよい。

 以上の点を鑑みるならば、第二室に展示された主に70年代以降の発表についても理解することは容易だ。会場に詳しい説明があるとおり、個展において村上は器に入れた水を移す、あるいは沈黙を続けるといったルールを課して、会期中それらを実行した。大規模なパフォーマンスとして大阪市内に木箱を設置する作品があるが、会場には配置の時間や場所、つまりこのパフォーマンスのルールブックが展示されていた。(確か木箱は最後に解体されたと記憶するから、ここにも実体的な作品は存在しない) 実体的な作品を伴わないとはいえ、これらのパフォーマンスも一定のルールを前提としている点で今確認した一連の絵画と共通している。具体美術協会が解散した後、具体を冠した展覧会に絵画を出品することはあっても、村上は絵画の制作から遠ざかり、個展においては今述べたような観念的な作品に移行するが、いずれもルールを決めてそれを履行するというものであり、そこに一貫する特質を見出すのは容易だ。70年代の発表は実体的な作品を伴わない場合が多いので展覧会を構成するうえでは一つの難所であるが、展示の中では使用されたオブジェとテクストによる解説を併用してうまく処理されていた。しかしながら実体を伴わないためいささか作品の印象が薄い点は免れえない。絵画からの撤退、制作の放棄、観念的なユーモア、具体美術協会解散後の村上のふるまいはデュシャンを連想させる。しかしデュシャンが画家として見るべき絵画をさほど残していないのに対して、今回の展覧会で明らかなとおり、1960年前後に村上は強度に満ちた多くの絵画を残している。今回の展示を見て、私はあらためて一つの大きな謎が与えられたように感じた。一方に一種のコンセプチュアル・アートとしての「投球絵画」から「紙破り」、「剥落する絵画」へといたる反絵画の系譜、もう一方でストロークが強調された物質的な絵画の系譜、この二つの系譜は一人の作家の中でいかに結びついているのであろうか。おそらくこの点に村上、そして具体美術協会の作家たちが制作し、強い存在感を示した異例の絵画の秘密の核心が存している。


17/02/22 追記

この記事をアップ後、《空》と《あらゆる風景》は1993年、ヴェネツィア・ビエンナーレの際に作家本人の手によって再制作されたヴァージョンであるという教えをいただいた。


by gravity97 | 2022-02-15 22:15 | 展覧会 | Comments(0)