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Living Well Is the Best Revenge

ピエール・ガスカール『けものたち・死者の時』

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 今年も8月に戦争と関わる小説を読む。
 この10年間、私たちは震災、原子力災害、毎年繰り返される風水害に苦しめられてきた。そして今、私たちは中世もかくやと思われるパンデミックの脅威の下にいる。私はまさか自分が生きているうちにかかる災厄に直面することとなるとは想像もしなかった。この災いがほかと異なるのは、それが本質的に人々を分断し、敵対させ、孤立させる点にある。しかもまさにこの苦境にあつらえたかのように、私たちは日本を含め、想像を絶して劣化した指導者たちを仰がねばならないのだ。彼らの無能無策と自己の利益を守るために分断と敵対を煽る政策を私たちは世界中のいたるところで目にする。アメリカは今や内戦状態にあり、日本ではパンデミックに対して一つとして有効な政策がとられたことはない。かかる状況の下で今回紹介する小説もまた重苦しい。しかし今、私は80年代の村上春樹や90年代の小林恭二のような小説を読む気にはなれない。人と会うことも街へ出ることも禁じられた一種の幽閉状態にある私たちに1953年に発表され、早くも55年には翻訳されたこの小説は現在の私たちを取り巻く状況とよくなじむ。

 タイトルのとおり、本書は一つの短編集と一つの中編によって構成されている。「けものたち」は同名の短編を含む六つの短編によって構成され、中編「死者の時」も長さという点では「けものたち」に収められた短編とさほど変わらない。いずれも第二次大戦およびその時代を背景としていることは漠然と理解されよう。つまりここで描かれる世界も一種の緊張と不安を時代精神としている。

 「けものたち」には文字通り、動物と人が繰り広げる暗鬱な寓話が語られ、多くの作品には戦争の影が落ちている。例えば冒頭の「馬」は、馬丁たちとともに多数の軍馬を管理することを命じられたペールという兵士が、悪化する戦況の中で馬たちを解き放ち、逃亡する話とその梗概を説明できるかもしれないが、独特の幻視的な文体はこのような単純な要約を超えた緊張を物語に与える。この短編に限らず本書において、人と動物の関係は緊迫している。「馬」においてもペールや馬丁たちは軍馬をむごく扱う一方で、「暴力の権化のような馬丁たちも、あらゆる男性の力と敏捷さの源である自分たちの腰に噛みつかれはしまいかと、狂気のように心配していた」暴力と恐怖、調教と叛逆はここに収められた短編の通奏低音である。これ以降、登場する動物は収められた短編順に羊や犢(こうし)、サーカスの動物たち、鼠、猫、軍用犬である。いずれも人間と関係が深いが、多く愛玩されることのない動物である。以下、収録された短編を簡単に紹介しておこう。「真朱な生活」の真朱とは「まっか」と読むのだろうか、原語は ėcarlate 緋色のことであり、血の色であることは容易に想像される。一人称で語られるこの短編は動物の解体を生業とする肉屋に弟子入りしたオリヴィエという少年の目を通して、羊や犢が屠られていく様子が淡々と綴られる。生命をもった動物が肉塊へと転じる描写は例えばフランシス・ベーコンやルシアン・フロイドの絵画を連想させないでもないし、明らかにここには大戦による大量死という問題が投影されている。オリヴィエの師匠である「肉屋」は新しい法律によって屠殺が市営の施設のみによって行われることと決まり、仕事が非合法化される中で次第に狂気へと傾斜していく。オリヴィエという語り手を得たためにかろうじて個別化されていた屠殺される動物たちが「市営の施設」で処理されることは何を意味するか。ここにもたやすく戦争の影を認めることができよう。表題作である「けものたち」に登場するけものとはライオンや虎、熊といった猛獣であるが、彼らは本来「クローネ・サーカス団」に飼われていた動物たちだ。戦争のため巡業から追われた彼らの傍らには捕虜とされた一団の兵士たちが飢餓の状態で留め置かれている。彼らはサーカスの番人であるエルンストが動物たちに肉片を与えるのを眺める。飢えた捕虜たちは葉巻と引き換えに動物に与える肉片を手に入れ、穴倉から馬鈴薯を盗み出す。盗みが発覚して捕虜の二人が銃殺され、捕虜たちは彼らの死体と動物用の肉片の交換を申し出る。まことに地獄のような状況を描いた後、遠くで聞こえた轟音に「ロシア軍の大砲だった。ドイツ軍の前線が突破されたのだった」という説明を加えてこの短編は終わる。続く「ガストン」はこの短編集の中では珍しくユーモアのある一篇といえよう。市の衛生課に勤務するジョストという男に焦点化しながら、下水道や地下室で鼠の駆除に明け暮れる男たちと鼠との闘争が描かれる。毒餌や罠をかいくぐり、鼠たちは出没を繰り返す。ガストンとはその中の一匹、巨大で背中に黒い汚点のある鼠につけられた名前であるが、ガストンが一匹から二匹、八匹と増え始めるにいたって、物語は一種の不条理劇の様相を呈する。終わりのない鼠との闘争とは何の暗喩であろうか。「猫」という短編はアパルトマンの一室を借りて引っ越そうとする夫婦とその部屋に居着いた猫との少々不気味な物語。最後の「彼誰時(かわたれどき)」は原題を Entre chiens et loups という。文字通り彼誰、黄昏という昼と夜との境界を指し示す慣用句であるが、chien が犬、loup が狼を意味することを知るならば、タイトルがはらむ二重性も理解できよう。それというのも、この短編のテーマは狼のように獰猛な軍用犬と人との関係なのであるから。主人公は戦場における「人間攻撃」の実例として、軍用犬が人形(マヌカン)と呼ばれる防御具を装着した兵士たちに襲いかかる様子を見学し、フランツというマヌカンの一人と知り合う。ポーランド人であり、軍用犬を調教する隊長からは共産主義者とみなされているフランツは自分と犬たちとの敵対と隷属について主人公に語り、演習の場では思いがけない行動をとる。「馬」と同様にここでも戦場における人間と動物の関係が語られるが「人間攻撃」という言葉からも予想されるとおり、それは協調や親密の対極にある。この短編の最後に記された謎めいた次の言葉はこの短編集の主題を示しているように私は感じた。やや長いがそのまま引用する。

獣は、いつ何時変わるか判らない。我々は境目にいるのだ。狂気の馬もいれば、精神錯乱の羊もいる、学者ねずみもいれば、豪勇無比の熊もいるが、これらは、我々人間に動物地獄を開いてみせる第二義的様相のようなものであり、我々はそこに、友愛の驚愕を感じつつも、自分自身の顔が、まるで爪の生えた鏡にでも映ったように、苦悩に歪んでいるのを見出すのである。

 「死者の時」にも戦争の影が色濃い。「死んでしまったからといって、死者たちはそう簡単に時の流れから解放されはしない」という一文で始まるこの小説において一人称の語り手、僕は墓堀りの仕事に従事している、場所はポーランドのブロドゥノという土地にある俘虜収容所。フランス人の戦争俘虜である主人公は、ロシア人俘虜たちとともにドイツ軍の俘虜収容所に収容されている。ここにはガスカールの現実の体験が反映されているというが、ここに登場するのは捕虜とドイツ兵だけではない。その土地に居住するポーランド人、そして何よりもユダヤ人たちの命運がこの小説の主題となる。広い区画に墓地を割り当てられ、僕たちは収容所内で死者が発生するたびに規則正しく穴を掘って棺を埋めていく。兵士と俘虜の関係は単純ではない。例えばエルンストという男はドイツ人兵士であるが、自分が牧師であることを告げ、主人公と個人的に親密な関係を築く。戦争の拡大とともに収容所内の衛生状況は悪化し、埋葬すべき死者の数は日ごとに増えていく。この状況に対してエルンストは「恐ろしい」と繰り返すが、これが「闇の奥」でクルツが最後に口にした言葉と同じであったことは偶然の暗合であろうか。先にも述べたとおり、収容所の周囲にはユダヤ人も居住している。収容所という言葉から私たちはユダヤ人の強制収容所を連想しがちだが、この小説で主人公が収容されているのは戦争捕虜のための俘虜収容所であり、劣悪な待遇の結果として死ぬことはあっても殺されることはない。これに対して収容所の外で暮らすユダヤ人たちはどうか。俘虜たちとユダヤ人の関係も決して悪くはない。主人公はエルンストとともに雑用に使われているリディというユダヤ人の娘やルボヴィチという青年と知り合うが、彼らは明らかに脅えている。ある日、墓を掘っていた主人公たちはそこに埋められていた多くの死体を発見する。それはパルチザンとユダヤ人たちの死体であった。すでにユダヤ人の大量虐殺は開始されていたのだ。そして列車が到来する。ユダヤ人たちを絶滅収容所に輸送する貨物列車は俘虜収容所の傍らを通り過ぎる。それは無数の人を閉じ込めた貨物列車、悲鳴と泣き声に満たされ、死んだ子どもたちを車両の上に乗せて爆走する死の列車だ。鉄道を輸送手段としたユダヤ人問題の最終解決、絶滅政策が緒に就いたのである。最初ユダヤ人たちは遠く離れた土地から送られてきた。しかしまもなく俘虜収容所の近隣にいたユダヤ人たち、主人公が時に語りあったユダヤ人たちも列車に詰め込まれることとなる。この小説は俘虜収容所の虜囚たち、ドイツの兵士たち、ポーランド人とユダヤ系の住民たちの運命の交錯を正確に描写している。等しく極限的な状況にありながら、立場を違える捕虜たちとユダヤ人たち、傍観者としてふるまうポーランドの住民たち。エルンストはユダヤ人の娘との交流を理由に懲罰隊へと送られ、主人公たちが掘った墓穴に隠れて逃亡を続けていたルボヴィチも最後はドイツ兵によって銃殺されたことが暗示される。この小説の記述はクロード・ランズマンの「ショアー」やこのブログで論じた「サウルの息子」といった映像的記憶を強く喚起する。

 短編集と短編、いずれも戦争という極限的状況を背景とした人の生が描かれている。先に引いた「我々は境目にいるのだ」という言葉は重い。「けものたち」というタイトルが暗示するとおり、それは人と獣の境目でもあるが、人における人と獣の境目でもあろう。私たちは二度目の世界大戦の中で人が獣となる状況に何度も出会った。「死者の時」におけるユダヤ人の輸送と虐殺はその典型的な例であるが、私たちの中には常にそのような獣性が秘められているのではないだろうか。あるいは別の問いも可能だ。むごく扱わる軍馬、屠殺場の羊や犢、駆除される鼠、これらと私たちはどこが違うのか。俘虜収容所の中で理不尽な暴力を受ける捕虜たち、殺されることだけが目的の場所へ有蓋貨車に詰め込まれて運ばれる集団、民族を単位として粛清される人々、ここにも獣と人との照応が認められる。本書を構成する短編は別々に発表されたが、ガリマール社から刊行するにあたっては最初から「けものたち・死者の時」というカップリングによって発行されたらしい。短編集「けものたち」と短編「死者の時」は一冊の書物としてまとめられることによって互いを指し示し、作家の意図が明確となる。人の獣性、獣のごとく扱われる人々といった主題は文学の中にいくつもの先例があるし、後続する例もある。しかしここで語られる物語は第二次世界大戦を背景とする時、当時の読者たちの現実に直接つながる印象があったことだろう。先に私はベーコンとフロイドを引いたが、フランスの戦後美術に目を向ければフォートリエの「人質」、ヴォルスの一連の絵画もまたこの延長にある。あるいはここで暗示された登場人物のメンタリティーは実存主義思想と親和している。「死者の時」におけるルボヴィチの挿話はサルトルやカミュの戯曲や小説を想起させる。

 最後に私は本書の日本における受容について論じておきたい。渡辺一夫、佐藤朔、二宮敬という日本におけるフランス文学の泰斗たちによって共訳された本書の訳文はきわめて格調が高い。原書は1955年に岩波書店で刊行され、私は写真に示した2007年の岩波文庫版で読んだ。半世紀以上前に翻訳されたこともあり、みごとな日本語に置き替えられているとはいえ、今日であればもう少しこなれた訳文も可能ではないかとも感じた。それはさておき、本書が当時の文学者たちに与えた影響を想像することは困難ではない。戦後日本文学における「けものたち」とは何か。直ちに一人の作家の処女作が浮かべ上がるだろう。いうまでもない、大江健三郎が1957年に東京大学新聞に発表した「奇妙な仕事」である。実験用に準備された大量の犬を撲殺するというアルバイトを請け負った学生の当惑を描いた短編において、最後に記された「全ての犬が吠えはじめた。犬の声は夕暮れた空へひしめきあいながらのぼって行った。これから二時間のあいだ、犬は吠えつづけるはずだった」という一文はガスカールのこの小説の強い影響をうかがわせる。ガスカールはひたすら墓穴を掘る俘虜を小説の中で描いたが、死体処理室のプールの中で浮沈を繰り返す死体の情景が描写されたのが同じ大江の初期の傑作「死者の奢り」である。敗戦を少年時代に迎えた大江は大戦の直接的な経験がなかったため、「死者」を戦争のそれとして描くことができなかったのかもしれない。しかし大江が影響を受けたであろう実存主義との関係、さらに大江が師事した渡辺一夫がこの小説の翻訳者であったことは初期の大江の作品の決定的な背景をなしているだろう。さらに言えば、大江より10歳年上で、勤皇青年として終戦を迎えた井上光晴は敗戦の年の佐世保を舞台に天皇、特攻、差別などの問題を重層的に描いた小説を1960年に発表しているが、そのタイトルとして井上は同じ「死者の時」を選んでいる。戦争という「死者の時」を文学に昇華させようとする試みは日本でも続けられ、いくつかの成果を生んだことを最後に付言しておきたい。


by gravity97 | 2020-08-06 10:34 | 海外文学 | Comments(0)