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Living Well Is the Best Revenge

阿部和重『オーガ(ニ)ズム』

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 阿部和重の小説を取り上げるのは『ピストルズ』以来二度目となる。「神町サーガ」あるいは「神町トリロジー」と呼ばれる三部作の掉尾を飾る本書は1600枚、三部作中最長の超大作である。神町(「じんまち」と読むらしい)は山形県東根市に実在する地名であり、阿部の生地である。本書は単独でも十分に楽しめるが、『シンセミア』『ピストルズ』につながる内容であり、とりわけ『ピストルズ』と深い関係がある。三部作を合わせると4400枚という量であるから、前日譚を読むのが面倒であれば、私のレヴューに目を通して『ピストルズ』の内容を頭に入れてから本書に向かってもよいかもしれない。三部作に共通するのはサーガの名のとおり、いずれも地方の典型的なサバーブ、神町を舞台にしていることである。しかし神話的な暴力や差別が横行するフォークナーのヨクナパトーファ、中上健次の紀州といった荒ぶるトポスに比べて、神町はなんとも薄っぺらだ。そこでは盗撮ややくざの暴行といったけちくさい悪事しか発生しない。一方でこの三部作に共通するのは一種の陰謀史観とオカルティズムだ。『シンセミア』においては「パンの田宮」というパン屋の家系、『ピストルズ』においては菖蒲一族というヒーリングに特殊な能力を発揮する一族が登場する。彼らはいずれもこの町の歴史と関わる陰謀を裏で操り、一種のカタストロフを引き起こすこととなる。しかもこの陰謀たるや進駐軍やCIAといったアメリカの軍や諜報機関が深く関わる荒唐無稽な内容であり、さらにはUFOや人の意識を操る術といった怪しげなエピソードが次々に導入される。本書との関係において私があらためて注意を喚起しておきたいのは、いずれの長編においてもアメリカの影が濃厚に認められた点だ。「アメリカの影」とは戦後の高度成長期の文学を論じた加藤典洋の批評のタイトルであった。以前にもこのブログで私は白井聡の『永続敗戦論』に触れて敗戦後、日本がアメリカに対する属国性を内面化してきたことを検証した。初めに結論を述べるならば、私はこの三部作こそがこのような内面化を初めて明確に言語化した画期的な作品であると考える。ことに本作品においてこの点は明瞭だ。

 三部作の共通性はほかにも認められる。例えばタイトルである。前回のレヴューで私は「シンセミア」が sin semilla 「種のない」と sinsemilla 高純度のマリファナの通称である「シンセミラ」の二重の意味をもち、「ピストルズ」も通常の片仮名表記から私たちが連想する拳銃という意味ではなく、pistils 花の雌しべという意味であり、明らかにダブルミーニングが想定されていることを指摘した。今回のタイトルにいたっては「オーガ(ニ)ズム」という表記自体がオーガズムとオーガニズム、性的恍惚と有機体という二つの意味を宿している。これらを並べてみるならば、種子、雌しべ、性的恍惚といった生殖と関わる主題が暗示されており、同時にそこには生命、あえていえば植物性が含意されているといってもよかろう。あるいは「シンセミラ」とは受精できないように加工された植物から採取された高純度のマリファナであることを想起する時、オーガズムという言葉との関連も明らかである。これら一連の主題は「ピストルズ」に登場する菖蒲一族と深く関わっている。郷土史から新聞記事、インターネット上の情報にいたる実在する情報と虚構を交える手法も三部作に共通している。思い返すならば「シンセミア」の冒頭はアメリカで豊作となった小麦の余剰分を日本の学校給食に振り向けるために考案されたキッチン・カーなるバス事業についてのNHKの映像記録についての記述から始められた。実に奇怪な冒頭であったが、三部作を読み終えるとその意味が得心される一方で、1999年に連載が開始された時点でこの三部作の主題、はっきり書いてしまおう、「アメリカ」の内面化という主題が構想されていた点に驚かざるを得ない。そして本書も実に奇妙な引用とエピソードから始められる。すなわち第44代アメリカ大統領バラク・オバマの自伝と、オバマが6歳の時に鎌倉大仏を見学したというエピソードである。読み進めるならば、この挿話も小説の中で重要な意味をもつことが理解されるが、事実に基づいたテクストを参照した後、物語はいきなり疾走を始める。すなわち小説家、阿部和重のマンションをニューズウィークの編集者を騙った、実はCIAのケースオフィサー、ラリー・タイテルバウムが腹部に傷を負って血まみれで転がり込んで来るのである。直ちに語り手の問題が浮かび上がる。『ピストルズ』について論じた際に、かなり錯綜した語りの問題について分析した。『オーガ(ニ)ズム』の語りは原則として『シンセミア』同様に超越的な位置、いわゆる神の視点が採用され、登場人物は三人称によって記述される。しかし登場人物として著者である「阿部和重」が登場することによって語りは微妙な揺れを示す。ここに登場する阿部は作家自身なのか。小説中で阿部は「テロリズム、インターネット、ロリコンといった現代的なトピックを散りばめつつ、物語の形式性を強く意識した作品を多数発表している作家」であることが繰り返し説明される。さらに作中にはほとんど登場しないが、阿部の妻として神町で映画のロケに立ち会っている川上についての言及がある。川上とは実生活における阿部のパートナー、作家の川上未映子のことであろうか。(ただし作中でこの人物は一度もフルネームで呼ばれることはなく常に「川上」と表記されるという「テクスト的な現実」が存在する。おそらくはここには蓮實重彦の『「ボヴァリー夫人」論』が意識されており、このような超絶的な本歌取りに私は思わず微笑するのである)オバマ前大統領の自伝の引用は私たちを唖然とさせるが、世界的セレブレリティを登場させる手法には前例があり、「クエーサーと十三番目の柱」はパパラッチから逃走中に事故死を遂げたダイアナ妃のエピソードとともに物語が始まっていたことも想起される。現実と虚構を混在させる手法は阿部が得意とするところであるが、この小説においてはさらに現実の阿部和重とその家族が投入される訳だ。物語自体は主人公を阿部と呼ぶ全能の話者によって語られるが、内面について語られる人物は阿部しかおらず、しばしば阿部の目を通して他者が記述されるから、話者としては全能の話者と阿部が二重化されているといえよう。まことに「物語の形式性を強く意識した」阿部らしい錯綜した叙述である。

 続いて小説の内容に目を向けよう。かなり詳しく記述するが、「物語の形式性を強く意識した作品」であるから、ストーリを知っても十分に楽しめるはずだ。先に述べたとおり、単身で三歳の息子の世話をしている阿部和重のもとにCIAのケースオフィサーが血まみれで転がり込むという突拍子もない幕開けに続いて、ノンストップで物語が展開される。『ピストルズ』を評した際に私は阿部の小説に特有の疾走感が欠けていると難じたが、『オーガ(ニ)ズム』は逆に全編これ疾走に次ぐ疾走でリーダビリティーに富む。傷を負ったケースオフィサー、ラリーはなぜ阿部に保護を求めてきたのか。この事情を知るためにはほかの小説について知っておいた方がよいかもしれない。すなわちラリーは『ピストルズ』に登場した菖蒲一族を監視するスタッフの一人であったが、任務を遂行中に爆発装置のトラップによって重傷を負う。CIA内部にはテロリストと内通している者がいるらしく、今やスタッフたちも疑心暗鬼の状態にある。彼らが懸念するのは菖蒲一族の関係者によって「スーツケース型核爆弾」が日本に持ち込まれ、テロに利用されることである。唐突に登場したかにみえる「スーツケース型核爆弾」とは『ミステリアスセッティング』の重要な小道具であり、この小説は一人の少女の手によってそれが国会議事堂前駅に仕掛けられた場面で終わった。したがって本書はその後日譚でもある。すなわち核爆弾の爆発によって発生した「永田町直下地震」によって国会議事堂を中心とした近隣の土地一帯が崩落し、この事件を契機として東京からの遷都が図られ、神町が新しい首都として選ばれることとなる。このあたりは相当に強引な展開で説明も十分ではないが、「形式性を強く意識した作品」であるから許されるという訳であろうか。神町への遷都によって、2014年に来日したバラク・オバマは東京のみならず、神町の新しい国会議事堂も訪問することとなるのだが、神町に待ち受けるのが「スーツケース型核爆弾」を入手した可能性のある菖蒲一族であるから、大統領を標的とした核攻撃が仕掛けられる可能性が生じ、ラリーを含むCIAの日本支部が浮足立つ訳である。オバマとCIAはともかく阿部にとっては、映画でいえば「北北西に進路をとれ」や「フランティック」のような、いわゆる巻き込まれ型という物語類型の典型であるが、ラリーの闖入には理由があった。なぜならCIAの秘密ファイルの中には阿部が神町出身であり、2012年に「永田町直下地震」をヒントにした小説『ミステリアスセッティング』を発表したことが記されていたからだ。つまりここでも虚構と小説内の現実の審級が入り乱れている。ラリーと阿部は息子の映記(妻とは逆に常にファーストネームで表記される)を同伴して川上が滞在している神町に向かう。物語は次第にサーガの原点、神町に収斂し、菖蒲一族が経営する菖蒲リゾートなるヒーリング施設を舞台として逃走と追跡、探索と尋問がテンポよく繰り広げられる。オバマの山形空港への到着を控えて、阿部とラリーらCIAスタッフは陰謀の核心に迫るが、そこに現れたのは「シンセミア」において登場した一人の人物であり、かくして完成に30年を費やした神町サーガは一つのクライマックスを迎えることとなる。

だらだらと続く会話、意味もなく引用されるおびただしい商品名、同じ比喩の繰り返し、本書においても阿部の独特の文体は健在だ。一言で言えば、それらは物語を滑らかに読み続けるうえでの異物であり、物語が何者かによって語られていることを絶えず想起させる。それは「物語の形式性を強く意識する」ことなのであるが、果たしてこの語り手は信頼に足るか。この点においてマリファナや幻覚剤、薬物による幻覚がこの三部作に一貫する主題であることの意味が明らかになる。シンセミアあるいはオーガズムがもたらすトリップ感は現実と幻覚のあわいを突き崩し、『オーガ(ニ)ズム』の後半では阿部の幻覚と思しき現実にはありえない情景が断続的に挿入される。しかし幻覚は地の文に接続して挿入され、そこでも阿部は三人称で呼ばれるため、それが阿部の幻覚であるのか、そもそもこの小説自体が何者かによって幻視されたヴィジョンであるのか次第に判然としなくなるのだ。小説全体が別の枠組の中に挿入されるというアクロバティックな形式に私たちはこの小説の中で出会う。つまり本書の中で『ピストルズ』という作品が暴露ウイルスによって神町の書店主の個人パソコンから流出したインタビューの記録であることが明らかにされるのであるが、それは『ピストルズ』という小説の内部では決して認識しえない構造、小説の外部に出て初めて望見できる小説の形式的な枠組であろう。この時、『オーガ(ニ)ズム』もまた同様の準拠すべき構造をもつのではないかという疑いが生じる。

 この点に関して最後に私の大胆な仮説を披歴しておこう。最初に述べたとおり、私はこの三部作の隠された主題が戦後日本とアメリカの関係、日本がアメリカに対する属国性を内面化していく過程であると述べた。この点についてはかかる意識とともに三部作を通読すれば直ちに明らかな点であろうと考えるからくどくどと説明はしない。何よりもこの小説の末尾、72歳になった阿部がラリーとの再会に向かう場面を読めば決定的なエピソードが記されている。私が論じたい点はその先だ。それでは阿部にとってアメリカに対する属国性とは何か。私は端的に映画ではないかと考えるのだ。映画学校出身で映写技師を務めていた阿部の経歴を考慮する時、当たり前の結論と思えるかもしれないが、ことに本書においては映画的記憶が横溢している。いちいち挙げる必要もなかろう。川上の助手の山下さとえは自分たちの撮影現場を「地獄の黙示録」に例えて「ワルキューレがんがんに鳴っちゃってるんすよ」と愚痴る。バラク・オバマはライトサーバーを手にオサマ・ビン・ラディンと対峙する。さらにあと一つ、象徴的な場面を紹介しておこう。オバマが神町を訪れる当日、阿部は山形空港で「見わたすかぎり、血塗られたみたいにまっ赤に染まった大空」を見上げる。この情景から連想される映画的記憶は文中に示された「地球最後の日」ではなかろう。おそらくそこに想定されているのは別の箇所で引用されているタランティーノの「キル・ビル」における旅客機の窓の外の風景のはずだ。そしてこのシーンは実は1968年に松竹が制作した「吸血ゴケミドロ」へタランティーノが捧げたオマージュであることまで思いをめぐらすならば、ここではアメリカと日本の間で乱反射するようなきわめて錯綜した引用がなされているのだ。さらに思い起こそう。そもそも阿部のデビュー作自体が「アメリカの夜」と題されて、ブルース・リーへの言及によって始まっていたではないか。戦後日本の歴史がアメリカへの属国性を内面化する過程であったとするならば、阿部の小説もまたアメリカ映画を日本語による言語芸術の中に内面化する過程と考えることはできないだろうか。この小説は次のパッセージで閉じられる。なんとも暗示的な一文ではないか。

窓外を眺めていると、かつてハリウッドサインと呼ばれていた看板が遠くに見えてくる。今ではHOLLYWOOD L がひとつ抜けてHOLYWOOD になってしまっているが、それが誰の仕わざなのかはわかるようでわからない。


by gravity97 | 2019-10-28 20:13 | 日本文学 | Comments(0)