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Living Well Is the Best Revenge

橋本健二『新・日本の階級社会』

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 なんとも暗鬱な研究を読んだ。私たちを取り巻く社会は次第に息苦しく、とりわけ最近は日を追って息苦しくなっているように感じられる。本書は階級という概念に基づいてこのような閉塞を説得的に論じている。グラフや図表が頻繁に引用される文章は苦手であるし、もとより私は社会学や統計学に関する学知を欠いている。したがって専門的な立場から本書の議論の当否について論じることはできないが、本書を読み終えた時点でなにごとかを語らなければならないというやむにやまれぬ思いとともにこのレヴューを記す。本書の主張は明確だ。私たちは今日広く流布する「格差社会」といった言葉ではもはやとらえることのできない次元、端的に日本的な階級社会の成立に立ち会っている。そしてこのような階級は今後固定化される恐れが高い。平等な社会を求めて今こそ私たちは何らかのアクションを起こすべき時機に直面している。本書の冒頭で語られるとおり、「格差社会」が流行語として流行語大賞にノミネートされたのは2006年のことであるが、橋本によればその濫觴は198811月の朝日新聞の社説に求められるという。それ以前には何があったか。「一億総中流」時代である。おそらくは1980年前後に普及したこの言葉もこの国の同質性を暗示するようで当時は気持ち悪く感じたが、今となればそれは戦後日本が一番幸せであった時代ではなかったか。橋本は次のように定義する。

 

 階級とは、収入や生活程度、そして生活の仕方や意識などの違いによってわけ隔てられた、いくつかの種類の人々の集まりのことをいう。そして各階級の間の違い大きく、その違いが大きな意味をもつような社会のことを階級社会という。今日の日本社会は、明らかに階級社会としての性格を強めている。しかもその構造は、階級社会についての従来の理論や学説が想定してきたものとは異なっている。

  確かに私たちはヨーロッパが階級社会であることをおぼろげに認識している。これに対して、皇族という特殊な一族を除いて、貴族も華族ももはや「階級」としては存在せず、誰に対しても機会が均等に与えられているかに感じられる日本の社会はむしろアメリカに近いフラットな社会であると信じられてきた。アメリカン・ドリームというには気恥ずかしいが、戦後日本の高度成長期における多くのエピソードはそれなりに努力すれば報われるという健全な常識を支えていた。しかしもはやこのような常識は失効してしまった。橋本はいくつかの社会調査データ、中でも1955年より10年ごとに実施されている「社会階層と社会移動全国調査」、通称SSM調査のデータをもとに日本の階級構造や階級意識を分析する。この調査では自分がどの階層に帰属しているかを、上、中の上、中の中、中の下、下という五つの選択肢の中から選ぶことになっているため、結果的に中の項目を選ぶ人々が全体の9割ほどを占めることとなる。一見「一億総中流」状態にはさほど変化がないように思われる。しかし橋本はいくつかの統計的手法を使用して、そのような帰属意識と実際に当事者がどの階層に位置するかの相関を分析した。かつて両者はさほど有意な関係がみられず、富裕層が比較的下の階層、逆に貧困層が比較的上の階層に帰属すると考えることがあった。しかし今世紀に入るや私たちが自分たちの帰属する階層を正確に把握し、かつて中流と呼ばれた広い層が分解し始めたことを橋本は指摘する。このような意識のもと、格差は拡大し、自らの社会的位置が自己責任によってもたらされたと考える人々が増えているというという。確かにこのような指摘は私たちの社会認識に対応している。

 ついで橋本は今日の日本の階級構造を検討する。このうえで橋本が最初に依拠するのはブルジョワジーすなわち資本家層、自営業や零細企業経営者から成る小ブルジョワジーを意味する旧中間層、監督者や技術者といった労働者に対して指導的な位置にある新中間層、そして労働者層という四層の分類である。このような構造は20世紀初頭、近代産業社会後期の開始期に顕著であるという。ただしこのうち旧中間層は決してブルジョワジーの下位にある訳でも新中間層の上位にいる訳でもない。このため資本家と呼ぶほどの資産を有さない自営業者や家族従業者をイメージすればわかりやすいこの層を橋本はほかの三つの層から切り離す。具体的にイメージしていただくために、それぞれを構成する仕事を示してみよう。ブルジョワジー、資本家階級には経営者、役員が属する。新中間層としては被雇用の管理職、専門職、上級事務職がいる。労働者層としては単純事務職、販売職、サービス職その他のマニュアル労働者が挙げられる。職種が示されると、自分がどの階層に属すかは比較的容易に推定できよう。資本家層、旧中間層、新中間層、労働者層という四つの階層を区別すると、日本の産業構造の変化が容易に理解できる。橋本は1950年以後の国勢調査に基づいてその推移を論じる。つまりかつては全階層の半分近くを占めた農民層は時代を追って劇的に減少し、そして60年代初めには旧中間層と労働者層の数が逆転したことを一つのメルクマールとして、日本において新中間層と労働者層の増加によって特徴づけられる成熟した資本主義社会が成立したとみなす。しかし近年、この四つの階層に一つの分裂が兆しつつある。すなわち労働者階層の最下層に非正規労働者によって形成される新しい階層、「アンダークラス」が出現したのである。橋本は次のように記す。「これまでの労働者階級は、資本主義社会の底辺に位置する階級だったとはいえ、正社員としての安定した地位をもち、製造業を中心に比較的安定した雇用を確保してきた。これに対して激増している非正規労働者は、雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。しかも結婚して家族を形成すること難しいなど、従来ある労働者階級とも異質な、ひとつの下層階級を構成しはじめているようである。労働者階級が資本主義社会の最下層の階級だったとするならば、非正規労働者は『階級以下』の存在、つまり『アンダークラス』と呼ぶのがふさわしいだろう。労働者階級の分断と「アンダークラス」の出現、これが本書の要諦である。

 続く第三章では今挙げた四つの層にさらに労働者層下部の「アンダークラス」を加えた五つの階級のプロフィールが粗描される。ひとまずここでは本書の主題である「アンダークラス」について確認しておこう。アンダークラスに分類されるパート主婦を除く非正規労働者は今や929万人で旧中間層の806万人を超え、五つの階層の中で唯一激増を続けている階級であるという。女性の比率も43.4パーセントと五つの階層の中で一番高い。平均労働時間は実質上フルタイム労働と変わらない人が過半数であるにもかかわらず、平均個人年収は186万円と極端に低い。当然ながら貧困率も高く、とりわけ女性に高い。何よりも際立った特徴としては男性で配偶者のある人が少なく、女性で離死別者が多い点であるという。男性では未婚者が66.4パーセントに及ぶ。確かにこの年収であれば、家庭をもつことは難しいだろう。女性が多いと先に述べたが、未婚のままアンダークラスとして生活してきた女性がいる一方、配偶者との離死別を経てアンダークラスへと転落する女性も多い。橋本によれば階級間の格差は収入にとどまらず、男性の場合は体格にも及ぶ。身長と体重は資本家階級とアンダークラスでは有意な差が認められる。健康状態、特に抑うつ傾向についてもアンダークラスのみが突出している。橋本はハリー・プレイヴァマンという社会学者が説く構想と労働という労働の二類型のうち、アンダークラスが後者のみに従事させられている状況が背景にあるとみなす。マルクスが疎外と呼んだ状況である。さらにアンダークラスは社会資本や文化資本といった人的、文化的交流においても圧倒的な劣位にある。五つの階級はそれぞれにそれなりのプロフィールをもち、消長があるが、現代の日本社会の特色として明らかになるのは資本家階級から正規労働者までの四つの階級とアンダークラスの間の極端な異質性である。そこには生活がそれなりに安定して家庭を築くことのできる階級とそれができない階級の間の絶対的な隔たりが暗示されている。今やアンダークラスは就業人口の14.9パーセントを占めるから可視化された存在である。長くなるが、本書の第三章の末尾をそのまま抜き書きする。日本型階級社会の闇を正確に記述しているからだ。

 だとすると、いまや資本者階級から正規労働者までが、お互いの利害の対立と格差は保ちながらも、一体となってアンダークラスの上に立ち、アンダークラスを支配・抑圧しているとはいえないだろうか。これは、いわば四対一の階級構造である。

 アンダークラスは社会の底辺で、低賃金の単純労働に従事し、他の多くの人々の生活を支えている。長時間営業の外食産業やコンビニエンスストア、安価で良質の日用品が手に入るディスカウントショップ、いつでも欲しいもの自宅まで届けられる流通機構、いつも美しく快適なオフィスビルやショッピングモールなど、現代社会の利便性、快適さの多くが、アンダークラスの低賃金労働によって可能になっている。しかし彼ら・彼女らは、健康状態に不安があり、とくに精神的な問題を抱えやすく、将来の見通しもない。しかもソーシャル・キャピタルの蓄積が乏しく、無防備な状態に置かれている。他の四階級との間の決定的な格差の下で、苦しみつづけているのがアンダークラスである。この事実は重く受け止める必要がある。

 第四章では現代の日本社会における階級の固定化の問題が論じられる。同じデータを用いながら統計理論を駆使した分析は難解であるが、結論としては資本家階級と労働者階級については固定化の傾向がある。これに対して新中間層の出身者が新中間層となることは難しくなりつつある。新中間層は他の階層に比べて教育熱心であるという特性があり、実際にかつては大学を卒業すると新中間層としての将来が約束されていた。しかし今日このような安定性は社会に認められず、ドロップアウトした新中間層はアンダークラスへと転じることが多いはずだ。階級の固定性に関して分析が困難なのは女性たちである。女性は本来的に階級への帰属意識が弱く、さらに帰属する階級が配偶者によって著しく影響されるからだ。同じ理由によって女性と階級社会の関係を検証することは難しい。しかし先に述べたとおり、アンダークラスを構成する集団においてはことに女性の比率が高いから、アンダークラスを可視化するうえで、女性と階級の関係を検証することは必須であろう。おそらくこのような問題意識に基づいて展開される第五章「女たちの階級社会」は本書の一つの読みどころであろう。ここで橋本は本人の階級所属、夫の有無と階級所属といういくつかのパラメーターに従って女性たち17のグループに分類し、それぞれのグループのプロフィールを描く。そこから浮かび上がるのは夫が資本家階級で自身は資本家階級か専業主婦である女性を頂点に、無職もしくはアンダークラスに属する独身女性を最底辺とした多様で、男性以上に過酷な格差社会である。カテゴライズとタイポロジーは本書の特質であるが、それにしてもこれらの分類はきわめて複雑である。例えば「ダブル・インカムの女たち」とカテゴライズされたグループにおいても、本人が新中間層と労働者層のいずれに属するかによってタイプが異なる。橋本はそれぞれのグループについて、平均的年収や家族形態、社会意識などの相違を分析する。階層の分析と比べるならば、カテゴリーが多すぎるために逆に比較することが難しい思いもするが、多くの女性読者は本書を読みながら自分がどのカテゴリーに属するかを考えることであろう。さらに女性の場合、興味深い点としては結婚や配偶者との離死別といった出来事を介して、列挙されたカテゴリーの中を移動することが多い。橋本はすでに第四章において、階級の固定化の指標として世代間移動(端的に言うならば父親が属した階級からの移動)と人生のある時点における階級間の移動としての世代内移動を区別しているが、女性においては世代内移動が多いといってもよかろう。橋本は最初「独身貴族たち」もしくは「シングルライフの女たち」というカテゴリーから出発し、どの階級のパートナーと結婚するか、仕事を続けるか専業主婦となるかパートタイムで働くか、という二段階の選択によって様々な階級に振り分けられた後、夫の死別とともに「老いに直面する女たち」というカテゴリーを生きることとなる典型的な女性像を提示する。説得性のある議論であるが、私は女性に限らず、もう一つのパラメーターが考慮されるべきではないかと思った。それは子の有無という問題だ。先の女性たちのカテゴライズの中でアンダークラスに分類される女性が多く親と同居している点が指摘されている。親と子という紐帯は夫婦というそれ以上に階級の規定に深く関わっているように感じるのだが、この問題は本書では掘り下げられることがないのはなぜであろうか。さらにもう一点指摘するならば、本書で十分に検証されていないのは東京と地方というパラメーターである。無意味なオリンピックを控えて富が集中する一人勝ちの東京と限界まで疲弊した地方の対照もまた格差社会が露出する局面ではないかと考えるからだ。

 「格差をめぐる対立の構造」と題された第六章では「排外主義」「自己責任論」「軍備増強」といった問題をめぐって階級と社会意識の関係が説かれる。ただしここではさほど意外な結論が導かれることはない。資本家階級が保守的で自民党支持者が多いこと、アンダークラスに所得再配分を臨む率が高いこと、さらには若年層が保守化的傾向にあること、これらはある程度統計学的に確認される事実であるが、私たちの日常的感覚と隔たってはいない。この章の記述において注目すべきは所得再配分と排外主義の相関に関する分析だ。資本家階級と新中間層においては所得再配分を支持する人は排外主義的ではないという有意な傾向が認められる。しかしアンダークラスにおいてのみ、所得再配分すなわち格差是正の要求が排外主義と強く結びついているのである。これはきわめて危険な兆候とはいえないか。つまり本来ならば同じ弱者との連帯によって所得再配分による格差の是正を求めるべき人々が、外国人の流入を警戒し、韓国や中国に対する憎悪をむき出しにしているのだ。2017年に小池百合子らが結成した「希望の党」が候補者に対して公認の条件として、集団的自衛権の行使を可能にした安保法制の受け入れと外国人への参政権付与への反対をセットで求めた点に橋本は注意を促す。軍備重視と排外主義を要とする彼らの主張はアンダークラスの意識とも親和しているからだ。アンダークラスの特性についてさらに橋本は次のようにも記す。「彼ら・彼女らはソーシャル・キャピタルの蓄積に欠けており、相互に連帯するような機会をもたない。身体的にも、また精神的似も問題を抱えていることが少なくない。そして何よりも格差に対する不満と格差縮小の要求が、平和への要求と結びつかず、排外主義と結びつきやすくなっている」このような状況には既視感がある。それはワイマール時代のドイツであり、そこから何が生まれたかを私たちは知っている。橋本もまたアンダークラスの内部にファシズムの萌芽が兆しつつあることを指摘する。本書では十分に論じられていないが、現在アンダークラスにおいて進行するのは、外国人労働者の流入である。先に挙げた、「長時間営業の外食産業やコンビニエンスストアでの接客、美しく快適なオフィスビルやショッピングモールの下支え」、アンダークラスの典型的職場は今日多くの外国人労働者で占められている。アンダークラスが排外主義と結びつくならば、そのような職場がとりわけ外国人労働者にとって辛いものであろうし、かつて労働者階級がアンダークラスの出現によって分断されたように、この先、アンダークラスも国籍によってさらに分断されていく可能性が生じるように感じられる。

 「より平等な社会を」と題された最終章においては、格差を縮小し、文字通り平等な社会を目指すためのいくつかの処方箋が示される。まず橋本は所得再配分をめぐる認識が階層間で二分される状況を指摘し、格差の拡大を認識し、自己責任論を放棄するならば、所得再配分を肯定する一定の階層が存在することを統計的に説明する。次いで格差の拡大が単に底辺に位置するアンダークラスの困窮として問題化されるのではなく、社会全体を弱体化させる点が論じられ、自己責任論の変質が説かれる。当初は「金融ビッグバン」に伴って金融商品が多様化する中で資産運用は「自己責任」で行えという、ごく当たり前の主張として用いられ始めたこの言葉は、その後その意味が際限なく拡大され、貧困も非正規労働も当事者の「自己責任」とみなす発想として人々に内面化され、格差社会のイデオロギーとなってしまったのだ。最後に橋本は格差縮小に向けていくつかの具体的な提案をする。正規雇用と非正規雇用の均等待遇の実現、最低賃金の引き上げ、労働時間の短縮、資産税の導入、ベーシックインカムの導入といった手法はいずれも決して不可能ではないが、おそらく現政権下では実現困難であろう。「リベラル派の結集を」という最後の節において、橋本は現在盤石に感じられる自民党一強支配も、ほかに選択肢がないという消極的な理由に基づいており、排外主義と軍備重視に凝り固まった特殊な人々しか強固な支持基盤が存在しない点を指摘し、「格差社会の克服という一点で弱者とリベラル派を結集する政治勢力の形成。格差社会の克服は、したがって日本社会の未来は、ここにかかっているのである」と締めくくる。

 最初に述べたとおり、現在、私たちが感じる息苦しさの理由について、本書は一つの解答を与えてくれる。現在、私たちは政治をはじめ、すべての面で劣化したこの国が、坂を転げ落ちていくように衰退していく過程に立ち会っている訳であるが、その理由のいくつかは本書で分析されるこの四半世紀ほどの間の社会構造の変質に帰せられるかもしれない。本書の帯に「豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しく」という言葉がある。確か聖書から引かれた言葉であったと思うが、排外主義と軍備増強を叫ぶ富裕な資本家/政治家たちが力を増し、「激増する」アンダークラスが他者との連帯ではなく排除を求める時、社会は寛容を失い、著しく暴力化する。その先にあるのが戦争であることは歴史が証明するとおりだ。果たして私たちはその寸前で弱者とリベラル派の手によって格差社会を克服することができるだろうか。それともこのまま愚かな政治家と官僚、劣化したマスコミに引きずられて隣国との戦争に巻き込まれるのだろうか。


by gravity97 | 2019-09-29 14:41 | 思想・社会 | Comments(0)