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Living Well Is the Best Revenge

ドニー・アイカー『死に山』

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 休みが短いこともあり、年末年始の読書は軽め。まずは昨年話題になった『死に山』を読む。サブタイトルは「世界一不気味な遭難事故 《ディアトロフ峠事件》の真相」。表紙の裏に本書のアウトラインが示されている。全文を引用する。

1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム9名はテントから1キロ半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。三人は頭蓋骨骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射能が検出された。最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ―。地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。彼が到達した驚くべき結末とは…!

 この事件についてはすでに知っていた。この事件をテーマとしてレニー・ハーリンが2013年に制作した「ディアトロフ・インシデント」というあまり出来のよくないホラー映画を見ていたからだ。このフィルムの中では当時、ソ連が進めていた極秘の軍事実験、瞬間移動の実験に彼らが巻き込まれたという荒唐無稽の真相が暗示されていた。陰謀史観とSFが合体したような奇怪なストーリーはともかく、凄惨な死を遂げた若者たちの道行を再現しようとしたフィルムの構造自体は本書とよく似ている。しかしそれについては後で論じるとして、まずもう一度、この事件の全体を概観しておこう。
 先に引いた梗概の中にもあったとおり、事件は1959年、冷戦下のソ連で発生した。ウラル工科大学に学ぶイーゴリ・ディアトロフをリーダーとする10名のトレッカーたちは厳寒の1月末、スヴェルドロフスクから鉄道とバスを乗り継ぎ、最後はトレッキングによってウラル山脈北部のオトルテン山に向かった。このトレッキングの難易度は高かった。それというのも彼らはすでにトレッキング第2級という資格を有していたが、今回の踏破によって第3級の資格を獲得し、「スポーツ・マスター」として人を指導する資格を得ることが目的であったからだ。第3級が認可される条件は「最低300キロを踏破し、うち200キロは難度の高い地域であること、旅行期間は16日以上でそのうち8日は無人の地域、6日以上をテントで過ごすこと」であったという。このような前提を知るならば、若者たちが苛酷な自然の中に足を踏み出した理由、そして本書の中でも紹介されているとおり、その行程が多くの写真によって記録されている理由が理解される。残された写真は彼らが今挙げた条件を満たす条件の中でトレッキングを続けていたことを証明する証拠となったはずであるからだ。実際にこれらの写真と、さらに死体の検死をめぐる多くの写真が残されていなかったら、この事件はさほど世間の興味を引くことなく、単なる集団遭難事件として葬られていたかもしれない。難易度の高いコースであったとしても、ディアトロフをリーダーとする男性8名、女性2名のトレッカーたちは経験豊かで若かったから、このトレッキングは決して無謀ではなかったし、無事帰還できると信じていたはずだ。冒頭に地図がある。スヴェルドロフスク州はロシア中部、ウラル山脈に接するように位置しており、ウラル工科大学が所在する州都スヴェルドロフスク、現在のエカテリンブルクは州の南端に位置する。彼らはそこから鉄道で北上し、セロフ、イヴデルという二つの町を経由した後、1月25日の早朝、バスに乗り換えて、ヴィジャイという町に向かう。ここから彼らは無人となった木材伐採作業員の寮や地質学調査用居住地に宿泊しながら雪原へと赴いた。1月28日にリウマチで腰を痛めていたユーリ・ユーディンは一行から離脱し、残り9名のメンバーはスキーで氷結したロズヴァ川を北上し、ついでアウスピヤ川に沿って進むが、雪が深くなったためスキーでの前進が困難となる。1月31日の夜、アウスピヤ川の上流にキャンプを設営した後、翌2月1日に一時的な物資保管シェルターに不要の物資を残して、オトルテン山へ向かう。午後3時に後にリーダーの名を取ってディアトロフ峠と呼ばれることとなる場所にスキーで到着する。日没は午後4時58分。彼らはホラチャフリ山の標高1079メートルの地点にテントを設営した。事実関係がわかっているのはここまでだ。2月1日の夜に何かが起きて、メンバーの全員が死を遂げた。不審に思われる点は冒頭の引用に記されたとおり。まず極寒の場所であったにもかかわらず、多くの若者が衣服や靴を身に着けていなかったこと、数人はひどい外傷を負っており、その中の一人、胸部に打撲を受け肋骨を折っていたリュダ・ドゥビニナの死体からは「舌がなくなっていた」。さらに後の検死の過程で数名の衣服が高い濃度の放射能で汚染されていたことが判明した。一体どのような事情がこのような凄惨な死をもたらしたのか。インターネットを検索すれば直ちに明らかになるとおり、彼らの死をめぐる異様な状況は超常現象のマニアに格好の話題を提供した。UFOと宇宙人の襲撃に始まり、イエティとの遭遇、さらにはハーリンのフィルムに描かれたように秘密軍事実験の巻き添えにされたという説、先住民や脱獄囚による襲撃、放射能廃棄物による被曝。
 謎の探求をひとまず措いて、本書の構造を確認しておきたい。著者のドニー・アイカーはフロリダ生まれでカリフォルニア在住のドキュメンタリー映像作家である。彼は別の映像作品の調査の過程でたまたま知ったこの事件に魅せられて、インターネットで入手可能な情報をあらかた渉猟した後、ついに現地での調査に乗り出す。何度かの予備的な調査を経て、現地で信頼できる人脈と準備を得たうえで、2012年にアイカーは事件の現場、ディアトロフ峠へと向かった。この探索がディアトロフたちと同様に冬季に行われたことは間違いないが、なぜか本書には正確な日付がない。あるいは本書には多くの写真が収録されているが、それらは全て59年のディアトロフの遭難と関連した写真であり、2012年にアイカーが撮影したであろう写真は収録されていない。(厳密に言えば謝辞の中に2012年2月、ユーリ・ユーディンの肩を抱いたポートレートが一枚だけ掲載されている)本書の中で詳しく語られるとおり、大変な苦労とともに続けられたディアトロフらのトレッキングの追体験に関して一枚の証拠写真さえ添えられていない点は本書の信憑性に関わり、日付の欠落とともにこの種のドキュメントにとって致命的な瑕疵となりうる。しかし本書を通読するならばおそらくは同行した関係者への何らかの配慮によって意図的に場所や時期が特定されることを避けたと推測される。21世紀に入った今日においてもソ連とそれに続くロシアの体制下では語りえない事柄があることを本書は問わず語りに示しているように感じられた。それはさておき、本書がほぼ同じ時期に制作されたハーリンのフィルムと同じ説話的構造をとっていることは興味深い。ハーリンのフィルムにおいても登場人物たちはディアトロフ峠事件の真相を解明するために、再びその地に向かい、ミイラ取りがミイラになるように同じ恐怖を体験することとなった。手ぶれの多い記録映像、素人めいた映像の編集はかつて「ブレアウィッチ・プロジェクト」で用いられた疑似ドキュメンタリーの手法を踏襲しており、実際のディアトロフらの記録映像(この映像がフェイクであったかどうかは私には判断できない)との重複は、フィクションと現実の審級を混同させてそれなりの効果を上げていたように記憶する。もちろん2012年のアイカーの調査の際にはディアトロフたちを襲ったような事件は起きなかった。本書においてはディアトロフ峠再訪をクライマックスとするアイカーのロシアでの体験―最初は徒手空拳でロシアに赴き、「ディアトロフ財団」の理事長、ユーリ・クンツィエヴィッチらと個人的な親交を結び、ついにはただ一人途中で引き返したために生き延びた10人目のメンバー、ユーリ・ユーディンと面会するエピソードを含む、いくつものエピソードがほぼクロノロジカルに語られる―と、残された資料から明らかになる1959年1月23日から年2月1日の夜にいたるまでのディアトロフらのトレッキングの詳細、そして彼らが音信を絶ってから始められた捜索と遺体の発見、検死から埋葬にいたる事件の後日談の三つのフェイズの物語がシャッフルされて記述される。ホラチャフリ山(先住民のマンシ族によって「死の山」という不吉な名で呼ばれ、本書のタイトルの由来であるが、単にこの山に草木が生えないことを反映したに過ぎないという)の事件現場、通称ブーツ岩に向かう2012年のアイカーの道行きも1959年のトレッキング同様にロシアの厳しい冬に翻弄され、二つのエピソード、時を隔てた二つの雪中行は本書の中で意図的に重ねられる。難行の果て、アイカーはようやくホラチャフリ山の遭難現場へとたどりつく。このエピソードは装備や車両が圧倒的に近代化された今日でさえ「死の山」を踏破することが並大抵でないことをうかがわせる。
 本書においてはこの遭難事件と関連して多くの謎が示される。例えばディアトロフ一行を捜索中の捜索隊および近隣の住民はしばしば気象観測ロケットらしき物体の飛行や空中を移動する火球を目撃する。これらの飛行体もしくは大気現象は果たして事件と関係があったのか。一行の一人、ゲオルギーが残した最後の写真には不明瞭な光源がとらえられていた。この写真は何を撮影しようとしたものか。あるいは彼らが設営したテントには外部ではなく内部から切り裂かれた形跡があった。つまり若者たちは何かを逃れるために、テントを開ける時間さえ惜しんで、十分な衣服も着けないで酷寒の野外へ飛び出したと推定される。一体どのような切迫した状況がこのような事態をもたらしたのか。さらにはこの事件に関して当局は事態を鎮静化させようとした形跡がある。それは単に人々のパニックを抑えるためであったのか、それとも当局は何か核心的な事実を握っていたのか。これらの謎が人々の妄想を肥大化させ、半世紀後には一篇のハリウッド映画にまで結実した訳であるが、アイカーは本書の最後で一つの可能な解釈を提示する。アイカーは最初に彼が「シャーロック・ホームズの原則」と呼ぶ方法を用いて推理を重ねる。すなわち「不可能を消去していけば、どんなに突拍子もなく見えたとしても、あとに残った可能性が真実である」というものだ。この原則に従って、アイカーは選択肢を一つずつ消去する。まず先住民族であるマンシ族による襲撃という説はマンシ族のテリトリーと温和な性格からしてありえない。最も可能性の高かった雪崩という説も現地でアイカーが計測したテント設営地の傾斜角からして否定された。強風についてはどうか。全員が吹き飛ばされる可能性は低く、しかも遺体の一つが帽子をかぶっていたという事実に反する。そもそも雪崩や強風を原因とみなす発想と彼らが衣服をつけていなかった状況は整合しない。一時真剣に検討された武装集団による襲撃という可能性についても遭難場所の位置からそのような接触はありえず、さらにアイカーは遺体の外傷や舌の欠損についても事故や腐敗現象によって説明がつくと論じている。兵器もしくは放射能関係の実験の場に彼らが居合わせたという説に対してもいくつかの証言を根拠に否定され、そもそも彼らが放射能に汚染されていたという事実自体が怪しいという主張がなされる。さらにアイカーは当時のソビエト政府がなんらかの秘密を握っていたとする風評に対してもグラスノチを経過した今日、そのような証拠は存在しないと断言し、最後にエイリアン説を「可能性がないとはいえないが、それは幽霊や地の精と同様である」として否定する。アイカーの消去法はまことに面白みに欠けるが、一定の妥当性がある。結果として不可能を消去したら、後には何も残らないという状況が生じた。ここでアイカーはもう一度原則に立ち戻り、「最も可能性が高いというより、最も不可能性が低い答え」を検討する。彼によれば、それは雪崩ではないとしても何らかの自然現象であり、最終的に彼は一つの可能性に想到する。このような可能性は(雪崩という可能性がキャンプ設営地の傾斜角よって否定されたことと同様に)ホラチャフリ山の現場を訪れなければ確認できなかったから、ディアトロフたちのトレッキングを2012年に追体験することは大きな意義があった。アイカーは本書の最終章でこの仮説に基づいて2月1日の夜、ディアトロフ一行を襲った悲劇の全貌を再現してみせる。アイカーの仮説の詳細についてここでは触れない。ただしそれによってディアトロフ峠事件の全貌が解明されたかという点について私はなんとも判断しかねる。確かにエイリアンや秘密兵器実験よりは説得力のある説明かもしれない。しかしそれによってパズルのピースがすべて収まるかといえば、アイカーの結論もそれほどの説得性を備えてはいないように感じる。
 本書の読みどころの一つは資料に基づいて再現されるディアトロフたちのトレッキングの詳細だ。汽車の中ではマンドリンに合わせて歌を歌い、セロフという町では小学校の子どもたちと交流し、雪の中に残されたマンシ族の道標を解読しながら目的地へ向かって進んでいく若者たちの姿はそれだけで一篇のロード・ノヴェルである。私たちは本書を通して共産主義下のソ連における若者たちの生き生きとした営みに触れ、それゆえ彼らを襲った悲劇に関心をもつ。彼らに比べて、アイカーが訪れた現在のロシアは疲弊した印象がある。それは単に事件の資料を確認し、証人を探すアイカーの疲労と徒労を反映しているのだろうか。生き残ったユーディンはアイカーに対してスターリンを含めて共産党時代への強い郷愁を語る。本書を離れるが、私は今世紀に入って人々が暗い時代への郷愁を語り、強い指導者を求める風潮が高まっているように感じる。それは自由を与えられながらも、格差と分断が進む中で私たちが抱く閉塞感と深く関わっているだろう。スターリンの名前が挙がったところで、最後に本書ではほとんど前景化されないが、通奏低音のごとく本書に不吉な影を落としている一つの主題について触れておきたい。ディアトロフたちはトレッキングの途中でイヴデルという町を経由した。スターリン時代、イヴデルには100近いグラーク、つまり強制収容所があり、そのほとんどが政治犯の監禁と拷問のために使用されていたという。アトカーによれば今でもイヴデルの地域経済は行刑制度を中心にまわっており、死刑がなくなった現在、かつては処刑されていた囚人たちがロシアで最も辺鄙な収容キャンプで終身刑を務めているという。この地域にかつてソルジェニーツィンが「収容所群島」で描いた悪名高きグラークが多数配置されていたことに疑いの余地はない。「武装集団による襲撃」という仮説が提起された背景には、かかる体制下においてこの地域に収容所という暴力装置が稼働していたことがあるだろう。史実を繙くならば、フルシチョフによるスターリン批判は1956年のことであったから、ディアトロフ峠事件はその三年後、スターリン体制が緩みつつある微妙な時期に発生していることがわかる。先に触れたトレッカーたちの生き生きとした行状にもそれは反映されているかもしれないが、なおもスターリニズムの秘密主義は社会を覆っていたはずである。この事件が長く知られることなく、最近になって注目を浴びた理由もこのようは背景に負っているかもしれない。スターリンの時代とは人の死が単なる数字として扱われた時代であった。センセーショナルなタイトルとはうらはらに、本書は閉ざされた旧ソ連で非業の死を遂げた9人のトレッカーたちを数としてではなく、個性と魅力にあふれた若者たちの群像としてよみがえらせた点において、鎮魂と再生の書といえるだろう。
by gravity97 | 2019-01-04 20:53 | ノンフィクション | Comments(0)