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Living Well Is the Best Revenge

戸塚真弓『ワインに染まる』

戸塚真弓『ワインに染まる』_b0138838_21131780.jpg 飲酒をめぐるエッセーを読むことは楽しい。私は時折山口瞳から開高健にいたるお気に入りのエッセーを読み返し、ウイスキーから焼酎まで特集記事が掲載された雑誌のコラムを斜め読みする。もちろん一つには私自身が無類の酒好きだということがあるだろう。好みはあるにせよ、私は食卓に供されるどんな酒でも受け容れて、それなりに楽しむことができる。アルコールとは一種の過剰である。水がなければ私たちは命を失うが、ビールやワインを飲まなくても生きていくことはできる。それは絵画や小説がなくても私たちが生きていけることと同じだ。しかしモネやプルーストが存在しない世界を想像することができないように、私はワインなき食卓、グラッパ抜きの豪華なディナー、シャンパーニュのない記念日を想像することができない。
 私は日常ではビールを飲むことが多いが、楽しいディナーの最後はレストランであろうと自宅であろうとグラッパで締めくくる。さらに毎晩ナイトキャップとして炭酸とライムを加えたジンも欠かさない。しかしワインには特別の思い入れがある。私は自分をワイン通と思ったことは一度たりともないし、ワインの味がわかるとも思わない。しかしワインについては四半期に一度、数ダースの単位でまとめ買いをして、その日の料理や気分に合わせて選ぶようにしている。選択の幅が重要なのだ。ビールであろうとジンであろうと、同じ銘柄であれば味はほとんど変わらず、日常で手が届く範囲では銘柄にもさほど幅はない。確かにスピリッツについては専門のバーに行けば、ある程度のヴァリエーションに触れることはできようが、一度に大量に飲むことはないから自宅ではむしろ同じ味わいであることを優先する。ジンであればゴードンとボンベイ・サファイアを常備しておれば問題はない。これらの酒は日常の中で常に同じ陶酔を保証してくれる。これに対してワインは常に異なった悦び、非日常性を帯びている。一本一本が異なり、同じ味わいがないからだ。私はワインの注文に際しては、私の嗜好を知り抜いたバイヤーになるべくヴァリエーションをつけて選ぶように依頼する。もちろん私が求めるワインなどたかが知れており、レストランで普通に飲む程度のクオリティーにすぎない。しかしそれにせよ今日飲むワインには、昨日飲んだワインとも明日飲むワインとも異なる特別感があり、人生を区切る。以前の勤務先を離れる際にはなむけとして贈られ、贈り手たちとともにその場で空けたムートン・ロートシルト(これは高価であったはずだ。おそらく私がこれまでに飲んだ最も高価なワインであろう)、毎年クリスマス前に通うことを常としたレストランでソムリエから注がれた数々のイタリアンワイン、夏の午後、水平線を臨むレストランで開栓した甲州ワイン、肝心のワインの味についての記憶は失っても、ワインを飲んだ状況と幸福感はいつも明確に浮かび上がる。このような記憶はほかの種類の酒ではありえないだろう。ワインには常に物語があるのだ。
 自分のことばかり書いてしまった。本書は私など足下にも及ばぬコノシュアーによって記されたワインをめぐるエッセーである。ポートレートに添えられた履歴によれば「1961年、跡見学園短期大学卒業、78年よりパリ在住。カルチェ・ラタンでの暮らしは二十余年を数える。フランスワインと料理を愛するエッセイストとして活躍」とのことであるから、かなりの高齢であろうが、交友の広さとワインに対する造詣の深さは少しでも本書を読めば直ちに理解できる。この種のエッセーは自慢話に終始した、読むに耐えない内容であることが多いが、本書ではロマネ・コンティからドン・ペリニョンまでおそらく私が一生飲むことのない垂涎のワインが嫌味も気取りもなく次々に俎上に上がる。それもそのはずだ、著者がテーブルを囲む相手はドン・ペリニョンの醸造長やフランスの学士院の会員といった名士ばかりであり、ワインについてのポテンシャルが異なるのだ。あとがきによれば彼女の夫君も食文化を専門とする地理学者、ワインやフランス料理について多くの著作があるフランス人であるという。思うにワインに対する感覚というのはある程度の、いや相当の経験を積まない限り獲得できない一つの文化資本であり、今なおヨーロッパの特定の階級によって占有されているのではないだろうか。本書の中には夕食会に供された見事なワインについて(ブルゴーニュのピノ・ノワールであることは自分でもすぐわかったと書いてあるが、これさえ私にとっては神業としか思えない)、その場に居合わせた客たちが、ラ・ターシュやリシュブール、エシェゾーなどの名を挙げ、最後に一人がクロ・ド・ヴジョであることを当てたというエピソードが紹介されている。私にはなんのことやらわからないし、書き手を得なければ、単にスノッブの自慢話と受け取られかねないエピソードであるが、フランスには実際にこのようなコノシュアーの層が存在する訳である。そしてこのような感覚はワインについての想像を絶する経験に裏打ちされているはずだ。私はレストランやTVでワインについての蘊蓄を傾ける日本人を見かけた時には失笑を禁じ得ないし、ロバート・パーカーにみられるアメリカ人のワインに対する偏執性も一種の劣等感の裏返しのように感じられる。もちろん、本書で語られるようなワインを囲む豪奢な晩餐はあってよいし、ワイン通だけにわかる利き酒やらワインの楽しみもあってよい。しかし私がワインを好むのは、彼らのようなコノシュアーならずともワインは日常にアクセントをつけ、特別な一日を刻んでくれるからだ。ワインの記憶とは多くの場合、幸せな体験の記憶である。ヴィンテージ・ワインを飲む体験は貴重かもしれないが、ワインをめぐる愉しみは何を飲んだかというよりも、誰と飲んだか、どんな機会に飲んだかといった、付随的な状況に多くを負っているように感じる。かつて80年代のバブル期には有名なワインの銘柄を定めて年代ごとに飲み比べるという「垂直テイスティング」が流行したという。私は貴重なワインをそのようにして消費することの意味がわからない。少し口に入れては吐き出すといういわゆるテイスティングも同様だ。本書で次々に言及される高級ワインを私も飲んでみたいと思わない訳ではない。しかし特に羨ましいとも思わない。もっと手頃なワインでも、それを飲む状況さえ満たされれば同様に美味しく味わえるはずだ。三ツ星レストランを訪ねずとも、自分好みの店を美味しいレストランをいくつか知っておれば幸せであることと同じだ。本書の中で「パペットの晩餐会」という映画への言及がある。パペットという牧師館の家政婦が宝くじの賞金で晩餐会を開く。かつてのパリの名店で働いていたパペットは経験を生かして素晴らしい料理とワインで12人の客をもてなし、彼らの心を開かせるといったストーリーであり、晩餐会の場面でふるまわれたワインはクロ・ド・ヴジョ1846というワインであったらしい。戸塚はこの銘柄を愛好するらしく、いくつかの章でこのシャトーについての言及がある。しかしこのワインを飲んだから人々が打ち解けたのではなかろう。人々が打ち解ける晩餐の場にふさわしいワインとして選ばれたはずだ。先に掲げた私の体験においてもまず場があって、それにふさわしいワインが記憶されているのである。
 「ワイン色の海を眺める幸福感」と題された最初のエッセーはワイン色の海、地中海をめぐるワインの記憶から始められ、オデュセイア、そしてシュリーマンと語り継がれる。以前このブログで論じた鴻巣友季子のエッセーにもワインと文学の類似性を説く興味深い指摘があったが、ワインをめぐる関心は縦横に広がる。空間と時間という対比を持ち出すならば、場所に関して本書の中ではグルジアからイスラエル、ポンペイといった土地とワインとの関わりが論じられる一方で、シトー会の修道院の葡萄畑の区画ごとの微妙なテロワールについて語られる。歴史に関しては世界最古のワインの産地とみなされるグルジアで作りたてのワインを飲んだ体験が回想されたかと思えば、ブルゴーニュのワイン産業の交流に貢献したヴァロワ朝の諸公をめぐる物語が語られる。あるいは具体的なワインの飲み方についての提案としては「ロゼのオンザロックを南仏で」、「シャンパーニュをワイルドに飲んでみよう」といったタイトルにすでに著者らしい工夫は明らかだ。もっとも後者がパリの高級レストランでドン・ペリニョンのミレジムばかり5本を4人で飲み切るというとんでもない晩餐の経験に触発されたアイデアであると知ると、果たして私たちに真似のできる贅沢であろうかという思いはある。しかしおそらく著者の真意は高級なワインを崇めるのではなく、その可能性をいかに楽しむかということであろうから、もっとささやかなレヴェルで同様の実験は私にもできそうな気がするし、本書を読んで私はワインの飲み方のヴァリエーションの奥深さをあらためて知った。前にも記したが、私はワインを常に料理とともに嗜む。「いいワインとは何か」というエッセーの中で著者はワインの健康における効用、そして料理とのマリアージュについて論じているが、パリでは鮮魚を入手することが難しく、それゆえ肉食が増えたことを嘆く。しかし日本では新鮮な海産物を手に入れることはたやすく、一方で肉食についても家畜からジビエまでレストランならずとも家庭料理の中で味わうことができる。世界中のワインを店頭やネットで求めることが可能となった今日、日本はワインを楽しむことに関して相当のアドヴァンテイジがあるのではないだろうか。
 最初に私はワインのない食卓をモネのない美術館に喩えた。本書を通読して私はワインと名画の共通点をもう一つ思いついた。いずれも本来、純粋に官能的な陶酔のために存在し、私たちはそれらをそのように享受すべきなのだ。このような感覚はきわめて個人的であり、同時に金銭的な価値に置き換えることができない。これに対して、絵画やワインを投機、あるいは資産形成の対象とする卑しい発想が存在する。例えばバーネット・ニューマンの代表作の「譲渡手続き」によって「特別利益」を得る発想がそれだ。先にも触れたパーカーによるいわゆるパーカー・ポイントによって格付けされたワインもまたこのような目的に見合っている。正確に言えば、ワインそのものではなくワインを100点満点で格付けるという発想が機械的な尺度として「投機家」たちには理解しやすいからだ。作品を転売する、投機目的で特定の年、特定の銘柄のワインを買い占めることは、絵画やワインから陶酔を味わおうとする立場の対極にある。本書の中で言及され、賞味されるワインは多くが信じられないほど高額であろう。しかし著者はひたすらそれらの官能について論じ、その価格については触れない。(例外的にブリュージュで飲んだコント・ラフォンという銘柄が160ユーロと安かったが、その味はひどかったというエピソードがある)それはヨーロッパの一つの階級に保持された矜持ではないか。著者はフランス人の友人の次の言葉を書き留めている。「僕のロマネ・コンティの一本を1万5千ユーロ(約200万円)で売れという奴がいるんだ。そ奴はもう、3万ユーロで買うという客を見つけているらしい。それを買った奴は5万ユーロで売るのだとさ。僕は売る気は全くないよ」モネの絵画を見ることが視覚の快楽に関わっているように、ワインを嗜む体験も純粋に私たちの官能と関わっている。おそらく現在においてもヨーロッパにはかかる官能を享受するためだけにワインを開栓する階級が存在する。体験においても能力においても彼らに遠く及ばないことを自覚しつつも、私も引き続き純粋に自らのひとときの陶酔のためにワインを愛好したいと考える。昨今、絵画や彫刻を収益の源泉とみなす愚劣な思考が蔓延し、それは「先進美術館」といった醜悪な発想として結実した。しかし優れた絵画や立体は本書で言及されるワインと同様に本質において陶酔と官能の源泉であるはずだ。私はかかる真実をフェルメールやロスコの絵画、セラの立体を通して学んだ。
by gravity97 | 2018-09-23 21:17 | エピキュリズム | Comments(0)