小崎哲哉『現代アートとは何か』

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 表紙カバーの写真がなんとも雄弁だ。何というタイトルであったか、ガラスケースに収められた作品がデミアン・ハーストのダイヤモンドを散りばめた髑髏であることは私でもすぐわかった。興味深いのはそれを見守る人々だ。中東風の衣服をまとった男性と黒衣の女性。彼女がこの情景の主人公であることは、右側からTVカメラやカメラを向ける人々の視線をたどれば一目で理解できる。カバーの裏に捲りこまれているが、彼女の左にはおそらくはギャラリストかディーラー、二人の欧米系の男性が満足そうな笑みを浮かべている。この写真はかなり屈折した現代美術の一面を暗示している。まず従来の美術史においては周縁的な位置にあった集団、つまり中東系の男女が画面の中心を占め、欧米系の男性は脇役だ。中央に置かれた「作品」は芸術性を云々するにはあまりにも臆面ない宝飾品のケースの中に収められている。もはやそれは高級ブランドの「商品」と変わるところがない。
 「現代アートとは何か」というタイトルに反して、本書で扱われるのは美術史でもなければ作品論でも作家論でもない。「現代アート」を成り立たせているきわめて具体的、現実的な制度や人間関係が本書の主題である。この意味においてもカバーの写真は象徴的である。華やかな舞台の中心にいるのは作品ではなく、本書の章立てから抜き出すならば「コレクター」であり「マーケット」であり「ディーラー」である。この写真には「現代アート」の成立に関わる様々な「プレーヤー」が登場するが、唯一欠けているのは「アーティスト」だ。カバー写真は、批評家は言うに及ばず作家ぬきでも軽々と成立する「現代アート」の皮肉な戯画であろうか。むろん私はこのような構造に異を唱えたい。しかし本書はもはやそのようにしか成立しえない「現代アート」の世界を活写して、きわめて興味深い内容であった。本書が指し示すのはもはや「現代アート」が、美術とは無関係なマネーゲームの手駒に堕してしまったというニヒリスティックな状況であるが、それはわずかこの四半世紀、1989年以降顕著になった事態なのだ。ほぼ同じ頃に美術批評に手を染めた私にとってこれは相当に辛い認識でもある。
 本書は10章から成るが、最初の6章が重要だ。序章においてヴェネツィア・ビエンナーレのオープニングに集う人々を素描した後、次のようなテーマで章が設定されている。「マーケット」、「ミュージアム」、「クリティック」、「キュレーター」、「アーティスト」、「オーディエンス」。最初ではなく5番目に「アーティスト」が登場する点が示唆的だ。「マーケット」の賞ではまず二人の大コレクター、フランソワ・ピノーとベルナール・アルノーが紹介される。彼らを論じるにあたって引き合いに出される作家はジェフ・クーンズとデミアン・ハーストである。この二人はミシェル・ウエルベックの怪著「地図と領土」の冒頭にも登場したことが連想されるが、コレクターにせよ作家にせよ「現代アート」を語る際に話題に事欠かない面々である。そもそも「現代アート」を論じるにあたって本書が依拠するのはイギリスで発行される『アートレヴュー』という雑誌の「POWER 100」という特集であり、これはその名のとおり、「現代アート」において影響力のある人物100人のランキングなのである。「現代アート」におけるセレヴリティといえば聞こえはよいが、なんとも下品な発想であり、私も反感しか覚えないが、あえてこのような俗悪さの中で「現代アート」を論じることによって、これまで隠されていた問題が浮かび上がるのである。小崎はこれらのコレクターたちが作品を奪い合うえげつない舞台裏を明らかにしたうえで、「アートは投資ではない」というピノーの言葉を紹介するが、高級ブランドの買収合戦を繰り返す彼らの行状を知る時、この言葉を信じる者はいないだろう。二人に続いて紹介されるのが、表紙を飾るカタールのマヤッサ王女であり、彼女は2013年に今述べた「POWER100」の首位に選ばれたという。多少美術に通じた者であれば、オイルマネーに潤うカタールが世界中から名画を買い漁っていること、現代美術の大パトロンとして君臨していることを知っている。先日、森美術館で開催された五百羅漢図をモティーフにした村上隆の個展も彼女を介してカタール美術館庁から依頼されたものであり、最初にカタールの首都、ドーハで発表されている。あるいは私は真偽を確認していないが、このブログでも何度か論じた、かつて川村記念美術館に収蔵されていたバーネット・ニューマンの傑作も現在カタールに移されているらしい。(《アンナの光》の売却時に発表されたプレスリリースによれば、売却先は一般公開を前提とした施設であるとのことであったが、私の知る限り、今日にいたるまで現在の所蔵者は明らかになっていない。ニューマンの作品を愛する者にとっては大きな損失である)私はカタールの王女が美術作品を買うのがよくないと言いたいのではない。美術品とて動産であるから、所有され移動する。しかしながら作品にはそれが制作されたコンテクストがあり、鑑賞されるべき場所がある。かかるコンテクストは尊重されるべきではないかと主張したいのだ。私はかつてこのブログの中でフェルメールを何千キロも離れたモンスーン気候の島国に運び、熱暑と雑踏の中に展示する愚かさを批判したことがある。(今も愚行は止まらない、フェルメールの作品は今年も日本で展示されると聞く)先日もレオナルドの真筆の可能性のある絵画がサウジアラビアの王子とみられる人物によって史上最高額で落札されたというニュースを聞いた。人類の遺産とも呼ぶべきこれらの名画が炎暑の下、未だに斬首刑が執行されるような封建的な国家に移され、特定の個人によって秘蔵されることはないか、私としてはおおいに気になる。かつてイランのパーレビ国王のコレクションであったポロックの名品を私たちは近年、日本で開かれた回顧展で見ることができたが、果たしてあの作品は今もイランで公開されているのであろうか。そもそも彼らは作品への愛情ゆえにそれらを収集しようとしたのであろうか。本書を通読してつくづく感じた点であるが、今日、「現代アート」はごく少数のセレヴリティが自らの特権的地位を誇示するための道具となってしまっている。彼らにとってレオナルドが、セザンヌが、ゴーギャンが重要なのではない。西欧における「名画」としての位置を確立した作品を所有することは今やセレヴリティにとって自らのアイデンティティーの一部であり、必須の条件なのである。かつて飯島洋一の「らしい建築批判」について論じた際に、飯島は安藤忠雄の建築を注文する「セレヴリティ」のメンタリティについて辛美沙の次のような言葉を引いていたことを思い出す。「情報技術の革新と金融のグローバル化に伴い、プライベートジェットで好きな場所に行き来し、超高級デザイナーズコンドミニアムを世界中にいくつも所有し、マンションに住まうヘッジファンド長者たちにとって、安ものの作品で自宅の壁を飾ることなどありえない。高額のアートを買うことは、豪華なクルーザーを所有し、秘境の高級リゾートに出かけ、子供をスイスのボーディングスクールに通わせ、プラダやグッチを身にまとうことと同様に、ライフスタイルの一部であり、あるソーシャルキットに属するための必須アイテムなのだ」現在の富裕層は美術作品を愛好して求めるのではない。それは自分たちがある階層に属することを証明するための「商品」、飯島の言葉を応用するならば「アイコン美術品」にすぎないのだ。先にカタールで開かれた村上隆の展示に着いて触れたが、村上もクーンズらと同様にセレヴリティに取り入ることに余念がなく、むしろそれを誇示している。このようなあざとさこそ、私が村上を批判する理由の一つであるが、同様の意識は「マーケット」の章の第四節「ディーラー」からも確認することができる。ここで取り上げられるのはラリー・ガゴシアンであり、彼が現在、世界において最も辣腕な「ディーラー」であることは誰しもが認めるところであろうが、ここで彼と比較されるレオ・キャステリと比べるならば、ギャラリスト、ディーラーの変化も明らかだ。キャステリやイリヤ・ソナベンドといったギャラリストたちは作家と強い連帯感をもち、美術運動を牽引しようとする意図を有していた。キャステリやソナベンドのギャラリーで開かれた歴史的な個展や展覧会をいくつも挙げることができる。しかしガゴシアンは高額の美術品取引についてのニュースを聞くことはあっても、いかなるムーヴメントにも関与したようには思われない。端的に作品に対する愛情が感じられないのだ。キャステリに対する「彼はビール缶でも顧客に売りつける」というコメントがジョーンズに作品のインスピレーションを与えた話は有名であるが、ガゴシアンと作家の間には泥沼の訴訟の話はあってもこのような「ちょっといい話」はありえない。
 続く「ミュージアム」の章は作品の検閲や自己規制、あるいは国家からの干渉、さらにあまりに多すぎる来場者(これについては私もこのブログで論じた)といった今日の美術館をめぐるゴシップ的な話題が具体例とともに記述され、それなりに興味深いが、関係者の間ではよく知られた話題だ。むしろこれに先立つ「マーケット」と関連していくつかの興味深い指摘があった。例えば先に論じたとおり、今日、商品と化した「現代アート」の作品を富裕層が膨大な財力を用いて買い尽くそうとしても、大美術館の優位は揺らぐことはない。なぜなら大美術館に収蔵されてこそ作品の価値が固まるからであり、「MOMAを筆頭とする名門美術館が名作を持たないことを、狭義のアートワールドが許さない。作品の価値を保証し、維持し、高める存在として、彼らの存在と権威は必須であるからだ」ここでは美術館がマーケットにおける作品の価値を保証する権威としてのみかろうじて生きながらえているというきわめて異常な事態が暗示されている。もちろん美術館のコレクション、あるいは展覧会がそのような権威と結びついていることは以前より認識されており、それゆえ大美術館や国立美術館はどの作品を収蔵するか、どの作家の個展を開くかという点に意識的でなければならないはずだが、果たして実際にはどうであろうか。ギャラリーやディーラー丸抱えの展覧会、特定の個人コレクションを顕彰する展覧会が大美術館で開かれる状況はもはや美術館さえもマーケットの一つの要素に過ぎないことを示しており、検閲や自己規制以上に根深い問題ではないだろうか。さらに深刻に感じるのは、美術館ではなく一部のコレクターによって死蔵ないし秘蔵される美術作品が増えているという指摘だ。小崎は次のように記す。「コレクションを政治的資産と考える美術館オーナーが増えた場合、割を食うのはアートラバーと既存の名門美術館である。地図上には記されているのに入ることのできない国土のように、作品はたしかに存在するのに、それを観ることはできない。(中略)アートを公共財ではなく私有財とみなすひと握りの利己的な人々によって、アートシーンは緩慢な死に向かってゆくかもしれない」以前であれば佐倉に足を運べば誰でも見ることができたニューマンの傑作が姿を消したことはこの一例だ。以前にも記したとおり、市民革命を経て開設されたヨーロッパの美術館はそれまで国王や貴族によって独占されていた美術品を市民に公開することを目的としている。この意味において基本的に無料でコレクションを公開することは美術館の使命である。しかし今や王侯貴族に変わるヘッジファンド長者、IT成金たちが作品を買い込んで秘蔵し、美術作品は再び一部の富裕層、特権的階級によって独占されつつある。しかも多くの場合、彼らは作品を単なるステイタスの象徴、あるいは投資の対象としてとらえているから作品の秘匿性と流動性は高い。私たちの前から本来は公共財である美術品が消え去りつつあるのだ。
 第四章の「クリティック」の冒頭には「絶滅危惧種としての批評家」という自虐的なタイトルが掲げられている。小崎は『アートフォーラム』の記事におけるギャラリーの広告記事の出稿量の増大、これに対応するかのような批評記事の減少などを指摘したうえで、今日、批評家の存在感が圧倒的に希薄となっていることを指摘する。これは小崎ならずとも実感する点であろう。抽象表現主義を牽引した伝説的な批評家たちを引くまでもなく、かつて批評家は美術界に大きな影響力を行使した。小崎は通常ギャラリストに用いられるプライマリーとセカンダリーという概念を用いて興味深い議論を提出する。プライマリーな批評家とは作品から二次的に派生するのではなく、作品を方向づける批評のことであるが、もはや存在しない。80年代以降一定の影響力を保持した「オクトーバー」系の批評家たちの仕事はポスト構造主義によって与えられた解釈格子を用いて戦後美術を再解釈する内容であり、この意味においてセカンダリーな批評家にすぎない。21世紀以後の重要な批評家として、小崎はニコラ・ブリオーとボリス・グロイスを挙げる。b0138838_2223436.jpg関係性の美学を講じる前者と特異な出自から現代美術への言及を重ねる後者について、本書はある程度の見取り図を与えてくれる。関係性の美学については若干の翻訳が発表されており、グロイスについても先般、『思想』が特集しているから、近年注目されていることは間違いないが、私が読み得た範囲においてもかつてのグリーンバーグやフリードは言うに及ばず、近年のオクトーバー派の批評家たちと比べても関心や共感を覚えることは少ない。続く「キュレーター」の章では、冒頭で1980年代後半に開催された二つの名高い展覧会「シャンブル・ダミ」と「大地の魔術師たち」を紹介した後、それらを組織したヤン・フートとジャン=ユベール・マルタンという二人のキュレーターを対比的に論じる。子の議論については直接本書をお読みいただくことがよいと考えるので、詳述することは控えるが、美術館や批評家の重要性が相対的に低下する中で、フリーランスのキュレーター、さらに彼らが企画した国際展の重要性はさらに増している。ここで言及している展覧会のうち、2007年にヴェネツィアで開かれたマルタンの「アルテンポ」については私も実見し、強いインパクトを受けた。これについてはかつてこのブログでも論じたが、美術館に籍を置くキュレーターでは発想できない斬新な企画であった。本書の章立てに準じるならば、ミュージアムやクリティックが次々にマーケットの欲望の中に呑み込まれていく中で、キュレーターはかろうじてマーケットに対して距離を保ちつつ、作品について語りうる存在といえるかもしれない。「キュレーター」に続いてようやく「アーティスト」が登場する。しかし私はこの章は斜め読みする程度でよいと思う。何しろここで論じられるアーティストは先の「POWER100」を一つの基準とした小崎好みの作家であり、会田誠や村上隆、アブラモヴィッチやリヒターといったラインナップは私に言わせれば玉石混交、特にコメントする必要が感じられない。しかしながらヒト・シュタイエルやアルフレッド・ジャーといった日本では知られることの少ない、しかしながら重要な作家についての言及は貴重であり、国際展に足繁く通う小崎ならではのセレクションといえるだろう。本書で論じられるのは基本的には「現代アート」の作家であるが、彼らに強く影響を与えた作家として二人の先人の名が頻繁に引かれることは象徴的だ。一人はマルセル・デュシャン、もう一人は劇作家のサミュエル・ベケットだ。マーケットを主題とした本書の中で、美術と文学、ジャンルこそ異なるが、アンチ・マーケットとも呼ぶべき独自の作風で知られる二人の名がしばしば参照されることは興味深い逆説といえよう。
 「オーディエンス」の章の最後で小崎は「現代アート」の三大要素としてインパクト、コンセプト、レイヤーを挙げ、さらに作家の創作動機を七つに分類する。このあたりは相当にいい加減なカテゴリーだから真剣に考える必要はなかろう。「現代アートの動機」と題された第7章においては、これらの七つの動機が説明されるが、むしろそのような枠組を借りて、「現代アート」における主要な作家を概観することが目的である。よく知られた作家から初めて名を聞く作家まで、多くの情報が与えられるとともに「現代アート」をめぐる最近の様々なトピックが語られる。ゴシップ的な要素が強い点は本書の特色であるが、むしろそれが本書の魅力であろうから、多少の事実誤認を含めて気にならない。さらに次の「現代アート採点法」なる章においては、これらの七つの動機を指数として作られたレーダーチャートに基づいてクーンズからダムタイプにいたる作品が採点される。もちろん著者本人が認めるとおり、このような採点はきわめて恣意的な内容であり、作家の選定と採点の妥当さは相対的なものでしかない。ここで図示されるレーダーチャートからはかつて文芸誌に掲載された小説をチャートによって採点した渡部直巳の文芸批評なども連想されようが、たいした意味はない。7章以降は流し読みする程度でよかろう。
 本書は批評家や美術史家ではなく、ジャーナリストの目を通して描かれた「現代アート」についての分析として多くの知見に富む。私の関心に引きつけてかなり強引な紹介となったが、全体として多角的かつアクチュアルに「現代アート」の諸相が浮かび上がる好著といえよう。この点を評価したうえで、最後に一つだけ、やや不審に感じた点を書き留めておくことにする。本書では一貫して「現代美術」ではなく「現代アート」という言葉が用いられる。私は逆に「現代アート」という言葉に違和感を覚えて、このブログの中では括弧付けで表記した。「オーディエンス」の章の最後で小崎はデュシャンの《泉》を例示したうえで、次のように述べる。「要するに、現代アートはもはや『美』を志向していない。だから、近代までのアートに『美術』という訳語を当てはめるのはよいとしても『contemporary art』を『現代美術』と訳すのは実情に即していない」しかし私は逆に「現代美術」どころか「近代美術」でさえ「美」を志向していたとは考えない。モダニズムは表現の媒体に注目することによって、媒体そのものの条件を明らかにすることを目指した。モダニズムにとってア・プリオリに「美」が存在するという発想はありえないし、それは戦後美術、広義の現代美術にとっても同様だ。モダニズム以降、美術は「美」の探求から自らの存立基盤の追究へと目的を変えた。その豊かな成果についてはこのブログで幾度となく触れたとおりだ。しかし今やその存立基盤が富裕層のマネーゲームという全く異なったレゾン・ド・エートルへ取って替わられようとしている。いうまでもなく、グローバリズムの展開とそれに伴う格差の拡大がその背景にある。小崎はこのような世界を次のように的確に要約している。「現代アートは1%の金持ちが名作を政治的資産として利用する『本物のアート』の世界と99%とは言わないが数10%の大衆が名作を口実に『他者と過ごす』世界とに二分されることになる。その時、後者はもはやアート的な世界とは呼べず、何か違うものと考えざるをえない」私たちは今や分断をキーワードとする世界を生きている。美術とは本来このような分断を修復する務めを負っていたはずだ。村上のようにセレヴリティへの奉仕ではなく、市民とともにあるべき現代美術はいかにして可能か。私たちはそこから出発すべきではないか。
Commented at 2018-08-10 14:33 x
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by gravity97 | 2018-07-31 22:30 | 現代美術 | Comments(1)