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Living Well Is the Best Revenge

ウィリアム・フォークナー『八月の光』

ウィリアム・フォークナー『八月の光』_b0138838_2251614.jpg 再読したい本は多々あるのだが、日々の新刊に目を奪われて、過去に読んだ本にもう一度目を通す機会は少ない。外国文学であれば新しい訳が刊行されることは再読にとってよい契機となるから、光文社の古典新訳文庫の存在は大きい。最初のラインナップとしてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が刊行された折に私は直ちに亀山郁夫の訳業で再読したことを覚えているし、コンラッドの「闇の奥」とクラークの「幼年期の終わり」についてはすでにこのブログでレヴューした。
 フォークナーの「八月の光」も私は大学の頃に読んだはずだ。フォークナーについては池澤夏樹が編集した集英社版の世界文学全集の一巻として刊行された「アブサロム・アブサロム」についてもかつてこのブログで評した。新訳ではないが新版として大きな活字と作者による年譜と人物紹介を付して訳出されたこともあり、私は再読してようやくこの小説の内容を理解した思いがあった。今確認するならば、「八月の光」については本書以外にも岩波文庫版が存在し、同じ岩波文庫から「響きと怒り」も新しい訳で刊行されている。精神障害者のモノローグという衝撃的な導入によって始まる「響きと怒り」が今日的な感覚でどのように訳出されているかという点にも興味を引かれる。今回の訳者は同じ文庫で「闇の奥」という難物に取り組み、なによりもコーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」という傑作にみごとな日本語を与えた黒原敏行であるから、私は書店の店頭で本書を目にするや直ちに買い求めて再読することを決意した。訳者あとがきで黒原は本書を翻訳する方針について次のように述べている。「この翻訳では、晦渋な箇所は通常より意訳の度を強め、注釈を訳文に織り込むような形でなるべくわかりやすくするように努めた」本書には多くの註が付され、それも言葉の説明といったレヴェルを超えて、時間や人称といった小説の形式にまで踏み込んだコメントが付されている。フォークナーの小説を読むうえでは、このような注釈は大きな助けとなる。
 それにしても傑作と呼ぶに値する小説だ。最初に読んだ加島祥造訳と比べて、本書の方が活字のポイントにおいて格段に読みやすいことはともかく、そこそこの読書家であるとうぬぼれていた私が大学入学時程度の読書体験で本書を、そしておそらく当時ひとまずは読み通したいくつかのフォークナーの小説をほとんど理解することができなかったことは当然であろう。彼の作品はモダニズムと呼ばれる思潮に連なる20世紀小説の革新性についてある程度通暁していないと理解することが難しい。以下、内容にも踏み込んで論じる。
 物語は炎暑のミシシッピー、身重の娘リーナが道を歩きながら「あたしはアラバマからやってきた。本当に遠くまで来たものね」と慨嘆する印象的な場面から始まる。この小説はいくつかのストーリーの錯綜として理解することができる。最初のそれは身ごもった子の父親を追ってジェファソンという町に向かうリーナ・グローヴという娘の物語だ。リーナは悲劇的な物語の舞台となるジェファソンで子を産み、登場人物の一人とともに再び旅立つ。この小説の最後も「まあまあ、人間ってほんとにあちこち行けるものなのね。アラバマを出てまだふた月なのに、もうテネシーだなんて」というリーナの言葉で閉じられるから、リーナをめぐるロード・ノベルとして本書をとらえることは不可能ではない。一方、中心となるストーリーはジェファソンの町で密造のウイスキーを売りさばく流れ者、ジョー・クリスマスが身を寄せる屋敷の主、ミス・バーデンを殺して屋敷に放火し、報復として凄惨なリンチを受けて殺害される物語である。さらに出奔した妻が不名誉な死を遂げ、自らの教区の信徒たちからも見放された孤独な牧師ハイタワーとリーナから身ごもった子の父親と間違えられたバイロン・バンチという男との対話も物語を構成する重要な要素である。この三つの物語に、さらに焦点化される人物を違えたいくつかの章が加わる。ジェファソンに隣接するモッツタウンという町に住むハインズという老夫婦をめぐる物語、あるいは最後の章にはミシシッピー州東部に住む中古家具販売業の男が登場する。彼が移動の途中に車に乗せた夫婦らしき二人連れと赤ん坊が誰であるかはすぐに了解されるが、このように焦点化される人物が次々に変わる点は伝統的な小説からの大きな逸脱である。あるいは時制に関してもこの小説は相当に複雑な構造をもっている。冒頭のリーナの独白は現在形で書かれているが、その直後から文章は過去形に転じ、時制はしばしば転換される。原文を読まない限り理解することができないこのような機微に関しては訳注の中で詳しく論じられており、冒頭部の現在が1932年8月中旬の金曜日であることまで明記されている。少なくともこの事実は物語の中には明記されていないから、研究書等によって得られた知見であろうが、翻訳された場合はさほど意識されない時制という問題について意識的であることは、作家の作品形式への関心をうかがわせる。さらに日本語訳では太字で示される部分は原文ではイタリクスが用いられている。黒原によればこの部分は「原則として言葉にならない無意識の思考を表す」という。意識の流れをイタリクスで示す表記は確か「響きと怒り」でも使用されていたのではないだろうか。ただし黒原によれば「声に出された台詞を表すこともあり、その使い分けの基準は不明」とのことであるから、ひとまず私たちはこの小説がいくつかのレヴェルのテクストの輻輳によって成立していることを確認するに留めよう。さらに語り手も奇妙だ。この小説は原則として三人称によって記述され、人物の内面も描写されるから、いわゆる全能の話者による語りという形式がとられている。しかし通読するならば、話者は客観性を欠いている印象がある。この点についても黒原は早い段階で註を通して的確な指摘を行っている。すなわち「地の文は三人称だが、すべてを見通す神の視点での語りではなく、何者かが観察し、時に推測などを加えながら語るようなかたちになっている」焦点化される登場人物の頻繁な交代、時制や文体の錯綜、全能ではなく登場人物を探る話者、本書の難解さの理由は容易に理解されよう、そしてこれらは小説の形式への自覚という点においてモダニズム文学の系譜をかたちづくる。
 一方でかくも形式的な配慮が払われながら、語られる内容たるや殺伐として救いがない。帯に記された言葉を用いるならば、「南部の小さな町を舞台に、それぞれが背負った『血』が交錯する」私は本書を再読し、小説形式としての複雑さと語られる内容の凄惨さとの一致という点において、あらためて私好みの二人の作家を連想した。中上健次と井上光晴である。例えば「地の果て 至上の時」と「地の群れ」、これらの濃密な物語は「八月の光」の舞台を紀州と長崎に置き換えて再話したといっても過言ではない。先に引いた人物たちはいずれも運命としか呼びようのない抗いようのない逆境の中で多くが破滅していく。筆致は執拗、物語は濃密であり、異常な炎暑の続くこの夏、私にとってさえ本書を読み進めることは身体的にも精神的にも相当にきつかったことを告白しておこう。
 物語の語りや展開がいかに錯綜しているか、具体的に示しておく。最初の章は、馬車でジェファソンに到着したリーナが町の中で家が燃えていることを知る場面で終わる。第2章では場面も時間も転換され、ジェファソンの製材所で働くバイロン・バンチという男が焦点化される。バンチを介して語られるのは同じ製材所で働くクリスマスとブラウンという二人の素性の知れない男たちの挙動であり、二人はミス・バーデンの屋敷内の小屋に住みながら密造ウイスキーの怪しげな売買に関わっているらしい。バンチとの会話を通してリーナは自分が探しているルーカス・バーチなる男がブラウンの偽名であることを知る。第3章では全く新しい登場人物、牧師のハイタワーがまず焦点化される。話者は汚辱と奇行によって彼が教区牧師の地位を剥奪される経緯を語り、世捨て人同然にふるまうハイタワーのもとをバンチが頻繁に訪れて会話を交わすという秘密を読者に教える。この章と続く第4章の二人の会話の中で、リーナが目撃した炎上する家はミス・バーデンの屋敷であり、しかも火事直前にミス・バーデンが惨殺されていたこと、殺人と放火の犯人はクリスマスらしいことが暗示される。犯人に対する賞金に目が眩んだブラウンはクリスマスを告発し、自ら捕らえようとするが逆に不審者として拘束される。第5章ではミス・バーデンが殺害された前後のクリスマスが焦点化される。しかし話者の位置が不明確であるため、クリスマスの行動や思考はきわめてあいまいにしか伝えられない。あたかも磨りガラスを通して登場人物の姿を追うような記述が続く。次の章では時間を一挙に遡り、孤児院にいる5歳のクリスマスの姿が素描される。冒頭の黒原による注記を読めば、ここで語られるのが31年前の出来事であることが理解されるが、原文に従う限り読者は何の予備知識もないままクリスマスの過去に向き合わなければならない。孤児院で栄養士と雑用係の情事の場面に偶然に遭遇したため、クリスマスは彼らから讒言され、追放されるかのようにマッケカーンという一種狂信的な農夫の養子となる。孤児院、マッケカーン家、クリスマスの前半生において愛情や家庭の暖かみを感じさせる記述はほとんどない。そもそもクリスマスなる奇妙な名は、彼がクリスマスの日に孤児院の前に置き去りにされていたことに由来するのだ。やがてマッケカーンのもとからも逃亡したクリスマスはジェファソンのミス・バーデンの屋敷に落ち着くまで15年間にわたって放浪生活を続けることとなる。
 今、私はこの小説の前半部をかなり恣意的に要約した。以上の要約においてもこの小説の構造の複雑さ、物語の苛酷さは理解されよう。そして後半にいたるやクリスマスのリンチと殺害というクライマックスに向かって物語は加速する。背景をかたちづくるのは1932年のミシシッピーという特殊なトポスである。そこには私たちの想像を絶する黒人への差別と偏見が渦巻いていた。黒んぼ、ニガー、あるいは薄茶色(ハイブラウン、注によれば肌の色の薄い黒人女性を指す差別的な呼称で、白人、黒人の両方にとって性的魅力に富むとみなされた)といった差別的な呼称が物語の随所に散りばめられており、黒原はこの小説の背景を明示するためにあえて意図的にこれらの言葉を多用している。私はこのブログを書くにあたってかなり丹念にこの長い小説を再読し、それもあってこのレヴューのアップが大幅に遅れた訳であるが、結果として二つの大きな謎が残ったように感じる、まずクリスマスがミス・バーデンを殺して屋敷に放火したという物語の核心については少なくともテクストの中にその証拠、蓮實重彦のいうところの「テクスト的な現実」を見出すことができなかったように感じる。つまりなぜクリスマスがリンチを受けて殺されたか、その理由が必ずしも明らかではないのだ。二つ目は「白人に見えるが黒んぼの血が流れている」クリスマスという男の造形である。確かに早くも孤児院においてクリスマスはほかの子たちから「黒んぼ」と呼ばれており、雑用係はそれを孤児院長に信じ込ませようとする。さらに小説の後半ではある登場人物の口を借りてクリスマス出生の秘密が語られる。しかし私が読んだ限り、彼が黒人を父にもつという「テクスト的な現実」はない。そもそも白人と黒人のハーフが「外見は白人のように見える」ということがあり得るかどうか私にはわからない。クリスマス本人も含めてなぜ人々は彼に「黒んぼの血が流れている」ことを確信するのであろうか。クリスマスという瀆神的な名が関与しているのかもしれない。クリスマスという奇妙な名は、彼がクリスマスに孤児院の前に置き去りされたという事実に基づいているが、クリスマスという名は、「神の名をみだりに唱えてはいけない」というキリスト教の教えに反しているからだ。しかし一方でジョー・クリスマス、J・Cという頭文字が暗示するのはジーザス・クライストすなわちキリストその人である。(余談となるが、私は本書から反射的にもう一人のJ・C、すなわちジョン・コーフィの受難の物語を連想した。スティーヴン・キングの「グリーン・マイル」だ。アメリカ南部の刑務所、無実の罪で電気椅子にかけられる黒人死刑囚の物語は明らかに「八月の光」の現代版だ)物語の中でクリスマスがしばしばキリストに準えられている点については訳注で訳者も何度となく注意を喚起している。キリスト教という主題はこの小説と深く関わる。今回のレヴューでは深く論じる余裕がないが、バンチからクリスマスをめぐる事件の推移を聞き置き、最後にはクリスマスを救う努力さえするハイタワーという牧師も実に興味深い存在である。あるいはクリスマスの養父であるマッケカーンなる男は原理主義とも呼ぶべき態度でキリスト教に帰依しており、ほかにもこの南部の地が強い宗教的紐帯で結ばれていることをうかがわせる記述は多い。しかしキリスト教が広く行き渡った土地で黒人がむごく扱われるという現実にいかなる意味があるのか。養父のもとを出奔したクリスマスが、ジェファソンに現れ、ミス・バーデン(彼女の父親も牧師である)の屋敷に身を寄せるまで15年の時間が経過している。北部を放浪していた頃、クリスマスは自分が黒人であると明かしても娼婦が動揺することがなかったことに逆上し、娼婦を半殺しにする。(南部では罵られ、ほかの客に袋だたきにされるのが常だったのだ)このエピソードが暗示するのはクリスマスにとって「白人に見える黒んぼ」としての自らのアイデンティティーは何によっても与えられないということだ。彼が放浪の後、あえて人種差別の最も苛酷なミシシッピーへと戻ったことは自分のアイデンティティーを確立するためではなかったか。私は今かなり強引にクリスマスをめぐる物語としてこの小説を再構成している。しかし実際にはクリスマスについての情報はしばしば他者を通して与えられる。バンチとハイタワーの途切れ途切れの対話、あるいは彼の祖父母とみなされる老人たちの屈折した会話を介して浮かび上がるクリスマスの像はくっきりとした像を結ぶことがない。クリスマスのアイデンティティーは語りの形式においても物語の内容においても宙吊りのままだ。このように考えるならば「なぜ私は殺されるのか」「私は誰か」という問いをめぐって二人のJ・Cを重ねたい誘惑に駆られるのは私だけではないはずだ。一人は「なぜ(父なる)神は自分を見放したか」と叫びながら十字架上で絶命し、もう一人は父ならぬ祖父によって煽動された人々によって殺されたうえ、無残にも死体を損壊される。
 再読して、あらためて救いのない難解な小説であることを知る。しかし読後感は悪くない。それは先に述べたとおり、息子と新しい伴侶を得て、「人間ってほんとにあちこち行けるものなのね」と新たに旅立つリーナの生き生きとした姿が最後に描写されるからだ。もし本書が罪なき者が宿命として無残な死を遂げるというキリストの物語の再話であるとするならば、リーナはこのような宿命をはっきりと断ち切る。バンチの親切な計らいによってジェファソンで無事、赤ん坊を出産したリーナのもとを不気味な老婆が訪れる。彼女こそクリスマスの祖母であり、同じような赤ん坊であったクリスマスは罪の子として彼女の夫、すなわち祖父によって孤児院に捨てられた。老婆はリーナの子の父親がクリスマスであるという妄執にとらわれている。これに対しリーナは、「あたしごっちゃになりたくないんです」と叫んで、同じ父のいない子であってもクリスマスの宿命が自らの子によって反復されることを拒絶する。それは自らの子にアイデンティティーを与えることでもあるだろう。クリスマスとリーナは物語の中で会うことはない。しかしリーナの決意によってクリスマスは救済される。自分とは何か、かかる根源的な問いを超絶的な文体と話法によって突きつける点において本書の達成は比類がない。
Commented by stefanlily at 2018-08-20 18:22
初めまして、
私も読みました。
ヘミングウエィがアメリカで一番偉い作家と思っていたけど、フォークナーの作品をいくつか読んで打ちのめされた感じです。
あったこと、いた人、をたとえ差別的な表現とはいえ、全く無かった、いなかったかのように書いているというのは、
それよりは書いていたほうがいいと思います。
黒人についてまるでいなかったかのような書き方をしている同時代の作家よりも。

今後とも宜しくお願いいたします。
by gravity97 | 2018-07-23 22:05 | 海外文学 | Comments(1)