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Living Well Is the Best Revenge

奥泉光『雪の階』

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 「シューマンの指」 「グランド・ミステリー」「東京自叙伝」に続いて奥泉光の小説について論じるのは四回目となる。「日本文学」といった大それたカテゴリーを開設しながら、作家選択の偏向は目を覆うばかりとはいえ、2016年から2017年にかけて『中央公論』に連載された後、加筆修正を加えて今年初めに上梓されたこの小説もまた傑作であり、読了するや私は直ちにレヴューすることを決めた。
 江戸時代から語り起こされた「東京自叙伝」を別にすれば、奥泉の長編は比較的近い過去、具体的には太平洋戦争期もしくは現在を舞台とした作品が多かったが、「雪の階」はそれより少し前、昭和11年の2・26事件前夜を背景としている。私が記憶する限り、物語の中に特定の年記はなく、また作中で具体的に言及される数々の事件が現実に出来したかについてはにわかには判断できないが、昭和初期の風情を濃厚に織り込みながら物語は次第に2月26日に向かって進み、最後の章においては事件の発生とその帰趨が語られる。ただし本書は2・26事件をクライマックスとした歴史小説ではない。強いていえばありえざる2・26、あるいはもう一つの2・26を語る一種の実験であり、私は奇しくも同じ事件を扱った恩田陸の『ねじの回転』というSFを読んだ記憶がある。しかし本書は恩田の小説とは比較にならない格調と重厚さを帯び、さらに奥泉の小説になじんだ読者であればおなじみの物語の形式をとっている。すなわち物語は「シューマンの指」や「グランド・ミステリー」同様に一つのミステリーとして提示されている。物語の冒頭に近い箇所に一つの謎が提示され、読み進むにつれ、曲折を経てその謎が解明される。しかしながらもちろん単純な犯人探しやトリックの種明かしではない。謎が解明されるにつれて登場人物はむしろの謎の中心へと引き込まれ、現実と幻想の境界がおぼろげとなっていく。これもまた奥泉の小説には特有の構造だ。そしてそれは個人的な幻視というより、一つの国家、一つの民族の命運に関する幻視なのである。今回もかなり内容に立ち入って論じるため、先入主なき状態でこの小説を楽しみたい読者には直ちに本書を手に取ることをお勧めする。
 今、幻視という言葉を挙げた。この小説は次のようなパッセージから始まる。

 夕暮れの、一面が濃紫に染まった空の下、焔に炙られ焼け焦げたものか、それとも何かの疾病なのか、どれも一様に黒変した、ひょろ長い灌木とも棒杭ともつかぬものの点在する荒野を一人彷徨い歩きながら、寒草疎らに散るこの冷たい地面の下には、獣や鳥や虫の死骸が折り重なり堆積して居るのだと考えた維佐子は、ふいに湧き起こって耳に溢れた音響に夢から現へと引き戻され、すると突然の驟雨のごとき響きは人々の拍手であり、高さのない舞台では演奏を終えたピアニストが椅子から立ち上がるところだった。

 なんとも不吉な幕開けであり、一体いかなる導入かと感じられもしようが、実はこの冒頭部からして周到な伏線であることは本書を読み終えた時、了解される。私はこの冒頭からかつて愛読した、やはり戦前期を舞台にした別の小説の劈頭を連想した。

 草もなく木もなく実りもなく吹きすさぶ雪嵐が荒涼として吹き過ぎる。はるか高い丘の辺りは雲にかくれた黒い日に焦げ、暗く輝く大地のところどころに黒い漏斗形の穴がぽつりぽつりと開いている。

 いうまでもない。野間宏の「暗い絵」の冒頭である。読み進めるならば、この描写は心象ではなく、ブリューゲルの絵画についての描写であることが理解される。そして「雪の階」の主人公である笹宮維佐子も小説の中で唐突にヒエロニムス・ボッシュの名を口にするから、ネーデルランドの画家という共通項を通じて二つの小説は通じ合わない訳でもない。引用した最後の一文が暗示するとおり、「雪の階」は侯爵邸におけるサロン演奏会の場面から始まる。これに対して、野間の大作「青年の環」の冒頭がやはりオーケストラの演奏後の会堂の描写で始まることはさすがに偶然の一致であろう。今述べたとおり、「雪の階」の主人公は笹宮維佐子という女子学習院高等科に通う20歳の女子学生である。維佐子の父、笹宮惟重侯爵は当時の日本を揺るがせていた天皇機関説を弾劾する論客として自らを売り出し、軍部の黒幕として政界で暗躍することを画策しているが、野望とは裏腹の愚かしい小物ぶりは物語が進行するにつれて明らかとなり、ついには自らが主筆を務める『皇道日本』なる怪しげな新聞をめぐるスキャンダルによって失脚する。しかしながら華族に名を連ねる名家である笹宮家の日常をめぐる記述は当時の上流社会の息吹を伝えて精彩に富む。
 冒頭に戻ろう。維佐子が訪れたサロンで演じられたのはカルトシュタインなる容貌魁偉なドイツ人ピアニストによる演奏会であり、カルトシュタインは人を介して維佐子に封蝋された手紙を渡す。カルトシュタインは維佐子の母方の叔父にあたり、発狂してベルリンに出奔したとされる白雉博允と親交があり、白雉から維佐子のことを聞かされていたという。丁寧に書き込まれた描写から当時の華族の生活、そして数学と碁を愛好し、エラリー・クイーンやヴァン・ダインを原書で読み、人とはあまり交わらぬ維佐子のやや奇矯な性状が浮かび上がる。維佐子の家族関係はやや複雑で母の瀧子は惟重の後妻にあたる。維佐子の実母である崇子は白雉の妹にあたり、維佐子の兄、惟秀も崇子の子、弟の惟浩は異母弟にあたる。このような血縁関係ももちろん内容と深く関わっている。冒頭に近い章に、邸内の温室の中で新たに取り寄せられた食虫植物、ハエトリソウの葉の間に、嬉々として昆虫を投げ入れる維佐子の描写がある。最初は楚々とした印象の維佐子が物語の中で一種怪物的な存在に変貌していく過程は本書の読みどころのひとつであり、自身の蜜で昆虫を呼び寄せては取り込んで消化してしまう食虫植物が端的に維佐子のメタファーであることも読み進めるうちにおのずから明らかとなる。演奏会には約束していた維佐子の親友、宇田川寿子が現れず、数日後、維佐子は欠席を詫びる寿子からの葉書を受け取る。葉書にはなぜか仙台の消印が押されていた。訝る維佐子のもとへ衝撃的な知らせが届く。寿子が旧知の陸軍士官とともに富士の樹海で絶命しているのが発見されたのだ。果たして寿子は陸軍士官と情死を遂げたのであろうか。かくして第一章の末尾においてまず一つの謎が提示される。
 謎があるところには探偵が登場する。第二章から登場する探偵ならぬ女探偵はかつて「おあいてさん」と呼ばれ、維佐子の子守役を務め、今は「東洋映像研究所」で写真家の助手として働く牧村千代子である。自分より三つ年上で数少ない友人である千代子に対して、維佐子は寿子から届いた葉書を示し、仙台と富士の樹海という場所の齟齬を語る。千代子は旧知の新聞記者、蔵原誠治とともに寿子の足取りを追って東北本線に乗り込み沿線で聞き込みを始める。二人の調査によって、寿子と久慈という陸軍中尉が最初に向かったのは仙台ではなく日光ではなかったかという疑いが浮かぶ。重い主題を扱っているにもかかわらず、全編に漂うユーモアもまた奥泉の小説の持ち味だ。千代子と蔵原の珍道中にも微笑を誘う多くのエピソードが書き込まれ、二人の間に次第に恋心が芽生えることもたやすく了解される。死体となって発見された寿子は妊娠していた。寿子が日光近辺を訪れたとするならば、それは病院を訪れて妊娠の判定およびその「処置」を仰ぐためではなかったか。このような推理に基づいて千代子と蔵原は沿線の病院をめぐり、この過程で紅玉院という謎めいた尼寺を知る。一方、維佐子も日光へと向かう。カルトシュタインの誘いを受けて、日独文化交流協会の関係者や新聞記者たちとともに日光への小旅行に同行することになったためである。日光の夜の中で様々な物語が交錯する。ナチズムと日本の国体をめぐる男たちの熱い議論、男女の一夜の逢い引き、そして翌朝、喘息と心不全のために絶命したカルトシュタインの遺骸が発見される。二番目の死である。そしてその夜半、維佐子の兄、宇都宮の陸軍聯隊に赴任しているはずの惟秀がカルトシュタインのいた離れ家を訪問したという真偽不明の証言が残される。
 第三章以降も様々な物語が繰り広げられる。素行の悪さゆえに学習院を放校寸前に追い込まれた維佐子の腹違いの弟、惟浩とその女友達が遭遇した事件、軽井沢での維佐子の見合い。見合いの当夜、見合いの相手そして維佐子と交渉をもった男たちがホテルのカフェに集う様子はさながら一つの小喜劇だ。分身(ダブル)や男色、オカルティズム。奥泉の小説やミステリーでおなじみの主題が次々に物語の中に投入される。何人かの登場人物が突如姿を消し、あるいは事故を装って殺される。ソビエトへ亡命する者やドイツの間諜組織への内通が疑われる者。正体不明の「組織」あるいはスパイの暗躍が噂され、第二次大戦前夜の騒然とした世情を背景に物語はゼロ時間、昭和11年2月26日の雪の朝へと向かって収斂していく。千代子と蔵原らの調査により、事件の核心に紅玉院とその周辺の人物が関与している疑いが強まり、維佐子は自らこの尼寺に向かい、意外な人物と出会うことになる。この小説はミステリーの体裁をとっているから、ここでそれらの詳細については述べない。確かに終盤で宇田川寿子の「情死」をめぐる真相は一応明かされる。一応と述べたのはその真実性については物語の中でも留保がつけられているからであるが、実はこの小説は終盤で一種の転調を遂げる。すなわち私たちが主人公の友人の死をめぐるミステリーとして読み進めていた物語はある時点よりもう一つの謎、主人公たる笹宮維佐子とは何者であるかという謎の探索へと転じるのである。日光で維佐子の写真を撮ろうとした千代子は、生身の維佐子には表情の魅力があふれているにもかかわらず、カメラのファインダー越しに覗いた維佐子が「どんな感情も表出することなく風景の中に突出し、意思なく海中を浮遊する水母のごとく空中に浮かんでいた」ことを発見し、「驚怪の極み」と感じる。あるいは同じ千代子の口を通して語られる幼時の神隠しのエピソード、物語の中に配されたこれらの奇妙なエピソードは奥泉らしい周到な伏線であり、次第にその意味が明らかとなる。読み終える時、本書には主人公をめぐる別の謎が秘められていたことを読者は知ることとなるはずだ。
 最後に例によってこの小説の形式に目を向けておきたい。この小説は三人称で語られ、語り手は全能の話者として安定している。しかし別のレヴェルの話者が登場する箇所が二つ存在する。一つは第五章の冒頭に掲げられた登場人物の一人から維佐子に宛てられた手紙であり、この手紙は寿子の死をめぐる謎に関する「最初の」謎解きという意味をもつ。もう一つは説話論的には必ずしも判然とはしないが、随所に挿入される維佐子の幻視に関わる部分である。最初に示した冒頭部もそれにあたる。確かにそこには幻視したのは維佐子であるという記述があるが、幻視とは当事者のみによってしか確認しえないから、かかるヴィジョンは維佐子によって占有されていると考えてよかろう。最初に述べたとおり、維佐子の幻視は個人的なそれではなく、国家や民族と深く関わっており、端的に日本人の滅亡と再生と関わるヴィジョンなのである。同様の幻視は「神器 軍艦『橿原』殺人事件」そして「東京自叙伝」の中でも語られていたと記憶するが、日本という国家と民族の存在が欧米列強との競争との中で危機に瀕し、しかもこのような危機感が人々に強く共有されていた昭和維新前夜という舞台を得ることによって、維佐子の幻視の必然性と切迫性はかつてなく高められている。しかし本書の中で笹宮侯爵が、青年将校たちが、憑かれたように叫ぶ日本国、あるいは日本民族とは果たして実定的に存在するのか。私は本書の文体こそがそれを批判していると考える。私は奥泉のよい読者ではないが、主な小説は通読している。それらと比べても本書は時代および当時の華族の生活の考証において実に入念であり、相当の準備とともに執筆されたことが理解される。それに見合うかのように文体も重厚で日本語の語彙については相当の自信をもつ私でさえ初めて出会う漢語がずいぶんあった。その一方で明らかに意図的に多用されているのは外国に起源をもつ言葉に対するルビである。もちろん昭和初期の上流階級の生活には多くの欧米由来の品が入ってきたはずであるから、このような表記には一定の必然性がある。しかし明らかに通常であれば片仮名で表記されるような言葉、例えばバッグ、ショール、シャンデリアといった外来語が手鞄、肩掛、装飾灯といった普通は用いない漢語のルビとして当てられている点は明らかに意図的であり、それはやはり例えば尊崇、素志、遭逢といった通常では用いられない特殊な漢語の読みにルビがふられていることに対応している。つまり日本語で執筆されたこの小説文体の形式において日本語が漢語と欧米の外来語のハイブリッドとして成立しているという事実を露わにしているのだ。純粋性と雑種性の対立は本書の隠された主題の一つである。登場人物の一人が主張する貴種の純粋性、それは直ちに神人思想につながるのであるが、その不可能性、すなわち日本という国家、民族、言語が本来的に雑種であるという認識が文字通り語りの形式を通して明らかにされる。小説という枠組の中で、語られる内容と語る形式を乖離させ、それによってメタレヴェルにおける語りの可能性を探求すること、このような一種の超絶技巧を堪能することが奥泉の小説を読む際のいつもながらの醍醐味なのである。
by gravity97 | 2018-06-18 22:47 | 日本文学 | Comments(0)