林道郎『静かに狂う眼差し』

 

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 このところ、外部の関係者にキューレーションを依頼するコレクション展が話題を呼んでいる。先にレヴューした豊田市美術館における岡崎乾二郎による「抽象の力」に続いて、佐倉のDIC川村記念美術館で美術批評家林道郎をゲスト・キューレーターに招いた「静かに狂う眼差し―現代美術覚書」が開催され、関連書として水声社より本書が刊行された。展示はすでに終了しており、残念ながら私は見ることができなかったが、カタログというより一種のコンセプトブックとして刊行された本書によって展示のおおよその輪郭を知ることができる。この美術館について私は開催された展覧会についてこのブログで何度か論じているし、ロスコ・ルームを含むコレクションについてもよく知っている。この美術館がとりわけ戦後アメリカ美術に関しては優れたコレクションを有している/いたという事情、あるいは同じ批評家による「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」という連続公演の中で、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマンといった、まさにDIC川村記念美術館で個展を開催した作家たちが取り上げられていたことを勘案するならば、この美術館が林に企画を任せた理由を推測することは容易である。私は展示を未見であるため、本書以外に展覧会のカタログが発行されたかどうかわからないが、主要作品の図版を収め、展覧会と関連した多くの興味深い話題が論じられた本書があれば十分であろう。

 本書の内容はおそらく展示の構成に準拠しており、四つの章から構成されている。すなわち「密室の中の眼差し」「表象の零度―知覚の現象学」「グレイの反美学」「表面としての絵画―ざわめく沈黙」であり、マティスに始まり60年代のミニマル・アートにいたるモダニズム美術が俎上に上げられている。タイトルからうかがえるとおり、テーマに沿って時代やジャンル、国籍の異なる美術家が次々に召喚され、刺激的な議論が展開される。例えば最初の章で最初に触れられるのはブラッサイによるアトリエの中のマティスとモデルを記録した一葉の写真である。林はこの写真をめぐる伝記的な事実の確認に始まり、マティス、ピカソ、さらにはコーネルから瀧口修造、リチャード・ハミルトンから中原佑介によって企画された「不在の部屋」展へと議論を展開する。林の議論のアクロバティックな展開は本書を読む醍醐味であるが、言及される作品は多くの場合、DIC川村美術館のコレクションという範疇の中から選ばれている。この美術館は洋の東西、時代を問わず多くの優れた作品を所蔵しているが、逆にいえば必ずしも体系立ったコレクションとして成立している訳ではない。しかしかかる限定のゆえにそれを逆手にとって斬新なテーマによる展示の組み立てが可能となる訳であり、このような視点の発見こそがコレクションを用いたテマティックな展示の成否に関わっている。紹介されている多くの所蔵作品には見覚えがあるとはいえ、展示を実見しないままでコメントすることに少々気おくれもするが、以下、本書の内容についてコメントを加えておく。

 最初の「密室の中の眼差し」はタイトルがすでに様々なコノテーションをはらんでいる。密室という言葉はひとまずは画家のアトリエを示しているが、日本の戦後美術においては「密室の絵画」という問題提起がなされたことも連想されようし、眼差しという言葉からはノーマン・ブライソンのいう gaze という概念を介して画家とモデル、ジェンダーや視線と権力といった主題も浮かび上がるだろう。冒頭で論じられる、ポーズするモデルをマティスがスケッチする様子を記録したブラッサイの写真からは直ちに画家とモデル、男性の眼差し、絵の中の絵あるいは写真の中の絵といった問題が浮かび上がる。林はきわめて実証的な議論をとおしてモデルを同定し、この写真が撮影された当時のマティスをめぐる状況を確認する。このあたりの手つきの鮮やかさは実際に本書をお読みいただくのがよかろう。この中で林は画家とモデルという主題には常に他者が介在するという興味深い仮説を提示する。他者とは時にモデルや妻といった具体的な位置をとることもあるが、おそらくマティスが想定した最も気がかりな他者とはピカソであったという指摘は説得的だ。二人の関係についてはすでにイヴ=アラン・ボアが重要な研究を発表している。そして林はかかる興味深い主題を惜しげもなく中断して、コーネル、ベンヤミンを介してポップ・アートへと議論を進める。先にも述べた通り、議論の意外な飛躍こそ本書の大きな魅力であり、アトリエという密室は個室そして室内といった主題を介して20世紀後半にはポップ・アートにおいてもしばしば主要なテーマへと転じた。本書の議論からやや離れるが、この章の議論はアトリエの変貌という側面からも検証できるではないだろうか。すなわち画家とモデルのインティメイトな関係の上に成立していたアトリエは第二次大戦後、大きな変貌を遂げる。戦後において画家の仕事場としてのアトリエのイメージとしてまず思い浮かぶのはポロックのそれであり、そこにはモデルはいないしイーゼルもない。ポロックが特異な手法で抽象的なイメージを描くということが理由ではない。林は戦後の作家の仕事場をスタジオ(林はステュディオと表記する)と呼び替えて次のように指摘する。「この『胃袋』(スタジオのこと)は、物だけではなく人やテクノロジーをも飲みこむ、強靭な雑食の胃袋であり、作家自身がストリートから廃物などありとあらゆる素材を持ち込むだけではなく、間断なく他の作家やダンサーや技師らが出入りをし、その痕跡を残していく場であり、自然現象であるかのように刻々と変貌をしつづける『プロセスの時間』―それも同時平行的に進行する複数の時間―が刻印されていた」ここで具体的に想定されているのはトゥオンブリーによって撮影されたラウシェンバーグのスタジオであるが(この作品については同じ美術館で開かれたトゥオンブリーの写真に関する展覧会で私も見た)、この系譜にリチャード・セラやロバート・モリス、さらにアンディ・ウォーホルらを加えるならば私たちはアトリエからスタジオへの変貌という側面から現代美術の展開を検証できるかもしれない。やや話が逸れた。林は「不在の部屋」と「密室の絵画」といういずれも中原佑介が関係する日本の戦後美術のトピックについて短く触れた後、ポップ・アートとエロスの問題を論じてこの章を締めくくる。これも余談的な話題であるが、このセクションに関して最後に一点、私が以前より気になっていたことを記しておきたい。最後に林は「ポップ・アートのダークサイド」としてエドワード・キーンホルツを挙げ、家族写真とポルノ写真がごっちゃになったような《結婚のイコン》という作品の図版が掲出されている。この作品については私も実見したことがないが、実はキーンホルツについては1972年に制作された代表作の一つである《ファイヴ・カー・スタッド》がかつてDIC川村記念美術館に所蔵されていたという情報を耳にしたことがある。人種差別によるリンチ事件を扱ったこの作品については本書の中でも短い言及があるが、かつてロスアンジェルスで見た彼の大規模な回顧展には出品されておらず、手元の画集を確認するならば、確かに日本の個人所蔵家の所蔵という表記がある。作品の所蔵はデリケートな問題であるからこれ以上詮索するつもりはないが、もしキーンホルツのこれほどの大作が日本に存在する/したとすれば、来歴も含めて興味深い。

 第二章では最初にほとんど知られることのない一人の作家に焦点があてられる。1898年に生まれ、西海岸に居住したジョン・マクロフリンという作家だ。私も名前のみ知っていたこの作家について林は興味深い事実を次々に明らかにする。一見、淡白な色面抽象とも呼ぶべき画風で知られるマクロフリンは実は日本と関係が深く、日本に滞在したことがあるのみならず、日本の美術にも造詣が深かったという。林は彼の抽象絵画と雪舟、あるいは日本の建築との関係について論及する。その当否はともかく、長谷川三郎をキーパーソンとしてこれまで前衛書を介して語られることが多かった日本とアメリカ西海岸の美術に関して、全く新しい参照項が与えられた訳であり、この作家については今後も研究がなされるべきであろう。そもそもなぜDIC川村記念美術館が彼の油彩画やリトグラフのまとまったコレクションを所蔵しているかという点も気になるが、残念ながらマクロフリンに限らず本書には作品のプロヴァナンスについての記述が一切ない。そしてここでも林はすぐさま話題を転じて、ミニマリズムにおける東海岸と西海岸の作家たちの関心の差異について論じる。この箇所は本書の中でも私が深い共感とともに読み進めた。東海岸と西海岸のミニマリズムの相違について林は次のように述べる。「(東海岸の)ステラやジャッドは平面の内部に生じるイリュージョンを否定するために平面を、イメージの投影面ではなく、それ自体の物体性、触知的な存在性においてとらえることに関心をもっていた―ゆえにその物体が生じさせる影などは、副次的な効果としかとらえられなかった―のに対して(西海岸の)アーウィンやベルは、画面内のイリュージョンを排するだけではなく、すべて視覚に生起する出来事を均等に情報としてとらえる方向を目指したという相違が生じていたのだ」このパッセージは時にミニマリズムの範疇に一括されるモリスとラリー・ベルのキューブ作品の本質的な相違を明確に指摘しており、目から鱗が落ちる思いであった。端的に述べるならば東海岸のミニマリズムは作品の精密さを求めていない。これに対して西海岸のミニマリズムは作品の精妙な構造に注目し、しばしば知覚の構造へと遡及する。この章のサブタイトルとして「知覚の現象学」というメルロ・ポンティの著作の名が引かれていることは象徴的であり、同じ現象学から出発しながらもアメリカの西海岸と東海岸で作家たちの関心の所在が分岐していく様子が説得的に論じられている。西海岸の作家たちの視覚への関心はニューヨークにおいては別のかたちで検証される。それは1965年にニューヨーク近代美術館で開催された「リスポンシブル・アイズ」という展覧会である。「応答する目」といった訳語が与えられたこの展覧会は美術史的にはいわゆるオップ・アートを紹介する展覧会とみなされている。マクロフリンとベルという既に言及した作家がこの展覧会に出品していたことを私は初めて知った。多様な作家が出品したこの展覧会を、林はクレメント・グリーンバーグが主張した絵画の還元的過程が一つの極点に達していた状況(それを象徴する作家こそ、この美術館が多くの優品を所蔵するフランク・ステラである)の中で手際よく整理する。ここでは西海岸の作家という補助線を引くことによって当時のアメリカの美術界の新しい見取り図が与えられる訳だが、それを可能としたのは例えばマクロフリンやベルといった日本においてもおそらくこの美術館しか所蔵していない作品が展覧会に加えられたことであった。この意味でもコレクションから出発したこの展示は思いがけない発見をもたらしたといえよう。

 続く「グレイの反美学」のセクションでは色彩もしくは非色彩としてのグレイ、灰色が主題とされるが、ここで林の関心は飛躍というより乱反射するかのようである。ジャスパー・ジョーンズで語り始められることに特に驚きはない。ジョーンズの鉛のレリーフは確かにグレイであるし、地図や国旗をグレイで覆った作例も直ちに思い浮かぶ。ジョーンズとジャコメッティを経由して林はモノクローム絵画という問題へと踏み込み、ステラやイヴ・クラインといった予想される顔ぶれ、ウォーホルや田中敦子といったやや意外な顔ぶれの作品に触れた後、ゲルハルト・リヒターの一連の絵画について達する。ジョーンズが用いた鉛という素材から私はむしろリチャード・セラを連想し、ミニマル・アートからアルテ・ポヴェラ、もの派にいたる一連の非芸術的な動向における色彩の欠落、非色彩の系譜に興味を抱くが、本書ではこれらの作家は軽く触れられるだけで、意外な方向に議論が進められる。すなわち意味のグレイゾーンとしてのベッヒャー夫妻の一連の写真作品が紹介され、同様の意味の不在において赤瀬川原平の「超芸術トマソン」が引用される。おそらくこれらの作品もコレクションに収められていたためであろうが、少々牽強付会という感じがしないでもない。手術台の上のミシンと蝙蝠傘ではないが、意外な作品が展示において隣同士に配置された場合、時に思いがけない発見がもたらされる一方、下手をすればちぐはぐな印象を与える。このセクションでは続いてグレイ=コンクリートという連想から車、そしてタイヤの跡といったテーマが導出され、オルデンバーグやラウシェンバーグが召喚される。疾走するハイウェイの車窓風景と関連させてアメリカ美術を論じた宮川淳などもかすかに想起されるが、さらに梱包という主題を介して赤瀬川とクリストに及ぶにいたっては議論の飛躍がいささか激しすぎるように感じた。

 「表面としての絵画―ざわめく沈黙」と題された最後の章は比較的短いが、ポロックからルイス、ステラ、ライマン、そして中西夏之といったこの美術館の現代美術コレクションの絶頂とも呼ぶべき作品について論じられる。この章では主として二つの問題が検討される。一つは作品のサイズとスケールの問題であり、抽象表現主義を語る際にはしばしば論及される主題である。本書の装丁にも用いられているポロックの絵画が小さなサイズであることはいささか皮肉に感じられるが、林はサイズとスケールの問題についてメキシコの壁画運動やWPA、あるいはペギー・グッゲンハイムの今世紀の美術ギャラリーといった問題と絡めて論じる。後述するとおり、この章の議論は必ずしも十分に深められていないように感じられ、それには一つの原因があるだろう。この章で論じられるもう一つの問題は水平と垂直の関係だ。この問題についてもすでにオクトーバー系の批評家たちによる研究が存在し、例えばロザリンド・クラウスは「視覚的無意識」の一章をポロックにおける水平と垂直の問題に割いている。以前林らが『美術手帖』に連載した美術史学の方法論に関する研究の中でも触れられていたと記憶するが、ここで林は中西夏之とライマンというお気に入りの画家二人を取り上げ、壁面との関係において示唆に富む議論を行っている。

この章の冒頭で林は「川村のコレクションにその名を発見することのできる戦後の抽象を代表する作家」であり「私たち見る者の身体を包むようなスケールをもった作品」の描き手として以下の名を列挙している。ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、モーリス・ルイス、フランク・ステラ、アド・ラインハート、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマン、李禹煥、中西夏之。しかしここにはかつてこの美術館で展覧会が開催され、スケールという点で当然触れられるべき一人の作家の名前が欠落している。なぜならばこの美術館が作品を所蔵していないからであり、正確に述べるならばかつて所蔵していた作品が今や存在しないからである。バーネット・ニューマンの傑作《アンナの光》の売却をめぐる経緯をここで繰り返すことはしない。しかし最後の章が抽象表現主義絵画を直接の主題としているにもかかわらず、あたかも一つの禁忌であるがごとくニューマンの名前は注意深く排除されている。ニューマンの名前の不在が意図されたものか偶然であるかはわからないが、画面のサイズや垂直性が論じられるこの章でこの画家の名前が一度も引かれないことはかなり不自然に感じられる。ニューマンに触れるならば、かつて彼の最高傑作をこの美術館が所蔵していたことに触れざるをえないだろうから、書き手に一種の配慮が働いたことも想像されるが、この結果、最後の章がいささか議論の深みに欠ける印象を受けたのは私だけだろうか。例えば本書においてはマーク・ロスコについての言及があまりない。もちろんロスコの素晴らしい連作はロスコ・ルームという別室に設置されているから、この展覧会とは一応切り離されている。しかし少なくとも本書が単なる展覧会カタログではなくこの美術館のコレクションに触発された思索の「覚書」である以上、ロスコの名品についてさらに論じられてよかったのではないだろうか。しかしロスコを語るならば、同じ色面抽象の画家であるニューマンに触れざるをえないから、あえて記述が抑制されたと考えるのはうがちすぎであろうか。求心性と遠心性の問題でもよい、壁面あるいは室内との関係という問題でもよい、ロスコとニューマンの対比は現代美術をめぐる考察にとってきわめて多産的で有意義であるはずだ。そして実際にかつてはこの美術館を訪ねて、同じ建物の中でロスコとニューマンの最高傑作と呼ぶべき優品を比較するという奇跡のような体験さえ可能であったのだ。

 本書は現代美術をめぐる刺激的なエッセイであり、読み進む中で多くの知見を得た。このようなエッセイが展覧会を契機として一般書籍として刊行されたことは意義深い。欧米、特にフランスでは哲学者や批評家を招いてコレクションによる展覧会を開催し、企画と関連した著作を世に問う試みが定着し、私たちはジュリア・クリステヴァからジョルジュ・ディディ=ユベルマンにいたる系譜をたどることができる。日本における同様の試みとして私はこの未見の展覧会を高く評価するし、実見できなかったことはおおいに悔やまれる。しかし最後に指摘したとおり、もしこの展示の一角に《アンナの光》が含まれていたとすれば、私たちはさらなる議論の深まりや飛躍に立ち会えたはずだ。優れた作品はさまざまな思考を誘発する。そのような思考を誘発する場所として美術館が果たすべき責務について私たちはもう一度考えてみるべきであろう。


by gravity97 | 2017-09-09 09:32 | 現代美術 | Comments(0)

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