人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

「没後90年 萬鐵五郎展」

 

「没後90年 萬鐵五郎展」_b0138838_20574373.jpg
葉山の神奈川県立近代美術館で萬鐵五郎展を見る。会場を埋め尽くす膨大な数の作品に圧倒されるが、それでもまだ100点以上の未陳作品があり、会期中に大規模な展示替えが行われるという。萬については、これまで大正期の新興美術と関連した企画展や主要な美術館の常設展で多くの作品を見てきたが、なぜかちょうど20年前に東京と京都の国立近代美術館で開催された回顧展を見落としている。このたび初めて回顧展というかたちでこの画家の画業を通覧し、多くの発見や確認を得ることができた。

 以前より萬の作品が気になっていたのは、画業の中にいくつもの奇妙な作品が散りばめられているからだ。代表作である《裸体美人》のモデルが置かれた空間の歪み、より正確には仰臥と直立の中間にあるような不思議な姿勢については蔵屋美香が考察を加えていた記憶がある。あるいは《雲のある自画像》に現れる頭の上の雲という謎めいたモティーフ、「仁丹」の文字が大書された奇妙な風景画。その一方でキュビスムや未来派、あるいは表現主義の日本における規範的な作品も同じ一人の画家によって制作されているのである。これほど分裂的で魅力に満ちた作品がわずか41年という短い生涯の中で制作されたことには誰しも感銘を受けるだろう。

 展示の最初に東京藝術大学に在学中の油彩や水彩が展示されている。首席で入学したという逸話もさもありなんと思われる端正でみずみずしい作品である。黒田清輝の影響を強く受けた様子もうかがえる。しかし数年のうちに作風は大きく変わる。分割技法、あるいはフォーヴィスム風の表現が取り入れられ、明らかに同時代の先端的な表現を進取する姿勢が認められる。外遊といえばアメリカに比較的短い時期しか滞在したことがない萬がこれらの表現をどのようにして知ったかは興味深い問題であり、いくつかの先行研究が存在する。しばしば指摘されるとおり、ヨーロッパにおいて別々の文脈に生まれたキュビスムや未来派、表現主義といった動向はほぼ同時に区別されることなく日本に導入された。この時代にあって萬はあたかも一人の画家が最先端の動向を次々に試行するがごとき特異な作品を残して、その早すぎる生涯を閉じた。首席で入学した萬が、点描風の《自画像》と先述の《裸体美人》を卒業制作として提出し、卒業時の成績は本科卒業生19名中16位であったというエピソードは今述べたような新しい表現に対するアカデミズムの敵意を反映しているだろう。しかし萬は臆することなく制作を続ける。《裸体美人》が日本におけるフォーヴィスムの典型であるように、《風船を持つ女》や《赤い目の自画像》といった作品は日本における未来派受容の規範的な作品であり、表現主義からキュビスムまでこのようなリストを広げることはたやすい。

 今回の展示で私があらためて関心を抱いたのは、展示の中で「沈潜」というタイトルを与えられた1914年以降、いわゆる土沢時代と呼ばれる時期の作品である。家族とともに郷里の岩手県土沢に帰った萬は展覧会のキャッチコピーにある「目をあけている時は即絵を描いている時だ」という言葉のとおり、絵画の制作に没頭する。日本におけるキュビスムの代表作とも呼ぶべき《もたれて立つ人》が制作されたのもこの時期である。しかし私は表現の幅を超えて、むしろこの時期の作品に認められる一つの共通性に興味を引かれた。それは色彩、具体的には独特の赤褐色の画面である。この時期、萬は人物や風景、静物といった多様なモティーフを描いたが、そのほとんどを赤褐色の濃厚なマティエールの中に実現されている。かかる色彩が何に由来するかは私にはわからないが、この多産な時期、萬が色彩に関してはきわめて抑制的であったことは記憶されてよかろう。キュビスムもその草創期においてはモノクロームに近い色調が多用され、それは形態の探求という目的に対して色彩という非関与的な要素の介入を減じるためであった。しかし萬はキュビスムに意識的であっただろうか。確かに《もたれて立つ人》は日本におけるキュビスム受容を論じるにあたって必ず言及される作品である。しかし今回の展示を通覧して、私はキュビスムに類した作例がさほど多くないことをあらためて知った。確かに人体を描いたドローイングの中にはニグロ彫刻に着想を得たピカソの絵画に類した例も認められよう。しかし自画像の系譜の最後に《目のない自画像》を置くならば、作家の関心はキュビスム的な明晰さではなく、むしろアンフォルムとでも呼ぶべき不透明さ、晦渋さへと向けられていることが理解されよう。この点は風景画においてはさらに明確だ。キュビスムにおいて幾何学図形へと解体される風景とは異なり、そこに描かれるのはうねり、脈打つようななんとも生命的な風景である。私はこれらの風景から脈動あるいは蠕動といった言葉を連想した。《丘の道》と題された作品に対して「内臓模型のような」という言葉が残されているというが、的確な評であろう。《丘の道》とおそらくは同じ風景を描きながらも、補色対比という点で不穏な印象を与える作品には《かなきり声の風景》というタイトルが付されている。いずれも風景が身体のメタファーとして提示されていることを暗示してはいないだろうか。「風景の中の女性」という主題は西欧にあってはルネッサンス以降、伝統的なモティーフであるが、萬が描く肉感的な風景は風景と人体を折衷するかのようである。一連の風景画の中でも私が特に感銘を受けたのは1918年の《木の間風景》という油彩画である。タイトルのとおり木の間から透かし見たような風景が抽象的に表現されており、浅い奥行きの中にたたみ込まれるように展開するイメージはきわめて独特で美術史に類例を求めることが難しい。ただし今回一緒に展示されていたドローイングを見て、かすかにカンディンスキーの残響を認めることができるように感じた。実際の影響関係については詳細な研究を待ちたいが、すでにこの時代に一種の国際的な同時性、モダニズムへの志向が認められることは興味深い。

 土沢時代の特に風景画からは画家の内面の不安が感じ取れる。実際にこの時期、神経衰弱と肺結核と診断された萬は1919年に神奈川県茅ヶ崎に転居し、いわゆる茅ヶ崎時代が始まる。この展覧会では「解放」という章のタイトルが与えられている。転地療養の効果を示すように、画面には明るい色彩が回復され、土沢時代の一途で切迫した印象からは「解放」される。キュビスム的な対象の把握は保持される場合が多いが、人物の描写もおおらかな場合が多く、とりわけ娘を描いた一連の作品からは父としての愛情が伝わってくる。実験的な作品は比較的少ないが、その中でも《水浴する三人の女》という大作が帝展落選後、作家によって裁断されてしまったことは残念である。セザンヌやマティスを彷彿とさせるイメージが萬によってどのような変奏を遂げたかは、たとえ作家が失敗作とみなしたとしても是非見てみたかったと思う。(裁断された一部は本展にも出品され、構図を確認するデッサンが数枚残されている)それというのも、私はデッサンに残された三人の裸婦の姿から、セザンヌやマティス以上にピカソの《アヴィニョンの娘たち》が連想されてならないからだ。この時期の萬の絵画も成熟とか熟成とは無縁の相当な異様さをはらんでいるように私は感じた。しかし萬に残された時間はさほどなかった。1926年にはいくつかの絵画でモデルを務めた長女登美が結核のため亡くなり、その悲嘆もあったのであろうか、翌年、萬も肺炎によって短い生涯を終えた。絶筆となった《宝珠をもつ人》もまた奇妙な作品であり、カタログの作品解説には「謎めいた絵ばかり多い萬の中の、最大の謎作品といえるだろう」と記されている。この作品については原田光が各論の一つを割いて論じているから、ここではこれ以上触れることはしないが、まことに萬の絶筆にふさわしい謎めいた作品である。

 最初に書いたとおり、今回の充実した展示から多くの発見があった。例えば丁字路や飛び込み、あるいは傘をもつ女性といったモティーフを萬が好み、いくつもの作品に描いたことを私は初めて知った。ふんだんに配置された資料類、とりわけ萬自身によって撮影された写真と絵画の関係も興味深い。夭折した画家であるにもかかわらず、これほどの作品と資料が残されていることは作家の旺盛な創造力、そして遺された作品や資料が大事に伝えられてきたことを暗示しているだろう。今回あらためて驚き、私の中では謎として残ったのが、多くの南画系の水墨画の存在である。後年期、茅ケ崎時代が多いらしいが、萬は膨大な数の水墨画を制作し、今回の会場でも十分に紹介されていた。このような探求は比較的初期から続けられ、早すぎる晩年には《水浴する三人の女》の帝展落選後のスランプから立ち直るきっかけともなったらしい。油彩画との関連が認められる作例もない訳ではないが、多くが主題的にも東洋的であり、作家の全く異なった境地を見せている。最初に私は萬の画業を分裂的と評したが、分裂は単に油彩画の画風のみならず、油彩画と南画の間にも認められる。かかる分裂の間で一体、萬がどのような絵画を構想していたのか。この展覧会を見て、作家と作品への関心は深まるばかりである。

 一人の作家の個展は展覧会の基本であるが、この展示は萬とゆかりの深い三つの美術館が総力を結集して組織した充実した内容であり、見どころに富む。先般の愚かな大臣による「学芸員は癌」という発言にみられるとおり、現在、民営化やコンセッションといった本来美術館と背反する制度の導入が画策され、収益と集客といった「別の評価基準」が美術館に対して臆面もなく要求されている。これに対してこのような手堅い展示を淡々と続けることは美術館のレゾン・ド・エートルをあらためて表明する意味でもきわめて重要であろう。これほどの展覧会が盛岡、葉山、長岡の三館しか巡回せず、西日本で展示に触れる機会がないことは残念に感じられる。


by gravity97 | 2017-07-23 20:59 | 展覧会 | Comments(0)