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Living Well Is the Best Revenge

『ニルヴァーナからカタストロフィーへ●松澤宥と虚空間のコミューン』

 

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以前、このブログでも少し言及したが、「ニルヴァーナからカタストロフィーへ●松澤宥と虚空間のコミューン」と題された資料集についてレヴューを残しておきたい。この資料集は今年の33日から422日までオオタファインアーツで開かれた同名の展覧会に際して刊行され、展示そのものは私は未見である。

 日本の戦後美術史にはあたかも虫喰いのごとく、重要な作家や動向であるにもかかわらず解明がほとんど進められていない対象が存在する。松澤宥と日本概念派もそのような盲点であった。厳密には松澤については過去に一度、美術館レヴェルでの回顧がなされている。すなわち1997年に埼玉の川口現代美術館で開かれた「スピリチュアリズムへ 松澤宥 1954-1997」であり、私も訪れた覚えがある。しかしこの展覧会は比較的小規模であり、カタログも過去の活動についての言及に乏しかったのに対して、今回の記録集は松澤が最も精力的に活動した1969年から73年という期間を主たる対象としたきわめて充実した内容であり、情報量に富む。フェミニズムの作家としても知られる嶋田美子が監修にあたったとのことであるが、本来ならば美術館のキューレーターによってなされるべき仕事がギャラリーと必ずしも美術史を専門としない研究者によって達成された訳である。京都のギャラリー16とギャラリーに勤務していた坂上しのぶの手によってまとめられた一連の関西の戦後美術に関する研究同様、美術館、キューレーターの手によらない、特筆すべき成果といえよう。

 以前にもこのブログに記したとおり、私が松澤の仕事に強い印象を受けたのは2014年に開催された横浜トリエンナーレ2014であり、初めて多くの作品を目にすることができた。同じ展覧会で松澤とともに焦点があてられていた殿敷侃についても先日、広島市現代美術館において大規模な回顧展が開かれたことは既に論じた。同じ年に二人の異端の前衛作家の仕事が検証されたことは意義があるだろう。私は横浜トリエンナーレで諏訪の松澤の旧宅に設置された「プサイの部屋」の再現に感銘を受けたのであるが、嶋田によれば横浜での展示は「同寸同大のホワイトキューブに『プサイの部屋』から取り出した数点を展示したにすぎず、実際の部屋とは似ても似つかぬもの」であったという。知られているとおり、松澤は1964年に「オブジェを消せ」という啓示を得たことを契機に独自の概念芸術を創出した。しかしこの一方でそれ以前に制作された作品、とりわけ読売アンデパンダン展に出品された一連の廃品芸術を中心に、自宅の屋根裏の蚕室に「プサイの部屋」と呼ばれる特異なインスタレーションが設置され、これらは移動することが困難であった。このため松澤のオブジェは紹介される機会を逸して、先行研究に乏しい。これまで日本の戦後美術の通史を扱った研究においても「現代美術逸脱史」においては「日本概念派」として高松次郎らとともに一括りにされ、「日本・現代・美術」においては脚注の中にしか登場しない。黒ダライ児の怪著「肉体のアナーキズム」においても、そこに主に論じられた作家たちとは微妙にテイストが異なるためであろうか、むしろ周縁的な話題として論及されている。逆に1999年にクイーンズ美術館で開かれた「グローバル・コンセプチュアリズム」、近年では富井玲子の近著「荒野のラディカリズム」といった英語圏での評価が逆輸入されつつある点は具体美術協会、あるいはもの派といった日本の戦後美術の動向と似ている。

 今述べたとおり私は今回の展示を見ていないので、作品ではなくこの記録集に基づいて論じる点を最初にお断りしておくが、記録集といえどもこの冊子は図版も多く、資料性が高い。そもそも松澤の作品は言語を媒介とする場合が多いから、必ずしも実体を必要とせず、写真や印刷物によって伝えることが可能だ。この記録集は作家の活動の全幅を簡潔に伝えており、さらに作家の没後残された膨大な資料を用いて編纂されている点はアーカイヴという問題と深く関わっている。この話題については後で立ち戻ることにしよう。本書はクロノロジカルに九つのセクションから構成されており、次のように分類されている。

1. ニルヴァーナ以前(1950年代~68年)/ 2. ハガキ絵画(1966年~68年)/ 3. 美術という幻想の終焉(1969年)/ 4. アート・アンド・プロジェクト(1969年~1973年)/ 5. ニルヴァーナ(1970年)/ 6. フリーコミューンの萌芽(1970年~1971年)/ 7. 世界蜂起(1971年~73年)/ 8. ひらかれている(1972年)/ 9. カタストロフィー・アート(1972年~)

年記を見れば明らかなとおり重複や逆転を伴うかなり恣意的な分類であるから必ずしもこの区分に拘泥する必要もなかろうが、松澤の1970年前後の活動に一定の見取り図を与えてくれる。私も90年代以降、松澤の儀式的なパフォーマンスを何度か見たことがあるが、それらはすでに形骸化した感があり、あまり感心しなかった。これらのパフォーマンスと比しても、ここで取り上げられた多くの活動は多様かつ先鋭であり、松澤の活動の絶頂をかたちづくっている。もっとも私は松澤の仕事についてこれまでほとんど知らず、正直に言えば思わせぶりで秘教的な作品にさほど共感を覚えることもなかった。しかしこの作品集を通読するならば、作家の活動が今日においても検討すべき多くの問題をはらんでいることが理解された。ここではいくつかの所感を書き留めておくことにする。

本書ではまず196461日深夜、松澤が「オブジェを消せ」という啓示を受ける前後の活動に遡ってその活動を検証する。「~を消せ」というネガティヴな定言は松澤の作品の本質と関わる。それまで読売アンデパンダン展に代表される美術展への出品を活動の中心に置いていた作家がこの年に企画した「荒野のアンデパンダン展」とは諏訪の高原湿地に出品者が作品ではなく想念を送るというまことに奇怪な内容であり、瀧口修造や池田龍雄らが「出品」したという。翌年の長良川におけるアンデパンダン展同様に、松澤が活動の初期に野外を舞台とした活動を繰り広げていたことは興味深い。具体美術協会の野外展から松澤、関根伸夫の《位相-大地》にいたる日本の戦後美術における野外展示の系譜はあらためて検証されてもよいのではなかろうか。あるいはこの時期から松澤は郵便を手段とした一連のメールアートを繰り広げていたことも理解される。この先例としては具体美術協会が機関誌を海外に送付したことが挙げられようが、松澤も同様にコレンスポンデンスの相手を海外へと広げていく。

 私があらためて驚いたのは、早くもこの時期に松澤がコンセプチュアル・アートをめぐる世界的なネットワークを形成し、メールアートというかたちで作品のやりとりを続けていたという事実だ。これについて本書は多くの知見を与えてくれる。このうえで重要な役割を果たしたのはアドリアン・ファン・ラヴェスティーンとギールト・ファン・ベイレン・ベルゲン・ハーネゴーヴァンという長い名前をもつ二人のオランダ人である。彼らの名前、そして二人が設立したアート・アンド・プロジェクトという組織を私は本書で初めて知ったが、この組織に関してはコペンハーゲン大学のピーター・ファン・ダー・メイデンという研究者が長いテクストを寄せている。それによれば松澤とアート・アンド・プロジェクトを仲介したのはオランダのコンセプチュアル・アーティスト、ヤン・ディベッツらしい。ディベッツは中原佑介と面識があり、1970年の東京ビエンナーレ、「人間と物質」にも出品しているから、松澤のオランダ・コネクションはここに由来するだろう。1975年頃まで続く両者の関係は基本的に良好であり、松澤は1970年の「ニルヴァーナ」へアート・アンド・プロジェクトへの出品を打診し、逆に同じ年のアート・アンド・プロジェクトの夏季展覧会に招待されたという。この展覧会に出品したというソル・ルウィットやロバート・ライマンの名は知っている。しかしヒデト・ミヤザキあるいは稲憲一郎とは一体何者であろうか。50年代から60年代にかけての具体美術協会、64年のロバート・ラウシェンバーグ、グローバリゼーションの端緒とも呼ぶべき集団や作家の国際的な活動についてはこれまでこのブログでレヴューした近年の研究でその一端が明らかとされたが、70年前後のコンセプチュアル・アートをめぐる日本とヨーロッパの交渉はなおも多くの研究の余地を残している。このような活発な交渉が可能となった背景としては、方法としてのメールアートの成熟と出版物を介した発表が制度化されたことがあるだろう。ここに収められた作品/資料は多くが書簡の形式をとっているし、アート・アンド・プロジェクトは多くのブルティン(bulletin、紀要とか報告の意味)を発行しており、図版から推測するに1971年に発行された42号は松澤のアート・アンド・プロジェクトにおける発表を特集している模様である。両者の関係はかなり微妙で、メイデンによれば次に述べる「ニルヴァーナ」と関連したブルティンも計画されていたが、一号を一人の作家に割り当てる方針と抵触するため中止されたとのことである。その後、72年の84号も松澤を特集しているようだ。

1970年には今触れた「ニルヴァーナ」展が京都市美術館で開催される。ニルヴァーナとは涅槃のこと。松澤のほか水上旬、春原敏之らが中心になって企画されたこの展覧会は次のようなものであったらしい。


「ニルヴァーナ」展は1970812日から14日まで京都市立(ママ)美術館で開催された。参加者は85名、展示作品のほぼ全てがいわゆる「概念芸術」とされるもので、絵画やオブジェなど既成の美術作品の形をとらず、文字や写真による作品、記録、または行為などによるものであった。展覧会は3日間だったが、初日は2階の全室を使い、2日目はその半分のスペースになり、最終日3日は一部屋になり、そして消滅した。


1970年といえば、大阪で万国博覧会が開催され、中原佑介の「人間と物質」も「ニルヴァーナ」と同じ会場に巡回している。一種騒然とした雰囲気の中、真夏の京都で三日間だけ開かれた日本で最初の「概念芸術」を主題とした展覧会についてはこれまでほとんど資料がなかった。今回の資料集には会場や出品作品―といっても書信や写真が多い―の図版が掲載されていて興味深い。明らかにこの展示には当時を代表するコンセプチュアル・アート系の作家たちが集結しており、松澤が世界的な作家のネットワークの中心であったことを物語っている。ここで注目すべきはこの展覧会が「消滅」を一つの主題としている点である。今引用したとおり、展示自体が日々縮小し最後には消滅してしまう。嶋田はたとえばルーシー・リパードによって1968年に提唱された「芸術の非物質化」と松澤の「物質の消滅」という二つの概念の親近性について論じている。作品や会場が徐々に小さくなり、最後に消滅してしまうという手法をこれ以後も松澤はしばしば用いる。松澤の場合、あまりに秘教的なテクストや身振りが過剰なコノテーションを作品に付着させているが、消滅を主題とした作品を現代美術の中で想起してみよう。イヴ・クラインの「空虚」、グスタフ・メッツガーのDIAS(芸術における破壊シンポジウム)、あるいはロバート・スミッソンのアースワーク。いくつも興味深い関係線を引くことができるだろう。

 記録集は続いていくつかの興味深いトピックを提起する。19711231日に始まる「世界蜂起」と題されたメールアートのプロジェクト、1972年に長野県信濃美術館で開催された「ひらかれている」展、1972年にミラノと東京で開かれた「カタストロフィー・アート」である。私はこれまで様々な機会に見知った覚えがある藤原和道の「音響測定」、野村仁のフォトブック、高松次郎や河口龍夫らの一連の作品がこれらのプロジェクトや展覧会と深い関係があることを知って驚いた。そこで紹介された作品は必ずしも言語や写真によるものばかりではない。今名前を挙げた作家たちがこの時期、概念的な作品を発表した背景に松澤からの働きかけがあったと考えることもできようし、この点は個々の作家に即して今後検討されるべき問題であろう。カタストロフィー、あるいはニルヴァーナ・コミューンといった名称は当時の気風も反映している。まず当時、公害や資源枯渇といった話題と関連して盛んに終末思想が唱えられていた。日本沈没やノストラダムスが盛んに喧伝され、このような終末観は松澤のいう「消滅」と結びついている。松澤は第10回現代美術展、いわゆる東京ビエンナーレに「人類よ消滅しよう行こう行こう(ギャティギャティ) 反文明委員会」と大書された垂れ幕を展示したが、オブジェの消滅、物体の消滅、人類の消滅はこのような時代背景と無関係ではない。さらにコミューンへの志向も当時様々なレヴェルで認められる。しかしかかる憧憬は1972年、いわゆる連合赤軍事件によって無残にも断たれることとなる。松澤における政治の問題も重要であるが、このブログの紙幅で扱うには大きすぎる。

 最後に一つの問題について論じておきたい。「ニルヴァーナ・コミューンその後」と題された最終章において嶋田は「カタストロフィー・アート」以後の松澤の次のような言葉を引用している。「芸術(art)というよりそれは証拠(document)と呼んだ方がよいだろう。どんなことでもそれにひっくるめられる可能性がある。だから大変に自由なものだ。Free Document だ。その人が死を意識してその代替として信じたもの、事、心がこれからの大変大事な人類の意識遺産となる。それだ、それが次の芸術だ。これは1972124日午前4時の意見だ」ほぼ同じ時期に松澤は現代芸術資料センターという機関を立ち上げ、全世界の先端的な仕事をしている作家や機関に向けて、作品資料、出版物などを送付するように求めた。実際に多くの資料が送られ、松澤がアーカイヴ化しようとした痕跡が認められるという。嶋田は「松澤の興味の中心が197273年頃からデータの集積とその活用に移っていったことは今日のアーカイヴ研究を先取りしていて興味深い」と指摘している。私はドキュメントと関わる松澤の作品が本質的にアーカイヴ的であり、ハル・フォスターが「アーカイヴ的衝動」と呼ぶ動向のきわめて早い例ではないかと考える。一方でオブジェや物体の消滅を提唱し、非物質化された芸術を標榜しながら、他方「プサイの部屋」に認められるアッサンブラージュの混沌が併存したことはこの点から説明することができよう。私が「プサイの部屋」の写真から連想したのは、かつてポンピドーセンターで見たアンドレ・ブルトンの書斎の再現であった。それは美術館の整理されたコレクションとは全く異なり、ジャンルが異なる品々、さらには美術と関わるもの関わらぬものが無秩序に配置され、カテゴライズを拒む空間であった。「消滅」の対極にあるような混沌がシュルレアリスムの法王の書斎に認められたことは、瀧口修造が諏訪の松澤宅を訪れて一泊しながらも「プサイの部屋」に上がることを固辞したというエピソードの傍らに置く時、なんとも暗示的である。繰り返しとなるが、物体の消滅を主張した松澤が個々に区別もつかない大量の作品や書類を残したという逆説は作品の本質と関わる。先に引いた松澤の言葉も実は残された書類の中から発見されたものであり、松澤亡き後に残されたこれらの資料体の解明こそが作家を理解する重要な手段となるだろう。アーカイヴの問題は、近年、現代美術そして美術館において主要な課題となりつつある。私たちはフォスターが「アーカイヴ的衝動」で取り上げるような作家と日本でもしばしば出会うようになった。彼らの作品はアーカイヴという視点を導入することによって、初めて意味を了解することができる。そして今日、多くの美術館がその職能に新たにアーカイヴを取り入れようとしていることはよく知られている。偶然ではあるが、名古屋を中心に発行されている『REAR』も最新号で「アーカイヴは可能か?」という特集を組み、多くの興味深い記事を掲載している。今後、この記録集を通じてその輪郭が明らかとなった松澤のアーカイヴがどのように運営されるかを私は注視したいと思う。願わくば生前の松沢が念願したような「現代芸術資料センター」として70年前後のコンセプチュアル・アートをめぐる研究の拠点として整備されることを。『ニルヴァーナからカタストロフィーへ●松澤宥と虚空間のコミューン』_b0138838_09273050.jpg



by gravity97 | 2017-07-02 09:38 | 現代美術 | Comments(0)