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クレア・ビショップ『人工地獄 現代アートと観客の政治学』

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 ボードレールのLes paradis artificiels から引用されたのであろうか、楽園ならぬ「人工地獄」という奇妙なタイトルをもつ本書は20世紀の、そしてとりわけ1970年代以降、今日まで連なる、いわゆる「参加型」の美術の系譜を緻密に論じ、今日の美術の一つの趨勢を検証するきわめて興味深い研究である。ただしタイトル、そして構成は必ずしもわかりやすいものではない。「人工地獄」は本書の第二章のタイトルでもあるが、明確にその意味が提示されることがないため、一見したところ本書の内容はとらえがたいし、サブタイトルの「現代アートと観客の政治学」も抽象的でわかりにくい。本書を手に取り、レヴューすることが遅れた理由の一つはこの点に由来する。さらに序論と「社会的転回:コラボレーションとその居心地の悪さ」と題された第一章でいきなり本書の核心となる理論的枠組が語られるが、この箇所は全体の議論に慣れていない状態では相当に難度が高い。例えば第一章では本書の問題意識を反映した例として2001年、ジェレミー・デラーというイギリスの作家が発表した《オーグリーヴの戦い》と呼ばれる作品が参照される。おそらく日本の読者にとっては美術関係者であってもほとんど知ることのないこの作品は、確かに本書を通読するならば、議論の中で一つの参照点たりうることが理解されるが、最初に提示された際には本書の中でどのような位置づけを与えられているか判断することが困難である。逆にこの二つの章を通過するならば、論理の展開を追うことはさほど難しくない。第二章以降は「参加型」の美術の系譜が歴史的に概観される。ただしビショップがとる手法は網羅的な概観ではなく、いわばケース・スタディによって徴候をたどるそれだ。ケース・スタディとして選ばれた対象を列挙するだけでも本書の特色は明らかとなる。すなわち第二章においては20世紀の三つの前衛運動、未来派、ロシア・アヴァンギャルド、パリ・ダダが取り上げられ、続く第三章ではシチュアシオニスト・インターナショナル、視覚芸術探求グループ、そしてジャン=ジャック・ルベルによるハプニングについて論じられる。第二章の対象がよく知られているのに対して、第三章で論じられるグループや作家は相当にマニアックであるが、これらの連なりからは20世紀におけるパフォーマンス芸術の系譜が浮かびあがり、本書の類書として例えば翻訳も存在するローズリー・ゴールドバーグの『パフォーマンス』なども連想されよう。ただしゴールドバーグと比較するならば本書の特異性も明らかだ。すなわち本書においては、これまでパフォーマンスの歴史を語る際に必ず論及され、例えば同じテーマの展覧会としては過去最大級、日本にも巡回した「アウト・オブ・アクションズ」で中心的に取り上げられた北米におけるパフォーマンスが無視されているのである。このような姿勢がいかなる意味をもつかについては後で論じることにして、本書の概観を続けよう。続く第四章と第五章ではこれまで日本でほとんど紹介されることがなかった重要な動向について論じられる。すなわち1960年代から70年代にかけてのアルゼンチン、東欧、そしてソビエト連邦で繰り広げられたパフォーマンスの系譜である。先日、寺尾隆吉の「ラテンアメリカ文学入門」についてレヴューした際に、1960年代にアルゼンチンの文学がきわめて高い水準にあり、それを受容する知的に洗練された教養層が同伴したことについて論じたが、美術においても同様の深まりが認められる点は興味深い。例えばオスカル・ボニーという全く未知の作家が発表した、労働者の一家を「展示」するという試みは直ちにマリーナ・アブラモヴィッチやギルバート&ジョージを連想させよう。あるいはチェコスロヴァキアのミラン・クニージャークという作家については名前のみ知っていたが、本書を読んでパフォーマンスの詳細を確認することができた。以前よりラテンアメリカ、そして東欧がパフォーマンスにおいて多くの過激かつ重要な作品を生み出した地域であることを耳にしていたが、本書はパフォーマンスに関して、欧米中心の現代美術史とは別の美術史が脈々と存在することを説得的に論証している。ここで興味深いのは60年代のラテンアメリカ、70年代の東欧といった場がいずれも軍事政権や共産主義国家の圧政が支配する全体主義社会であったことだ。本書で紹介されるクニージャークの作品は圧政下での抵抗という文脈と複雑に絡み合っている。あるいはモスクワ・コンセプチュアリズムと深く関わる「集団行為」の一連のパフォーマンスは共産党の独裁という体制と深く結びついているだろう。これらの場における実践は実に興味深いが、詳細については本書を参照していただこう。第六章では再び西欧、イギリスにおける70年代の動向が論じられる。過激なパフォーマンスを繰り広げたジョン・レイサムの名は耳にしていたが、彼が芸術家斡旋グループ(APG)という活動に関わっていたことを初めて知った。作家と企業、産業をつなぐ興味深いプロジェクトは文字通りもはやパフォーマンスというよりプロジェクトと呼ぶべき内容である。著者の出身地であるイギリスにはこのような活動の長い歴史があることが、続くブラッキーやインターアクションといった運動との関係において検証される。第七章においても1990年以降、時にソーシャル・エンゲージド・アートと呼ばれる動向がドイツやフランスを舞台に様々な結実をもたらしたことが丹念に検証される。かかる傾向は単に作家のみならずドクメンタやミュンスター彫刻プロジェクトにおいてはキューレーションの問題とも深く関わっている。第八章で論じられる「委任されたパフォーマンス」の問題も私には実に新鮮に感じられた。「委任されたパフォーマンス」とは作家自身が行為するのではなく、「プロではない人々を雇い、一定の時間、一定の場所にアーティストの代理として存在し、アーティストの指示に従ってパフォーマンスを遂行する」試みである。この章を読んで私はとりわけ今世紀に入ってから世界の多くの場所で実見しながらも、その本質をつかめなかった一連の作品におおいに得心がいった思いがする。偶然ではあるが、私は先日、国立西洋美術館の「クラーナハ」展を訪れた。現代美術とクラーナハを交差させた興味深い展覧会についても機会があればレヴューしたいと考えるが、そこに出品されていたレイラ・バズーキというイランの作家の作品は、名画の模写によって生計を立てる中国の職人たちに制限時間内にクラーナハを模写させるというワークショップを課した結果の集積であった。アイ・ウェイウェイでもよい、田中功起でもよい。私は近年に発表された「他者によって代行されるパフォーマンス」の実例をいくつでも挙げることができる。本書の視点を得て、これらのなんとも名状しがたい試みに対して、目から鱗が落ちた思いがした。著者が「本書の執筆にあたって最大の難関となる」と述べる最後の章、第九章においては「教育におけるアート・プロジェクト」が論じられる。早くも60年代のヨーゼフ・ボイスによって創始されたペタゴジック(教育的)プロジェクトは今世紀に入って多くの作家、キューレーター、あるいは美術学校といった多様な関係者によって深められる。特にキューバ出身のタニア・ブルゲラ、アメリカのポール・チャン、ポーランドのパヴェウ・アルトハメル、そしてパリを拠点とするトーマス・ヒルシュホーンという四人の作家の実践が詳細に検証される。私はチャンのみ名前を聞いた覚えがある。ビショップが論じるチャンのプロジェクト、2007年の「ニューオリンズでゴドーを待ちながら」はハリケーン、カトリーナによって壊滅的な被害を受けたニューオリンズでベケットの演劇を上演するというものであり、単なる上演ではなく上演にいたる一連の教育プログラムがプロジェクトとみなされるという。このプロジェクト/作品は最近、そのアーカイヴがニューヨーク近代美術館に購入されたということであるが、この出来事はかかるプロジェクトと美術館の関係においても示唆的である。そういえば、おそらくは今も私たちも東京国立近代美術館のコレクション展を訪れるならば、ロビーで上映されている田中功起のプロジェクトを見ることができるはずだ。さらに私はここで今述べたチャンの作品を、1993年にスーザン・ソンタグが内戦下のサラエヴォでやはり「ゴドーを待ちながら」を上演した事例と比較したい誘惑に駆られる。終章においては本書の総括がなされるとともにアントニー・ゴームリーのトラファルガー広場を用いた「ワン・アンド・アザー」という公共的なプロジェクト、そしてドイツのクリストフ・シュリンゲンズィーフという映画監督/作家の「オーストリアを愛してくれ」という挑発的なプロジェクトに論及される。本書の最後で社会性の強い二つのプロジェクトが紹介されたことは暗示的である。
 以上、本書の内容を簡単に要約したが、このような概観からもこの研究が時間的にも空間的にも広い対象を扱い、リサーチに多くの時間を要する労作であることが理解されよう。本書全般について論じることは私の手に余るが、いくつかの所感を書き留めておきたい。本書は基本的にクロノロジカルに構成されているが、それは網羅的な通史を意味しない。先にも述べたとおり、ケース・スタディの連続によって一つの主題が深められている。第七章の冒頭でビショップは、かかる美術の系譜にいくつかの高まりがあることを指摘する。それは1917年、1968年、そして1989年という年記によって示される。これらの年代が革命や動乱とともに記憶に刻まれていることは偶然ではないだろう。すなわちロシア革命、五月革命、ソビエト連邦の崩壊であり、おそらくこの点は本書において北米についての言及が少ないことと関わっており、ここで論じられた試みが本質において「抵抗の美術」であることを暗示している。同じ箇所でビショップは1989年以降の美術の本質を次のようにまとめている。「私が1989年以後の芸術において重要だと考える意味での『プロジェクト』は、有限の物的対象としての芸術表現から離れ、可変=継続的(オープン・エンデッド)な特性、ポスト・スタジオ的なもの、リサーチ方式、社会的過程、長い期間をかけて拡張していくもの、そして柔軟性を形式とするものへの移行を希求する」プロジェクトという言葉からは直ちにヴィレム・フルッサーの「投企」といった概念なども連想されるが、議論をこれ以上拡張することは避けよう。可変=継続性という概念は本書の鍵概念の一つであり、参加型の美術の判定にあたっては一つの指標となるだろう。今述べたようないくつかの特性は具体的な作品のかたちをとらず、往々にして展覧会のかたちをとる。いわばモノからコトへの転換によって、作家以上にキューレーターが重要な役割を果たし、より正確には作家がキューレーターの役割を果たす場合が多かったことを本書は論証している。ユニテ・プロジェクト、中間の時間、インターポールといった私が初めて聞く展覧会/プロジェクトをとおしてかかる試みの成功や挫折が論じられる第七章は実に興味深く、個々に論じたい事例も多いが紙幅がない。
 「委任されたパフォーマンス」と題された第八章も問題提起的だ。私にとって本書はパフォーマンスとして一括りにされがちな20世紀中葉のそれと20世紀末から今世紀にかけてのそれとの間に明確な断絶を指摘し、理論化した点において画期的であるように感じる。例えば次の二つのパフォーマンスを比較してみよう。自らの下腹部を剃刀で星形に切り裂くマリーナ・アブラモヴィッチのマゾヒスティックなパフォーマンスと対価を支払うことを条件に応募者の背中にタトゥーの線を入れるサンチャゴ・シエラの作品。肉体を毀損するという点においては共通しているが、両者の相違もまた明らかだ。作家自身の身体を傷つける前者と金銭的契約を介して他者の身体に介入する後者。このうちシエラについては本書中にも言及がある。身体、契約、刻印、様々なコノテーションをはらんだシエラの作品をビショップは一つの言葉で要約する。「プロではない人々へ外部委託(アウトソース)されたアクション」アウトソースとはまさに今、私たちが日本の社会において目撃している不条理であり暴力ではないか。シエラの作品が可能であったのは、中南米においては低い対価を目当てに一生残る刻印を受け入れる、グローバリゼーションのしわ寄せを受けた低所得者層が存在しているためである。ここでは作家に帰属する身体ではなく、私たちが置かれた不均等な世界が作品の主題とされているのだ。そしてこの問題を作品の真正性と読み替える点にこそビショップの議論の鋭利さがある。彼は次のように説く。「アーティストはパフォーマーに権利を委任する。ただし委任は一方通行の上意下達というだけではない。ひるがえってパフォーマーもまたアーティストに一定のものを委任するのだ。それはもっぱら表象に取り組むアーティストには通常与えられていない、日々の社会的現実に接しているという真正性の保証である。支配的かつ自己規定的な真正性は、(裸であったり、自慰をしたり、腕に発砲したりする)単独のアーティストの存在から離れて、否定しようのない(ホームレス、人種、移民、障害といった)社会的、政治的な問題を換喩(メトニミー)として表す、そうしたパフォーマーの集団的存在に向けて再編される」作家自身が裸になったり、自慰をしたりする60年代のパフォーマンスに対して、半世紀後のそれはホームレスや移民といった代行者を得ることによって社会構造における真正性を獲得するという指摘は重要である。私はシエラの作品がはらむ反社会性あるいは反倫理性をいかに評価すべきか長い間考えあぐねていたが、本書を読んでようやく理解することができたように感じる。50年代において作家の肉体が素材とされたことは、よりリアルな感触を美術に持ち込むためであった。しかしもはや「作家の身体」はかかるリアリティーをもちえない。権力や暴力が不可視された世界において現実を取り込むためにはより巧妙な戦略が必要とされるのだ。この点をビショップは次のように指摘している。「この図式では倫理は重視されない。なぜなら芸術は既存の価値体系へとたえず疑問を投げかけるものとみなされ、そしてそこでは倫理観についても問われるためだ。より重要なのは、社会における矛盾を表象し、それを問題として取り上げるための、新しい語法を打ち立てることなのだ。社会的な視座の言説では、倫理観の欠如と実効性の無さをかどに、芸術的な視座の言説が批判される。なぜなら、世界を提示および複製すること、またはそれについて考察することだけでは、不十分だからだ。そこで重視されるのは、社会を変化させることなのだ」私はここで暗に示された、例えばアブラモヴィッチやヴィトー・アコンチ、クリス・バーデンらのアクションもまた既存の価値体系への批判であると考える。パフォーマンスが本質において「抵抗の美術」であったことを想起するならば、それは何の不思議もない。しかし本書が論証するのはもはやそのような戦略においては作品が社会と切り結ぶうえでの真正性が確保されないという認識である。それに代わる新しい戦略を導出し、新しい「抵抗の美術」を生み出すことが求められている。そして本書を読む限り、私たちは悲観的になる必要はない。今世紀に入って次々と発表された「参加型アート」は新しい抵抗の地平を広げつつあるからだ。本書においてアジアでの実践について全く触れられていないことはやや残念に感じる。先にアイ・ウェイウェイの名を挙げたが、かつてのアルゼンチンや東欧と同様に全体主義体制下にある現在の中国におけるアヴァンギャルドの沸騰は本書の問題意識と深く関わっているはずだ。そして例えば前回のブログで論じた小泉明郎をはじめ、美術館の検閲を受けつつも実施された「キセイノセイキ」における発表などを想起する時、今や戦時体制下にある日本においても美術家における抵抗が組織されていることを知る。本書は彼らにとって大きな励みとなるはずだ。まことに時宜を得た翻訳であり、私たちは抵抗しなければならない。
by gravity97 | 2016-12-16 22:43 | 現代美術 | Comments(0)
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