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Living Well Is the Best Revenge

「小泉明郎 CONFESSIONS」

 京都芸術センターで開催されていた「小泉明郎 CONFESSIONS」を訪れた。会期の最終日に訪れたために事後の報告となること、私はヴィデオ・アートそして小泉について専門的に語る知識も作品の体験もないことを初めにお断りしたうえで、以下のレヴューを記録として留めておく。会場で上演されていた作品のうち、《最後の詩》と題されたヴィデオ・インスタレーションについては、せっかちで当日時間的な余裕のなかった私は全てを視聴したうえでの批評でないこともあらかじめ「告白」しておくことにしよう。それにもかかわらずそこで上映されていた二つの作品は私になにごとかを語るように強いる。
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 私が小泉の作品を初めて見たのは、2010年、大阪のサントリーミュージアムで開かれた「レゾナンス」においてであったと記憶する。《若き侍の肖像》と題された映像作品では特攻として自爆攻撃に参加すると思しき扮装の若者が両親に対して自らの思いを絶叫する。しかし彼の語りに対しては画面の外から演技の指導が入ることによって、かかる「告白」が演出されていることが暗示される。結果として、スクリーンのこちら側にいる私たちにとってきわめて気まずい思いがもたらされたことを覚えている。今日振り返るに、この作品における当惑と混乱は小泉の作品の本質であった。この後、私は昨年の春、前橋で開かれた「捕われた声は静寂の夢を見る」と題された個展を訪れ、夏に銀座のメゾンエルメスフォーラムで開催された高山明との二人展への出品作からも強い衝撃を受けた。さらに今年の春、東京都現代美術館における「キセイノセイキ」においても、一部の作品が検閲され、撤去された状態ではあったが、小泉の作品に接したことは以前このブログで論じたとおりだ。今回出品されていた二つの作品のうち、《忘却の地にて》はメゾンエルメスにおける二人展にも出品されていた。もう一つの《最後の詩》は私にとって初見であった。
 おそらく作家の指示に基づく意図的な欠落であろうが、これまで私が見たいずれの映像作品も単に作品が上映されるのみで、言葉による説明が付されていなかった。映像の冒頭で簡単な説明が入る場合もあるが、最初から見ることができるとは限らないから、ほとんどの場合、映像の内容について知識のないまま作品に直面することとなる。今回、このレヴューを書くにあたって、この展覧会も含まれる京都国際舞台芸術祭のホームページを参照したところ、映像についてのかなり詳しい説明が記されていた。この記述を引用することによって、まず二つの映像がどのようなものであるかを簡単に紹介しておこう。すなわち《忘却の地にて》は「21歳の時に交通事故で脳に損傷を受け、それ以来、記憶障害を抱えて生活してきた、ある男性とともに制作された。小泉が彼に与えた指示は、一人の日本兵のトラウマに関する証言を記憶して、読み上げるということである」。そして《最後の詩》は「小泉のFacebook上での呼びかけに応じた、匿名の個人6名へのインタビューと都市の風景から構成されている。素性不明の彼らに覆面を被らせ、人前では絶対に言えないような心の奥底の思いを打ち明けるように小泉は促す。しかし、彼らの声は、東京の街頭のフィールドレコーディングの雑多な音によって吹き替えられ、ことばの意味や込められた感情から切り離された「音」として再生される」。
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 まず《忘却の地にて》についてもう少し詳しく説明しておこう。語られる内容は今述べたとおりであるが、より具体的に述べるならば、おそらくは第二次大戦中に生物兵器か化学兵器の撒布作業に従事した日本兵の忌まわしい記憶、目撃者がいたら殺せという命令に従って、その場にいた子供を高い場所から突き落としたという体験が語られる。内容を反映するかのように語りそのものも屈折し、同じ言葉が何度も繰り返され、しばしば叫びともうなり声ともつかない音が挿入される。内容も語り口も聞いているだけで息苦しくなるようなナレーションである。しかしながら映示される情景はそれとは無関係の静謐さを漂わせている。一つは杉本博司のシースケイプのごとき、水平線が広がる海の情景、そしてもう一つは何かが燃える炎のゆらぎである。一方、《最後の詩》は一枚のスクリーンの表と裏に別々の映像が映示され、やはり語りが重ねられる。最初に述べたとおり、私はこの作品を全て見た訳ではないから一部分のみを視聴したうえでの説明となるが、《忘却の地にて》が独白として成立しているのに対し、《最後の詩》は小泉と思しきインタビュアーと複数のインタビューイとの対話として構成されている。匿名のインタビューイの語りも実に過激だ。私が見た範囲内でも雑踏や満員電車の中で他者に圧迫されることによって快感を覚える一種の変態性欲の告白と、東日本大震災の際にボランティアと称して現地に赴き、震災の犠牲者の死体を鑑賞するネクロフィリア(屍体愛好)に関する証言が引き出されていた。スクリーンの一方では彼らが口の部分のみを露出させた覆面を被って質問に答えている。この手法は「キセイノセイキ」における《オーラル・ヒストリー》の場合と似ている。《オーラル・ヒストリー》では口元のみをクローズアップすることによって発話者を特定しながらも匿名的な語りが重ねられ、そこでもしばしば韓国人や中国人への差別的、嘲弄的な言葉が繰り返されていた。今回の展示では映像の提示方法にも工夫がみられた。すなわちスクリーンの反対側に回り込むならば同じ言葉が都会の街頭でさまざまな人物が発する音の連鎖として提示される。先に引用したホームページの言葉を借りるならば「彼らの声は、東京の街頭のフィールドレコーディングの雑多な音によって吹き替えられ、ことばの意味や込められた感情から切り離された『音』として再生される。発話の主体を宙づりにすることで、都市に潜在する狂気が浮かび上がってくる」ということらしい。今回の展示ではこれら二つの映像作品が別々のギャラリーに設置され、展示全体のタイトルとしては CONFESSION、告白というまことに内容にふさわしい言葉が当てられている。
 いずれの映像においてもトラウマとなった記憶、隠された欲望、人前ではとても口に出せない個人的な告白がなされる。観者は作品の前でなんともいえない気まずさを覚える。聞くべきではない告白を聞かされた思いといってもよかろう。しかもそれは直接になされるのではない。《忘却の地にて》においては記憶障害のある男性が読み上げる語りとして、《最後の詩》においては本人の語りといわば都会の雑踏の中からザッピングされた「音」の連なりの同期として、おぞましい物語が開陳されるのだ。小泉の作品においては記憶や情動が他者に転移されたうえで言葉にされる。そこからは個人の体験を他者が語ることは可能かという重い主題が浮かび上がる。彼らの語りが戦争や震災といった災厄に関わるものであったことは偶然ではなかろう。私はこのブログでジャンルを横断しながら「表象の不可能性」という問題を検証してきたが、この作品も同じ主題に深く関わっている。小泉の場合、表象不可能な出来事が他者によって語られる。忌まわしい記憶は事故によって記憶に障害を受けた男性によって反復され、個人の秘められた欲望はいわば非人称の声の集積として私たちの前に提示される。ここで私がこれらの作品から反射的に連想した現代美術に関係する二つの記憶を書き留めておくこともなんらかの意味をもつだろう。まず《忘却の地にて》において、語り手は何度も言いよどむ。子供を突き落とした場面を述懐するにあたって、語り手は「飛行機が飛んできました」、「子供が上を見上げた瞬間」、「私はその子を突き落としました」といったフレーズを幾度となく繰り返す。吃音のごとく反復されるフレーズから私はミニマル・ミュージックを連想した。ことに突き落とされた子供の状態を表現する「血が出ていた」という言葉の反復から、スティーヴ・ライヒの初期の作品[Come Out]におけるblood come out to show themというフレーズの反復を連想することはたやすい。小泉の作品の場合、言葉の繰り返しはミニマル・ミュージックにみられた合理性や構築性の反映ではなく、精神分析によって検証されるべき錯誤行為と関わっている。あるいは《最後の詩》において室内を二分するかのように配置された巨大な液晶スクリーンから私が連想したのはビルバオで見たリチャード・セラの傑作《ストライク》であった。この作品については以前このブログで論じたことがある。両者に共通するのは作品が表裏をもち、それを一望する視点は存在しない点だ。今述べたとおり、《最後の詩》における語りは覆面をした特定の話者によってなされる一方、スクリーンの裏に回り込むならば同じ語りが不特定で無数の語り手による「音」の集積として成立している。両者は構造的に両立しえない。「声」と「音」は同期するが、発話者を同時に見ることができない、ここにおいては聴覚的統合と視覚的分離が構造化されたきわめて独特の形式として作品が成立しているのである。
 小泉において本来一人の人間に帰属するはずの記憶や感情、声や身振りは他者を媒介として表明される。小泉の作品が演劇的と呼ばれる理由はこの点に由来するだろう。しかしながらそこで表明されるトラウマや嗜好はしばしば他者が抱えるにはあまりにも重い。幼児に対する虐待や屍体愛好といった「告白」は私たちの良識や社会通念を大きく逸脱している。会場内にも「作品の中に刺激的な発言がある」という注意書きが掲示されていたと記憶する。かかる重い語りが可能となるのは、話者が匿名化されているためではないだろうか。《忘却の地にて》にほとんど人物は登場せず、同時に小泉の映像には覆面や口元のクローズアップ、街頭で録音された雑多な音声といった多くの匿名的なモティーフが登場する。この一方で「キセイノセイキ」展において美術館から撤去された作品において、匿名の対極の存在とも呼ぶべき皇族たちが、端的に不在として表象されていた点は暗示的に感じられる。《最後の詩》においてはフィールドレコーディングされた多くの匿名的な声が「告白」を形作っていた。聴覚的に成立する、かかる匿名の声を、今日、可視化することも可能であろう。それはインターネットの書き込みだ。本来的に匿名的なインターネット上の発言もおびただしく集積する時、一種の社会的無意識を形作る。そしてこのような匿名の無意識がしばしば悪意と攻撃性に満ちていることを私たちは知っている。かつてベンヤミンは映画という新しいメディウムの出現に際して「精神分析によって欲動的無意識について知ったように、私たちは映画によって初めて視覚的無意識について知る」と述べた。新しいメディウムの登場は新しい無意識の成立を伴うとはいえないか。おそらくインターネットもまた人類がこれまでに経験したことのない新しいメディウムであろう。そしてそれによって増幅された匿名の無意識はかつてなくネガティヴな性格を帯びている。小泉の作品を前にして私たちが味わう困惑は、新しい集団的無意識、いわば「映像的無意識」への反応とはいえないだろうか。
by gravity97 | 2016-12-01 06:09 | 展覧会 | Comments(0)