人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

いとうせいこう『想像ラジオ』

いとうせいこう『想像ラジオ』_b0138838_209341.jpg 東日本大震災から4年目の3月11日を前にして、いとうせいこうの「想像ラジオ」を読む。2013年に発表されたこの小説については発表当時から賛否があったと聞く。確かに軽妙な文体の背後に、書くことをめぐる深い問題が提起されており、評価は分かれるかもしれない。私が感心したのは、東日本大震災という未曾有の災害に対して、いとうが正面から対峙していることだ。これはなかなか出来ることではない。本書から連想される類書の一つは村上春樹の「神の子供たちはみな踊る」であろう。村上は自身の生地である阪神間を襲った95年の阪神大震災に触発されてこの連作集を執筆した。しかしいずれの短編においても震災そのものが描かれることはない。例えば冒頭の「UFOが釧路に降りる」は妻に失踪された男が受けた奇妙な依頼をめぐる物語であるが、そこでは妻が失踪の直前、阪神大震災の被害を報じるTVを終日見ていたという記述があるばかりで、具体的に震災に触れる記述はない。ほかの短編においても震災は微妙な残響を残しているものの、直接の主題として描かれることはない。村上ほどの書き手であっても阪神大震災を小説の主題とすることがいかに困難であったかうかがえよう。かかる困難は表象の不可能性という問題と関わっている。このブログの中でも既に多様な作品に即して論じた点であるが、ある人々が体験した大きな災厄について、果たして他者はその代理として表現に関わることが出来るかという問題だ。現在、クロード・ランズマンの「ショア―」が東京で上演されていると聞くが、実際に生存者がいなかった可能性さえ大いにあったユダヤ人絶滅収容所の体験を一体誰がいかに表象しうるか。5時間に及ぶランズマンのフィルムはこの問題についての真剣な応答であった。ランズマンはスティーヴン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」を繰り返し批判する。それはスピルバーグが絶滅収容所という本来的に表象不可能な事件を誰にとっても了解可能なメロドラマに転化しているからであり、表現しえないというこの事件の本質を隠蔽してしまうからである。表象しえないものの表象に対して、ランズマンのフィルムはぎりぎり可能な閾を探求している。この問題については最近も深く考える機会があったので、次回のブログで触れるつもりであるが、地下鉄サリン事件に際しては当事者へのインタビューさえ行った村上が、この連作短編集の中であえて直接に阪神大震災に触れなかった点はかかる困難と関わっているだろう。大きな災害を体験した者、端的に述べるならば死者に代わってなにごとかを語るということは傲慢ではないか。東日本大震災を言語によって表象しようと試みる者にとって、かかる問いは最初の躓きの石であるはずだ。以下、このブログでは本書の内容に深く踏み込んで論じる。白紙の状態で小説に臨みたい方はまず書店に向かうことをお勧めする。(単行本の書影を掲げているが、本書はごく最近文庫化されたから、今であれば書店での入手も容易なはずだ)
 いとうは問いの立て方を変えることによって、このアポリアを巧みにかわす。すなわち死者の代わりに語ることは可能かという問いを、死者と言葉を交わすことは可能かという問いに置き換えるのである。この小説の冒頭部を引く。

こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
 (中略)
でもまあ、まるで時間軸がないのもしゃべりにくいんで、一応こちらの時間で言いますと、こんばんは、ただ今草木も眠る深夜二時四十六分です。いやあ、寒い。凍えるほど寒い。

 この引用だけでもこの小説についていくつかの示唆が与えられる。この箇所において語りは書き言葉ではなく、話し言葉によってなされ、語り手は非時間とも呼ぶべき一種の幽冥の場に存在している。そして2時46分という特定の意味をもつ時刻、具体的には東日本大震災が発生した時刻が記されているのだ。今、思わず幽冥という言葉を用いてしまったが、物語を読み進めるうえで次第に語り手についての情報が与えられる。語り手はDJアークを名乗るラジオ・パーソナリティ。海沿いの町に育ち、結婚して中二の息子をもつ38歳の男性だ。DJアークは高い杉の木に引っかかって、そこからラジオ放送を行っている。彼がパーソナリティを務める「想像ラジオ」という番組は異なったいくつもの時間に向かって届けられ、同じ時間に別の曲をオン・エアすることさえ可能だ。DJアークは時折音楽を流しながら際限のないおしゃべりを続け、しばしばラジオのリスナーから届いたメールや手紙を読み上げる。現実と非現実が混交する語りの中で私たちは両者の境界を探る。第一章の最後でDJアークの同級生を名乗る「箪笥屋のアタシ」という女性はDJアーク、本名芥川冬助が津波によって高い木に向かって流されていくのを目撃したとメールで伝える。これによって私たちは語り手、DJアークが既にこの世にいないことをおぼろげに理解する。
第二章では話者が交代する。語り手は作家のS。この章は震災のボランティアの帰りに福島から東京に向かうバンの車中におけるSの内的独白として語られる。最初にその一月ほど前、航空性中耳炎のためにSの耳が聞こえなくなり、耳の手術を受けたというエピソードが回想される。このエピソードにトマス・ピンチョンの「V」における登場人物の鼻の手術の描写の反映をうかがうことは強引であろうか。いずれにせよ耳の手術というモティーフはこの小説の本質と関わっている。なぜなら聞こえる/聞こえないというディコトミーはこの小説に一貫するライトモティーフであるからだ。内的独白の常としてSの語りはめまぐるしく話題を変える。癌による父の死を看取った経験。バンに同乗しているカメラマンとともに東南アジアを取材した際のエピソード。広島平和公園でのシャーマンたちとの集会、被災地に跋扈する自称霊能者たち。とりとめのない語りの中に死というモティーフが散りばめられていること、そして時折、広島における被爆や東京大空襲といった戦災の記憶が喚起される点には留意する必要がある。この章の最後で同乗者の一人はカーラジオが切られているにもかかわらず、頭の中にDJの語りと音楽が響いてくると述べる。聞こえてくるのはカルロス・ジョピンのボサノバ、[三月の水]だ。この曲は第一章の終りでDJアークがオン・エアした楽曲であり、ここに至ってこの章の冒頭に置かれた「その声が私には聴こえない」という謎めいた一文がDJアークの放送を指していることが理解される。
 第三章は再びDJアークの語りによって構成されている。DJアークは海や津波を連想させる曲を次々にオン・エアしつつ、放送を続ける。この放送は双方向であり、逆にリスナーからも電話やメールを介して情報がもたらされる。DJアークは時に廃墟となった建物に残された会社員、衰弱しつつ横たわる老夫婦からのメッセージを伝え、一方で自身の過去を回想する。多くの人が想像ラジオに耳を傾けているが、想像ラジオが聞こえない人もいるらしい。DJアークは自分の妻にこの放送が届かぬことを不審に感じ、やがてそれは妻が別の側、すなわち生の領域にいるためであると悟る。先に述べたとおり、この小説においては聞こえる/聞こえないという区別が決定的に重要であり、ここから「死者の声」というモティーフが導かれる。これについては後述しよう。第四章は男女の対話によって構成されている。「結局、いまだに僕にはなにひとつ聴こえないんだよ」という冒頭の言葉が暗示するとおり、話者の一人は第二章の語り手、作家Sである。Sには美里という妻がいるが、ここにおける対話の相手は妻ではなくSの恋人であろう。会話の履歴を消す消さないといった言葉がこの点を暗示する。Sの恋人は自分が見た夢について語る。それは杉の木の上に男があおむけに横たわり、その傍らに白黒の鳥に身を代えた自分が位置しているというものだ。男がDJアークであることは明らかである。そして対話の終盤、Sの口をとおして、彼女が震災の前、「秋の天気のひどくいい日」に事故死したことが語られる。二人はともに再会を願って会話を終える。ここでは死者と生者は互いの声を聞き、対話が成立している。最後の第五章は再びDJアークによって語られる。この章では彼が「多数同時中継システム」という手法によってDJアークの語りに対する反応が次々に寄せられる。このような形式から今日誰もが連想するのは例えばブログやフェイスブックの記事に寄せられるコメントであろう。DJアークは自らの初恋や息子の草助の思い出を語る。一方、缶詰工場で働く21歳の女性リスナーから、彼女の平凡な一日を語る比較的長いメッセージが届き、震災以前、東北の地で営まれていた安穏とした生活に私たちは思いを馳せる。物語の最後でDJアークはリスナーたちに励まされて、向こう側の妻と息子の声を聞こうとする。彼らの声を聞くことによって傍らの白黒の鳥、ハクセキレイもはばたきを始め、中空に飛び立つ。それは放送の終了を意味する。自分の後にも次々に新しいDJが出現することを予感しつつDJアークは最後の曲としてSからのリクエスト、ボブ・マーリーの[リデンプション・ソング]をオン・エアする。redemptionが贖い、あるいは救済という意味であることを付け加えることはもはや蛇足であろう。
 以上のように分析するならば、本書が相当に考え抜かれた小説であることが理解される。例えばDJアークというニックネームが芥川という本名からとられていることは明らかであるが、そこにark 箱舟の意味を見落とす者はいないだろう。小説の中でも言及されているとおり、ここでいう箱舟の物語は旧約聖書というよりギルガメシュ神話であろう。この神話の中にも世界を覆い尽くす洪水の物語があり、杉の木、あるいはDJアークの父や兄が語る杉の木に巻き付いた蛇、そしてなによりも最後に鳥が空に飛び立って洪水が引いたことを知るエピソードが認められる。あるいは今述べたとおり、五章から構成されたこの小説は奇数章をDJアーク、偶数章を小説家Sが語り手ないし対話者を務めるかなり図式的な構造をとる。ここで注目すべきはこの小説において話者は常に誰かに語りかけている点である。それは時には固有名をもつ個人であり、時には放送を聞く不特定のリスナーであるが、言葉は必ず誰かのもとに届けられる。この意味において主人公がラジオ・パーソナリティ、あるいはDJという仕事に就いていることは必然的である。このうち、DJアークは死者の側、作家Sは生者の側にいることが暗示されているが、DJアークの放送をSのバンに同乗している青年が聞き取り、あるいはSのリクエストがDJアークによって取り上げられることによって両者の交流の可能性が暗示される。声を上げる、聞き届けることがこの小説の主題であり、最初に述べたとおり、ここでは死者の代わりに語ることではなく、死者と言葉を交わすことが表現されている。
 なぜ、死者と言葉を交わさねばならないか。第四章の対話の中でその理由が明確に語られる。「他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか? しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」「なぜか?」「声を聴かなくなったんだと思う」「…」「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者とともに」この会話自体が震災の前に事故死した恋人、すなわち死者との間で交わされていることに留意しよう。ここでは本書の主題が提示されている。先にも述べたとおり、死者の声というモティーフだ。このモティーフ自体は文学にとって決してなじみのないものではない。しかしそれが切実なものとして感じられるのは、多くの人々が死んだ出来事の直後であろう。今引用した対話の冒頭、「他の数多くの災害」の前には東京大空襲、広島、長崎への原爆投下という事件が具体的に記されており、これらについて登場人物の語りの中でも触れられていることは先にも述べた。二つの震災以前にも私たちは多くの人々の死を体験した。それはいうまでもなく第二次世界大戦であり、その直接の影響のもとに創作活動を開始した野間宏や大岡昇平、あるいは埴谷雄高といった第一次戦後派の作家たちの作品は死者の声で満ちていた。このブログでも何度か取り上げた集英社の「コレクション 戦争と文学」の中にも「死者たちの語り」と題された巻があり、そこに収められたいくつもの作品、あるいは同じ全集に収録された多くの作品には死者が戦争について語るという趣向が認められる。戦時にあって死者の語りは特異な出来事ではなかったのだ。戦時と平時。戦後の日本は奇跡的というか単なる偶然として大きな自然災害を受けることがなかった。少なくとも1959年の伊勢湾台風と95年の阪神大震災の間に死者が5000人を超える自然災害は存在せず、平和憲法に守られた日本人は戦地に赴くこともなかった。日本の復興、経済成長がこの間に成し遂げられたことの意味を私たちはもう一度考えてみるべきであろう。しかし注意深く耳をすませば、この時期にあっても私たちは死者の声を聞くことができたはずだ。たとえば石牟礼道子は「苦海浄土」の中で水俣病の犠牲者たちの声を聞き、桐山襲は一連の小説で未完の革命に殉じた若者たちの声を聞いたのではなかったか。おそらく死者の声に耳を傾けることは作家にとって必要な資質の一つである。死者の声による文学、「想像ラジオ」も間違いなくこの系譜に連なり、一つの豊かな結実として私たちの前にある。
 ひるがえって今、私たちに東日本大震災の死者たちの声が聞こえるだろうか。彼らのひそやかな声を「復興」という大きな声が押し潰し、さらに「東京オリンピック」の轟音が私たちの耳を聾している。私はかくも人々が疲弊している時代に、札束で築かれたような大都市で「オリンピック」を開催することの意味が全く理解できない。杉の木を下から見上げながら父親はDJアークがいる場所には放射能が降り注いで何十年も人が入れないかもしれないと告げる。実際にこの国にはそのような場所が存在するし、さらに現在の政権のもとでは死者の声ならぬ軍靴の音さえ聞こえてくるようではないか。最後の場面からは redemption、救済が感じられ、2013年という発表の時点において本書は一種の鎮魂の書と読むことができたかもしれない。しかしそのわずか二年後、奈落に向かって転げ落ちていくこの国で、「強者」がわめき散らす騒音の前に「想像ラジオ」の鎮魂の声はもはや完全にかき消されている。
by gravity97 | 2015-03-08 20:15 | 日本文学 | Comments(0)