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Living Well Is the Best Revenge

エルフリーデ・イェリネク『光のない。』

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 これまでこのブログでは文学や美術、演劇といった表現を問わず、多くの作品についてレヴューを重ねてきたが、正直言って今回ほどレヴューの困難な対象を扱うのは初めてだ。それは対象自体がジャンルを横断し、虚実を横断し、言語を横断するからであろう。果たしてこのような作品にいかなる言葉で、いかなる方法で応接することが可能だろうか。
 今回取り上げるのはオーストリアのドイツ語作家エルフリーデ・イェリネクの作品集『光のない』である。収められた四つのテクストはいずれも戯曲であり、特に表題作は2012年の「フェスティバル/トーキョー」で劇団地点によって演じられて大きな話題を呼んだから、決して無名のテクストではない。「光のない。」は昨年も京都で再演されたが、残念なことに私は見逃してしまった。したがって本書はまず文学と演劇を横断する。しかし後で論じるとおり、この作品において両者の関係は決して親和的ではない。本書には「光のない。」「エピローグ?[光のないⅡ]」「雲。家。」「レヒニッツ(皆殺しの天使)」の四編の作品が収められている。タイトルが暗示するとおり、最初の作品の続編として二番目の作品が執筆され、これらはいずれも福島の原子力災害を主題としている。放射線、半減期、計画停電といった言葉が随所に散りばめられたこの戯曲から私たちは震災の直後に味わった未知の不安を否応なく連想する。また「レヒニッツ」とはオーストリアのハンガリー国境の村の名前であり、この地において第二次大戦末期、ナチスの将校と協力者が開いたパーティーの余興として衰弱したユダヤ人180人が参加者たちによって銃殺されたという事件が扱われている。今私は、「主題としている」「扱われている」といった言葉を用いたが、これらの言葉を用いることには躊躇がある。確かにこのような予備知識があれば現実と戯曲との関係をうかがうことは可能だ。しかし予備的な知識がなければこれらの作品が現実を参照していること、あるいは参照する現実を推測することは容易ではないからだ。この意味において虚実の間でこの作品の位置は定めがたい。そして最後は言語だ。いうまでもなくこれらの戯曲はドイツ語で執筆され、林立騎という翻訳者によって日本語に置き換えられている。私はドイツ語が読めないので、初めから原著にあたる努力を放棄してしまったが、おそらくイェリネクも、そして訳者の林も演劇の言語という問題にきわめて意識的であるはずだ。そうでなければかくも異様な文体が戯曲として採用されるはずはない。この異様さが原文に由来するのか、翻訳に由来するのか、それとも両者に由来するのか。私としては興味がある点だ。ジャンル、虚実、言語、三つの層にわたる屈折した横断性が、このテクストをきわめて難解なものとしている。実際私でさえ、しばらく新着の書棚に置いていた本書を何度か読み始めたもののそのたびに挫折し、先日、意を決して出張に携え、ようやく車中で通読することができた。
 試みに「光のない。」の冒頭を抜き出してみよう。長くなるが最初のひとまとまりの台詞である。

 ああ、わたしにはあなたの声がほとんど聞こえない、どうにかしてほしい。あなたの声を響かせてほしい。わたしはわたしを聞きたくない。あなたにわたしをかき消してほしい。ただ、少し前から思っている、わたしはわたしも聞こえない、耳を制御盤にあて、つかもうとしているのに、音を。あなたもそのくらいはできるはず! もっと強く弾いてほしい、難しいはずはない。ここは喚き声ばかり、わたしにはわからない、畜舎? 設備の停止? 設備が停止したらどうして叫ぶのだろう。力づくで押さえているのか。自動停止? だがそれはすべて静まることを意味しない。力は消えることができない、なにかが消えることなど決してない。まだ叫んでいる、怪物の腹の中で、蝉のように、喰われても猫の腹で叫びつづける蝉のように。

 これは一体どのようなテクストなのだろう。異様に切迫した呼びかけであることは直ちに理解できるが、誰が誰に呼びかけているのか、何を呼びかけているのか、理解することは難しい。そして驚くべきことにこの戯曲、そしてこの作品集を通じて、常にこのような緊張と不透明感が持続するのである。確かに「光のない。」においては先に引用した台詞を読み上げるAという話者、そしてもう一人、Bという話者の存在が暗示されている。しかしAとBの関係は判然としない。台詞の中でAは第一バイオリンを、Bは第二バイオリンを割り当てられているという言葉がある。しかし両者の関係は定かではないし、両者の間で交わされるのは対話ではない。そもそもここで語る「わたし」あるいは「わたしたち」とは誰のことであろうか。通常であれば、私たちは言葉を介して、演劇を理解しようとする。そしてここには多くの言葉がある。しかしそれにもかかわらず、これらの切迫した言葉にほとんど説明的/再現的な意味を見出すことができないのだ。上演される台詞にこのような特異な言葉を与えた理由について、訳者はあとがきで演劇の言葉が口語であるというのは日本語における誤解にすぎず、新しい時代の新しい演劇テクストには新しい翻訳が必要と考えたと指摘している。したがって本書における言葉の佶屈は翻訳者によって意図的に選びとられている。
 テクストは文学と演劇の間を往還する。私はフェスティバル/トーキョーに関連したいくつかの映像を検索し、この戯曲が上演される模様を確認してみた。いうまでもなく地点の公演の模様を記録した短い映像、このほか、いとうせいこうらがこのテクストを朗読する模様を記録した映像もあった。おそらくこの「戯曲」をそのままで上演することは不可能であろう。この戯曲は一人の俳優が台詞を記憶して上演するにはあまりに長大で抽象的であるからだ。今述べたとおり、映像の中には2012年のフェスティバル/トーキョーのオープニングの企画としていとうせいこうらがおそらくはこのテクストを朗読する模様が記録された内容があった。いとうを含む二人の話者、そして時に客席近くに置かれたマイクを用いて三人の話者が相互に無関係に緊迫したテクストを読み上げ、時に彼らの音声は機械的に変換される。かかる上演は確かにこの戯曲の本質を反映しているかもしれない。地点による上演は精緻な光の投影による演出と独特の音楽をともなった相当に形式的な内容であったが、短いこともあって、実際の上演の模様をうかがうことは困難であった。しかし舞台の上の張りつめた緊張は明らかで、二、三の劇評を読んだ限りにおいてもこの印象は間違っていないだろう。訳者はあとがきの中で、「ポストドラマ演劇」という潮流に触れている、ハンス=ティース・レーマンという批評家によって提起された「ポストドラマ演劇」においては、言葉は総合芸術である演劇の一要素に過ぎず、戯曲=物語から解放されることによって美術や照明、映像などが独自かつ自立した意味をもつという。私は演劇の専門家ではないので、これ以上議論を深めることはできないが、ロバート・ウィルソンやピナ・バウシュ、日本ではダムタイプやこのブログでも取り上げたやなぎみわの一連の舞台を連想すれば、その広がりを理解することはさほど困難ではない。イェリネクの戯曲は確かに福島の原子力災害やナチス・ドイツにおける虐殺を扱っているが、俳優が存在するのは例えば福島やレヒニッツではない。あえて言えば俳優は観衆とともにこの劇場にいるのだ。私はこのような作品の在り方を現代美術と比較してみたい気もするが、残念ながら今の私にはこの問題を扱う十分な能力と経験はない。「光のない。」におけるAとB、あるいは「レヒニッツ」における「使者」、いずれの俳優あるいは話者もきわめて匿名的な存在であり、そもそもこれらの戯曲に明確な場所や時代の設定はない。訳者も指摘するとおり、これゆえいずれの戯曲も自由に演出され、言葉以外の様々な要素を取り込んだ「ポストドラマ演劇」として存立することが可能なのであろう。極言するならば、これらの戯曲は上演されるたびに異なった舞台として演ずることが可能ではないだろうか。それゆえ私はいつの日か、例えば地点によって演じられたこの舞台を見てみたいと考える。
 とはいえ、この戯曲の内容について語ることは不可能ではない。かなり強引な読みかもしれないが、最後にこの苛烈な戯曲を読みながら私が考えたことを書き留めておきたい。イェリネクはそれぞれの戯曲の最後に関連する文献を挙げている。「光のない。」ではソフォクレスの「イクネウタイ」とルネ・ジラールの「リアルなものの埋もれた声」、そして「エピローグ?」ではソフォクレスの「アンティゴネー」である。「イクネウタイ」という作品については私も初めて聞いたが、訳者によればそれは「死んだ牛から弦楽器がつくられるギリシア神話を劇化したもの」であるという。また「アンティゴネー」に関しても訳者は「戦争が終わり非常事態が収束したとされる国家で、事態が終わっていないと異議を唱える女性をめぐる悲劇」と要約している。非常事態が収束していないことをを否定する国家とはまさに現在の日本を象徴しているといえようし、おそらくこの点に訳者はこの戯曲が日本で上演される意味を見出している。さらに私は「イクネウタイ」における「死んだ牛」というテーマに注目したい。私はこれらの戯曲と福島の原子力災害の関係を説くヒントは「死んだ牛」ではないかと考える。報道管制が敷かれた震災後の日本ではほとんど報道されることがなかったが、福島の原子力発電所の近郊には多くの畜舎があり、(「畜舎」という言葉がこの戯曲の冒頭に引かれていることは先の引用に示したとおりである)そこで飼育されていた家畜は人が立ち去った後、多く繋がれたまま餓死し、豚にいたっては共食いを繰り返したという。死肉を漁る無数の鴉がヒッチコックの「鳥」のように畜舎の屋根に蝟集する地獄のような光景、まことに「光のない」情景について、私は何人かのジャーナリストの記事を通して読んだことがある。イェリネクが「光のない。」を執筆するにあたって核となったイメージは牛の死体が埋葬もされず累々と広がる風景ではなかっただろうか。そしてあまりに残酷であるからほとんど指摘されたこともない事実であるが、死体が家畜である必要はない。震災で原子力発電所の近くに遺棄された人間の死体はそのまま放置されたはずである。ここでイェリネクが「アンティゴネー」を引用した意味が明らかとなる。オイディプスの娘、アンティゴネーはなぜ「非常事態の収束」を否定したか。それは兄の死体が埋葬されずに放置されていたからであり、それはフクシマ後の日本と二重写しとなったのではないだろうか。このように考えるならば、「光のない。」と「レヒニッツ」の共通点も明らかとなる。宴会の余興として銃を手渡された客たちによって虐殺された180人のユダヤ人たち、彼らの死体が埋められた地はいまだに不明であるという。もちろん何度も記す通り、これらの戯曲の中でフクシマの情景、レヒニッツの惨劇が明示的に語られる訳ではない。しかし緊張した文体の中にそれらはおぼろげに、実におぼろげに浮かび上がるのだ。ここに収められた四つの戯曲は本書に初めてまとめられたものであり、作家が意図的に編んだものではない。しかしフクシマとレヒニッツにはもう一つの共通点がある。それはかかる歴史的犯罪に手を染めた者が誰一人処罰されていないことだ。レヒニッツの虐殺の首謀者は海外に逃亡し、司法によって裁かれた者はいないという。フクシマについても東京電力の首脳陣(海外に逃亡した者もいると聞く)をはじめ、かかる政策を推し進めた政界や財界、学界の責任者たちが何ら責任を問われるどころか、原子力発電所の再稼働に向けて時計を逆転させ始めたという目のくらむような不正義の中に今の私たちの生がある。
 フクシマ、レヒニッツ、非常事態が収束していないことを叫ぶ営みこそ文学ではないか。訳者はイェリネクの仕事を次のように紹介している。「その創作活動の初期から現在に至るまで、作品の内外で社会の保守性や男性中心主義を糾弾し続ける姿勢のために政治家やマスコミから非難を浴び、読者の反発を受け、『オーストリアで最も憎まれる作家』として知られる一方、哲学的、歴史的な独自の問題意識から現代社会への問いかけを溢れさせる作品群は、多くの文学、戯曲賞で高く評価されてきた」アンティゴネーとイェリネクがともに女性であることは偶然の一致であろうか。最初に私は戯曲の中の「わたし」や「わたしたち」が誰のことかと問うた。以上の視点に立つ時、おそらくそれは死者であろう。以前レヴューした岡田利規の「地面と床」にも死者の語りが登場した。果たして私たちは死者をとおしてしか時代を表現できない時代を生きているのか。それともこれは何かの徴候なのであろうか。
 既に述べたとおり、このテクストの優れた点は具体的な事件を暗示しながらも、内容としてはきわめて抽象度が高く、演出の自由度が高いこと、そして「上演不可能な戯曲」という特異な存在として、様々のジャンルにおける新しい表現を誘発する点だ。遺棄された死者たちに代わって、この戯曲は新しい表現をまとってこれからも何度も再生することであろう。私はこれからもそのような機会に立ち会いたいと願っている。
by gravity97 | 2014-12-22 16:20 | 演劇 | Comments(0)