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Living Well Is the Best Revenge

ホセ・ドノソ『別荘』

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 待望久しいホセ・ドノソの「別荘」がついに翻訳された。一読して圧倒される。まぎれもない傑作であり、ラテンアメリカ文学の奥深さを思い知る。ただし本書のレヴューは決して容易ではない。
 ドノソといえば短編を中心に既に何冊か訳出されており、「隣りの庭」についてはこのブログでも論じた。主著と呼ぶべき「夜のみだらな鳥」は「集英社版世界の文学」の一冊として1976年に刊行されているが現在は絶版で、近いうちに水声社から復刊されるらしい。もちろん私は「夜のみだらな鳥」も読んでいる。相当に難解な小説であったが、オブセッシヴでグロテスクなイメージの横溢に陶然としたことを覚えている。ずいぶん前に読んだこともあって記憶が薄れ、今回本書とうまく比較できないことは残念だ。「夜のみだらな鳥」についてルイス・ブニュエルは次のように評しているという。「これは傑作である。…その凶暴な雰囲気、執拗きわまりない反復、作中人物の変身、純粋にシュルレアリスティックな物語の構造、不合理な観念連合、想像力の限りない自由、何が善であり悪であり、また何が美であり醜であるかについての原則の侮辱的な無視に私は度肝をぬかれた」この評はかなりの程度、「別荘」にもあてはまる。いずれの小説もチリのブルジョア階級の無残な頽落を主題としており、語られる物語はシュルレアリスムやゴシックロマンと共通性をもつ。この小説が一つの寓話であると断定することはたやすい。しかしその寓意について語ることは困難を伴う。巻末に本書が執筆された場所と時期が記されている。それによると執筆の開始は「カラセイテ、1973年9月18日」。カラセイテはドノソが愛したスペインの小村。問題は日付だ。1973年9月18日、その一週間前にチリではもう一つの9・11が発生した。この日、ピノチェットによる武力クーデターによってアジェンデ政権が倒された。この経緯を小説の中に織り込んだイザベル・アジェンデの傑作「精霊たちの家」については既にこのブログでレヴューした。ピノチェットのクーデターの一週間後に執筆が開始されたことは、本書がこの事件を反映していることを暗示している。しかし執筆に6年を擁したこの小説の寓意を読み解くことは決して容易ではない。ここでは内容にも立ち入りながら本書を論じるが、私が読み解いた内容が正しいという保証はない。というのも「夜のみだらな鳥」と同様に、この小説においても何が真実かを見極めることはきわめて困難であり、私が論じるのは読解の一つの可能性に過ぎないからだ。
 この小説の舞台と登場人物はきわめて限定されている。おおいにチリを連想させる国のマルランダという土地が舞台であり、登場するのは別荘の大きな屋敷に住むベントゥーラ一族、彼らに傅(かしず)く使用人たちの一団、そして土地の周辺に住む「原住民たち」、さらに物語の中に明確には登場しないが、その脅威が語られる「人食い人種たち」だ。ベントゥーラ一族は直系の7人の兄弟姉妹と一部に物故者も含む彼らの配偶者、そして彼らの35人の子供たち(ただし2人は既に死亡)から構成される。これらの眷族の一覧が冒頭に掲げられていることは本書を読むうえで大いに助けとなる。ベントゥーラ一族は「首都でダンスとオペラのシーズンが終わると」多くの馬車を仕立てておびただしい家財道具を運び込み、夏の間の三ヶ月、使用人たちともにマルランダの別荘に移り住む。別荘の近郊にはこの一族が所有する金の鉱山があり、「原住民たち」によって採掘、加工され、この別荘に運び込まれる金箔こそがベントゥーラ一族の莫大な富の源泉なのである。別荘の周辺はグラミネアという槍のような穂をもつ獰猛な植物によって覆い尽くされている。マルランダはもともと肥沃な美しい土地であったのだが、簡単に栽培できて食料も飼料にもなり、油も採れるという触れ込みで持ちこまれたグラミネアの種が異常な繁殖力とともにこの地の木々や植物を絶滅に追い込むまでに繁茂し、別荘の周囲を埋め尽くしたのだ。このあたりイヴ・タンギーの絵画を連想させないでもなく、別荘が孤絶していることを暗示している。ある夏、ベントゥーラ家の親たちが退屈しのぎに近くの景勝地へとピクニックに出発することを思い立った時点から物語が起動する。親たちは全ての使用人を引き連れて朝早くピクニックに出かけ、屋敷にはいとこの関係にある33人の子供たちが残される。しかし実は屋敷にはベントゥーラ一族の末娘バルビナの夫であるアドリアノ・ゴマラが狂人として幽閉されていた。伯父や伯母、そして使用人たちの不在を知るや、ゴマラの息子で9歳のウェンセスラオは父の救出を試みる。ただしこの小説は決して因果律に沿って単線的には展開しない。時間も相互の関係も不明の挿話が次々に重なり、しかもその多くが不気味で不吉な暗示を秘めている。例えば第二章ではゴマラの「発狂」とウェンセスラオの妹たちの死をめぐるエピソードが語られるが、それはこの物語全体の通奏低音の一つである人肉食と関わっている。第三章は別荘とグラミネアが繁茂する外界とを隔てる無数の槍をめぐる物語だ。従兄弟たちの一人、マウラは密かにそのうちの何本かを抜き去り、これによってグラミネアは屋敷の内部へと侵入し、この小説のカタストロフィーを予示することとなる。さらに続く章では屋敷の中でいとこ同士の同性間を含めた近親姦を暗示するエピソードが語られる。年長者たちの不在を契機として一つの集団が変容する場面から私はスウィフト/寺山修司の「奴婢訓」を連想した。この演劇は主人の不在を主題としており、グロテスクなイメージの横溢、異形の登場人物など通底する部分も多い。私は「百年の孤独」という作品を上演した寺山がもしドノソの小説を知っていたらどのような反応を示したか興味を抱く。
二部から成るこの小説の第一部「出発」では親と使用人たちが出発した後、ベントゥーラ一族の「別荘」が建築においても人倫においても次第に荒廃していく過程が語られる。いとこたちのある者たちは「侯爵夫人は午後5時に出発した」という奇怪な遊戯に熱中し、ある者たちは淫らな行為にふける。「侯爵夫人は午後5時に出発した」とはアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム第一宣言」において引用しているポール・ヴァレリーの言葉である。この言葉は小説における話者と作中人物の関係に関わっているが、後述するとおり、「別荘」においても実に特異な話者が小説の中に介入する点を考慮するならばなんとも暗示的な遊戯の名前である。第一部の終盤で金箔の管理を任されていた従姉妹の一人、カシルダは近親姦の相手であるファビオ、母エウラリオが一族以外の男との間にもうけた子であるために疎外されているマルビナそしてイヒニアという三人の従兄弟とたちと倉庫から金箔を盗み出して逃亡する。一方、もはや槍の壁で外界と隔てられることのない屋敷の中には原住民たちが入り込み、従兄弟の一人マウラを従えたゴマラによって支配された屋敷の中で狂騒を繰り広げ、一族と交接する。
 「帰還」と題された第二部はタイトルのとおり、ピクニックの後、夕方に家路についたベントゥーラ一族の情景から始まる。途中に小休止するために近くの礼拝堂に寄った親たちはそこでカシルダとファビオ、そしてカシルダが生んだ子を見つける。しかし彼らはそれを玩具の人形として井戸に捨てる。カシルダから別荘の混乱を聞いた親たちは使用人の頭目である執事、そしてフアン・ペレスという若者を別荘の制圧に向かわせる。執事とペレスは火器を携えた使用人たちとともに屋敷に突入し、ゴマラを銃殺するとともに屋敷の中にいた原住民たちを虐殺する。ゴマラが射殺される場面にドノソは大統領府でピノチェットのクーデターに抵抗し、自殺を遂げたアジェンデを重ねたとみる研究者もいるらしいが、確かに一族の中で唯一人間的な感性をもち、それゆえ狂人として幽閉されていたゴマラにアジェンデの影を認めることは不可能ではない。続いて屋敷を制圧した後、ベントゥーラ一族が帰還するまでの間、支配者となった執事の所業が語られるが、ここでも食人というモティーフがあいまいかつ執拗に繰り返される。一方、大虐殺の混乱の中からウェンセスラオ、アラベラ、アマデオ、そしてフアン・ペレスの弟アガピートは別荘の地下にめぐらされていた塩鉱を用いて脱出し、グラミネアが繁茂する荒野へと逃れる。逃避行の途上で死んだ最年少の従兄弟アマデオは死の間際、飢えたウェンセスラオらに自らのからだを食料として供することが自分の運命であると宣言する。荒野を彷徨するウェンセスラオらは帰還途中の親たちと邂逅し、九死に一生を得る。親たちと使用人たちは別荘に帰還するが、襲撃と虐殺、おぞましい習慣の痕跡を残した邸内はすでに廃墟同然となっていた。彼らの前に新たな来訪者が登場する。それはベントゥーラ一族から金鉱や金箔、屋敷を全て買い取ろうとする「外国人たち」であり、すでに一族の長老であるエルモヘネスやシルベストレの手によって首都で売買の交渉が進められていた。金鉱や屋敷の資産価値を実地検分するために訪れた「外国人たち」はベントゥーラ一族に対しても尊大な態度を崩さず、一族は不安に襲われる。さらに別荘に新たな馬車集団が到来する。来訪者が誰であったか、そしてベントゥーラ一族の命運についてここではあえて触れない。ただ、物語の中で幾度となく予告されたカタストロフ、夏の終わり、荒野を埋め尽くすグラミネアの熟し切った穂先から一つ残らず舞い上がった白い綿毛が呼吸さえできないほどに濃密に辺りの空間を埋め尽くすという情景はまことにこの黙示録的な小説の終末にふさわしい。
 ひとまず私はこの錯乱する小説を要約してみた。しかしこのような説明はあまり大きな意味をもたないだろうし、そもそもこの小説に合理的な意味を与えること自体、作品に対する一種の冒瀆であるように感じられる。最初にも述べたとおり、この小説は単線的な構成をとらず、時間も登場人物も物語の流れも幾重にも輻輳し、時に逆行する。かかる錯綜は内容のみならず形式にも及ぶ。それが端的に示されるのは話者の問題だ。この小説においてはベントゥーラ一族をめぐる物語が三人称で語られながら、話者が地の文の中に登場して読者を当惑させる。たとえば頻繁に繰り返される「この章の幕開けにあたって読者にお願いしたいのは」「ここで読者にはお伝えしておくが」「読者には隠しだてする必要はないだろうから、ここで言っておこう」といった表現である。話者はベントゥーラ一族の物語を三人称で語りながら、同時にそれが虚構であることを読者に告げるのだ。それどころではない。「外国人たち」と題された第12章の冒頭において、「別荘」を書き上げて、エージェントの事務所に向かう「私」は途中で登場人物であるシルベストレ・ベントゥーラに出会い、近くのバーへと誘い込まれる。一体これはどういうエピソードなのだろうか。ただし「私」は数ページ進むと次のように記してこの会見をキャンセルする。「もしかするとこのすべては、我々が慣習上『現実』と呼ぶ文学的題材―これに頼れば文学作品は書きやすい―に対し、それを何と呼ぶかはともかく、『現実』の対極に位置する眩惑を選んだ者が抱くノスタルジーの産物にすぎないかもしれない。いずれにせよ、ここで私はこのノスタルジーを振り払い、これまでの物語の基調を取り戻そうと思う」先に私は「隣りの庭」をレヴューした際に、物語の最後にめぐらされたメタ小説的な技巧に触れた。「別荘」でははるかに複雑な形式的技巧が凝らされている。きわめて土俗的、ドメスティックな物語と先端的な叙述法の結合がドノソの小説を特徴づけている。そうでなければかくもグロテスクな物語になぜヴァレリー/ブルトンが引用されるのか。モダニズムとアンチ・モダニズムの結合はラテンアメリカ文学に共通する特質といえようが、本書はその典型といってよかろう。
 主題についても論じるべき問題は多い。まず時間の問題を挙げよう。この小説には実に奇怪な時間が流れている。一族の親たちは朝早くピクニックに出かけ、「いつもと何一つ変わらぬ夕暮れ」に帰途を終えようとしている。したがってここで描かれるのは一日の物語である。しかしながらその間、子供たちが残された別荘でははるかに長い時間が流れているように感じられるのだ。先にも触れたとおり、帰路で寄った礼拝堂で親たちはカシルダとファビオの子を見つけ、人形として井戸に捨てる。二人はともに16歳という設定であるから、年齢的に子供をもうけることは不可能ではない。しかし一日のうちに受胎し出産することはありえない。子供が生まれるのに九ヶ月はかかると問うアデライダに対してフォビオは自分たちが礼拝堂で一年も飢えと恐怖をしのいできたと述べる。これに対してシルベストレの妻、ベレニセは「『侯爵夫人は5時に出発した』では一時間を一年と計算することがよくあるのよ。偽の楽しい時間のほうが、現実世界の退屈な時間より速く過ぎていくのよね」とこのようなずれが遊戯と現実の違いに兆していると説明する。しかしこれに対してカシルダは「あんたたちのハイキングの時間こそ偽の時間だったのよ」と叫ぶのである。真の時間と偽の時間。アレッホ・カルペンティエールの「時との戦い」やボルヘスの一連の著作を引くまでもなく、ラテンアメリカ文学においては時間が主題とされた一群の作品が存在するが、本書も明らかにその系譜に連なる。「執事」と題された第10章にも興味深いエピソードがある。自分のレシピの中に加える人肉食について、いつ頃手配が終わるのかと尋ねる料理長に対して、執事は次のように怒りをぶつける。「この愚か者め、現在にも過去にも未来にも、この別荘には時間の経過など存在しないのだ。ハイキングに出発して以来、時間は止まっている。ご主人様たちが帰還される前に時間が動き出すことなどありえない」そして執事はフアン・ペレスに命じて屋敷の中にある全ての時計やカレンダー、振り子、予定表などを没収させ、さらには昼と夜の違いを消すために鎧戸と窓ガラスに細工し、どの部屋もいつも同じ明るさを保つように命じるのである。ここでは操作可能な対象として時間が描かれている。登場人物によってその進行が一様ではなく、停止や加速が可能な時間、このようなテーマはもはやSF的といってもよかろう。
 反復というテーマも興味深い。ベントゥーラ一族の別荘滞在は毎年正確に反復される。毎年、「密かな羽音を立てて窓から蚊が入り、毛深い脚を見せてゴキブリが姿を見せ始める」時期になると一族は別荘へ移る準備を始め、「グラミネアが実り、プラチナ色の穂が持ち上がって乾いた鞘から綿毛が飛び始める」頃に一族は首都へと帰還する。あるいは使用人たち。彼らはその年ごとにエルモヘネスの妻、リディアによって採用されるのであるが、毎年新しい使用人が採用されるにもかかわらず、いずれも個性を欠いた単なる反復とみなされている。「ベントゥーラ家に仕えた執事は数多いが、皆まったく同じだった。誰もが長い使用人経験で鍛えられた完璧な執事であり、ほとんど機械的に職務をこなしていくだけだったから、その一人ひとりについて、名前や個人的特徴などを覚えている者など一家には誰もいなかった」ベントゥーラ一族には皆名前が与えられ、巻頭の系図表によって相互の関係さえも明示されているのに対して、使用人たちは名前が与えられていない。フアン・ペレスに関しても毎年、異なったフアン・ペレスがいるといった表現があるから、それが固有名ではないことは明らかだ。反復性、匿名性、交換可能性は本書の隠された主題だ。それは使用人たちのみに限らない。例えばカシルダは初潮を迎えたコロンバ(カシルダの双子。双子が交換可能性を暗示していることはいうまでもない)の身代わりとして屋根裏部屋のフォビアのもとに赴く。このエロティックな挿話にも同様の主題は隠されているし、本書のいたるところにちりばめられた対称性のモティーフもこれと関係している。
 それにしても本書において最大の謎は、その寓意性であろう。最初に述べたとおり、本書が寓話であり、クーデターによって民主政権を打倒したピノチェット体制への批判をはらんだ寓意を秘めていると考えることは自然だ。しかし一体何が何の寓意であるかを理解することはきわめて困難である。「赤いもみあげと水っぽい目」として表現される「外国人」たちがピノチェットを支援したアメリカであるとみなすことは不可能ではない。小説の最後に登場する尊大な外国人たちはベントゥーラ一族から金鉱や屋敷を奪い、機械化によって鉱山から原住民たちを「排除」し、さらにこの地からグラミネアを根絶やしにすることすら口にするのだ。ガルシア・マルケスが描いたユナイテッド・フルーツ社のエピソードを連想するまでもなく、ラテンアメリカの作家たちにとって、アメリカそして多国籍企業による収奪はしばしば作品の主題とされた。しかし「別荘」における寓意はあまりにも複雑で単純な読みを許さない。最初に述べたとおり、この小説で描かれた混乱は主人の不在によって引き起こされた。主人の不在とは何を指すのか。あるいは物語の中で執拗に繰り返されるカニバリズムの暗示は現実においては何に対応しているのか。小説で描かれた世界は階級と差別が絶対的に支配する社会である。女婿として一族に加わったゴマラは別荘の庭でアマラント色の制服を着た男が同じ場所にいつも佇んでいることを奇異に思い、理由を問う。それに対して一族はコローの風景画のようにあの色を配すことによって風景が引き立つのだと説明する。人を人と見ない非人間的な感性にゴマラは驚き、一族に金鉱をもたらす原住民たちが置かれた劣悪な衛生環境の改善も図るのであるが、それによって逆に人食いの習慣に触れて気が触れたとして、一族によって幽閉されることとなる。原住民たちを徹底的に忌避し、差別し、収奪するベントゥーラ一族、そしてかくもおぞましい差別体系によって成り立つ社会とは何の暗喩であろうか。成立の過程を勘案してもおそらく本書は多くの解釈を呼び込むだろう。あとがきによれば著者ドノソは本書について「純粋に物語として受け入れてくれればそれでいい」と述べているとのことであるが、私には本書は単なる物語として読むにはあまりにも不吉な暗示に富んでいるように感じられる。「夜のみだらな鳥」を読んだ際に感じた熱病の中で見る悪夢のごとき不安は本書においても生々しくよみがえる。いや、もはや現実は悪夢と等価なのだ。
by gravity97 | 2014-08-31 22:40 | 海外文学 | Comments(0)