Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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チャールズ・ディケンズ『荒涼館』

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 年末年始に比較的長い休日をとることができた。かねてから読みたいと思っていたディケンズの『荒涼館』を通読する。19世紀の長い小説を久しぶりに読んだためか、最初こそとまどったが、第2巻あたりでペースをつかむと面白いことこのうえない。一気呵成に一週間足らずのうちに通読した。ディケンズの小説は中学校の頃に『二都物語』を読み、毎年季節になると『クリスマス・キャロル』を読み返すことはあったが、これほどしっかり読む体験は初めてだ。この小説への関心は実は村上春樹に由来する。村上の短編集『東京奇譚集』の冒頭の短編「偶然の旅人」は私のお気に入りの短編の一つであるが、この小説の中で「荒涼館」は重要な小道具として扱われている。しかしなにぶんにも全4巻の大長編であるから片手間に読むことは難しい。例年より長く、珍しく抱えた原稿のない今回の休暇はよい機会となった。
 中学校や高校の頃は19世紀の小説、いわゆる大文字の「長編小説」を数多く読んだので、『荒涼館』は決して私にとって初めての読書体験ではなかった。しかしそれ以降主として20世紀文学に親しんできた私にとってこの小説は懐かしくはあるが、異質の小説のように感じられた。その理由は簡単だ。ディケンズにとって小説という枠組は自明であり、物語を語ることになんら抵抗はない。しかしプルーストとジョイス以降、私たちは小説という形式をあらためて問い、なぜ一つの物語が小説という形式をとって語られなければならないかという点を常に意識しながら小説を読むことを強いられるからだ。モダニストとして私は後者の立場に立つが、読書という営みに関してどちらの認識が幸せであるかという点について判断することは難しい。
 『荒涼館』はディケンズの代表作として、まさに19世紀の大長編小説たる風格を備えている。ロンドンとイギリス東部のリンカンシャー州を主たる舞台として、エスタ・サマソンなる女性の半生の物語であり、登場人物も数多い。途中でいかなる人物かわからなくなって前の頁を繰って確認することもしばしばであったが、このような経験は私にとってトルストイ以来ではなかっただろうか。それにしてもディケンズの小説技法の巧さには舌を巻く。物語のいたるところに周到な伏線や謎めいた手がかりが散りばめられ、次々に驚くべき秘密が明らかになっていく。今必要があって、冒頭に近い箇所を読み返してみたが、なるほど初読の際には読み飛ばしたいくつもの細部が実は深い意味をもっていたことがあらためて理解された。再読するならば本書がこのような発見に満ちていることに疑いの余地はない。本書はまずもって19世紀のイギリスを描いた社会小説であるが、一種の推理小説として読むことも不可能ではない。実際に物語中で語られる一人の登場人物の怪死事件とその真相の解明は、みごとな本格推理である。多くの人物が秘密を抱え、それが明らかになった際の驚きもディケンズならではであろう。『荒涼館』は全部で67の比較的短い章によって構成されており、それぞれの章ごとに謎が深められていくから、長編であっても読みやすい。本書がどのような形式で発表されたかはわからないが、スティーヴン・キングが『グリーン・マイル』を月ごとの分冊形式で発表した際にディケンズに範を仰いだと述べていたことも想起されよう。
 カヴァーの裏に記されたあらすじをたどる程度、つまりこれから読む読者の興を殺がぬ範囲で内容に触れる。この小説は最初がややとっつきにくい。すなわち「大法官裁判所」と題された第一章においては霧雨に烟る暗鬱なロンドンの情景が描かれ、大法官裁判所なる法廷で「ジャーンディス対ジャーンディス事件」なる裁判が進行中であることが明らかとなる。この裁判はこの小説全体の背景となるのであるが、後述するとおりその真相は明らかにされず、実はこの章には主要人物は一人も登場していない。続いて「上流社会」と題された第二章において主要な登場人物の一人であるレスタ・デッドロック卿とその奥方の生活が粗描される。この二つの章は神の視点、すなわち三人称を用いて記述される。これに対して第三章は先に名を挙げたえエスタ・サマソンという女性の一人称で語られる。第三章以降、この小説は神の視点とエスタの一人称が交互に繰り返されるという独自の語りによって展開する。養母のもとで不幸な幼年時代を送っていたエスタは養母の死後、後見人のジャーンディスの支援によって寄宿学校で教育を受け、その後、同じくジャーンディスが後見人を務めるリチャード、アイダという二人の子供達とともにジャーンディスが住む邸宅、通称「荒涼館」で生活を送ることになる。名前から推測されるとおり、ジャーンディスそして三人の子供たちはなお係争中の「ジャーンディス対ジャーンディス事件」の当事者である。エスタ、リチャード、アイダはすぐに互いに打ち解け、彼らの後見人であるジャーンディスおじさんも実に親切な人物である。全く非のうちどころのない人物たちが物語の要衝を占める点に私はやや奇異の感じを受けるのであるが、おそらくこの小説が書かれた時代にはこのような設定もさほど違和感を覚えることがなかったのであろう。このほかにも小説の中には善意の塊のごとき人物が何人か登場し、時に彼らの間で誤解が生じることはあるにせよ、基本的な人物造形は変わることがない。一方でこの小説には一度読んだら忘れることのできない奇矯な人物たちも登場する。例えば自分の妻にとって自分が三人目の夫であることを公言し、のみならず前二人の夫がいかに優れた人物であったかをことあるごとに吹聴する医師、老いた妻を絶えず罵倒する老人、自分の家庭や子供たちを全く顧みることなくアフリカに関する慈善事業に邁進する女性、ディケンズの小説の魅力はこれらのバイ・プレイヤーたちが生き生きと物語に介入する点にも負っているだろう。あるいは今日からみるならば荒唐無稽と感じられるエピソード、例えば登場人物の一人は自然発火によって焼死する。これは人が強い酒を長期にわたって飲み続けると血液中のアルコールが高まり、ついには自然発火して死にいたるという当時の俗説を反映しており、ディケンズ自身も巻末に収録された「単行本への序文」の中で言及している。無数の挿話を織り込みながらもメインストーリーは孤児エスタの成長の軌跡であり、エスタの出生の秘密が次第に明らかになっていく過程である。第二章で言及され、その後もしばしばその動静について言及されるデッドロック卿夫妻がこの問題に深く関わっていることは予想されるのであるが、ディケンズは様々なエピソード、様々な小道具を介して実に巧妙に両者を結びつけていく。このあたりが本書の読みどころといえよう。小説のほぼ半分、文庫本でいえば第二巻の終わりのあたりで読者は両者の関係をほぼ理解するのであるが、物語は後半に入るや、たたみかけるよう数々の事件が出来し、読者はまさに巻措く能わざるといった感じで事件の推移を見守ることとなるのだ。この意味でもキングがディケンズに私淑することは当然であろう。多くの驚きを経過して結末もまた感動的である。ディケンズはエスタのみならず、多くの登場人物についてもその行く末を丁寧に書き込む。結果として多くの登場人物が複雑に絡み合って一つの時代の壮大なパノラマがかたちづくられたような読後感が残る。
 ここでは本書を読んで私が関心を抱いたテーマを二つ指摘しておきたい。ひとつは貧困というテーマである。「荒涼館」は一方ではデッドロック卿をはじめとするエスタブリッシュされた階級、そしてエスタらのようにそのような階級への参入が予想される人々の物語であるが、同時に当時の貧民階級へも周到な目配りがなされている。注目すべきは両者が必ずしも分かたれていない点だ。先にも触れた慈善家ミセス・ジュビリーがブルジョアに属すか否かは必ずしも判然としないが、彼女はアフリカへの慈善事業に執着し、エスタたちも幾度となく貧民街に足を運んで多くの登場人物と交流する。エスタは物語の途中で病名こそ明示されないが、「病後は美しさが損なわれた」という表現から天然痘と推定される大病を患うが、荒涼館にこの病気を持ち込んだのは彼女と交流のあった貧民層の少年であった。貧しい人々、あるいは孤児への暖かい眼差しは多くのディケンズの小説にも共通するが、私は貧困というテーマが同じ時代に多くのヨーロッパの小説に共有されていたことを想起する。フランスであれば『レ・ミゼラブル』(私はバルザックをあまり読んでいないのだ)、ロシアであればドストエフスキーの小説、いずれも貧困という主題が隠されたテーマであることは明らかだ。むろん20世紀にも貧困は存在する。しかし私はいくつかの例外を除いて、貧困が主題とされた小説を挙げることはかなり困難に感じられる。これはおそらく先にも述べたとおり、20世紀においてはテーマよりも小説の形式が重視されるようになったことと関係があるかもしれないし、例えば疎外、大量死、絶滅収容所といったさらに重い主題が浮かび上がった時代と関わっているかもしれない。そして指摘すべきはディケンズの時代において小説は貧困、階級差といった社会的な問題を告発するきわめて効果的な手段であったことである。文学を含めた人文科学が社会的な問題との関係を希薄化しつつある今日、主題としての貧困の意味はなお検証されてよいだろう。
 もう一つのテーマとは裁判あるいは審判という問題だ。以前から感じていたのであるが、西欧には裁判をめぐる文学というジャンルが明らかに存在する。例えば『カラマーゾフの兄弟』を挙げてみよう。この傑作は複雑な縁で結ばれた一族と父殺しをめぐる物語であるが、後半部においては法廷を舞台とした審問が延々と描かれる。あるいはトルストイでもデュマでもよい、19世紀に発表された長編小説をランダムに想起するならば、国籍を問わず裁判というテーマが重要な意味をもつことが理解されよう。この点を日本の近代文学と比較する問題は興味深いがひとまず措く。ディケンズの場合もほかにも裁判とかかわる小説は存在するが、ことに裁判所の記述に始まり、「リンカン法曹学院」や「大法官府横丁」が主たる舞台となる『荒涼館』においてこの印象は強い。しかし同時にこの小説において裁判のテーマはきわめてあいまいである。なぜなら多くの登場人物が関与する「ジャーンディス対ジャーンディス事件」という審問の内実が全く明らかにされないからだ。それが遺産相続をめぐるきわめて錯綜した裁判であり、ジャーンディスとエスタ、エイダ、リチャードが訴訟における立場を必ずしも共有していないことは読み進めるうちにおぼろげに理解される。しかし肝心の裁判については既に冒頭で次のような説明がある。「ジャーンディス対ジャーンディス事件はいつまでもだらだら長引いている。時が経つにつれて、このこけおどしの訴訟はすっかりこみっていしまったので、もう誰にもさっぱりわけがわからなくなってしまった。しかも一番わからなくて困っているのはほかでもない、訴訟の当事者たちである」誰にも理解できない裁判システム、おそらくここから誰もが連想するのはカフカの一連の小説であろう。審判制や官僚制が肥大し、誰もがその全貌を把握できなくなる不条理な状況をカフカは『審判』や『城』で描いた。『荒涼館』の中にはその日に判決が言い渡されることを信じて裁判所に日参するフライトという一種の狂女が登場する。フライトは裁判所について「吸い寄せるのですよ。人々を吸い寄せるのです。人々から平静を吸い取ってしまうのです。正気を吸い取ってしまう。いい顔色を。いい性質を。夜になると私の安らかな眠りすら吸い取ってしまうような気さえしました。あの冷たい、きらきら光る悪魔めが」とエスタに語り、当時弁護士をめざしていたリチャードも裁判所に吸い寄せられようとしていると警告する。なにものをも拒み、時に被告を犬のように殺すカフカの「城」や「審判」がここで予示されているとみなすのはさすがに強引すぎようか。
 強引ついでにもう一つの連想を。私は本書を読みながら直ちに同じイギリスで今世紀に発表された小説を想起した。『荒涼館』の中心人物は語り手であるエスタ、そして親友のアイダ、そしてアイダと結ばれることになるリチャードの三人である。三人を軸に語られる小説は比較的珍しいのではないかと考えるが、私たちは全く同じ関係をカズオ・イシグロが2005年に発表した『わたしを離さないで』におけるキャシー、ルース、トミーの三人にも認めることができる。両者はそれぞれ「荒涼館」、「ヘールシャム」と呼ばれる閉鎖された空間を物語の主要な舞台としている点においても共通し、さらにいずれも出生の秘密とも呼ぶべき問題が小説の根幹を成している点でも一致する。「荒涼館」で暗示される階級差が極限化された世界がカズオ・イシグロの小説であると考えるのは飛躍のしすぎか。そういえばカズオ・イシグロも村上春樹のお気に入りの作家であった。

by gravity97 | 2014-01-04 11:13 | 海外文学 | Comments(0)
<< BILBAO, 2000.10.21 「あなたの肖像 工藤哲巳回顧展」 >>