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Living Well Is the Best Revenge

岡田利規『地面と床』

 小説家を「炭鉱のカナリア」に準える発想はカート・ヴォネガットに由来し、大江健三郎がどこかで論及していたと記憶している。炭鉱夫は坑道に入る際にカナリアを入れた籠を携える。坑道の空気が悪化した場合、まずカナリアが異常を察知するはずだ。その挙動によって鉱夫に空気の不調を知らせるカナリアのように、表現を生業とする者は時代の空気の不調を最初に感知し、いちはやく社会にそれを警告する義務を負うという。
 私たちの社会も今、著しい不調の中にある。この不調が震災と原子力災害に由来するものであることは明らかだ。あれから二年以上が経過するが、何も解決されないまま時間ばかりが経過している。被災地の「復興」は滞り、原子力災害の責任者たちは誰一人として処罰されず、フクシマの地から流亡した人々は今も故郷に戻ることができない。一方で恥知らずの政権は原子力発電所の再稼働と海外への輸出を画策している。かつて私はこれほどの無力感に襲われたことはない。この国がおそらくは戦争と全体主義の地獄へとずるずると引き込まれていくことを自覚しながら拱手するしかない自分への無念さがある。以前にも記したが、私は5年前、自分がこれから出会う芸術に関わる楽しみに言葉を与えることを目的としてこのブログを開設した。しかしながらこのブログの持続的な読者であれば直ちに理解していただけると思うが、3・11以後、私はいかなるレヴューであっても自分が置かれた危機と無関係に論じることができなくなってしまった。スティーブン・キングのおよそ非現実的なホラーについて論じながらも、私は常に自分たちが置かれた現在へと思いを向けてしまうのだ。私は作品を形式的に批評することを身上としているから、作品にコメントした後に時評的な苦言を添える床屋談義的な物言いは好きではない。このブログが最初と比べて愉快でない、あるいは読みづらくなっていたとするならば、その理由は明らかにこの点にあるだろう。しかし着々と戦争への準備が進められる今日、私はいかなる表現も時代から自由ではないことをあらためて強く感じるし、少なくとも戦争前夜という状況を意識した表現についてはこのブログの中で記録として留めておきたいと考える。岡田利規『地面と床』_b0138838_21461545.jpg 例えばしばらく前になるが、私は神奈川県立近代美術館で「戦争/美術 1940-1950」という展覧会を訪ね、先般、兵庫県立美術館で「昭和モダン 絵画と文学」という展覧会に足を運んだ。どちらも企画力のある美術館らしい堅実でレヴェルの高い展覧会であったが、私は前者からは日本が破滅的な戦争にいたる1940年代の美術が表現のうえで決して戦争による断絶や中断を伴うものではなく、一続きの営みであったことを認識した。おそらく私たちも日常を繰り返す中で気がつかないうちに戦争と統制の時代に足を踏み入れていくのであろう。さらに後者からは貧困の差が拡大し、弱者が弱者であることの責任を問われる倒錯した現在がプロレタリア芸術運動の勃興する1930年前後の日本と何ら変わることがないことをあらためて思い知った。これらの展覧会は私たちの現在を照射する目的で構想された訳ではない。しかしいずれの展示もかつての暗い時代が今まさに反復されつつあることを暗黙裡に語っていた。

岡田利規『地面と床』_b0138838_21474678.jpg

 前置きが大変長くなった。先日発売された『新潮』を読む。この号のハイライトは蓮實重彦による「『ボヴァリー夫人』論」であろう。はるか以前から予告され、まもなく筑摩書房から刊行される大著の序章と第一章が掲載されており、いかにも蓮實らしい独特の文体と綿密な考証は圧倒的である。この大著については全貌が明らかにされてから論じるとして、今回、私が取り上げるのは岡田利規の新作戯曲「地面と床」だ。震災後に構想され、既にヨーロッパを巡回し、京都公演の後、ちょうど今、横浜で公演されているこの舞台を私は未見である。しかし今回、戯曲を読んだだけでも私は岡田の問題意識の深さ、そしてそれが紛れもなく現在の日本と深く結びついていることを知る。東日本大震災に対してすでに多くの表現が応じていることはこのブログでも論じたが、震災ではなく震災後の世界を描いたこの戯曲は、私には震災後まるで箍(たが)が外れたかのようにどこまでも崩れていくこの国の未来が投影された「炭鉱のカナリア」のように感じられたのだ。
 いつもどおりこの舞台もセットはシンプルで登場人物も少ない。私は岡田利規についてはチェルフィッチュによる二つの舞台と『遡行』という演劇論集を読んだ程度の知識しかないが、戯曲のみによっても舞台の模様、上演の様子はおおよそ想像できる。冒頭の記述によれば、舞台上に存在するのは板張りの床のみであり、その背後に字幕を投影するためのスクリーンが張り渡されている。舞台の上手には円形のふくらみをもったオブジェが置かれ、塚をあらわしている。舞台装置としてはこのほか舞台上手端に姿見大の鏡が置かれているが、観客からは見ることのできない方向に向けられているため、その存在に最後まで気づかない観客もいるという。登場人物は五名。由多加と由起夫という兄弟、二人の母で既にこの世になく、幽霊とも名指しされる美智子、由多加と妻である遙、そして由多加たちがかつて助けの手をのばしたが引きこもってしまった、さとみという女性である。かくも抽象的で禁欲的な舞台は俳優の身体さえも必要としないかのようだ。しかし「地面と床」はレーゼドラマでありえない。なぜならばこの舞台は常に複数の言語と関わっているからだ。先に舞台装置としてスクリーンを挙げたが、このスクリーンについては次のような記述がある。「これは、字幕を投影するためのスクリーンである。この劇のすべてのせりふは、もちろん日本語で語られるけれども、そのとき必ず外国語、たとえば英語や中国語の字幕が投影される。ときどき、せりふではない文が、文字として投影されることがある。このときは日本語も投影される。日本語の字幕はこの十字の中に垂直方向に投影され、外国語の字幕は水平方向に投影される」末尾に記されているとおり、この舞台は2013年5月にベルギーのクンステンフェスティヴァルバザールで初演された後、ヨーロッパ7都市を巡回した。外国語による上演に際してはせりふの翻訳が上映されることは珍しいことではない。しかし日本で上映される場合、「地面と床」における言語の投影は単なる翻訳ではなく、私たちを取り巻く多言語的な状況を暗示しているといえるだろう。劇作家そして演出家としてのキャリアをむしろ国外で築いた岡田にとって(この経緯についてはこのブログでもレヴューした『遡行』に詳しい)複数の言語を並置する手法は必要に迫られたものであったかもしれないが、日本人である私たちにとって日本で上演され、日本語で語られる台詞が外国語に翻訳されるという状況は不自然に感じられる。しかしこの点こそが重要なのだ。端的に述べるならば、この舞台は海外で見るか日本で見るかによって意味が異なる。海外であれば字幕は上演の補助手段にすぎないが、日本人にとってそれは不必要な過剰である。それにもかかわらずなぜ多言語が導入されるのか。現在の私たちの多くにとって「グローバリズム」を反映した多言語状況は決して快いものではない。日本語によって意思疎通が可能であるにもかかわらず、現実において私たちの生活の中にもほかの言語、しばしばリンガ・フランカとしての英語が介入しつつある。背後に投影される字幕の速度にいらつきながら、さとみは次のように述べる。「電車とかバスとか乗ると思うんですけど、そうすると英会話の広告とかってものすごくいっぱいあって目に入ってくるじゃないですか、あれをみるとなんかすごく脅迫されてるみたいな気がしてヤーな気持ちになるんですよね、なんか、これからの時代英語できないやつは社会のすごい下層ランクに落ちて掃き溜めみたいに、一生そこから上には絶対あがれないみたいな、そうなりたくなかったら英語しゃべれないと本気でヤバいですよみたいなメッセージでつけ込んでくる感じとかがすごくきらいっていうか、感じ悪いなーって思うんですよ」グローバリズムといわれる現象が端的にアメリカの正義を私たちに押しつけることにすぎず、この国の指導者たちがそれに抗うどころか唯々諾々と従いつつあることを私たちはTPP交渉から中学での英語教育にいたる最近の出来事で知っている。舞台の上で交錯する言語は相互理解や親和とはほど遠く、端的に抗争の中にある。そしてどうやら日本語は劣位にあるらしい。今挙げたさとみの発言に続いて舞台上には次のような字幕が投じられるという。

「あなたは思いますか? 日本語が 消えてなくなる」
「数千年後」(「千」の字がすりかわって)「数百年後」
「あなたは思いますか? ミサイルが海をこえて飛んでくる」
「あなたは思いますか? 日本が 交戦状態にはいる」

 これらの言葉が暗示するとおり、「地面と床」は物語の内容においても、現在の私たちが置かれた状況の暗喩であり、舞台全体に通底する閉塞感は私たちになじみのものである。最初に「遠い未来の日本」という字幕が映示されるが、果たしてどのくらい「遠い」のであろうか。舞台は二つの世界に分かれている。いうまでもなく由多加と由紀夫、遥とさとみは生の側におり、母である美智子は死の世界、地面の下にいる。両者は塚を通して交流するが、由多加が美智子に語りかけるのに対しては、遥は美智子の存在を否定する。「忘却に抗う権利をもつ」死者とは直ちに歴史の暗喩であろう。「死んでいる人の幽霊」とともにさとみという名を与えられた「生きているけれど幽霊みたいな人」の存在も遥は否定する。歴史と弱者、いずれをも否定するさとみのメンタリティーが震災後の私たちにとって何を表象しているかは明らかであろう。劇の冒頭で由紀夫は死者/美智子に対して「いい話を報告」するが、それは「前の勤め先の工場が閉鎖されてよその国へ移って」職を失った自分に新しい働き口が見つかったことであり、劇が進行するにつれて新しい働き口とは「破壊された、歪んだ道をこつこつ、元通りにならしていく仕事」であり、「たくさんの人間が力を合わせて、建物やトンネルを立て直す仕事」であることが判明する。この言葉に震災後の私たちを投影せずに舞台を見ることは不可能であろう。あるいは由紀夫は次のようにも述べる。「お母さん、俺がこうやって働けば、それはそのぶんだけ、俺はこの国を元通りにできたってことなんだよ、そんな仕事にいま俺はくわわっているんだよ。(中略)この国を前みたいに戻そう、いやもっとがんばって前以上にしようという、ものすごいたくさんの力があつまっている、そのあつまりに自分もくわわれているっていう実感がはっきりあるんだよ」このような昂揚にもかかわらず、なぜか深い絶望と不安が劇の全体を覆っている。不安は時に悪夢として具体的なかたちをとる。由紀夫に比べて恵まれた位置にいるはずの由多加夫婦も、由多加は日本と中国が交戦し、中国人兵士が近づいてくるという悪夢にうなされ、遙は美智子という幽霊につきまとわれている。悪夢や幽霊が具体的に何を暗示しているかが問題ではない。この舞台には日本という国が、日本語という言語がもはや存在しなくなる「遠い未来」がおぼろげに投影されているのだ。岡田の戯曲らしく、登場人物の言葉はかみあわず、多くの場合、対話は成立しない。しかし最後の場面で鋭く拮抗する二つの言葉が放たれる。遙は由紀夫に次のように語りかける。「わたしはきっと、そう遠くない将来、この国ではないところにいく。この子とふたりだけでいくのかもしれない。よいところだと思えたら、そこに家を建てる」移住と訣別、おそらくこの言葉には原子力災害後、家族とともに熊本に移住した岡田自身の思いが投じられているだろう。これに対して美智子もまた由紀夫に次のように語る。「由紀夫、わたしは信じてる。あなたの人生が、これからきっとよくなる。この国で、わたしが眠るのと地続きの地面で、これからも生きて、働く、それがむくわれて、あなたは幸せになる。ぜったいに。ねえ、これまでのようにこれからも、ときどきでいい、たいせつな、日本語で、わたしに話しかけて。わたしはそれ以上、なんにも望まない」
 全6場、誌面にしても15ページほどの、おそらくは短い舞台である。しかし私は震災後に私たちが味わっている漠然とした不安、自分たちがかつて足を踏み入れたことのないゾーンに迷い込んでしまったことへの恐怖をこれほど鮮やかに表現した作品を知らない。不安と恐怖、それは震災の再来や単に未だに放射能物質を撒き散らしている原子炉の解体作業だけではない。戦争を目的とした政治、ヘイトスピーチにみられる人倫の崩壊、時代は今やあらゆる局面で私たちを苛んでいる。今、私は表現という言葉を用いたが、おそらくこの戯曲はチェルフィッチュの優れた俳優たちを得て、演劇としても素晴らしい内容となっていることであろう。いくつかの劇評や岡田自身の言葉によればこの舞台は音楽劇としても圧倒的であるという。しかし私はあえて言語作品として「地面と床」を評価したい。先に引用した遙と美智子の言葉に続く、母であり幽霊である美智子の語りによってこの舞台は幕を閉じる。あえてここでは記さないが、最後の美智子の言葉がなんと感動的であることか。このような言葉を紡ぐことができる劇作家と時代を共有していることは、日本と日本語が消滅するかもしれない時代に生きる私たちにとって、かすかな希望であるようじ感じられる。
by gravity97 | 2013-12-22 21:51 | 演劇 | Comments(0)