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Living Well Is the Best Revenge

スティーヴン・キング『11/22/63』

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 このブログでスティーヴン・キングの新作についてレヴューするのは『悪霊の島』『アンダー・ザ・ドーム』に続いて三冊目となる。原著が2011年に発表された本書は歴史改変ジャンルSFの直球勝負。私の印象としてはキングの長編としては標準的な出来であろう。もちろんキングにおける「標準的」であるからべらぼうに面白い。読み出したら止まらないことを約束しよう。内容にも立ち入りながら論じるため、先入観なしに楽しみたい方は直ちに本書を手に取られるのがよい。
 ストーリーは比較的単純で、100頁ほど読み進めると、物語のテーマは明らかになる。舞台は2011年、つまり本書の刊行時と同じ。主人公ジェイク・エピングはリスボン・ハイスクールの英語教師。アルコール依存症の妻クリスティーと別れ、一人で暮らしている。ある日、ジェイクは行きつけのダイナーの主人、アルからとんでもない秘密を打ち明けられる。アルの店の食品庫の中に1958年9月9日午前11時58分の世界に通じる抜け穴があるというのだ。肺がんのため死期の迫ったアルはジェイクに頼み事をする。向こうの世界に行って、タイトルが示す1963年11月22日に起きたケネディ大統領暗殺を未然に防げ。いきなり突拍子もない設定であるが、天才的なストリーテラーのキングの筆にかかれば、荒唐無稽な物語も綿密な書き込みによって揺るぎがない。歴史改変をテーマにしたSFはいくつかの先例がある。この小説の中でも言及されるレイ・ブラッドベリの「雷のような音」、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』、日本では小松左京の「地には平和を」といったところか。これらの多くが歴史の改変された世界を事後的に描いているのに対して、本書は歴史を改変することは可能かという、より能動的、現在進行形のテーマに関わっている。『11/22/63』におけるタイムトラベルは二つの大きな特徴をもっている。特定の時間に向かって旅立つ多くの時間旅行SFとは異なり、遡行する世界の日付が58年9月9日とあらかじめ定められていること、そしてタイムトラベルをするたびに世界はリセットされる、つまり一度歴史を改変したとしても、もう一度タイムトラベルを行うと歴史は元通りに復元されてしまうことだ。物語の早い段階で明かされるこの二つの原理から次のようなストーリーが予想される。まず第一にジェイクは過去の世界に戻ってから暗殺阻止というミッションを果たすまでに「向こう側」で5年もの歳月を過ごさなければならない。暗殺直前にワープしてオズワルドを阻めばおしまいといった単純な話とはならないということだ。第二にもし暗殺を阻止して現在に戻ったとしても、その結果が望ましくなければジェイクはもう一度タイムトラベルを試みて、歴史を現在私たちが見知ったそれにリセットすることができる。つまりどちらの歴史を選ぶかはジェイクに委ねられている訳だ。そして実際にこれらのトピックは物語の中でそれなりに大きな意味をもつ。
 最初にジェイクは半信半疑で食品庫のタイムトンネルをくぐる。1958年、半世紀前の世界は新鮮だ。当時は稼働していた紡織工場の織機の音、有害物質を含んだ煙の匂い、ルートビアの濃厚な味、五感全てをとおしてアメリカの古き良き時代が描出される。キングは少年を主人公とした物語を描くことが抜群に上手い。本書には少年こそ登場しないが、過去の世界に横溢するノスタルジーは共通し、その魅力を表出する巧さはキングの独壇場といってよいだろう。おそらくキングの少年時代の回想と思しき風景が広がり、「スタンド・バイ・ミー」や『アトランティスのこころ』の冒頭部、『IT』などに描かれた世界と時代を共有していることが理解される。私たちの同時代人であるジェイクが次第に過去の世界に魅されていくことも行間から伝わる。このあたりもキングの巧さである。超自然的な抜け穴の存在を確認したジェイクは歴史を改変するということが果たして可能か、最初に一つの実験を試みる。時間旅行した時点からさほど遠くない未来、1958年10月に発生したサイコパスの父親による一家惨殺事件を未然にくいとめる試みだ。アルによってあらかじめ用意されたジョージ・アンバースンという名前とID、そして使用可能な通貨を携えてジェイク、いやジョージはもう一度過去に旅立つ。この実験の首尾についてはここでは触れないが、このようにして「過去に住む」(本書の第三部のタイトルである)経験を積み、それぞれの時点で果たすべき務めを遂げつつ、ジョージはいよいよケネディ暗殺阻止に向けて行動を開始する。アルが調査した暗殺犯リー・オズワルドの詳細な生活歴のメモにしたがってオズワルドの周辺に潜み、その行動を監視する。知られているとおり、ケネディ暗殺に関してはオズワルド以外に暗殺犯がいるという謀略説が根強い。暗殺が謀略ではなく、オズワルドの単独犯であることの確証を得ることもジョージの任務である。ジョージをとおして浮かび上がるオズワルドの私生活はフィクションではなくノンフィクションだ。私はオズワルドが事件の数年前までロシア(当時は「ソ連」と呼ばれていた)に暮らしていたといった事実を本書で初めて知った。この長大な小説を肉づけするためには暗殺事件、特にオズワルドの周辺についての緻密な調査が必要となるだろう。また1960年前後のアメリカの地方都市の生活スタイルについての綿密な時代考証も必要なはずだ。キング自身、著者あとがきの中で、本書を構想したのが1973年というきわめて早い時期であったにもかかわらず、「いったん執筆を放棄したのは、ひとえに執筆に必要な調査があまりにも厖大で、フルタイムの教師をしていた身にはあまりにも荷が重そうに思えたからだ」と告白している。その後、暗殺事件に関連した多くの書籍が出版され、キング自身も何度か調査を重ねることによって、ようやく事件の全貌を作家なりに把握し、物語として提示することが可能となったのである。(ただし、キングは同じあとがきで本書には事件の真相についての解答は示されていないと注意深く記している)
 物語はクライマックスの1963年11月22日に向かってじりじりと進んでいく。ジョージは未来の自分と同様にハイスクールでパートタイムの教職を得て、PCも携帯電話もない生活に溶け込んでいく。ハイスクールの学生たちとの演劇をとおした交流や教育委員会との衝突、図書室司書のセイディーという娘との運命的な出会い。このあたりには明らかに「フルタイムの教師」としてのキングの体験が生かされているだろう。ジョージは時に生徒たちのダンス・パーティーを企画し、時に大番狂わせになることがわかっているフットボールや野球の試合に賭けを張って生活資金を稼ぐ。その一方でフォートワースやダラスに出かけてはオズワルド一家の到着の前に罠を仕掛け、オズワルドの交友関係を調査する。無数の挿話を折り込みながら、朴訥な英語教師と未来から来たエージェントという二つの顔を使い分けて半世紀前のアメリカの田舎町で生活を送るジョージの姿がていねいに描かれる。この小説にはキングとしては珍しく超自然的な恐怖はさほど登場しない。一家惨殺事件を防ぐためにジョージは最初、デリーという街に滞在する。なんとも不吉な気配をみなぎらせたこの街ではその頃、子供の殺害事件が相次いでいた。『IT』で語られたエピソードの再話であることはいうまでもない。この街でキッチナー鉄工所(私の記憶が正しければイースターに爆発事故の大惨事を引き起こした呪われた工場だったはずだ)の跡地を訪れたジョージはそこで忌まわしいものの存在を感得し、同じセンセーションをダラスでオズワルドが潜んだ教科書会社のビルを訪れた際にも感じる。物語が相互に融合しあうことはキングでは珍しくないが、本書で超自然的な恐怖が暗示されるのはこの箇所くらいであり、物語はむしろ本格ミステリーに近い緻密さとともに展開する。
 時間旅行の経験の中でジョージは時間がいくつかの特性を帯びていることを知る。まず時間は改変されることを好まず、歴史を改変しようとする行為を様々のかたちで妨害する。また様々な出来事が時間旅行の前後で微妙な差異をともなって繰り返される。(ジョージはこれを「共鳴」と呼ぶ)バタフライ効果として知られるとおり、歴史を改変する行為は未来に影響を与えるが、どのような影響を与えるかあらかじめ知ることはできない。中盤以降、ケネディ暗殺をいかに阻止するかというメイン・ストリートとジョージとセイディーのラブ・ストーリーが並行して語られる。ジョージは不幸な経歴をもつセイディーを深く愛することとなる。しかしもし現在へ帰還するならば、40歳以上年上の彼女と結ばれることはありえないだろう。セイディーとの愛を成就することはいかにして可能か。先に時間は改変されることを好まないと述べた。大統領の暗殺阻止という大がかりな歴史改変を試みるジョージの周囲では、それを阻むべく多くの事件が発生する。おそらくジョージ、そしてセイディーの身にも危険が及ぶはずだ。果たしてジョージはセイディーを守りつつ、自らのミッションを遂げることができるのか。中盤から終盤にかけてジョージの周囲でいくつもの物語が錯綜しつつ、雪崩のようにクライマックスへと向かって進んでいく。結末は予想できないこともないとはいえ、なかなか感動的でカタルシスがある。長い時を経た再会というモティーフは私に『アトランティスのこころ』の鮮烈なラストシーンを想起させる。現実は一つであるとしても、私たちの生には無数の可能性がありうるという作者のメッセージはまことにこの物語にふさわしい。

 前回、『アンダー・ザ・ドーム』について評した際、私は人々を閉じ込めるドームが原子力災害の暗喩でもありうること、ドームの中で吹き荒れる暴力がこの本を読んでいた際に伝えられたビンラディンの暗殺のごとく、私たちの世界にも渦巻いていると記した。本書を読みつつ、今回も私は物語と直接関係のない私たちが住む世界のことを思った。先に記したとおり、最初のタイムトラベルによって半世紀前の世界に戻った際、ジェイク/ジョージは世界の濃密な感覚を味わう。最初は大きな違和感を覚えながらも、彼は次第に過去の世界になじみ、一時はそこで生きることさえ決意する。むろん露骨な人種差別が横行し、女性が男性に従属することが当然とみなされている世界であり、インターネットもなければ音楽はレコードによってしか再生されえない。しかしそこには生の喜びが満ちあふれ、人と人が真に結びついていた。むろんそれをノスタルジーと呼ぶのはたやすい。けれども今私たちもきわめて切実に過去に戻りたい、もし過去に生きることができるならば半世紀前を生きたいという思いに駆られていないだろうか。11/22/63が世界を以前と以後に分けたように、私たちの生活も03/11/11によって分断された。私たちは今、放射能で汚染された「以後」の世界を生きることを余儀なくされており、決して「以前」の世界には戻れない。本書の中には歴史改変の結果として、壁一面に差別落書きが書き散らされ、工場や店、図書館は瓦礫と化し、不良少年たちが徘徊する廃墟の街が描かれる。私はこの箇所を読みながら、同じような荒涼とした風景について最近どこかで読んだように感じた。それは『世界』の今月号、「市場化される日本社会」という特集において堤未果がレポートする「株式会社化する国家」、現在のアメリカの地方都市の情景である。なんとキングが描く悪夢のような未来はジョージによる歴史改変が行われずとも、現実のアメリカ社会に実現されているではないか。それは国家が企業によって蝕まれるグローバリズムのなれの果てであることはいうまでもない。そして私たちに放射能で汚染された国に住むことを強いた者たちは恥知らずにも施政方針演説で「世界で一番、企業が活躍しやすい国を目指す」と公言し、アメリカの企業の論理を押しつけることによってこの国から「逝きし世の面影」を根絶やしにしようとしている。ジョージであれば一人の暗殺者を阻むことによって未来を変えることができたかもしれない。しかし間違いなく悪夢へと続く私たちの未来は、一人の人間ではなく、選挙をとおして私たち皆が選んだのだ。
by gravity97 | 2013-10-16 21:57 | エンターテインメント | Comments(0)