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Living Well Is the Best Revenge

ジョン・ケージ[4分33秒]

ジョン・ケージ[4分33秒]_b0138838_9181282.jpg 今年はジョン・ケージの生誕100年、没後20年にあたる。昨年から今年にかけて名古屋と東京で開かれたポロックの回顧展もサントネールと位置づけられていたから、20世紀芸術を革新した二人の巨人が同世代であったことが理解される。このところケージに関する記事を新聞で目にすることが多く、先般、読売新聞に連載されていた一柳慧の自伝においてもケージに関する言及に多くが割かれていた。ケージに関連するコンサートも各地で開かれていると聞く。先日発行された『ユリイカ』の10月号でもケージに関する特集が組まれている。書庫で確認したところ、同じ雑誌の94年1月号でもケージが特集され、ケージに関してはこれまで『現代詩手帖』、『水声通信』や『アールヴィヴァン』でも特集が組まれてきた。それらと比しても今回の特集は格段に充実しており、読み応えがある。おそらくその背景には近年、ケージの主著である『サイレンス』の邦訳をはじめとして、ケージ研究が格段に深められたという事情があるだろう。そういえば私自身も比較的最近、白石美雪の新刊『ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー』を読んだ記憶がある。今回は『ユリイカ』の特集と関連してケージについて若干の考察を記しておきたい。
 今回の特集には多彩な関係者が執筆している。冒頭に一柳慧へのインタビューが掲載されているのは順当であろうし、音楽家としては坂本龍一の回想が面白かった。ナム・ジュン・パイクに連れられてケージのマンションを訪れた際、ケージへの献本にサインを頼まれた坂本が緊張してケージのスペルを間違えてしまったというエピソードは微笑を誘う。ケージの楽曲の演奏について論じる高橋アキ、記譜法を分析する柿沼敏江らのエッセイはそれぞれの専門分野からのケージ研究として短いながらも示唆に富む。中でも興味深く読んだのが佐々木敦による[4分33秒]についての論考だ。演奏者がピアノの前で一音も発さない伝説的な曲についてはこれまで多くが語られてきたにも関わらず、なおも多く未知の部分がある。なぜ、4分33秒なのか。初演は誰がどのように演じたのか。演奏にヴァリエーションはあるのか。佐々木によれば、この文章は2008年に行った[4分33秒]についての各3時間、全5回から成る連続講座の冒頭部であるという。この講義については書籍化の計画もあるというから、是非全文を通読したい。あるいはケージがきのこに造詣が深いこともよく知られている。イタリアのクイズ番組に出演した折りにはきのこについての問題に全問正答してイタリア留学の奨学金より多い500万リラを獲得したという。ケージとキノコの関係については「きのこ文学研究家」を名乗る飯沢耕太郎がエッセイを寄せている。さらに日本との関係についてもケージ受容の問題を含めて、いくつも興味深いトピックスが設定されている。ただし美術とケージの関係に触れた文章が少ないのはやや残念である。例えばケージ、ポロック、ラウシェンバーグという三人の名を挙げただけでいくつもの興味深いテーマが浮かび上がってくるではないか。
 私はこれまで何度か実際にケージの楽曲が演奏される場に立ち会ったことがある。もちろん私はケージの音楽については素人であり、私が上演に立ち会った曲がケージの楽曲の中でどのような位置を占めるかを説明できる知識はない。私の漠然とした理解によれば、ケージの作品はプリペアド・ピアノを用いた初期、続いていわゆるチャンス・オペレーションという手法を用いて作曲に偶然性を導入した時期、さらに演奏にも不確定性を導入した「聴取の詩学」の時期を経て、大編成の演奏者による「ミュージサーカス」にいたる。これらは必ずしも一方的な展開や成熟とみなされるべきではないが、特集に目を通した限り、基本的な理解としては間違っていないだろう。このうち私が聴いたのは初期のプリペアド・ピアノを用いた作品とチャンス・オペレーションによる作品、具体的には1950年代までの作品が多かった。プリペアド・ピアノが演奏される場合、ピアノは事前にプリペアされているため、いかにして弦に異物が挿入されたかはよくわからない。この点に関して高橋アキの記述が示唆に富む。彼女は作業の困難さとそれによって目指す演奏を次のように的確に要約している。「(目下練習中の曲において)プリペアはピアノ弦の半分以上に細かく指示されており大変な作業だ。しかしプリペアなしでも本当は音楽として実に素晴らしい。そこに、さらにボルトやスクリュー、ゴムなどを弦に挟み込むことで実音の美しさ以上のさまざまの豊かな音色を作り出すことがコンサートまでの課題だ」私たちはケージと偶然性という言葉を安易に結びつけているため、プリペアに関してもいわば行き当たりばったりで弦に細工をするような印象を抱きがちだ。しかしケージは何をどのように弦に挟むかといった点まで細かく指示している点が理解されよう。そしてそのうえで「豊かな音色を作り出すこと」がピアニストに求められている訳である。プリペアされた弦が発する音は確かに偶然的かもしれない。しかしいかに弦を操作するかについては厳密なインストラクションが存在するのだ。同じことはチャンス・オペレーションによって作成された楽譜の演奏にあてはまる。再び高橋アキの証言を引用する。「大体、不確定性の音楽でのケージの演奏指示自体が、不明確、あいまいなことが多い。まずは指示の謎解きから始めて、次々と難題を解いていく楽しみ。演奏できる状態になる以前の、この自分自身の楽譜を作り上げる作業。次いでついに仕上げた込み入った楽譜を納得いくまで練習していく時間」高橋はケージの曲を演奏する体験を「パズルを解くこと」に準えているが、別の言葉で言うならば、そこでも不確定性の原理によって作成された楽譜を一つの必然性な演奏へと導くことが演奏者に求められているのである。私はこのような原理から直ちに一連のコンセプチュアル・アートを連想する。例えばソル・ルウィットのウォール・ドローイングにおいては作業に熟練した職人が作家の指示書に従って、壁面にドローイングあるいはペインティングを施す。線の長さや数、あるいは色彩の選択や塗る範囲について、職人はあらかじめ定められたルールを厳密に遵守することを求められる。ルウィットの場合、実際に作品を制作する職人に与えられる自由度はケージの楽譜を演奏するピアニストに与えられたそれよりはるかに限定されるが、一定のルールの下で一つの作業を行う点においては共通する。あるいは河原温のデイト・ペインティング。この場合、作品は作家自身によって制作されるが、作品を制作する時間や日付が表記される言語、作品がその日付に制作されたことを示す新聞記事の収納にいたるいくつかのルールが事前に規定されている(ただし、ルールを明文化したテクストは存在しない)。コンセプチュアル・アートとは一面において、あらかじめ定められたルールに基づいた行為の記録であり、制作行為がしばしばタスクという言葉で呼ばれる所以でもある。これまでケージは世代や偶然性への関心、ブラック・マンテン・カレッジとの関わりなどで抽象表現主義との関係が漠然と想定されていたが、コンセプチュアル・アートとの関係に着眼するならば、むしろ両者の断絶が明らかとなる。
 さて、先に私はこれまでケージの楽曲が「演奏」される場に何度か立ち会ったと記した。[水の音楽]や[ウォーター・ウォーク]といった1950年代の楽曲においてはラジオから電気ミキサーにいたる非音楽的素材が次々に導入されて、演奏というより上演、パフォーマンスに近い印象を受けたのは私だけではないだろう。これらの上演はその場限りの出来事なのか、それとも再現の可能性をもった演奏なのか。今回の特集の佐々木敦の論考を読んで驚いたことには、[4分33秒]に関しては70年代にレコードよる録音、そしてそれを音源としたCDが存在するという。もちろんよく知られているとおり、ピアニストが一音も発さないからといってこの曲は無音ではない。それどころか、それによってかえって聴覚に集中した聴衆が聴き取る様々な音が主題とされている。しかしかつて「演奏」された[4分33秒]をCDによって「再現」できるのであろうか。この問題は実に奥深く、おそらく一編の論文の主題足りうる。ここでは美術と関連させて一つの解釈を加えるに留める。ケージの[4分33秒]は実は聴取という体験の絶対性、一回性と関わるものではなかっただろうか。つまり日常では私たちが音を聴き取るということは常に一度限りであって反復されることはない、同じCDを繰り返し聞くという体験はどうか、直ちにこのような反問がなされるかもしれない。しかし多くの場合、私たちはスピーカーから再生される音と同時にその場の別の音も聴取するし、そもそも音量から音質、聞き手と音源の位置関係にいたるまで同一の聴取体験はありえない。自明であるため意識されることは稀であるが、実は私たちが音を聴く体験は常に一度限りと考えることはできないか。このような発想からは直ちにミニマル・アートの体験が連想されよう。ミニマル・アートにおいては見るという体験の絶対性が問題とされた。作家たちは誰にとっても等しい視覚体験を与えることをめざして、単純な形態の立体を配置した。しかし今の議論と同様に、ミニマル・アートによって人は視覚体験を共有できないこと、作品を知覚する体験は常に一度きりであることが明らかとなった。興味深いことにこのような実験はケージにおいては無音の演奏という聴覚の零度、ミニマル・アートにおいては個性や表現性の最小化という視覚の零度、いずれも表現を切り詰める手法によって探求された。この時、ミニマル・アートとジョン・ケージの共通点が明らかになる。さらにケージの[4分33秒]において聴衆は自らの周囲の音、自分たちが置かれた状況へと目を(というより耳を)向けた。同様にミニマル・アートにおいて個々の作品ではなく作品が配置された状況が主題化された点も両者は一致する。
 通常、ミニマリズムと音楽といえば、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスといったミニマル・ミュージックとの関係が指摘されてきた。実際に作家同士も交流があり、ルウィットはライヒの[18人の音楽家のための音楽]のレコードジャケットを手がけ、(ミニマル・アートとは峻別されるべきであるにせよ)リチャード・セラはグラスの名を冠した作品を制作している。しかし以上述べたとおり、反復性や非関係的な構造といった楽曲の構造のレヴェルを超えて、その本質とも呼ぶべき精神においてミニマル・アートはケージの仕事と多くの共通点をもつ。さらにケージが[4分33秒]を着想するにあたって、ラウシェンバーグのホワイト・ペインティングが決定的なインスピレーションを与えたという事実を加えるならば、この異例の曲をめぐる前衛美術と前衛音楽の豊かな混沌は今日においてもなお研究されるべき多くの余地を残している。
by gravity97 | 2012-10-10 09:19 | 現代音楽 | Comments(0)