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Living Well Is the Best Revenge

水見稜『マインド・イーター』

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 日本のSFに関して、私は黄金時代とも呼ぶべき1970年代にはそれなりに同伴して読み継いだ自負があるが、80年代以降は必ずしも熱心な読者ではなかった。その後もこのブログで取り上げた『グラン・ヴァカンス』のごとき話題作についてはそれなりにアンテナを張ってきたつもりであるが、今回取り上げる『マインド・イーター』についてはその存在すら全く知らなかった。帯に『グラン・ヴァカンス』の著者、飛浩隆から「日本SFが成し遂げた最高の達成」なる賛辞が寄せられているのを読んで、あらためて一読する。なるほど日本のSF史上に残る傑作であろう。
 今回の創元SF文庫版にはタイトルに「完全版」と冠されている。『マインド・イーター』は最初、1984年にハヤカワ文庫から刊行され、その際に収録されなかった二編を加えて、今回新たに上梓された。作者の水見は89年以後、新作を発表していないとのことであるから、最初に刊行された際に見落としていれば、作家と作品を知らなかったとしても不思議はない。それにしても今回、「完全版」によってこの連作を読むことができたのは幸運であった。ハヤカワ文庫版には「サック・フル・オブ・ドリームス」と「夢の浅瀬」という二つの短編が収録されていない。内容への不満ではなく分量に配慮してとのことであるが、今回この二つの短編が加えられたことによって物語の奥行きは大きく広がった。
 「マインド・イーター」とは何か。帯には次のように記されている。「マインド・イーターとは、人間を完全に異質なものに変えてしまう害意をもつ鉱物的存在であり、音楽であり、言語である。応戦の術はない」なんのことやらよくわからないが、冒頭に収められた「野生の夢」を読むと「マインド・イーター」とは何か、そして物語の枠組はおおむね理解できる。「マインド・イーター」とは人間が外宇宙へ進出して出会った未知の存在である。それはビッグ・バン以前の宇宙の残滓であり、人間に対して徹底的に悪意をもち、その名のとおり人間の精神を食いちぎる宇宙の鮫である。マインド・イーターの犠牲者はM・E症を発症し結晶質の無残な姿へと変貌を遂げる。さらに恐るべきことにM・E症は「精神的に」伝染し、発病者と強い感情的紐帯をもつ者へと感染していく。マインド・イーターは多くの場合、鉱物のかたちをとり、彗星や小惑星として地球へと近づく。マインド・イーターに対して、人類はハンターと呼ばれる兵士たちを養成してその破壊を試みる。SF的センス・オブ・ワンダーというか、なんともぶっとんだ設定であるが、鉱物のかたちをとったモンスターについては例えば次のようにパラフレイズすると多少は理解可能かもしれない。古来より彗星が地球に接近する時、彗星の尾に含まれた有毒物質によって人の精神が影響を受けるという説が流布していた。あるいは月と地球の位置関係によって(つまりその満ち欠けにより)人が変調を来たすということも知られている。彗星も月も一種の鉱物であると考えるならば、M・Eは人間にとって既知の脅威/症例である。(実際に月とM・Eの関係は収録された一つの短編の主題である)そういえば以前読んだ谷甲州の長編『パンドラ』も彗星の接近に伴う地球の進化論的変異を主題としていたように記憶する。
 収録された八つの短編は長短も違えば、設定も時代も異なる。確かにいずれのエピソードにもM・Eが不吉な顔をのぞかせ、先に示した枠組からは人類対M・Eという古典的な娯楽SFの構図が見え隠れする。そのような一面もない訳ではないが、内容はきわめて思弁的かつ抽象的でありサイエンス・フィクションというよりスペキュラティヴ・フィクションと呼ぶにふさわしい。内容に少し立ち入りながら論じる。巻頭の「野生の夢」ではプロローグとしてM・Eの誕生、つまりビッグ・バン以前の宇宙の意識が憎悪として結実する場面が描かれ、続いてギュンターというハンターを主人公に、人類とM・Eの闘争の歴史、ハンターの恋人がM・E症を発症する症例など小説を通底するモティーフが粗描された後、宇宙空間におけるハンターとM・Eの戦いが描かれる。注目すべきはM・Eは多く小惑星のかたちをとった鉱物であることが語られ、実際に結晶や鉱石の姿をとって人間の精神を「食いちぎる」場面も描かれるのだが、多くの場合、M・Eの襲撃は言葉の派手さとはうらはらに常に犠牲者の精神の変調として認識され、具体的なイメージを伴わない点である。「マインド・イーター」は意識に関する小説といってもよい。私は宇宙、意識、始原といった言葉の積み重ねから埴谷雄高を連想したのだが悪乗りのしすぎであろうか。いずれにせよ、進化、発生、意識といった抽象度の高い主題がこの小説の潜在的な主題を構成している。続く第二話「サック・フル・オブ・ドリームス」で舞台は突然、近未来のニューヨークへと転じ、二人のミュージシャンの交流が語られる。ここで主題とされるのは音楽である。つまり音楽が意識の、発生のメタファーとして扱われる。宇宙空間から都市の日常へ、この転調もみごとであり、作者の意図が外宇宙ではなく、私たちの内部、内宇宙へと向けられていることが暗示されている。続く月面を舞台にしたホラー的要素の強い佳作「夢の浅瀬」では「相(フェイズ)」という概念が提起される。これもまたきわめて抽象的な概念であり、要約することが難しいが、私の言葉に直すならば、現在ある世界、現在ある私とは別の無限の可能性を暗示する概念である。この概念が進化や意識、つまり別の進化や別の意識という主題に連なることは容易に理解されよう。この短編でも音楽が一つのテーマを構成している。続く「おまえのしるし」はこの小説の一つのクライマックスをかたちづくる。宇宙空間で発見された未知の文字の解読とM・Eとの戦闘によってM・E症を発症して異形の姿へ変貌を遂げる兵士の物語が並行し、最後には兵士の意識をとおして地球とは別の進化の「相」を瞥見するという内容は短編とは思えないほど密度が濃い。「緑の記憶」と「憎悪の谷」ではそれぞれ植物を介したM・Eとの接触、そしてM・Eと人類とのいにしえから続く関係、さらには意識や人類の起源が暗示され物語に深みを与える。後者では言語の問題が扱われる。言語を主題としたSF自体は前例がない訳ではなく、川又千秋の『幻詩狩り』や最近では伊藤計劃の『虐殺器官』なども想起されるが、本書における言語へのアプローチは抽象的で、むしろ神林長平の初期作品に近い。「リトル・ジニー」という短い短編を経て、ハヤカワ文庫版が刊行される際に書き下ろされた巻末の「迷宮」においてはなんとM・Eが擬人化され、「相」の問題が問われる。私の身体、私の意識は現実に存在するのか、それは無数の可能な「相」の中の一つではないか。このような問いは哲学的な広がりをもつ一方で、例えば「エイリアン4」や「バイオハザード」といった映画においてもショッキングに視覚化されていた。水見は錯綜し、かつ抽象的な物語の中にこの主題を描き切る。一種の難解さにおいて私は同じ映画でもむしろキューブリックとクラークの「2001年宇宙の旅」を連想し、実際に内容に関しても「迷宮」はこの映画へのオマージュのように感じられるは深読みに過ぎるだろうか。
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 今回の完全版には飛浩隆の詳細な解説が付されており、私はこの解説から多くを学んだ。飛も記すとおり、この小説は文章がすばらしい。硬質でありながら官能的、思弁的でありながら娯楽的という矛盾した特質をはらみ、短編同士が相互に絶妙の距離を保っている。そして何よりもすばらしいのは、ここで提起される問題はSFという枠組によってしか論じえないということである。水見が20年以上新作を発表していないことは残念であるが、日本のSFの歴史を新しい世代が塗り替えつつあることを強く感じる作品であった。水見は復刊にあたって新たにあとがきを寄せているが、その中にはもう一人の作家の名が引かれている。日本のSFの代名詞とも呼ぶべき大家、小松左京である。著者によるあとがきと飛の解説、そして日下三蔵の解題にも小松、とりわけ小松の「ゴルディアスの結び目」との関係が論及されている。確かに本作中、「おまえのしるし」のクライマックスからこの作品を連想しないでいることは難しい。私も久しぶりに小松の小説の中でも最も強面とも呼ぶべきこの連作集を書庫から取り出してみた。思えば小松もまたSFという枠組でしか論じることのできないテーマにこだわった作家であった。「小松左京さんが旅立たれた年に、本書を復刊していただけるのは、一種の巡り合わせなのだろうと思う」という作者の言葉は重い。
by gravity97 | 2011-12-19 20:45 | エンターテインメント | Comments(0)