2011年 07月 14日
カズオ・イシグロ『日の名残り』
物語の設定、特に主人公の造形が素晴らしい。主人公は老境の執事、スティーヴンス。ロンドン近郊に位置するダーリントン・ホールで長く執事を務めるスティーヴンスは新しい主人のファラディがアメリカで夏のヴァカンスを過ごす間、主人の親切な提案に従って、フォードを借り受けてコーンウォール地方へ小旅行を試みる。もっともこの小旅行は単なる骨休めではなく、屋敷の人手不足を補うために、以前ダーリントン・ホールで女中頭を務め、結婚して退職したミス・ケントン、現在はミセス・ベンのもとを訪れ、再びダーリントン・ホールで女中たちの指揮をとることを依頼するという目的があった。このような事情をプロローグで簡潔に述べた後、スティーヴンスは足早に屋敷から出立し、表面上、物語はスティーヴンスの一週間足らずの道行きを追う。しかしこの小説は全編スティーヴンスのモノローグとして成立しているから、スティーヴンスの回想をとおして、物語は幾度となく往時のダーリントン・ホール、つまりかつてイギリス政界の名士であったダーリントン卿が住まい、数々の秘密の外交会議を主宰していた栄光の時代へと立ち戻る。物語の現在、つまりスティーヴンスがイギリスの美しい田園をドライブする時代は1956年と特定されている。一方、スティーヴンスの回想はダーリントン卿がヨーロッパ外交に隠然たる影響力をふるった第一次大戦からヒトラーが台頭する時期、つまり1920年代から30年代を中心としている。おおよそ30年の時間を隔てた二つの時間がない交ぜとなって物語は構成されているのである。
注目すべきは、スティーヴンスにとって現在進行中のコーンウォールへの小旅行も常に過去形で語られる点である。スティーヴンスは語り始めるにあたって、自分が今どこにいるかを報告する。宿の部屋やホテルの食堂。スティーヴンスは自らの場所を確認したうえで、終えられた何ごとかについての反省をめぐらす。章のタイトルを参照する時、このような語りの特質は明らかである。目次には一日目から六日目まで順に並んでいるが、なぜか五日目が欠落している。しかしこの五日目こそ、この物語のクライマックスであるミス・ケントンとの再会が果たされた日なのである。つまりイシグロは意図的に「生起しつつある」事件ではなく、「終えられた」事件を描くことを選ぶ。なぜか。この点がこの小説の独特な点なのであるが、有能な執事であるスティーヴンスのモノローグは常になにかしらの省察を伴っている。召使たちの仕事ぶりはどうか、賓客たちへの接待に手落ちがなかったか、さらには偉大な執事の条件とは何かといった問いにいたるまでスティーヴンスは常に考える人である。そしてこれらの省察はほとんどが過去の記憶と関わっており、結果としてこの物語は現在進行中の出来事も含めて過去に終えられた印象を与える。出来事の意味を様々な角度から反芻するゆるやかなダイナミズムがこの物語の推力といえるだろう。
この小説の絶妙さは、執事という主人公を創造した点に求められる。執事とはまことにイギリスを象徴する職業ではなかろうか。少なくともダーリントン・ホールが栄華を誇った第二次大戦以前、イギリスに階級社会が厳然として存在した時代には執事というプリズムを介してイギリスという社会を分光することができる。登場する人物が全て階級によって区別され、階級は固定され、世襲される。スティーヴンスもいくつもの屋敷で執事を務めた父の後任としてダーリントン・ホールで仕事に就いた。多くのイギリスの優れた小説の例に漏れず、一見、優雅で端正な物語の背後に読者は階級、社会、労働といった苛烈な現実をたやすく透かし見ることができる。しかし人も階級も永遠ではない。物語をとおして二つの交代が暗示される。一つはダーリントン・ホールにおける父からスティーヴンスへの執事職の委譲である。第二次世界大戦前夜、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアといったヨーロッパ諸国とアメリカの外交関係者がダーリントン・ホールに集った秘密会議の最後の夜はこの小説の一つのクライマックスをかたちづくり、その夜、スティーヴンスとダーリントン・ホールの関係は決定的となる。もう一つの交代は小説内には明示されない。すなわちダーリントン・ホールをダーリントン卿が手放し、アメリカの富豪ファラディ氏が使用人を含めて屋敷を引き継いた事件である。例によってこの交代も事後的に描かれ、なぜダーリントン卿が屋敷を手放し、ファラディ氏の手に渡ったかについて明確な説明はない。しかし読者にとってその経緯とこの交代が意味するところを想像することは困難ではない。後でも触れるが、スティーヴンスが私淑するダーリントン卿の晩年は決して幸福ではなかったことが暗示される。そしてイギリス貴族の屋敷をアメリカの新興の富豪が買い受けるという構図からは第二次大戦後のヨーロッパの没落とアメリカの勃興が浮かび上がる。休暇中にフォードをガソリン代込みで貸し与えるというエピソードが物語るとおり、ファラディ氏もまた寛大な主人である。スティーヴンスは新しい主人に献身的に仕える。しかしスティーヴンスにとって真の主人はダーリントン卿であり、ファラディ氏への異和感は行間から明らかである。それをイギリスとアメリカの階級意識の違いと説明することは容易であるが、スティーヴンスのダーリントン卿への思慕は読む者にいささか残酷な感慨を抱かせるだろう。最初に述べたとおり、この小説はモノローグとして成立しているので、ここから浮かび上がるダーリントン卿の姿はスティーヴンスの目をとおして美化されている。しかし登場人物が語る言葉、あるいはいくつかのエピソードからはヒトラーが政権を掌握しようとしていた時期、ダーリントン卿が対独協力者としてイギリスの外交政策に関わっていたことが暗示される。語りの中で暗示されるその不幸な晩年もこのような立場が招いたものに違いない。
ダーリントン卿の凋落が大英帝国のそれと重ね合わせられていることはいうまでもない。それでは主人と執事はどうか。ダーリントン卿が専門の外交官でありながら、当時の国際状況を読み切ることができなかったように、熟練した執事であるはずのスティーヴンスもまた邸内を掌握しきれていなかった。なるほど秘密会議の手配、賓客たちの接待は完璧であったかもしれない。しかし彼が差配する召使たちの心情の機微、とりわけミス・ケントンが自分に向けるほのかな恋愛感情にスティーヴンスは愚かしいまでに鈍感である。旅行中に往時を回想する中で、スティーヴンスは次第に彼女の思いを自覚する。したがってスティーヴンスとミス・ケントンの再会はこの物語のクライマックスとなることが予想されるが、先に記したとおり、イシグロはあえてその場面を描かないことによって逆に物語に深い余韻を与える。
「日の名残り」とはこの小説のタイトルであると同時に、「六日目―夜」と題された最後の章においてスティーヴンスが目にする光景でもある。海辺の町、ウェイマスの夕暮れに佇みながら、スティーヴンスは前日のミス・ケントンとの再会、そして自らの来し方に思いをめぐらす。「桟橋の色つき電球が点灯し、私の後ろの群衆がその瞬間に大きな歓声をあげました。今、海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っております」ほぼ終えられ、しかしまだ完全には終えられていない時間とは、この小説の象徴といえるかもしれない。黄昏、晩年、老境あるいは没落。一人の人間から一つの国家までそれぞれにある「日の名残り」のコノテーションは必ずしもポジティヴなそれではない。しかしスティーヴンスの落ち着いた語りが人生の「日の名残り」にあってもなお職業への矜持、愛する人への抑制を失わない主人公たちの姿に重ねられる時、いかにもイギリス小説らしい洗練と気品が行間から漂う。そして忘れてはならないのはイシグロのユーモアのセンスだ。執事の生真面目な語りは、その真面目さのゆえに語られる出来事との間にしばしばギャップを生む。とりわけ最後の場面でスティーヴンスは一つの決意をするのであるが、その内容に読者は微笑を禁じえないだろう。最後にかかるユーモアが配されることによって、読者は失意ではなく希望とともにこの小説の頁を閉じることができる。
翻訳もすばらしい。内省する執事という物語の枠組は独特の文体にみごとに反映され、私はいつになく深くこのエレガントな物語の中に沈潜できたように感じた。
>しかしまだ完全には終えられていない時間とは、この小説の象徴といえるかもしれない。
映画の中でもとても気になっていた場面、そして記憶に残った台詞でした。原作も是非読んでみたい、いえ読まなければいけないと思いました。ご紹介に感謝です。