人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

ジョン・ヒルコート『ザ・ロード』

ジョン・ヒルコート『ザ・ロード』_b0138838_22323166.jpg
 コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』については以前、このブログで取り上げたことがある。文明が崩壊した後の世界を旅する親子の過酷な旅路を描いた物語であった。この小説を原作とした2009年の同名の映画を見る。ジョン・ヒルコートという監督は私にとって未知の名前であったが、なかなか優れた才能である。原作をみごとに視覚化した鮮烈な終末のイメージに思わず引き込まれる。厚く雲が立ち込めた空、降り積もった灰、立ち枯れた林と廃墟と化した街。灰と雪に閉ざされた世界にほとんど色彩は存在しない。ここでは海も森も色彩をもたないのだ。時折、画面に現れる不吉な血の赤だけが、カラー映画であることを想起させる。
 ストーリーも原作に忠実である。小説と同様に見る者は何の説明もないままに終末の世界に放り込まれ、「男」と「少年」とともに道なき道を彷徨する。全編にみなぎる緊張と絶望が見る者を苛む。映画においてもこのような破滅が何によってもたらされたかについては一切語られない。以前にも記したかと思うが、世界の破滅と道行きというこの小説/映画の設定は1980年前後に発表された二つの小説、スティーヴン・キングの『ザ・スタンド』とロバート・マキャモンの『スワンソング』を連想させる。そこでは登場人物たちが生物兵器や熱核戦争がもたらした文明の崩壊や邪悪な存在に決然と対峙した。これに対して、『ザ・ロード』において終末はすでに所与のものである。文明の崩壊に対して抗うことは初めから放棄され、既に終えられた世界をただ生き抜くことが主題とされている。神や奇跡といった超自然的な要素は映画においても一切暗示されることがない。唯一この映画で小説以上に説明が加えられているのは、「少年」の母についてのエピソードだ。文明が崩壊する以前の幸福な思い出、彼女が二人を捨てて闇の中に歩み去る情景などが挿入されている。このうち「男」と「少年」の母が睦みあう情景は暖色を中心とした色彩が用いられている。つまりこの映画においてはカラーとモノクロームという色彩の二分法によって文明の崩壊以前と崩壊以後が画然と区切られているのである。緊迫したモノクロームが映像の基調を形成し、カラー映像が象徴的に使用される手法から私はアンドレイ・タルコフスキーの名作『ストーカー』を連想した。
 『ストーカー』が連想されたことは偶然であろうか。タルコフスキーのフィルムは何かの原因によって(『ザ・ロード』と同様にその理由は明らかにされない)隔離され、立ち入ることが禁止された「ゾーン」という区域にストーカー(今日私たちがなじんだ変質者という意味ではなく密猟者という意味だ)の案内で侵入する男たちの物語であった。この映画が数年後に発生するチェルノブイリ原子力発電所事故を予言していたという説が今日広く流布している。無人の街、木々の立ち枯れた林、『ザ・ロード』の黙示録的な情景もまた、今、フクシマの地に広がる現実の光景を予言するかのようだ。
 ブログの日付を確認するならば私は『ザ・ロード』を2008年7月に読んでいる。そしてつい先日、映画化された『ザ・ロード』を視聴した。私はこの二つの体験の間に目がくらむような懸隔を感じざるをえない。両者を隔てるのは小説と映画という表現形式ではない。それは2008年と2011年という日付であり、それ以前とそれ以後という時間である。断絶は小説を読む私と映画を視聴する私、同じ私の内側に兆しているのだ。『ザ・ロード』を読んだ時、この酷薄な物語にそれなりに感銘を受け、同じ幼い息子をもつ身として「男」に対してある程度の感情移入があったが、なおもそれは現実とは別の世界の物語に対してであった。(もちろんマッカーシーは小説世界の臨場性を際立たせるために様々の形式的技巧を操っている。それについてはかつてのブログを参照されたい)一方で初めて見た『ザ・ロード』の映像からは何重もの既視感が拭えず、映画と現実とは地続きでつながっている印象がある。広大な廃墟と荒廃した山野、人の影のない街。いうまでもなくそれはTVに映し出された震災後の惨状であり、事故を引き起こした原子力発電所周辺の立入禁止区域の映像だ。『ザ・ロード』の映像がそれ以前と以後でカラーとモノクロに分かれたように、私たちも3月11日以後、何の説明もないままに色彩のない世界に放り出されてしまった。「男」と「少年」ではない。今や私たちこそが世界が突然に激変し、以前の世界には絶対に戻れないという非日常的な感覚を味わっているのだ。
by gravity97 | 2011-06-16 22:36 | 映画 | Comments(0)