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Living Well Is the Best Revenge

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』_b0138838_211563.jpg 昨年暮れあたりから関西でも東京でも大きな書店の人文書のコーナーに平積みされた赤い表紙が目についた。長く気になっていた本書を先日買い求め、一日で通読した。なるほど実に面白い。新しい才能の出現であろう。
 とはいえ著者の名前は既に私の記憶にあった。同じ著者の『夜戦と永遠』というこれまた奇妙なタイトルの大著を私は以前手に取った覚えがある。そこには三人の思想家の名前が記されていた。フーコーとラカンはともかくルジャンドルという名は私にとって全く未知であり、本の分厚さに恐れをなしたこともあり、結局求めることはなかった。今回も『切りとれ、あの祈る手を』という意味ありげなタイトルに付された「〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」というサブタイトルはなんとも読者を突き放すかのようだ。本と革命、かかるテーマが正面から提出された時、普通の読者であればひるんでしまうのではなかろうか。
 あとがきを読むならば、本書の刊行は必ずしも著者の意図に沿ったものではなく、むしろ熱心な編集者の慫慂に基づいていることが理解される。私も編集者に感謝したい。本書がなければおそらく私は佐々木中という研究者も、彼が開陳する独特の思想にも触れることがなかったであろうと感じるからだ。
 本書はまず文体において一般的な思想書とは大きく異なる。口語体が採用され、サブタイトルのとおり、少人数の聴き手を相手にした五回にわたる夜話の書き起こしと考えることができよう。語り口は柔らかだ。例えば第一夜は「どうも今年は梅雨入りが遅いようで、ようやく雨がそぼ降る宵が来ましたね。淡水の、鉱物めいた香り満ちた曇る大気の下をくぐり抜けてここまでやって来ました」という言葉で始まる。しかし続けてカフカやルネ・シャール、カヴァフィスの名が唐突に引かれることに読者は当惑するだろう。繰り返し語る中で確信を深めていくような文体もきわめて独特であり、なじむまでにやや時間がかかる。特に第一夜は話題が次々に変わり、問題の輪郭が見定めがたい。そこでは「専門家」と「批評家」が批判され、今は存在しないエトルリアの言語の解読について語られ、フロイトの文体が称揚される。しかしかかる混沌の中から次第に本書の主題が浮かび上がる。それは読書という営みであり、本を読むということが「下手をすると、気が狂うくらいのこと」であることが説かれる。
 「本」に続く第二夜では「革命」の本質が語られる。この話題は第一夜に連なっている。つまり本を読むことは端的に革命の準備なのである。この認識こそが本書で繰り返し説かれることなるテーマだ。一見謎めいた思考であるが、佐々木はこのような認識の理路をわかりやすく説く。佐々木によると人類は少なくとも欧米において六つの革命を経験した。中世解釈者革命、大革命、イギリス革命、フランス革命、アメリカ革命、ロシア革命である。後の四つの革命は歴史的事件として容易に理解されようが、最初の二つは何であろうか。佐々木はこの二つこそ、通常「革命」とは考えられていないがゆえに真に革命の名に値すると説く。このうち「大革命」は日本では宗教革命という別の名前で言及されることが多い。佐々木はまずルターを引きながら、読書と革命の関係を説く。この議論はきわめてわかりやすい。なぜならルターの宗教改革とは聖書を読む運動だったからである。聖書を徹底的に読むことによって腐敗した教会の権威を批判することが「大革命」の本質であり、識字率の問題、あるいは印刷術の発明といったいくつかの歴史的な条件がこの改革と深く関わっている。佐々木はこれらの問題にも論及したうえで「文学こそ革命の本体であり、革命は文学からしか起こらない」と結語する。佐々木の論旨は説得的で感動的ですらある。
 ルターについて語った後、第三夜では大きな迂回がなされ、イスラム教のムハンマドについて論じられる。ムハンマドの「革命」は先述の六つの革命には入っていないが、ここでも「読むこと」は大きな意味をもつ。ムハンマドは40歳の時に天使ガブリエルに会って宗教的転回を果たすが、このエピソードが興味深い。ガブリエルはムハンマドに「読め」と命じ、ムハンマドはこれに抗う。なぜか。ムハンマドは文盲であったからだ。しかしこの神秘体験をとおしてムハンマドは読みえぬものを読み、コーラン(本書ではクルアーン)を残す。ここでも読むことが革命の本質である点が暗示されている。注意すべきはルターとムハンマドの名が挙げられたとしても、佐々木は決して宗教について語っているのではなく、あくまでも読書と革命を論じている点だ。この問題と関連してこの章では原理主義と終末論が厳しく批判されている。批判の対象はオウム真理教はいうまでもなく、アガンベンやコジェーヴにまで及ぶ、批判に際しての舌鋒の鋭さも本書の大きな魅力である。
 続いて中世解釈者革命を論じた第四夜は本書のクライマックスをかたちづくるのであるが、やや難解な印象がある。宗教改革などと比べてもこの「革命」の本質がとらえにくいためである。もちろんこの革命も本、そして読むことと深く関わっている。11世紀末、かつて東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスの命によって編纂された『ローマ法大全』が発見され、その解読が試みられた。この地味な出来事が「中世解釈者革命」であり、もう少し具体的に述べるならば、これによって従来の教会法が書き換えられ、国家の成立が可能となったのである。主権や国家、あるいは近代法といった様々の擬制はこの解読を前提としている。さらに佐々木は議論を敷衍し、このような革命が今日にまでいたデータベースとしての世界、情報革命へと道を開いたと論じる。
 最後の夜、第五夜はやや寛いだ印象だ。ここで佐々木は再び本、そして読むことへ回帰し、希望とともに語りを終える。文学の終焉という私たちもなじんだ発想を佐々木は激しく批判する。その根拠は明快だ。19世紀中葉、ロシアの識字率は10パーセントにも満たなかったという。正確には全文盲が90パーセントを超えていた。10人の友人がいたとすると、その中で文字が読めるのはただ1人いるかいないかという状況である。しかも彼もしくは彼女は字が読めたとしても本が読めるかどうかはきわめて怪しい。しかしこの絶望的な状況の中にドストエフスキーがいたのだ。19世紀のロシア文学といえば、近代文学の絶頂であるかのように感じられるが、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』がかくも苛酷な状況の中で執筆されたことを知り、私は大いに驚いた。佐々木によればこのような奇跡、このようなサヴァイヴァルは文字が発明され、文学が成立してから実は何度も繰り返されてきたのであり、文学はこのような不可能性の中に胚胎する奇跡なのだ。最後に佐々木はパウル・ツェランとニーチェを引用しながら読むこと、語り直すこと、文学と革命の未来に賭けることを高らかに宣言する。
 私としては珍しく、そしてこのブログとしても例外的に、内容についていささか説明的に記述した。もちろん本書はこのような単純な要約を許すものではなく、その魅力は内容よりもむしろ語り口にあるから、読者には実際に本書を手に取っていただくことを勧めたい。それにしても今日、揶揄的に語られることの多い文学や革命といった主題に正面から挑み、多様な問題に論及しながら12世紀以降、さらには380万年後の未来までを射程に容れて論じる力技には恐れ入る。佐々木に関しては既に『夜戦と永遠』が刊行されており、本書はいわゆる論文という体裁をとっていないにせよ、人文書の分野で未知の新人の文章を読んでこれほどの感銘を受けたのは1998年に一巻の書としてまとめられた東浩紀の『存在論的、郵便的』以来である。本書を読むと、佐々木が寡作である理由も容易に理解できる。しかしそれでもなおもこの書き手の文章をなるべく多く、なるべく早く読みたいと願うのは私だけではないはずだ。
Commented by desire_san at 2011-08-01 19:10
はじめまして。

大変興味を持って読ませていただきました。ドストエフスキーの『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』が苛酷な状況の中で執筆されたというお話はドストエフスキーに興味を持っているのだ感慨深く感じました、いろいろ勉強になりました。ありがとうございました。

私も、ブログに、ロシアの歴史、文学とペテルブルグについて、現地に行って感じたことも含めて書いてみました。是非読んでいただけるとうれしいです。

よろしかったらブログに感想などなんでも結構ですので、コメントをいただけると感謝致します。
by gravity97 | 2011-05-17 21:05 | 批評理論 | Comments(1)