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Living Well Is the Best Revenge

サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』

サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』_b0138838_7525619.jpg サルマン・ルシュディが1995年に発表した小説がこのたび翻訳された。(これまで作家名はラシュディと表記されていたが、今回より改められている。その事情については訳者解説の冒頭部を参照されたい)最初に邦訳された『真夜中の子供たち』を随分前に読んで、私はこのインド出身の作家の才能に驚愕した。それ以来翻訳された長編をほぼ全て読み継いできたが、ルシュディの長編を通読するためには常に時間と集中力が必要である。
 これもまた相当に手ごわい小説である。一例を挙げよう。この小説は次のような一文によって始まる。「アンダルシアの山村ベネンヘリに聳える、ヴァスコ・ミランダの血も凍るような狂気の城を脱出したときから数えて幾日経ったのか、分からなくなった」これ自体、意味のわかりにくい文章であるが、ここで唯一言及される人物ヴァスコ・ミランダなる人物が物語の中に正式に登場するのはなんと頁にして150頁、物語の三分の一が語り終えられた後なのである。次々に脈絡もなく新しい人物やらエピソードが語られ、読み進めるうちにそれらの登場人物や逸話の関係がおぼろげに明らかとなる。しかしヴァスコ・ミランダの例にみられるとおり、物語は思いがけぬところで結びつき、入り組んだフラッシュバックとフラッシュフォワードは説話上の効果をねらってというよりも、むしろ読者を混乱させるために重ねられるかのようだ。
 モラエス・ゾゴイビーという語り手によって語られる、きわめて錯綜したこの小説は一種の芸術家小説として読むことができる。芸術家とはモラエスの母、インドの現代美術において独自の位置を占める架空の画家、オローラ・ダ・ガマである。オローラがカッセルのドクメンタ、あるいはニューヨークのメアリー・ブーン・ギャラリーで作品を展示するといったエピソードは、オローラの作品に関するニュー・ペインティング風の記述を念頭におくならば微笑を誘う。そもそも小説のタイトルである「ムーア人の最後のため息」とはオローラが描いたモラエスとオローラの肖像画であり(ムーアとはモラエスの通称)、数奇な運命をたどったこの肖像画が物語全体の鍵を握ることとなる。オローラは絵の上に絵を重ねるパリンプセストという技法を用いて作品を制作するが、パリンプセストとは実にこの小説の隠喩でもある。そもそもモラエスの怪しげな出自たるやインド航路を発見したポルトガル人、ヴァスコ・ダ・ガマの末裔を母に、スペイン、アンダルシアのイスラム王朝最後の王の末裔を父とするものであり、主人公の中にいくつもの血統が重ね描きされているのである。語り手は一貫してモラエスであるが、語り自体も時間的な脈絡や一貫性を欠き、物語の上に物語が重ね描きされていくかのようである。
 このような構造を説明するためにひとまずこの物語を簡単に要約するが、あらかじめ知っていても楽しみを減じることはないだろう。この要約は必ずしも物語の継起と対応していないし、要約が意味をもたないほど錯綜した物語なのであるから。物語は四部構成で、最後の第四部のみ、やや短い。物語の舞台も第三部まではインドのボンベイ、第四部はスペイン、アンダルシアのベネンヘリという町であり、先に引用した冒頭の一文を想起するならば、この長大な小説が一種の円環を形成していることはたやすく理解されよう。「内輪もめの家」と題された第一部ではモラエスの眷族、特に母オローラの系統であるダ・ガマ一族をめぐる数々の奇怪なエピソードが三代に遡って語られる。巻頭に掲載された系図を参照するならば、これらのエピソードを追うことはさほど困難ではない。しかし主人公=語り手が登場する前に曽祖父や曾祖母、祖父や祖母とその係累のエピソードがいつ果てるともなく続く様子は通常の小説を読み慣れた読者には異様に感じられよう。もっとも先祖への何重にもわたる遡及、メインストーリーの遅延は『真夜中の子供たち』も同様であったと今になって思う。ゾゴイビーの先祖たちの過去の物語に語り手たるゾゴイビーの現在が重ねられることはいうまでもない。さらに彼らが生きた時代、例えばインド独立とロシア革命をめぐる狂騒やガンディーの「塩の行進」といった歴史的事件、シェークスピアやフォークナーからの引用までが重ね描きされ、全てはゾゴイビーの語りの中で濃密に溶け合う。私は以前よりルシュディのきわめて独特の語り口をどのように理解すればよいのか考えていたが、なるほどパリンプセスト(重ね描きされた羊皮紙)とはルシュディの語りの実に卓抜なメタファーである。時間を超え、現実と幻想の区別なく次々に描き込まれるエピソードはしばしば比されるマルケスとは全く異なった魔術的レアリズムの効果、つまり物語の異常なまでの密度を形成するように感じられる。ダ・ガマ一族の奇矯な歴史、そしてオローラと父エイブラハム・ゾゴイビーの不幸な恋の顛末が語られる第一部に続いて、第二部の冒頭でようやく語り手たるモラエス・ゾゴイビーが誕生する。右手に障害をもち、しかも謎のキノコ売りの老婆から常人の二倍の速さで成長するという呪いをかけられたモラエスの半生の記述においてはメインプロットとサブプロットは分かちがたく結びつき、次々に新たな物語が重ね描きされていく。母オローラと父エイブラハム、あるいは姉たちとの確執、あるいはメーンダック(蛙)と呼ばれる政治漫画家フィールディングに統率され、ゾゴイビー財閥と対立する「ムンバイ(=ボンベイ)枢軸」なる排他的な政党の台頭。そしてモラエスと結ばれるウマ・サラスヴァティという宿命の女性の登場。ウマはゾゴイビー一族に次第に入り込み、近親姦を暗示させる奸計によってモラエスを廃嫡に追い込んだ後、自殺を図る。モラエスがウマ殺害の容疑で逮捕された場面で第二部は終わる。続く第三部においてモラエスはブリキ人間サミー・ハザレや「五本かじりのチャガン」といった奇怪な面々と共に「ムンバイ枢軸」のフールディングの用心棒として登場し、ゾゴイビー一族と対立する位置を占める。様々なエピソードが重ねられた後で、母オローラの死をめぐり、モラエスはある人物に復讐を果たすが、ほぼ同時にボンベイ全体を爆弾テロが襲い、登場人物の多くが爆死したことが暗示される。パキスタンの現代史を同様の魔術的レアリズムで描いた長編『恥』においてもラシュディは最後の場面に大きな爆発のカタストロフを置き、パキスタンによる核開発、核実験の暗示であるという解釈がなされてきたが、『ムーア人の最後のため息』における爆発はその規模や建造物、都市の破壊というモティーフにおいて明らかに9・11の同時多発テロを反映しているだろう。このようなカタストロフを生き延びたモラエスは第四章でヴァスコ・ミランダを追って、スペイン、アンダルシアに飛ぶ。作中で何度も言及されるボアブディルなる王がスペインのイスラム朝の最後の王であった(そしてボアブディルの末裔がエイブラハムである)ことを想起するならば、かかる場面転換には必然性があるが、そこにルシュディはもう一つのエピソードを付け加える。すなわち作品のタイトルでもあり、盗まれたはずのオローラの代表作「ムーア人の最後のため息」がなぜかミランダの元にあり、この作品にオローラ殺害の真犯人が隠されているというのだ。「血も凍るような狂気の城」と表現されたミランダの居城にはもう一人の人物が監禁されていた。それはアオイ・ウエという絵画修復士の日本人女性である。おそらく源氏物語の葵上から名前が取られたこの女性は画面の下に覆い隠されている真犯人を明らかにするため重ね描きされた絵具を剥離する作業を強要されていた。一方、モラエスもまた監禁されて一族の物語を書き残すことを強要される。したがってミランダの脅迫のもと、スティーヴン・キングの『ミザリー』のごとき状況で書かれたモラエスの物語が、自分が今読み進める小説そのものであることを読者は最後の章で理解する。重ね描きされた絵画から余分な絵具を削り取るアオイ・ウエの作業と、物語の上に物語を重ね描きしていくモラエスの執筆が対照的であることは興味深い。あえて結末と真犯人には触れないが、このようにかなり強引に単純化した要約からもこの小説が実に豊かな混沌をはらんでいる点は想像していただけるだろう。
 最初に述べたとおり、本書は決して読みやすい小説ではないが、芸術家小説の名に恥じず、文学のみならず芸術という営みに深い示唆を与える。この小説ではオローラの描く絵画が重要な役割を果たし、オローラが描いた絵画についての記述も多い。ところで一般に絵画は空間芸術、小説は時間芸術と考えられてきた。モネでもピカソでもよい、重ねられる絵具(まさにパリンブセストだ)はその下に描かれたイメージを覆い、私たちは常に最終的な絵画の相しか見ることができない。例外的にポロックの絵画は制作の過程をある程度最終的な画面に反映させており、この点をロバート・モリスは高く評価した。しかし原理的に絵画は過程、つまり時間を内包することが困難である。一方、小説は初め、中、終わりという時間的な構造をもち、(一部の実験的な詩や小説を除いて)視覚的、空間的な構造を獲得しえない。この時、『真夜中の子供たち』や『悪魔の詩』においても認められ、『ムーア人の最後のため息』においては形式のみならず主題として顕在化するパリンプセストという手法は文学と絵画を媒介する手段と考えることができるのではなかろうか。異なった時間と何人もの語り手、多様な事件が幾重にも折り重ねられた厚み、通常ではありえないこのような錯綜を私たちはゾゴイビーの語りをとおして透かし見る。それは一つの物語の中に複数の時間や場所、人物や事件が同時に共存するという奇跡に立ち会うことなのだ。
by gravity97 | 2011-05-01 07:56 | 海外文学 | Comments(0)