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村上春樹 ロングインタビュー

村上春樹 ロングインタビュー_b0138838_9365833.jpg このブログの「日本文学」のジャンルにはこれまで6本ほどの記事を書いた。『1Q84』の刊行という事情や個人的な嗜好を別にしても、そのうちの半分が村上春樹関係とは、我ながら少々情けない。
『考える人』の最新号に村上春樹のロング・インタビューが掲載されている。村上のインタビューは比較的珍しいとはいえ、過去にもいくつかの雑誌に掲載されたことがあり、村上には海外での生活、マラソンやジャズについて語ったいくつものエッセーもある。しかし今回は箱根、おそらくは冨士屋ホテルで三日間にわたって行われた文字通りのロング・インタビューで情報量も格段に多い。インタビュアーは同誌編集長の松家仁之。松家は新潮社のいくつかの雑誌の編集長を務め、本号をもって『考える人』誌から退くということであり、インタビューにも気合が入っている。松家はおそらく過去に文芸関係の仕事も経験したのであろう。村上の作品や過去の発言にも詳しく、ジャズについても村上と対等に話せるほどの素養をもっていることがわかる。
当然ながら初日は『1Q84』の話題が中心となる。村上の中でもこの小説が一つのメルクマールを画すことが語られ、まだ完結していないとも語られる。これまで執筆した作品についても簡単なコメントが加えられるが、『ノルウェイの森』がきわめて異質の物語であった点については私も同感である。二日目はこれまで比較的触れられることの少なかった村上の学生時代や「ピーター・キャット」という店を経営していた頃の回想、そして読書体験が回顧され、最後に村上の典型的な日常が語られる。村上自身は「一番退屈な部分」と言っているが、作家の日常生活は私にとって大変興味深かった。三日目は村上が手がけた翻訳の話に始まり、村上の小説をいかなる方法で海外に売り込んだかというかなりプラクティカルな内容のインタビューが続く。この部分も初めて聞く話が多く楽しめる。
通読していくつかの感慨を抱いた。まず当然予想していた点であるが、村上が小説の方法という点にきわめて意識的な作家であることが言葉の端々から明らかになる。最初に『風の歌を聴け』から『1Q84』にいたる作品の展開が、本質において一人称から三人称への移行であったことが語られる。この変化の契機としては間違いなく地下鉄サリン事件に取材した一連のノンフィクションが存在し、個人と社会の関係を考えるうえでも示唆的な論点を提起している。あるいは村上は小説家にとって重要な三つの資質として文体と内容とストラクチャーを挙げる。初めの二つは誰でも思いつくが、ストラクチャーという発想はこの作家ならではのものではないか。そして村上はサリンジャーの小説の欠点はストラクチャーの不在であると鋭い指摘を行っている。
このインタビューを通読するならば、村上の小説が二つの異なったバックグラウンドの中に形成されていることがあらためて理解される。一つは外国語との関わりである。村上は高校時代から英語のペーパーバックを耽読し、ヨーロッパやアメリカに長期滞在した経験をもつ。知られているとおり、村上はサリンジャーからカーヴァー、チャンドラーにいたる20世紀のアメリカ小説に関して多くの翻訳も続けてきた。村上によると小説を書くことと翻訳することは全く異なった営みで、小説の執筆に苦しんでいる時、翻訳はよい息抜きになるという。インタビューの中で村上は自らの翻訳作法についてかなり具体的に述べている。一つの表現を別の言語に移すという営みが自らの言葉を陶冶するうえで小説家にとって大きなヒントになることは想像に難くない。村上は(柴田元幸に倣って)翻訳の際の正確さを重視する。したがって村上にとって翻訳とは表現ではなく技術である。一つの観念を正確に別の言語に置き換えること。私は村上の独自の文体はこのような作業と深い関係にあるように感じる。以前から気になっていた点であるが、それにしてもなぜ村上が好む小説家は一人の例外もなく、私にとって著しく魅力を欠いた作家ばかりなのであろうか。私自身もこれまでにフィッツジェラルド、カポーティー、サリンジャーあるいはジョン・アーヴィングやカーヴァーといった作家の作品をさまざまな訳者、時に村上訳で読んできた。村上の翻訳は多少読みやすくも感じられるが、一部の作品を除いて(といってもサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』と『フラニーとゾーイー』くらいだ)彼らの小説は端的に面白くない。世代的な差もあるだろうし、村上が最初、原書で読んだという事情が大きく関わっているだろうが、逆に例えば村上の発言の中に、ヘミングウェイやケルアック、最近ではオースターからエリクソンといった私好みの作家についての言及がみごとなまでにない点は逆に興味深く思われた。
もう一つのバックグラウンドはランニングのトレーニングである。このインタビューの中で村上は自分がどんなに気分が乗らない日であっても一日に10キロ走ることを自らに課していることを述べる。実は私はこのインタビューと前後して文春文庫から刊行された村上のメモワール『走ることについて語る時にぼくの語ること』を読んだ。この中でも集団競技や勝ち負けを争う競技を嫌う村上にとって、走ることが最も手頃なスポーツであり、生活のペースメイカーであることが率直に語られていた。それにしても毎年フルマラソンを走る作家はさすがにほかに例がないだろう。このような日常、毎日のルーティンが小説の執筆のアナロジーであることはたやすく理解できる。実際、インタビューの中で村上は毎朝起床すると10キロならぬ原稿用紙10枚分の原稿を書くことを自らに課していることを語っている。ランニング同様にどんなに気が乗らない日でも10枚書くという習慣の重要性を村上はチャンドラーの言葉を引きながら力説する。ここから直ちに連想されるのは村上の小説の登場人物の生活にみられる規則性である。『ねじまき鳥クロニクル』の主人公が作るパスタの手順、『1Q84』では青豆のストレッチ・トレーニングの手順(青豆の造形には村上が個人的に利用している女性のストレッチ・トレーナーがいくぶん寄与しているかもしれない)。規則性あるいは手順を遵守することへのやや神経症的な拘りは作家の私生活と小説の登場人物の日常に共通している。さらに『1Q84』の中には天吾がふかえりの小説を推敲する手順についての長い記述があるが、この手順も村上がフィッツジェラルドやカーヴァーを翻訳する方法を彷彿とさせる。
プロの翻訳家並みに英語に堪能でありながら、大学や英文学といったアカデミズムの世界とは無縁の小説家。毎日定められた量の執筆とトレーニングを繰り返し、規則正しい生活を送る小説家。このような作家像はいずれも私たちが日頃抱きがちな小説家、あるいは「文士」のイメージからほど遠い。しかし長いインタビューを読みとおして、私は村上が真の小説家であることをあらためて痛感した。村上も語るとおり、もはや19世紀的な小説は成立しない。今日、小説を書くことは、絵画を描くことや思想を彫琢することと同様に困難である。しかしこのインタビューからは意志さえあれば、今日でも小説は可能であること、そしてそれが言語能力と自らの身体という、小説家にとって当たり前といえば当たり前の前提を鍛えることによって可能となることを教えられた。
by gravity97 | 2010-07-19 09:37 | 日本文学 | Comments(0)