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Living Well Is the Best Revenge

飛 浩隆『グラン・ヴァカンス』

 久しぶりに傑作と呼ぶに値するSFを読んだ。既に世評の高い作品であり、実は私はずいぶん以前に同じ作者の『象られた力』という短編集を読んで、それなりに感心もしたのだが、この短編集以後、約10年の沈黙を経て発表された本作は『象られた力』と比べても圧倒的に鮮烈な印象を与える。寡作とはいえ発表歴もあるから新人とはいえないだろうが、エンターテインメントの領域でこれほど独自かつ完成された文体をもった作家の登場は私の記憶する限り、京極夏彦以来である。もっともSFというジャンル分けはあまり意味がないように感じる。確かにAI(人工知能)というテーマに関しては多くの先例があり、日本でも神林長平の『あなたの魂に安らぎあれ』という傑作がある。リゾートという舞台からはJ.G.バラードの作品も想起されよう。しかし私がこの小説からまず最初に連想したのはポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』であり、谷崎や三島の小説であった。作家自身が語った「ここにあるのはもしかしたら古いSFである。ただ、清新であること、残酷であること、美しくあることだけは心がけたつもりだ」という言葉は小説の本質を衝いている。この小説を形容するには「美しく、かつ残虐」という言葉がまことにふさわしい。
 まずは設定が秀逸だ。舞台は「数値海岸」(コスタ・デル・ヌメロ)と呼ばれる会員制の仮想リゾート。南欧の港町を模した「夏の区界」で生活するAIたちは、本来であればそこにログ・インするゲストたち、すなわち現実の人間に奉仕するために存在していたのであるが、大途絶(グランド・ダウン)を境に1000年の間、ゲストたちはそこを訪れることがなく、AIたちは永遠の夏の午後を過ごしていた。なんと喚起的な設定であろう。永遠の夏の午後という言葉からは《デルフトの眺望》を評したプルーストの言葉が連想されるし、主の不在というテーマからはジョナサン・スウィフトに触発された寺山修司の《奴婢訓》も想起される。永遠の夏を謳歌していたAIたちの前に突然破局が訪れる。謎の力をもつランゴーニというAIが蜘蛛と呼ばれるプログラムを操って「夏の区界」を侵食し、崩壊させ始めたのである。ジュール、ジュリー、アンナ、ジョゼといった西欧風の名前をもつAIたちは「鉱泉ホテル」というホテルを砦として文字通り絶望的な戦いに身を投じる。このようにおおまかなストーリーを記しても小説の魅力が減じることはない。むしろこのようなかなり特異な設定を知っておいた方が違和感なく「夏の区界」のカタストロフに没入できるかもしれない。
 サイバーパンク以後のSFにとってはサイバースペースという仮想空間にどの程度のリアリティを賦与することができるかという点が大きな課題であったと思われる。「マトリックス」のような映像であればともかく、小説を介してこのような世界観に接する時、多くの場合、現実そして身体への参照を欠いた物語はきわめて抽象的な印象を与え、実感することが困難に感じられた。しかしこの小説では人間と仮想空間を媒介するAIに焦点化することによって、読者は登場人物たちに感情移入といってよいほど深い共感を覚える。さて、私は読書という行為と仮想空間への接続、つまりログ・インを一つのアナロジーとしてとらえることができるのではないかと考える。書物の頁を開くように私たちはPCにパスワードを入力して、その内部へと誘われる。私たちはしばしばサイバースペースの登場人物が実際には実体をもたないことに不審の念を覚えるが、それは小説の登場人物が身体をもたないことを考えるならばなんら不思議はない。「数値海岸」のAIたちがゲストの訪問を待ち受けるように、小説の登場人物は読者を待ち受けている。このアナロジーは次のように展開可能だ。すなわちAIと彼らに歓待されるゲストたちの関係は、『グラン・ヴァカンス』という小説とそれを読む読者、つまり私たちの関係と構造的に同一と考えられないか。ゲストを欠いた「数値海岸」におけるAIたちの挙動、すなわちこの小説の内容は、直ちに閉じられた書物の中で登場人物がどのようにふるまっているかを夢想することに等しい。そしてゲストと読者の同一化はこの小説の深いたくらみと関わっている。
 先に「美しく、かつ残虐」と記した。ランゴーニの登場とともにAIたちは次々に残酷に処理され、「夏の区界」は崩壊していく。要塞化された「鉱泉ホテル」で硝視体という特殊なガジェットを用いて蜘蛛に対抗する盲目の織姫イヴ、三つ子の三姉妹アナ、ドナ、ルナ。男勝りの船乗りアンヌ、魅力的な登場人物たちも圧倒的な力を持つランゴーニの手によって弄ばれ、耐え難い苦痛の中で解体されていく。仮想世界の中のAIは実体的な身体をもたないはずである。しかし小説の中に濃厚にみなぎる官能性はAIたちが味わう痛苦と快楽を直接読者に喚起する。『象られた力』を読んだ際にも印象づけられた点であるが、飛の小説においては例えば音や香り、味わいといった五感に関連したきわめてヴィヴィッドな記述が強い印象を与える。『グラン・ヴァカンス』においてかかる五感の広がりは圧倒的な広がりをみせる。五感の甘美と苦痛。とりわけセックスの快楽と死の苦痛がこの小説の中では文字通り深く融合し、それゆえ『O嬢の物語』や『憂国』、『刺青』といった作品が連想されたのである。しかし実はこの快楽と苦痛の混交はランゴーニの登場によって始まった訳ではない。かつてゲストたちのAIに対する加虐的、変態的な行為が、「数値海岸」のAIたちの無意識の中に投影されていることが暗示され、物語の冒頭近くで語られる飛 浩隆『グラン・ヴァカンス』_b0138838_7342953.jpg、マンディアルグに触発された残酷なエピソードがそれを象徴している。このエピソードが実はこの物語を説く鍵であることが最後に明らかにされるが、サディズム、マゾヒズムをはじめ、近親姦、同性愛といった倒錯的な性愛が物語の随所で実に巧みに暗示される。先に述べたとおり、説話的次元で読者はゲストたちと同じ審級に立つことによってこれらの背徳的な行為に加担することを強いられるのであるが、このような暗示と同一化はきわめて巧妙になされるために、読者は物語をかなり深読みしなければこのようなセンセーションを味わうことはないだろう。この意味で『グラン・ヴァカンス』は読者を試す小説といえるかもしれない。
 物語の中でさらに大きな謎が開示される。ランゴーニがAIたちを苦痛とともに解体する理由は「天使」と名指しされる存在に対抗するためであると明言される。「天使」とは何か。そもそもランゴーニとは何者か。大途絶とはなにゆえもたらされたか。一つだけでも小説の主題となりうるような魅惑的な謎がいくつも置き去りにされてこの物語は閉じられる。『グラン・ヴァカンス』は最終的に三つの長編といくつかの短編によって構成される「廃園の天使」というシリーズの最初の巻であるという。この妖しくも魅惑的な世界が最終的にいかなるかたちで完結するか。寡作の作家であるから、その完結はしばらく先となろう。ひとまず先般文庫化された同じシリーズの短編集『ラギッド・ガール』を読んだうえでその行く末に思いを馳せたい。
by gravity97 | 2010-06-01 07:37 | エンターテインメント | Comments(0)