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Living Well Is the Best Revenge

ジョセフ・コンラッド『闇の奥』

 新訳でコンラッドの『闇の奥』を読む。『闇の奥』にはいくつかの邦訳が存在する。一番よく知られたものは中野好夫訳による岩波文庫版で、初版が1958年に発行されている。書庫を探すと私も一部所持していた。名高い小説であるが、読み通した記憶はない。今回初めて通読するにあたって両者の解説を読んでみたがいずれの訳者も翻訳の難しさについて縷述している点が印象的だ。新訳の訳者はいくつかの具体的な例を挙げ、これまでの翻訳と比較しながら自分が最終的な訳文を採った理由を説明している。中野にいたっては岩波版以前に自らが訳した日本初訳となる河出書房版について「正直にいってたいへんな難物だった。旧本の読者諸氏にはまことにすまぬ話だが、相当の誤訳のあることも十分予想できたし、まことに自信のない話だった」とそこまで言ってよいかと感じられるほど正直な感想を述べている。新訳を読んでから中野の訳にも目を通してみたが、活字のポイントがきわめて小さいことと、語りの途中でむやみに引用を示す括弧が用いられていることを除いて(この二点が読みにくさの最大の理由であるが)さほど差があるようにも思えない。もちろんそれは私が一度読み通して物語の全体を理解していたためであるかもしれない。
 前置きが長くなった。今回の訳者は黒原敏行。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』という難物を途切れることのない緊張感の中に訳した練達の若手である。コンゴ川を遡る暗澹とした道行きは『ザ・ロード』を連想させないこともない。物語の構造はさほど複雑ではない。物語はテムズ川に停泊する船上における乗組員マーロウの語りとして記述される。テムズ川とコンゴ川、二つの川の間をたゆたうように、語りも現実と回想の間を往還する。マーロウは若い時、ベルギーの貿易会社に雇われ、現地で殺された前任者の仕事を継ぐためにコンゴに向かう。コンゴ川の出張所で故障した蒸気船の修理を待つ無為の時間、マーロウはアフリカという野生に直面する。人を拒む密林と暗い川、意志の疎通を欠いた黒人たちと病気で次々に命を落とす白人社員たち。コンラッドの文章の濃密さは翻訳でも十分に堪能できる。出張所でマーロウはクルツという謎めいた人物の存在を知る。大量の象牙を出張所に届けながら、自身は姿を隠し密林の奥で隠然たる権力をふるう男。クルツが病床にあるという情報に基づき、マーロウはクルツを審問すべくコンゴ川を遡る。困難な航行と蛮族の襲撃。操舵手を失い、ようやく奥地の出張所にたどり着いたマーロウはクルツに仕えるロシア人青年、そして瀕死の床にあるクルツに会う。クルツは婚約者への手紙や写真をマーロウに託し、最後に「The horror ! The horror !」という謎めいた言葉を残して息絶える。
 物語の粗筋を知ったとしてもこの小説の魅力が減じることにはないだろう。密林を連想させる濃密で粘着的な物語を読み進むこと自体がコンゴ川遡上の比喩であるかのようだ。今日、この小説は多様な読み方が可能である。もちろん現地人に対する白人の蔑視や暴力を理由に人種差別的な小説と批判することも可能であるし、逆に植民地主義への批判ととらえることもできよう。あるいはポスト・コロニアリズムの洗礼を受けた我々は(女性はほとんど登場しないにせよ)ジェンダーや階級、あるいは資本主義、帝国主義といった様々な函数を介して分析することも可能であろう。しかしながら私はそれらの明晰な解釈に抗う異様な晦渋さこそこの小説の本領ではないかと感じる。この点はクルツなる人物の造形に関して明確となる。密林の奥に君臨するクルツがこの小説の影の主役であることは明らかである。詩を朗誦し、深い教養を備え、ロシア人青年に信奉されるクルツの正体は最後まで明かされることがない。クルツのみならず物語全体を一種の不透明さが覆っている。このような不透明感は内容のみならずおそらく文体そのものに起因しており、幾多の翻訳者を悩ませたゆえんであろう。残念ながら私はコンラッドのほかの小説を読んだことがないが、このような難解さが本小説のみに指摘される点は、それが意図的に導入されていることを暗示している。視覚的な比喩となるが、私はこの小説を読みながらさながら背後を見透かすことができないほど樹木が繁茂する川面を蒸気船で往航するような印象を受けた。手近の岸や叢ははっきりと識別できるのに対して、その背後、奥を見通すことができないのだ。個々のエピソードは比較的明瞭であるが、全体としてのストーリーの展開は不明瞭で方向が定まらず、全体を見通す奥行きが失われている。Heart of Darkness の邦訳タイトル「闇の奥」の当否については異論もあろうが、以上の点を勘案するに十分に喚起的な言葉が選ばれているように感じた。
 よく知られているとおり、フランシス・コッポラはこの小説を翻案して「地獄の黙示録」として映画化した。19世紀のコンゴはベトナム戦争下のインドシナに置き換えられていたが、両者は深いところで結ばれている。今述べたとおり、これらの作品は人が西欧的な合理性の埒外にある晦渋、不透明性と出会う物語である。アフリカやインドシナはそれぞれ植民地時代のヨーロッパ人、1960年前後のアメリカ人にとって自らの理解を超えた外部である。西欧が外部に直面した際、どのような反応を示したか。『闇の奥』の随所に暗示される植民地への暴力的支配、あるいは「地獄の黙示録」中、サーフィンに便利な立地であるという理由で一つの村落をナパームで焼き払う挿話はこの問いへの応答である。これに対して、コンラッドはクルツというきわめて独特の人物を造形し、今まで非合理対合理あるいは未開対文明といった外面的な対立としてとらえられてきた両者の関係を登場人物に内面化することに成功している。アフリカという絶対的な他者と出会う中で次第に内面を崩壊させるクルツというパーソナリティはコッポラのフィルム中でマーロン・ブランドが演じたカーツ(いうまでもなくクルツの英語読みである)大佐においてさらに深められ、一方、『闇の奥』におけるマーロウの役回りである「地獄の黙示録」の主人公ウィラード大尉もカーツを追ってメコン・デルタを遡航する過程で次第に精神を失調させる。ここにおいて、文化衝突がもたらす「闇の奥」Heart of Darknessは人間精神のそれへと転じるのである。
 19世紀にはアフリカが「闇の奥」であったかもしれない。しかし今日なお私たちは同様の文化衝突をさらに殺伐としたレヴェルで繰り返している。アメリカにとってのアフガニスタン、あるいはロシアにとってのチェチェンを現代の「闇の奥」と呼べないだろうか。おそらく「闇の奥」は時代と無関係である。いつであろうと、人にとっていかなる共感も交流も成立しえない絶対的な他者が存在し、それらと直面することは直ちに自らの内部に「闇の奥」を生ぜしめる。クルツの最後の言葉「地獄だ!地獄だ!」(あとがきにもあるとおり、これは中野好夫による翻訳。黒原訳は「怖ろしい!怖ろしい!」。ただしこの部分に関しては中野訳の方が適切であるように思われる)とは、絶対的他者の前であっけなく否定された啓蒙や進歩といった西欧的価値の断末魔の叫びであるように感じられる。そして20世紀以降も私たちは一体どれほど多くの地獄を体験してきたことか。ヒューマニズムの対極に存在する、かかる暗鬱な認識を白日のもとにさらして、刊行後一世紀以上経った今も『闇の奥』は古びることがない。
 
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蛇足かもしれないが 最後に一つだけ付言する。本書を通読し、私はアフリカの密林を舞台に同様の黙示録的世界を描いた小説としてJ.G.バラードの『結晶世界』を想起した。同じイギリスの作家によって発表されたSFならぬスペキュレイション・フィクションは果たしてコンラッドの嫡子であろうか。
by gravity97 | 2009-11-24 21:37 | 海外文学 | Comments(0)