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Living Well Is the Best Revenge

マルセル・プルースト『囚われの女』

 再び『失われた時を求めて』について、きわめて断片的な所感を記す。

 メメント・モリ、死を想え。この言葉が切実さをもつ年齢にはまだ達していないとはいえ、知人を送ることが多かった今年の前半を経て、自分なりに死について考えるところがある。死については二つの真理を挙げることができる。基本的に人は自らの死をコントロールすることができない。人はいつ、いかに死ぬかを選ぶことはできない。そして人は自らの死について語ることができない、デュシャンの墓碑銘ではないが「されど、死ぬのは常に他人」ということだ。
 『失われた時を求めて』の中にもいくつかの死をめぐる挿話がある。印象に残るところでは主人公マルセルの祖母の死のエピソードがあり、伝聞として伝えられるアルベルチーヌの死がある。この長大な物語の中に頻出する眠りというモティーフが死の暗喩であることも容易に理解されよう。今回私が論じたいのは,主要な登場人物の一人である作家のベルゴットの死の場面である。よく知られているとおり、この小説の中には文学、美術、音楽という三つの分野を代表する三人の人物が配されている。すなわち文学におけるベルゴット、美術におけるエルスチール、音楽におけるヴァントゥイユであり、彼らがこの小説の随所にほぼ同じ頻度で登場する点は『失われた時を求めて』が芸術に関する小説であることを暗示している。エルスチールについて、具体的な作品への言及からモネが連想されることは既に述べた。これに対してベルゴットとヴァントゥイユについては特定の作家や音楽家にイメージを重ねることは困難に感じられる。いずれにせよ主人公にとって文学への身近なそして信頼すべき誘い手であったベルゴットは第五篇「囚われの女」の中ほどで劇的な死を遂げる。軽微な尿毒症の発作のため安静を命じられていたベルゴットはハーグ博物館から出品された一つの絵を見るためにオランダ美術展に出かけ、その絵の前で目眩を起こし、続く発作で長いすから転げ落ちて絶命する。この小説の中で絵画や音楽、文学に関して具体的な作品名が言及されることは少ないが、ベルゴットが末期に見た作品については固有の名前が与えられている。フェルメールの《デルフトの眺望》。プルーストとフェルメールの関係については無数の専門的な研究が発表されており、実際にプルーストが死の前年にもジュ・ド・ポーム美術館で開催された「オランダ派絵画展」でこの作品を見たことが確認されている。
 《デルフトの眺望》は現在、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館に収められている。私にとっても最初に見たフェルメールの作品の一つである。運河をはさんだ港町の風景、手前の岸には何人かの人物を配し、対岸にはいくつかの塔を含めた多くの建築が描きこまれている。画面の上半分は雲がたなびく空が描かれ、運河には空と建物の反映が映り込んでいる。比較的小さな作品であるが、同じ美術館にある有名な《真珠の耳飾りの少女》と比べてもなんら遜色なく、それどころか空気の透明さ、画面に充溢する静かな光は私にこの画家の天才を深く印象づけた。もちろんそれまでにも図版では幾度となく見たことのある絵画であったが、日常の、それでありながら神秘をたたえた情景の中に私はたちまち引き込まれるかのように感じた。
 先に述べたとおり、プルーストもパリで実際にこの作品を見ている。もちろんプルーストとベルゴットを安易に同一視すべきではないが、作品のどこに魅せられたのか、作家は具体的に記述している。それは「その絵の中の黄色の小さな壁」である。ベルゴットは画面の右側、運河に面した煉瓦造りの洋館の背後に小さく描かれた「庇のある黄色い小さな壁」を確認するために美術館に出かけた。ベルゴットはこの小さな壁の前で次のように嘆息する。「俺はこんな風に書くべきだった。近頃の作品は無味乾燥だ。上から上へといくつも絵具を塗り重ね、俺の文書の一句一句を立派なものにすべきだった。この黄色い小さな壁のように」この一節の中で絵具と言葉、絵画と文学が対比されている点は興味深い。図版を参照するならば、この「黄色い小さな壁」は確かに画面の中で光り輝く美しい部分ではあるが、例えば遠近法における消失点のような特権的な意味をもつものではない。しかし小説の中ではこの壁を認識することは不吉な意味をもつ。「最後に黄色いほんの小さな壁のみごとなマチエールに注目した。目眩がひどくなってゆく。(中略)彼の目には天の秤に、自分の生命が一方の皿にのっているのが見えた。もう一方の皿には黄色でみごとにかかれた小さな壁がのっている。彼は小さな壁のために無謀にもいのちを犠牲にしたことを感じていた」つまり「黄色い小さな壁」を見ることの代償としてベルゴットは命を失うのである。静謐な港町の情景の中に一人の作家の命を奪う罠が仕掛けられているとは誰が想像しえたであろうか。
 美しい情景、なめらかな筆致の中に差し込まれた異物、具象性をいわば内部から解体する契機にジョルジュ・ディディ=ユベルマンは pan という名を与える。プルーストのいう「黄色い小さな壁」の原語は petit pan de mur jaune である。ここでも pan の語が用いられていることはもちろん偶然ではない。いつもながらディディ=ユベルマンの分析は難解で私も十全な理解からほど遠いが、そのニュアンスはかろうじて把握することができる。「pan とは絵画の変容能力、〈平面における三つ編みの議論〉の突き刺すような先端をいうのであろう。それは絵画をその突き刺すような平面の効果においていうのかもしれない」彼にとって pan とは一種暴力的な衝動と捉えられている。ディディ=ユベルマンはこの言葉を分析するにあたって『失われた時を求めて』を参照し、さらに彼は同様の pan をフェルメールの《レースを編む女》に描かれた赤い糸の塊に認めている。フェルメールの静謐で写真のごとき具象性の中に秘められた暴力的な衝動の発見は暗示的である。このような発見、自明のものとして見過ごされていた形象に何かしらの兆候を見出す手法は直ちにサン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコの《影の聖母》の祭壇下部に関する鋭利な論考を連想させ、ディディ=ユベルマンの面目躍如たるものがある。ここでは pan という主題をこれ以上深める余地も能力もないが、フェルメールの絵画と同様に、プルーストの流麗な物語を断ち切るかのように唐突に挿入された死という主題が、やはり《デルフトの眺望》の「黄色い小さな壁」に触発されたものであったとするならば、ここでもプルーストとフェルメールが主題的に交差する点を指摘しておきたい。
 メメント・モリ。私は冒頭で人はいかに死ぬかを選ぶことができないと記した。しかしもし選べるとしたらどのような死に方が理想であろうか。私には《デルフトの眺望》の前で絶命したベルゴットは、たとえ小説であるにせよ、一つの理想の死を体現しているように思われる。あるいは『失われた時を求めて』を味読する途中で息絶えるというのはどうであろうか。「囚われた女」において、プルーストとフェルメール、おそらく人類最上の文学と美術が出会い、しかもその甘美な出会いの傍らに死が寄り添うことを知る時、私はそのような夢想に抗うことができない。
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by gravity97 | 2009-08-07 22:16 | 海外文学 | Comments(0)