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Living Well Is the Best Revenge

ブルース・チャトウィン『パタゴニア』

ブルース・チャトウィン『パタゴニア』_b0138838_0451854.jpg 発端はブロントザウルスの毛皮だ。祖母の家の食堂、飾り棚の中に収められたごわごわで、赤茶色の固い毛が付着した一片の皮。読者を世界の果てへと誘うにあたってまことにふさわしい道具立てではないか。ブロントザウルスの毛皮は祖母のいとこ、船乗りのチャールズ・ミルワードがパタゴニアの氷河から持ち帰った。南米の最南端、パタゴニア。そこはおそらく地球上で日本から距離的にも心理的にも最も遠い土地の一つであろう。未踏の地、荒涼とした土地に関する物語を好む私はたちまちこの紀行文に魅せられてしまった。
 ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』は異例の旅行記である。チャトウィンはブエノスアイレスを皮切りに毛皮の正体であるブロントザウルスならざるミロドン、氷漬けの巨大なナマケモノが発見されたマゼラン海峡近くのラストホープという町近くの洞窟まで、パタゴニア一帯を旅する。最初と最後にナマケモノの毛皮をめぐるエピソードがあるから、紀行はそれなりに一つの結構を有しているようにも思えるが、このエピソードも結局のところ、無数の物語の一つにすぎず、チャトウィンは土地から土地へ、人から人へ、行き当たりばったりのような旅を続ける。そもそも彼の道行きには明確な動機や目的地がない。強いて挙げるならば、冒頭に言及されるブロントザウルスの毛皮の発見者、チャールズ・ミルワードの足跡を追うことであり、確かにチャトウィンは各所でミルワードのことを尋ね、この紀行の終盤でミルワードが船長を務めた数奇な航海について語る。しかし著者は彼に対してもさほど思い入れがある訳ではない。ブロントザウルスの挿話が暗示するとおり、この紀行を通して私たちが接するパタゴニアとは奇怪な生物や奇妙な習俗、独裁者と革命家、強盗と先住民が跳梁跋扈する驚くべき新世界、なんとも魅惑的な土地である。本書を読みながら、不思議な既視感ならぬ既読感を覚えた私は半分あたりまで読み進めてようやくその理由を了解した。神話と現実、辺境と文明が入り乱れ、奇怪な物語が際限なく増殖していく様はガルシア・マルケスが描いたマコンドの年代記と同じではないか。マルケスが書いたのは小説であるから、説話的な自由が許される。しかし本書は曲がりなりにも事実に基づいた紀行であるはずだ。巻末の註を読んでさらに驚く。文中のフォークランド紛争を暗示する発言に触れた註によれば、チャトウィンが実際にこの地を訪れたのは紛争が勃発する数年前というから1970年代のことであり、原著を確認すると確かにこの紀行は1977年に発行されている。『百年の孤独』が発表されたのは1960年代であったと記憶する。つまりこの紀行はマルケスが小説に仮託した初源的、神話的な風土がなおも現存し、あまつさえそこを旅することすら出来たという驚くべき事実を暗示している。ラテン・アメリカの文学に親しんだ私にとってこのような発見はなんとも胸の躍る出来事であった。
 ブルース・チャトウィンの名を私は本書を通じて初めて知ったのであるが、作家の経歴もチャールズ・ミルワード並みの華麗さと奇矯さに彩られている。解説によると、チャトウィンはイギリス中部ダービシャーに生まれ、美術品のオークションで知られるサザビーズに最初作業員として勤めるが、次第にその鑑識眼を買われ、印象派絵画の鑑定の専門家として知られることとなる。しかしわずか24歳でサザビーズを退くと、世界各地を旅行し、雑誌記者として数多くの有名人のインタビューを手がける。社交界での交友も華やかで、きわめて魅力的な人物であったらしい。彼は1989年、エイズのため、49歳の若さで没したが、ニューヨークのゲイ・シーンにも親しみ、ロバート・メイプルソープとも旧知の仲であったという。荒涼と未開が混交するパタゴニアと私もよく知っている都市の雑踏、神話と現実はここでも交差する。放浪と社交、病気による早世はバイロン卿を連想させる。
 『パタゴニア』の主題は土地であるが、チャトウィンは人を介して土地について語る。旅の途上で出会った人物、歴史上の人物、空想上の人物、彼らはこの紀行の中に等価に散りばめられている。例えば西部開拓時代の伝説的なアウトローであり、ボリビアで銃撃戦によって死んだとされるサンダンス・キッドとブッチ・キャシディがパタゴニアまで流れついたという物語やダーウィンによってフエゴ島からロンドンへと拉致された先住民の人生が語られると一方で、リオピコという町に住み、パステルナークやソルジェニーツィンを愛読するウクライナ人女医との間で交わされた会話がつづられる。最果ての土地を主題とすることによって、紀行は必然的に移動という問題と深く関わる。スコットランド、プロシア、カナリア諸島。様々な国や地域から、人々はこの地にたどり着く。あたかも現代の流謫の地であるかのようだ。彼らの口から語られる物語、チャトウィンが様々な資料を用いて浮かび上がらせる奇譚の数々はこの地が20世紀後半にあっても、なおも多くの驚異と奇跡、冒険と神話に満ち満ちていることを示唆している。マルケスやバルガス・リョサ、フリオ・コルタサルを愛読してきた私にとって、世界中を遍歴したチャトウィンがラテン・アメリカという土地に触発されて、かくも物語的魅力に富んだ一遍の紀行を書き上げたことは大変痛快に感じられた。
 
by gravity97 | 2009-07-17 00:46 | 紀行 | Comments(0)