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Living Well Is the Best Revenge

村上春樹『1Q84』

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 誰の評論であったか、村上春樹が長編、中篇、短編を発表するペースを分析し、それぞれ「マラソンの時間配分」のごとき規則的なサイクルを形成していることから、次の長編が発表される時期は高い確度で予想できると論じた文章があった。果たして予想は的中しただろうか。『海辺のカフカ』以来、7年ぶり、待望の書き下ろし長編『1Q84』はこれまでの村上の集大成であるばかりか、作家の新しい境地も示して、今後、代表作の一つとみなされることとなろう。非常な売れ行きで書店でも手に入らない状態が続いていると聞く。これから頁を開く読者の感興を殺がないように内容そのものに深く立ち入ることは避けながら、所感を述べる。
 ひとまずこの小説の達成を三つの観点から指摘することができよう。まず形式について。この小説は全体で24の章から成り立っている。章のタイトルとしてはその章に書きつけられた文章の一部が引用されているが、タイトル自体にさほど意味はない。章の表示の傍らに奇数章には「青豆」、偶数章には「天吾」という文字が記されている。その意味は直ちに了解される。それらは二人の主人公の名前であり、章ごとに二人をめぐる物語が記される。両者は正確に交替し、量的にもほぼ均等である。二つのエピソードが交互に併置される構造はいくつかの先例をもつ。フォークナーがこの手法によっていくつかの傑作を残し、村上自身も『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が同じ構造をもつ。さらに遡れば『1973年のピンボール』においても「ぼく」と「鼠」をめぐる二つの物語が並行し、『海辺のカフカ』にも僕とナカタさんという二人の主人公がいた。しかし『1Q84』がそれらと異なるのは形式的な完成度である。つまりこれまでの作品において二つの物語には不均衡がみられた。例えば『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の二つの物語群によって構成されているが、量においても内容においても後者がメインプロットであり、前者がそれを補完して物語の深みが形成されていた。これに対して、この小説の中で奇数章と偶数章は完全に拮抗している。この均衡は奇跡のように美しい。そして二つの世界は合一しないまま次第に一つの物語へと糾われていく。このあたりの小説的技巧の巧みさは特筆に価する。一例を挙げよう。冒頭の場面、青豆は渋滞に巻き込まれたタクシーの中でヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聞く。読了後、読者は「シンフォニエッタ」がこの長い小説の通奏低音のごとく常に響き渡っていたことに気づく。あるいはそれまで男の子、少女などと呼ばれていた「青豆」の章における天吾、「天吾」の章における青豆はある絶妙の瞬間からそれぞれ固有名を与えられる。小説の中にはこのような巧妙な仕掛けがいたるところに施されている。これまで村上の小説にさほど構築性を感じたことはなかったが、『1Q84』の章立てと物語の相称性、全体と部分の緊密な関係は私に精密な建築を連想させる。内容についてはどうか。これに関しても村上は新たな一歩を踏み出している。つまりこの小説において社会と個人の関係が正面から作品の主題とされたのである。『ノルウェイの森』でも「納屋を焼く」でもよい、これまでの村上の小説の魅力はきわめて個人的な状況の中から孤独や喪失といった普遍的な主題が浮かび上がってくることにあった。私は『ねじまき鳥クロニクル』中、ノモンハン事件に関するエピソードに作家の姿勢の変化を感じたが、まだ戦争や政治が物語の中に直接前景化されることはなかった。おそらく明らかな変化は2004年の『アフターダーク』に兆していたのではないか。風俗的なモティーフを導入した中篇は村上の小説にあって特異な印象を与えたが、この小説の前哨ととらえると理解できる。『アフターダーク』冒頭の特異な語りの視点、『1Q84』における三人称の使用はこの問題と関連している。村上が社会と対峙しようとした理由は何か。三番目の達成がこの問題と関わる。村上は1990年代後半に『アンダーグラウンド』『約束された場所で』という地下鉄サリン事件に取材した二つのノンフィクションを著している。『1Q84』がオウム真理教をめぐる一連の事件を濃厚に反映していることは明らかである。当時は唐突に思われたこれらの仕事がそれから10年以上経って執筆される新作長編の準備であったとは誰が想像しただろうか。あるいは比較的最近、レイモンド・チャンドラーを翻訳した経験がこの小説中のいくつかの描写に影響を与えているように思われる。最初に集大成と記したが、これらの意味においても『1Q84』は村上が自らの持つ経験と技巧を全て投入して執筆した小説といえよう。
 先に触れたとおり、この小説は二人の男女を主人公とする。ともにまもなく三十歳を迎えようとする青豆と天吾。鍛えられた肉体と孤独な魂をもつ青豆はフィットネス・クラブでインストラクターを務めるかたわら、謎めいた老婦人のもとである特殊な仕事に従事している。予備校で数学を教える作家志望の天吾はある文学賞の下読みで「ふかえり」という少女から送られてきた拙くも奇妙な魅力をもつ小説に出会う。天吾は編集者と共謀し、この小説に自ら手を入れて世に送り出そうとする。冒頭の数章で早くも明らかとなる魅力的な設定に沿って読み始めるや、もはや頁を繰る手を止める術はない。
 物語の舞台はタイトルが示すとおり、1984年という近過去の東京である。しかしそこに広がる世界は私たちの見知った世界とは微妙に異なる。警官の制式拳銃、月面開発、いくつかのディテイルをとおして世界は奇妙なほころびを露わにする。自分が別の現実の中に迷いこんだことを知った青豆はそれに「1Q84」という名を与える。青豆が1984年から「1Q84」へと移行する瞬間は具体的に暗示されている。一方、天吾は「空気さなぎ」という小説に手を入れる過程で少しずつ「1Q84」へと移行する。このような移行を介して、世界はその姿を変える。明らかにこの年記はジョージ・オーウェルのディストピア小説に由来する。オーウェルの描くありうべき未来、1984年はビッグブラザーによって全てが合理化され、監視される全体主義国家であった。これに対して村上が描くありうべき過去、「1Q84」は不合理で、不気味な世界である。そこでは空に浮かぶ二つの月の下、正体不明の「リトル・ピープル」が現実と物語を行き来する。確かにそこにはこれまでの小説でもおなじみのモティーフが登場する。ヤナーチェックに始まる音楽への頻繁な言及、様々な料理のレシピの開陳、放縦な性描写(なんと婦人警官を交えた乱交まで描かれるのだ)。そして多くの物語と同様、『1Q84』でも喪失が大きな主題となっている。「1Q84」に移行するまで彼らの生活は一つのルーティンに沿った規則性をもっていた。青豆が仕事としてマッサージを施す時の手順。天吾が毎週一回、年上の人妻と交わす情事。私はかねてより規則性という観点から村上の小説を分析してみたいと考えている。このような規則性が崩れる時、二人の世界から様々なものが失われ、あるいは損なわれていく。『1Q84』において喪失は多く暴力の暗示に富み、詳細は明らかでない。何人かの登場人物は物語の途中で姿を消し、彼らの帰趨が語られることはない。『ノルウェイの森』のごとき作品において喪失は登場人物の内面に起因した。しかし『1Q84』における喪失は突然に外部からもたらされる。その理由は明らかでなく、それに関与するとみなされる人物や存在は現実とは思えぬ不気味な印象を与える。そして登場人物たちの多くが自らの与り知らぬところからもたらされる禍々しい暴力と関わっている。小説の中には家庭内暴力や少女への性的虐待といったモティーフが何度も現われる。『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハン、『海辺のカフカ』のおけるジョニー・ウォーカーの猫殺し、『アフターダーク』では風俗嬢への暴行。1995年以降、村上の長編において暴力という主題の比重が増えている点は注目に値する。
 今日、私たちは1995年という年記を二つの忌まわしい事件とともに記憶している。阪神大震災と地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教をめぐる事件。前者を主題とする作品を既に村上は発表している。「地震のあとで」というサブタイトルをもった『神の子どもたちはみな踊る』。興味深いことにはこの連作を構成する6篇の短編の中で阪神大震災は直接の主題とされることはない。村上が得意とする寓意という手法を用いることによって、私たちは物語の背後にかろうじて震災の残響を聴き取ることができる。直接的な描写はないが、私はこの一連の抽象的な物語を震災という災厄に対する鎮魂であるように感じる。しかしオウム真理教をめぐる物語を作品とするにあたって、村上はこのような洗練された手法を使うことはできなかった。それはおそらく二つのノンフィクションの取材の中で、村上がこの事件の内部にあまりにも深く入り込んでしまったためではないだろうか。1995年の災厄をめぐって、私は『神の子どもたちはみな踊る』と『1Q84』が青豆と天吾のごとく、一組の対をなしているような気がする。本書でカルト集団と個人の関係が主題とされたことは必然であった。私は村上のノンフィクションを読んでいないため、それらと本書の関係を具体的に指摘することはできないが、ここで語られる教義や指導者の主張は現実、つまり村上が取材を通して知ったオウム事件の核心をある程度反映しているのではなかろうか。青豆は老婦人の指令のもと、カルト集団の指導者と対決する。しかし老婦人が組織する謎の集団も明らかに一つのカルトである。そこにはもはや善悪、正邪の区別はない。事実を善悪や正邪といった観点を超えたものとして認めること、これが文学の出発点ではないだろうか。私たちは戦争の後に優れた文学が輩出することを知っている。80年代にあっては鼠や羊を相手にプライヴェイトな物語を紡いでいた村上が90年代以降、戦争や性暴力を主題の一角に据え、この小説にいたってはきわめて具体的な事件を連想させる社会性を物語に与えたことは作家の内的な必然、暴力が蔓延する社会、いずれの要請に基づいているのであろうか。
 最後に一言付言するならば、私はかなり熱心に村上の小説を読み継いで来たつもりだ。具体的に説明することは難しいが、『1Q84』は彼の小説の中でも言葉が最も念入りに彫琢されている印象がある。最初に私は精密な建築と評したが、おそらく村上の中でも最も長い小説でありながら、表現に関してもやや大げさにいえば一言一句ゆるがせにできないほどの完成度を感じるのである。この点もこの小説の大きな魅力をかたちづくっている。おそらく村上は楽しみながらこの小説を書いたことと思う。上下巻ではなく1巻、2巻と表記されているが、完結性が高いので『ねじまき鳥クロニクル』のようにさらに続編が執筆されるとは考えにくい。作家にとって大きな達成感のある仕事と感じられたことだろう。
by gravity97 | 2009-06-14 10:11 | 日本文学 | Comments(0)