「起点としての80年代」「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」

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 金沢と大阪で1980年代の日本の現代美術に焦点を当てた二つの展覧会が開かれた。金沢21世紀美術館における「起点としての80年代」と国立国際美術館における「ニューウェイブ 現代美術の80年代」である。前者は10月21日に終了し、奇しくも後者が開幕した11月3日に二番目の巡回先である高松市美術館における展示がオープンした。私はこの二つの展覧会が開くや、それぞれの会場に足を運んだ。このブログを匿名で開設しているため、詳しい事情を説明することはできないが、私も80年代に、とりわけ関西の現代美術と深く関わっていたからだ。私の得た情報によれば、同じ時期に近似したテーマの展覧会が開かれたことは偶然の一致であったらしい。私自身も同伴した思いがある1980年代の美術がついに歴史化される時代に入ったということであろう。
 同じ対象を扱いながらも、展覧会の構成と内容は大きく異なる。「起点としての80年代」(以下、「起点」)は19作家の60点の作品を四つのテーマに沿って分類し、テマティックに構成されている。ちなみに巡回三館で担当した四人のキューレーターは若く、リアルタイムでは80年代美術を経験していないとのことである。一方、「ニューウェイブ 現代美術の80年代」(以下「ニューウェイブ」)はクロノロジカルな構成をとり、1980年から1989年まで、まさに80年代というディケイドに発表された作品が年代順に機械的に展示されている。出品作品は80点弱であるが、原則として一人一点の出品なので出品作家は「起点」に比べてはるかに多い。担当した学芸員はやはり若く、時代に同伴した意識がおそらく希薄である点は巻頭のテクストが状況論に終始し具体的な出品作家についてほとんど触れられていない点からうかがえる。展覧会の優劣を論じることはこのレヴューの趣旨ではないが、テーマとクロノロジーという別々の手法による構成を比較するならば、私は後者の方が適切であった気がする。すなわち「起点」における四つの主題、「メディウムを巡って」「日常とひそやかさ」「関係性」「記憶・アーカイヴ・物語」は80年代美術を回顧するにあたってはあまりにも唐突で当時の時代精神から遊離している。「関係性」やら「アーカイヴ」といった言葉がことさらに用いられていることから理解されるとおり、ここで回顧されるのは現在という視点に立った1980年代美術である。実際にカタログの巻頭言においては「本展では、今日の美術につながる要素を80年代に探るというアプローチを採用した。現代において展開する多様な美術の主だったいくつかの動向について、その起点を80年代に求めることができるのではないか、と考えた訳である」と記され、もとより「起点としての80年代」というタイトル自体がこのような姿勢を暗示している。先に述べたとおり、実際にこの時代を経験していない若いキューレーターたちによって企画されたという事情も背景にあろう。しかし展覧会を実見した印象としてはこれらのテーマは必ずしも80年代美術の本質を反映していない。後で論じるとおり、80年代美術と銘打っているにもかかわらず、決定的に重要な作家が欠落しており、これらのテーマも牽強付会という印象が強いからだ。これに対して「ニューウェイブ」は作品の機械的な羅列であるから一見するならば、作家や作品の選択の恣意性はやや減じているように感じられるかもしれない。しかし機械的な羅列もまた一つの政治的な選択であり、ある種の作家に対しては有効である。例えば同じ美術館でしばらく前に見た高松次郎の回顧展は(巡回ではなく別の展覧会であるが)企画者の意図が押しつけがましい東京国立近代美術館のそれに比べて自由に楽しむことができた。なんらかの原理に従って作風を展開する作家にとってクロノジカルでフラットな作品の配置は作品の理解の一助となりうるということであろうが、果たして1980年代美術を主題にした展示にとってかかる手法は適切であったか。私は1980年代美術とは連続的でもフラットでもない、一つのブレークスルーをその本質とすると考える。両方の展示において欠けていたのは、かかるブレークスルーを展示として再現する配慮であり、それゆえいずれも当時感じられた解放感や未視感を感じさせるにはいたらなかったように思う。
 この問題を論じるにあたっては「ニューウェイブ」から始めた方がわかりやすいだろう。1980年6月23日と記された河原温のデイト・ペインティングはその日付ゆえに本展の劈頭にふさわしいが、冒頭部に展示された作品は辰野登恵子を除いて、多くが1970年代美術の主知的、概念的な傾向を濃厚にたたえている。五十嵐彰雄や文承根の作品の繊細さはタスクと呼ぶべき一種の機械的な手法に負っており、(制作年を除いては80年代美術と呼びづらい)郭徳俊や野村仁の作品も強い概念性や反復性を帯びている。しかし私が関西の美術館やギャラリーを回り始めた頃、状況は大きく変わりつつあった。今日という時点に立って初めて了解できることであるかもしれないが、私はこの展覧会にも出品された一つの作品の前で覚えた強烈な違和感を今もまざまざと思い出す。それは福島敬恭の《ENTASIS》だ。私の記憶が正しければ、この作品は1984年、住友中之島ビルの5階にあった大阪府立現代美術センターの「今日の作家シリーズ」で初めて発表されたはずだ。筆触の残る青々とした色面の前に文字通り金色に輝く書き割りのようなエンタシスが置かれた作品は実に衝撃的であった。なぜならそれは当時「あってはならない表現」の見本のように感じられたからだ。深みのある色彩、具象的なイメージの導入、歴史や象徴への参照、これらは以前の美術においては徹底的に抑圧された要素であり、しかもかかる転回が日本におけるミニマリズムを代表する作家の手によってなされたことは驚き以外のなにものでもなかった。福島の変貌にいち早く反応したのは批評家の藤枝晃雄であり、86年に改訂版が刊行された『現代美術の展開』のあとがきに「新装版では用語、人名、言葉遣いに若干の訂正を行ったほか、『客体としての空間 福島敬恭について』を削除した。その近年来の変節は、もはや私の関与する範囲をはるかに超えているからである」というこの批評家らしいコメントを寄せている。今回の二つの展覧会では例えば横尾忠則や日比野克彦が大きく取り上げられている。突然に画家宣言を行った横尾や日本グラフィック展出身の日比野はそれなりに時代の寵児であったかもしれないが、重要性においては福島に遙かに及ばない。当時福島は京都市立芸術大学の彫刻科の教師であった。知られているとおり、1980年代初頭にニューペインティングと呼ばれる動向が世界を席捲した。アメリカとヨーロッパでほぼ同時に発生したこの現象は海外では絵画を中心に成立したが、興味深いことに80年代の関西においてはむしろ立体作品に顕著であった。ニュー・イメージと呼ばれるこのような傾向を代表する若手は中原浩大と松井紫朗であり、いずれも京都市立芸術大学の彫刻科に学んでいた。『美術手帖』が「ニュー・イメージの提案」と題された特集を組んだのは1984年7月のことだ。今、この特集を繰ってみるならば今言及した福島の作品の図版とともに作家のコメントも寄せられ、藤枝や建畠晢らの寄稿ともあいまってなかなか興味深い。貧すれば鈍すというが、今やブロックチェーンなるペテンまがいの仮想通貨を特集するにいたった「美術雑誌」と同じ誌面とはにわかには信じがたい。閑話休題、今挙げた作家たちは当然ながら「ニューウェイブ」には出品しているが、「起点」は福島と松井を欠いている。福島に関して充実したカタログ・レゾネを刊行した静岡市美術館にも巡回する「起点」に福島が含まれていないことはやや不審に感じられた。
 立体の領域で始まったイメージの回復はまもなく平面に及ぶ。興味深いことに彫刻科に籍を置く福島や中原はこの時期しばしば巨大な平面を制作している。このような立体と平面の往還の意味は今日もなお十分に究明されていない。そこには松の枝ぶりや海辺の揺らめきといった具体的な参照項をもつイメージが導入されて私たちを驚かせた。一方で山部泰司や松尾直樹といった中原らと同世代の画家たちの作品に今回再会し、私はあらためてそれらのクオリティーの高さに感銘を受けた。関西の作家たちは一種の団塊として登場したから、発表当時は作品の質に関する判断を下すことが困難であったのかもしれない。それから30年の時を隔てて見直す時、私はこれらの絵画が今も全く古びていないことを実感した。ただし「起点」のカタログで建畠が指摘するとおり、80年代絵画におけるイメージの回帰は、今述べた若い作家たちのやむにやまれぬ衝動とは全く異なる文脈、すなわち辰野登恵子のごとく、それまでフォーマリズムに由来する禁欲的な画風から一つの必然性に基づいて表現主義的な絵画へ向かった作家たちを含んでいる。世代的にも意図においても異なるこれら二つの作家たちが広義のニュー・イメージとして括られた点はイメージの回帰という80年代美術の特質への接近を困難にしているかもしれない。この点で両方の展覧会に出品している中村一美の展開は示唆的だ。大学でバーネット・ニューマンを研究した中村の表現主義的な筆触と直線的なグリッド絵画の間の振幅はこの時代の絵画の可能性の広がりを示している。館勝生でも松本陽子でもよい、会場を一巡する時、この時代にあっては、具象と抽象という区別を踏み越えた地点で絵画を絵画として深めようとする試みが存在していたことが理解されよう。この点を確認できただけでも展示の意義は明らかであり、逆にこれらの重要な画家が「起点」に含まれていない点は、金沢の展覧会が映像やパフォーマンスを優位とする現在から着想されたためであろうか。
 「ニューウェイブ」において「関西ニューウェイブ」というコラムが設けられていることを除いて、二つの展覧会で特に地域性という問題は焦点化されることがない。最初に述べたとおり、私は関西の現代美術に同伴した思いがあるため、どちらかといえば関西の作家に思い入れがあるが、「起点」を見て意外に感じたのは、当時もこの展覧会に収められた東京の作家たちの作品をずいぶん見た記憶があることだ。中村一美、戸谷成雄、辰野登恵子といった作家の充実した展示を私は大阪のギャラリーや美術館で見た覚えがある。さらに東京芸術大学と京都市立芸術大学の交換展、「フジヤマゲイシャ」をはじめ、当事者たる作家たちの展覧会を介した交流が認められ、逆に関西の作家たちが東京で紹介される機会も多かった。おそらくは大学院レヴェルの作家たちの東西交流は今よりずっと盛んであっただろう。時間軸においては禁欲的で個性を欠いた70年代美術からの解放、空間的には東京圏との活発な交流を背景に関西の若手は「ニューウェイブ」と称される一種爆発的な表現性を獲得したのである。後述する森村泰昌の展覧会のパンフレットの中に森村の次の言葉がある。「その頃の私には、なにごとにも『ノー』といわれ、排除されるのが基本だった70年代より、『イエス』と招かれ、趣味があえばとりあえずは受けいれる姿勢を見せてくれる80年代のほうがまだいい気分になる余地はあった」これはおそらく当時の関西の作家たちに共有された思いであっただろうと思う。さほど意味のない比較かもしれないが、私が身を置いていたことによる贔屓目ではなく、二つの展覧会を通しても80年代の関西の現代美術の地域的な優越は明らかであるように思う。バブル期という時代の追い風があったことは間違いないが、美術館やギャラリーもこれに応えた。「アート・ナウ」「シガ・アニュアル」「近作展」「つかしんアニュアル」といった展覧会が関西の国公立美術館や商業施設で開催され、ギャラリーにおいても「イエス・アート」をはじめ、今日も記憶される多くの重要な展覧会が連続して開催されていた。現在、関西の公立美術館において今挙げたような若手に対して開かれた発表の場がほとんど存在しないことの罪は問われてもよかろう。
 二つの展覧会を見て、いささか残念であった点はインスタレーションという80年代に特有の作品形式を紹介する作例が少なかった点である。特定の作家に広い空間を与えることの不公平が配慮されたのであろうし、唯一、国際美術館では松井智恵のインスタレーションが常設のコーナーに設えられていたと記憶するが、展覧会の中には私も初めて見るレリーフ状の作品が加えられているため、彼女がインスタレーションという形式とともに華々しく登場したことを想像することは困難だ。当時、松井としばしば比肩された杉山知子をはじめ、石原友明や中西學、あるいは(今回の展覧会には含まれていないが)椎原保やコンプレッソ・プラスティコといった作家たちは空間全体を造形するインスタレーションによる優れた発表を続けた。『美術手帖』が「インスタレーション」を特集したのは1985年のことである。しかし時を置かずしてこの形式は廃れた。インスタレーションの早すぎる失権の理由は今後検証されるべき問題であろう。さらに当時喧伝された「超少女たち」という言葉が示すジェンダーの問題も二つの展覧会においては一顧だにされていない。むろんこの言葉が一部の美術ジャーナリズムの軽薄な扇動に由来していたことは当時においてさえ認識できた。しかし当時にあって一群の女性作家が注目に値する作品を発表していたという事実もまた明らかである。80年代といえば欧米ではジェンダーを主題化した女性作家の重要な作品が次々に発表された時代であった。これに対して、日本においては「超少女」という耳ざわりはよいが意味不明の言葉が流行し、美術におけるジェンダーはむしろ森村泰昌の一連のセルフポートレートを通して前景化された。今回の展覧会は日本におけるフェミニズム美術を検証する一つの機会たりえたが、的外れのテーマと機械的な展示構成によって、このような可能性の探求は深められることがなかった。
 二つの展覧会についてやや批判的な言葉を連ねた。80年代を作家たちと共有した者としてはこれらの展示を批判することはたやすい。しかし同時に私は二つの展覧会を大いに楽しみもした。なぜならここに展示されている作品は紛れもなく私たちの時代の表現であるからだ。私は多くの作品が初めて展示された場所に立ち会い、その場で作家たちと語らった。確かにここには抽象表現主義の崇高さもミニマル・アートの厳密さもない。しかし二つの展覧会を通して一望された表現は決して悪くない。あの時代、私たちは新しい時代の到来に立ち会う一種の昂揚感を共有していた。例えば私も足を運んだいくつかのグループ展で頭角を現していた森村と石原友明は1988年のヴェネツィア・ビエンナーレのアペルト部門に招待される。年譜で確認するならばともに30歳前後の大阪の新人作家が日本を飛び越えていきなり世界的なデビューを果たすことができた時代とは一種のアメリカン・ドリームの時代であった。
b0138838_21362276.jpg「ニューウェイブ」の開幕と前後して森村泰昌は大阪の北加賀屋でプライヴェート・ミュージアムを開館した。開館記念展のタイトルは「君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?」。「菫色のモナムール」とは1986年にギャラリー白で開催された個展のタイトルであり、会場にはこの個展に展示された懐かしい作品が並べられていた。もちろん私もこの展示に足を運んで、強い印象を受けた。そしてそこに展示された作品こそが、二年後にヴェネツィア・ビエンナーレに出品される作品こととなったのだ。あるいは同じ会場で上映されていた当時の記録映像の中には1988年にオン・ギャラリーで開催された「マタに、手」の会場写真がある。私はこの個展のオープニング当夜の熱気を昨日のように思い出す。夜がふけてもギャラリーの周辺は人々であふれ、多くの東京の美術関係者も見かけた。私にとって80年代美術の昂揚を象徴する一夜であった。あれから私たちはずいぶん遠くまで来てしまった。しかし私たちが熱気を共有した時代は確かに存在し、私たちが生み出した表現は決して悪くはなない。
 展覧会を見終えて、私もあの時代に帰りたくなった。今名前を挙げた二つのギャラリー―一つは場所を移り、一つはもはやない―のごく近くに A という台湾料理店があった。月曜日、オープニングがはねた後、飲み足りない私は知り合いを誘ってよくこの店に通ったものだ。ほかのギャラリーのオープニングから流れてきた作家や批評家、学芸員たちもこの店に集い、台湾風の腸詰めや鳥の唐揚げに舌鼓をうちながら、テーブルを超えて美術に関する談論が風発した。東京に移ったと聞いていたこの店が同じ場所で営業していることを知り、内覧会の後、私は久しぶりに訪ねてみた。昔のように台湾の小皿料理とともにビールを飲み継ぎながら、私は当時この店で出会った多くの若い才能に思いを馳せた。新装され、洗練された室内にかつての面影はなかったが、バーツァン(台湾風肉ちまき)は昔と同じ味であった。

# by gravity97 | 2018-11-14 21:41 | 展覧会 | Comments(0)

フィリップ・グラス『フィリップ・グラス自伝 音楽のない言葉』

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 ミニマル・ミュージックの巨匠、フィリップ・グラスの自伝が翻訳されていることを知り、早速通読する。500頁に及ぶ長大な自伝であるが、実に興味深く多くの情報に富んでいる。直ちに言い添えるが、本書の中でスティーヴ・ライヒやラ・モンテ・ヤングに言及しつつ「ミニマリズム」という言葉は用いられているが、グラス自身は「ミニマル・ミュージック」という言葉を一度も使用していない。通読するならばその理由は明らかだ。グラスの音楽についての思考は深遠であり、単純なカテゴライズを許さないからだ。
 私が初めてグラスを知ったのは、おそらくは1980年代末、ロバート・ウィルソンとの共作「浜辺のアインシュタイン」のドキュメントと呼ぶべき映画を見た時であったはずだ。今、インターネットで確認するならば、この映画は「海辺のアインシュタイン」というタイトルで1987年12月25日に公開されているから、おそらくはこの折、確か大阪フェスティヴァルホールに付随するシアターで見たのではなかっただろうか。私はいわゆる「ミニマル・ミュージック」を愛好するが、このブログでも触れたスティーヴ・ライヒから聴き始めたから、当時グラスについては聴き込んでおらず、「浜辺のアインシュタイン」も映画を見た後にレコードを買ったはずだ。後でも触れる通りグラスとライヒはかなりテイストが異なり、ライヒを好む私はグラスの楽曲には今にいたるまでさほど関心がない。しかしながら本書を読んで、私はグラスをめぐる人脈の豊かさに驚嘆し、60年代後半のニューヨークの前衛芸術をめぐる活気に圧倒された。さいわいにも本書には巻末に人名の索引が付されており、その広がりはたやすく実感される。例えばアレン・ギンズバーグ、ヨーコ・オノ、パティ・スミスであれば誰でも知っているだろう。しかし私は意外な人名に出会って驚いた。例えばマイケル・リースマンだ。リースマンはグラスの多くの作品に音楽監督として登場するから、私にとって既知の名であったが、彼はなんと『孤独な群衆』を著した社会学者デイヴィッド・リースマンの息子であり、さらにグラスはシカゴ大学で父リースマンに学んだという奇縁が語られる。あるいはボブ・フィオレ。私は彼の名前をロバート・スミッソンの作品を記録した一連の映像作品の作家として知っていたが、彼とグラスは一時期、トラックを手に入れて引越屋を共同経営していたという。本書からはまさに創造的な才能の坩堝としての60年代のニューヨークが浮かび上がってくるかのようだ。
 先を急ぎ過ぎた。生い立ちから始めよう。グラスは1937年にボルチモアで三人兄妹の末っ子として生まれる。母アイダは高校で教師や司書を務める聡明な女性、海兵隊上がりで強盗をぶちのめすようなたくましい父、ベンはレコードショップを営んでいたという。両親はユダヤ系であったが家庭は世俗的で、宗教や戒律からは距離を置いていたらしい。父親の職業がレコードショップであったことは興味深い。音楽が自由に配信される今日では想像もつかないが、私が高校の頃までは音楽を手に入れるうえでは、まずラジオでエアチェックして、レコードショップで購入するという手続きが普通であった。グラスが幼少より音楽に目覚めたことはレコードショップに生まれたことが影響していたことは間違いなかろうし、売れないレコードとして持ち帰ったバルトークやストラヴィンスキーを家で聞いているうちに父ベンはそれらが気に入ってしまい、現代音楽の品揃えで知られる店になったというエピソードも微笑を誘う。このような環境でグラスも幼い頃から楽器、最初はフルートを学ぶことになった。ハイスクールをボルチモアで過ごした後、グラスはシカゴ大学に進学する。そこでグラスが何を専攻したかはっきりとは書いてない。しかしボルチモアと比べてもさらに大きな都市であるシカゴの文化的環境、そしてノーベル賞級の学者を輩出するシカゴ大学の教育的環境にグラスがよく馴染んだことは理解できる。グラスはこの地でピアノをはじめ、音楽に対する素養を深め、シェーンベルクやベルクを愛聴する。短い期間であるがパリにも旅行したらしい。そして音楽、具体的には作曲で身を立てることを決意したグラスは大学を卒業した後、ニューヨークの名門、ジュリアード音楽院への進級を目指す。ここで興味深いのはニューヨークで学ぶにあたって、その生活費を稼ぐため、彼が短期間製鉄工場で働いたという記述である。後でも論じるが、実はグラスほどに世に知られた作曲家であっても、作曲で生活を支え、フルタイムの作曲家となるのはずっと後年であり、グラスは常に「昼の仕事」として工場や荷役といった肉体労働に従事していたのである。当時ニューヨークで活動していた前衛的な作家たちがおそらくはグラスと同様の生活を送っていたことは先に引いたボブ・フィオレのエピソードからも明らかであり、随所で垣間見ることができる。本書を美術の側に引きつけながら読んだ私としては、このような工業との関係が、ミニマル・アートにおける素材や技法の選択に関与したのではないかという点に関心が向いた。ジュリアード音楽院という最高の環境の中で音楽的感性を深める一方で、グラスは同時代の美術にも親しむ。彼がジュリアードに在学したのは1957年から62年であるから、時代としては抽象表現主義が凋落し、ジョーンズとラウシェンバーグのネオ・ダダが登場した頃であり、ポップ・アートやミニマル・アートにはまだ早い。実際にジョーンズとラウシェンバーグの名が引かれ、彼らの作品に共感したことが綴られている。(それどころかジョーンズの自宅にリチャード・セラとともに赴いて、後述する《スプラッシング》を「設置」したエピソードも本書の中にある)二人の名前が引かれるならば当然、デュシャンとケージも導入される。ケージと「ミニマル・ミュージック」はしばしば相容れない方向とみなされるが、グラスはケージの「4分33秒」の教えについて思いを巡らし、音楽、あるいは聴取の根源的な成り立ちへと思いを向けている。私が本書を読んで深く感銘を受けたことの一つは、グラスが常に謙虚に他者の教えについて思索し、自分の中で深めている点である。オリジナリティーに絶対的な価値を置く美術と、師匠からの学びによって成長する音楽の違いであろうか。一方で当時の先端的な美術家と音楽家に共通する姿勢は移動によってインスピレーションを得ようとすることだ。グラスがしばしばニューヨークと西海岸を往復したエピソードが語られる。ケルアックの『オン・ザ・ロード』の影響などもあったのであろうか。文学に関しては、当時グラスが関心を抱いた作家がヘルマン・ヘッセとベケットであったという記述も興味深い。ベケットの中から想像されるとおり、グラスは演劇にも関心をもち、やはり演劇を志していたジョアン・アカライティスと結婚する。ジョアンと関連してジュリアン・ベックのリヴィング・シアターやグロトフスキに言及されるあたりにも時代を感じる。
 ジョアンとの結婚は家族との関係に思いがけぬ影を落とすが、フルブライトの奨学金を得て1964年からグラスとジョアンはパリに移る。60年代のパリも華やかだ。ゴダール、トリュフォー、ブーレーズ、あるいはブレヒト。ジャンルを超えて新しい才能から生み出された作品が花開いていた。このような刺激的な街に新婚の妻と共に暮らす興奮は私にヘミングウェイの昂ぶりを連想させる。「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたらなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」20年代同様に60年代のパリもアメリカの青年たちにとっては例外的な場所であったということであろう。グラスはパリでナディア・ブーランジェという峻烈な女性教師のもとで音楽を学ぶ。グラスは次のように記す「もし大工になりたいなら、ハンマーとのこぎりの使い方、それにものの測り方を学ばなければならない。(中略)ブーランジュ女史は、ハンマーの握り方、のこぎりの使い方、ものの測り方、つまりは作業の視覚化と段取りの立て方を教えてくれる。すべてを習得すれば立派なテーブルを作ることができる。それでも女史は『テーブル』そのものが作曲だとは決して考えておらず、自分が教えるのは純粋に技術的なことだけと考えていた」グラスは生涯に何人かの師匠をもつが、彼女が一番厳しい教師であったことは頻出する音楽用語が全くわからない私でさえ直ちに理解できる。女史はグラスを褒めることがほとんどなかったが、後年、彼女がグラスの才能を評価して奨学金の延長を求める手紙を密かに送っていたという心温まるエピソードも紹介されている。パリ留学を終えるにあたって、グラスはジョアンとともに長い旅に出る。パリでグラスはインドをはじめとする東方の音楽関係者と親交を結んでいたが、彼らに導かれるように、二人はバルセロナから海路でトルコ、そして陸路でトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、さらにはチベットを訪れた。文中にもあるビートルズのジョージ・ハリソンなどの影響で当時のヨーロッパの若者たちがインドを一つのユートピアとしてとらえていたことは理解できるが、それにしても若い妻を連れてこれらの地を踏破することは並大抵のことではなかっただろう。「東方への旅」という章から始まる一連の旅行記は本書においても一つの読みどころを形作っている。ミニマル・ミュージックがアジアやアフリカの民族音楽に一つの起源を有する点はしばしば論じられてきた。私はインドの民族音楽について無知であるから、グラスがそこから何を学んだかはよくわからない。ラ・モンテ・ヤングのドローンならばともかく、グラスの音楽の理知的な構造とインド音楽の瞑想的な特質はうまくつながらない。私の印象としては、グラスはインドの特定の音楽に影響を受けたというより、そこで出会った高僧たちの精神性、瞑想や修行に関心があったように思われる。それはグラスがすでにアメリカやフランスで彼らのネットワークの一端に触れていたことを暗示しているから、当時の西欧社会には東方への強い憧れと具体的な知識が流通していたことがうかがえる。グラスはアフガニスタンやパキスタンも踏破し、さほどの困難や苦労を経験していない。反米感情とイスラムフォビアが蔓延する今日と比べるならばなんと寛容な時代であったか。
 1967年、ニューヨークへの帰還とともに本書の第二部が幕を開ける。私はこのセクションが圧倒的に面白かった。それは私がよく知っている60年代後半のニューヨークの美術とグラスの活動がいたるところで交差するからだ。本書の中には記述がないが、例えばグラスは1969年にホイットニー美術館で開かれた「アンチ・イリュージョン 手続き/素材」にライヒやセラ、モリスらとともに参加している。ただし当時音楽家としての知名度はさほどなかったようだ。この時期、グラスは妻ジョアンの演劇の仕事と深く関わり、トリシャ・ブラウン、ルシンダ・チャイルド、イヴォンヌ・レイナーといったダンサー、あるいはジャドソン・ダンス・シアターやマース・カニングハムといった錚々たる面々との交遊が記されている。あるいはジョン・ケージから「フィリップ、音が多すぎるよ」というコメントを受けたといったエピソードも興味深い。グラスは1968年にクイーンズ・カレッジで最初のコンサート開いたが、聴衆は6人、しかもそのうちの一人は母アイダであったという。しかしミニマル・アートが成熟し、ポストミニマリズムが成立するこの時期、時をおかずグラスの音楽も認知されていく。グラスは当時ミニマリズムという言葉が主としてジャッドやアンドレといった造形作家に対して用いられていたことを回想したうえで、彼らとのギャップを次のように表現している。「(ミニマリズムの語は)本来は私たちより、大まかにいうと8~10歳ほど上の世代に用いられた語であり、当時彼らは38歳前後、私たちは28歳前後―片やキャリアをすでに確立し、片や12番街でまだトラックに荷物を積んでいるという違いがあった」しかし二つの世代、美術家と音楽家には連帯感があったようだ。美術家たちは音楽家たちの機材一式をトラックで運んでくれたし、ジャッドのロフトでも演奏会が催された。ギャラリーでもしばしばコンサートが開かれ、レオ・キャステリは出演料まで払ってくれたという。グラスはこれらの作家の中でも特に(世代的に近い)リチャード・セラと仲がよかったことが行間から伝わる。当時グラスは新しい音楽を作るのと並行して金を稼ぐために携わっていた「昼の仕事」として配管工を挙げ、配管という仕事の詳細を4頁にわたって詳細に記している。配管工はなによりも鉛の扱いに習熟しなければならない。このくだりを読んだ瞬間に私は理解した。セラの初期の作品に鉛が多用された理由はグラスとの交遊が関係しているに違いない。予想どおり「美術と音楽」という章において、キャステリの倉庫での展覧会に際して使用する素材を迷っていたセラに対して、グラスが鉛の使用を提案したという記述がある。セラが発表した作品こそ溶けた鉛を床に撒き散らす《スプラッシング》であり、驚いたことに「それから一年間、《スプラッシング》を展示する時、(グラスは)いつも彼のそばにいて溶かした鉛を用意していた」らしい。ちなみに鉛を筒状に巻いたセラの初期の代表作の一つ《フィリップ・グラスのためのゆるやかなロール》は現在、先般、「大阪中之島美術館」と新名称が決まった大阪の美術館準備室に収蔵されている。セラはアムステルダムやベルン(いうまでもない、ハロルド・ゼーマンの「態度がかたちになる時」だ)における国際展に招かれ、帯同したグラスもヨーロッパでコンサートを開いたが、熱烈に歓迎される一方で激しい拒絶にもあったという述懐も興味深い。かつて抽象表現主義の絵画が「新しいアメリカの絵画」という展覧会としてヨーロッパの主要都市に巡回した時に経験したアメリカの新しい文化への反発がここでも繰り返された訳である。
 グラスにとって大きな転機となったのは1976年、フランスのアヴィニョン演劇祭で初演されたロバート・ウィルソンとの共作「浜辺のアインシュタイン」であった。演劇祭で上演されたことから理解されるとおり、この演目はロバート・ウィルソンの実験的な演劇「浜辺のアインシュタイン」にグラスが音楽を提供したものである。私も最初に述べたドキュメント映画でその片鱗に触れた、ウィルソンの演劇は俳優が単純な動作を繰り返す一種のミニマリズムと上演時間の異常な長さによって知られていた。大成功に終わったヨーロッパツアーの後、この演目はニューヨークのメトロポリタン歌劇場に凱旋し、チケットは完売する。6人しか聴衆のいない最初のコンサートにも駆けつけた母アイダは今度は満席のメットで、劇場のボックス席から観劇したという。しかし興業的にはこれほどの成功であっても、全体の収支としては赤字となったらしい。「浜辺のアインシュタイン」はグラスがウィルソンの演劇のために作曲した作品であるから、俳優や映像の存在を前提としている。この楽曲を転機にグラスは「サティアグラハ」と「アクナーテン」という一人の人物に焦点をあてた、いわゆるポートレート・オペラ三部作を上演し、さらには多くの映画音楽を手がけることになる。私はこれらをあまり聴いていないから論評することは控えるが、おそらく彼がオペラや映画といったジャンルとのコラボレーションに積極的であることは、若き日に演劇や美術と協働した経験が生きているだろう。ライヒも後年、大掛かりなオペラを手がけている。多くの作曲家にとってオペラと携わることはその困難も含めて一つの目標であり、グラスも本書の中で「オペラの世界で仕事ができる喜びは多くの作曲家にとって何物にも代えがたいものであり、私とて例外ではない」と述べている。しかし私は正直に言ってオペラ的なスペクタルがあまり好きではないし、ましてやミニマリズムという音楽の語法を構築した作曲家たちがその後反転するかのようにオペラの過剰さに向かうことは意外に感じられた。本書の第三部は「サティアグラハ」以降の、主にオペラと映画音楽について論じられており、さらにはジョアンとの微妙な関係、キャンディ・ジャーニガンという若い女性との出会いと別れといったかなりプライヴェートな話題に触れられる。
 「ミニマル・ミュージック」からオペラへの転向という点ではスティーヴ・ライヒが連想される。「ミニマル・ミュージック」の巨匠、グラスとライヒは多くの共通点をもつ。ともにユダヤ系の出自を持ち、グラスがヒッチハイクやバイクで試みた大陸横断は、ライヒによって自らが体験した鉄道による大陸横断、そして同じ時代にヨーロッパでユダヤ人たちが強制的に乗車させられた鉄道への思いを重ねた「ディファレント・トレインズ」に結実した。あるいはともに非欧米の音楽から多くを学び、グラスがインド音楽ならば、ライヒはガーナのドラミングやバリ島のガムランに触発された楽曲を発表している。実際に二人は活動の初期にはしばしば共演しており、互いを評価していることが本書をとおしてもうかがえる。そして何よりも興味深いのは、二人とも一時期、タクシーのドライバーとして生活費を稼いでいたという事実だ。私はライヒがタクシードライバーで生計を立てていたことを以前より知っていたが、本書によるとグラスもまたセラのアトリエでのアルバイトを辞めた後、タクシードライバーを「昼の仕事」としており、かなりの大金を得ることができたという。「週に三晩働けば、家賃と生活費を払うには十分だったのだ」むろんニューヨークであるから危険な目にあったこともあり、57丁目からサルバドール・ダリが乗車してきたという嘘のようなエピソードも披露される。グラスは後に「タクシードライバー」の監督であるマーティン・スコセッシと一緒に仕事をするからこの話題には落ちがつく訳であるが、ライヒとグラスがある時期、ニューヨークでタクシードライバーを務めていたというエピソードは芸術を天才の占有物にせず、日々の生活から生み出されるタスクとみなす点においてまことにミニマリズム的といえよう。初期の作品に関して自分とライヒの相違にも言及しつつ、グラスは次のような言葉を残している。

私は「物語」の代わりにプロセスを使うようになった。そのプロセスは繰り返しと変化に基づいている。このおかげで言語は理解しやすくなる。めまぐるしい動きのなかでも、聴き手が考えを巡らせる時間ができるからだ。それは音楽が語る物語ではなく、音楽そのものに注意を払う方法だ。スティーヴ・ライヒは、これを達成するために初期の楽曲で「フェイジング」を用い、私は加算的構造を用いた。

 音楽が語る物語ではなく、音楽そのものに注意を払うこと。それはまさしく同時代の造形作家たちが様々な素材や技法を用いて試みた実験に通じる意識である。グラスは「絵画、演劇、ダンスの世界に肩を並べる音楽の世界がはじめて姿を現したように思われた。音楽界はようやく『これが、このアートにふさわしい音楽だ』といえるようになった」と逆向きにこの感慨に言葉を与えている。まさに60年代後半とは多様な表現がその最先端で切り結ぶ奇跡のような時代であった。
 私は本書を読んでグラスの深い学識と思索にあらためて敬意を抱いた。いちいち引用することは控えるが、様々な経験を通してグラスが音楽という営みの根源に向けた思考を繰り返す様子が認められるからだ。監訳者は原文を素っ気ないと評しているが、翻訳も優れているのだろう。文章は明晰で読みやすい。著者の感情は抑制されているが、「終わり」と題された最後の章において、グラスは「本書を終えるにあたっては、考えではなくイメージを記すことにしたい。記憶を書き残しておけば、もはや私一人のものではなくなるだろう」と記し、アレン・ギンズバーグ、そして兄マーティーや姉シェッピー、そして父ベン、彼らとの何気ない日常を淡々と描く。「音楽のない言葉」ならぬ「音楽のないイメージ」、このエピローグは彼らに対するグラスの友愛と敬愛の情にあふれ、いかにもグラスらしい硬質の詩情を漂わせている。

# by gravity97 | 2018-10-25 20:33 | 評伝・自伝 | Comments(0)

マリオ=バルガス・リョサ『ラ・カテドラルでの対話』

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 先日レヴューした「八月の光」に続いて、かつて読んだ小説を新訳によって再読する。新たに岩波文庫版として訳出されたバルガス=リョサの「ラ・カテドラルでの対話」である。この小説はかつて集英社版世界の文学の一冊として1979年に訳出され、私も大学の教養時、つまり40年近く前に読んだ覚えがあるが、長く入手が困難であった。この全集のラインナップの確かさは、例えば「石蹴り遊び」「夜のみだらな鳥」そして本書のごとき、かつてこの全集に収録されていたラテン・アメリカ文学の傑作が近年新しい版元から次々に再刊されていることからも理解されよう。本書も通読した覚えはあるが、初読のような新鮮さとともに読み直した。手強い小説であるから「八月の光」同様、当時の私には理解できなかったかもしれない。同じ著者の小説として確か私は最初に「緑の家」、次いで本書を読み、その後も翻訳が刊行されるたびに読み継いできた。このブログにおいても彼の小説について触れた記事は多いはずだ。本書は「都会と犬ども」「緑の家」に続く長編三冊目にあたり、本書のカバーには「これまでに書いたすべての作品の中から一冊だけ、火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」という著者の言葉が引用されている。確かにこの小説は形式においても内容においてもそれまでの、そしてそれ以後のバルガス=リョサの文学の精髄とも呼ぶべきいくつもの特性を宿していたことが今になればわかる。しかしこれから詳しく論じる通り、本書は決して読みやすい小説ではないし、主題もそれに見合って重く暗鬱である。
 冒頭に置かれた緒言に著者自身の言葉でこの小説の背景が記されている。少し長くなるが引用する。

 1948年から1956年まで、ペルーはマヌエル・アポリナリオ・オドリア将軍を首班とする軍事独裁政権の統治下にあった。政党や公民的活動が禁止され、報道は検閲され、多数の政治犯と何百人もの亡命者が出た八方ふさがりの社会の中で、この8年の間に、私の世代のペルー人は子どもから若者へ、若者から大人へと成長したのだった。政権は好き勝手に犯罪を犯し、権力を濫用していたが、それよりももっとひどかったのが、権力の中枢から発する奥深い腐敗だった。それはあらゆる部門、あらゆる組織へと広がって、生の全領域を堕落させた。

 「ラ・クロニカ」という新聞社に勤めるサンティアーゴがこの小説の主人公だ。青年というにはやや年老いているが、壮年というにはまだ若いサンティアーゴは「ラ・クロニカ」の社説を担当するインテリである。飼っていた犬が野犬狩りの男たちに強引に拉致されたことを嘆く妻アナのために、野犬収容所に出向いたサンティアーゴは、そこで働く一人のサンボ(黒人と先住民の混血)に目を止める。彼の名はアンブローシア、かつてサンティアーゴの家で運転手として働いていた男であった。思いがけない再会に二人は「ラ・カテドラル」という安酒場に入って祝杯をあげ、会話を始める。このエピソードが本書のタイトルの由来であり、坊ちゃん、アンブローシオという呼称の相違は二人が属す階級の違いを暗示している。サンティアーゴの父親はドン・フェルミンという政界の大物であり、オドリア治下のペルーで隠然とした勢力をふるっていた。再会の喜びを祝って始まった二人の会話は、途中でサンティアーゴがアンブローシアに「間抜けのふりをするのはやめてくれ」と繰り返し、「二人で率直に、ムーサについて、父さんについて、話をしようじゃないか。彼に命令されたのか?父さんだったのか?」と執拗に問うことで一気に緊迫の度を増す。サンティアーゴの問いの意味は下巻まで読み進むと理解されるが、この小説の語りと展開は相当に錯綜している。今述べたあたりまでは、物語は単線的でストーリーを追うことはさほど難しくない。しかし次第に時間と話者を違えた複数の物語が説明なしに連続する独特の話法が物語を構成し、読者はしばしば困惑する。実はこのような話法はバルガス=リョサ特有であり、以後の小説にも認められる。以前このブログで「マイタの物語」について論じた際にも同じ問題に触れた。この小説は多くの章で構成されているが、章自体がいくつもの短い挿話の連続で構成され、別々の話者の語りが地の文の中で接ぎ合わされる独特の話法に加えて新しい登場人物が一切の説明なしに登場する。読者は時に前の頁をめくって丹念に読み込まなければ、物語の中で何が進行しているかを理解することが難しい。誰が語っているかを知るうえで大きな助けとなるのは、多用される相手への呼びかけである。坊ちゃんという呼びかけであれば、アンブローシアからサンティアーゴへの語り、アンブローシアと呼び捨てされれば逆の語りだ。解説によるとスペイン語、特にラテン・アメリカで交わされるスペイン語の会話の中で相手の名前や呼称を呼びかけることは、時にそれなくしては失礼と思われるほどに頻繁であるらしい。さらにサンティアーゴであればサバリータ、カルロスであればカルリートスといった親称も多用される。呼びかけと親称が文中で縦横に駆使される点もこの小説の特色である。親称の使用については、注記として早い段階で説明されるから、読者はさほど苦労なく馴染むことができようが、このような知識がなければ読者は混乱するだろう。とりわけ冒頭の第一部においては場面の転換と親称による呼びかけが濫用されるから、モダニズム文学の熟練した読み手であっても物語の流れを追うことはかなり難しい。しかしひとたびこの錯綜を理解するや、逆に豊かな物語の広がりが視野に入って来る。この意味で本書は読書を試す小説であり、近作におけるバルガス=リョサの語りの巧みさに慣れた読者にとっては意外な難解さを伴っているかもしれない。しかしこのブログで論じた「チボの狂宴」における三部構成、あるいは「つつましい英雄」における対位法などを思い起こすならば、バルガス=リョサの形式への関心は一貫している。実は語りに関する作家の小説的技巧が最も高度かつ複雑に繰り広げられているのが「ラ・カテドラルでの対話」なのである。
 物語の内容に目を向けよう。サンティアーゴとアンブローシアの邂逅に始まる物語は「対話」というタイトルが示す通り、二人の会話によってエピソードが次々に召喚されるかたちで進む。ひとまずいくつかのメインストーリーを粗描することにしよう。まず一つの中心として、サンティアーゴの家庭内の葛藤が挙げられる。先に述べたとおり、サンティアーゴは政界で隠然たる影響力を及ぼすドン・フェルミンを父に、特権意識に毒されたソイラ夫人(なぜか彼女だけ親称で呼ばれることはない)を母に、テテとチスパスという妹と兄の四人で暮らしている。彼とドン・フェルミンの関係がこの小説の重要な主題であることは間違いない。父と家に反発するサンティアーゴは政治活動が盛んなサン・マルコス大学へ入学して反抗の一端を示そうとする。サンティアーゴは入学後、ひそかに共産党の活動と関わり、学友たちと政治活動を行う。しかし共産党が非合法化されているオドリア政権下のペルーで彼らはまもなく摘発され、サンティアーゴのみが解放される。いうまでもなくドン・フェルミンが手を回したのであり、釈放後、父は息子を打擲する。この事件の後、サンティアーゴは家を出て、新聞社に職を得て、家族と距離を置いた生活を始める。あるいは独裁体制下にあって大臣に懇請されて内務局長に抜擢されたカヨ・ベルムーデスという男の物語。いかがわしい出自をもち、チンチャという街に逼塞していたベルムーデスは昔なじみの大臣からオドリア政権下で内務局長なる一種の秘密警察のトップに据えられるや、反体制派や学生たちに徹底的な弾圧を加え、政敵を一掃して腐敗した権力を握る。サンティアーゴの解放に際しても彼はドン・フェルミンに隠微な恫喝を加える。一方でベルムーデスは愛人に豪勢な邸宅を与え、彼女は同性愛を含む放埓な生活を送っている。あるいはアンブローシアについてはどうか。アンブローシアもまた数奇な人生をたどる。彼はドン・フェルミンとカヨ・ベルムーデスという二人の権力者に運転手として仕え、ベルムーデスの指示に従って後ろ暗い仕事に携わった後、やはりドン・フェルミンのもとで女中として働いていたアマーリアと関係し、乳飲み子の娘とともにプカルパという町に出奔する。アマーリアといえば、ドン・フェルミンの家を追われた後、ベルムーデスの愛人の家に女中として住み込み、オルテンシアという愛人の無軌道な生活、その栄華と没落を見届けることになる。
 今、私はこの小説を織りなすいくつかのエピソードを紹介した。もちろん文庫本とはいえ上下合わせて1200頁近いこの長大な小説にはほかにもいくつものエピソードが書き込まれているし、私はあえてこの小説の鍵となるエピソードのいくつかについては語らずにいる。そして今要約したエピソードについても、実は簡単に読み取れるものではない。これらのエピソードは相互に極めて複雑に絡み合って、なかなかその全貌を把握することができない。一つには先に触れた語りの問題だ。サンティアーゴとアンブローシア、時にサンティアーゴとカルリートスの対話として成立する物語は、誰が何を語っているのか判然としない場合が多い。訳者はこの点について解説の中で分析を加えている。詳細については解説に譲るが、訳者によれば本書で多用される自由間接話法は語りの主体を不明確にする効果があるという。冒頭の「《ラ・クロニカ》新聞社の入口からサンティアーゴは、タクナ通りを何の愛情もなく眺めやる」という一文からは全能の話者の語りが予想されるかもしれない。しかしこの小説の特異な語りは特権的な話者を否定する。続いて書きつけられた次のような文章を私たちはどのようにとらえればよいか。「彼自身もペルーと同じなのだサバリータ、彼もまた、どこかの瞬間でダメになってしまったのだ。彼は考える―それはどの瞬間だったのか?」私はこのような位置の定まらぬ話者からフローベールを想起した。バルガス=リョサがフローベールについての研究を発表していることからの連想にすぎないが、バルガス=リョサのほかの小説と比べても本書における話者の特異性についてはなお検討すべき余地がある点を指摘しておこう。時間についてはどうか。もちろんここでも単線的な時間は流れていない。この物語が野犬収容所におけるサンティアーゴとアンブローシオの偶然の再会に始まり、ラ・カテドラルという安酒場における対話によって起動したことはすで論じた。最後の場面でサンティアーゴは野犬収容所での仕事が終わったら次は何をするかアンブローシオに尋ねるから、この長大な小説はまさにラ・カテドラルでの二人のとりとめのない対話と追想とみなすこともできよう。実際に物語の視点は現在にあり、若きサンティアーゴの反抗からドン・フェルミンの死にいたる時間的な幅をもった事件は常に事後として語られる。語られる物語の先後関係は必ずしも明確ではないし、しばしば時間的に異なった物語が結合されることによって、因果関係や時間的な秩序を確認することは困難となる。時間的な錯綜とともに、先に述べた通り、語られる物語の重層もこのような不透明を増す。本書で語られる物語をいくつかの層に分類することは可能だ。サンティアーゴという青年の家族の中における葛藤の物語、軍事政権下のペルーにおける圧政と腐敗、人種や階級を巡る差別と和解の物語、あるいは未遂に終わったクーデターと首謀者たちの処分をめぐる政治スリラー。「ラ・クロニカ」という新聞名が暗示するかのように本書はある時代、具体的には作家が少年から青年を送った軍政下のペルーの年代記である。一つの時代の混沌と興亡、堕落と絶望が無数の挿話をとおして立ち上がる。家庭内の葛藤から政権上層部における闘争、レヴェルを違え、登場人物を違えたいくつものエピソードの重層によって一つの時代を表象する手法から私は久しぶりに「全体小説」という言葉を連想した。周知のごとく「全体小説」とはかつてサルトルによって提起された概念であり、未完の「自由への道」などがその典型とされるが、本書を読んでむしろ私はソルジェニーツィンの「煉獄のなかで」を連想した。ソルジェニーツィンの小説においては収容所の囚人から最高権力者のスターリンにいたる様々なレヴェルの登場人物をめぐるエピソードの集積の中に、まさにスターリン時代としか呼びようのない暗く重い一つの時代が浮かび上がる。オドリアとスターリン、軍事独裁政権と共産党独裁、ほぼ同じ時代の水と油のような二つの独裁体制が手法こそ大きく異なるが、優れた小説家の手を介して「全体小説」とカテゴライズされる独特の世界の中に表象されたことは興味深い。全体小説への志向は時代的な要請であったのだろうか。さらに強引な飛躍であることを承知で言い添えるのだが、本書の中にはポルペニールという地区で計画された反体制派の集会をアンブローシアらが荒くれ者を集めて襲撃する挿話がある。私はこのエピソードから野間宏の「青年の環」の最終部「炎の場所」における騒乱の描写をかすかに連想した。
 本書を通じてサンティアーゴの問いは単純である。自分はどの瞬間からダメになってしまったのか。サンティアーゴは同じ問いをアンブローシアにも向ける。僕たちはどの瞬間からダメになってしまったのか。独裁政権下で体制側に身を置くことをサンティアーゴは「ダメになってしまった」ととらえる。かかる感慨がバルガス=リョサにも共有されていたか否かについて私には即断できない。しかし本書を読み返して私にも一つの感慨が生じた。この小説の中には独裁政権の様々な専横が書き込まれている。権力者たちは自分たちの身内で不正に利益を独占し、報道機関や批判者を恫喝する。脅迫と賄賂を用いて選挙を不正に操作し、反体制派の集会を暴力によって破壊する。なんのことはない、それは現在安倍政権が日常的に行っていることではないか。今やこの国の政治は半世紀前のラテン・アメリカの独裁政権となんら変わることのないレヴェルにまで堕落している。この国のどこが「先進国」か。人権意識においても、政治家のモラルにおいても私たちは二流、三流の国に生を得ている。私もまた繰り返す。一体私たちはどの瞬間からダメになってしまったのか。それは本書を初読した40年前には感じることがなかった恥の感覚だ。

# by gravity97 | 2018-10-10 22:42 | 海外文学 | Comments(0)

フェルメール展(再掲)

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 ちょうど10年前に書いた記事であるが、今も全く同じ状況が繰り返されていることにあらためて暗然とする。

 上野でフェルメールを見る。
 17世紀、オランダ、デルフトの画家、フェルメールが制作した絵画は異説あるものの35点しか現存しない。しかも世界各地に散在して秘蔵されているため、全てを見ることは困難をきわめる。このため、美術通はフェルメールを何点見たかを競い、かくいう私も海外出張のたびに、事前に出張先やその近辺にフェルメールが所蔵されていないかを調べ、何十年もフェルメール巡りを続けてきた。トマス・ハリスの『ハンニバル』の最後の部分にバーニーという登場人物がブエノス・アイレスの国立美術館で展示されているフェルメールをある事情によって見逃すというエピソードがある。「バーニーがついに見ずに終わった唯一のフェルメールは、ブエノス・アイレスの美術館に展示している作品である」という一文はハリスらしいディレッタンティズムが横溢している。(ただし実際にはアルゼンチンにはフェルメールの作品は存在しない)
 フェルメールの作品は過去にも何度か日本で公開され、2000年には大阪市立美術館で5点を集めた「フェルメール展」が開催された。しかしこの作家に関して、私は収蔵された場所で作品を見るという原則を自らに課しており、たまたま訪れた展覧会に出品されていた作品を見たことはあっても、フェルメールを目的に国内の美術館に足を運んだことはない。そして実際、近年日本で公開されたフェルメールの作品の多くを私は所蔵されている美術館で見てきた。今回の展覧会の出品作も大半は既に実見していたが、7点のうち2点が個人そしてこれからも訪れることの比較的困難な美術館に所蔵されていることを知り、あえて方針を曲げて上野に赴くことにした。フェルメールと銘打った展覧会の常としてフェルメールの作品を取り巻くように同時代のオランダの作家の作品が展示され、今回も「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」というサブタイトルが示すとおり、デルフトとゆかりのある作家たちの作品を合わせて展示していた。展覧会が始まってまもなく上野を訪ねたため、チケットのために行列するほどの人出ではなかったが、予想通り会場はかなり混雑していた。
 今回の展示のハイライトは2004年にも東京と神戸で公開されたウィーン美術史美術館所蔵の《絵画芸術》のはずであった。近年、森村泰昌が独自の解釈とともに取り組んでいるこの作品を私は世界で一番美しい絵画と考えている。しかしこの作品は展覧会に出品されていない。展覧会のホームページを参照するならば最初のページに「《絵画芸術》出品中止のお知らせ」という告知が掲出されており、それによるとオーストリア教育文化省は作品の劣化を防ぐため、7月31日にこの作品の出品を見合わせる決定を行い、これに対して主催者側は新たにアイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵のフェルメール作《手紙を書く婦人と召使い》を追加出品すると7月24日に発表している。タイミングはともかく告知は「(追加出品によって)本展で展示されるフェルメール作品は、日本初公開を含む過去最多の7点となります」と結び、逆に得意げでさえある。しかし当初予告されていた《絵画芸術》が出品されていないフェルメール展、これを羊頭狗肉と言わずして何と言おう。これまで現地で作品を実見した印象として、私はフェルメールの作品はそのほとんどが傑作と考えていたが、今回の展示を見て、必ずしもそうではないことが了解された。つまり今回の展覧会はさほど質の高くないフェルメールの作品によって構成されている。作家の真骨頂と呼ぶべき風俗画が少ないこと、小さな作品が多いことなど、その理由を挙げることは容易である。しかしマウリッツハイスやアムステルダムの国立美術館であれば、これらの作品の傍らにフェルメールのほかの優品が展示されているため、画家の天才は直ちに感得できる。しかし今回の展覧会でフェルメールの真髄に触れることはできない。この意味で《絵画芸術》の不在は致命的といってよい。個人的には未見であったアイルランドのナショナル・ギャラリー所蔵の優品、おそらく今回の展覧会で最上の作品を見る機会を得て、7点のフェルメールの中で初見が3点というのは悪くない数字であろう。また出品されていたデルフトの画家の作品についても様々な発見があった。しかしこの展覧会に「フェルメール展」の名を冠し、フェルメール芸術の全貌に触れる機会のごとく喧伝することに企画者の良心は痛まないのだろうか。
 確かにフェルメールの作品は希少である。しかし生涯に描いた35点中の7点を集めたといっても、作品の質が担保されない限り、その天才に触れることはできない。この展覧会は1600円というこれまた異例の入場料である。家族で美術館を訪れ、カタログを購入するならば、一万円近くの出費となる。高い入場料を払って必ずしも質の高くない作品を雑踏の中で見ることを余儀なくされる。この展覧会を訪れたことによってさらにフェルメールを見たいと望む者は多くないはずだ。私はこの展覧会に《絵画芸術》が出品されなくてよかったと心から感じる。人類の至宝と呼ぶべきこの絵画を何万キロも運び、一時的であるにせよ高度数千メートル、極限的な気圧や気温に接する苛酷な条件の中に置くこと、炎天下の東京の外気に晒すことに一体何の意味があるのか。そもそも先述のとおりこの作品は2004年にも日本に将来されているではないか。莫大な借用料を払って作品に輸送の負荷を与え、さらにはその借用料を回収するために雑踏の中に置くこと。展覧会の名を騙るこのくだらぬ営利行為に私は何一つ積極的な意味を見出すことができない。新聞社の「文化」事業部と美術館は一体いつまでこのような愚行を繰り返すのだろうか。

 2003年の秋、私は出張でウィーンに滞在した。前日の夕方、美術史美術館を訪れ、《絵画芸術》の展示場所を確認した私は、次の日の朝、美術館が開くとともに作品の前に向かった。それは比較的奥まった小さな部屋に展示してあり、驚いたことには近くに看視もいない。それから半時間ほどの間、私はただ一人でこの絵画に対した。それは圧倒的で濃密な時間であった。フェルメールの傑作と一つの場を共有する体験。これまでの生涯で、私はあの時ほど見ることの悦楽に浸ったことがない。静かな光が充溢する画家のアトリエの情景と私が存在する今ここの空間がなにものにも隔てられることなく、連続すること。それは私の一生がこの一瞬のためにあってもよいとさえ思われる時間であった。仕事がらみの出張であったとはいえ、私は《絵画芸術》を見るために日本からはるばるハプスブルグの首都まで赴いた。それは確かに一つの巡礼の旅であった。世界にはかかる敬意とともにまなざしを向けるべき絵画が存在するのである。

# by gravity97 | 2018-10-04 21:18 | 展覧会 | Comments(0)

戸塚真弓『ワインに染まる』

b0138838_21131780.jpg 飲酒をめぐるエッセーを読むことは楽しい。私は時折山口瞳から開高健にいたるお気に入りのエッセーを読み返し、ウイスキーから焼酎まで特集記事が掲載された雑誌のコラムを斜め読みする。もちろん一つには私自身が無類の酒好きだということがあるだろう。好みはあるにせよ、私は食卓に供されるどんな酒でも受け容れて、それなりに楽しむことができる。アルコールとは一種の過剰である。水がなければ私たちは命を失うが、ビールやワインを飲まなくても生きていくことはできる。それは絵画や小説がなくても私たちが生きていけることと同じだ。しかしモネやプルーストが存在しない世界を想像することができないように、私はワインなき食卓、グラッパ抜きの豪華なディナー、シャンパーニュのない記念日を想像することができない。
 私は日常ではビールを飲むことが多いが、楽しいディナーの最後はレストランであろうと自宅であろうとグラッパで締めくくる。さらに毎晩ナイトキャップとして炭酸とライムを加えたジンも欠かさない。しかしワインには特別の思い入れがある。私は自分をワイン通と思ったことは一度たりともないし、ワインの味がわかるとも思わない。しかしワインについては四半期に一度、数ダースの単位でまとめ買いをして、その日の料理や気分に合わせて選ぶようにしている。選択の幅が重要なのだ。ビールであろうとジンであろうと、同じ銘柄であれば味はほとんど変わらず、日常で手が届く範囲では銘柄にもさほど幅はない。確かにスピリッツについては専門のバーに行けば、ある程度のヴァリエーションに触れることはできようが、一度に大量に飲むことはないから自宅ではむしろ同じ味わいであることを優先する。ジンであればゴードンとボンベイ・サファイアを常備しておれば問題はない。これらの酒は日常の中で常に同じ陶酔を保証してくれる。これに対してワインは常に異なった悦び、非日常性を帯びている。一本一本が異なり、同じ味わいがないからだ。私はワインの注文に際しては、私の嗜好を知り抜いたバイヤーになるべくヴァリエーションをつけて選ぶように依頼する。もちろん私が求めるワインなどたかが知れており、レストランで普通に飲む程度のクオリティーにすぎない。しかしそれにせよ今日飲むワインには、昨日飲んだワインとも明日飲むワインとも異なる特別感があり、人生を区切る。以前の勤務先を離れる際にはなむけとして贈られ、贈り手たちとともにその場で空けたムートン・ロートシルト(これは高価であったはずだ。おそらく私がこれまでに飲んだ最も高価なワインであろう)、毎年クリスマス前に通うことを常としたレストランでソムリエから注がれた数々のイタリアンワイン、夏の午後、水平線を臨むレストランで開栓した甲州ワイン、肝心のワインの味についての記憶は失っても、ワインを飲んだ状況と幸福感はいつも明確に浮かび上がる。このような記憶はほかの種類の酒ではありえないだろう。ワインには常に物語があるのだ。
 自分のことばかり書いてしまった。本書は私など足下にも及ばぬコノシュアーによって記されたワインをめぐるエッセーである。ポートレートに添えられた履歴によれば「1961年、跡見学園短期大学卒業、78年よりパリ在住。カルチェ・ラタンでの暮らしは二十余年を数える。フランスワインと料理を愛するエッセイストとして活躍」とのことであるから、かなりの高齢であろうが、交友の広さとワインに対する造詣の深さは少しでも本書を読めば直ちに理解できる。この種のエッセーは自慢話に終始した、読むに耐えない内容であることが多いが、本書ではロマネ・コンティからドン・ペリニョンまでおそらく私が一生飲むことのない垂涎のワインが嫌味も気取りもなく次々に俎上に上がる。それもそのはずだ、著者がテーブルを囲む相手はドン・ペリニョンの醸造長やフランスの学士院の会員といった名士ばかりであり、ワインについてのポテンシャルが異なるのだ。あとがきによれば彼女の夫君も食文化を専門とする地理学者、ワインやフランス料理について多くの著作があるフランス人であるという。思うにワインに対する感覚というのはある程度の、いや相当の経験を積まない限り獲得できない一つの文化資本であり、今なおヨーロッパの特定の階級によって占有されているのではないだろうか。本書の中には夕食会に供された見事なワインについて(ブルゴーニュのピノ・ノワールであることは自分でもすぐわかったと書いてあるが、これさえ私にとっては神業としか思えない)、その場に居合わせた客たちが、ラ・ターシュやリシュブール、エシェゾーなどの名を挙げ、最後に一人がクロ・ド・ヴジョであることを当てたというエピソードが紹介されている。私にはなんのことやらわからないし、書き手を得なければ、単にスノッブの自慢話と受け取られかねないエピソードであるが、フランスには実際にこのようなコノシュアーの層が存在する訳である。そしてこのような感覚はワインについての想像を絶する経験に裏打ちされているはずだ。私はレストランやTVでワインについての蘊蓄を傾ける日本人を見かけた時には失笑を禁じ得ないし、ロバート・パーカーにみられるアメリカ人のワインに対する偏執性も一種の劣等感の裏返しのように感じられる。もちろん、本書で語られるようなワインを囲む豪奢な晩餐はあってよいし、ワイン通だけにわかる利き酒やらワインの楽しみもあってよい。しかし私がワインを好むのは、彼らのようなコノシュアーならずともワインは日常にアクセントをつけ、特別な一日を刻んでくれるからだ。ワインの記憶とは多くの場合、幸せな体験の記憶である。ヴィンテージ・ワインを飲む体験は貴重かもしれないが、ワインをめぐる愉しみは何を飲んだかというよりも、誰と飲んだか、どんな機会に飲んだかといった、付随的な状況に多くを負っているように感じる。かつて80年代のバブル期には有名なワインの銘柄を定めて年代ごとに飲み比べるという「垂直テイスティング」が流行したという。私は貴重なワインをそのようにして消費することの意味がわからない。少し口に入れては吐き出すといういわゆるテイスティングも同様だ。本書で次々に言及される高級ワインを私も飲んでみたいと思わない訳ではない。しかし特に羨ましいとも思わない。もっと手頃なワインでも、それを飲む状況さえ満たされれば同様に美味しく味わえるはずだ。三ツ星レストランを訪ねずとも、自分好みの店を美味しいレストランをいくつか知っておれば幸せであることと同じだ。本書の中で「パペットの晩餐会」という映画への言及がある。パペットという牧師館の家政婦が宝くじの賞金で晩餐会を開く。かつてのパリの名店で働いていたパペットは経験を生かして素晴らしい料理とワインで12人の客をもてなし、彼らの心を開かせるといったストーリーであり、晩餐会の場面でふるまわれたワインはクロ・ド・ヴジョ1846というワインであったらしい。戸塚はこの銘柄を愛好するらしく、いくつかの章でこのシャトーについての言及がある。しかしこのワインを飲んだから人々が打ち解けたのではなかろう。人々が打ち解ける晩餐の場にふさわしいワインとして選ばれたはずだ。先に掲げた私の体験においてもまず場があって、それにふさわしいワインが記憶されているのである。
 「ワイン色の海を眺める幸福感」と題された最初のエッセーはワイン色の海、地中海をめぐるワインの記憶から始められ、オデュセイア、そしてシュリーマンと語り継がれる。以前このブログで論じた鴻巣友季子のエッセーにもワインと文学の類似性を説く興味深い指摘があったが、ワインをめぐる関心は縦横に広がる。空間と時間という対比を持ち出すならば、場所に関して本書の中ではグルジアからイスラエル、ポンペイといった土地とワインとの関わりが論じられる一方で、シトー会の修道院の葡萄畑の区画ごとの微妙なテロワールについて語られる。歴史に関しては世界最古のワインの産地とみなされるグルジアで作りたてのワインを飲んだ体験が回想されたかと思えば、ブルゴーニュのワイン産業の交流に貢献したヴァロワ朝の諸公をめぐる物語が語られる。あるいは具体的なワインの飲み方についての提案としては「ロゼのオンザロックを南仏で」、「シャンパーニュをワイルドに飲んでみよう」といったタイトルにすでに著者らしい工夫は明らかだ。もっとも後者がパリの高級レストランでドン・ペリニョンのミレジムばかり5本を4人で飲み切るというとんでもない晩餐の経験に触発されたアイデアであると知ると、果たして私たちに真似のできる贅沢であろうかという思いはある。しかしおそらく著者の真意は高級なワインを崇めるのではなく、その可能性をいかに楽しむかということであろうから、もっとささやかなレヴェルで同様の実験は私にもできそうな気がするし、本書を読んで私はワインの飲み方のヴァリエーションの奥深さをあらためて知った。前にも記したが、私はワインを常に料理とともに嗜む。「いいワインとは何か」というエッセーの中で著者はワインの健康における効用、そして料理とのマリアージュについて論じているが、パリでは鮮魚を入手することが難しく、それゆえ肉食が増えたことを嘆く。しかし日本では新鮮な海産物を手に入れることはたやすく、一方で肉食についても家畜からジビエまでレストランならずとも家庭料理の中で味わうことができる。世界中のワインを店頭やネットで求めることが可能となった今日、日本はワインを楽しむことに関して相当のアドヴァンテイジがあるのではないだろうか。
 最初に私はワインのない食卓をモネのない美術館に喩えた。本書を通読して私はワインと名画の共通点をもう一つ思いついた。いずれも本来、純粋に官能的な陶酔のために存在し、私たちはそれらをそのように享受すべきなのだ。このような感覚はきわめて個人的であり、同時に金銭的な価値に置き換えることができない。これに対して、絵画やワインを投機、あるいは資産形成の対象とする卑しい発想が存在する。例えばバーネット・ニューマンの代表作の「譲渡手続き」によって「特別利益」を得る発想がそれだ。先にも触れたパーカーによるいわゆるパーカー・ポイントによって格付けされたワインもまたこのような目的に見合っている。正確に言えば、ワインそのものではなくワインを100点満点で格付けるという発想が機械的な尺度として「投機家」たちには理解しやすいからだ。作品を転売する、投機目的で特定の年、特定の銘柄のワインを買い占めることは、絵画やワインから陶酔を味わおうとする立場の対極にある。本書の中で言及され、賞味されるワインは多くが信じられないほど高額であろう。しかし著者はひたすらそれらの官能について論じ、その価格については触れない。(例外的にブリュージュで飲んだコント・ラフォンという銘柄が160ユーロと安かったが、その味はひどかったというエピソードがある)それはヨーロッパの一つの階級に保持された矜持ではないか。著者はフランス人の友人の次の言葉を書き留めている。「僕のロマネ・コンティの一本を1万5千ユーロ(約200万円)で売れという奴がいるんだ。そ奴はもう、3万ユーロで買うという客を見つけているらしい。それを買った奴は5万ユーロで売るのだとさ。僕は売る気は全くないよ」モネの絵画を見ることが視覚の快楽に関わっているように、ワインを嗜む体験も純粋に私たちの官能と関わっている。おそらく現在においてもヨーロッパにはかかる官能を享受するためだけにワインを開栓する階級が存在する。体験においても能力においても彼らに遠く及ばないことを自覚しつつも、私も引き続き純粋に自らのひとときの陶酔のためにワインを愛好したいと考える。昨今、絵画や彫刻を収益の源泉とみなす愚劣な思考が蔓延し、それは「先進美術館」といった醜悪な発想として結実した。しかし優れた絵画や立体は本書で言及されるワインと同様に本質において陶酔と官能の源泉であるはずだ。私はかかる真実をフェルメールやロスコの絵画、セラの立体を通して学んだ。

# by gravity97 | 2018-09-23 21:17 | エピキュリズム | Comments(0)