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# by gravity97 | 2019-01-17 19:54 | MY FAVORITE | Comments(0)

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 このレヴューはいくつかの点でブログの中でも異例となるだろう。まず奥付に2018年12月12日発行という記述があるにもかかわらず、本書を入手することは容易ではないはずだ。一般的な出版のルートに乗らない本書は現在Amazonでも品切れになっている。本書はビルディングスロマン三部作の第一作とのことであり、このような場合、これまで私はあらかじめ全てを読み通したうえでレヴューにとりかかってきた。実際私は数日前から年末年始に読んだ別の小説について、レヴューを書き始めてさえいたのである。しかし本書を読み終えるや、私はなにごとかを書き留めたいという強い欲求に駆られ、続編を待たずしてこの原稿にとりかかることを決めた。
 画家、小林正人についてはもちろん以前から知っていたし、作品にも注目していた。表紙に現在、東京国立近代美術館に収蔵されている1985-86年の《絵画=空》の図版が掲載されているから、作品の片鱗をうかがうことはできよう。多くモノクロームであいまいなイメージがかすかに浮かび上がる独特の絵画は当時にあっても類例がなく、しばしば支持体に留められることなく投げ出されるように置かれたカンヴァスは展覧会場でも異彩を放っていた。この作品を制作した頃、まだ30歳という若さであったはずだが、従来の枠組に与することのない孤高の画家という印象があり、当時より一体何を考えてこのようなとらえどころのない絵画を描くのだろうかと不審と興味を覚えていた。
 本書は1985年、東京藝術大学を卒業した翌年、小林が国立の4階建てのビルにアトリエを借りる場面から始まる。卒業制作に小林は木炭と白ペンキで「天使」を描いた。そして小林はそれらの絵画を並べて銀座の貸し画廊で「絶対絵画」という初個展を開いたという。当時、臆面もなく絵画を発表することへの逡巡は私も理解できる。小林は当時を次のように振り返っている。

絵画は終わった!と言われている時代、藝大の大浦食堂辺りじゃイーゼルの代わりにみんなドゥルーズや浅田彰の本を小脇に抱えてて、学校の中はとてもじゃないけど、パンツ穿いた、頭に輪っかのある天使が描けるようなムードじゃなかった。

 続いて小林は「せんせい」なる女性について、やや謎めいた説明を加えた後、国立のアトリエで「空(そら)の絵」を描き始めたことを記す。絵には枠があるけれど空には枠がないという言葉は暗示的だ。確か同じような時期に丸山直文も空の絵画を描いていたのではなかったか。80年代中盤以降、再びイメージへの回帰が始まる絵画において、空というモティーフが導入された点は興味深い。
 時代はバブル期に突入する。幸運にも「絶対絵画」は銀座の大画廊の専務であった「周吾」の目に止まり、この画廊での個展が決まる。画廊の名前も明記されているし、「周吾」が何者であるかは多少でも現代美術に通じていれば誰でもわかる。バブルの追い風があったとはいえ、小林が佐谷周吾というよき同伴者を得たことは幸運であっただろう。文章からはスランプもあったことも推測される。本書のサブタイトルとなっている「一橋大学の木の下で」とは小林が苦し紛れに野外、大学の雑木林に放置していた《クリスマス・ホワイト》という作品というかパネルを指していると思われるが、作品を風雨に晒すという発想から直ちに連想されるのはデュシャンの《不幸なレディメイド》だ。果たして小林はデュシャンの作品について知っていただろうか。1990年に小林は佐谷画廊で「空戦」という個展を開く。私がこの個展を覚えているのは本書にも収録された印象的なロゴに見覚えがあるからだ。この個展を実際に見たかどうかについては確信がない。しかし辰野登恵子、山田正亮、南嶌宏といった作家や批評家に言及される4月17日のオープニングは盛況であり、個展が成功であったことは容易に想像がつく。
 ここまでが本書の前半だ。中央に作品やアトリエの写真のグラビアをはさんで後半が始まる。「空戦」の会期中、5月3日という日付とともに始まる後半の冒頭で、読者は衝撃的な事実を知る。冒頭で言及される「高校の時の先生でずっと“せんせい”って呼んでいる人(ひと)」が3月3日にバンクーバーで心臓麻痺のため亡くなっていたのである。この訃報を起点として、「せんせい」の関係が回想される。小林は高校で二度にわたって留年し、「今日も明日も全ては靄の中だった。未来のことなんてわからないし、それを本気で見つけようとしてたかどうかもわからない。面白くねえし、なにやってても、これだって感じがしない。ただ性欲だけはくそあるからセックスして渋谷か赤坂で夜を明かして下手な音をかき鳴らすアホかって毎日」を過ごしていた。小林の前に現れた(美術ではなく音楽の)「せんせい」は小林の描く絵が見たいと言って、絵画の世界へと誘う。ある日、「せんせい」は小林を誰もいない自宅に招く。そこには新品の絵具セットとイーゼルとカンヴァスが準備されていた。小林は帰れといわれることをなかば予期しながら「せんせい」のヌードを描きたいと告げる。「俺は早い話『裸が見たい』って言ったわけだ。服を脱がせてアソコも全部見てえ!って言ったんだよ。俺がしたいことはわかっているはずだろ」そして「せんせい」の部屋に入った小林はそこに一糸まとわぬ「せんせい」の姿を見出した。

チューブから色は出さないけど、少しずつ俺は眼でせんせいを描こうとしはじめていた。いや、描こうとしていたっていうより、眼の前の“この美しい何か”をカンヴァスに移そうとしていたっていうのが一番近いかもしれない。生きてるまま、今、感動しているまま。

結局、小林はカンヴァスに何も描けず、白いカンヴァスを「せんせい」に渡す。彼女は「これが小林くんの最初の画ね」という。そして

「せんせいはその年の秋に学校を辞めた。俺は冬に学校を退学になった。画家になろうと決めて藝大には行ったのはそれから三年後だった。」

 このブログの読者であれば、わかっていただけることと思うが、私は基本的にこのような情緒的な文章が好きではない。それにもかかわらず私がこの「ビルディングスロマン」を一日で読み終えて、すでに書き始めていたほかの小説についてのレヴューを中断してまでも論じようとした理由は、ここに絵を描くことへの本質的な衝動がみごとに言葉を通して示されていたからだ。私自身は絵画を制作することはないが、多くの画家の友人がいるし、絵画についての批評に手を染めて来たから、絵画へ向かう衝動とはいかなるものであるか、ある程度理解しているつもりだ。本書にはこのような衝動がまことに劇的に書き留められている。目の前の女性の裸体に「この美しい何か」を見出し、それをカンヴァスに移すことが出来ないもどかしさこそが小林にとって絵画へ向かう衝動であった。裸体、カンヴァス、絵画。あまりにも出来過ぎた話のようにも感じられるし、もちろんここで語られることのすべてが真実だと保証するものはない。しかしここには絵画に向かう初発的な衝動とその困難が一つの体験として語られている。女性の裸体を眼前にして「何も描けなかった」という告白は生々しい。絵画の制作について初心者であったという理由はあるかもしれない。しかしそれ以上にここには絵画の不可能性、描くことの不可能性についての直感的な認識が存在している。

俺がやってたことは、せんせいを見た眼でカンヴァスを見て、その眼でまたせんせいを見て、その眼でカンヴァスを見て…、それだけだ。カンヴァスに眼で描こうとすることしかできなかった。絵の具はまだ自分のモノって感じがしなかった…、筆もパレットもなにも使う気はしない。手を使ってどうするのか、手を使ったら自分になにができるのか、全くわからなかった。

 このような不可能性の認識があったからこそ、小林は「天使」を描き「空」を描き「空戦」を描くことができたのであろう。やがて小林はチューブから押し出されたカドミウムイエローの塊に「絵画の子」を見出す。小林はカンヴァスを張りながら、そこに一つの色彩を塗り込める独特の手法で絵画を、イメージを探求する。

俺はカドミウムイエローライトを手に取って、パレットに絵の具を出すようにカンヴァスの上に直接絵の具を絞り出した。明るい黄色の塊がカンヴァスに乗った。この塊が明るさの素だ。こいつをオイルに溶かしながら光の赤ん坊―子供をつくるんだ。“明るさ”が生まれる場所がこのカンヴァス。画の四角い枠は檻じゃない。檻の中じゃ、生きられない。絵画の子が自由に生きられる画の枠をつくらないと。

 「絵画の子」というのは小林が描いた一連の作品のタイトルでもあるが、私は本書を読んでその意味がはっきりとわかった。それにしても魅力的なタイトルではないか。おそらく小林は不器用な画家だと思う。しかしこの不器用さのゆえに、作家はバブル期のさまざまな誘惑にも、美術界における流行にも流されることなく強度のある作品の制作を続けることができたのではないだろうか。本書の最後の場面で、小林は「絵画の子」の一つの帰結とも呼ぶべき「林檎の絵」を発表する。この作品は来日していた伝説的なキューレーター、ヤン・フートに見出され、フートはベルギーのゲントへ作家を誘う。おそらくこの自伝の次巻はゲントでの制作から語り始められるだろう。
 私は批評を専門としているから、絵画に対して言語と理論で接近する。しかしそれでは決して到達し得ない一つの衝動こそが絵画と密接に関わっていることを知っている。

俺はフォーマリズムだの、プライマリーカラーだの三原色なんてどうでもよかった。せんせいと出会ってなかったらここにある絵の具は一つだって存在しない。カンヴァスも脚立もブロックも椅子もこの部屋も、“全て”消えるだろう。

 個人的な事情から説き始められながら、本書のいたるところに一種の普遍性を帯びた絵画への思い、「絵画の子」への思いが深められていく様子がうかがえ、それは一人の画家の成長の軌跡にほかならない。それゆえ本書は「ビルディングスロマン=教養小説」と呼ばれる。続刊において小林がこれからいかなる遍歴を重ねるか、おおいに気になるところである。さらに本書では意図的に触れられていないエピソードも多い。例えば1988年の夏の一ヶ月、バンクーバーで「せんせい」と過ごしたという記述があるが、この滞在の詳細については本書ではそれ以上触れられることがない。そこで何があったか明かされることはあるだろうか。絵画の本質をめぐって繰り返される問いかけ。芸術家小説といえばロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』や平野啓一郎の『葬送』のごとき大作が連想されるが、本書もまた短いとはいえ確かな風格をもった芸術についての小説、絵画をめぐる自伝小説といえよう。
# by gravity97 | 2019-01-12 22:38 | 評伝・自伝 | Comments(0)

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# by gravity97 | 2019-01-06 22:20 | SCENE | Comments(0)

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 休みが短いこともあり、年末年始の読書は軽め。まずは昨年話題になった『死に山』を読む。サブタイトルは「世界一不気味な遭難事故 《ディアトロフ峠事件》の真相」。表紙の裏に本書のアウトラインが示されている。全文を引用する。

1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム9名はテントから1キロ半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。三人は頭蓋骨骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射能が検出された。最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ―。地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。彼が到達した驚くべき結末とは…!

 この事件についてはすでに知っていた。この事件をテーマとしてレニー・ハーリンが2013年に制作した「ディアトロフ・インシデント」というあまり出来のよくないホラー映画を見ていたからだ。このフィルムの中では当時、ソ連が進めていた極秘の軍事実験、瞬間移動の実験に彼らが巻き込まれたという荒唐無稽の真相が暗示されていた。陰謀史観とSFが合体したような奇怪なストーリーはともかく、凄惨な死を遂げた若者たちの道行を再現しようとしたフィルムの構造自体は本書とよく似ている。しかしそれについては後で論じるとして、まずもう一度、この事件の全体を概観しておこう。
 先に引いた梗概の中にもあったとおり、事件は1959年、冷戦下のソ連で発生した。ウラル工科大学に学ぶイーゴリ・ディアトロフをリーダーとする10名のトレッカーたちは厳寒の1月末、スヴェルドロフスクから鉄道とバスを乗り継ぎ、最後はトレッキングによってウラル山脈北部のオトルテン山に向かった。このトレッキングの難易度は高かった。それというのも彼らはすでにトレッキング第2級という資格を有していたが、今回の踏破によって第3級の資格を獲得し、「スポーツ・マスター」として人を指導する資格を得ることが目的であったからだ。第3級が認可される条件は「最低300キロを踏破し、うち200キロは難度の高い地域であること、旅行期間は16日以上でそのうち8日は無人の地域、6日以上をテントで過ごすこと」であったという。このような前提を知るならば、若者たちが苛酷な自然の中に足を踏み出した理由、そして本書の中でも紹介されているとおり、その行程が多くの写真によって記録されている理由が理解される。残された写真は彼らが今挙げた条件を満たす条件の中でトレッキングを続けていたことを証明する証拠となったはずであるからだ。実際にこれらの写真と、さらに死体の検死をめぐる多くの写真が残されていなかったら、この事件はさほど世間の興味を引くことなく、単なる集団遭難事件として葬られていたかもしれない。難易度の高いコースであったとしても、ディアトロフをリーダーとする男性8名、女性2名のトレッカーたちは経験豊かで若かったから、このトレッキングは決して無謀ではなかったし、無事帰還できると信じていたはずだ。冒頭に地図がある。スヴェルドロフスク州はロシア中部、ウラル山脈に接するように位置しており、ウラル工科大学が所在する州都スヴェルドロフスク、現在のエカテリンブルクは州の南端に位置する。彼らはそこから鉄道で北上し、セロフ、イヴデルという二つの町を経由した後、1月25日の早朝、バスに乗り換えて、ヴィジャイという町に向かう。ここから彼らは無人となった木材伐採作業員の寮や地質学調査用居住地に宿泊しながら雪原へと赴いた。1月28日にリウマチで腰を痛めていたユーリ・ユーディンは一行から離脱し、残り9名のメンバーはスキーで氷結したロズヴァ川を北上し、ついでアウスピヤ川に沿って進むが、雪が深くなったためスキーでの前進が困難となる。1月31日の夜、アウスピヤ川の上流にキャンプを設営した後、翌2月1日に一時的な物資保管シェルターに不要の物資を残して、オトルテン山へ向かう。午後3時に後にリーダーの名を取ってディアトロフ峠と呼ばれることとなる場所にスキーで到着する。日没は午後4時58分。彼らはホラチャフリ山の標高1079メートルの地点にテントを設営した。事実関係がわかっているのはここまでだ。2月1日の夜に何かが起きて、メンバーの全員が死を遂げた。不審に思われる点は冒頭の引用に記されたとおり。まず極寒の場所であったにもかかわらず、多くの若者が衣服や靴を身に着けていなかったこと、数人はひどい外傷を負っており、その中の一人、胸部に打撲を受け肋骨を折っていたリュダ・ドゥビニナの死体からは「舌がなくなっていた」。さらに後の検死の過程で数名の衣服が高い濃度の放射能で汚染されていたことが判明した。一体どのような事情がこのような凄惨な死をもたらしたのか。インターネットを検索すれば直ちに明らかになるとおり、彼らの死をめぐる異様な状況は超常現象のマニアに格好の話題を提供した。UFOと宇宙人の襲撃に始まり、イエティとの遭遇、さらにはハーリンのフィルムに描かれたように秘密軍事実験の巻き添えにされたという説、先住民や脱獄囚による襲撃、放射能廃棄物による被曝。
 謎の探求をひとまず措いて、本書の構造を確認しておきたい。著者のドニー・アイカーはフロリダ生まれでカリフォルニア在住のドキュメンタリー映像作家である。彼は別の映像作品の調査の過程でたまたま知ったこの事件に魅せられて、インターネットで入手可能な情報をあらかた渉猟した後、ついに現地での調査に乗り出す。何度かの予備的な調査を経て、現地で信頼できる人脈と準備を得たうえで、2012年にアイカーは事件の現場、ディアトロフ峠へと向かった。この探索がディアトロフたちと同様に冬季に行われたことは間違いないが、なぜか本書には正確な日付がない。あるいは本書には多くの写真が収録されているが、それらは全て59年のディアトロフの遭難と関連した写真であり、2012年にアイカーが撮影したであろう写真は収録されていない。(厳密に言えば謝辞の中に2012年2月、ユーリ・ユーディンの肩を抱いたポートレートが一枚だけ掲載されている)本書の中で詳しく語られるとおり、大変な苦労とともに続けられたディアトロフらのトレッキングの追体験に関して一枚の証拠写真さえ添えられていない点は本書の信憑性に関わり、日付の欠落とともにこの種のドキュメントにとって致命的な瑕疵となりうる。しかし本書を通読するならばおそらくは同行した関係者への何らかの配慮によって意図的に場所や時期が特定されることを避けたと推測される。21世紀に入った今日においてもソ連とそれに続くロシアの体制下では語りえない事柄があることを本書は問わず語りに示しているように感じられた。それはさておき、本書がほぼ同じ時期に制作されたハーリンのフィルムと同じ説話的構造をとっていることは興味深い。ハーリンのフィルムにおいても登場人物たちはディアトロフ峠事件の真相を解明するために、再びその地に向かい、ミイラ取りがミイラになるように同じ恐怖を体験することとなった。手ぶれの多い記録映像、素人めいた映像の編集はかつて「ブレアウィッチ・プロジェクト」で用いられた疑似ドキュメンタリーの手法を踏襲しており、実際のディアトロフらの記録映像(この映像がフェイクであったかどうかは私には判断できない)との重複は、フィクションと現実の審級を混同させてそれなりの効果を上げていたように記憶する。もちろん2012年のアイカーの調査の際にはディアトロフたちを襲ったような事件は起きなかった。本書においてはディアトロフ峠再訪をクライマックスとするアイカーのロシアでの体験―最初は徒手空拳でロシアに赴き、「ディアトロフ財団」の理事長、ユーリ・クンツィエヴィッチらと個人的な親交を結び、ついにはただ一人途中で引き返したために生き延びた10人目のメンバー、ユーリ・ユーディンと面会するエピソードを含む、いくつものエピソードがほぼクロノロジカルに語られる―と、残された資料から明らかになる1959年1月23日から年2月1日の夜にいたるまでのディアトロフらのトレッキングの詳細、そして彼らが音信を絶ってから始められた捜索と遺体の発見、検死から埋葬にいたる事件の後日談の三つのフェイズの物語がシャッフルされて記述される。ホラチャフリ山(先住民のマンシ族によって「死の山」という不吉な名で呼ばれ、本書のタイトルの由来であるが、単にこの山に草木が生えないことを反映したに過ぎないという)の事件現場、通称ブーツ岩に向かう2012年のアイカーの道行きも1959年のトレッキング同様にロシアの厳しい冬に翻弄され、二つのエピソード、時を隔てた二つの雪中行は本書の中で意図的に重ねられる。難行の果て、アイカーはようやくホラチャフリ山の遭難現場へとたどりつく。このエピソードは装備や車両が圧倒的に近代化された今日でさえ「死の山」を踏破することが並大抵でないことをうかがわせる。
 本書においてはこの遭難事件と関連して多くの謎が示される。例えばディアトロフ一行を捜索中の捜索隊および近隣の住民はしばしば気象観測ロケットらしき物体の飛行や空中を移動する火球を目撃する。これらの飛行体もしくは大気現象は果たして事件と関係があったのか。一行の一人、ゲオルギーが残した最後の写真には不明瞭な光源がとらえられていた。この写真は何を撮影しようとしたものか。あるいは彼らが設営したテントには外部ではなく内部から切り裂かれた形跡があった。つまり若者たちは何かを逃れるために、テントを開ける時間さえ惜しんで、十分な衣服も着けないで酷寒の野外へ飛び出したと推定される。一体どのような切迫した状況がこのような事態をもたらしたのか。さらにはこの事件に関して当局は事態を鎮静化させようとした形跡がある。それは単に人々のパニックを抑えるためであったのか、それとも当局は何か核心的な事実を握っていたのか。これらの謎が人々の妄想を肥大化させ、半世紀後には一篇のハリウッド映画にまで結実した訳であるが、アイカーは本書の最後で一つの可能な解釈を提示する。アイカーは最初に彼が「シャーロック・ホームズの原則」と呼ぶ方法を用いて推理を重ねる。すなわち「不可能を消去していけば、どんなに突拍子もなく見えたとしても、あとに残った可能性が真実である」というものだ。この原則に従って、アイカーは選択肢を一つずつ消去する。まず先住民族であるマンシ族による襲撃という説はマンシ族のテリトリーと温和な性格からしてありえない。最も可能性の高かった雪崩という説も現地でアイカーが計測したテント設営地の傾斜角からして否定された。強風についてはどうか。全員が吹き飛ばされる可能性は低く、しかも遺体の一つが帽子をかぶっていたという事実に反する。そもそも雪崩や強風を原因とみなす発想と彼らが衣服をつけていなかった状況は整合しない。一時真剣に検討された武装集団による襲撃という可能性についても遭難場所の位置からそのような接触はありえず、さらにアイカーは遺体の外傷や舌の欠損についても事故や腐敗現象によって説明がつくと論じている。兵器もしくは放射能関係の実験の場に彼らが居合わせたという説に対してもいくつかの証言を根拠に否定され、そもそも彼らが放射能に汚染されていたという事実自体が怪しいという主張がなされる。さらにアイカーは当時のソビエト政府がなんらかの秘密を握っていたとする風評に対してもグラスノチを経過した今日、そのような証拠は存在しないと断言し、最後にエイリアン説を「可能性がないとはいえないが、それは幽霊や地の精と同様である」として否定する。アイカーの消去法はまことに面白みに欠けるが、一定の妥当性がある。結果として不可能を消去したら、後には何も残らないという状況が生じた。ここでアイカーはもう一度原則に立ち戻り、「最も可能性が高いというより、最も不可能性が低い答え」を検討する。彼によれば、それは雪崩ではないとしても何らかの自然現象であり、最終的に彼は一つの可能性に想到する。このような可能性は(雪崩という可能性がキャンプ設営地の傾斜角よって否定されたことと同様に)ホラチャフリ山の現場を訪れなければ確認できなかったから、ディアトロフたちのトレッキングを2012年に追体験することは大きな意義があった。アイカーは本書の最終章でこの仮説に基づいて2月1日の夜、ディアトロフ一行を襲った悲劇の全貌を再現してみせる。アイカーの仮説の詳細についてここでは触れない。ただしそれによってディアトロフ峠事件の全貌が解明されたかという点について私はなんとも判断しかねる。確かにエイリアンや秘密兵器実験よりは説得力のある説明かもしれない。しかしそれによってパズルのピースがすべて収まるかといえば、アイカーの結論もそれほどの説得性を備えてはいないように感じる。
 本書の読みどころの一つは資料に基づいて再現されるディアトロフたちのトレッキングの詳細だ。汽車の中ではマンドリンに合わせて歌を歌い、セロフという町では小学校の子どもたちと交流し、雪の中に残されたマンシ族の道標を解読しながら目的地へ向かって進んでいく若者たちの姿はそれだけで一篇のロード・ノヴェルである。私たちは本書を通して共産主義下のソ連における若者たちの生き生きとした営みに触れ、それゆえ彼らを襲った悲劇に関心をもつ。彼らに比べて、アイカーが訪れた現在のロシアは疲弊した印象がある。それは単に事件の資料を確認し、証人を探すアイカーの疲労と徒労を反映しているのだろうか。生き残ったユーディンはアイカーに対してスターリンを含めて共産党時代への強い郷愁を語る。本書を離れるが、私は今世紀に入って人々が暗い時代への郷愁を語り、強い指導者を求める風潮が高まっているように感じる。それは自由を与えられながらも、格差と分断が進む中で私たちが抱く閉塞感と深く関わっているだろう。スターリンの名前が挙がったところで、最後に本書ではほとんど前景化されないが、通奏低音のごとく本書に不吉な影を落としている一つの主題について触れておきたい。ディアトロフたちはトレッキングの途中でイヴデルという町を経由した。スターリン時代、イヴデルには100近いグラーク、つまり強制収容所があり、そのほとんどが政治犯の監禁と拷問のために使用されていたという。アトカーによれば今でもイヴデルの地域経済は行刑制度を中心にまわっており、死刑がなくなった現在、かつては処刑されていた囚人たちがロシアで最も辺鄙な収容キャンプで終身刑を務めているという。この地域にかつてソルジェニーツィンが「収容所群島」で描いた悪名高きグラークが多数配置されていたことに疑いの余地はない。「武装集団による襲撃」という仮説が提起された背景には、かかる体制下においてこの地域に収容所という暴力装置が稼働していたことがあるだろう。史実を繙くならば、フルシチョフによるスターリン批判は1956年のことであったから、ディアトロフ峠事件はその三年後、スターリン体制が緩みつつある微妙な時期に発生していることがわかる。先に触れたトレッカーたちの生き生きとした行状にもそれは反映されているかもしれないが、なおもスターリニズムの秘密主義は社会を覆っていたはずである。この事件が長く知られることなく、最近になって注目を浴びた理由もこのようは背景に負っているかもしれない。スターリンの時代とは人の死が単なる数字として扱われた時代であった。センセーショナルなタイトルとはうらはらに、本書は閉ざされた旧ソ連で非業の死を遂げた9人のトレッカーたちを数としてではなく、個性と魅力にあふれた若者たちの群像としてよみがえらせた点において、鎮魂と再生の書といえるだろう。
# by gravity97 | 2019-01-04 20:53 | ノンフィクション | Comments(0)

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 秋から冬、関東で興味深い展覧会をいくつも訪れる。フェルメールやムンクは最初から訪れるつもりはなかった。このブログでも何度か記したが、展覧会を訪れて、その場でなにごとかを思考するためにはある程度の余裕が必要だ。雑踏でごった返す世界の大美術館や日本で開かれるブロックバスターの大展覧会は、そこに特定の作品が出品されていることを確認する場ではあっても、作品を介して、展覧会を介してなんらかの思索を深める場ではないからだ。今回は今年最後の展覧会レヴューとなるから、引き続き開催中の展覧会を含めて今後あらためて論評するか否かはともかく、私が訪れてそれなりの感銘を受けた展覧会について最初に書き留めておく。まずは東京国立博物館における「マルセル・デュシャンと日本美術」は必見の展覧会であった。フィラデルフィア美術館のアレンズバーグコレクションによって構成されたデュシャンの回顧展は、最後の日本美術のセクションが必要であったかという疑問は残るし、そのためか博物館で開催されたことに対する嫉妬じみた批判が多く見受けられるが、日本で開催されたデュシャン展としてはかつてない充実した内容であった。展示と解説も十分に練られていたように思う。続いて森美術館の「カタストロフと美術の力」も感動的であった。阪神大震災、9・11、東日本大震災、原子力災害とカタストロフが日常化された世界において美術はそれに対抗しうるか、アドルノの箴言にも連なる問題を扱った展覧会については、カタログに目を通したうえであらためて論じてみたいと考えている。ところで今年は1968年から半世紀の節目である。学生叛乱、未完の革命から半世紀を経て当時を振り返る企画がなかった訳ではない。例えば筑摩選書として刊行された『1968[1]文化』についてはこのブログでもレヴューしたとおりである。千葉市美術館で開かれた「1968年 激動の時代の芸術」は正面からこの時代を扱った展覧会であり、資料的価値に富んだカタログとともにきわめて興味深い内容であった。そしてこれらの展示と比しても、さらに興味深く感じられたのは東京国立近代美術館で現在も開催中の「アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960-1990年代」である。今回はこの展覧会を中心に、千葉市美術館の展覧会にも触れながら若干の所感を書き留めておきたい。
 例によってまず形式的な点を確認するならば「アジアにめざめたら」は東京国立近代美術館、韓国国立現代美術館、ナショナル・ギャラリ―・シンガポールによって共同企画され、この順に巡回する展覧会である。正確にはこの三館に日本の国際交流基金アジアセンターも共催に加わり、同様の枠組による展覧会としてはかつて「アジアのキュビスム」がある。地域として日本からインド、体制として中国と台湾をともに含む展覧会の実現が容易でなかったことは私でも理解できる。まずは関係者の労を多としたい。そのうえで展示を見た感想を一言で述べるならば、一つにはこれらの地域の現代美術がきわめて近似していることへの驚き、そして一方でその中で日本だけが早々とポスト・モダンへと抜け出したことへの驚きがある。しかしこのような印象は慎重に検証されなければならない。つまりこのような近似は果たして必然性を有するか否か、そしてそもそもモダニズムとポスト・モダンといった西欧に由来する概念をアジアに適用することに積極的な意味を見出すことはできるのかという問題だ。
 カタログの冒頭に掲げられたラジェンド・グールというシンガポールの作家の《眼》と松本俊夫の《つぶれかかった右目のために》という二つのヴィデオ作品、あるいは野村仁の《ドライアイス》とやはりシンガポールのタン・ダウの《溝とカーテン》、ほぼ同じ時期に制作され、形式においても内容においても近似した印象を与える。同様の例はカタログを繰るならば枚挙にいとまがない。しかしおそらく重要な点は個々の作品における類似や影響関係ではなく、東南アジアというさらに広いコンテクストにおける共通性であり、それが西欧のモダニズムという文脈に対していかなる違和を突きつけるかという点ではないだろうか。このよく練られた展覧会とカタログはこの問題に対して的確な見取り図を提供してくれるように感じた。カタログの冒頭に地図と年表が掲出されている。地図はいうまでもなく展覧会が対象とする地域であり、東は日本から西はインド、中国を北限として南はインドネシア諸島にいたる広い地域がカバーされている。インドを除けば私たちが東南アジアと呼ぶ地域とほぼ一致する。一方年表に頻出するのは革命、戒厳令、政権崩壊、あるいはX事件と表記される様々の騒乱や蜂起の記述であり、この地域の半世紀が軍政や暴力と密接に結びついてきたことを暗示している。担当したキューレーター三名の連名による冒頭の総論はきわめて明晰にこの展覧会の知的な枠組を提起している。(この論文はおそらくは英語で執筆され、今回の展示であれば日本語に翻訳されている。この点は東南アジアにおけるリンガ・フランカが宗主国アメリカで使用される言語であることをはしなくも露呈しており、以下の所論とも深く関連している)それによれば、60年代から90年代にかけてのアジアの地政学は三つのコンテクストによって読み解くことができる。一つは民主化、もう一つは脱植民地化、そして反モダニズムである。最後の反モダニズムには注釈が必要であろう。それは80年代以降日本で流通する口当たりのよいポスト・モダンとは無縁の、土着的で過激なアンチ・モダニズムである。続いて企画者たちはこのようなコンテクストに立つ作家たちの戦略をやはり三つのキーワードによって説明する。すなわち「都市」「集団行動」「コミュニケーション」である。ジャンルや国籍を超えたこれらのキーワードを設定することによって、本展で扱われる美術の特色が明らかとなる。すなわちそれらは消費文化や社会問題と関わり、もはや美術館での発表を前提としていない。個としての芸術家ではなく集団による示威的な行為と関わり、社会運動やプロテストと親和性をもつ。形式としてはパフォーマンスやインターメディア的な手法と関わり、実体的な作品を想定していない。美術館、作家という主体、実体的な作品をいずれも否定する趨勢がモダニズム美術の否定であることは明らかだ。
 続いて方法論が論じられ、この展覧会で用いられる二つの方法が強調される。一つは複数性と比較、つまりこの地域の美術のいずれかに優位性を認めることなく、複数の美術を比較の中に検討するという態度、そして執筆者たちが「脱植民地化」と呼ぶ手法、すなわちそこに成立した表現に西欧的な用語を当てるのではなくそれぞれのコンテクストで語ること、近年の「グローバル美術史」の中で見過ごされがちな「ローカルなもの」に注目する姿勢である。これらの方法もまた一連の作品に優位性を与えて美術史を編成してきたモダニズム美術史観への根底的な批判といってよかろう。最後に展覧会の構造について具体的に「主題というよりも提案」として次のような三つの道筋と具体的なテーマが設定されている。やや煩雑にも感じられようが、作品を追ううえでの助けとなるので、すべて列挙する。すなわち「構造を疑う」という問題に関しては「美術の境界」「再物質化」「メディアとしての身体」。「アーティストと都市」という問題に関しては「資本主義批判」「都市生活を攪乱する」。「新たな連帯」という問題に関しては「アート・アクティヴィズムと社会運動」「集団行動とアートの実践」「ジェンダーと社会」「歴史と新たな関係を再考する」というテーマである。
 以上の枠組を把握したうえで、作品を具体的に確認しよう。最初の「構造を疑う」というセクションにおいて私たちは通常の意味における絵画や彫刻に出会うことはない。この点はこの展覧会を特徴づけている。つまりこの時代の東南アジアにおいてはジャンルを超え、多くは実体化されない美術が一つの主流を占めているのである。挑発的な視点であるが、展示を一覧するならば首肯できる発想である。しかしこのような美術を回顧し、検証することは困難であろう。なぜなら私たちは絵画、彫刻といったジャンルに拠る美術史に慣れてきたし、実体化されない作品は展覧会において再現することが困難であるからだ。この点は近似した問題意識に基づいて企画された「アジアのキュビスム」と比較する時、明らかである。「アジアのキュビスム」においては最初から絵画、キュビスムという準拠枠が設けられており、岡崎乾二郎の言葉を用いるならば、アジア各国から「見かけだけが類似した作品を片端からリストアップ」することによって展示を構成することが可能であった。しかし今回の展覧会においてはまず作品の共通性は何によって担保されるかが問われる。このセクションでは「美術の境界」と「再物質化」というタイトルが示す通り、一方では作品が行為へと解消されていく方向、一方では作品が物質の中に回収されていく方向の作品が出品されている。ここで作品は行為と物質の間に存在し、二つの方向も必ずしも明示的ではない。土や火、水といった元素的な素材が多用されていることにも留意しよう。イ・スンテクの川面で燃え上がるカンヴァス、キム・グリムの芝生を燃やすパフォーマンスからチェオ・チャイヘンのインストラクションによる「絵画」、中西夏之のコンパクト・オブジェから一連のもの派の仕事へいたる多様な作品は以上のような理由によって一つのパースペクティヴの中に収められる。ここでいう「再物質化 rematerialisation」とはおそらくルーシー・リパードの「非物質化 dematerialization」という概念に対応し、欧米の60年代のモダニズム批判とは「別の基準」を提案している。そこで提起されるのが「メディアとしての身体」であり、私は身体への物理的圧迫という点において張照堂と郭徳俊、基準としての身体という点において植松奎二とイ・ゴニョンの作品の類似に驚いた。私はかねてより日本の戦後美術においてまさに「メディアとしての身体」が様々な局面において突出することが気になっていたが、このような特性はアジア全体に認められるのであろうか。そしてそこで提示される身体はオノ・ヨーコの《カット・ピース》に象徴的に示されるとおり、しばしば暴力や受動性というモティーフと関わっていることにも留意しておきたい。
 続く「アーティストと都市」というセクションも刺激的であった。この展覧会が対象とする時代、アジアでは急速に都市化が進行し、いずれの国においても資本主義体制が成熟した。しかも多くの国においてはこのような「近代化」は軍政もしくは独裁政権と密接に関わっていた。「資本主義批判」というテーマが設定される理由はこの点にある。これらの強権的な政権はアメリカの支持を前提として初めて存立しえたから、作品の中にアメリカは微妙な影を落としている。ウォーホルがあっけらかんと描いた大量生産品、例えばコカコーラが一種の屈折と共に作品に導入されている点は興味深い。韓国のパク・ブルトン、インドネシアのアラフマイアーニという初めて名前を聞く二人の作家のいずれもコカコーラを用いた作品に、今回は出品されていないが篠原有司男の《コカコーラ・プラン》のごとき作品を重ねる時、このような屈折は明らかである。あるいは展覧会の中で中国の王晋という作家の《氷》という作品の記録写真が展示されている。都市の中に氷のブロックを重ねて壁を築くという発想は(作家が知っていたかどうかは不明であるが)アラン・カプローのハプニング《流体》を直ちに連想させる。しかしこちらの氷の中には様々の商品が埋め込まれており、群がる人々は溶けた氷を突き崩してそれらの品を持ち帰ったという。氷の壁、壁とは万里の長城が暗示する中国のメタファーであるし、壁の崩壊とはベルリンのそれを連想させる。まことに喚起力のある作品であるが、街路に壁を築くことは都市空間への介入と考えることもできよう。いうまでもなくここで私はリチャード・セラを念頭に置いている。中国の林一林という作家もまた街路に壁を築く。《広州市林和路を安全に渡る》と題されたパフォーマンスはセラの暴力性とは対照的なユーモアに富んでいる。文字通り、作家は自動車の通行の多い道路を横断するのであるが、その際には50個ほどの煉瓦を積み上げて壁を作り、それらを一つずつ自らの手で移しながら壁を移動させる。煉瓦とはカール・アンドレが好む素材であり、無意味な動作の反復は一連のボディ・アートの主題であったことも連想されよう。このようにここで紹介される作品は多く欧米のモダニズム美術と多様に共鳴しつつも、アジア的な混沌へと回収されていく。確かにこの時、都市という主題がかかる混沌に言葉を与えるかもしれない。林一林のパフォーマンスからハイレッド・センターの一連のアクションを連想することは容易であり、実際に両者は展示において併置されているが、今回の展覧会ではさらに過激な二組の作家集団の映像が紹介されている。すなわちガスマスクを装着して全裸で行進する含むゼロ次元のアクション、そして袋を頭から被って処刑囚のごとき扮装をした男たちが繁華街を練り歩く台湾の陳界仁のアクションである。15年ほどの時を隔てた二つのアクションは、前者は公然猥褻、後者は戒厳令下の許可なき集会のゆえに公権力の介入を招くこととなるがもちろんいずれも確信犯的な行動であり、都市という公共空間と自由の関係を問うている。それにしてもこの二つのアクションの相似性はどうだ。今回のカタログに収められたテクストの中ではたとえばシンガポールのキューレーターがゼロ次元について、日本のキューレーターがフィリピンの作家について論じているが、おそらく彼らもこれらの暗合に驚いたのではないだろうか。なぜアジアの現代美術が公共圏の確認という都市論的な発想において一致したか。それはこの時代、アジアの都市空間が圧政に対する反抗と革命の場であったからではないだろうか。この点で先に挙げた千葉市美術館の展覧会は興味深い参照項となる。きわめて入念かつ重層的に構成された千葉における展示を私はこの一面のみにおいて検討するつもりはないし、可能であれば個別の展覧会レヴューとして論じてみたいが、少なくともそこからは日本にもこのような叛乱と市民革命が可能であった時期が存在していたことが理解される。幸運にも日本には軍政も戒厳令も敷かれることはなかったが、そこに1970年の大阪万国博覧会の影が色濃く落ちていた点は興味深い。オリンピックに続く破れかぶれのお祭り騒ぎとして、今後何十年にわたってこの国を疲弊させる万国博覧会の開催が決定した今日、私たちは先人たちのアクションから何を学ぶべきであろうか。さらに言えば、悪政と弾圧に対して、市民が首都の街区で、基地建設が進められる土地で声を上げる状況は今やパリと沖縄で正確に反復されているではないか。
 かくして私たちは「新たな連帯」と題されたセクションに進むことができる。ここではアジアの様々な地域におけるアクティヴィズムが運動や集団、ジェンダーにおける連帯の問題として紹介される。表現の手法は様々である。木版画、いわゆる韓国の民衆美術、モニュメント、しばしば民衆の教化という目的で制作されたこれらの表現はモダニズムの規範からは大きく逸脱するが、強い存在感とともに私たちを鼓舞する。多様なテーマと関わり、具象的、図解的な要素の多い作品群は今日、グラフィズムやルポルタージュといった概念とともに新たな視点から考察されていることは知られているとおりであり、その一端はかつて同じ美術館で開かれた「実験場」という日本の1950年代美術に関する展覧会においても検証された点である。「構造を疑う」のにおける受動性あるいはヴルネラヴィリティ、「アーティストと都市」における攻撃性に代わり、このセクションではよりポジティヴな一種の連帯性が主題とされ、その射程はさらに広い。キーワードは「コミューン」であろう。この概念を導入することにより、松澤宥とプレイ、中国の反体制芸術コミューンといった時代も表現も全く異なった作家や集団が一つの視界の中に浮かび上がる。近年コレクティヴによる表現が注目を浴びているとはいえ、確かに集団による表現は欧米の同時代の美術においては例外的であった。ただし私はここで別の補助線を引くことができるのではないかとも考える。例えば1970年代にモスクワで活動した「集団行為」のごとく、以前このブログで論じたクレア・ビショップの「人工地獄」で言及された作家集団である。ビショップが言及する作家たちが60年代のラテンアメリカ、70年代の東欧に多かったことについてかつて私はそれらが「いずれも軍事政権や共産主義国家の圧政が支配する全体主義社会であった」と指摘した。この展覧会は必ずしも「人工地獄」の主題であったパフォーマンスに特化した内容ではない。しかし今述べた地域とここで紹介されたアジアの政治状況の相似性を考慮するならば、非民主的な地域における身体的表現の優越は興味深いし、それに従うならば、日本にモダニズム美術が定着しなかった理由は天皇制の存続と無縁ではないかもしれない。
b0138838_20584157.jpg 「アジアにめざめたら」と「1968年 激動の時代の美術」のカタログを手に取る時、私たちは両者の近似を意識せざるをえない。後者においてももはや名状しがたい作品が紹介され、都市で繰り返された時に過激、時に祝祭的な表現が総括され、「プロヴォーク」から「万博破壊共闘」にいたる運動や集団、結社が紹介されている。ゼロ次元ともの派というおおよそテイストの異なる二つの集団に多くの頁が割かれている点は、両者が単に時代として同期したのみならず、彼らの活動がいずれの展覧会においても二つの焦点を形成していることを暗示しているだろう。後者にあって前者に認められないのは漫画とグラフィックであるが、これは出版文化が成熟した時期と関わっているだろう。「アジアにめざめたら」で扱われた各国の美術を時間軸に置き換えるならば、日本は他の諸国より10年から20年程度先進していた印象があるが、これは戦後の日本がまがりなりにも「民主化」され、いち早くアメリカ文化を取り入れたことに負っているだろう。1968年の日本の文化状況をアジアの戦後美術の核心とみなしても、決して強引ではないことを私はたまたま同じ時期に開催された二つの展覧会から学んだ。観念性と土俗性の間で、個人と社会の間で、引き裂かれ、分裂した状態こそがアジアの戦後文化であるが、モダニズム美術が相対化されつつある現在、このような特性がいかなる意味をもつかという点は引き続き問われてもよかろう。企画者たちは冒頭のテクストの最後でこの展覧会が「ローカルなものを前景化し、アジアの複数の現場のあいだに美術史・コンセプト・形式面での共鳴や結びつきを求めて、複数のグローバルな美術史を土台から築き上げる方途とする展覧会である」と表明している。この展覧会について私はかなりの紙数を費やして論じたが、なおも語り足りない問題はあまりにも多い。アジアにおける日本の現代美術の特性を論じるにあたって、あらためてその出発点を画す画期的な展覧会であった。
# by gravity97 | 2018-12-25 21:03 | 展覧会 | Comments(0)