桐野夏生『夜の谷を行く』

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 独特のひりひりした感覚が苦手なためであろう、桐野夏生の小説はこれまであまり読まなかった。それでも本書を手に取ったのはいうまでもなく主題に興味をもったからだ。本書では連合赤軍事件、とりわけ山岳ベースでのリンチ殺人という重い主題が扱われている。

 しかし桐野はこの主題を正面から扱うことはない。ここで導入されるのは事後の視点だ。事件が発生した半世紀前ではなく、現在を生きる事件のサヴァイヴァーの姿が描かれる。主人公の西田啓子はかつて京浜安保共闘の一員として凄惨なリンチ殺人に立ち会い、裁判を経て刑務所で服役し、釈放された後はひっそりと暮らしている。以前は小さな学習塾を開いていたが、それを閉めた後、スポーツジムと図書館に通う以外、社会とのつながりを絶ち、一見静穏な日々を送っている。事件の関係者は実名が記されているが、主人公に具体的なモデルがいるかどうか私は判断できない。しかし63歳という年齢が明記されている以上、啓子が生きる現在が私たちの現在とほぼ同期している点は直ちに理解される。物語は風呂上がりの発泡酒を唯一の楽しみとする啓子のささやかな日常を点描することから始まる。しかしその日常に再び半世紀前の事件が影を落とし始める。まず連合赤軍事件の指導者の一人であり、死刑が確定していた永田洋子が病死したことを新聞が伝える。次いで当時の関係者の一人、熊谷千代治から事件について調べている古市というフリーライターとの接触を求める連絡が入る。さらに事件当時、事実婚の関係にあった久間伸郎からも電話がかかる。久間も活動家であったが拘置所に収監されていたため、山岳ベースには啓子が一人で参加することになったのであった。山岳ベースでの惨劇をめぐって、あるいは公判における証人申請をめぐって啓子と久間は非対称な関係にある。熊谷から久間の生活が逼迫していると聞かされていた啓子は数十年ぶりに久間と会うことを決意する。

 この小説は現実に起きた事件に基づいているため、いたるところで現実と接点を取り結ぶ。例えば、今、永田洋子の名をインターネットで検索するならば彼女が死亡した日付が201125日であることが直ちに判明する。熊谷が語るとおり、「大事件のマニアであれば関係者の動静を、住所や電話番号から日常にいたるまでこっそり探ることが可能な時代」の到来も本書の隠れた主題かもしれないが、それはさておき、この日付を目にするならば、私たちは現実においてその一月後に何が起きるかを知っている。啓子は三月の第二週、金曜日に新宿で久間と待ち合わせ、かつての夫のホームレスすれすれの窮状に驚く。二人は中村屋のカレーライスでささやかに再会を記念する。そしてその場で二人は東日本大震災に遭遇する。続いて描かれる震災後の東京の混乱、余震と原子力災害、計画停電が相次ぐ不安な日々を私は本書を読んで久しぶりに思い出した。震災の当日、おそらく帰る家もないだろう久間を啓子は一晩だけという約束で自宅に泊める。震災も久間も啓子の日常には決定的な影響を与えることなく、震災後の不安な日々はじりじりと過ぎていく。

 連合赤軍事件の後、当事者たちが家族から義絶され、あるいは家族が時に自殺したことを私たちは事実として知っている。啓子もまた服役中に父を肝硬変で亡くし、母もまもなく亡くなっている。しかし妹の和子、和子の娘で姪にあたる佳絵の二人は啓子となおも行き来がある。ただし和子は事件のために離婚を余儀なくされ、佳絵は啓子の事件のことを知らない。和子も必ずしも啓子を許した訳ではない。二人の関係は時にざらつき、実際に物語の中で二人は決裂に近い諍いさえ何度も経験する。妊娠した佳絵の結婚が決まり、結婚式をサイパンで挙式する計画が立てられるが、啓子の参加をめぐって啓子は自身の過去を佳絵に告白する。告白を聞いた佳絵がその場でスマートフォンを手に事件を検索しながら啓子を問い詰める場面はなんとも当世風だ。震災が発生したこともあり、結局サイパンでの挙式は見送られる。式への出席をめぐる騒動の中で啓子と和子親娘の関係は悪化し、啓子と和子は深刻な言葉の応酬さえするが、関係を絶つにはいたらず、佳絵から誕生した娘の写真がメイルで送られてくるというエピソードが終盤に挿入される。

 社会との接触を断っていた啓子であったが、和子たちとの諍いによる寂しさのためであろうか、長い自制を破って事件の関係者と会うことを決意する。熊谷から紹介された古市というライターと接触した啓子は、山岳ベースから自分と一緒に脱走した君塚佐紀子の近況を古市に尋ね、彼女が結婚して苗字を変え、夫や子どもたちと三浦半島で農園を経営していることを知る。古市を介して再会の許しを得た啓子は一人で君塚のもとへ向かう。仲間同士でのリンチ殺人が続けられていた山岳ベースからの逃走は裏切りであり、この意味においても啓子と君塚は死者たちに負い目を感じている。ほぼ40年ぶりの再会はこの小説の一つのクライマックスであり、二人は当時を回想しつつ自分たちの半生を振り返る

 啓子の中で事件は風化せず、過去は啓子を苛む。佳絵の結婚写真を届けに来た和子との間の言葉の行き違いに始まった刺々しいやり取りの中で啓子は父親の死が事件を苦にしての自殺同然の病死であったことを初めて知る。君塚と同様に古市を介して連絡を取ろうとした当時のもう一人の関係者、金村邦子は啓子との面会を拒絶し、古市に自らの思いを記した手記を託すが、その中には思いもかけなかった啓子に対する激しい反感が記されていた。物語の最後で古市は啓子を事件が起きた迦葉山ベースへの再訪へと誘い、啓子は古市の車で時の経過とともに変わり果てたかつての山岳ベースの跡へと向かう。一番最後の場面で一つの秘密が明かされるが、ここでは記さないでおく。

 私としては珍しく、この小説のあらすじをかなり詳細に記した。ただし最後の場面も含めて、小説全体に隠された一つの秘密についてはあえて触れていないし、ほかにも多様なエピソードが散りばめられているから、このブログを読んだとしても小説自体は十分に楽しめることと思う。最初に事後の視点と述べたが、これは厳密には正しくない。視点は2011年という現在に置かれているが、啓子の回想や悪夢、金村の手記といったかたちをとって随所で「あの事件」が再来する。このうち金村の手記は金村にインタビューした古市が書き起こした手紙というかたちで啓子のもとに届けられるから説話論的にはかなり複雑な構造をとる。実際に古市は啓子との対話の中で、インタビューの内容の一部をあえて省略して手紙に書き起こしたことを告白している。一方で啓子の悪夢または回想として語られる山岳ベースでのリンチ、あるいはベースからの脱走未遂の顛末などについては三人称が用いられながらも明らかに啓子を主体とした語りが用いられている。実はこの小説の語りの構造はかなり入り組んでいる。例えばいずれも本書全体を通底し、象徴的な意味をもつ「蜘蛛」をめぐるエピソードと関わる第一章と第二章の冒頭を抜き出してみる。

夕食に使った食器や鍋を洗い終わった西田啓子は、ふと気配を感じて目を上げた。

小さなシミのように台所の壁に貼り付いていた蜘蛛は、いつの間にか消えた。

前者の冒頭で啓子が感じた気配とは台所の壁を這う蜘蛛のそれであるから、この二つの文章は一種の韻を踏んでいる。しかし前者においては西田啓子という名が記されることによって、この語りが全能の話者の視点からなされていることが明示されているのに対して、後者において「いつの間にか消えた」蜘蛛を意識した語り手は西田啓子であり、ここでは語りのレヴェルが混同されている。これを作家の方法論的な意識の欠如と批判することはたやすいが、桐野が意図しているかどうかはともかく、私はかかる形式は物語の内容とも深く関わっているように感じる。この小説は2014年から2016年にかけて『文藝春秋』に連載された。したがって舞台を東日本大震災が発生した年に設定することの必然性はその直前に永田洋子が病死したこと以外にはない。確かに永田死刑囚の病死はこの物語を起動する契機たりえたかもしれない。しかし私はこの選択は意図的であるように感じる。つまりこの小説では一つの社会を震撼させる事件を三人称としてとらえるか、一人称としてとらえるかの間の揺れが主題とされているのではなかろうか。そもそも何が一人称と三人称を分かつのか。東日本大震災のことを考えてみよう。2011311日に日本の多くの地域に住む人々が激しい揺れを感じたであろうから、この意味で震災に対して当事者の位置を占める者は多い。しかし実際に東北で被災し命を落とした者、家族を失った者、あるいは原子力災害によって被曝し故郷を追われた者、彼らにとって震災とは決定的に一人称の物語であるのに対して、私たちの多くにとって震災からは物語の中で啓子と久間が味わった程度の当事者性しか感受しえない、三人称の事件であったのではないか。私たちは常に一人称と三人称のはざまで揺れる。日本に住む多くの者がなんらかのかたちで当事者性の一端を占めた東日本大震災を物語の背景に配置することによって、連合赤軍事件における一人称性があらためて問われる。半世紀に近い時間が経過し、最高責任者の一人は監獄で自死し、そしてもう一人が病死した後でも、啓子は、君塚は、金村は一人称によって事件を引き受けなければならないのだろうか。試みに連合赤軍事件を主題とした優れた文学的成果、大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」と桐山襲の「スターバト・マーテル」を参照してみよう。長編と中編という差異はあるがいずれも三人称の語りである。革命という夢に一定のシンパシーを重ねたこれらの小説と、そのまま突き放したがごとき桐野の小説はずいぶん印象を違えるし、私は啓子らとほぼ同じ世代に属する桐野が連合赤軍事件に対してどのような思いを抱いているかも興味深いが、それはひとまず措く。私は桐野があえて三人称と一人称の揺れの中で物語を語ることに一つの意味を認めたい。つまり登場人物に対し、すでに終えられた事件を当事者として引き受けさせようという作家の強い思いである。革命の理想に燃えた若い男女がなぜかくも凄惨なリンチ殺人によって自滅したのか。大江にせよ桐山にせよ、結局わからなかったのだと私は思う。核シェルターに潜む父親、あるいは山荘で彼らによって人質に囚われた女性を主人公の位置に置くことによって当事者の内面に踏み込むことを慎重に回避して成立したのが彼らの小説だ。しかし桐野は事後という迂路を介しつつも当事者の内面に踏み込む。これからの記述は私が先に私がこの小説のあらすじを紹介するにあたって、あえて回避したいくつかの問題と関わっているため、いささか歯切れが悪く感じられるかもしれないが、まず熊谷、久間、古市の三人を例外として本書に登場する主要な人物がほとんど全て女性であることに留意していただきたい。勇敢にも桐野は、大江や桐山でさえ他者の語りとして投げ出した連合赤軍事件の本質に一つの解釈を与える。果たして事件の背景に桐野が見立てるような問題は存在したのか。小説の中で提起される可能性については、事件の判決の中では一切触れられていないはずだ。しかしながら事件の主因を永田洋子のパーソナリティーに押し付けた中野武男裁判長による判決の不当性は桐野ならずとも声をあげるだろう。「女性特有のヒステリー」をことさらに事挙げする司法の名を借りた男性原理に対して、桐野が提示するのは連合赤軍事件の本質を女性原理、母性原理に求める発想だ。この発想の当否について私は判断できないし、小説の中で明かされるような事実が実際に山岳ベースで起きていたかについても答えることはできない。しかし桐野が本書で語る連合赤軍事件の「もう一つの真実」はそれなりに衝撃的であり、フェミニズムの視点からの事件への批評と呼ぶこともできるだろう。

 桐野は最初ミステリーの分野で注目された作家であり、この小説の中にもみごとに一つの謎が仕込まれている。その謎は登場人物相互の発言の矛盾として次第に明らかになり、最後の場面で解明されるから、本書を一つのミステリーとして読むことは不可能ではない。逆にミステリーという結構を与えるために結末が用意されたともいえよう。しかしこの結末については意見が分かれるはずだ。私はこの部分はなくてもよかったと思う。一人の女性が若くして革命の名を借りた暴力の中に身を置き、その後の半生を一つの秘密を抱えて生きる。それはすでに一つの卓絶したドラマであるからだ。



# by gravity97 | 2018-05-11 22:17 | 日本文学 | Comments(0)

ドーレ・アシュトン 『評伝 イサム・ノグチ』

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 今進めている研究と関連して1992年に原著が発表されたドーレ・アシュトンによるイサム・ノグチの評伝を読む。日本の戦後美術あるいはアメリカの現代美術を研究する者にとってこれまでイサム・ノグチはどちらかといえば扱いにくい対象であった。かくいう私自身もロングアイランドにあるノグチの美術館をはじめ、これまで多くの場所、多くの展覧会でノグチの作品に接してきたが、いまだに正面から論じたことはない。後述するとおりこのような距離感もノグチ、そして彼の作品の本質と深く関わっているが、研究書としては読みやすく、単なる伝記としては専門的という内容の絶妙さによって、私は本書をおおいに楽しんで読むことができた。この評伝を通読して私はノグチについての認識を一新した思いがある。

 著者、ドーレ・アシュトンはアメリカの戦後美術を専門として、ニューヨークのクーパー・ユニオンで教鞭を執る美術史家であった。今インターネットで検索したところ、1928年生まれで一昨年に亡くなっている。日本との関係は深い。すぐさま思い出すのは彼女をゲスト・キューレーターに迎えたニューヨーク・スクールの展覧会が1997年に東京都現代美術館ほかを巡回したことだ。(カタログ等ではドリー・アシュトンと表記)あるいは私は未見だが、1999年にマドリッドのレイナ・ソフィア現代美術センターで開催されたアンフォルメル運動の大規模な回顧展においても彼女はゲスト・キューレーターの任を果たし、この展覧会には日本からも具体美術協会の作家の作品が出品されていた。1958年に同じ具体美術協会がニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーでグループ展を開催した際、抽象表現主義の亜流にすぎないという手厳しいレヴューを寄せたのも同じ批評家であったことは何かの因縁であろうか。彼女はノグチとも長い親交があり、本書にはノグチの言葉として彼女との間で交わされた会話や私信が多く引用されている。本書を通読してまず感じるのはテクストとしてのよい意味での緩さである。今述べた通り、直接著者との間で交わされた言葉については客観性が担保されず、註の表記も厳密さを欠いているから、学術的な論文としての体は成していない。あるいは初読した私にさえも明らかな誤りも散見される。(一例のみ挙げよう。アシュトンは1952年に鎌倉の神奈川県立近代美術館で開催されたノグチの個展のカタログにテクストを寄せたモリタという人物を森田子龍であろうと推測しているが、明らかな誤りである)さらにこの評伝の本質とも深く関わる問題であるが、いくつかの章の記述に関しては、明らかにオリエンタリズム的なバイアスが認められる。イサム・ノグチを論じるにあたって常に問題となるのは、この作家の位置をコスモポリタニズムと括弧つきのジャポニズムのどこに定めるかという点であることを、私は本書を読んであらためて痛感した。しかしこれらの瑕疵にもかかわらず、ノグチとの親交に基づいて執筆された本書はアシュトンの作家に対する深い理解と敬意に基づいた洞察と情報に満ちている。本書を読んで、私は自分がいかにノグチについて無知であったかを思い知るとともに、あらためてこの巨人の作品に向かい合わなければという思いを強くした。恥ずかしながら、私は東京国立近代美術館の前庭に設置された巨大な立体がノグチの手によるものであることを初めて知った。多くの意外な人物との交流も同様だ。別の言葉を用いるならば、芸術家としてのノグチの射程は私の予想をはるかに超えていたということである。以下、所感を交えながらノグチの生涯を追うこととする。

 ノグチは1904年に日本人の詩人、野口米次郎とアメリカ人作家レオニー・ギルモアの子としてロスアンジェルスに生まれた。エズラ・パウンドと親交があり、慶應義塾大学で教鞭を執った父との関係は微妙である。年譜を参照するならば、ノグチは1906年に父の後を追って母とともに来日し、しばらく茅ヶ崎に住んだ後、14歳の時に再び渡米してインディアナ州の学校に学んだ。青少年の多感な時期をノグチは日本とアメリカ、二つの空の下で過ごしたことになる。19歳の時に母も日本滞在を切り上げて帰米し、ノグチはこの前後より彫刻家を志したという。当時、父ヨネ(米次郎)の知り合いで日本人舞踏家の伊藤道郎と出会い、彼がニューヨークで演じたイェイツの「鷹の井戸」のために仮面を制作したというエピソードは興味深い。「鷹の井戸」はイェイツが能の強い影響のもとに構想した戯曲であり、ここにはすでにノグチが生涯をかけて追求した日本的なるものの受容という主題が認められるからだ。後年、ノグチは伊藤を介してパリで藤田嗣治を知る。野口米次郎は第二次大戦期に愛国的、国家主義的な詩を発表して批判されるが、国家との悲劇的な関わりに藤田を重ねることもできよう。

 ノグチの本格的な修行はグッゲンハイム奨学金を受けて、1927年にパリに向けて出発した時に始まる。パリでノグチは生涯にわたる師、ブランクーシのアトリエでアシスタントを務めた。20年代のパリといえば、このブログでも触れた「失われた世代」の時代であり、エコール・ド・パリの黄金期でもあった。スーティンやジャコメッティ、いうまでもなくフジタ、そしてカルダーやスチュアート・デイヴィスといったアメリカ人たち、さらに舞踏家のマーサ・グラハムといった今日よく知られた芸術家たちとノグチは交流を重ねる。この時代の経験がノグチとその芸術に決定的な影響を与えたことに疑いの余地はない。ノグチは奨学金を得てパリに赴いた訳であるが、この奨学金は条件が比較的緩かったのであろうか、彼は時折ロンドンやニューヨークに戻っては本来の目的であった東アジアへの旅行の準備を続けたらしい。29年の最初の個展は旅行の費用を捻出することも理由の一つであったという。東アジアへの旅行の目的地の一つが日本であったことは間違いないが、この直前、ノグチは一生のトラウマとなる体験をする。パリ出発直前に父親の米次郎から自分の名字を日本では名乗るなという手紙を受け取ったのである。ノグチの複雑な環境、さらに先に述べたとおり当時国粋主義的な立場を標榜していた米次郎にとって、碧眼の息子がいることを知られたくないといった事情もあったのであろう。傷心のノグチは中国、北京へと向かった。北京に渡航した事情についてはノグチ自身もあまり語っていないというが、この時期、日本とアメリカに出自をもつノグチが無政府状態にあった北京にいかなる伝手を頼って向かったかという点は、一つの伝記的事実の解明として今後も検証されるべきであろう。しかもそこでノグチは文人画の大家、斉白石と交流したという。私はこの事実を本書によって初めて知り、おおいに驚いた。ノグチの作品はしばしば日本とアメリカとの関係で論じられる場合が多いが、以後でも論じるとおり実はさらに広く、まさにグローバルな射程を有していたのである。父との葛藤はあったにせよ、1931年、ノグチは北京から日本に向かう。彼にとって最初の日本訪問であった。父とは「つらい対面」をしたと記しているが、父方の伯父はノグチを温かく迎え、ノグチは伯父の肖像彫刻を残している。しかし米次郎も決してノグチを突き放した訳ではなかったようだ。米次郎は息子を多くの芸術家に紹介し、ノグチは高村光太郎との面会について自伝の中で言及しているという。滞在中、ノグチは京都、東山の宇野仁松のもとで窯による焼き物の体験もしている。この折りに制作されたテラコッタは日本における陶彫のきわめて早い例である。

 1931年、ノグチはニューヨークに戻る。このあたりから私のよく知った作家たちとノグチの交流が始まる。例えばメキシコの壁画作家オロスコ、抽象表現主義の先駆者、アーシル・ゴーキー、中でも驚いたのはダヴィッド・ブルリュークだ。先んじて日本を訪れたブルリュークは所蔵する多数のロシア・アヴァンギャルドや未来派の作品を紹介し、日本の大正新興美術の作家たちに決定的な影響を与えたことで知られる。彼がノグチとも交流していたという事実は意外であった。しかしこの時期、ノグチの作品は必ずしも好意的に受け容れられた訳ではない。著名な評論家による「一度でも東洋人だった者は、常に東洋人ということらしい」という人種差別にもとづいた批判はノグチを深く傷つけた。しかし彼を鼓舞したのは皮肉にもパリと日本での交流や体験であった。パリで出会ったマーサ・グラハムの舞踏公演にノグチは能に触発された舞台美術を提供し、演劇の分野で高い評価を受けた。第二次大戦の間、日系二世であるにもかかわらず、ノグチはさほどひどい扱いを受けることはなかったようだ。彼は自発的に日本人のための収容所に入り、この過程で彼の作品に大きなインスピレーションを与えることとなるアメリカ中西部の砂漠にも滞在した。この一方、当時ヨーロッパから亡命していたシュルレアリスムの作家たちとも交流し、その中にはアンドレ・ブルトンが含まれている。終戦直後の1946年にニューヨーク近代美術館でドロシー・ミラーが企画した「14人のアメリカ人たち」にノグチが出品したという事実は彼の作品が評価を受けつつあったことを暗示している。この展覧会のタイトルはいささか逆説的だ。彼が自らのスタイルを確立するうえではもう一度、自分のルーツとしての日本を体験する必要があったからだ。49年に一年近くインドに滞在した後、ノグチは再び日本の土を踏んだ。

 前回の旅行とは対照的に1950年の日本においてノグチは待望されていた。アシュトンはとりわけ瀧口修造と長谷川三郎との交流について頁を割いているが、大戦の焦土の中で新しい価値観を求めていた日本人にとっても、ノグチという存在、彼の教えは大きな意味をもった。ノグチは長谷川らとともに多くの日本建築、日本庭園をめぐる。桂離宮、竜安寺、銀閣寺や詩仙堂。多くの名建築、名園をめぐる旅行についてアシュトンは詳細に論じている。そこには最初に述べた一種のオリエンタリズムも認められないではない。しかし次のような彼女の見立てはノグチの作品の本質を的確に示しているだろう。

 ノグチはより入念な二度目の京都の名所探訪のなかで、二つの重要な確証を得ようとした。第一に、彼は演劇のように〈仮想的全体〉、あるいはまとまりのある象徴的瞬間を表現するような芸術の原理を、みずから体験することで発見しようとした。第二に、彼は静止もしくは孤立した彫刻を超越しようという願望を実現する手段を探し求めた。京都の見事な回遊式庭園を巡り歩いて観察するうちにノグチはそうした懸案を片付けることになった。

 この時期のノグチの旺盛な活動には驚く。来日直後に東京の三越で最初の個展を開き、翌51年には谷口吉郎とともに慶応大学の萬来舎、あるいはリーダースダイジェスト社の庭園を設計し、有名な「あかり」のデザインも始めている。北大路魯山人のもとで作陶し、52年には神奈川県立近代美術館で個展を開催している。デザインの剣持勇や長谷川三郎を介した前衛書との関係も見過ごせない。京都のみならず四国や広島といったこれ以後深く関わる場所を訪れ、多くの庭師、石工、哲学者と親交を結ぶ。ノグチがその才能を開花するうえでこの折の日本滞在が決定的に重要であったことは疑いの余地はないが、同時に日本の美術界にとってもノグチの足跡は重大な影響を与えた。この点は本書においては十分に論じられていないが、いわゆる「伝統論争」においてノグチが果たした役割は今後検証されなければならない。最初は建築の領域で始まった「伝統論争」はモダニズムと日本の伝統との関係という問題において多くの屈折した議論を引き起こしたが、この問題も十分に解明されたとは言い難い。

 日本再訪を経て自らのスタイルを確立したノグチはコスモポリタンとして面目躍如たる仕事を続けた。パリのユネスコ庭園、ニューヨークのチェイス・マンハッタン銀行プラザのための庭園、さらにはエルサレムのイスラエル美術館、様々な土地で数年単位の仕事が始まる。多く庭園の設計と関わるコミッションワークは常に困難を伴い、ノグチが粘り強くそれらの仕事を続けていった経緯も本書の読みどころの一つである。先にアシュトンの言葉を引いたが、その中にもあったとおりノグチは彫刻を超えた一種の環境の創造に関心を抱いており、それは今日であればインスタレーションと呼ばれる問題意識であっただろう。ノグチの創造の秘密を解く一つの鍵はジャンルの異なった芸術家たちとの交流である。バックミンスター・フラーからマース・カニングハムにいたる関係者のリストは日本での生活の中でさらに拡張される。音楽家の武満徹、勅使河原蒼風と宏の親子はどのようなジャンルに分類すべきであろうか、日本画から洋画に転向した堂本尚郎、建築家の磯崎新。日本で親交を結んだ多くの傑出した才能からもノグチは刺激を受けたに違いない。あるいは素材となる石を求めて世界中を旅するノグチの足跡も興味深い。ミケランジェロも用いたギリシャのクエルチェータの石、ストーム・キング・アートセンターのために小豆島で掘り出された巨大な丸石、素材と作家との間の紐帯もまたノグチの作品の秘密であろう。ノグチの前半生が自らのアイデンティティーを求めて続けられた心細い探索の旅であったとするならば、後半生は揺るぎない自信とともに世界各地で自らの作品を実現させるための場所と素材の探索の旅であったといえよう。ノグチの死後に完成されたいくつかのプロジェクトのうち、私は北海道のモエレ沼公園を訪れたことがある。本書を読んで作家がこの公園の設計に期した思いを知ることができたように感じる。ノグチが追求したのは単なる量塊としての彫刻ではない。限定された量塊を超えた空間との関係の在り方であり、明らかにそれは師であるブランクーシの衣鉢を継いでいた。このようなタイプの彫刻家は多くないが、その系譜は確実に存在する。私は数年前に葉山で若林奮の展覧会を見た際に若林が実に多くの場所で庭の設計に関わっていることを知り驚いた。しかしこれらの試みもノグチの作品に接した後であればその意味を容易に理解することができる。

 最後に私は一つの興味深い事実を指摘しておきたい。ノグチの交友の広さはすでに述べたとおりであるが、私は彼がことに深く交際した人々に共通する特質があることに気づいた。例えば次のような人たちだ。アーシル・ゴーキー、山口淑子(李香蘭)、長谷川三郎、堂本尚郎。共通点がおわかりだろうか。いずれもノグチ同様に二つの国の間で引き裂かれ、もしくは二つの国を軽やかに移動した人たちである。最後のシュルレアリストもしくは最初の抽象表現主義者として今日評価を受けるゴーキーは1930年代にあってはプリミティヴへの憧憬、自然との連帯といった点においてノグチと共通し、彼の悲劇的な自殺がノグチを長期の旅行へと向かわせたとアシュトンは説く。ゴーキーはアルメニアからの移民であり故郷喪失者であった。あるいはノグチは映画女優として知られる山口淑子と一時結婚生活を送るが、山口もまた日本人を両親として満州に生まれながら、中国名で活躍し多くのプロパガンダ映画に出演する数奇な運命をたどった。ノグチと山口の結婚は日本でも大きく報じられたが、よく考えてみるならば二人はともに国籍にアイデンティティーをもちえない点で共通している。長谷川三郎はどうか。ノグチに日本文化の手ほどきを授けた洋画家であり美学者、長谷川もまたニューヨークで個展を開き、アメリカ各地で日本の精神文化を教え、最後はサンフランシスコで客死した。高名な日本画家の家系に生まれ、若くして日本画家としての未来を嘱望されていた堂本はパリへの留学を契機として洋画家へと転向し、アンフォルメル運動へと身を投じる。ノグチはニューヨークを経て日本に帰国した堂本をしばしば訪ね、本書には二人のポートレートも掲載されている。長谷川も堂本もアメリカとフランスという異国の文化と深く関わることによって自分の思想や絵画を深化させた。おそらくその点にノグチは共感したのではなかっただろうか。そしてそれは今日グローバリズムと軽やかに喧伝される風潮とは全く異なるものであっただろう。二つの母国が交戦状態に陥るという不幸な背景もあり、最初は自らに刻された烙印のごとく感じられたであろう二重性の中からそのいずれをも超越する新たな境地を造形として確立することがノグチの生涯の目的であり、それが苦難に満ちた道のりであったことは想像に難くない。しかし本書を通読するならば、ひるがえってこの過程で逆に戦後の日本文化もノグチの活動に寄って決定的な影響を受けたことも明らかであるように感じる。今やこの稀有の才能が戦後の日本で果たした役割を、さらに広い視点から検証すべき時機が到来しているのではないだろうか。



# by gravity97 | 2018-05-01 09:08 | 評伝・自伝 | Comments(0)

藤枝晃雄批評選集『モダニズム以後の芸術』(再掲)

 藤枝晃雄氏が逝去されたとの報に接し、感謝を込めて以下のレヴューを再掲する。氏の生前にこの選集が発刊されたことの意義はいくら強調しても強調しすぎることはないであろう。

 b0138838_9434355.jpgしばらく前から予告されていた藤枝晃雄の批評集がついに刊行された。ペーパーバックながら上下二段組、600頁余という大著である。私の世代であれば藤枝はよく知られた批評家であるが、今日ではその主著を手に入れることはかなり困難だ。ポロックについての名高いモノグラフが10年ほど前に復刊され、そのほか下に示した四冊の論集が刊行されているが、インターネットで確認した限りにおいても中古本としてしか入手できない著作が多い。今日では美術関係者でさえ相当に意識しない限り、藤枝のテクストに触れることは難しい。また藤枝は70年代以降、多くの雑誌に文章を寄稿しているが、これらについても論集に収められていない限り、原典にあたる苦労なしには読むことができなかった。このような困難は私にマイケル・フリードを連想させる。藤枝同様にフォーマリズム批評を代表する論客であったフリードもまた1998年にシカゴ大学出版局より「芸術と物体性」という長大な論集が刊行されるまで、とりわけ1970年前後の現代美術に関するテクストは掲載された美術雑誌を一つずつ参照することによって初めてその鋭利さを知りえたのだった。かかる困難を一挙に解決する本書の出現は大いに喜ばしい。編集方針もこれまでの欠落を補うべく十分に練られている。最初に述べたとおり、1966年以降の半世紀に及ぶ批評を網羅したこの批評集は相当な分量があり、図版を一切欠いている点はテクストの十全な理解よりも多くのテクストの収録を優先する編集方針を反映させているだろう。紙質もよくないが、それゆえこれほどの大著にもかかわらず3000円という、学生でも躊躇なく買うことのできる価格に抑えられている。私もこのような基本方針に賛同する。藤枝の批評は今こそ多くの人に読まれるべきであり、多くのテクストが読まれるべきであると考えるからだ。

 八章によって構成された本書は論文からインタビュー、対談といった多様なテクストから成り立ち、論じられる対象も近代絵画からミニマル・アート、さらには詩論と幅が広い。テクストの選定は批評家本人によるとのことだ。私にとってありがたかったことには1971年の「二つの抽象」というテクストが全文収録されている。これは講談社版の「現代の美術」のうちの一巻、「構成する抽象」にメインテクストとして収録され、藤枝フォーマリズムの真髄とも呼ぶべき論文であるが、この重要な論文を含む画集は今日では入手が難しく私もコピーでしか所持していない。あるいは「絵画の彼方」と題されたバーネット・ニューマン論も『季刊藝術』という今や存在しない雑誌に掲載され、『現代美術の不満』以外には再録されていないため、今日読むことは困難である。望蜀の嘆であることを知りつつ言い添えるならば、1970年前後に『美術手帖』に掲載されたいくつかの論文、さらに現在では参照することが著しく困難な『三彩』に掲載されたジャッド論も加えてほしかった。

 先にも述べたとおり、私は藤枝の批評から強い影響を受けた。針生一郎、中原佑介、東野芳明といういわゆる御三家よりやや遅れて活動を始めた藤枝の文体は独特のごつごつとした手触りをもっている。それは宮川淳のような美文でもなければ、東野芳明のような挑発性やユーモアを帯びてもおらず、むしろ悪文に分類されようし、何よりほかの批評家や作家に対する罵倒と批判が印象的だ。大学から大学院にかけて私はそれらを繰り返し読んだから、今回収められた多くの論文の冒頭を読んだだけでどの雑誌、どの書誌に収められていたかを言い当てることさえできる。主著の一つがジャクソン・ポロックに捧げられていることから理解されるとおり、藤枝の批評は抽象表現主義を主たるフィールドとして育まれた。このうえで藤枝はクレメント・グリーンバーグの強い影響を受けており、作家ではなく作品、アクションではなく絵画を重視する姿勢をとる。藤枝は日本においてもフォーマリズムの批評を確立すべく苦闘を続けた。しかし日本においてフォーマリズムは今日に到るまで十分に受容されたとは言いがたく、罵倒を基本とする独特のシニカルな批評のスタイルもこの状況に由来するかもしれない。端的に日本の「美術批評家」は作品を介して作品とは別のことを語るのが好きなのである。例えば冒頭に収められた「芸術を求めて」というテクストの中では、この論文が書かれた当時、優勢であったフェミニズム批評に対する批判が記されている。すなわちアンディ・ウォーホルの描くマリリンについて「鮮やかな緑色や黄色で乱暴に顔を塗りたくられたモンローのイメージが胸に痛くて、私はいたたまれなかった。/モンローの生涯が悲惨であったことはいまや誰でも知っている。モンローの顔に加えられた乱暴な色のタッチは彼女が受けた様々な暴力の痕跡として、ここに示されたのかもしれない」という千野香織のコメントに対して藤枝は「千野の場合、モンローの伝記がモンローの画像に結びつけられ同情されている。それは美人が描かれていれば絵を美しいと見なしたり、かつての肖像画においてモデルとなった人物がデフォルメされて怒り出すことと大同小異である」と批判したうえで「もし、千野の見方が美術史であるならば、それは美術にとっても他のあらゆる領域にとっても不必要である」と切って捨てる。私も日本における「フェミニズム批評」の「第一人者」であるはずの千野のあまりにも幼稚、反映論そのままのナイーヴな「感想」に失笑した覚えがある。フェミニズム批評は当時の流行の先端であったが、「作品を利用して別のことを語る」タイプの批評に対して藤枝は徹底して批判を加えた。今日においても哲学から精神分析まで、自説を開陳するために作品を横領する小林某から斎藤某にいたる「美術批評」の系譜に私たちは事欠かない。藤枝の仕事はこれらとは異なり、あくまでも作品をその中心に置く。この意味において私はここに収められた論文の中でも時評的なそれより作家論、作品論の方に藤枝の批評の特質がよく現れていると考える。
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 なにぶん浩瀚な論集であるから私もまだ完全に通読はしていないが、大半の論文はかつて読んだ覚えがある。次に本書の内容を概観しておこう。収録論文の出典については巻末に発表順に一覧が掲載されているから容易に参照できる。構成はクロノロジカルではなく主題別である。「芸術と批評」と題された第一章においては現代美術とフォーマリズムの方法が大局的な観点から語られる。先に触れた「二つの抽象」あるいは「最後の絵」といった戦後アメリカの色面系の抽象絵画について総括的に論じた文章は今読んでも古びておらず、藤枝の批評の到達点を示している。第二章は上田高弘を聞き手とした語りおろしのインタビュー。後述するとおり北園克衛やデュシャンといった、やや意外に感じられる主題にも言及があり、なかなか興味深い。「情況と動向」と題された第三章は1969年の「アンチ・イリュージョン」から2005年の「アジアのキュビスム」まで、主として展覧会に関する批評が収められている。行動美術展や具体美術展といった意外な対象への展評をなぜここに収めたのか、本人に尋ねたいと考えるのは私だけではないだろう。第四章「歴史とモダニズム」ではポストモダンやアヴァンギャルドといったモダニズム美術と関わる状況論が収められている。続く二つの章は作家論であり、第五章は印象主義からダダイスムまで、第六章では抽象表現主義以降の美術家が論じられる。前者は『美術手帖』に連載され、『絵画論の現在』として刊行された内容がほぼ抜粋され、いくつかのテクストが加えられている。当時のポストモダン状況の中であえて近代の画家たちを論じた意味は、今日、本書によって藤枝の批評を通覧するならばよく理解できる。第六章は藤枝が専門とする抽象表現主義からミニマル・アートにいたるアメリカの戦後美術に関する作家論が大半を占める。一巻の研究書として構想された前章とは異なり、掲載された書誌がばらばらで内容も作家論から私的回想までやや雑然とした印象を与えるが、ニューマンとポロックについての長い論考は本書中の白眉といえよう。「詩論他」と名付けられた第七章では北園克衛やビートニクと藤枝という意外な取り合わせを知ることができる。藤枝が北園の主宰する詩誌と関わり、あるいは留学中にビートニクたちと交流したという事実を私は本書をとおして初めて知った。最後の第八章は内外の研究者や美術史家を交えた対談を収めている。発表の時期にして20年ほどの幅があり、内容としては抽象表現主義に関連した議論が多い。
 決して読みやすいテクストではないが、まずはこれらの論文に目を通していただくのがよかろう。さいわいこの論集には藤枝批評への導入との呼ぶべき7本のコラムも収められている。例えば藤枝の批評が日本の美術批評において果たした役割に関しては早見堯、先行するフォーマリズム批評との関係については川田都樹子、それぞれ委曲を尽くした解説をあらかじめ読んだうえで各章に向かうのは一つの方法であろう。あらためて通読しながら、私は久々に藤枝の佶屈した文体を堪能した。日本の美術批評は東野芳明に典型的に認められるとおり、書き手としての自らを前面に押し出した書きぶりが多い。これに対して藤枝の文章は一種の客観性、匿名性を装いつつ、実際には断定的であり強引、なによりも攻撃的であった。本書においても書き下ろされた序と後記に相変わらずの藤枝節が健在であり、私は大いに安堵した。最初に述べたとおり、藤枝の文体はどちらかといえば悪文で必ずしも論理的でないが、読んでいるうちに病みつきになるような不思議な魅力を備えている。おそらくかかる魅力は藤枝が作品の質についての判断を恐れないことに由来するだろう。ポストモダン以降、私たちは無際限の相対化の時代にいる。しかし藤枝の作品の質に対する判断は明確でぶれがない。本書の中に「地球がその動きを停止してもオーブリー・ピアズリーがポール・セザンヌよりも、アール・ヌーヴォーがキュビスムよりも高質にして重要だ、ということはありえないだろう。優れた作品は多義的で消耗しない」という言葉がある。今触れたコラムの中で大島徹也が論及するとおり、例えばポロックに関して藤枝は最高傑作とみなされてきた《ブルーポールズ》を「素人受け」として批判する。私も藤枝の評価に同意するが、かくのごとく作品の質を基準として明快な判断を下す点に藤枝の批評の魅力はあり、それゆえ日本の同時代の美術は多くが論じるに値しなかったのであろう。しかしここに収められた論文からは必ずしも判然としないが、藤枝は自らが企画した展覧会でそれまでほとんど知られることのなかった作家を取り上げ、高い評価を与えた点も記憶されるべきであろう。藤枝が評価する作家は時流に合う作風ではなかったから、今日にいたるまで十分な評価を受けているとは言い難いが、日本の戦後美術において一つの系譜をかたちづくっている。一方、かつて藤枝によって見出され、このブログでも論じた山田正亮については近年、近親憎悪に近い批判を加え、あるいは本書に個展のレヴューが掲載されている福島敬恭については「その近年来の変節は、もはや私の関与する範囲をはるかに超えている」として「現代美術の展開」を再版するにあたって文章を削除したことがある。このような潔癖さというか厳密さもこの批評家ならではの個性である。

 本書を卒読してあらためて感じたのは、藤枝の批評におけるデュシャンの重要性である。藤枝の卒論がデュシャンに関する内容であったことは以前何かで読んだ記憶があるが、本書を読み進めるとほとんどの章にあたかも通奏低音であるかのようにデュシャンへの言及があり、第五章には「絵画論の現在」には含まれていなかったデュシャンについての文章が新たに収められている。藤枝にとってデュシャンの重要性はレディメイドに端的に示される「視覚によらない表現」の可能性を提起した点にあるだろう。通常であればこのような表現はフォーマリズムの埒外にある。しかしながら藤枝の批評の独自性は、デュシャンを契機として、それといわば対偶の位置にある表現、すなわち「視覚による視覚の批判」という可能性を探求することによって、反造形的な作品と批評の接点を探ったことにある。このような視座を得ることによって、抽象表現主義、とりわけニューマンからミニマル・アートにいたる現代美術の展開が一望され、藤枝の批評は基本的にかかる視野の中に配置された。デュシャンという反フォーマリズムの作家が藤枝のフォーマリズム批評の豊かな成果を育んだという逆説はなんとも興味深く感じられる。

 日本においてフォーマリズム批評の導入は不幸な歴史をたどった。ハル・フォスターの「反美学」が訳出されたのが1987年、『批評空間』の特集号「モダニズムのハードコア」が発行されたのが1995年、グリーンバーグの批評選集にいたっては2005年の刊行である。つまり日本ではアメリカのフォーマリズムの主要な論文が紹介されるより先に「オクトーバー」系のフォーマリズムを脱構築する言説が導入されたのである。このためフォーマリズムをめぐる議論のダイナミズムはきわめて錯綜したかたちで紹介された。いうまでもなくそれに対応する日本における批評的達成は今日に至るまでほとんど整理されることがなかった。今回、この論集が刊行されることによって、私たちはフォーマリズムとその超剋をめざす言説の数々を同じ俎上に載せて検証することが可能となった。このような作業から学ぶべきものはまだ多いと私は信じている。

# by gravity97 | 2018-04-28 09:47 | 批評理論 | Comments(0)

「小磯良平と吉原治良」

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 兵庫県立美術館で「小磯良平と吉原治良」展を見る。サブタイトルのDividing Ridge of the Hanshinkan Modernism はフライヤーやカタログの中では日本語に訳されていないようであるが、いうまでもなく「阪神間モダニズムの分水嶺」の意味だ。確かにこの二人の画家は阪神間を生活の拠点として、それぞれに「モダンな画家」という印象を与えるが、その内実はずいぶん異なる。二人展といいつつ、個展形式ではなく、二人の作品を時代ごとに並列する展示は時代背景を強く意識させ、なかなか興味深い展観であった。若干の所感を記しておきたい。
 そもそもこの二人の画家と兵庫県立美術館は、前身の兵庫県立近代美術館時代から縁が深い。小磯に関しては代表作の多くを所蔵し、記念室を設けて常設的な展示を行ってきたし、吉原に関しても戦前期の作品こそ少ないが、おそらく国内では大阪市立近代美術館建設準備室に次ぐ多数の作品を擁し、何より吉原がリーダーであった具体美術協会については日本最大のコレクションを所蔵している。展覧会としても小磯の回顧展は兵庫県立近代美術館で何度も開催され、吉原に関しても1979年に「吉原治良と具体のその後」が開かれている。したがってこれら二人の画家の組み合わせ自体にさほど新鮮味はない。今までこのような展示が構想されなかった理由は「分水嶺」という言葉どおり、両者の表現があまりにも異なっていると感じられたからであろう。端正な肖像画を中心に生涯にわたって写実的で古典的な絵画を制作した小磯と、次々にスタイルを変えながら関西の前衛画壇の中心にいた吉原は作風において大きな懸隔がある。今回の展示やカタログには田中千代学園芦屋校のアトリエ開きにあたって寄せ描きをする吉原とそれを見つめる小磯の写真が掲出されているが、逆に言えば同じ「阪神間モダニズム」に連なりながらも、二人が写り込んだポートレートがこれ一枚しかないという事実は、小磯が東京藝術大学で教員を務めていたという事情を勘案するにせよ、両者の接点が少なかったことを物語っている。しかし通常では接点のない二人の画家の作品を年代順に展示したことによって、逆に多くの知識や発見がもたらされたように感じた。
 小磯と吉原は実は多くの共通点をもっている。1903年生まれの小磯に対し、吉原は1905年生まれであるから、二人は同じ世代に属し、小磯は神戸の貿易商、吉原は大阪の油問屋のいずれも裕福な家庭に生まれ、何一つ不自由のない青少年時代を送っている。東京美術学校の油絵科で藤島武二の教室に学んだ小磯と、藤田嗣治の知遇を得ながらも留学もせずに独学で絵画を学んだ吉原には専門教育という点では差があるが、いずれも20代後半で最初の個展を開いている。さらにこの展覧会を見てあらためて理解したのであるが、二人は雑誌の表紙、商業美術そして舞台美術といった共通する多様な領域で活躍をしている。とりわけ阪神間の百貨店やバレエといった「モダン」な施設や催事の広告に両者が深く関わっていることは、作風こそ異なるが二人がとりわけ戦後において阪神地区のモダニティを象徴する画家であった点を暗示しているだろう。
 最初のコーナー、「初期の画業」と題された1920年代の初期作品からは、二人の若い描き手が真摯に絵画に取り組む姿勢がうかがえる。東京美術学校に在籍し、在学中に《T嬢の像》で帝展の特選を受賞した小磯は最初から手堅い技巧的な成熟を示している。肖像画が多い点は以後の小磯の画業を予告するかのようであり、早くもこの時点で小磯の作風はある程度固まっていることが理解される。一方、吉原は正式の美術教育を受けなかったことに起因する一種の自由さとともに初期の作品を制作している。画面は小磯ほど塗り込まれることはなく、テーマとしては静物画が多い。それらは多く魚と風景が組み合われた独特の構成であり、近景の魚と遠景の風景は唐突に結合された印象がある。同じ時期にカードや朝顔を持つ手を描いた数点の作品も描かれているが、それらも近景と遠景の結合という点で同様の構図を示す。魚というモティーフや中景を欠いた独特の構図に吉原のオリジナリティーを求めることができるかもしれないが、なんといってもまだデヴューしたばかりの新人であるから、さほど深い意味を読み取る必要はないだろう。しかし二人の前には困難な時代が待っていた。展示の第二部は「充実と激動の時代」というタイトルが当てられ、1930年代から40年代前期という年代が設定されている。30代から40代という画家として脂ののった時代を彼らは日中戦争から第二次世界大戦という暗い時代の下に過ごすさなければならなかった。よく知られているとおり、二人は戦争に対して異なった態度をとることになる。1928年からほぼ二年間フランスに滞在した小磯は西欧の油絵の技術に習熟し、帰国後も神戸や東京で個展を開いて、高い技量を披露した。しかしこの時代、技術に秀でることは画家にとって必ずしも幸運ではなかった。軍部は画家の技量に注目し、この時期、小磯は4回にわたって従軍して戦争記録画を制作することとなった。一方で吉原は時局に迎合することなく同じ時期、シュルレアリスム的な作品からベン・ニコルソン、バーバラ・ヘップワースらを連想させる一連の幾何学的抽象にいたる多様な作品を制作している。抽象化されつつも明らかに具体的な風景や道具を描いた作品も存在しているから、完全に抽象的な表現に向かった訳ではなく、作風の揺れは激しい。吉原は1938年に二科展の前衛傾向の作家たちによる九室会の結成に参加したが、前衛的傾向は軍部に認められるものではなかった。回想の中で吉原は昭和16年に二科展を見た情報将校が「この超非常時に○や△をかいて遊んでいる非国民がいた」と発言したのを「不気味であった」と評し「その年の二科で○や△をかいていたというのは私と山口長男とだけではなかったか」と続けている。しかし今回展覧会を見て、両者を戦争に協力した画家と批判的な画家といった単純な図式でとらえることは無意味であることをあらためて思い知る。まず小磯は従軍したとはいえ、戦争という主題にほとんど関心がない。おそらくそれは小磯が派遣された地域が前線から離れていたことも関係しているだろう。戦闘や死体が描かれることはなく、行軍や会談、あるいは式典といったドラマ性を欠いた情景が描かれる。小磯の端正な画風は戦地を描いても多く室内の群像として実現されており、そこには時折東南アジアのエキゾチシズムが介入することがあったとしても同じ時期に日本国内で描かれた女性の肖像画とさほど変わるところがない。《娘子関を征く》と同じ年に《斉唱》が制作されたことを一種の免罪符として、小磯にとって戦争記録画は不本意であったと説くことは従来の小磯評価のクリシェであったし、生前、自分の回顧展に戦争記録画を含めなかったこともこのような推測を補強した。しかし私は戦場で疲れた兵士を描くことも並んで歌を歌う少女たちを描くことも小磯にとってなんら本質的な違いはなく、対象についてのこのような無関心さこそを小磯は恥じたのではないかと感じる。カタログには小磯がこれらの戦争記録画を書くことによって西欧における歴史画を意識したのではないかというコメントがあるが、さすがにそれはなかろう。藤田嗣治と比べるならば直ちに明らかだ。小磯には藤田にみられるデーモニッシュな主題への肉迫は到底認められない。小磯は戦争を機縁にいくつかの群像を描いたにすぎず、それは上手に描けているという以上の評価をもたらすものではない。この時期の小磯と吉原が置かれた境遇の違いは今回の展示で何よりも作品のサイズとして明らかだ。小磯がそれなりの大きさの画面に肖像や戦地の風景を描いているのに対して、吉原の作品のサイズはきわめて小さい。端的にカンヴァスや絵具といった画材の配給において明確な差別があったことがうかがえる。ただしこのような条件がとりわけ吉原の絵画の変遷に決定的な影響を与えたかという問題については少なくとも展示を見た範囲では明確な答えを与えることが難しいように感じた。しかしながら私はこの時期の吉原の絵画に別の特色を認めることができるように感じた。それは光学装置の視覚だ。先に手にカードや花をもった一連の初期作品について触れたが、対象を恣意的に切り取り、近景と遠景が併置される構図から私は写真を連想した。実際に吉原は多くの写真を残し、その中には帆柱やロープを撮影して、シュルレアリスム期の作品と構図的に強い親近性をもつ作品さえ含まれている。写真ということであれば確かに小磯の肖像画もまさに写真的な写実性を備えている。しかし吉原はむしろ写真によって露わにされる視覚の変形に関心をもったように思われる。今回の出品作中にも対象が判然としないまでに近接して描かれた菊の花のイメージ、あるいは風景というよりも高空から撮影した地表のごとき地形のイメージが描かれた作品がある。ここでは拡大鏡や航空写真といった特殊な装置を介して得られる視覚が実現されている。これらの絵画については吉原が所蔵していた当時の欧米の美術雑誌との関係においても検証が進められているが、おそらくはフェルメールからリヒターにいたる光学装置と絵画という興味深い主題の一端に連なるはずだ。
 第二次大戦中、小磯は空襲で神戸のアトリエを焼失し、吉原も大阪大空襲に際して疎開しているから、大戦が二人の画家の生活に大きな影を落としたことは間違いない。小磯については先に戦争という主題への無関心さについて記したが、敗戦を経てもほとんど作品が変わることなかった点は画風を既に確立していたこと、そして世俗とは離れた一種超然とした境地を示しているかもしれない。これに対して吉原は敗戦を契機に作風が大きく変わる。抽象に代わって画面の中に人物が登場したのである。しかもそれは変形された不安な立像が多い。吉原自身、「私は戦争によって絵が変わった。抽象だけではすまないような、いわば人間が再び絵の中に入り込んでこなければおさまらない感じだった」と述懐している。戦争における人間性の破壊が画家に与えた影響という点において、これらの絵画を例えばフォートリエの「人質」連作などと比較することはそれなりの意味があるだろうが、ここではこれ以上論及しない。興味深いことに二人は戦後まもなく、ともに若い画家たちを指導する立場に就いた。小磯は1950年より東京藝術大学で教鞭を執り、53年には教授に昇任し、神戸と東京の二重生活を送ることとなる。一方吉原は1954年に阪神間の若い作家たちを糾合して具体美術協会を結成する。今や世界に名高いグタイの誕生である。しかし二人の指導は対極的であった。東京藝術大学という自らも学んだ美術教育の最高府で教職に就くことは日本の美術アカデミーの頂点に立つことに等しい。私はこの大学の教育方針について詳しく知っている訳ではないが、それが先達を模倣するトレーニングであったことは容易に想像がつく。これに対して吉原が具体美術協会の作家たちに命じたのは「誰も描いたことのない絵画を描け」というオリジナリティーに唯一絶対の価値を置いた教育であった。もちろん長い伝統をもつ芸術大学と一種の私塾としての具体美術協会が異なった原理に立つことは当然であるが、最初に述べたモダニズムという発想に対して両者は逆の立場に立つのではないか。アカデミズムが一つの規範を奉じ、正系/異端という区別によって作品を評価したのに対して、モダニズムは逆に異端たることを自らのレゾン・ド・エートルとする前衛によって先導された。この時、小磯における「モダン」の限界も明らかだ。宝塚歌劇を創設した小林一三の肖像、御堂筋や中之島といった都市の風景、雑誌の表紙絵や百貨店の広告、これらは確かに「モダン」な主題かもしれない。しかし小磯にとってモダンとは一種の西欧趣味以上の意味はなかった。これに対して吉原は若い画家たちにまさに異端であることを求め、彼らは前衛作家としての可能性をそれに賭けたのである。分水嶺といえば分水嶺であるが、いずれが真のモダニズムと関わっているかは自ずから明らかであろう。
 今回の展示を見ながら、私はあらためて1950年代後半、いわゆるアンフォルメルの時代の吉原の作品を再発見した。ミシェル・タピエとの接触を介してアンフォルメルに接近した時代、吉原は一種のスランプに陥り、弟子たちに自分の作品をどのように描けばよいか真剣に問うたという鬼気迫るエピソードが残されている。しかし今回この時期の作品をまとめて見て、物質的な画面にしばしばのたうつようなストロークが残されたこれらの作品は悪くないどころか、相当に高いクオリティーを有していることをあらためて思い知った。同時に私は理解した。これまでこの時期の吉原の作品がいささか劣っているように感じられたのは、しばしば同じ会場に白髪一雄や元永定正といった弟子たちの作品が並べられていたからなのだ。これまで何度か回顧展があったとはいえ、私はこの時期の作品を多く具体美術協会に関する展覧会の中で見ていた。吉原の作品は悪くないとはいえ、同時期に制作された弟子たちの作品には遥かに及ばない。作品に対する透徹した眼を備えていたがゆえに、教師であるはずの吉原の苦悩はいかほどであっただろうか。これに対して東京藝術大学というアカデミズムに安住していた小磯にはそのような危機感はなかったはずだ。自らが規範である以上、弟子たちがそれを超えることはありえない。この時、一つの残酷な事実を私たちは知る。小磯に師事して小磯を超えた画家、いや、小磯に師事して名の知られた画家さえも、私は後に彫刻家に転じた新宮晋以外に一人として知らない。小磯門下には日本で最高レヴェルのアカデミズムの訓練を受けた俊英が百人を単位として存在したはずだ。私の不勉強はあるかもしれないが、その中に戦後美術に名を残す画家が一人でもいただろうか。一方で吉原のもとに集った若手作家の中にアカデミックな美術教育を受けた者は白髪など数人しかいなかったにもかかわらず、今や彼らはグタイの前衛作家として世界に知られ、作品もそれに見合うだけのクオリティーを有している。私はこの展覧会を見て、思いがけず日本のアカデミックな美術教育の限界へと思いを向けた。
 今述べた苦悩を経験したであろうから、吉原が自らのトレードマークとなる円の絵画に想到した時の喜びもまたたやすく理解できる。「具体美術宣言」という画期的なマニフェストを草しながらも、吉原は物質的な絵画に向いていなかった。アンフォルメル期に苦闘する中で少しずつ生まれた円のモティーフを展開させた一連の絵画は1960年代の中盤に登場する。展覧会では「晩年:飛躍と成熟の時代と終幕」と題された最終部の展示にあたる。この時期、吉原に関しては画風が停滞から躍動へと転じ、作品の存在感が一挙に強まった印象がある。しばしば指摘される点であるが、最晩年というか急逝する直前に始められていた漢字のへんやつくりを連想させる色面抽象も興味深い。私は前衛書との関係も含めてこれらの絵画は全く新しい可能性を秘めたイメージではなかったかと考えている。一方、この時期、小磯もまた別のかたちで画業の総括を行う。74年に東京赤坂の迎賓館の壁画を制作し、83年には文化勲章の受章、画家の晩年は国家によって認定された巨匠のそれだ。しかし今回展示された作品を含めて、この時期の小磯の作品は面白みを欠くように感じられる。それは画家として功成り名遂げたためではない。作品を描く必然性がうかがえないのだ。二人の作家を並べる時、私は吉原からはやむにやまれず作風を変え、それゆえに呻吟し、また新しい絵画へ向かうというダイナミクスを強く感じる。しかし小磯からはなぜその絵を描かねばならなかったかという衝動が、とりわけその晩年にうかがえないように思う。注文に応じた絵画が多かったといった理由もあるかもしれない。しかし画家の務めとは注文に応じることではなく、あくまでも絵画の本質を確認することではないかという私の考えはあまりに青臭いだろうか。もちろん私は小磯の絵画が技巧的に優れていることを認めるし、おそらく来場者の多くは吉原よりも小磯の絵画の方にシンパシーを覚えるだろう。小磯のような絵画はあってよいし、多くの人々を慰撫するものであるかもしれない。しかし私はあらためて二人の画家を比べる中で小磯の絵画に自分とは馴染まない何かを感じた。そして吉原はこのような異和感に上手く言葉を与えている。「梅原(龍三郎)、安井(曽太郎)の絵にしても、私は立派な絵だと思う。そのようなあり方というものは世の中にいっぱいある。ただわれわれの求めているものがないのだ」

# by gravity97 | 2018-04-14 11:24 | 展覧会 | Comments(0)

COMME des GARCONS Summer Collections 2018

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# by gravity97 | 2018-04-12 21:06 | MY FAVORITE | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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