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Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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原口剛『叫びの都市』

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 20086月に日本で大規模な暴動が発生したことをどのくらいの数の人が知っているだろうか。むろん私も知らなかった。場所は大阪、釜ヶ崎。奇しくもそこから5キロしか離れていない大阪国際会議場でG8サミット財務大臣会合が開催された初日に始まった暴動は5日間にわたって続き、労働者たちと機動隊との衝突が続いた。暴動の発生件数は警察の資料に記載され、本書の中にリスト化されている。それによれは196181日に発生した第一次暴動以来、この地では23回の暴動が発生したが、前回は1992年のことであるから、実に16年ぶりの出来事であったという。(ただしこれを24次の暴動とみなすのは著者らの参与観察の結果であり、警察側資料には「暴動」として認知された形跡はない)なぜ私たちはこの事実を知らないか。理由は単純だ。情報が徹底的に管制されたため、暴動は完全に不可視化されたのである。そしてもしこの暴動が発生しなかったとしても、寄せ場と呼ばれ、使い捨ての労働力として数万人の単身労働者が居住するこの地域について、かつて、そして今も私たちは情報を遮断されている。本書は長くこの地域でフィールドワークを重ねた社会学者による濃密な研究であるが。その意義は今日においてことに切実に感じられよう。
 確かに私たちは釜ヶ崎という地名を知っている。後で説明する言葉を用いるならば「流動的下層労働者」たちの日本最大の拠点として、労働争議が渦巻き、治安が悪く、しばしば犯罪者や非合法の活動家が潜伏する場所といった漠然としたネガティヴな印象とともに私たちは釜ヶ崎を認識している。本書を通読するならばこのような認識はきわめて浅薄であることも了解されるが、その点はひとまず措く。冒頭で原口は本書で論じるべき対象を次のように設定する。

 私たちが足を踏み入れ、向き合おうとするのは、釜ヶ崎と呼ばれる土地である。「地図にない町」と表現されるように、釜ヶ崎という地名は口伝えで受け継がれてきた通称だ。このほかに、「あいりん」と呼ばれることも、「ニシナリ」と呼ばれることもある。広さ一平方キロメートルにも満たない土地にこれだけの呼び名があるという事実は、その土地の形成過程がいかに複雑なものであったかをうかがわせる。

 地図が添えられているから、釜ヶ崎の地理的な広がりを知ることはたやすい。本書はある程度通史的な構成をとるが、著者の意識は徹底的にジオグラフィカルである。最初の章において著者は空間を「生きられた空間」として次のように再定義する。

 地図を描くとき、ひとは天空から地上を見下ろす視点に立つ。このときひとは身体の拘束から解き放たれ、ただ視覚だけを特権化させる。だがそれと引き換えに、眼に映るものしか見えなくなる。これに対し本書では、アスファルトを引き剥がし、嗅覚と土地勘とを頼りに地下を掘り進めていくような記述を試みたい。(中略)私たちにとって、空間とは過程でなければならない。本書の試みは、空間を〈動かす〉ことでもあるのだ。

 原口は空間とは固定されず、複数的であると断じる。この言明こそが本書の中心的な作業仮説であり、本書においては複数の空間の間に引かれる線に目が向けられる。例えば私たちは釜ヶ崎の労働者たちが労働力の「寄せ場」、「人間のセリ市」において手配師たちによってその日の仕事量によって切り分けられることを知っている。しかし彼らはどこに送られるのか。このような当然の問いさえこれまで私たちの視野に入ることはなかった。少なくとも1950年代から60年代にかけて、寄せ場が形成される過程で労働者たちが送られたのは大阪港、当時の呼び名によれば築港であった。築港は現在では天保山と呼ばれるお洒落なウォーターフロントとして賑わっている。釜ヶ崎が「あいりん」と呼び替えられたように、築港も天保山と呼び替えられる。プルーストではないが、土地の名は決定的に重要だ。釜ヶ崎が時に「ニシナリ」、時に「あいりん」と呼ばれる時、そこには命名の政治が働いている。釜ヶ崎があいりん、築港が天保山と呼び替えられる時、流動的下層労働者たちは不可視化されたのだ。さて、港湾労働にはいくつかの特色がある。まずそれはきわめて過酷な肉体労働である。港湾労働は停泊する船舶内での船内荷役と岸壁から倉庫へ荷を運ぶ沿岸労働に大別され、前者は沖仲仕(おきなかし)、後者は陸仲仕(おかなかし)と呼ばれた。特に前者は最も過酷で危険な労働であった。原口が引用する資料によれば冷凍された肉や魚が貯蔵された船内温度はマイナス25度、真夏であれば外気は35度であり、労働者たちはなんと60度の温度差のもと、アスベストを含む毒性物質が充満した環境の下、足元の定まらぬ船舶内での重量貨物の運搬に従事した。作業の後で風呂屋に向かった労働者は、入浴を拒否され、職安の水道で粉塵や汚物を洗い流してから来ることを求められたという生々しい証言がある。港湾労働の第二の特性は波動性と呼ばれる役務の多寡の不安定さである。つまり船の出入りによって荷役の量が大幅に変動し、必要とされる労働力も大きく上下した。「船混み」と呼ばれる停滞が生じれば、待ち時間はそのまま莫大な損失として海運・港湾資本を直撃した。結果としてその日の作業量に応じて必要な労働力を調達できるシステムが求められ、かかる安定性を担保するために複雑で分断された労務システム、つまり重層的な下請け制度が成立した。その日ごとに労働力を調整できる「寄せ場」は資本にとって理想的な労働力の供給源であった。しかし原口が指摘するとおり、「寄せ場」は「寄り場」でもあった。労働者が蝟集する「寄せ場」は労働者の自覚的な意識の高まりが寄り集まる場へと転じつる可能性も秘めていた。原口は二つの線を引く。一つは築港から釜ヶ崎へ、もう一つは釜ヶ崎から築港へ、海と陸を往復する二つの線。「陸の暴動、海のストライキ」という鮮烈なタイトルが付された第三章で両者の関係が詳述される。1958年に全日本港湾労働組合に国際沖仲士倉庫労働組合から連帯を求める書簡が届けられる。国際的な港湾労働者団結の背景にはアメリカの原水爆実験が太平洋岸の港湾労働者の健康にとって脅威とみなされたことがあったという。この3年後、19623月、日本全域において全日本港湾労働組合による最初の統一ストライキが組織され、各港湾では荷役不可能な状況が発生した。このストライキは産業界に大きな衝撃を与え、後に港湾労働法を成立させる力となった。そしてほぼ同じ時期、釜ヶ崎の路上でタクシーに轢かれて死亡した日雇労働者への無情な処置を引き金として大規模な蜂起が発生し、警察に対峙した群衆は以後5日間にわたって抵抗を続けた。この時期にストライキと暴動が同期したことは偶然ではない。高度成長時代のただ中にあって、港湾機能は限界に近づき、日雇労働者たちの労働力の供給なくしては維持することが不可能となっていた。暴動とストライキは陸と海を結ぶ線を切断し、資本に対して決定的な打撃を与えた。そして港湾労働者たちが労働争議に勝利した経験は、今度は海から陸へ、すなわち彼らが生活する釜ヶ崎周辺の飲み屋やドヤの中で共有され、釜ヶ崎においても全港湾関西地方建設支部西成分会が結成される。寄せ場を寄り場へと読み替え、日雇労働者たちは自覚的に集うことによって次々に労働争議に勝利し、モチ代ソーメン代と呼ばれる夏冬一時金といった経済的な対価、そして夏祭りや越冬闘争といった現在まで続く釜ヶ崎の文化を成立させていった。

 しかし70年代以降、海上コンテナ輸送の発達によって状況は大きく変わる。1967年に品川埠頭と麻耶埠頭に就航したフル・コンテナ船とコンテナ専用埠頭の建設は荷役作業を一挙に規格化し、荷役の厳密な時間管理と役務の体系化が可能となった。原口はこの状況をマルクスの言葉を借りて「時間による空間の絶滅」という資本の要請とみなす。さらに70年代半ばのオイルショックによる不況を受けて、釜ヶ崎には失業の嵐が吹き荒れる。日雇労働者たちは港湾労働に代わって建設業へと吸収される。本書の中には日雇求人数の業種別の増減を示したグラフが掲載されているが、70年代から80年代にかけて彼らの就業先は港湾から建設業に劇的に転換され、求人数自体も戦後最大までに激増する。皮肉なことに彼らが従事した建設とは都市開発に伴うそれであり、その中でも最大級の現場は築港に代わって港湾機能の中心となった大阪南港のコンテナ埠頭を含むウォーターフロント開発であった。そこには海遊館や天保山マーケットプレース、サントリーミュージアムといった新しい遊興施設が建設された。それが記憶の上書きであることはいうまでもない。築港に新設されたアミューズメント施設はそこから労働と闘争の記憶を完全に払拭し、釜ヶ崎と築港は完全に分断されたのである。

 釜ヶ崎と築港という二つの場をめぐって寄せ場の形成を歴史的に概観した後、「寄せ場の生成」と題された二つの章において、釜ヶ崎のみならず日本各地に存在する「寄せ場」との水平的な関係が主題化される。まず原口は釜ヶ崎で頻発した暴動の意味を多角的に分析し、それが議会内闘争といった合法的闘争から、広く階級闘争の一端にいたる幅広い可能性をはらんでいた点を検証する。注目すべきは後者の視点だ。60年代後半に全盛期を迎えた学生運動を経験した活動家たちが釜ヶ崎に流入し、暴力手配師に対する抗議活動の中で先鋭化し、釜ヶ崎共闘会議が結成された。全港湾西成分会が日雇労働者も労働者階級の一員とみなしたのに対して、釜ヶ崎共闘会議は日雇労働者の労働者一般に包摂されない特殊性を強調し、自らを「労務者」と定義し、「やられたらやりかえせ」という激烈なスローガンのもとに労働争議が階級闘争であることを明確化した。イデオローグである船本洲治は次のように説く。少し長くなるが重要な一節なのでそのまま引用する。

 旧社会からの汚物ではなく、帝国主義の必然的帰結にして、帝国主義が不断につくりださしている(ママ)ところの汚物―釜ヶ崎・山谷に代表される流動的下層労働者の「低賃金労働力商品生産工場」は、解体された農・漁村であり、合理化された炭鉱であり、未解放部落であり、朝鮮半島であり、(日帝本国内)鮮人部落であり、アイヌ部落であり、そして沖縄なのだ。土地、財産、生産手段から自由な労働力商品は基本的に流動的である。さて官許マルクス主義者諸君。そもそも、流動的ではない労働力商品とは一体なにものであるのか。

 このパッセージでは二つの重要な問題が提起されている。一つは在日コリアンやアイヌ、沖縄といった言葉が暗示するとおり、かかる闘争が植民地解放闘争と連動していることが明言されている点、そして日雇労働者や労務者に代わる「流動的下層労働者」という概念である。このような視点を得ることによって「寄せ場」は世界に開かれていく。ここで船本は「流動的」という言葉を掲げた。本書のサブタイトルともされていることからその重要性は認識できようが、続いて原口は一人の「下層労働者」からの聞き取りを通じてこの点を確認する。I氏とよばれるインタビューイは岡山の山間部の農村の四男として生まれ、大阪と岡山で職を転々とした後、北海道で自衛隊に入隊するが上官に反抗し、除隊して釜ヶ崎に流れ着く。彼を典型とする釜ヶ崎の日雇労働者の本質を原口/船本はその流動性に見出す。釜ヶ崎だけではない、北は札幌、仙台から東京の山谷、高田馬場、池袋、芝浦、川崎、横浜寿町、名古屋笹島、京都七条、神戸新開地、広島、呉、北九州、博多、熊本、那覇、コザへと日本各地の寄せ場に吹き寄せられる労働者は常に流動し、留まることがない。今触れたI氏も釜ヶ崎のみならず山谷、寿町でも生活をしていたことがある。流動的下層労働者は国勢調査をはじめとする権力の監視から自由である。船本は逆にこの点にこそ彼らのアドバンテイジを見出す。船本によれば流動的下層労働者は定着しないために警察権力によって実態を把握されることなく、家族や財産といった守るべきものをもたず、寄せ場を渡り歩くことによって全国的な規模の闘争を組織することができるというのだ。船本の主張の当否はともかく、私は「流動的下層労働者」という言葉から別の一群の労働者を連想した。いうまでもない、「原発ジプシー」と呼ばれ、各地の原発の定期点検を渡り歩く労働者たちだ。1985年に船本が定義したこの概念はまさに原子力発電所における下請け労働者たちを予言したかのようではないか。いずれも苛酷な労働条件の下で作業にあたり、多重下請けによって構造的な搾取を受けている。かつて無数の原子力発電所が稼働していた時期、定期点検に入った発電所を追うように日本中を流浪する彼らもまた「流動的下層労働者」の名にふさわしい。しかし港湾労働者に由来する釜ヶ崎の労働者たちが寄せ場を通じてある程度の団結を可能としたのに対して、原子力発電所の労働者たちは完全に分断されている。まことに原子力発電所が帯びる暴力性と不正義が剥き出しにされる局面ではないか。それにしても流動性という概念は私にとって大きな発見であった。私は日雇労働者にとって例えば釜ヶ崎が唯一の場所であり、抵抗はその内部から発生すると考えていた。しかし本書が明らかにするのは寄せ場が複数化されており、その間の流動というダイナミズムこそが抵抗を組織したという歴史的事実である。流動というキーワードからは難民や移民といった問題に向かっても線が引かれる。移民を厳しく制限する日本では今のところ移民や難民といった問題は前景化されない。しかし彼ら同様のデラシネが流動的下層労働者としてすでに万を単位として存在していたことを私たちは知る。

 たまたま先日、私は天王寺公園を訪れる機会があった。久しぶりの訪問であったにせよ、私は天王寺駅周辺の風景が一新されていることに驚愕した。本書中にも言及があるが、公園を閉ざすフェンスが取り払われた代償であろうか、そこからはかつての猥雑な風景、白昼のカラオケに群れる男女や人いきれのする立ち飲み屋は一掃され、「てんしば」なる白々とした空間が広がっていた。ジェントリフィケーションの進展に伴い、都市における貧民の姿は徹底的に不可視化されているのだ。終章において原口は「社会の総寄せ場化」という状況について論じる。そこで引かれる「日雇労働者がリハーサルをし、フリーターが本番を演じる」という言葉はなんとも陰惨で暗示的だ。当初は主体性を感じさせたフリーターという存在は現在の峻烈な労働状況の中で流動的下層労働者の別名、プレカリアートの最新版を意味している。原口はネットカフェやビデオ試写室といった都市の消費施設が釜ヶ崎におけるドヤの役割を担いつつあることを指摘した上で、両者の決定的な差異について論じる。かつてのドヤは狭く暑いため、夏になると労働者たちは通りに出て呑み、食べ、語った。そこで交わされた情報が資本に対抗する際の有力な手立てになったことについては先に述べた。これに対して(かつてのドヤと同様に)しばしば火災で多くの死者を出すネットカフェやビデオ試写室は完全に個室化され、そこで生活する者同士が交わる場所はない。彼らはそれぞれが所有する携帯電話を通して「デジタル寄せ場」の情報に触れ、集合場所に集まる。

 かくして、「寄せ場」は素通りされる。労働者の伝統的な拠点であったその場所は、力を奪い取られ、解体の危機にさらされる。他方でサイバー空間へとつなぎ留められた次世代の労働者たちにとっては、かつてのドヤ街のような拠点は、あらかじめ奪われている。似たような境遇に置かれた者同士が群れと化すための物的条件をもたぬまま、かれらは「スムーズに」流動させられる。

かつては寄せ場に集う労働者たちを私たちは視認できた。暴動やストライキとして出来する抵抗は街を巻き込み、労働者と手配師のやりとりは否応なく耳に入った。しかし今や私たちの前から労働者の姿も、街区の炎も、都市の叫びもかき消えてしまった。しかし今も流動的下層労働者はいたるところに存在するはずだ。少し想像力を働かすだけでよい。メルトダウンした原子力発電所の解体作業にあたる「作業員」たち、技能実習制度の美名の下で過酷な奴隷労働に従事させられているアジアの「実習生」たち(いずれも「労働者」とは呼ばれない。命名の政治だ)、彼らがかつての釜ヶ崎の労働者たちと同じ立場、場合によってはさらに苛酷な状況に置かれていることは容易に想像がつく。しかし私たちは彼らの姿を見ることができない。「叫びの都市」とは可視と不可視の相剋であるかもしれない。釜ヶ崎の寄せ場が60年代後半に成長を遂げた大きな理由は1970年に千里丘陵で開催された万国博覧会のための労働力を集約する場であったからだ。今や私たちは国家が没落しつつあるにもかかわらず、恥知らずの宰相の虚言、そして端的に贈賄という犯罪によって初めて可能となったオリンピック、さらには誰も望んでいない万国博覧会という無意味で莫大な負債を抱え込んでいる。これらのくだらない事業のために一体どれほどの流動的下層労働者が犠牲になるというのか。しかしもはや彼らの姿は不可視であって、彼らの叫びは聞こえない。



# by gravity97 | 2019-07-15 10:00 | 思想・社会 | Comments(0)

野谷文昭編・訳『20世紀ラテンアメリカ短編選』

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 岩波文庫から野谷文昭が編集した「20世紀ラテンアメリカ短編選」が刊行された。このブログでもレヴューした『テラ・ノストラ』や『2666』といった超大作を想起する時、ラテンアメリカ文学といえば長編といった印象が強いが、よく考えてみると短編にも名品が多い。フリオ・コルタサルやカルロス・フェンテスは短編の名手としても知られ、ポスト・モダン小説の鼻祖として知られるボルヘスも基本的に短編作家である。本書には1912年から1991年の間に発表された16編の短編が収録されている。オクタビオ・パス、フェンテス、そしてガブリエル・ガルシア=マルケスやマリオ・バルガス=リョサといった有名な作家も収められているが、半分は私にとって未知の作家であった。ラテンアメリカ文学の短編アンソロジーはこれが最初の試みではなく、私は以前に集英社文庫の『ラテンアメリカ5人集』を読んだことがあるが(パスの「青い花束」のみ本書と重複している)、よく知られた作家の短編を集成した5人集に比べ、本書は日本であまり知られていない作家も含めて一作家から一篇、年代的にも20世紀全般にわたっている

 ところで私は「ラテンアメリカ文学」という言葉をなんの断りもなく用いたが、これはかなり奇妙な概念である。以前にも記したと記憶するが、国家ではなく一つの大陸を文学の総称として用いる例を私たちはほかに知らない。フランス文学やイギリス文学はあってもヨーロッパ文学といった括りを言語の異なる作品に与えることは困難である。一方で私たちは一つの大陸という広大な地域で発表された文学をメキシコ文学、ペルー文学あるいはコロンビア文学といった国家の名を外してラテンアメリカ文学という総称で呼ぶことに抵抗がない。もちろんそれらがスペイン語で書かれているというアイデンティティは存在するし、現在でも私たちは時に図書館や書店でこれらがスペイン文学の亜種として分類されている場面に立ち会う。さらにいわゆる「ラテンアメリカ文学のブーム」にあって出版社や作家たちは自分たちが手がける作品を個々の「国民文学」ではなく「ラテンアメリカ文学」という一種のブランドとともに売り出す戦略をとり、実際にそれが成功した。私にしても「百年の孤独」と「緑の家」、「アルテミオ・クルスの死」を読み継ぐにあたって作家の国籍を意識することなく、むしろそこに底流する共通性が気になった。ひるがえって私たちは例えばパスとフェンテス、アジェンデとドノソといった作家たちが国籍を同じくすることに思いを向ける機会は少ない。「国民文学」というもはや時代遅れの発想こそが今後のラテンアメリカ文学研究においては一つの主題系を形成するかもしれない

 文学の国籍という問題に関して、本書は従来の意識を素直に反映している。イスパノアメリカという広い地域、20世紀という長い時間から作品を選ぶことによって、個別の国家を超えた、より広い風土における文学の可能性を探っている。このような意図は本書の構成にも明瞭に反映されている。すなわちあえて編年体をとらず、四つのテーマに沿って短編が分類される。それらを順に書き出すなら次のとおりだ。「Ⅰ 多民族・多人種的状況 / 被征服・植民地の記憶」「Ⅱ 暴力的風土・自然 / マチスモ・フェミニズム / 犯罪・殺人」「Ⅲ 都市・疎外感 / 性・恐怖の結末」「Ⅳ 夢・妄想・語り / SF・幻想」確かにいずれもきわめてラテンアメリカ的なテーマといえるだろう。私は直ちにそれぞれのテーマに深く関わる長編を挙げることができる。例えばこの順に「緑の家」、「2666」、「石蹴り遊び」、「夜のみだらな鳥」。著者を違えた四つの長編にはこれらのテーマが色濃く反映されている。もちろん編者の野谷も指摘するとおり、「多くの作品は複数の性格を備えているから、くくり方によっては別のグループ分けがいくつもできる」。しかしおそらくⅢを除いて、ほかの地域では作家たちによって共有さえることのまれな主題であり、しかもこれらは相互に扞格している。例えば多民族や多人種、あるいは自然といった主題はたやすく未開や土俗と結びつけられるが、疎外やフェミニズムは本質的に都市的な主題である。実際に私たちはラテンアメリカのエキゾチシズムを濃厚にたたえた短編で知られるコルタサルやフェンテスが「石蹴り遊び」や「遠い家族」といった知的で都市的な長編も著していることに驚く。おそらくこのような矛盾と広がりの中に「ラテンアメリカ文学」は位置している。

 収録されている作品に目を向けよう。多民族や記憶の主題をテーマにした第Ⅰ部の冒頭を飾るのはパスの「青い花束」。短編というより散文詩といった方がよかろうが、「青い目」の有無というモティーフは人種的アイデンティティと関わっている。フェンテスの「チャック・モール」は不気味で完璧な怪談だ。チャック・モールとはアステカ神話における雨の神であったと記憶している。溺死した知人の手記を通した語りの中に、生贄を求める古代の神と狂気を帯びていく語り手の現在が往還する。古代と現代、神と生贄、確かコルタサルにもほぼ同じテーマを扱った短編があったはずだ。ラテンアメリカにおける支配/被支配の関係は複雑である。一方にアステカやマヤといった先住民が存在し、時間的な重層を連ねるのに対して、他方にコンキスタドール、ヨーロッパからの征服者たちとの空間的な接触がある。そして多くの場合、新旧大陸や古代と現在は対立ではなく往還可能な二極ととらえられている。イザベル・アジェンデの「ワリマイ」とエレナ・ガーロの「トラスカラ人の罪」は民族の間、あるいは古代と現在の間の往還を主題としている。「チャック・モール」と「トラスカラ人の罪」も説話論的に相似形を示す。通常このような往還はありえないから、これらの短編は必然的に一種の幻想性を宿す。

 続く第Ⅱ部における暴力というテーマもラテンアメリカ文学ではおなじみだ。むろん暴力は普遍的な文学の主題であり、私はここに収められた短編にフォークナーの反映を認めることができるし、逆に中上健次への影響をうかがうこともできる。冒頭のウルグアイ生まれの作家オラシオ・キロガの「流れのままに」は毒蛇に咬まれた男が死ぬまでの時間を意識の流れの手法で描いた短い小説であり、1912年という早い時期に発表されていることに驚く。続いてバルガス=リョサとガルシア=マルケスというノーベル賞作家の短編が続く。バルガス=リョサの「決闘」はその名のとおり、二人の男の決闘が最初に予告され、そこへ向かって物語が収斂していく点において直ちにガルシア=マルケスの「予告された殺人の記録」を連想させる。マルケスの「フォルベス先生の幸福な夏」において惨殺されるのは女教師であるが、舞台は南アメリカではなくシチリア島だ。「午後、家に戻るとぼくたちは、首を扉のかまちに釘づけされた巨大なウミヘビをみつけた」という物語のエッセンスのごとき鮮烈な一文で始まるこの短編は少年を語り手として、地中海沿いの町で過ごす兄弟と家庭教師が体験するひと夏の出来事をみずみずしい文体で描いている。暴力という主題はラテンアメリカにおいてはさまざまのコノテーションを帯びる。生贄の儀式を伴う神話は多くの作家によってしばしば参照され、征服や植民地、あるいは独裁といった歴史や制度がこれと関わってくる。この章のタイトルに「マチスモ・フェミニズム」という言葉があるが、ラテンアメリカ文学における暴力が多くマチスモ、男性優位主義と結びついているのに対して、アナ・リディア・ベガというプエルトリコの女性作家による「物語の情熱」は同じく惨殺される女性というテーマを扱いながらも、明らかにフェミニズムの視点が導入されている。ラテンアメリカの女性作家といえば、私はイザベル・アジェンデしか知らなかったが、この短編集には女性作家も多く含まれ、本書自体がマチスモを相対化している。そういえば名作として名高いアルゼンチンのマニュエル・プイグの「蜘蛛女のキス」においては今日であればクィアとみなされる登場人物が登場し、バルガス=リョサの「都会と犬たち」は士官学校における男色のエピソードがあった。性もまたラテンアメリカ文学において一つの重要な主題系列を形作り、続く第Ⅲ章で扱われることとなる。

 ただし第Ⅲ章と第Ⅳ章は比較的短い小説が多いこともあり、扱われる主題が十分に深められているとは言い難い。第Ⅲ章の「醜い二人の夜」と「快楽人形」では性が前景化されている。ウルグアイとベネズエラという作家の国籍を考えるならば、セックスを扱うことは軍政下における表現の自由という問題と関わることがたやすく予想される。この短編集からは必ずしも明らかにはならないが、少なくとも20世紀の中盤以降、ラテンアメリカで小説を発表するということは軍政や独裁といった非民主的な体制下で表現を試みることにほかならない。この短編集には収められていないが、先述のプイグには多くの発禁になった小説があったと記憶している。先に論じた暴力という主題の突出も、非民主的な体制と無関係ではないだろうし、独裁者小説という特殊なジャンルの成立や、同じチリ出身のアジェンデにおいては明示的に、ドノソにおいては暗示的に一つの悲劇的事件が扱われていることを想起してもよかろう。そもそも本書においては「フォルベス先生の幸福な夏」と「物語の情熱」に認められるごとく、ラテンアメリカ文学においてはしばしば現地ではなくヨーロッパに舞台が設定される場合があり、これは作家たちがヨーロッパにおいて一種の流謫、亡命状況の中で小説を執筆したことを暗示している。第Ⅲ章に収められているアルゼンチンのアンドレス・オメロ・アタナシウという初めて読む作家の「時間」という短編はカフカを連想させる奇妙な短編であり、私はアルゼンチンにこれほど抽象度の高い小説が成立したことに興味をもった。以前、寺尾隆吉の「ラテンアメリカ文学入門」を読んだ際に、アルゼンチンとメキシコの文学的な充実について知ったが、ボルヘスといいこの作家といい、周縁的な地域における前衛表現の高まりは、やはりこの地域で隆盛したパフォーマンス(これについて私はクレア・ビショップの「人工地獄」をレヴューした際に論じた)との関係においても再考されてよい問題であろう。最後の第Ⅳ部に収められた三編も夢の記述、あるいは異類婚姻譚が饒舌な語りの中に浮かび上がる幻想的な物語であるが、「夜のみだらな鳥」の悪夢のような妄想、「失われた足跡」におけるSF的設定など、圧倒的な迫力に満ちた中長編を知った者としては少々物足りなく感じられた。

 現在もベネズエラの混乱が報道されている。20世紀のラテンアメリカの歴史は決して幸せなものではなかった。独裁、軍政、クーデター。「チボの狂宴」のドミニカから「精霊たちの家」のチリまで、私たちは小説をとおして血と暴力で綴られた現代史の片鱗をうかがうことができる。しかしその一方で20世紀を通じてこの大陸でかくも豊穣な文学が生まれ続けたことに驚きの念も禁じ得ない。「ラテンアメリカ文学のブーム」は1960年代に顕著となったが、この短編集を読む時、それ以前より多くの作家たちがそれに連なる豊かな成果を生み出していたことがわかる。同じスペイン語で書かれていることを唯一の共通点としながらもガルシア=マルケスやカルペンティエールの魔術的レアリズムからフェンテスの壮大な歴史改変、ドノソの寓意、そしてボルヘスのポスト・モダニズムまでそこには驚くべき多様さがある。「ボルジアの圧政はルネッサンスを生んだが、スイスの平和は鳩時計しか生まなかった」というのは映画「第三の男」の中のオーソン・ウェルズの台詞だ。少なくとも20世紀の後半において、それなりに安定した時代を送った「ヨーロッパ文学」に対して、「ラテンアメリカ文学」は激動と苦難の歴史の中から驚くべき成果を生み出しとはいえないか。






# by gravity97 | 2019-06-30 09:56 | 海外文学 | Comments(0)

佐藤優『君たちが知っておくべきこと』

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 「未来のエリートとの対話」というサブタイトルが付された本書は佐藤優が灘高校の生徒たちを招いて三年にわたって続けた対話というよりも講話をまとめた内容である。原著は一昨年刊行されたらしいが、文庫化されたタイミングで読む。

 佐藤によるあとがきにもあるとおり、エリートという言葉は日本ではどちらかというと否定的なニュアンスで用いられる場合が多い。しかし何をもってエリートと定義するかは難しく、それはこの数年強く実感される。例えば高級官僚、クオリティペーパーの記者たち、有名大学の教授たち、これらは通常エリートに分類される階層のはずである。しかし現在の政権下ではもはや日常となった官僚たちの醜行、記者たちの阿諛、学者たちの忖度を目にするにつけて、私たちが理想とするエリートと日本の現実の「エリート」との落差に目がくらむ思いがする。本書を読むとその理由が理解できるし、おそらくそれこそが佐藤が「未来のエリート」である灘高校の高校生たちに三年にわたる時間と労力を費やして伝えようとした真実の核心であろう。ここで注意しなければならないのは、聞き手たる高校生たちが「未来のエリート」であるのは決して彼らが厳しい受験戦争の勝者として最難関の高校に入学したこと、佐藤の繰り返す言葉によれば「日本における偏差値上位0.1%」に属するからではない。まえがきで興味深いエピソードが語られる。通常であればこの種の仕事を引き受けることがない佐藤がこの対話に応じることになった理由とは、佐藤が高校時代に私淑した進学塾の講師が同じ灘高出身であったことであるというのだ。灘高から東大理Ⅰに進学し、修士号をもっていたこの講師は進学塾の授業のうち60分を通常のカリキュラムに費やした後、30分を使って数論や非ユークリッド幾何学といった受験とは直接関連しない高度な内容の授業を行った。しかしそこに通う一部の生徒の親から塾に苦情が届き、佐藤以外の生徒たちは受験に直接関わる授業を行うことを求めた。このため講師は入試対策だけを目的とした授業へと切り替えることを余儀なくされたが、佐藤と講師の親交は以後も続き、佐藤は講師の下宿に出入りしては数学や英語のみならず、経済学やドイツ語の手ほどきを受けた。大学教育には否定的であったこの講師が灘中と灘高時代については楽しそうに話していたことの記憶がこの講話の直接のきっかけとなったというのだ。短いエピソードであるが、ここには学歴とエリートの本質的な乖離が露呈しているように感じられた。灘高には先輩を訪ねて意見交換する行事があり、今回の講話も(佐藤は灘高出身者ではないから異例ではあるが)その一環として実施されたという。東京大学に入ることだけを目指すのであれば、わざわざ東京に出向いて初対面の相手から話を聞くような非効率的な作業は数論や経済学の手ほどき同様に必要ないはずだ。しかしこのような行事をカリキュラムに組み込むことに高校の懐の深さというか、エリートを育てようとする意識が認められる。もちろん灘高にも大学入試だけを目的に日々を過ごす生徒たちは多いだろうが、そのような狭い視野からはエリートとしての素地を得ることはできない。そもそも自ら語るとおり、きわめて破天荒な高校生活を送り、東大受験に失敗して同志社の神学部に入学したという経歴をもつ佐藤自身もいわゆる学歴エリートではない。

 初回の講話で佐藤はこれまでの半生を振り返る。私は佐藤の著書をかなり読んできたからここで語られるエピソードはたいてい知っていた。浦和高校という名門校に学び、高校時代に東欧を一人で旅行した冒険が佐藤の原体験となる。(この旅行についても最近、旅行記としてまとめられたが私は未読だ)同志社で神学を学び、フロマートカというチェコの神学者の研究を志し、チェコへ留学するために外務省にノン・キャリアとして就職する。その後様々な曲折を経て、ロシアを専門とする外交官としてソビエト崩壊に立ち会い、外務省の暗闘に巻き込まれ鈴木宗男事件に連座して背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、東京拘置所で512日を過ごし、以後、旺盛な執筆活動を続けていることは知られているとおりだ。私が佐藤の著作を愛読するのは、まさに真のエリートとしての矜持と恐るべき教養が言葉の端々にうかがえるからであり、その彼がエリートとは何かについてわかりやすく論じた本書をこれまで読み落としていたことはむしろ意外であった。

 最初に記したとおり、本書を読むと真のエリートとは何か、そしてそれを育成するシステムが現在の日本ではほとんど機能していないことがよく理解できる。ここに収められた講話は三年にわたって実施され、対象となる灘高生は毎年異なる訳であるが、佐藤が繰り返して強調するいくつかの点がある。まず佐藤が説くのは受験勉強の重要性だ。佐藤によれば日本の高校教科書はレヴェルが高く、例えばアメリカのそれと比べても優れているから、受験のために得た知識は意味がある。しかしそこには逆説がある。佐藤は早稲田大学や慶応大学で学生たちに対して歴史の教科書に大書される歴史的事象が発生した年代を尋ねた。恐るべきことにほとんどの学生がまともに答えることができなかった。なぜか。それは「(学生たちが)受験勉強には意味がないと思っており、人間は意味がなくて嫌いなことは長時間記憶することができない」からだ。逆の例を挙げよう。アメリカの大学入試問題のレヴェルは日本の高校入試と比しても低いほどの水準であることを高校生たちも認める。しかしそのレヴェルの学生たちが6年後には日本の大学を卒業した者が及ばないほどの知識と学力を備えるのである。ここからは日本の高等教育、大学教育の欠陥が透けて見える。この問題は現代の日本におけるエリートの不在と深く関わっている。佐藤によればエリートが備えるべき教養とは文系と理系を横断する。佐藤は文系でも偏微分と重積分の知識、理系であれば歴史についての理解は最低限必要であると説いたうえで、ヨーロッパの外交官や知識人はラテン語のみならずギリシャ語を解すが、アメリカでギリシャ語に堪能なエリートは少ないというディレッタンティズムを披歴する。近年の日本の大学における教養部解体という動向がかかる教養の蓄積に逆行することはいうまでもない。さらに悲惨なのは大学院である。佐藤によれば大学入試と大学院入試を比べた場合、圧倒的に大学入試の方が難しく、大学から大学院に進んで知識を積み重ねていくという当たり前の構造が現在の日本においては完全に壊れている。このため東大卒か京大卒の学歴が欲しいが、全然そのレヴェルに達していない者が東大や京大の大学院に入って最終学歴を塗り替えるという状況が発生し、佐藤はこれを「学歴ロンダリング」と呼ぶ。私もこの点は実感している。それが端的に示されるのは博士論文の質の低下である。博士論文は原則として公刊されるから、入手することは比較的容易で、実際にこのブログで応接したいくつかの研究は博士論文を原型としている。わざわざここで論じている以上、私はそれらの研究を評価している。しかし果たしてそれらは博士論文と呼ぶに耐えるだろうか。この点は欧米の大学に提出された博士論文を原型として日本語で発表された研究と比較するならば一目瞭然である。文部科学省の意向が強く働いていることは間違いないが、大学教育の厚みが全く異なるにもかかわらず、博士論文の数だけをむやみに競う風潮は真の学知からほど遠い。

 講話自体が2013年に始められたこともあり、本書において現在の政権についての分析は必ずしも十分ではない。高校生が相手であるから生々しい話題は意図的に回避されたかもしれない。しかしエリートや教養といった主題に照らすならば、現在の政権の愚劣さもまた明らかである。安倍政権の本質は反知性主義であり、佐藤によればそれは必ず「決断主義」として現れる。「決められる政治」というスローガンだ。安倍や麻生の知性の欠落、人格の卑しさについては今さら多言を要さないが、反知性主義に染まったこの政権は文部科学省と一体となって大学と大学院という学知の拠り所を解体しようとしているのではないだろうか。本書の中にはこの状況を象徴するピエロのような人物が何人か登場する。安倍政権のもとで当時、内閣官房副長官補を務めていた外務省の出世頭、兼原伸克なる人物が著した「戦略外交原論」という本には宗教改革がイタリアで始まり、名誉革命の結果、マグナ・カルタが成立したといった珍妙というか単なる事実関係の誤りが随所に認められるが、この書物は出版社の校閲を経て日本経済新聞出版社から刊行されているという。このような人物が日本の外交戦略を立案しているのだ。あるいは佐藤が「日本型エリート」の典型として語るのは山口真由という「東大主席弁護士」である。三回生時に司法試験に合格するほどの「才媛」である彼女は東大の卒業必要単位をあえて二単位多く取るというなんともせこい方法で「首席卒業」して財務省に入省するが、このキャリアでは片山さつきレヴェルにしかなれないと気づいて弁護士に転業したという痛いエピソードが紹介されている。本書から離れても今やこのような「エリート」を何人も挙げることが出来る。例えば財務省のセクハラ高官、官邸のスポークスマンを演ずる「公共放送」の女性記者、人材派遣会社のトップとして政府の諮問会議を仕切る大学教授。私たちは政権と癒着する醜悪な「エリート」ばかりが幅をきかせる社会を目にしている。そしてその一方、日本の学校教育のシステムの中では真の教養を身につけたエリートたちを育成することはますます困難となっている。かつてティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』について触れた際、ソビエトがポーランドに侵攻するにあたって知識人層を絶滅する「斬首作戦」を断行し、人民を奴隷化した事実があったことを指摘した。クメール・ルージュも然り。独裁者や強権的な政権は知識人を嫌う。首相の盟友が大臣を務める現在の文部科学省は政権の走狗であり、彼らが政策として日本から教養をもった真のエリートを意図的に根絶しようとしていることはおおいにありうる。しかしエリートを失った国が早晩滅ぶということも忘れてはならない。本書においても述懐されるとおり、佐藤はモスクワの日本大使館に勤務時にソビエト連邦の崩壊を経験した。佐藤は生徒から仕事のモティベーションを問われ、「国家の崩壊を招いてはいけないと思ったこと」と述べている。おそらく佐藤が「未来のエリート」たちに向けてメッセージを残そうとした背景には同様の危機感があったのではないだろうか。

 それでは教養を身につけるにはどうすればよいか。佐藤はきわめて単純な指針を示す。まず自分の意志をもつこと、よい先生を見つけること、そして切磋琢磨できるよい友達を見つけることである。確かに佐藤は最初に触れた進学塾の講師をはじめ、生涯に多くのよき先生と出会っている。それについては他の著作に詳しいし、よい友達についても佐藤は著作の中で多くの頁を割いて語っている。佐藤は幸運であったが、幸いにもこの三つの指針に倣うことは私たちにとって東京大学に進学することよりはるかに容易だ。学歴ではない、真の教養、真のエリートはそこから始まるのだ。この講話は2013年から15年になされた。すでにこの時点で佐藤は安倍を典型とする世界的な反知性主義の高まりを背景に「世界のトレンドは戦争に向かう」と喝破している。しかし優秀な情報分析官であったはずの佐藤でさえ予想も出来なかった事態が出来してしまった。アメリカへ留学することへのアドバイスを求められた佐藤はヒラリー・クリントンのアメリカを体験することは意味があると答えている。佐藤の予想は外れ、今や私たちはドナルド・トランプのアメリカに翻弄されている。トランプと安倍、まことにお似合いというべき知性も品位も(佐藤がエリートの条件として説く)「ノブレス・オブリージュ」も徹底的に欠いた「指導者」たちと彼らを取り巻き、見苦しいふるまいを続ける「エリート」たちに対して「未来のエリート」たちは決然と抗することができるだろうか。もちろん同じ問いはエリートではないが、それなりに自らの仕事に責任を負う私たち全てに対しても問われている。



# by gravity97 | 2019-06-18 20:34 | 思想・社会 | Comments(0)

塚原史『ダダイズム』

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 シュルレアリスムに比べてダダイスム(このレヴューではフランス語の読みを採用する)についての概説書や研究書は少ない。後で述べるようないくつかの理由が関係しているだろうが、昨年、岩波現代全書の一冊として刊行された本書はこのような空隙を埋めるだけではなく、グローバリズムが喧伝されるこの時代にまさに時宜を得て刊行されたといってよいだろう。副題の「世界をつなぐ芸術運動」とは端的にグローバリズムの嚆矢をこの運動に求めていることを暗示しており、確かに旧大陸と新大陸、さらに東欧や南米といった周縁地域にまで派生して独自の深化を遂げた運動を私たちはほかに想像できない。おそらく唯一比肩しうるのはパフォーマンスであるが、パフォーマンスもまたダダイスムの中に一つの起源を有することを想起する時、この連想は意味をもつだろう。本書でも言及される2005年、ポンピドーセンターなどによって企画された「ダダイスム」展がチューリッヒ、ベルリン、ハノーバー、ケルン、ニューヨーク、パリとなんと六つもの都市をタイトルに冠していたことも思い起こされる。コンパクトではあるが問題意識と知見において最新の成果を反映させた本書はこの運動について知るための格好の導入といえるだろう。

 「はじめに」において塚原はダダイスムのいくつかの特性を列挙する。今述べたとおり、ダダイスムは発生するや驚くべき速度で世界中に広がり、ネットワークを形成する。運動の広がりとその速度という点においてダダイスムは美術史においても特記に値することを私は本書を通読してあらためて認識した。今述べた展覧会のカタログの冒頭に次のような言葉があるという。「ダダイストたちが大成功を収めたのは、遠距離をものともせずに多くのつながりを作り出し、あるいは維持するために、当時の新しいコミュニケーションの手段を活用して、さまざまな国籍の芸術家たちの真のネットワークを構築しようと思いついたからである」美術や思潮の伝播という主題が論じられる場合、伝播の内容が問われることはあっても、伝播の手段が問われることは稀であるが、後でも論じる通り、私は速度と媒体という主題は以後の美術を考えるにあたってもきわめて示唆的であるように感じた。

 1910年代から現代までのダダイスムの系譜を論じる本書においてはまず序章において、ダダイスムが成立する前後の状況、端的に第一次世界大戦で深く傷ついたヨーロッパにおいて、従来の価値観を全否定する発想が生まれ、やがてチューリッヒのキャバレー・ヴォルテールに集ったフーゴ・バルやトリスタン・ツァラといった若者たちによってダダイスムとして結晶していく過程が粗描される。諸説ある「ダダ」の語源についてもリヒャルト・ヒュルゼンベックとトリスタン・ツァラがそれぞれ命名者であるという説が簡単に紹介されるが、塚原はいずれかの説に与する訳ではない。私が重要と考えるのはこの言葉が明示された最初の例が雑誌「キャバレー・ヴォルテール」誌上のバルの序文とツァラとヒュルゼンベックによる「同時進行詩」においてであったという指摘である。雑誌というメディアとこの運動の親和性が暗示されているからだ。新しい運動が成立する際には誰がそれを命名したかという点がしばしば問題とされるが、マン・レイやマルセル・デュシャンが「ニューヨーク・ダダ」を創刊するにあたって、ツァラに「ダダ」という言葉の使用許可を求めたというエピソードが紹介されている。ツァラは「ダダはすべての人のものなのです」と応えたという。かかるダダイストたちの鷹揚さは分派と除名を繰り返したシュルレアリスムの党派性と大きく異なり、両者の関係を論じるうえでも興味深い。作品性や造形性が担保されたシュルレアリスムに比して、ダダイスムとは端的に一つの姿勢であり、外形的に判定することが難しかったということであろうか。

 続く第一章ではダダイスムの主要な作家、トリスタン・ツァラが焦点化され、彼の閲歴を追うかたちでダダイスムの展開が論じられる。ルーマニア生まれのツァラは日本ではまだ本格的な研究が進んでいないように思われるが、明らかに1920年代のヨーロッパの芸術家たちの結節点であり、彼の交遊の範囲にはダダイストのみならずピカソやアンドレ・ブルトン、あるいは「アブクトラクシオン・クレアシオン」の作家たち、さらにはレーニンまで含まれているという。そしてツァラはあくまでも詩人であった。音響詩や同時進行詩といった意味を欠いた、まさにダダ的な作品も多く発表しているとはいえ、ダダイスムの創始者の素養が文学に向けられていた点はダダイスムの可能性と限界をともに画定したように感じられる。ツァラとシュルレアリスム、ツァラとブルトンの関係は相当にデリケートであるから、本書の短い記述を鵜呑みにはできないとはいえ、少なくとも当初において両者の関係は悪くはない。本書では音響詩などと並んで「帽子の中の言葉」というダダ的な作詩法についての言及があるが、これがシュルレアリストたちの「美妙な死体」の原型であることは明らかだ。両者の関係については今後さらに研究が深化されることを期待したい。

 先に本書には最新の知見が反映されていると書いたが、第二章の「『ダダグローブ』と複数のダダイスム」においてはまさにこれまで論じられたことのない主題が扱われる。この章ではダダイスムの語法としてコラージュに遡る偶然性の導入の問題が論じられるが、この点はダダイスムと造形の関係と関わるので後で論じることにして、まず私たちが注目すべきはツァラによって1920年頃にパリで企画された「ダダグローブ」なるダダイスムのアンソロジーである。少なくとも私はこのような試みを本書で初めて知った。このアンソロジーについては先に少し触れたダダという言葉の使用許可と関連してニューヨークに送られたツァラの書簡の中に言及があるが、現実には発行されていない。ダダイスムの研究家として知られるミシェル・サヌイエの調査を通して、1964年にツァラの書斎からその原型と呼ぶべきフォルダーが発見されてその全貌が明らかになったとのことであるから、関係者や研究者の間では既知の事実であったかもしれないが、私は本書でその存在を初めて知り、2016年にチューリッヒのクンストハーレで展覧会が企画された際に再構成された資料集がようやく刊行されたとのことである。この問題の重要性はそこに想定されていた寄稿者たちの広がりに求められる。東欧とロシアを含むヨーロッパはもちろんアメリカ、インド、チリといった地域の作家が寄稿者として想定されていた。逆に言えば、既にこの時点でツァラはこのような人的ネットワークを確立していたのであり、私がここから連想するのはフルクサスの活動だ。私はダダイスムとフルクサスがかくも広く世界的なネットワークを構築できた理由は、本質的に造形を目的としていない言語的、詩的な運動であったことに求められるのではないかと考える。両者は言語を介して容易に世界に拡大する。その際に主要な手段となったのは雑誌であった。「391」あるいは「291」、美術館において雑誌が作品と参考資料の中間とも呼ぶべき独特の意味とともに展示に加えられるようになったのはダダイスム以降ではないか。日本でこの位置を占めるのが、村山知義らによる「MAVO」というやはりダダイスムの洗礼を受けた雑誌であったこともこれを傍証する。印刷技術の発達、写真製版の成立、あるいは郵便制度の発達といった技術的な問題と関連してこの主題はさらに深められるべきであろう。これらの雑誌がなければダダイスムはこれほどの広がりを示しえなかったのであり、新しい表現を伝達する媒体としてのリトルマガジンの可能性は例えば1950年代に日本の具体美術協会が自らの機関誌を世界中に発送して、その存在を告知しようとしたという事実へとつながっていく。

 続く「大陸を超えるダダ」の章は「大洋を超えるダダ」とした方がよかったのではなかろうか。予想されるとおり、主として論じられるのはマン・レイとデュシャンというニューヨーク・ダダ、さらに南米におけるダダイスムの展開である。ニューヨーク・ダダについてはヨーロッパのダダイスム以上に情報が多く、この章で語られるマン・レイとデュシャンのエピソードの多くについて、私は既に知っていた。塚原は美術の専門家ではないため、本書においてダダイスムの美術に関する言及はさほど多くないし、そもそもシュルレアリスムや構成主義、あるいは未来派といった運動に比して、ダダイスムは造形的な成果に乏しいように感じられる。塚原はダダイスムの原理として偶然性とレディメイドを挙げる。レディメイドが20世紀美術の決定的な手法としてデュシャンによって持ち込まれたことは広く認められている。コラージュとモンタージュを広義のレディメイドと考えるならば、確かにダダイスムの美術はその大半がこれらの手法と深く関わっていることが理解されよう。偶然性もレディメイドも20世紀美術において決定的な役割を果たすから、ダダイスムの重要性は結実としての作品よりも、これらの原理を提起した点に求められるのではなかろうか。とはいえ本書に触発されて2005年の展覧会カタログを参照するならば、さらに広い範囲の作家がこの運動との関連で取り上げられている。先般の豊田での「抽象の力」において初めて実見したソフィー・トイバー=アルプ、あるいはハンス・アルプとゲオルグ・グロッス。多様な作家たちがこの運動の広がりの中にとらえられるが、モダニズム美術の傍らに置く時、それらの作品としての質が必ずしも高くないこともまた自明であるように感じられる。なお本書ではダダイスム美術の政治的な意味についてはほとんど論じられていない点についても付言しておこう。

 「周縁からのダダ」と題された第4章では、二つの存在がクローズアップされる。すなわちニグロ芸術と女性である。まずダダイストたちが「黒人詩」の発見者であった点が検証される。ここで「黒人詩」が内容というよりも、その音響において注目された点については留意されるべきであろう。ただし彼らがニグロ芸術に対してどのような姿勢をとったかについてはプリミティヴィズムの問題とも絡めてさらに綿密な検討が必要であろうし、それは同じ章で論じられるゴーギャンやマティスといったモダニズムの正系を占める作家たちも同様である。モダニズム美術が周縁としてのアフリカをどのように受容したかについては多くの先行研究があるが、ダダイスムに関しては造形芸術ではなく言語芸術の分野において今後同様の検証が必要であり、残念ながら本書の限られた記述からはこの点は明確にうかがえることがない。もう一つの周縁、女性については個別に略伝的に記述されている。ダダイスムの女性作家といえばハンナ・ヘッヒが直ちに連想されるが、彼女以外にも多くの重要な作家がダダイスムと関連していることが理解される。トイバー=アルプについては先に触れたが、ダンサーであるメリー・ウィグマンについて以前ニューヨーク近代美術館における抽象美術の濫觴をテーマにした展覧会で私は初めて知り、強い関心をもったことを覚えている。もう一人注目すべきはエルザ・フォン=フライターク・ローリングホーフェンと呼ばれる女性だ。男爵夫人という通称をもつこの奇矯な女性はデュシャンと親交があり、伝説的な《泉》も実はデュシャンではなく、彼女が送りつけたという説がある。これらの女性作家たちについてはフェミニズムやコラージュの問題と絡めて既に香川檀や河本真理といった女性研究者の労作が発表されているが、本書は今後さらに研究を深めるにあたっての見取り図を与える。

 第5章で日本のダダイストたちが主に文学、詩の領域から取り上げられることはグローバリズムを前提とした本書においては当然の帰結であろう。高橋新吉、中原中也、瀧口修造といった詩人たちが次々に俎上に上げられ、横光利一がパリでツァラと邂逅したといった意外な逸話についても言及される。ないものねだりであることを承知したうえで述べるが、日本におけるダダイスムについて論じるにあたって、やはり大正新興芸術についての論究がないことはおおいに残念に感じられる。村山知義をはじめとする作家たちの作品についても近年研究が飛躍的に進み、いくつもの新しい知見が得られている。例えば以前このブログで応接した岡崎乾二郎の「抽象の力」においてもこれまでダダイスムとの関係で論じられることが多かった作家たちが思いがけない視野の中に現れることを経験したばかりであるし、本書で述べられるダダイスムの原理が文字通り「抽象の力」におおいに与っていることは明らかであるからだ。もっとも最初に述べたとおり、本書は主として言語芸術の領域におけるダダイスムの広がりを検証することを大きなテーマとしており、日本のみならず西欧や周縁地域においても言語芸術と造形芸術を統一的な視界にとらえることはダダイスムをめぐるまた別の主題となるだろう。「ダダイスムの現在性」と題された終章は、いささかとってつけた感じがある。デュシャンのレディメイドからボードリヤールやウィリアム・バロウズについて論及され、デイヴィッド・ボウイの「ダイアモンドの犬」が引かれるが、ことさら「現在性」などと呼ばなくとも、優れた芸術運動が後代の美術に決定的に関与することは自明であり、かつてシュルレアリスムに関してモーリス・ブランショはこの点を「ここやあそこにあるのではなく、いたるところにある。それは亡霊であり光まばゆい強迫となった」と論じた。偶然性とレディメイドをダダイスムの本質とみなす点には異論があるかもしれないが、しかし今や偶然性もレディメイドも現代美術の中核に深く位置づけられている。最後に一点指摘しておくならば、終章でネオダダイズム・オルガナイザーズ、特に荒川修作への言及がある。しかし私の考えではダダという名前を冠しているにせよ、60年代に東京で活動した作家たちをダダイスムの文脈で論じることは相当な無理がある。私は彼らの姿勢を否定するつもりはないが、彼らは破壊や反抗の身振りのもとでむしろ権威に迎合したのであり、そこに彼らの限界が存したのではないだろうか。さらに言えば、荒川修作のダイヤグラム絵画とダダイスムは何の関係もない。

 冒頭で塚原はダダイスムが第一次世界大戦直後の崩壊感覚の中に兆したことを論じる。そして今、とりわけ日本に生を受けた私たちは戦争とは異なった崩壊感覚の中にいるのではなかろうか。想像を絶する愚劣な政権のもとで私たちの社会が溶解し、無秩序の中に投げ込まれるのではないかという漠然とした予感が重苦しく私たちを覆っている。ダダイスムの成立からちょうど一世紀が経ったこのタイミングで本書が私たちの手に届いたことの意味を私たちは問い直すべきではなかろうか。



# by gravity97 | 2019-06-10 21:21 | 近代美術 | Comments(0)

筧菜奈子『ジャクソン・ポロック研究』

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 若手による興味深い研究が刊行された。京都大学へ提出された博士学位論文であるとのこと。博士学位論文にしてはやや短く、出版助成を受けた研究書にしてはやや高額な気もするが、意地悪な突っ込みはやめておこう。論点を限定したことによって問題がクリアに浮かび上がり、価格も充実した内容に見合っているということだろう。

 著者の問題意識は「その作品における形象と装飾性」という副題に明らかである。ジャクソン・ポロックの絵画、とりわけポーリング絵画を形象と装飾という二つの主題に沿って分析することが最初に述べられ、分量的にもほぼ等しい続く二章においてそれぞれの問題が順番に論じられる。私はかなり専門的にポロックを研究したから、本書を研究史の中に位置づけることができる。二つの主題のうち、前者はポロック研究にとっておなじみのテーマであり、多くの先行研究がある。これに対して後者は比較的論及されることの少なかった主題といえよう。日本においてポロックの研究史は決して厚くはない。比較的早い時期に藤枝晃雄の画期的なモノグラフが発表され、いくつかの画集や展覧会が開かれているにもかかわらず、作家の生涯やら派手なアクションが重視されがちで、作品を対象とした形式的な分析はさほど多くない。近年の注目すべき論攷のうち、『ART TRACE PRESS』に発表された論考についてはこのブログでも論じたことがあり、著者は欧米も含めて先行研究に広く目を配っているから、それらについては本書巻末の参考文献を参照していただくのがよかろう。ポロックについて論じるにあたり、形象と装飾という二つのテーマに沿ってあくまでも形式的にポロックの絵画を分析する点にまずは本書の意義を認めることができよう。

 ポロックのポーリング絵画における形象性を検討するにあたって最初に筧が注目するのはその描画の過程を記録した写真とフィルムである。さいわいにも作家のアクションは多くの写真と映像によって今日に伝えられている。しかし今述べたとおり、筧は行為ではなく写真や映像の中に記録された画面に注目する。すなわちいずれも1950年に撮影されたハンス・ネイムスによる《One: Number31.1950》の制作過程、そしてポール・ファルケンベルクがガラス越しに撮影した《Number 29. 1950》における画面の生成であり、これらの過程を分析するにあたっては1998年のニューヨーク近代美術館における回顧展に際して、カタログ中でペペ・カーメルが論じたフォトショップによる解析が全面的に援用されている。筧/カーメルの結論は、ポロックが最初に多く人体を連想させる形象を描き、そのうえにポーリングを施すことによってそれらを消していったというものである。私はカーメルの論文を読んだ際にそこで論じられるフォトショップによる解析をおおいに怪しく感じた。それはきわめて恣意的であり、例えばマイケル・フリードの分析のごとき客観性からほど遠い。筧もこのような恣意性を批判しつつも、ポーリング絵画が秘めるこのような構造自体は認めている。私が違和感を覚えるのはこのような議論の妥当性ではない。それによってポロックの絵画に対していかなる積極的な認識の転換がもたらされるかという点だ。確かにポロックが最初に形象を描いたうえでポーリングによって、それらを隠したかもしれない。しかしそれによって何が結論されるというのか。1998年にニューヨークでポロックの回顧展を見た折、会場の一角にニューヨーク近代美術館所蔵の《五尋の深み》が展示された一角が設えられ、展覧会にあたってこの作品をX線解析した結果、やはりポーリングの下に男性像のイメージが発見され、性器の部分には象るかのように鍵が埋められていたという「発見」が華々しく紹介されていたことを思い出す。この時に刊行されたカタログにカーメルの論文が収録されていたから、この展覧会には展示とカタログを通してポロック絵画の形象性を強調しようとする意図が感じられるが、会場で思わず私は苦笑してしまった。かつてロバート・モリスはポロックのポーリング絵画の特質として最終的なイメージからそれがいかに描かれたかということが理解できることを挙げた。確かにポーリングの重層をたどってその生成の過程を想像することはポロックの絵画しかありえない楽しみかもしれない。しかしポーリングの網の目の下に形象が隠されていたとしても、それは最終的に隠された訳であり、私はそこに形象が存在したことよりも結果的にそれらが隠蔽されたことこそがポロックの絵画の本質と深く関わっていると思う。ただし私はこの論文を批判している訳ではない。問題の設定にはあまり新味がないが、続いて興味深い問題が提起されるからだ。第一部の第二章で検討されるのは1934年から46年というポーリング絵画の成立に深く関与する時期に残されたいわゆる精神分析ドローイングである。ポロックがユング派の精神分析医の求めに応じて治療という目的で制作した一連の素描についてはかつて日本でも展覧会が開催され、よく知られている。これまで人物像や線の密集、あるいは象徴的形態の出現といった点において注目されてきたこれら一連のドローイングに対して筧はそれが絵文字に似ているという興味深い指摘を行う。抽象表現主義とピクトグラムの関係自体は新しい論点ではない。抽象表現主義、とりわけその生成期に周縁視(peripheral vision)と呼ばれる特殊な視覚が共有されていた点、それが原始岩面画と関係し、当時ニューヨーク近代美術館ではヨーロッパに由来しない美術の可能性を探るためにしばしば原始美術、民族美術の展覧会が開かれていたという事実も今日よく知られている。しかし筧が注目するのは原始美術一般ではなく、そのピクトグラム的特質である。この点については既に沢山遼も指摘しているが、文字的な特質、すなわちサイズが比較的均等なイメージが全面を覆う構造は直ちにオールオーバー構造を想起させる。これまでこのような構造は1946年の《熱の中の目》といった油彩画においてポーリング技法に先んじて成立したとみなされてきたが、すでにこの時期のドローイングにおいてその萌芽が認められる訳である。筧はこの構造と先に論じたオールオーバー・ポーリング絵画の初層の構造との近似を指摘する。これまでミロやモンドリアンといったモダニズムと親近性のある作家と関連して論じられてきたオールオーバー構造に対して、本書においては精神分析、あるいは岩面画といった必ずしもモダニズムの問題群となじまない角度からの分析がなされる。そして続く第三章でさらに新しい主題が追加される。日本の書芸術である。これは興味深く、かつリスキーな主題である。戦後の前衛書と抽象表現主義の関係についてはこれまでいくつかの研究が残されているが、説得的な議論は乏しい。これにあたって筧は戦術的な迂回を行う。すなわち後年のブラックペインティングにおける形象性という問題を経由させるのである。この際に参照されるは1950年に制作された一連の絵画、例えば《レッド・ペインティング》である。タイトルのとおり赤が用いられているにせよ、文字を連想させる一連の作品は強く前衛書を連想させる。確か同じ作品はアレクサンドラ・モンローがグッゲンハイム美術館で企画し、モダニズム美術への東洋の影響を紹介した問題を含んだ展覧会「第三の目」においても展示されていたと記憶する。筧は書の絵画に対する影響についての検証がこれまで不十分であった理由をクレメント・グリーンバーグの批評などを引きながら当時の地政学的状況と関連させて論じ、ブラックペインティングと書の関係を暗示するが、私の考えではいささか強引な解釈であり、長谷川三郎を墨人会のメンバーとするなど事実関係での誤りもある。知られているとおり、ポロックにおける形象性という問題は直ちに線の自立という問題と関わる。すなわちフリードはポロック絵画の独自性を西欧絵画史上初めて、線が輪郭や境界づけという機能から解放された点に求めた。ポロック絵画になんらかの形象性を求める立場はこれと対立し、ことに後期のポーリング絵画をめぐって両者は拮抗した。私は次のように考える。筧が説くとおり、初層のポーリングにおいてなんらかの形象が出現することは大いにありうる。しかし先にも述べたとおり、ポロックの独自性はその上にポーリングを重ねることによってこのような形象性を意図的に否定したことに求められるべきであり、形象の有無は重要ではない。しかし本論文は興味深い論点を提示してもいる。つまりポロックの形象が文字性と関わるとするならば、それは文字という多く類像性を欠いた線描の連なりと関わっているはずだ。文字とは一つの単位であり、いくつも連ねられて初めて意味を成立させる。私がここで注目するのは単位の反復という問題だ。つまりポロックにおいて形象が存在するとすれば、それは何かに似ているというアイコニックなレヴェルにおいて検討されるべきではなく、それが反復的に使用されるという書字的な特質において注目すべきではないか。直ちにいくつかの問題が生まれるだろう。筧も論じるとおり、ポロックの早すぎた晩年においては極端に横長のフォーマットを用いた作品が多く残されている。筧は「こうした作品からは、ポロックがドリッピングの網の目から何らかの具象的な形象を見出そうとしていた様子が見て取れるだろう。すなわちポロックは、横長のキャンバスに線描を反復するという制作方法から、再び具象的な形象を露わにする端緒をつかんだと考えられるのである」と結語する。しかし私の考えではここで目を向けるべきは具体的な形象ではなく、それが横長の画面に反復される点ではないだろうか。そしてむしろ反復を可能にするフォーマットとして極端に横長の画面が導入されたと考えるべきではないか。これまで反復はポロック、そしてポロックの絵画の対極と考えられてきた。筧も引くロザリンド・クラウスの論文(これについては最近訳出され、このブログでも論じた)において、ポロックが自らの作風を反復しないという伝説に苦しめられたことが述べられている。あるいは一見同じ動作の反復とみなされがちなアクションの中にそのような弛緩とは対極にあるリズムを認めた作家自身の発言を想起してもよかろう。しかしその基底にあたかも文字を書くかのように単位の反復があったとすればどうか。おそらくポロックはこのような反復性を隠蔽するために制作を続けたはずだ。これゆえ、ポーリングの錯綜が形象のうえに導入されたと考えてはどうか。繰り返すが、私が重要と考えるのは形象の有無ではない。なぜ形象が上書きされて隠蔽されるかという点であり、反復という視点を得ることによってこの問いに対しても一つの解答が与えられる気がする。さらに私なりの推測を広げよう。ポーリングの線は最初形象の反復性を覆い隠すために導入された。しかし後期のポーリング絵画においてはポーリングの栓自体が反復を示すという矛盾が発生した。典型的な作品は1952年の《ブルー・ポールズ》だ。典型的なポーリング絵画の上に何かを押し付けて8本の青い柱を刻んだこの作品についてかつて藤枝は色彩の多用のゆえに失敗作と断じた。私はこの作品がポロックの凋落を示す理由はむしろ作家がそれまで抑圧してきた画面の反復構造を臆面もなく展開している点に求められるのではないかと考える。この意味で私はポロックのポーリング絵画を等し並みに扱うのではなく、ポーリングの反復性に注目して区別し、内部に隠された構造(形象)ではなく、モリスがいう最後の画面からもうかがえる構造(反復)によってその展開を検証することができるのではないかと考える。

 続く装飾の問題についても本書はいくつかの興味深い論点を提起する。筧はまずモダニズム美術全般にみられる装飾を忌避する傾向、逆にポロックが影響を受けたピカソやマティスにみられる装飾的傾向や師であったベントンの影響を丁寧に確認したうえで、ポロックのポーリング絵画がしばしば批判されたその装飾性の由来として、サイズとともに今指摘した線描の反復性を挙げている。今述べた議論に引きつけるならば、装飾とは壁紙にみられるパターンの反復によって特徴づけられる。ポロックが作品を壁紙と評されることを嫌ったことはよく知られているが、この時、装飾性の問題も反復という議論の射程に収めることができるのではないか。次いで筧は装飾という問題と関して、ポロックの絵画が建築の装飾として構想された可能性を検討する。その早い例はペギー・グッゲンハイムに依頼されて制作され、現在アイオワ美術館に所蔵されている《壁画》であろう。この作品は前ポーリング期の作品であるが、知られているとおり、そこには右から左へ向かって行進するいくつものトーテム状の人体が「反復」されている。さらに後年、ポロックはトニー・スミスとともに教会建築に関わったことがあり、実現されなかったこの計画についても装飾との関係が問われる。実際にポーリング絵画が「壁画的」に用いられた例は存在する。それはセシル・ビートンが撮影し、『ヴォーグ』誌のグラビアに使用されたモデルの写真である。この写真についてはかつてT,J.クラークが詳細に論じた前例もあるが、筧は写真が示す環境的な広がりからこの問題をハプニングの創始者アラン・カプロウへと接続させる。カプロウがその主著の中でポロックのアクションと自身の「ヤード」というハプニングの写真を見開きで紹介したことはよく知られている。ポーリング絵画の内部にいるポロックに対して、カプロウはハプニングの素材とされた無数のタイヤの中にいる。カプロウの写真においてもタイヤが反復されている点には筧も注意を促しているが、私たちはここにも反復という主題が繰り返されていることを知る。つまり形象と装飾という主題をめぐって書き継がれたこの論文はポロックの絵画における反復という問題を介して、いわば裏側から透かし見ることができるような気がするのだ。最後のステラに関する章はいささかとってつけた印象がある。確かにステラのエキゾチック・バード前後の作品は画面の錯綜という点においてポロックのポーリング絵画との類比を許すし、1986年に刊行された有名な講義録「ワーキング・スペース」を通してポロックの絵画の「装飾性」へと論及することは不可能ではないだろう。しかし唐突で強引や印象は免れえない。これまで論じられた文脈、特に晩年のブラックペインティングの重要性を強調する立場からして、もしここで比較されるべき作家があるとすれば、私はステラではなくモーリス・ルイスではないかと考える。第一にルイスやノーランドのステイニング絵画はポロックのブラックペインティングへの色彩による応答ととらえることができる。さらにいえば彼らのステイニング絵画はポロックが苦闘した形象性、より正確には具象性あるいは類像性の出現を回避する試みであったと考えることができるかもしれない。モノクロームのステイニングは画面に地と像の関係をたやすく形成するために形象を暗示しやすい。しかし色彩の重層といくつかのパターンに分類される独特の形状は具体的な事物を連想させることがない。第二に彼らの絵画の巨大さはまさに壁画的な装飾と紙一重である。作品のサイズという問題はこれまでに十分に論じられたことがないが、ポスト・ペインタリー・アブストラクションにおいて抽象表現主義をしのぐ巨大な画面が使用された意味は今後問われてよいだろう。第三に筧も論じるとおり、グリーンバーグが装飾性を厳しく批判したという事情を勘案するに、彼が高く評価したルイスの絵画がなぜ装飾ではないかということを問うことは積極的な意味をもつだろうからだ。さらにレヴェルの異なった問題であることを承知で記すが、ポロックが自らの絵画を反復することを厳しく戒めたのに対して、ルイスの画業は生涯にほぼ三つのパターンを繰り返し描くことに費やされた。ここでも反復という問題が露出するのである。

 以上、レヴューというよりも本書で提起される問題に触発された私なりの見解を粗描した。きわめて粗雑な議論であることは承知しているが、優れた研究の常として、そこから作品に対していくつもの補助線を引くことができる。私自身もポロックの絵画に対していくつかの新しい発見があり、久しぶりに知的な刺激に満ちた読書体験であった


# by gravity97 | 2019-05-28 07:35 | 現代美術 | Comments(0)