Living Well Is the Best Revenge

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優雅な生活が最高の復讐である

 河出書房新社の世界文学全集の劈頭を飾り、新訳が刊行されたことを契機にジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』を読む。存在を意識しながらも読まずにいたという小説がある。かつての『路上』もそのような一冊であった。今回が初読なので、翻訳を比較することはできないが、青山南の今回の新訳は内容に見合った疾走感がある。
ニューヨークからサンフランシスコ、デンヴァーからメキシコ・シティへ、本書はサルことサルヴァドーレ・パラダイスとディーンことディーン・モリアーティの二人の間断なき移動の記録である。『西遊記』から『日輪の翼』まで移動を主題とした物語を私たちはたやすく想起できるし、アメリカ文学であれば例えば『怒りの葡萄』のごとき、偉大な先行例が存在する。しかし『オン・ザ・ロード』が異例であるのは、この移動が天竺や皇居、カリフォルニアのごとき目的地をもたないことである。ある時はヒッチハイク、ある時は車を送り届けるために、彼らはアメリカを何度も横断し、縦断する。
 セックスやドラッグといった主題が頻出するこの小説がビートニクと呼ばれる世代にとって一つの規範を提示することは容易に理解できるが、世代を超えて半世紀後に読んでも魅力が褪せることがないのは、この小説の「反抗」が単に権威や社会だけでなく、文学という制度そのものに関わっているからであるように思われる。つまり、小説とは初めと中と終わりがあり、その中で何事かが語りb0138838_21325982.jpg終えられるという暗黙の前提に対して、ひたすら移動と通過を繰り返すこの小説にあって、中心となる事件やクライマックスは存在しない。小説が基本的に時間的な構造を有しているのに対して、『オン・ザ・ロード』は空間性をその原理としている。同様にクライマックスを否定する姿勢を私たちは例えばフランスの現代小説が共有していたことを知っている。しかし貧血のようなヌーヴォー・ロマンと比べて断然こちらの方が「いいね!いいね!」
 読み始めるや直ちに同じような背景と構造をもった作品として、デニス・ホッパーの『イージー・ライダー』が想起された。しかしこの映画が最後のシーンで説話論的な構造を完結させるのに対して、サルとディーンは物語にいかなる痕跡も残すことなく、走り去っていく。1957年に発表された本書が、その10年以上後に制作されたアメリカン・ニューシネマの代表作よりはるかに革新的なゆえんである。
# by gravity97 | 2008-05-04 21:33 | 海外文学 | Comments(0)
 『水声通信』の最新号(23号)は「シュルレアリスム美術をどう語るか」を特集している。20号の「思想史のなかのシュルレアリスム」に続き、東京都写真美術館における「シュルレアリストと写真 痙攣する美」を契機に企画されたと思しきこの特集は二つの点に特色がある。まずこれまで文学との関連で論じられることが多かったシュルレアリスムをあくまでも美術の問題として捉え直している点、そして「何を」語るかではなく、「いかに」語るかという点が主題とされている点である。2002年と2006年にいずれもパリのポンピドーセンターで開催されたシュルレアリスムとダダイスムの大回顧展をはじめ、今年もMOMAでダリの回顧展が準備されるなど、今世紀に入って世界的にシュルレアリスムのリヴァイバルが認められ、本特集もこのような傾向に連なるものといえよう。
 シュルレアリスム美術に関する研究は80年代以降、特異なかたちで深められている。端的に述べるならば、これまでモダニズム美術の傍系として美術研究において否定的にとらえられてきたシュルレアリスムを逆にモダニズム美術を相対化する契機として読み直す視点が次々に提起された。シュルレアリスムとは微妙な距離をとるバタイユへの関心、特にアンフォルムという概念への関心が一つの焦点をかたちづくっていることは疑いえない。冒頭を飾る林道郎と鈴木雅雄の公開書簡をはじめ、収録された論文の多くの中でロザリンド・クラウスについて言及され、パルスあるいは水平性といった問題が議論されていることは象徴的であり、この際にはクラウスとイヴ=アラン・ボアによって96年にパリで企画された「アンフォルム」展が主要な参照項となっている。モダニズム美術の限界が露呈された今日、そこで否定あるいは隠蔽された主題を再考する重大なモメントとしてシュルレアリスムが再び脚光を浴びているということであろう。
 b0138838_1650186.jpg林と鈴木の公開書簡は書簡という形式をとっているため、求心的な議論ではないが、この主題に関する最良の論者の対話にふさわしく刺激に満ちている。そのほかの若い書き手の論文は比較的短いこともあって必ずしも説得的ではないにせよ、もはや瀧口修造を参照せずともシュルレアリスムを論じることが可能な新しい世代が登場したことを明確に告げている。
# by gravity97 | 2008-04-29 16:50 | 近代美術 | Comments(0)
 b0138838_22555071.jpg『考える人』の春季号が「海外の長編小説ベスト100」という特集を組んでいる。130名ほどの様々なジャンルの書き手からこのテーマでベスト10を募り、傾斜配点して合計するという手法を用いているため、面白みや意外性には欠けるが、概ね妥当なランキングとなっている。ベスト10に関しては、セルバンテスの『ドン・キホーテ』とメルヴィルの『白鯨』以外、私も既に読んでいた。ドストエフスキーが三作も入るのは当然ではあろうが、ほかの作家を入れたい気がする。もっともこのようなランキングは是非を問うより、欠落に思いをめぐらせる方が楽しい。
 私も自分なりの長編小説ベスト10を示すことにしよう。選定にあたっていくつかの条件を課した。20世紀以降の小説から選ぶ。一作家からは一作として、国に関してもなるべく重複を避ける。国民文学なる概念は今やナンセンスとはいえ、選別の一つの指標にはなるだろう。結果は順不同で以下のとおり。

・マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
・ロレンス・ダレル『アレキサンドリア・カルテット』
・サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』
・フランツ・カフカ『城』
・ギュンター・グラス『犬の年』
・ソルジェニーツィン『収容所群島』
・ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』
・スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』
・ガルシア・マルケス『百年の孤独』
・埴谷雄高『死霊』

 イギリス、ドイツ、アメリカについては二点ずつの選択となった。イギリスについてはいずれも国外を舞台としたエキゾチックな長編であり、ドイツとアメリカは20世紀前半と後半から一点ずつ選んだ。
 順不同とはいえ、プルーストの首位は揺るがないように感じる。フランスでもう一点選びたかったが、『失われた時を求めて』に拮抗する小説を挙げることは困難だ。イギリスからはあえてジョイスをはずした。ダレルもラシュディも大英帝国の「植民地」を舞台としている。グラスは近年の自伝の問題ともつながり、戦争責任を直接に扱った『犬の年』を採ったが、『ブリキの太鼓』と『ひらめ』も捨てがたい。『考える人』の特集でソルジェニーツィンがほとんど触れられていないことは暗示的である。ラーゲリの文学こそ20世紀の最暗黒の象徴であるはずだが、共産主義が崩壊した今となってはもはや忘却されてよいということか。フォークナーは実験的な要素の強い『響きと怒り』を選んだ。個人的には『野生の棕櫚』も捨てがたい。日本についてはなぜ大江や中上でないのか、おおいに異論もあろうが、彼らに対して例えばマルケスやフォークナーがあったとしても、私の知る限り『死霊』に類した小説は日本のみならず海外にも存在しない。
 私のリストのうち、『考える人』と重なるのは、プルースト、カフカ、マルケスである。残りの七作のうち、先に触れた未読の二作を除いた五作、すなわちドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、『罪と罰』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、カフカの『審判』(果たして長編と呼べるだろうか)を私は中学と高校で愛読した。逆に私のリスト中で高校時代に読んだのは『城』のみであった。私の若き日の読書遍歴はそのまま19世紀から20世紀にいたる世界文学史に対応していたことに今となって気づいた。
# by gravity97 | 2008-04-23 22:57 | 海外文学 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 080417

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# by gravity97 | 2008-04-20 10:47 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
このブログを立ち上げるにあたって、「ネームカード」なる設定を求められ、いくつか自己言及的な言葉を入力してみたがいずれも既に登録されていたため、ひとまず「クリティック」を名乗ることとした。「クリティック」とは四方田犬彦が1984年に著した論文集のタイトルでもある。
80年代初頭、『GS』という伝説的な雑誌の創刊に関わり、浅田彰、中沢新一らとともに「ニュー・アカデミズム」と総称された批評家たちの中にあって、四方田は今日にいたるまで精力的かつ多岐にわたる著作の発表を続けている。ヌードのピンナップから漫画、香水にいたる多様な主題を扱った本書はその後の四方田の活動を予示するかのようである。
『構造と力』、『チベットのモーツァルト』といった当時話題となった著作と比べても、私が本書に深く共感したのは、多様な話題を扱いながら多くの論文が記号論の磁場の中にあったからである。当時、私は丸山圭三郎のソシュール研究に導かれ、記号論が切り開く、驚くべき視界に魅惑されていた。
何人かの先達、とりわけロラン・バルトの影響があからさまであるとはいえ、日本において多様な文化的表象を記号論的な観点からかくも犀利に分析する、見知らぬ若手の批評家が登場したことに私は強い衝撃を受けた。四方田の批評については今後もこのブログの中で論じることとなろうが、本書は「ニュー・アカデミズム」の出発点として私の中で今なお新鮮な印象を与える。
それから20年以上が経過した昨年、四方田は師であった由良君美へ対する敬意と哀切に満ちた回想『先生とわたし』を発表した。この中で、私はこの著作が由良によって「全てデタラメ」と否定されたという事実を知る。四方田の出発点は師弟関係の終焉でもあった。
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# by gravity97 | 2008-04-17 09:29 | 批評理論 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック