NEW ARRIVAL 080704

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# by gravity97 | 2008-07-08 21:02 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
 現在の東京都庁は1985年に指名コンペで設計が公募され、下馬評どおり丹下健三が提出したゴシックの大寺院を連想させる二棟の超高層案が選ばれ、建設にいたった。このコンペには丹下のほか九者の建築事務所や建築会社の設計部が参加し、建築や予算の規模として戦後最大級の指名コンペとなった。様々な超高層棟案が提出される中、でただ一人、中層案で師丹下に挑み、敗れ去った磯崎新の軌跡とコンペでの戦いぶりを記録したノンフィクションが本書である。
 テート・モダーンからWTC跡地再開発まで、著名建築家を指名して設計を競わせる指名コンペは昨今さほど珍しくないし、実現されなかったプランの方が選ばれたプランより興味深い場合も多々あることは安藤忠雄の『連戦連敗』などを読めば明らかである。しかし実際にこのようなコンペがいかに実行されるかについての情報は多くない。日本の建築家と建築会社の設計部のみが指名されているため、いささか華やかさに欠けるとはいえ、時あたかもバブル前夜、新宿に巨大なスカイスクレーパーを建設する大事業の内幕はいかなるものであったか。
 筆者によると、東京都が示した条件は、容積率の関係で最初から高層案を強く推奨するものであったという。敷地との関係で建築家の選択は高層を一棟、二棟のいずれで設計するかという点に集約される。コンペに「ぶっちぎりで勝つ」ことを宣言した丹下は、事前の周到な「質疑応答」によって一棟案が事実上不可能であることを確認したうえで、自らの建築の集大成としてコンペ案に向かう。これに対して磯崎は官僚制というヒエラルキー=ツリー構造を相対化する作業概念としてドゥルーズ/ガタリのいう「リゾーム」構造を導入し、ツリーが暗示する垂直ではなく、水平方向を基軸としたプランに向かう。官僚が用意したプラットホームを拒否し、抽象的な理念を建築の核とする磯崎らしいプランではあるが、当時、「ミル・プラトー」や「器官なき身体」といった言葉が一部の知識人の言説に流行というより蔓延していたことを想起する時、果たしてかかる意味不明な現代思想のジャーゴンにいかに建築という実体を与えることができるかという問題が磯崎のプランの成否を握ることは誰にとっても明らかである。
 全ての芸術の中で建築はおそらく最も政治と結びつきやすい。このようなコンペに「公正さ」を求めること自体がナンセンスであろう。もちろんこの本の中でも当時の都知事、鈴木俊一の側近であった丹下のプランが選ばれたことの是非が問われている訳ではない。しかし少なくとも建築科出身の筆者が磯崎の実現されざるプランを主題とする以上、リゾーム、あるいは錯綜体といった抽象的な概念が高層案に対してどのような意味をもち、設計プランの中でいかに具体的に実現されたかという問題に対して、建築の問題として応える義務があるのではなかろうか。能力がないのか、調査不足のせいか、この本質的な問いはほとんど深められることがない。代わって延々と羅列されるのは磯崎アトリエのスタッフや磯崎本人をめぐるとりとめのない逸話である。もちろん磯崎のスタイルがどのように形成されたかという点もこのノンフィクションの主題であろうし、彼が提出した都庁の設計案とも深く関わっている。「コンペはたった一つの極端に突出したアイデアを捜している」という磯崎のコメント、あるいは磯崎のプレゼンテーションの中に村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』への言及があったといった指摘など、それなりに興味深い知見も得られるが、記述は総じて散漫で最後まで焦点を結ぶことがない。まさか磯崎が都庁プランの基本概念とした「錯綜体」を実践した訳でもあるまいが、コンペの進行と雑多なエピソードが脈絡なく交錯するため、本来ならば緊迫感をもって語られるはずのコンペの帰趨もいつのまにかうやむやとなる。さらに言えば対象に対して妙に馴れ馴れしい文章は品がない。
 筆者は十分に自覚していないが、フーコーを引くまでもなく、建築とは端的に権力関係である。この点を意識すればバブルに狂い咲いたかのような、現代のバベルの塔に反映されたいわば建築的無意識の含意は明らかである。そして国会意志を体現する建築を次々と手がけてきた丹下も、自らが出品したミラノ・トリエンナーレが学生叛乱によって粉砕された経験をもつ磯崎もこの点に十分に意識的であったはずだ。丹下は都知事という小皇帝とそれに傅(かしず)く官僚たちが下界を睥睨するための宮殿を構想した。これに対して、磯崎は巨大な建築の中にサン・ピエトロ大聖堂をしのぐ巨大な広場を取り込み、雑多な民衆が自由に交通するシティホールを設計した。垂直と水平、管理と叛乱、睥睨と交通、統制と混沌、かかる対比を検討するならば、丹下案の採用は必然であり、磯崎案が本質においてこのコンペにおいて「たった一つの極端に突出したアイデア」であった点も容易に理解される。
 b0138838_21181197.jpgコンペから10年以上が経過した。私たちはバブルとその破綻、それ以後の日本社会の閉塞と低迷を経験した。都庁と東京都現代美術館、東京国際フォーラムなどをバブル期の東京五大粗大ゴミと呼んだのは磯崎その人であった。しかし今も丹下の都庁、垂直の宮殿は下界を睥睨し、都市と地方、より正確には東京と東京以外の地域間格差はかつてないほど広がっている。地方の疲弊と対照的に、東京では少なくとも表面上は相変わらずの好況と建築バブルが続き、在日外国人や老人に対する差別を公言して憚らない小皇帝は今やオリンピックの誘致を絶叫する。いうまでもなくオリンピックとは本来不必要な大規模施設を税金で建設するための政治的儀式であり、国家がセキュリティー・システムを強化するうえでの口当たりのよい口実である。東京都庁と並ぶ丹下の代表作が東京オリンピック屋内総合競技場であったことは偶然ではない。一体誰がこのような建築を欲しているのか。そもそも公共建築とは誰のためのものか。私たちはもう一度このごく当たり前の問いから始めるべきではないか。
 
# by gravity97 | 2008-07-01 21:09 | 建築 | Comments(0)

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# by gravity97 | 2008-06-24 22:41 | MY FAVORITE | Comments(0)
b0138838_13541825.jpg ミシュラン・ガイドの日本版発売以来、美食をめぐる議論がかまびすしい。本書は故辻静雄の長男で辻調理師専門学校の校長を務める辻芳樹が世界各地に赴き、当代きってのシェフたちと語らい、厨房の秘密を探るといった内容である。
 かつて私は海老沢泰久による『美味礼賛』という辻静雄の評伝を読み、この孤高の料理人の情熱と努力、そして深い学識に感銘を受けたことがある。現在「辻静雄コレクション」としてちくま文庫にはいっている何冊もの著作は、フランス料理について日本語で書かれた最良の手引きであろう。辻が開いた伝説的なディナーは開高健の「最後の晩餐」の中でユーモラスに語られ、大岡玲なども調理人としての辻の魔術師的な手わざを書き留めている。辻の長男である筆者が食に関する英才教育を受けたであろうことは容易に想像がつく。
 美食について書くことは難しい。なぜならそれは徹底的に個人的な体験であり、同じ感覚を共有することが不可能であるからだ。気分や体調、会食の相手や話題によって同じ料理(そもそも「同じ料理」なるものさえ存在しない)の印象が全く異なることは誰でも体験的に知っている。多くの「レストラン・ジャーナリスト」なる書き手の文章が傲慢で不毛であるのは、いかに専門用語や美辞麗句を弄しようが、個人的な感覚の押しつけであり、結局のところ「私は食べた、あなたは食べていない」という言明でしかないからである。この理由により私はブログや雑誌のグルメ記事にほとんど関心がない。
 美食をモティーフとしながら、本書は食をめぐる個人的な悦楽とは関係がない。タイトルが示すとおり、本書の主題は「美食」ではなく「テクノロジー」、つまり当代一流のシェフたちがいかにして「美食」を供するかという技法の問題に限定されている。ニューヨークのフレンチ、オーストラリアの日本人シェフ、カタルーニャの三つ星レストランから日本の老舗料亭まで、登場するレストラン、料理人は多彩であるが、通読するならば、いかなる料理、いかなるシェフにとっても美食を供する秘訣が驚くほど単純であることが理解されよう。それは素材を吟味することである。本書の中にアラン・デュカスの「料理の65パーセントは素材、25パーセントが料理人の技術、10パーセントが料理人の天才によって決まる」という言葉があるが、逆に述べるならばここに登場する卓越した料理人たちの技術と天才をもっても、素材の帯びるテロワールにははるかに及ばないということであろう。今、はしなくもテロワールという言葉を引いたが、通常ワインに対して用いられ、地味と訳されるこの概念はいうまでもなく特定の土地と深く結びついている。ところで私は先ほど味覚がきわめて個人的な体験であると述べた。そしてプルーストのプチ・マドレーヌの挿話を想起すればたやすく了解できるとおり、味覚は個人の記憶と密接に結びつく。テロワールと記憶。ともに代替することが不可能な感覚や生理であり、美食とは本質的に土地と身体にまつわるきわめて限定された体験なのである。6人の料理人は自らが育った土地、あるいは逆に全く未知らぬ土地を選んで店を開き、一つの場と結びついた「美食のテクノロジー」を磨いた。しかしながら先般のミシュラン・ガイド日本版発売をめぐる狂騒を想起すればたやすく理解されるとおり、今日、三つ星級のレストランの経営とは国境や一人の天才的な料理人の創意を越えた文化的事件である。それでは洞爺湖でミシェル・ブラス、東京でアラン・デュカスのディナーを味わう体験は美食の本質と相容れるのであろうか。
 この点で私はインタヴューされる6人の料理人中、国家的シェフとしてポール・ボキューズの後に君臨するアラン・デュカスの方法がきわめて興味深かった。デュカスは東京も含め、世界各地にいくつものフラッグシップを展開する一方で、オーセンティックなレストランからデリカテッセンにいたるまで業態的にも多様な店を展開する。辻も論じるとおり、かかるデュカスの「美食のテクノロジー」が組織力にあることはいうまでもないが、本来、特定の身体(料理人の舌)と特定の場所に関わる美食という営みを、複数の身体と遍在性をとおして実現しようという営みの不可能性は誰でも理解できよう。デュカスはこの二重の困難を徹底的な人材教育と「デュカスのフレンチ」をそれぞれの土地における食材とテロワールに応じて融通無碍に変容させることによって克服しようとする。しかしその場合、「デュカスのフレンチ」のアイデンティティーは何によって担保されるのだろうか。辻はアラン・デュカスというアイデンティティーを保ちながら、同時に三つ星のレヴェルの料理を供するという点にデュカスの奇跡を認める訳であるが、モナコの「ルイ・キャーンズ」と東京の「ベージュ・アラン・デュカス」で供せられるディナーが同一であることの根拠を一体何に求めることができるだろうか。ミシュラン・ガイドでさえ都市別であることを想起する時、このような比較は辻のごとき世界的な食通によって初めて可能となるかもしれないが、かかる批評を相対化することは著しく困難であり、美食をめぐる個人的な体験が普遍的な批評性をもつという逆説はワインにおけるロバート・パーカーの事例を彷彿とさせる。
 本書は美食についての批評であるが、優れた批評の通例として、ほかの領域にも応用可能ないくつもの興味深い問題を提起している。辻がいう「美食のテクノロジー」つまり食をめぐる「優れた」文化が直ちに世界に伝播する、あるいは世界各地の文化と混交していくさまは、直ちにグローバリズムという今日私たちが直面する文化的係争の一局面として理解できよう。代替不可能性という問題もきわめて射程が広い。そもそもなにものかを代替/再現/表象することは可能かという問いはモダニズムの根幹と関わっている。このブログでは論じる対象を変えながら、今後も何度か同じ主題を扱うことになるだろう。
# by gravity97 | 2008-06-22 13:54 | エピキュリズム | Comments(0)

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# by gravity97 | 2008-06-16 22:14 | BOOKSHELF | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック