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Living Well Is the Best Revenge

KASSEL. 1987.8.17

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 5年ごとにフランクフルト近郊の小さな町、カッセルでドクメンタと呼ばれる国際美術展が開かれている。大規模な現代美術展は往々にして厳しい批判によって迎えられるが、今年のドクメンタは例外的に評判がよい。もっとも以前であれば国際美術展は美術雑誌か新聞にずいぶん遅れて紹介されるのが常であり、日本語によるレヴュー自体、それほど存在しなかった。ところが昨今はツイッターやフェイスブックを通じて無数のレヴューがリアルタイムでもたらされる。展示についての批評だけでなく、展示の混雑状況、ホテルやレストランの情報までが現地に赴かずとも入手できる時代を私たちは生きている。今や批評という営みはその中心を活字媒体から電子媒体へ、過去の記録から現在の情報へと移行しつつある。このような転換は批評の内容にどのような変化をもたらすかという点は今後、真剣に検討されるべき問題であろう。
 今年は残念ながら出かける機会はなさそうだが、私はドクメンタを過去に三度訪れたことがある。最初に訪れたのは25年前、1987年の「ドクメンタⅧ」であった。私にとって海外の国際美術展を体験する最初の機会だったためであろうか、私が訪れた三回のドクメンタのうちでも圧倒的に印象に残る展示であった。時評を原則とする本ブログとしては異例となるが、今回はいささかの懐旧の念も込めて、この展覧会について論じておきたい。

 四半世紀前に見た展覧会であるが、私の中では展示の印象は今なお鮮烈だ。1987年に開催された「ドクメンタⅧ」に赴いた私はそれが一つの不在、あるいは服喪の気配に満たされていることに気づいた。いうまでもなくその前年に没したヨーゼフ・ボイスの面影である。フリデアリチアヌム美術館の最もよい展示室、天井が高く、明るい光の差し込む一区画がボイスの展示のために用いられていた。ボイスは1984年に来日して西武美術館で個展を開き、同じ時期に東京都美術館で個展を開いていたナム・ジュン・パイクとともにパフォーマンスを行った。私自身は作家を目にすることこそなかったが、これら二つの展覧会のために東京に出かけたことを覚えている。神話的な存在であった作家が日本で個展を開き、講演さえも行ったことは十分に衝撃的であったから、数年前に水戸芸術館で開かれた「ボイスがいた8日間」と題された展覧会はおそらくは私と同じ世代で同様の感慨を抱いたキューレーターによって企画されたのであろう。ただし私自身はこの際のボイスの行状に大きな違和感を覚えたことも率直に記しておきたい。ここで縷述する余裕はないが、西武という商業資本に抱き込まれたボイスの来日は彼の説く「社会彫刻」とどのように折り合いをつけるのか、ボイスが使用した黒板を作品として収集する姿勢は美術というよりフェティシズムではないのか、多くの疑問が生じた。しかしいずれにせよ、日本を含めた当時の現代美術界にとってボイスは特別な存在であり、87年のドクメンタが一面においてボイスを追悼する儀式としての役割を担っていたことは遠来の私でさえ直ちに理解できた。
 私の記憶ではこのドクメンタには三人の日本人作家が出品していた。吉沢美香は全く印象に残っていないが、カール・アンドレのシダー・ブロックをそのまま焼き焦がしたような遠藤利克の立体と廃墟と化した教会に廃材を配置した川俣正のインスタレーションは悪くはなかった。しかし彼らも会場に並んだ欧米の作家たちの作品の横では存在感は薄かった。そして今日では信じられないことに、少なくとも私が記憶する限り、この三人以外にアジア人の作家は一人も出品していなかったのではなかっただろうか。この一方、前回の「ドクメンタⅦ」がいわゆるニュー・ペインティングの台頭によって特徴づけられたのに対して、87年の展示では特にまとめて紹介される動向はなかった。しかし新表現主義の余韻は明らかであり、私は初めて見たアンゼルム・キーファーの絵画の強度に圧倒された。エジプト神話からタイトルをとった二点の作品が展示されていた様子は今でもまざまざと眼前によみがえる。キーファーをニュー・ペインティングとみなすことには異論もあろうが、会場でもう一人私を驚かせたのはロバート・モリスの新作であった。漆黒のレリーフの中に骸骨や人体、明らかにホロコーストを連想させるイメージからはもはやかつてのミニマリストの片鱗も感じられなかった。私は作家名を何度もキャプションで確認したことを覚えている。方向はわからないが、確かに新しい美術の胎動が始まっているという思いを強くした展覧会であった。
 ドクメンタではカッセルの市街や公園にも作品が配置されている。街の中心で私は異様な風景を目にした。H状に組立てられた巨大な鉄板によって街路が遮断されているのである。最初はその区画が封鎖されているのかと思ったが、周囲をめぐるうちにこれが一つの作品であることがわかった。いうまでもなくリチャード・セラ、《ストリート・レヴェル》と題された作品であった。私はその後、セラの「公共的」な作品をいくつも見たので、今となればこの作品の結構について理解できる。しかしセラの大作を見ることさえ初めての私は市街に理不尽に介入する作品からなんとも落ち着きの悪い威圧感、悪意に近い攻撃性を感じた。私は今でもこの印象は間違っていなかったと思う。セラの作品はオブジェクションとして交通を、往来を遮断するだけでなく、視覚的にも都市の風景を遮る。一件無造作に配置されたセラの立体が風景との、建築とのきわめて計算された関係として成り立っていることを私はその後、いくつもの作品を通して知った。それは人が自分の身体を作品の中に差し出して初めて感得される違和感であり、人の安定した視覚を突き崩す違和感である。今から思えば、私が感じた違和感は私がなじんできたモダニズム美術の失効を暗示していた。《ストリート・レヴェル》は一見してそれが作品と感じられないからではなく、美術館という制度、視覚という感覚になじまない点においてモダニズム美術への本質的な批判であり、セラにとってこのような態度は一貫したものであった。そして思えば今述べたモリスの作品もモダニズムからの反転を戯画的とも呼べる露骨さで示したものではなかったか。正直に言うならば、私は当時、セラの鉄板とアンドレの金属板の本質的な差異を理解しておらず、両者が本質的に異なる営みであることを知るためにはそれから何度も国内外でセラとミニマル・アートの作品を体験することが必要であった。しかしこの時、セラの作品から感受した不穏さはそれ以後の私の美術批評の原点となったと今になって思う。
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# by gravity97 | 2012-09-09 20:54 | SENSATION | Comments(0)

神林長平『ぼくらは都市を愛していた』_b0138838_19564482.jpg 神林長平は今や日本を代表するSF作家といってよかろう。私は初期作品の抽象性が好きで80年代中盤にはよく読んだが、しばらく遠ざかっていた。もっとも特に理由があった訳ではなく、SFをあまり読まなかった時期があったこと、その間に神林が一度に固めて読むには多すぎる作品を世に送り出していたことが原因であろう。私はいわゆる火星三部作のうち、『あなたの魂に安らぎあれ』(この小説も間違いなく傑作だ)と『帝王の殻』は読んでいるが、三作目の『膚の下』は読んでいない。タイトルからも推測されるとおり、神林の作品は硬軟二つの系統があるらしいが、私はこのうちハード系の小説しか読んでいない。したがって私は神林のよい読者とは言えず、神林の作品の中で本書の位置づけについて語るべき立場にない。
 最初から弁解めいた言葉を羅列したが、それというのも、今回取り上げる新作はこのようなブランクや無知を顧みずレヴューに値する傑作であるからだ。私の印象では神林の作品では設定の抽象性と物語の具体性が拮抗しており、両者のバランスによってリーダビリティーが左右される。本書はこのバランスが絶妙なのだ。
 未読の読者の興を殺がない程度に物語の背景を説明しておこう。この小説は二人の語り手が交互に語るという手法によって構成される。一方の語り手は日本情報軍機動観測隊中尉の綾田ミウ、もう一人は公安警察官の綾田カイムである。このような構成自体が小説の主題と深く関わっている。名前から明らかなとおり二人は姉弟、正確には二卵性双生児である。このうち綾田ミウの手記には途中まで日付が記されている。20年8月という日付を特定することは難しいが、言及される装備や機器からおそらくは近未来、2020年ではないかと考えられる。そしてこの日付に対する語り手の確信が次第に揺らいでいく過程が物語の主要なプロットをかたちづくっている。通勤電車の描写から始まる綾田カイムの語りが私たちの現実とつながっている印象を与えるのに対して、東京、正しくはトウキョウシェルターと呼ばれる廃墟で索敵活動を続ける綾田ミウの手記は荒廃した異様な世界についての記述が続く。世界が廃墟と化した理由は冒頭で説明される。デジタルデータだけを消去する「情報震」と呼ばれる原因不明の現象が頻発し、情報が失われた世界で人々は相互の不信感を増幅させ、宣戦布告なき戦争を繰り返して文明を破壊したのである。この現象を究明するために、ミウは無人の廃墟と化した東京で部下とともに偵察活動に従事する。「情報震」という発想が秀逸だ。このようなテーマが3・11を契機に着想されたことは想像に難くない。IT社会を生きる私たちは大量のデータの喪失や漏洩といった恐怖に脅えながら暮らしており、実際に災害によってデータが失われる場合もある。私たちの多くにとって今や携帯やPCはデータとのインターフェイスとしてもはやライフラインといってよい。「情報震」と現実の震災はライフラインの壊滅的な破壊という点で共通している。一方、公安警察に勤務するカイムは柾谷綺羅という女性刑事とともに公園で少女が刺殺された事件の捜査に携わる。通常であれば公安警察と無関係であるはずのこの事件は物語全体の蝶番のような役割を果たしている。カイムの世界は私たちが暮らす世界と大きな相違はないから、もし二つの物語が時系列を構成するのであれば、カイムの物語の後に「情報震」が発生し、それ以後を生きるのがミウであることが予想されるが、両者が時間的な先後関係に収斂するかはしばらく判然としない。隔てられた世界からカイムとミウはお互いの存在を意識し、呼びかけ合う。このあたりは村上春樹の『1Q84』を連想させないでもないが、二つの世界がいかに関わっているかはこの小説の根幹であるから、両者の関係についてこれ以上詳しく述べることは控える。
 カイムの語る世界は私たちが暮らす現在と変わりがない。しかし最初に一つだけ異様なギミックが導入される。それは内視鏡カプセルの服用によってカイムの腹部に成長した通信用の人工神経網であり、この処置を施された者は相互に「体感通信」という一種のテレパシー、相互に意識を感受する能力を獲得する。しかし「体感通信」においては伝えたい意味だけを伝えるのではなく、抑圧している無意識や欲望、記憶までも他者に感知されてしまう。しかもこの機能は着脱不可能であるから、自分の意識の中に他者の意識も自由に混入し、しかもそれが誰の意識かわからないという異様な感覚を享受することとなるのだ。このような感覚の比喩として私はタイムライン上に無数のツイートが抗い難く流れ込むツイッターの画面を連想した。ミウの語る世界において「情報震」の後、デジタル通信が途絶している状況を考慮する時、情報の過剰と消失、二つの世界は情報に関して対照的であるといえよう。二つの世界ではいずれも不可思議な事件が続発する。ミウの世界では兵士たちが次々に失踪し、その一人は殺害されたらしい。ミウは自分が書いたはずの戦闘日誌の日付がいつのまにか改変されていることに気づく。いや、何者かによって改変されたのは世界そのものであるかもしれない。銀座のビジネスホテル、フロント係、援助交際をする少女といったいくつかの鍵概念を介して別々であった二つの世界は次第に交錯していく。公安警察に属するカイムが通常の殺人事件を担当した理由はすぐさま明らかになる。「体感通信」は公安部の秘密プロジェクトであり、殺害された少女にもこの機能が備わっていたのだ。「体感通信」を介して流れ込む無数の意識は重層し、カイムは自身が捜査中の殺人事件の加害者であり、柾谷は自分が被害者ではないかという疑念を抱く。
 内容にこれ以上立ち入ることは控えるが、私はこの小説を読んでフィリップ・K・ディックを幾度となく連想した。神林はディックの強い影響の下に出発した。最初に触れた『あなたの魂に安らぎあれ』が人間とアンドロイドの闘争、地下都市と汚染された地表といったモティーフの対比において発表当時未訳であったディックの『最後から二番目の真実』とよく似ていたことはしばしば指摘されてきた。さらに今述べた捜査官と被疑者、捜査官と被害者の一体化の感覚は『暗闇のスキャナー』を再話するかのようではないか。この小説でも様々のガジェット、記憶の改変や現実と夢の混淆といったディック的な主題が頻繁に用いられ、予想が次々に裏切られるサスペンスフルな物語が展開する。ボビィと呼ばれる体内埋込型汎用通信機、「四次元ドア」によってその場所の情報を共有できるSNSサービス、神林はディックのガジェットを今日風に更新し、虚実見定め難い悪夢のような世界を物語る。最後に示される、いや実は最初から暗示されていたテーマが、ディックの長短編に共通する「私とは何か」という思弁的な問いかけであったとしても私たちはもはや驚かないだろう。物語の終盤、この問いにひとつの答えが与えられる局面で私たちの世界観は一新される。50年代のディックのSFが冷戦下での熱核戦争への恐怖と宇宙開発の進展を色濃く反映しているのに対し、神林の小説は「3・11」以後の現実の破局(人のいない都会とは原発事故のメタファーとしても了解可能であろう)とIT技術の高度の進展を背景としているかのようだ。結末もディックの読者にとっては既視感がない訳ではない。意味ありげなタイトルがヒントであるとだけ記しておこう。
# by gravity97 | 2012-08-27 19:57 | エンターテインメント | Comments(0)

 8月という月のせいであろうか、それとも原子力発電所が再稼働されたことへの無力感のゆえか、このブログも比較的厳しい内容の記事が続く。今回取り上げる石牟礼道子と藤原新也の対談集『なみだふるはな』も何かの片手間に読めるような内容ではない。
 帯に「今語られる水俣と福島」と記された二人の対話には日付がある。すなわち2011年6月13日から15日にかけての三日間、藤原が熊本の石牟礼の自宅を訪れて交わされた会話の記録である。震災の三ヶ月後に、常に社会の弱者を見据えてきた二人が語らうならば、かなり厳しい内容となっても不思議はないが、予想に反して二人の語りはきわめて抑制されている。それは冒頭に収録された藤原新也による写真が水俣と福島に取材しながらも、多く群生する花を写した静謐な内容であることと共振しているかのようだ。猫の話題に始まり、日々の暮らしについて語りながら、時折、水俣や東日本大震災の被災地について生々しい体験が挿入される。例えば被災地で藤原が見たという「鳥山」について語られる。「鳥山」とは通常、小魚が集まった海域の上にカモメなどの海鳥が群れる現象であるが、被災地ではそれが陸上で見られた。藤原によると海鳥は瓦礫の下に埋もれた無数の死体の上に「鳥山」を作っているのだという。しかしおそらく二人にとって死とは忌避されるべきものではない。「印度放浪」における水葬された死体を犬が食べている衝撃的な写真で知られた藤原にとって、死もまた一つの自然の摂理であり、従容と迎え入れるべき出来事にすぎない。一方、水俣の豊かな自然の中で生活してきた石牟礼にとっても死そのものは自然の一部である。藤原は自分が例外的に死体をカメラに収めた状況について「それを撮るのは、人生の流れというか生々流転という世界の生理の中にその死体が置かれているからです。それは死体ではありますが自然の一部なんですね」と説く。藤原は震災直後に被災地に入った時、空気に恐怖感が残っていたと語り、道端に座り込んで東北の頑丈な親父が泣く「むごい状況」について語る。しかし不思議にも藤原の口調は落ち着いており、それは震災を自然の一部と達観しているからであろう。実際の惨状を知る時、いささか冷酷にも感じられようが、本書を通読するならば、このような感慨も理解できる。そのヒントとなるのは、三日目の対談の冒頭で石牟礼が藤原にその日のささやかな饗応について説明する箇所だ。イワシのすり身を入れた豆腐の揚げ物、タマネギとクキワカメの酢味噌和え、椿の油で桜エビとチリメンジャコを炒め、ニンニクとタマネギのみじん切りを加えた混ぜご飯、そして大根に柚子酢をかけた蜜漬けである。書き写すだけで涎の出そうなメニューであり、それぞれの食材に関する石牟礼の語りは、私たちが自然の恵みの中で生きていることをみごとに謳い上げる。このメニューには植物由来の素材が多いが、同じ恵みを動物からも得ている、つまり私たちが動物の死によって生かされていることへの感謝は、続いてきびなごをどのように「おびく」(骨をはずす)かについて石牟礼が懐かしく説明する箇所から理解することができる。自然は与え、そして奪う。震災と津波について語りながらも、二人は死者を哀悼することはあっても、自然を恨むことはない。
 しかし今回の震災にただ諦念によって臨むことは難しい。いうまでもなく原子力発電所の事故が付随したからだ。それゆえ石牟礼と藤原の対談が成立し、ミナマタとフクシマが結びつけられるのだ。以前、このブログでアイリーン・スミスが掲げる「水俣病と原発事故に共通する国、県、御用学者、企業の10の手口」を紹介したが、事故から一年半が経過しようとする現在、両者の相似性は日を追って明らかとなっている。この点を予測して震災から3ヶ月後に対談をセットした編集者の卓見は賞賛に値する。そして石牟礼と藤原はみごとにこれから起きるべき状況を予見している。私の考えではフクシマと比較されるべきはチェルノブイリやハリスバーグではない。チェルノブイリでさえ、政府は子供たちをバスに乗せて強制的に避難させたではないか。無為と隠蔽、差別と犠牲という共通点においてフクシマと結びつけられるのはミナマタであるはずだ。藤原が巻頭に掲げた一文がこの点を明確に伝えている。やや長くなるがほぼ全文を抜き出す。「1950年代を発端とするミナマタ。/そして2011年のフクシマ。/このふたつの東西の土地は60年の時を経ていま、共震している。/非人道的な企業管理と運営のはての破局。/その結果、長年に渡って危機にさらされる普通の人々の生活と命。/まるで互いが申し合わせるかのように情報を隠蔽し、さらに国民を危機に陥れようとする政府と企業。/そして、罪なき動物たちの犠牲。/やがて、母なる海の汚染。/歴史は繰り返す、という言葉を鮮明に再現した例は稀有だろう」水俣との関係を論じる時、「罪なき動物たちの犠牲」という言葉は重い。水俣病の場合、まず猫が「猫踊り病」にかかり、次々に狂死した。炭鉱のカナリアならぬ水俣の猫は水俣病の予兆として犠牲になった訳である。これに対して福島はさらに悲惨だ。住民が強制退去させられた地域には多くの畜舎や鶏舎が存在した。飼い主が戻って飼料を与えた例がない訳ではないようであるが、多くの牛や豚、鶏は放置されたまま餓死した。あまりにも状況が悲惨なためであろう、取り残されたペットを引き取るお涙頂戴的なエピソードが時折報道されることを除いて、この問題に関してマスコミは完全に沈黙を守り、私たちに知らせようとしない。私は佐野眞一の一連のルポルタージュの中で、豚舎の中の豚がついには共食いを始めるという地獄について知った。全く何の罪もない動物、さらに言うならば、人間に頼ることなしに生存できない家畜がむごく死んでいく状況は、胎児性水俣病の患者を連想させないだろうか。動物や植物と強く共感し、人の足音を聞いて逃げる貝のざわめきや、日の出に向かって一斉に合掌するタチウオ(本書の中で最も美しいイメージの一つだ)について語る二人にとって、かかる悲惨は母なる自然の所産ではない。飯館村の地面で狂ったように踊る二匹のアリ、あるいは原発近くに自生するフキの異常な大きさや桜の血のような鮮やかさへの言及は、物言わぬ動物や植物をとおして災厄の大きさを推し量ろうとする二人の感覚の鋭敏さを示している。
 二人の会話はこの災厄にどのような意味があるのか、誰が責任を負うべきかという問題にも向かう。石牟礼は杉本栄子という水俣病の患者の言葉を引く。彼女は石牟礼に次のように述べる。「私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうしてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣もくるとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく」。「苦海浄土」のエッセンスのごとき美しい言葉であるが、藤原は原発問題の解決に当たってはこのような奥ゆかしさは無力だと説き、内橋克人からの引用として敦賀市長であった高木孝一という男の演説を引く。私が絶対に使用しない言葉が含まれるが、あえてそのまま引用する。「まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわねえ。(中略)そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と。そういうことで私はみなさんに(原発を)おすすめしたい。これは信念をもっとる、信念。えー、その代わりに100年経って片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階ではおやりになったほうがよいのではなかろうか。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました。(大拍手)」杉本の言葉と並べること自体が許しがたいような暴言であるが、すべての病を背負うという言葉の横に置く時、子孫がどうなろうと今の自分さえよければよいという高木の言葉は原発推進論者のメンタリティーをあからさまに象徴している。
 今、対照的な二つの言葉を引いた。病苦を自ら背負うことを決意した弱者、そして誰が犠牲になろうとも自分さえ金銭的利益を得ればよいという強者。私が気になるのは、この20年ほどの間に後者の声が前者をかき消し、弱者が苦しみを背負うこと、強者が弱者の犠牲の上に利を貪ることを当然とする風潮が強くなってきているように感じられる点である。上に掲げた二つの言葉を対照するならば、いずれが「正しい」かは明らかであろう。しかし実際には私たちの社会では強者や声の大きな者、富める者を是とする価値観が支配的になり、例えば生活保護世帯を批判する政治家とマスコミのキャンペーン、在日朝鮮人への右翼の攻撃、あるいは公務員への異常なバッシングなど、通常であれば大声で語ることをはばかられるような主張が近年公然と唱えられ、このような正義の名を借りた弱者へのいじめを率先するポピュリストが首長として支持を得ているのである。私はこのような強者の論理の横行は政治や社会のみならず文化においても顕著に認められると感じる。今や収益によって展覧会を評価するシステムが時に美術館側から提案され、指定管理度や任期制学芸員といった美術館になじまない制度がほとんど批判されることなく導入されている。社会的優越や収益性、知名度は美術の本質とは全く関係がない。私がこのブログで村上隆や商業主義的な展覧会、雑誌を一貫して批判するのはこの理由による。
 話が飛躍してしまった。本書に戻ろう。長い間、水俣病という業苦とともに生きてきた石牟礼の言葉の端々には一種の現世への達観が見え隠れする。やはり時折発せられる貧しさと紙一重であった前近代へのやみくもの憧憬とともに、私はこの点には違和感を禁じえない。石牟礼は巻頭に「花を奉る」という詩を寄せている。この詩は次のように結ばれる。「現世はいよいよ 地獄とやいわん/虚無とやいわん/ただ滅亡の世せまるを待つのみか/ここにおいて われらなお/地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す」一輪の花が現世の地獄に拮抗するという思想は美しいが、ここには一種のペシミズム、いやニヒリズムがうかがえないだろうか。同様のニヒリズムは自分たちは滅んでもよい、いや滅ぶべきだと語る藤原にも共通している。しかし水俣には希望も残されていた。二人は水俣病になった漁師(杉本栄子の夫)が語る日の出に向かって合掌するタチウオのエピソードに深い意味を見出す。水俣の海でタチウオは何を祈るのであろうか。藤原は二日目の対話を「この福島の大きな災禍がいかなる年月を経てそのような神話を産むのか、あるいは産まないのか、僕は目の黒いうちはそれを見届けようと思います」と結語する。私は福島の事故について書かれた多くの本を読んできた。それらはほとんど愚行と無能、傲慢と隠蔽の記録であり、怒りと虚脱感しか残らなかった。事故は未だに収束しておらず、あまりにも愚かな政治を前に私たちは絶望を感じる。しかしなおもそこには希望があるのではないか。きわめて文学的な感慨であるが、水俣の経験に鼓舞されるように、被災地に咲いた花に励まされるように、本書を読んで私は初めて一抹の光明を見る思いがした。
石牟礼道子 藤原新也『なみだふるはな』_b0138838_221383.jpg
# by gravity97 | 2012-08-16 22:18 | 思想・社会 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 120815

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# by gravity97 | 2012-08-15 13:23 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

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 私らは侮辱のなかに生きています。いま、まさにその思いを抱いて私らはここに集まっています。私ら十数万人は、このまま侮辱の中に生きていゆくのか? あるいはもっと悪く、このまま次の原発事故によって、侮辱のなかに殺されるのか?
 そういうことがあってはならない。そういう体制は打ち破らなければならない。私らは政府のもくろみを打ち倒さねばなりません。それは確実に打ち倒しうるし、私らは原発体制の恐怖と侮辱のそとに出て、自由に生きていくことができるはずです。そのことを私はいま、みなさんを前にして心から信じます。しっかり、やりつづけましょう。
# by gravity97 | 2012-08-09 21:24 | PASSAGE | Comments(0)