b0138838_21312074.jpg
 ブログの更新がこれほど滞ったのはこのブログを始めて以来ではないだろうか。もちろん本務に関連してかなりの量の原稿を執筆していたことも理由の一つであるが、まずは上の書影を見ていただきたい。ついに刊行されたカルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』、1000頁を超える超大作の威容である。この小説については既に36年前に存在を知っていた。大学に入学直後、友人から勧められてガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ際の衝撃についてはこのブログにも何度か記したが、当時のラテンアメリカ文学のブームの渦中、篠田一士がおそらく朝日新聞に書いた記事の黄ばんだ切り抜きを私は未だに所持している。「フェンテスのような作家が、どうしていままで大きく紹介されなかったのか不思議でならない。まあ、いくつかの偶然が重なった結果だろうが、ラテンアメリカ独自の想像力のありかたを、このメキシコ作家ほど根源的につきつめたひとはいない。数年前に発表された『ワレラノ大地』は長大さもさることながら、歴史小説とSFを同時進行させた、その奇想天外の構想にはおどろくばかりである」それ以来、私はこの小説が訳出されることを心待ちにしていた。実際にフェンテスの小説は順調に翻訳されてきた。長編に限っても既に私は「脱皮」「アルテミオ・クルスの死」そして「遠い家族」という三つの小説を読んでいるし、いずれの作品も傑作と呼ぶことを私は躊躇しない。機会があればレヴューしたい名作揃いである。「テラ・ノストラ」の翻訳も進行中との話は仄聞していたから、店頭で本書を見た時は驚きこそなかったが、これほどの分量とは思わなかった。そして翻訳にとりかかってから10年の年月を閲したという訳者のあとがきも十分に理解できる濃密な内容だ。生きているうちにこの作品を日本語で読むことができたことをまずは感謝しなくてはならない。しかしながらこの小説は決して一筋縄ではいかない。このブログの読者であればおわかりのとおり、私は長編を好むし、小説を読むスピードは相当に速いと自負しているが、その私ですらほぼ二月の間、この小説と格闘した。おそらく本書は今年の読書体験の絶頂であり、私としてもこれほど読むことに膂力の必要な小説はプルースト以来だ。
 前置きが長くなった。テラ・ノストラ、我らの大地という小説は「旧世界」「新世界」「別世界」という三部から成り立つ。後述するとおり三部という構成にも重要な意味がある。旧世界とはいうまでもなくヨーロッパ、ハプスブルグ家に連なるスペイン王家、新世界とはアメリカ大陸、フェンテスの母国であるメキシコを意味し、第三部の別世界において舞台は再びヨーロッパに戻り、ローマ皇帝ティベリウス帝の治世から1999年12月31日という千年紀の終わりまで多様な物語が次々に挿入される。本書で扱われるのは空間としてはヨーロッパとイスパノアメリカ、時間としてはヨーロッパの全歴史という途方もない時空であり、ラテンアメリカ文学を代表する作家フェンテス畢生の大作と呼ぶゆえんである。
 この長大な小説の内容を要約することは意味がない。単純な要約を許さない反復と変奏が延々と繰り返されるからである。抽象的な比喩となるが、本書の読後感は文中で言及される鏡で出来た牢獄をめぐる体験に近い。いくつものストーリーが相互に乱反射するかのように少しずつ角度を変えて反復される。鏡の迷宮の中を歩むように次々に姿を変えて反復される物語の流れに身を任せることが本書の醍醐味である。決して読みやすい小説ではないが、この点を認識して、出来事の意味とか因果関係、あるいはメインストーリーを確定しようという試みを早い段階で放棄してしまえば本書を読む愉しみは格段に増す。しかしながら本書をレヴューする以上、内容について語らない訳にはいかない。本書は無数の断章によって構成されている。ひとまず冒頭の「肉、天球、セーヌのほとりの灰色の目」と題された断章で何が語られたかを確認しよう。場所はパリ、時代は特定されていないがおそらくは現代、世紀末的な情景の中で33日と半日前にセーヌ川の水が沸き立つという奇怪な現象が発生する。実はこの小説は円環構造をとっており、最後の章まで読み進むと、冒頭の章は1999年12月というまさに千年紀の終わりを舞台としていることが了解される。隻腕のサンドイッチマン、ポーロ・フェーボは真冬のパリを彷徨し、マダム・ザハリアという門番の老婆が出産する場面に立ち会い、赤ん坊を取り上げる。ポーロのもとには生まれた子にヨハンネス・アグリッパなる洗礼名を与えよという手紙がルドビーコという署名付きで届けられる。生まれた嬰児には背中に赤い十字の印があり、足にはいずれも六本の指があった。なんとも奇怪な冒頭である。しかし例えば33日と半日という単位、隻腕、六本の足指といった身体の特徴、アグリッパあるいはルドビーコといった固有名詞には全て意味があり、この長大な小説の中で幾度となく反復されたことが読み終えた今ならばわかる。冒頭の章と「最後の都市」と題された最後の章のみが1999年のパリを舞台としており、そのほかの章は16世紀のスペインとメキシコを主たる舞台としている。「セニョールの足元」と題された二番目の章以下で本書の中心的な登場人物が明らかとなる。セニョールと呼ばれるのはスペイン国王フィリペ二世、フィリペ二世は実在の人物でスペイン帝国の最盛期にヨーロッパに君臨した偉大な王である。セニョールの父はフランドル出身でハプスブルグ家の血統を引くフィリペ美王、母は狂女王フアナ、さらにセニョーラと呼ばれるイサベルはフィリペ二世の王妃であり、イギリス出身のイサベルはセニョールの従妹にあたる。ここにはハプスブルグ家における近親婚の歴史が暗示されている。宮廷でセニョールに傅く何人かの人物として、セニョールを補佐し、その命を実行する残忍な勢子頭グスマン、宮廷画家のフリアン修道士、占星術師のトリビオ修道士、さらに名前をもたない宮廷付の年代記作家。加えてドン・ファンやセレスティーナといったスペイン文学中で名高い人物。この小説には実在の人物と文学史上の人物、架空の人物が時に姿や名前を変えながら、入り乱れて登場する。
 どのような物語が語られるか。多くがグロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語である。領主たるフィリペ美王は領主権(初夜権のことだ)を行使して、鍛冶職人の婚礼に乱入し、花嫁を犯すように息子のフィリペ二世に命ずる。息子に拒絶されるや、フィリペは自ら花嫁の処女を奪う。セレスティーナという花嫁は自分が悪魔と交わったと感じて自傷行為に及ぶ。王妃フアナはフィリペの死体に防腐措置を施して霊柩車に乗せ、領地をめぐる。男色の罪で若者が生きたまま火あぶりに処される。グスマンが操る猛犬に襲われた狂女王は四肢を切断され、首と胴体だけの姿になって壁龕に身を置く。セニョールはグスマンに対してキリストの正統性に関する異端的な思想を語り、難破した船から現れた美しい若者がセニョーラと交わる。セニョーラは黒魔術を用いて先王たちの死体から人造人間を作り出そうとする。今任意に羅列したエピソードから理解されるとおり、なんとも不吉な物語が相互に折り重なる。時間の継起や因果律を無視して語られるそれらの物語に私たちは幻惑される。まさに無数の鏡によって乱反射する迷宮の中に迷い込んだ思いだ。さらに私たちを困惑させるのは語り手である。多くの物語は語り手が判然とせず、しばしば「そなた」という二人称が用いられることによって誰に向かって語られるかも定かではない。脈絡ないまま繰り返される物語の果て、第一部の末尾でセニョールの寝室に招き入れられた青年が新大陸における自らの体験を語る。彼が語る奇譚こそ第二部「新世界」であり、この部分は一人の話者による直線的な語りであるため、比較的読みやすい。青年はコロンブスを連想させるペドロという老人とともに大西洋を西に向かい、多くの苦難の後、新大陸へと漂着する。彼がメキシコに漂着したことは、現地におけるピラミッドと生贄をめぐるエピソードが暗示している。新世界はキリスト教と文明とは無縁であるが、黄金と財宝に恵まれた土地である。新大陸における青年の謎めいた体験の数々が第二部を構成する。奇怪な幻視に彩られた青年の語りは、彼が流れ着いた16世紀のメキシコと古代メキシコの記憶を往還する。ここでも通常の物語を律する時間性は棄絶されている。本書においては無数の物語が反復されることによって、直線的なクロノスの時間に代わる円環と反復の時間、カイロスの時間が導入される。つまり時間は一方向に流れるのではなく無限に反復するという発想だ。このような時間観が多くのラテンアメリカの小説にも共通する点は興味深い。「新世界」の物語を経て、第三部「別世界」において私たちは再びフィリペ二世の宮廷へと帰還する。新世界をめぐる青年の報告は公にされることなく、青年は国王が建設を進める大宮殿の地下牢に幽閉される。宮廷に集う者たち、「夢想家」たち、そしてドン・キホーテやポンティス・ピラト(キリストが磔刑に処された際の行政長官)といった文学上、歴史上の人物が次々に物語に召喚される。とりわけ秘書であるデオドールスを介して語られる第二代ローマ皇帝ティベリウス帝の性的放縦をめぐる描写は圧巻である。国連職員たちのドライブの悲劇的な結末を描いた『脱皮』にせよ、完璧なゴシック・ロマン『遠い家族』にせよ、これまで私はフェンテスの小説からどちらかといえば抽象的で知的な印象を受けてきた。これに対して本書ではグロテスクな性愛のイメージが横溢するエピソードに圧倒される。同様のグロテスク・リアリズムは本書の最後で全身に膿瘍を患い、文字通り血と膿の塊と化し、糞便と汗にまみれて絶命する主人公セニョールの描写に明らかだ。第三部においても時間に信を置くことはできない。ローマ皇帝に関する語りに続いて、現代のベトナム戦争を連想させる記述が続く。読者は自分たちが見知った時間とは全く異なった時間が作品を統べていることを知る。巻末にいたっては、マルケスやコルタサル、ドノソら同時代のラテンアメリカ作家が創造した人物たちも物語に参入し、メタフィクションとして本書の位置を画定する。世界は一度きりではない。世界は何度も反復される。明らかにこれが本書の一つのモティーフだ。唇にタトゥーを入れた小姓、聖痕をもつ青年、三十段の階段、手紙が封入されたボトル、物語の中でいくつもの同一モティーフが繰り返されることはかかる原理と関わっている。
 ほかにもいくつかのテーマが本書を通底している。例えば数秘学的な発想だ。この小説では至る所で三という数が繰り返される。海から救い出された三人の若者、フィリペ美王の三人の非嫡出子、作品が三部構成として実現されていることもこれと関わる。実際に「数字の三」と題された断章においては、宇宙が三という単位によって構成されていることが語られ、完全数としての三が主張される。一方で本書には随所に対立し対比される二というモティーフも認められる。例えばオシリスとイシス、カインとアベル、煙る鏡と羽毛の蛇、ロムルスとレムス、これらの二者においてはしばしば一方が一方を滅ぼす点にも留意されたい。私はこの小説は二性と三性の相剋としてとらえることができるように感じる。後で論じる通り、地理的には二元対立である「旧世界」と「新世界」に対して、あえて「別世界」というセクションが置かれたことはこの問題と関わっている。
 絵画において三という単位を取り込むのはトリプティク(三連画)である。上に掲げた通り、本書の装丁にはプラド美術館所蔵のヒエロムス・ボッシュのトリプティク《悦楽の園》が用いられている。フランドル出身のフィリペ美王と関わる物語の装丁とはまことにふさわしい。本書の中にはセニョールがこのトリプティクを仔細に見る場面が詳細に描かれ、ボッシュの署名さえ書き込まれている。今、確認したところこの作品はフィリペ二世が建造したエル・エスコリアル修道院のタペストリーのモデルに選ばれているから、現実の歴史においてもセニョールが目にした可能性は高い。祭壇画でありながらなんと奇怪なイメージか。ここに描き分けられた三つの情景、地上の楽園と悦楽の園、そして地獄はこの小説の主題とみごとに対応している。例えばここに描かれた性的な逸脱の情景はフィリペの宮廷やティベリウス帝の宮殿における乱倫の図解のようではないか。余談となるが、同じフランドルの画家たちは日本の小説家にも多くのインスピレーションを与えている。野間宏には冒頭でブリューゲルの絵画の不気味な情景が延々と描写される「暗い絵」があり、井上光晴もボッシュの「乾草の車」をタイトルに冠した中編を残している。小説の中ではボッシュの三連画とともにイタリアのオルヴィエート大聖堂からもたらされたフレスコ画について何度も言及される。あとがきによればこのフレスコ画とはルカ・シニョレッリによる一連の作品であるらしい。フランドルとイタリア、フェンテスはこの小説の中に旧世界、ヨーロッパの美術の絶頂を持ち込む。今、絵画の例を挙げたが、小説の中では唐突にカフカの「変身」の冒頭を反映した記述があるかと思えば、次の記述はどうだ。「セニョーラ、もし貴女が盲人の目が見えるようにと願うなら、雲が満月の縁にかかるその瞬間に、剃刀でもって連中の目を切り裂いてごらんなさい」この描写からルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」を連想しないでいることは難しい。フェンテスは自らの博識を傾注して、美術、文学から映画にいたるヨーロッパ文化の精華を小説に投入する。いや文化のみならず、本書は哲学や宗教、本書はまず旧世界の価値観の百科全書、そしてそれへの批判として成立している。それでは旧世界の価値観が新世界に移入された時、いかなる事態が発生したか。私の考えではかかる問いこそがこの長大な小説の主題である。
 このような意識はメキシコ人として生を受けながら、外交官として父の仕事の関係でブラジル、アルゼンチン、アメリカを転々とし、ヨーロッパでも生活したコスモポリタンたる作家の、母国を外から見る姿勢と深く関わっている。ラテンアメリカの、メキシコの「歴史」はいつ成立したか。それは旧世界によって征服されることによってではなかったか。鏡の比喩はここでも有効だ。ラテンアメリカはヨーロッパという鏡をとおして初めて自分たちのアイデンティティーを確認した。しかしヨーロッパという鏡は実は血に塗れていたのではないか。「旧世界」におけるハプスブルグ家、ヨーロッパの王家の頂点を占めるスペイン王をめぐる無数の物語はいずれも一種、阿鼻叫喚とも呼ぶべき凄惨さを秘めていた。彼らが「新世界」に到達したとしても、そこに「別世界」は成立しただろうか。いや、そこではただ「旧世界」が反復されるのみであり、グロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語が繰り返されたのではないか。新世界、旧世界、別世界の三者は成立せず、三者性は二者性に屈従する。グスマン、セニョールの残忍な勢子頭は功績を認められ、ヨーロッパで食いはぐれた無頼の徒たちを連れて新世界へ派遣される。グスマンがピサロやコルテスといった多くのコンキスタドールを象徴していることはいうまでもない。彼らが新世界で犯した残酷な所業はセニョールへの報告として間接的に語られる。先住民族への暴虐を主題とした小説としてはコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」についてこのブログでも論じた。同じ主題を扱いながらも「テラ・ノストラ」の新大陸が異なるのは、新大陸メキシコにおいてもインディオたちによって残酷な生贄供儀が繰り返されていた点だ。古代と現代が混交する(篠田であればSF的と呼ぶであろう)幻想的な筆致の中に再び反復というモティーフが立ち現れる。かくしてこの長大にして驚異的な小説は、進歩や啓蒙、教化や脱魔術といった旧大陸に由来する人間性への信頼を一挙に相対化する。それはメキシコという国家、メキシコ人という自分の出自への問いでもある。フェンテスには登場人物が自らのアイデンティティーを問う作品が多い。「脱皮」と「遠い家族」もまさにそのような小説であったが、本書は個別的な登場人物どころか、「新世界」たるラテンアメリカが自らのアイデンティティーを「旧世界」という血塗れの鏡に映し出す物語とはいえないだろうか。アイデンティティーの探求という主題はラテンアメリカ文学においても比較的異質であるように感じられる。その理由はフェンテスの個人的な資質、メキシコという場のいずれに求められるだろうか。この問題をさらに深めるために最後に一言付け加えておこう。大江健三郎、河原温、そしてルイス・ブニュエル、全く共通点をもたないこの三人の芸術家がメキシコ滞在を契機として一種のアイデンティティー・クライシスを主題にした代表作とも呼ぶべき作品を発表したことにはいかなる必然性があるのだろうか。
 暑い夏にふさわしいまことに過剰で濃密な読書体験であった。本書は上下二段組みで1000頁を超え、6000円という価格にもかかわらず、聞くところによれば、最近再版が決まったという。志のある出版社に志のある読者が応えたということであろうか。
# by gravity97 | 2016-08-31 21:39 | 海外文学 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 160801

b0138838_730406.jpg

# by gravity97 | 2016-08-02 07:31 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

b0138838_2230681.jpg

 しばらく前にDIC川村記念美術館で見た「サイ・トゥオンブリーの写真 変奏のリリシズム」についてレヴューを残しておく。素晴らしい展覧会であることは直ちに感得されたが、レヴューまで時間がかかったことは端的にトゥオンブリーの作品について語ることの迷い、困難を暗示している。
 昨年の原美術館におけるワークス・オン・ペーパーが素晴らしかったこともあり、私はトゥオンブリーを絵画とドローイングの作家であると認識していた。したがって今回の展示が「サイ・トゥオンブリーの写真」と銘打たれていたことにまず驚いた。しかし会場に赴くならば、それらの写真はトゥオンブリーの絵画やドローイングとなめらかに連なり、それどころか写真を通してトゥオンブリーの作品の本質に触れた気さえした。この意味でこの展覧会に国内に所蔵された絵画や版画、さらにサイ・トゥオンブリー財団所蔵の彫刻とドローイングが加えられ、作家の創造を幅広いジャンルにわたって通覧できたことはきわめて適切であったように感じる。まず私はトゥオンブリーが早い時期から写真という表現に手を染めていたことに驚いた。展覧会に出品された作品のうち最も早い例は1951年のブラック・マウンテン・カレッジ時代に撮影されており、翌年のヨーロッパ旅行の際に撮影されたと思しき神殿のエンタシスの写真が続く。ロバート・ラウシェンバーグのアトリエを撮影した1954年の作品も興味深い。しかしこの後、写真作品は突然中断され、再開されるのは80年代に入ってからである。カタログのテクストによれば、それは50年代後半よりトゥオンブリーが絵画の制作に全力を傾注したためであり、写真同様に彫刻もしばらく制作されなかったという。むしろ驚くべきは四半世紀を経て1980年に再開された写真が、モノクロとカラーという差異こそあれ、それまでの作品と全く違和感なく連続していることである。このような断絶と連続から私はかつてやはり四半世紀ぶりに発表された埴谷雄高の『死霊』の第五章を『群像』誌上で読んだ際の驚きを連想した。その後、2011年に没するまでおよそ30年にわたって継続的に制作されたトゥオンブリーの写真はモティーフによっていくつかに分類することができる。室内や室内に置かれた彫刻を撮影したタイプ、野菜や花を近接して撮影したタイプ、自らの彫刻や絵画を撮影したタイプ、そして風景を撮影したタイプなどである。共通するのはいずれも意図的に焦点がぼかされて不明瞭であり、何が撮影されているかすら判然としない写真も多い。よく知られているとおり、トゥオンブリーについてはロラン・バルトが比較的長い論考を残しており、そこで提起された盲目性という概念と関連してしばしば論じられてきた。バルトといえば「明るい部屋」と題された写真論でも知られており、盲目/光の欠如、明るい部屋、写真という三つのコンセプトを並べるだけでもトゥオンブリーについて短い論文が書けそうだ。ただし私はバルト的な高踏さとは程遠い人間であるから、ここでは作品から受けたいくつかの感想をひとまず記すに留める。
 私が感じた印象の一つは事後性である。報道写真を例にとるとわかりやすいが、本来、写真という表現の一つの目的はなんらかの決定的瞬間を記録することであろう。同時性といってもよい。これに対してトゥオンブリーの写真は何かが終えられた後のように感じられないだろうか。廃墟や雑然とした室内、散らされた花々、これらのイメージは何事かが終えられた痕跡のようだ。しかも何が起きたかは明らかではない。一種、神秘性のオーラに包まれたイメージ。とりわけラウシェンバーグのアトリエを撮影した作品にこのような雰囲気は濃厚である。散らかったアトリエを撮影した写真には有名な先例がある。いうまでもなく描画するポロックを撮影したハンス・ネイムスの一連の写真であり、そこには作家のアクションのみならず様々の素材が放置されたアトリエが映し出されており、1967年のニューヨーク近代美術館におけるポロックの回顧展に際して展示されたそれらの写真がロバート・モリスやリチャード・セラらのアンチフォームあるいはプロセス・アートと呼ばれる作品にインスピレーションを与えた可能性があることが指摘されている。トゥオンブリーの写真は54年に撮影されているが、雑然としたラウシェンバーグのアトリエはモリスやセラのフロア・ピースの記録写真であるといっても違和感はないだろう。出品作の中でもかなり異質なこの写真がどのような経緯で撮影されたかは不明であるが、興味深い作例といえよう。そして事後性とはトゥオンブリーの絵画やドローイングにも認められる。ロザリンド・クラウスは『視覚的無意識』の中で次のように記している。「1955年までにトゥオンブリーは、表現主義の絵具をたっぷり含んだ刷毛による絵画をやめ、その代わり、尖った鉛筆の先端を用いて、なめらかに漆喰を塗ったカンヴァスの表面を傷つけ、引っ掻き、荒廃させ始めた。すなわち彼は落書きをする者や略奪者、まっさらな壁を毀損する者の攻撃の道をたどり始めた。そして毀損者のモデルとしたのが、ジャクソン・ポロックであることを彼は明らかにした」展示されていた《What Wing Can Be Held ? 》という絵画の表面に書き散らされた、時にエロティックなイメージがあえて言うならば便所の落書きを連想させることは意味がある。落書きとは完成されたイメージに対して事後に介入することであり、ひとたび落書きされるやイメージは永遠に毀損される。この意味においてトゥオンブリーの作品は事後的であり、絵画がはらむ緊張はこの問題と関連している。一つ間違えば全てのイメージがキャンセルされる緊張は今回展示されたドローイングからも濃厚に感じられた。
 私が感じたもう一つの印象は触覚性である。既に述べたとおり、多くの写真はピントがぼけており、写された対象が何であるか判然としない場合が多い。特に今回の展示では作品の横にキャプションが付されておらず、会場で配布されたフロアプランと突き合わせる必要があるため、写り込んでいるのがズッキーニであるかチーズであるかを一目で理解することは困難である。そもそもそのような確認の必要があるだろうか。彫刻のディテールを写し込んだ作品も多く出品されていたが、それらのイメージと食品を近接して撮影した作品はほとんど区別がつかない。写真とは視覚的な営みであるがトゥオンブリーの作品は、手を伸ばせば触れることができるような感覚、触覚的な印象が強い。彫刻や野菜、花、通常、触れることによって私たちがその存在を感知する対象が視覚的に判然としない状態で提示されている。展示の冒頭に「詩を読むことは目で聞くこと、詩を聞くことは耳でみること」というオクタビオ・パスのエピグラフが掲げられている。どのような意図で選ばれたかわからないが、確かにトゥオンブリーの写真の共感覚的な在り方を象徴する言葉である。そしてこのような作品の在り方はトゥオンブリーの絵画やドローイングにも共通しているのではなかろうか。今回は絵画の展示は少なかったが、私はかつてヒューストンでメニル・コレクションに収められた大作をまとめて見たことがある。しばしば小さく文字や数字が書き込まれた画面は時に身体のスケールに親密であるが、離れて一望するならば身体をはるかに超えるスケールを帯びている。近接して触覚的に対峙すべきか、離れて視覚的に一望すべきか、身の置きどころがはっきりとしない。今回、私は同様の感覚を同じ美術館のロスコ・ルームで圧倒的なロスコの作品の前に立った時にも味わったから、今回この美術館でトゥオンブリーの展覧会が開かれたことはおおいに意味がある。そしてこのような共感覚は別のレヴェルにも反映されているのではないか。すなわちトゥオンブリーの写真においていくつかの感覚が捩り合わされるように、トゥオンブリーは絵画とドローイング、彫刻と写真といった作品のジャンルも捩り合わす。いくつかの写真にはトゥオンブリーの彫刻や絵画が写り込んでいる。いうまでもなく、それらは作品の記録として撮影されたのではなく。近接し、焦点をずらすことによって不分明なままその姿を浮かび上がらせている。トゥオンブリーは明瞭さに抗う。モダニズム美術とは絵画や彫刻、ドローイングや写真といったメディウムをあらかじめ切り分けたうえでそれぞれのジャンルにおける純粋化をはかった。ジャンルを横断するトゥオンブリーの実践はかかる前提に抗う。この意味において今回の展示自体がトゥオンブリーの作品の本質に連なる問題意識に裏づけられていたといえよう。
 私はトゥオンブリーの作品の特質として事後性と触覚性を挙げた。これらはいずれもモダニズム絵画の原理に対する異議である。モダニズム美術にとっては現在性こそが恩寵であり、絵画とは事後ではなく現在として提示されるべきであるからだ。モダニズム絵画がなによりも視覚性を重視してきたことはいうまでもない。これまで私にとってトゥオンブリーの絵画は魅力的であるが、なんとも言語化しがたいものであった。今回の展示を見て、ようやく私は得心することができた。時に抽象表現主義との類似が論じられることがあったとしても、トゥオンブリーの絵画はその本質においてモダニズム美術への根底的な異議申し立てとして成立している。先ほども少し触れたが、このような作品の体験をロスコ・ルームにおいて作品を享受する体験と比較することは大きな意味をもつ。このブログで論じるにはあまりに大きな問題であるから、これ以上議論を敷衍することは控えるが、思いをめぐらせるならば数年前までこの美術館にはバーネット・ニューマンの《アンナの光》さえ展示されていたのだ。トゥオンブリーとロスコ、さらにニューマンの傑作を一つの場で体験できるような美術館を私は知らない。それはモダニズム絵画の絶頂、そしてその体験を様々な角度から検証するうえで、世界的にも例のない機会になったはずだ。この美術館がコレクションの中からレンブラントやルノアールではなく、ニューマンを売却したことの代償は限りなく重い。
# by gravity97 | 2016-07-19 22:33 | 展覧会 | Comments(0)

「1945年±5年」

b0138838_21592755.jpg
 事後の報告となるが、兵庫県立美術館で先日まで開催されていた「1945±5年」についてレヴューを残しておきたい。(7月30日から10月10日まで広島市現代美術館に巡回)昨年は戦後70周年ということで、第二次大戦とちなんだ多くの展覧会が開かれた。私も名古屋と東京でこれに連なる展覧会に足を運び、このうち藤田嗣治の展示についてはこのブログでもコメントした。展覧会が重なると重要な作品は取り合いとなってしまうから、あえて一年の間をおいたということであろうか。充実した展示であった。そしてこの一年でさらにきな臭くなった世情を背景に、画家と表現、戦争と美術といった問題を考えるうえでもこの展覧会は切実な問題を提起しているように感じられた。
 「1945年±5年」というタイトルが展覧会の内容を要約しており、出品作品も制作年の機械的な限定の中から選ばれている。戦争記録画をはじめ、いくつかの中心的な主題を指摘することはできるが、むしろいくつもの主題のゆるやかなつながりの中に10年間の表現を検証することにこの展示の意味があるだろう。展覧会は松本竣介の《街(自転車)》という作品から始まる。1940年の作品であるから、すでに日中戦争は始まっており、人々の生活は統制下にあったはずだが、そこに描かれるのはごく普通の街景である。実際に展覧会の導入部に展示された作品は戦争を感じさせることがない。松本と駒井哲郎による都市を描いた風景画、そして小磯良平の一連の肖像画、中でも有名な集団肖像画《斉唱》は1941年に制作されている。これらの作品は戦時にあっても日常的な情景が描かれていたという当たり前の事実を示しているが、次に述べるとおり、今挙げた画家たちが戦火の広がる中でどのように身を処したかという問題と重ねて考えてみる必要があるだろう。この展覧会は構成が巧みで、テーマに沿ってほぼ時系列に従って作品を見る中でカタログにカテゴライズされたいくつかの主題が浮かび上がる。戦時下の日常を描いた作品に続いて、ハルピンや京城、あるいは満州といった植民地の風景を描いた作品が展示される。ここでも多く日常の光景が描かれているから、この時点で私たちはそこに戦争という背景を見出すことは困難である。植民地の表象という問題は近年、美術の領域でも大きな注目を浴びており、私は同じ美術館で見た「官展にみる近代美術」という展覧会については既にレヴューしている。この展覧会では日本人作家が植民地を訪れた際の記録としての多く風景画が展示されており、一種のエキゾチシズムを漂わせている。文学に関する川村湊の仕事、あるいは先日物故した松本雄吉が率いる維新派に見られた南洋への志向、かつて日本の版図であった植民地をめぐる表現への関心はほかの領域でも高まっていることを指摘しておこう。
 しかし植民地は時に戦場でもありえた。展覧会では伊谷賢蔵の《楽土建設》のあたりから、戦時色が強まり、多くのいわゆる戦争記録画へとつながっていく。現在東京国立近代美術館に無期限貸与されている戦争記録画については近年研究も進み、いくつかの画集も刊行されて、私たちも馴染んできた。昨年の藤田嗣治の全作品展示の中で多くの戦争記録画が一堂に展示されたことも記憶に新しい。今回の展覧会を見て、そして企画者によるカタログのテクストを読んで私はあらためて思い当たったのであるが、戦争記録画に描かれた兵士たちは多く後姿もしくは横から描かれる場合が多い。論じられているとおり、それは報道カメラマンの視点である。従軍した画家たちは兵士たちと行動を共にするのであるから、常に同じ方向を向き、彼らを後ろからとらえることしかできない。兵士たちを正面からとらえる視点はむしろ敵の視点なのだ。カタログによればこの問題に関して、河田明久は興味深い指摘を加えている。すなわち日中戦争という理念のはっきりしない戦争を描く場合には登場人物が画面に背を向ける構造が多かったのに対し、欧米を排斥するという大義を得たアジア・太平洋戦争においては兵士たちが正面から描かれる演劇的な構図が増えたという。構図の問題については後で再び触れることにして、展示には花岡萬舟や清水登之といった画家の、私にとっては初見の作例が加えられ、さらに従軍画家ではなく徴兵されて戦地に赴いた画家たちの現地でのスケッチや家族に向けて描かれた手紙類も展示されていた。必ずしも発表することを前提としないそれらのスケッチや書簡も画家たちと戦争との関わりを知るうえでは興味深かった。今まで戦争という主題は多く戦争記録画と関連して論じられていたが、この展覧会では銃後を扱ったいくつかの絵画も目を引いた。勤労奉仕を扱った東山魁夷の作品、《貯蓄報国》と題された新海覚雄の作品、製鉄や炭鉱といった産業の振興を主題とした絵画はある意味で戦争記録画のカウンターパートとして戦時下の国民へ国家主義的な規範を提示していた。きわめつけは「女流美術家奉公隊」の手による《大東亜戦皇国婦女皆働之図》という奇怪な大作である。様々な場面で勤労奉仕する女性たちを描いた画面から「一億総活躍社会」という愚劣な政策を思い浮かべたのは私だけであろうか。よく言われることであるが、日本でかかるキッチュなプロパガンダ絵画が制作されていた同じ時期、アメリカでは抽象表現主義の画家たちがそれぞれのブレークスルーに向けて絵画の実験を深めていたのである。この展覧会に抽象絵画がほとんど出品されていないことは当然といえば当然であろうが、かかる対比によっても彼我の国力の差は歴然としていた。このパートには「銃後と総力戦」というタイトルが当てられている。須田国太郎の《学徒出陣壮行の図》、刑部人の《少年通信兵》あるいは杉全直の《整備教室》といった作品にはタイトルが暗示するとおり、多くの若者が描かれている。有為ある若者たちを戦場に駆り出して殺していったかつての日本という国家の非人間性の表象といえよう。
 展示においてはやや前後するが、この時期の表現にみられた特徴としては「大きな物語とミクロコスモス」と題されたパートも示唆的であった。戦意を鼓舞するためにいくつかの作品では神話や伝説が導入された。それは中山正實が描く神武天皇であり、花岡が描く楠木正成である。一方、和田三造は天皇の下にアジアの諸民族が集う、八紘一宇の図式化のごとき大作《興亜曼荼羅》を描いた。(出品されたのは下絵とのこと)いずれもイデオロギー装置としての絵画の機能が発揮された作品であるが、私が興味を抱いたのはむしろ「ミクロコスモス」と呼ばれた作品群、すなわち靉光や寺田正明、吉原治良といった画家が昆虫や蔬菜、鉢植えなどを対象に沈潜するかのように描いた一連の作品である。一様に暗く、濁ったこれらの画面に作家たちは何を込めたのであろうか。大戦の最中、戦意を鼓舞する絵画とは全く逆のベクトルをもつ絵画が制作されていたという事実は注目に値する。総力戦の後に敗戦が訪れた。この展覧会では「廃墟」というパートによってかかるテーマに一つの総括が与えられている。しかし企画者も述べるとおり、「廃墟」というテーマは一種の逆説を秘めている。戦時中に戦災による廃墟を描くことは許されるはずがなかったし、戦勝国が駐留した戦後においてもそれは一つのタブーであっただろう。このように考える時、丸木以里と赤松俊子による《原爆の図》の意味もまた明らかだ。この作品は第二次大戦によって私たちが受けた被害を、玉砕や名誉の戦死といった支配者側の言葉を経ることなしに伝えた稀有の例であるからだ。1950年に制作され、ぎりぎりでこの展示に収められたこの作品が展示の掉尾を飾ることは、日本において戦災を表象することがきわめて困難であったことを暗示しているだろう。たしかに私たちは東京大空襲や長崎の被爆を美術として表象した例をほとんど知らない。カタログの中に「敗者は映像をもたない」という大島渚の言葉が引かれているが、この問題は例えばホロコーストの表象不可能性といった問題の傍らに置く時、さらに示唆的ではないだろうか。
 以上、展示されていた作品を概観した。幻想的ではあるが、何気ない日常の風景を描いた松本峻介の《街》からシンガポール陥落を描いた藤田嗣治の戦争記録画までわずか二年の時間が経過したに過ぎない。この点は今日の私たちもわずか数年後には戦時体制に組み込まれているかもしれない可能性を示唆する。実際に虚言と食言を繰り返す現在の政権下ではいつ日本が戦時下となるやもしれず、自らの政権に危機が迫るや、安倍が中国に対して戦端を開くことを私は確信している。今回の展示を見て私が考えたのは次のような問題だ。愚劣な為政者の下で戦争が始まることはいつの時代でもありうる。そして画家はそれに協力するか否かの態度を迫られるはずだ。私は戦争記録画を描いた画家は程度の差こそあれ、戦争に翼賛したとみなされると思う。なぜならそのような時代にあっても戦争を描かなかった画家が存在するからだ。例えば松本峻介と小磯良平という対比を考えてみよう。この展覧会のメインヴィジュアルとして用いられた小磯の《斉唱》は、清楚な女子学生たちの合唱を描くことによって戦争記録画に対する免罪符とみなされてきた。もちろん新制作協会の俊英であった小磯は優秀であったからこそ従軍画家として大陸に派遣され、《娘子関を征く》をはじめとする戦争記録画を残したという弁明はありうる。しかし画家にとってそれを拒否するという選択肢はありえたはずだ。私はこの問題を再び画面の形式に引き戻してみたい。先に述べた通り人が描かれた場合、描かれた人物の視線はそれに眼差しをむける私たちと関係を結ぶ。この展覧会に出品された多くの小磯の肖像画において描かれた人物は私たちと視線を交わすことはない。《T嬢の像》においても《斉唱》においても描かれた女性たちは私たちから目を逸らしている。これに対して、この展覧会に出品されていないが、やはり同じ時期、1942年に制作された松本の《立てる像》において私たちは描かれた人物と視線を交わす。(ちなみにこの作品は先日の国立国際美術館における森村泰昌の展覧会でも取り上げられていた)私たちから目を逸らす小磯の少女たちが画家の無意識、従軍しても比較的穏健な情景を描いて戦争の真実を直視することがなかった小磯の無意識を反映しているとみなすのは厳しすぎるだろうか。それはあえて死屍累々たる風景を描いて描くことへのデーモニッシュな決意を示した藤田とは異なった、しかし同様に時流に抵抗することができなかった画家の姿ではないだろうか。一方で靉光に典型的にみられる「ミクロコスモス」、身辺の静物への沈潜は静かなプロテストとみなすことはできないだろうか。この展覧会にやはり静物画を出品している吉原治良は、当時の美術雑誌の座談会において検閲を担当する軍人の「この非常時にもかかわらず○や△を描いて遊んでいる非国民がいる」という発言が不気味であったという感慨を残しているが、この不安はもはや私たちにとってなじみのないものではない。先日、「キセイノセイキ」についてレヴューをアップしたが、このところ日本の多くの美術館で展示に関して当局からの検閲が強められ、さらには美術館上層部による自己規制といった信じられない事態が発生していることは知られているとおりだ。表現の自由にとって最後の砦たる美術館において学芸課長がなにものかの意志を忖度して、作家に対して作品の発表の自粛を要請するといった倒錯が現実にありうるのだ。いうまでもなくこれは一つの兆候である。数日後に迫った参議院選挙の結果いかんでは憲法が改悪される可能性がある。現在、自民党が発表している改憲草案21条に表現の自由についての規定があるが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」という現行の憲法の規定からわざわざ「これを」という言葉を削除したうえで、新たに第二項として「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、ならびにそれを目的として結社をすることは認められない」との文言が加えられているのだ。端的に表現の自由が否定されている。表現の自由のない社会とはどのようなものか、私にとっては想像することすらできない。しかし数日後の選挙の結果次第ではかかるディストピアが実現する可能性もきわめて高い。先日美術評論家連盟の有志が「表現の自由について」という簡潔な声明を発表したが、この声明は明らかにかかる状況を憂慮したものである。アメと鞭を使い分けた現政権のマスコミ操作の結果、これらの問題はほとんど議論されることがない。上に示したカタログの表紙には1945年を中心にして前後10年の年記が刻まれている。今、私たちはどのあたりにいるのだろうか。まもなく戦争が始まる。(それにしてもこのブログを始めた頃にはこれほどまでに状況が悪化するとはさすがに想像できなかった)表現に関わる者として、自らの立場をこの展覧会に出品したどの画家に定めるのか。批評を生業とする私を含めて決意が問われているように感じる。
# by gravity97 | 2016-07-07 22:03 | 展覧会 | Comments(1)

b0138838_2251675.jpg

 今日、桐山襲(きりやま・かさね)という名を聞いても、それが小説家の名であること、ましてや彼の書いた小説を知る人は少ないことと思う。実際、今、アマゾンで検索しても彼の小説を新刊として入手することは不可能のようだ。わずかにこのブログでも論じた集英社版の「文学×戦争」中の一巻「オキナワ 終わらぬ戦争」に収録された「聖なる夜、聖なる穴」を読むことは可能であるが、彼の小説を読み継いだ私としてはこれほどの才能が完全に埋もれている状況はおおいに遺憾に感じられる。よもや彼の小説の主題がこのような事態を招いた訳ではなかろうが、権力という暴力がここまでも厚顔無恥に私たちを恫喝する時期にこの評伝が刊行された意義は大きい。
 最初に本書に基づいて桐山の閲歴を簡単に紹介する。桐山は1949年に東京に生まれた。1968年に早稲田大学第一文学部に入学。この年の世情、特に大学をめぐるそれについては説明を要さないだろう。政治の季節の中で、桐山は解放派と呼ばれるセクトに属して大学闘争に加わる。「スターバト・マーテル」の最後の方に唐突に挿入された言葉が解放派の理論的支柱であったローザ・ルクセンブルグから引かれていることを私は本書を読んで初めて知った。大学を卒業した桐山は1972年に東京都教育庁に就職し、以後、公務員として勤務する傍らで小説の執筆に取り組む。しかし小説家、桐山襲が私たちの前に現れるまでにはしばらくの時を要した。1982年、『文藝』に投稿した「パルチザン伝説」が文藝賞の候補作となり、翌83年の10月号に掲載される。最終選考に残ったとはいえ前年に投稿された落選作を翌年の文芸誌に掲載することは陣野も述べるとおりかなり異例ではないだろうか。「パルチザン伝説」は二つの時代、二つの大逆の物語である。すなわち第二次大戦下、空襲によって炎上する東京においてアメリカ軍に呼応するかのように手製の爆弾を用いて都内、そして宮中内でパルチザン闘争を繰り広げる男たちの物語と、1974年8月14日に荒川鉄橋を爆破してお召列車ごと昭和天皇の爆殺を図ったグループの物語が重ねられる。時を隔てた二つの大逆の関係、それが精緻な語りの中に浮かび上がる様子は本書の中で詳しく分析されているからここでは触れない。日時が特定されていることから想像されるとおり、後者の事件には実在のモデルがある。それは東アジア反日武装戦線狼部隊による「虹作戦」であり、実際に橋梁に爆薬の配線まで行いながら、この計画は未遂に終わり、この時使用されなかった爆弾はその後、三菱重工本社ビルの爆破に使用され、多くの死傷者を出した。桐山の小説は文字通り事実と虚構を「文学的に」昇華しており、重い主題に見合った小説的技法、文体が駆使されている。しかしそこから「天皇暗殺」というスキャンダリズムのみを抽出したのが「週刊新潮」であった。新潮社という日本でも最大級の出版社から発行されているこの週刊誌は直ちに「おっかなビックリ落選させた『天皇暗殺』を扱った小説の『発表』」という煽情的で悪意に満ちた記事で応接した。週刊誌の発表を待っていたかのように右翼の街宣車が『文藝』の発行元である河出書房新社に押しかけ、脅迫的な街宣を繰り返し、雑誌の回収、作者の特定、出版社の謝罪、単行本化の中止を要求した。出版社は桐山と協議のうえ、このうち単行本化の中止を受け入れた。しかし「パルチザン伝説」をめぐる騒動はこれで終わらなかった。桐山はひそかに関係者とともに「パルチザン伝説刊行委員会」なる組織を結成し、ほかの出版社からの刊行を進めていた。しかしそれより以前にこの小説は作家本人の了承も得ぬまま、第三書館という左翼系の出版社から「天皇制アンソロジー」なる叢書に無関係なテクストと一緒に収録されて「海賊出版」されてしまったのだ。桐山は後述する「『パルチザン伝説』事件」の中に次の言葉を残している。「『天皇制アンソロジー』と銘打たれたその本は、様々な政治的文書といっしょに私の作品を収録していました。しかし、私の作品が政治的文書とは表現様式を異にする一個の文学的作品であってみれば、そのような出版形態は作品としての自殺行為以外の何ものでもありません。その出版社の意図は、作品から単に素材だけを抜き取っているという点で、例の週刊誌記事と同様の水準に立っているということができます。(中略)自分の作品が怪文書まがいの姿で書店に並べられていることは、表現者として耐え難いものがありました」右翼の攻撃と左翼による海賊出版という二重の苦難を味わった「パルチザン伝説」は紆余曲折を経て、84年6月に作品社から正式に刊行されるこの時点ですでに桐山は二つの中編小説を発表していた。「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」であり、いずれも芥川賞候補となっている。前者は連合赤軍事件、すなわち山岳におけるリンチ殺人とあさま山荘事件を主題とし、後者は具体的に特定されないが大学闘争の終焉期の暴力を主題としており、いずれも桐山の作家としての立場を明確に示している。「風のクロニクル」は後に桐山によって戯曲化もされた。このほかにも桐山は時事的な評論や書評などをいくつか発表しており、それらのテクストを陣野はていねいに確認している。そして86年、『文藝』の春季号に「聖なる夜、聖なる穴」が発表される。後でも述べるとおり、私は『文藝』に掲載されたこの小説で初めて桐山の作品に接した。さほど長い小説ではないが、これは紛れもない傑作であり、私は初読の際に受けた衝撃を今でもありありと思い出すことができる。もちろん「パルチザン伝説」をめぐる騒動は知っていた。しかし私は作品社から刊行された時点ではそれに目を通していない。私は直ちに単行本として入手可能であった「パルチザン伝説」と「風のクロニクル」を買い求め、これ以後も新作が発表さえるたびに心待ちに読み続けた。87年も桐山は旺盛な執筆活動を続けた。やはり『文藝』の春季号に「亜熱帯の涙」を発表し、「聖なる夜、聖なる穴」を単行本として上梓した。夏には「パルチザン伝説」をめぐる事件の顛末を記録した『「パルチザン伝説」事件』を作品社から刊行する。前年に日本文藝家協会に入会した際、桐山は「入会挨拶」として一連の事件を手短に要約して新潮社を批判し、「勿論、新潮社から本を出しているこの国の文学者にはそのようなこと(抗議行動を指す)は望むべくもありません。ですからここはやはり、自分自身の手によって報復を行うしかないと、私は考えています。もとより私は微力ではありますが、一寸の虫にも五分の魂、必ずや新潮社への報復を実現するでしょう。入会の挨拶といたします」というブラックユーモア的な文章を残しているが、この一文と「『パルチザン伝説』事件」の刊行によって彼なりにこの表現弾圧については一つの落とし前をつけたというべきであろうか。「亜熱帯の涙」は桐山には珍しく神話的、あるいは魔術的レアリズムと呼ぶべき想像力が横溢した長編であるが、楽園的な南島が帝国の暴力によって蹂躙されるというモティーフはいうまでなく「聖なる夜、聖なる穴」に連なっている。88年にも桐山は短編をいくつか発表しているが、この年、日本は異常な時代を経験した。いうまでもない、昭和天皇裕仁の病状が悪化し、来たるべきXデイに向けて異様な緊張と自粛モードが私たちを締めつけたのだ。東アジア反日武装戦線、連合赤軍、皇太子に火炎瓶を投擲する男、あるいは難波大助。一貫して「まつろわぬ者」の側に身を置いてきた桐山にとって耐え難い状況が続いたことは容易に想像できる。例えば次のような文章が残されている。「マスメディアの騒乱はとどまる処を知らない。ヒロヒトとアキヒトを賛美する大合唱は、連日の紙面と電波とを占拠している。(中略)だが注目すべきは、合唱団の中にひときわ『文学者』の姿の多いことであろう。とうに滅亡してよいはずの『文学者』という生き物を飼っておいたのは、この日のための支配者階級の英知だったと言わねばならない」裕仁は89年1月に没し、ほぼ前後して桐山は『都市叙景断章』を発表する。記憶を失った若者を通して断章形式で学生叛乱や連合赤軍事件が再話される桐山らしい長編である。なぜかくも「あの時代」に拘泥するのか。桐山は次のように語っている。「それはやはり、いまだ書かれざるあの時代、という思いが私の中に深くあるからでしょうね。全共闘の叙事詩というものは未出なんですよ」もし桐山が今も存命であったら果たして「全共闘の叙事詩」は書かれていたであろうか。今となっては詮無い問いかもしれないが、私は問わずにはおられない。89年は比較的多くの作品やエッセイが発表されたのに対して、90年に発表された作品を私は「神殿レプリカ」しか知らない。「神殿レプリカ」と大嘗祭との関係を指摘する佐木隆三の視点は興味深い。この年、桐山は執筆活動以上に永山則夫の文藝家協会入会問題に力を傾注していたことを私は本書を読んで知った。この年の暮れに桐山は悪性リンパ腫で入院し、闘病生活を綴ったいくつかの文章を残している。ただ、桐山は入院以来ずっと床についていた訳ではなく、翌年夏には退院して抗がん剤治療を続けながら公務員としての勤務さえこなしていたらしい。この生活の中で執筆された最後の小説「未葬の時」は死者が身体から離脱して、自分の死を外部から眺めるという一種の奇譚である。私の手元に初出の『文藝』92年夏季号がある。冒頭に「遺作」と記され。最後に92年2月22日脱稿と表記されており、まるで自身の死を見越したような、清冽でユーモアさえ漂う佳作である。脱稿からちょうど一月後の3月22日、桐山は入院先の病院で没した。享年42歳という若さであった。
 次に書誌的事実を確認しておこう。私が確認した範囲では桐山は生前没後を通して「天皇制アンソロジー」を除いて、9冊の小説と1冊の戯曲を公刊し、このうち「スターバト・マーテル」と「未葬の時」は文庫化されている。(ただし講談社文芸文庫に収められた「未葬の時」には「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」も収録されている)現在、これらはすべて絶版で入手は困難である。「天皇制アンソロジー」のみ版を重ねているというとも聞くが、事実であれば皮肉な話だ。桐山の読書体験については私と陣野はよく似ている。陣野は次のように記している。「小説に関しては、沖縄の歴史と現在に取材した『聖なる夜、聖なる穴』が『文藝』春季号に掲載された。私はこの小説を桐山作品の中で最初に読んだ。衝撃的だった。語りの多層性、人称の複雑さ、歴史に対する態度、そして乾いた抒情性」先にも述べたとおり、現在、この小説は集英社版の「文学×戦争」中の一巻に収録されており、入手することが可能であるから関心をおもちいただいた読者には是非お読みいただきたい。私のブログでも短く論じている。実はこの時期の『文藝』はきわめて刺激的であった。この前後にこの文芸誌は月刊から季刊に移行し、それゆえ内容が凝縮された印象があり、私は毎号買い求めていた。この小説が掲載された号が手元に見当たらないので具体的に述べることができないが、おそらくその号も桐山ではなく特集ないしほかの作品を目当てに買い求めたと記憶するが、「聖なる夜、聖なる穴」を一読して私は圧倒されてしまったのだ。私は当時在学していた大学の大学新聞に書評を寄せたことさえ記憶している。ちなみに同じ年の冬季号には「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線の真実を克明に描いた松下竜一の「狼煙を見よ」が掲載されており、私はこのノンフィクションからも深い感銘を受けたことを覚えている。大学がほぼ非政治化された80年代に大学の門をくぐった者として、70年代に自分と同世代の若者たちがかくも真摯に時代の不条理に向かいあっていたことを知ることは衝撃以外のなにものでもなかった。b0138838_2262496.jpg 書架を確認するならば、私は桐山の全ての主著を単行本と初出誌のかたちで所有しているが、「亜熱帯の涙」のみ欠いている。私はこの小説を読んだ記憶があるから、『文藝』誌上で読んだことは間違いない。単行本として所持していれば必ず残っているはずだが、雑誌であるためなんらかの機会に処分してしまったのであろうことが悔やまれる。
 ほとんどの小説が現在入手できないため、陣野がそれぞれの作品の紹介にかなりの頁を割いていることは私としては少々かったるい。「パルチザン伝説」によるデビューから死を予感するかのような「未葬の時」まで、10年にも満たない小説家としての桐山の活動を陣野はクロノロジカルにたどっていく。主要な作品については内容を紹介したうえで「解題」と称する短い分析がなされる。この中で多くの小説や文献が参照され、興味深い分析がなされる。例えばこのブログでも紹介した大道寺将司の句集「棺一基」が引用されていることは大道寺が「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線のメンバーで死刑囚として現在、病舎に収監されていることを考えるならば理解できよう。このほかにも古川日出男の「聖家族」や道浦母都子、船本洲治、奥崎謙三、さらにはやはり若くして自死した佐藤泰志の「海炭市叙景」そして最後に目取真俊の「面影と連れて」(偶然ではあるが、この短編については以前このブログで応接した)といった多様な書き手、多くまつろわぬ者たちが召喚され、桐山の小説との間に時に潜在的、時に顕在的な関係を結ぶ。私がことに興味をもったのは、桐山がラテン・アメリカ文学に強い関心をもっていたという指摘だ。桐山は「パルチザン伝説」が引き起こした騒動を避けるため沖縄に逃れ、その顛末を「亡命地にて」という短編に記している。(ただしこれはブラフであり、実際には桐山は東京で仕事を続けていたことが本書で明らかにされている)桐山は大学時代、日本に返還される前の沖縄を旅行したことがあり、本人にも作品にも一種の南島志向が求められる。陣野は「亜熱帯の涙」と類似した作品の存在を指摘している。それはロイド・ジョーンズというニュージーランド出身の作家による「ミスター・ピップ」という小説である。原著の刊行年は記されていないが、邦訳は2009年のことであり、おそらく桐山は原書を読んでいない。南島における革命、書物と記憶との関係など、両者を結ぶ主題の暗合は興味深い。この延長上にラテン・アメリカ文学への関心があるだろう。私は桐山と同じ時代を共有しているので、彼が生きた時代に日本でもラテン・アメリカ文学のブームがあったことを知っている。桐山はドノソやアストゥリアスへ言及しており、確かに「神殿レプリカ」における閉ざされた屋敷に跋扈する凶々しい存在から「夜のみだらな鳥」を、「亜熱帯の涙」の年代記から「グアテマラ伝説集」における物語の連なりを連想することは容易だ。「亜熱帯の涙」には「自分たちが最初の輝ける道として地上に姿を現すこと―ただそのことだけが問題だった」という一文があるが、「輝ける道」、センデロ・ルミノソとはペルーのゲリラ・グループの名前であることを陣野は正確に指摘している。この集団の名前はやはりこのブログで応接したリョサの「アンデスのリトゥーマ」にも認められる。フジモリが日本大使公邸を占拠したゲリラたちを無慈悲にも虐殺したように、そしてマルケスをはじめとする一連の独裁者小説に明らかなとおり、ラテン・アメリカには新しい文学の宝庫であると同時に軍政と独裁、戦前の日本を彷彿とさせる暴力的な体制が今なお残存している。「追い詰められた革命軍」がリンチ殺人の果てに斃れた北関東の山岳の氷雪の白と南島やラテン・アメリカの時に血にまみれた原色。両者の対比は鮮やかである。私は両者が桐山によるありうべき「全共闘の叙事詩」の中で総合されることを夢想する。
 それにしても桐山が今も生きていたとすれば、いかなる感慨を覚えただろうか。かつて少なくとも日中戦争や太平洋戦争、あるいは日本の軍隊という制度に関して文学者はそれなりの総括を残している。ひとまず大岡昇平と野間宏の名を挙げれば理解できるだろう。これに対して桐山が確信的に拘泥した70年前後の学生叛乱についてまともに総括した小説は果たして存在するだろうか。以前にもこのブログに記したが、三田誠広と立松和平という二人の当事者が残した小説の犯罪的な反動性を私たちはいかに理解すべきであろうか。あるいはあさま山荘事件について徹頭徹尾弾圧側に立って検証した原田眞人の「突入せよ!あさま山荘事件」の犯罪性に触れて若松孝二が「実録連合赤軍 あさま山荘への道程」の制作を決意したことについても以前論じた。この問題についての文学的総括として私はいまだに1973年に発表された大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」を超える作品を知らない。そしてこの評伝を通読して、私は桐山の小説の魅力でもあり、弱さでもある特質をあらためて思い知った気がする。それは叙情性である。「都市叙景断章」の分析の中で陣野はこの小説の最後を長々と引用した後、次のように記す。「小説はここで終わる。それにしても、この最後の数ページのなんとポエティックであることか!私的な夢想と呼んで差し支えないほどの、いわば小説の極北のような文章が小説を締めくくっている。そして、右の文章は、桐山襲という作家名義で書かれた最後の長編小説の末尾でもあった」確かに「都市叙景断章」は抒情性という点で桐山の作品でも群を抜いている。例えば「名前はたしか、真昼子…」という冒頭の一句にこのような特質は明らかであり、同様の抒情は「パルチザン伝説」以降、桐山の作品の通奏低音をかたちづくっている。桐山の小説は詩的である。しかしこの抒情性は連合赤軍や東アジア反日武装戦線といった叛逆者たちの叙事詩を描くには言葉として繊細すぎるのではないだろうか。おそらくこの点は桐山の小説が比較的短いこととも関係しているだろう。革命を扱った作品、例えば今述べた若松のフィルム、あるいはおそらくは桐山も親しんだであろう高橋和巳の「邪宗門」といった小説にみられる一種の即物性と桐山は無縁であった。もちろん抒情性こそ桐山の作品の魅力であるから、ないものねだりと言われても仕方なかろうし、何よりも作家の早すぎる死がこの優れた作家の別の可能性を断ち切ってしまった。
 私は本書に記された多くの事実をあえて十分に論じなかった。桐山が永山則夫の文藝家協会入会問題に深くコミットしたこと、天安門事件に対する意外な反応、あるいは南方熊楠への関心。それらの問題については本書を直接参照しながら、読者に思いをめぐらしていただきたいからだ。陣野は「この本を通じて、桐山襲の読者が一人でも生まれれば、幸甚である」と記している。私も同感だ。まず陣野の評伝を読み、それを入口として一人でも多くの人にこの夭折した才能とその小説に関心をもってほしい。おそらく大きな図書館に行けば、今でも彼の作品を読むことは可能なはずだ。このブログもその入口の一つとなればよいと願っている。
# by gravity97 | 2016-06-20 22:12 | 評伝・自伝 | Comments(0)