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Living Well Is the Best Revenge

今井むつみ 秋田喜美『言語の本質』_b0138838_21233077.jpeg 出張の帰りに車内で読もうと軽い気持ちで求めた新書が実に刺激的で驚く。もっともタイトルはいささか大仰だ。「言語の本質」というタイトルからはひとまず言語学の範疇にある研究が予想されるし、実際にそのとおりなのであるが、本書で論じられる問題は言語のみならず文化や思想全般にわたる深い射程をもっている。

 私は言語学に関して専門的な知識はないが、以前より深い関心を抱いていた。それというのも私が大学院時代に圧倒的に感化された研究が丸山圭三郎の『ソシュールの思想』であったからだ。ソシュールの思想は言語学を超えて、記号論という問題へと展開されたことにおいて私の思考にも決定的な影響を与えた。このブログの読者であれば、文学から美術、演劇にいたるまで私の批評が記号論的な発想に貫かれていることはたやすく理解されよう。そして本書は私が自らの批評の核としていたソシュールの思想に対して根底的な違和を唱えているのだ。本書の冒頭ではまず「記号接地問題」という耳慣れない、しかし実に魅力的な概念が提起される。もともと人工知能(AI)との関係において提起されたこの概念は本書において次のように問い直される。「ヒトは言葉をおぼえるのに、身体経験が必要だろうか?言語はどこまで身体とつながっている必要があるのだろうか」言語という抽象的な概念と身体という具体的な手掛かりがいかに「接地」するか、両者の関係が本書を通底するテーマとなる点を表明したうえで議論は意外な話題に転じる。第一章で論じられるのはオノマトペ、擬音語や擬態語である。「雷がゴロゴロ鳴る」のゴロゴロ、「床がつるつるしている」のつるつるといった言葉だ。言語の本質といった大問題を論じるにあたって、最初にオノマトペが召喚されたことは意外に感じられる。これらの言葉がしばしば幼児によって用いられることからも理解されるように、オノマトペは言葉の中でも未熟とか幼稚といった印象を与えるからだ。しかしオノマトペはほかの言葉にはない特性を秘めている。アイコン性だ。筆者たちはパースに倣ってアイコンを「表すものと表されるものの間に類似性のある記号」とパラフレーズする。絵画についてはしばしば類像性と呼ばれるアイコン性が視覚的であるのに対して、オノマトペは聴覚的である。擬音語についてはこの点はわかりやすい。著者たちはオノマトペのアイコン性を詳細に分析し、発音や語形、身振りや脳活動といった多様な話題を渉猟しながら、言語のアイコン性という問題を提起する。

 しかしながらこのような理解は私たちの一般的な言語理解の常識にあてはまらない。とりわけソシュールの構造言語学を学んだ私にはショッキングな指摘であった。ソシュール言語学の基本的な理解によれば、言語とは恣意性を原理とする。つまりイヌという言葉とペットとして買われる四つ足の動物との間に必然的な関係はない。イヌはイスやキヌといった言葉と区別されることによって具体的な動物を名指しする。これに関して私がいつも連想するのは、うろ覚えであるが、確かマラルメがnuitという言葉の明るい響きとjour という言葉の暗さの対比を知って、詩という表現の限界に思い至ったというエピソードである。一般的な品詞、例えば名詞にはアイコン性はないのだろうか。そしてそもそもオノマトペとは言語であるのか。議論を進めるにあたって、著者たちはこの点を慎重に確認する。私は初めて知ったが、言語が言語であるゆえんとしてはコミュニケーション機能から二重性にいたる言語の十大原則というものがあるらしい。著者たちは一般語とオノマトペ、口笛や咳払いなどを比較して最終的に七つの原則についてはオノマトペが当てはまり、残る離散性、恣意性、二重性についてもオノマトペはその要件を満たしていると考える。かなり混み入った議論であるからこのあたりは直接本書に当たっていただくのがよかろう。

 本書の特色は新書でありながら、言語の特質から習得、進化、そして本質といった多様かつ重大な問題に対して一挙に光を当てる点に求められる。ソシュールが構造言語学を提唱した際に、言語史や言語習得といった歴史的、身体的な問題から言語学を厳密に切り離して全く新しい地平に立ったことを知る私たちにとって、本書においてオノマトペという問題を介してこれらの多様な問題が逆に総合される様は驚異的である。続いて著者たちはやはりオノマトペを通して子どもの言語習得の問題を分析する。この議論も新鮮だ。著者たちによれば言葉の音が身体に接地するうえで音と形の一致は意味をもつ。つまり音声から言葉を抽出し、それに意味を与えるという複雑な作業の中でオノマトペは重要な役割を果たす。子どもとの会話の中でオノマトペが多用される意味はここにある。続いて視覚と聴覚を失ったヘレン・ケラーが刺激と意味を結びつけるうえで「名づけの洞察」、つまりすべてのモノには名前があるという閃きこそが決定的に重要であった点が指摘され、幼児が成長の中である時期、このような認識を得て「語彙爆発」と呼ばれる、言葉の劇的な習得へと向かう点が論じられる。このうえで音と意味のつながりがわかりやすいオノマトペこそ、言語のミニワールドとも呼ぶべき言語習得訓練の足場となるのだ。ここで重要な点はオノマトペが密接に身体とつながっていること、記号接地である。

 続いて著者たちは言語の進化という壮大な議論へと進む。このような議論だ。言語がオノマトペだけでできている訳ではないことはいうまでもない。それではそれ以外の言葉は身体とアイコン的な関係を持たないのであろうか。興味深いクイズが提示される。私たちにとって全く未知の言語から対となる10の言葉が選ばれ、いずれが与えられた意味を示すかが問われる。私たちは言葉の音しかその手掛かりがない。しかし私はこのうち9問を正解することができた。つまり私たちはオノマトペならずとも言葉の音から意味を類推することが可能であり、言葉は身体と接地するのだ。この地点から議論はAI問題に接続される。スティーブン・ハルナッドという認知言語学者はAIの言語習得の可能性を批判し、身体をもたないAIの言語習得を中国語の辞書だけを与えられて、中国語の理解を求められる状況に準える。ハルナッドにとってこのよう試みは一度も地面に着地することなく、記号から記号への漂流を続けるメリーゴーランドのごときものである。人が言語の中に着地するためには身体が必要なのだ。したがって身体のないAIに言語を習得することはできない。この議論の当否はともかく、かかる議論を深める中で言語の進化について次のような仮説が提起される。言語とはオノマトペに始まり、より抽象的、恣意的な方向へ深められた。別の言葉を用いれば言語は聴覚的アイコン性に始まり、抽象性を増す方向へと進化したのだ。

 続くテーマは言語の習得である。最初に著者たちは言語の習得が想像を絶する作業であることを確認する。私も同感する。全く意味のわからない音の連なりをいくつかに分節し、それぞれの意味を確定したうえで言葉としての意味を理解する。しかしエベレスト登攀にも例えられるこのような作業を人はやすやすと成し遂げる。ここで導入されるのがアブダクション推論説だ。論理学において推論とは帰納と演繹の二つがある。それぞれ事例から命題へ、命題から事例へという方向になされる二つの推論であり、これらについてはロザリンド・クラウスが「視覚的無意識」の中で言及していたことなども思い出す。チャールズ・パースはここにさらにもう一つのパターン、アブダクション推論を加える。仮説形成推論と訳されるアブダクション推論はデータを証明するために仮説をかたちづくる。三つの推論のうち常に正しいのは演繹推論であり、一方で新しい知識を生むことができるのは帰納推論とアブダクション推論である。このあたりの議論もかなり難解であり、理解するためには本書をお読みいただきたいが、言語という巨大な語彙システムを短時日のうちに把握するうえで、まずオノマトペを中心に言語が記号接地し、続いて誤りを修正して語彙を爆発的に習得するアブダクション推論という言語活動が決定的に重要であると著者たちは考える。子どもにとってすべての言葉や概念が身体に接地することはありえない。しかし最初の端緒となる知識が接地されるや、それが雪だるま式に成長するポジティヴな循環を著者たちはブーストラッピング・サイクルと名づける。著者たちはこのような循環を別の観点からも論じる。原因と結果の関係を逆向きに推論すること、つまり結果から原因を推論することは人であれば自然な発想であり、実際にしばしばなされる。このような推論は対称性推論と呼ばれ、アブダクション推論と深い関係がある。この問題を介して最後の大きな問題が浮かび上がる。すなわち、なぜ人間だけが言語を獲得したかという問いだ。著者たちはこの答えをアブダクション推論に求める。人間だけが対称性推論、アブダクション推論をすることができる。アブダクション推論とは誤りを介して、その修正によって認識の領野を広げる推論である。それによって記号接地後、エベレスト登攀にも例えられる認識の拡大、言語の獲得が可能となったのである。このように書くとなにやら難解であるが、本書で引用される豊富な事例、多くが幼児の言い間違いを確認する時、幼児語と感じられるオノマトペ、そして誤りとその修正を前提としたアブダクション推論、これまで軽んじられてきた言葉や推論の方法が実は人類の言語習得のまさに鍵となる概念であることが明らかとなる。

 最初にも述べたとおり、ソシュールの構造言語学の圧倒的な影響を受けた私にとって、言語の恣意性という前提を突き崩す本書の読後感は目から鱗が落ちる思いであった。そしてこの過程に私たちの身体が決定的に関与している点を私は非常に興味深く感じた。しかしよく考えてみると身体性が恣意性や純粋性への抵抗する構図は現象学やミニマル・アートを通して幾度となく明らかにされた事実でもあった。あらためて私は20世紀以降の思想と芸術の中で身体性が恣意性や抽象性、純粋性や形式性といった多様な概念に対する対立項として位置づけられてきたことに思いをめぐらした。それにしてもアイコン性、そしてアブダクション推論といった本書の中心とされる諸概念がいずれも記号学者チャールズ・サンダー・パースと深く結びついている点は暗示的である。この一方、本書においてはパースがアイコンに対置したインデックスやシンボルについては全く言及がない。私の漠然とした印象としては、これらの記号原理もまた言語と深い関係があるだろう。私たちはこの問題に本書で得た知見、さらにデリダやクラウスらの議論を携えて再び立ち向かう時が来るかもしれないと感じた。


# by gravity97 | 2023-06-07 21:24 | 批評理論 | Comments(0)

藤原貞朗『共和国の美術 フランス美術史編纂と保守/学芸員の時代』_b0138838_20214714.jpeg
 実に刺激的な研究を読んだ。美術館や展覧会に関わる者にとっては必読の文献といってよいだろう。やや残念なのはタイトルからは内容が想像しにくい点である。「共和国の美術」とは何か。フランスは革命以後、共和政、帝政、王政を繰り返す。ここでいう共和国とは第三共和政、普仏戦争とパリ・コミューン鎮圧後に成立した共和国を指すが、本書で扱われる時代はさらに狭く、1930年代の状況である。そして美術という名が冠せられているとはいえ、その時代に活躍した作家、制作された絵画や彫刻が論じられる訳でない。本書の主題はこの時代にいかに「フランス美術史」が編纂されたかという問題であり、主要なプレーヤーは作家ではなく美術館学芸員と美術批評家であることを本書のサブタイトルは物語っている。

 別の言葉に言い換えてみよう。本書を通読するならば「フランス美術史」が様々な力の関係の中に成立したことが理解される、いかなる力が拮抗するか。一つは印象派に始まるいわゆるモダニズム美術の革新勢力と保守的な勢力の対立であり、もう一つはフランスの伝統的な美術に対する主として1920年代のパリで勃興した国際様式、時にエコール・ド・パリと称される多国籍の作家たちの美術、そしてさらに文字通りフランスという地域に成立した美術と、他のヨーロッパにおける美術である。(巻末には植民地美術との関係も短く論じられているがこのレヴューでは触れない)これらの実に錯綜した関係を美術館と学芸員の働きに止目することによって実に説得的かつ精緻に論証したのが本書である。そもそも冒頭で論じられるとおり、ヨーロッパで美術館学芸員とはキューレーターではなくしばしばコンサヴァター(フランス語ではコンセルヴァトゥール)と呼ばれ、文字どおり保守する人、保守派を意味する。もちろん作品を保守するという意味であるが、華々しい展覧会を企画してリベラルな印象を与えるこの職種に保守という言葉が与えられていることの実に深い意味もまた本書を通読するならば明らかである。

 序章において、本書の中で繰り返し引用される次のような問いが提起される。「フランスには第一級の画家の名は存在しない。(中略)レオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロ、ティツィアーノらの比類なき栄光がイタリア美術を輝かせ、ベラスケスはスペインを、ルーベンスはフランドル地方を彩った。あの小さなオランダさえ(中略)レンブラントを生み出した。だが、フランスにはこれらの画家と肩を並べる天才はいない」1934年にポール・ジャモという本書のキー・プレーヤーの一人である美術史家/学芸員から発せられたこの言葉は得心される一方で、疑問を生じさせるものでもある。この言明は正しい。しかし一方で少なくとも第二次大戦以前までは私たちにとって芸術の都とはパリであり、泰西名画といえば多くフランスと関係してはいなかったか。このような疑問を解く鍵を藤原は1930年代、「共和国の美術」に求めるのである。直ちに疑問が生まれよう。大戦の暗雲が漂い始めたこの時期、私たちはフランス美術においてエポックメーキングな事件を思い浮かべることができないし、絵画史に残る作品を連想することも困難である。しかし問題はそこではない。ほとんど表面化されることのない美術館の再編や展覧会の開催といった社会的な事件の中にこそ、「フランス美術史」の再編成をめぐる暗闘が認められ、それはひるがえって作家や作品の評価に決定的な影響を与えたのだ。それは画家と作品によって形成された美術史ではない。美術館と学芸員による政治的な産物である。この点を論証するにあたって藤原はクロノロジカルな記述ではなく、テマティックな手法をとる。広く錯綜した議論であるから、以下、私の関心とも絡めて私なりの強弱もつけながら、まずは藤原の議論を本書の章立てに従って追っていくこととする。

 第一章においては、まず時間を遡って、前史として第一共和政以降のフランス美術なる国家主義的な美術史観の形成が概観される。具体的には中世美術への関心の高まりとモニュメント保護が叫ばれる中で、アカデミーにおいてもフランス美術史の編纂が進み、この問題が教育制度と深く関わっていることが論じられる。アカデミーと美術のナショナリズムの複雑な関係については本書を参照していただくことして、この章の最後で藤原は1925年にモーリス・ドニによってプティ・パレ美術館に描かれたその名も《フランス絵画史》という天井画に注目する。私もこの作品については初めて知った。そこには中世のシャルトル大聖堂から同時代の作家までフランス美術史の一大パノラマが描きこまれているのであるが、そこにはギリシャ・ローマの古典主義の継承が暗示されるとともに、ドラクロワ、アングル、マネといった19世紀のフランス人画家たちが一定の重要性をもって描き込まれている。屈折したナショナリズムを反映したこの天井画は第三共和政後期のフランス美術史編纂の戯画であり、それゆえ国策の延長としての凡庸な作品とみなされてきた。藤原はこのような視点を反転させ、逆に以下の章においてかかる美術史が編纂されるにいたった両大戦間のプロセスを丁寧に確認していく、

 続く第二章ではマネが取り上げられる。マネの評価をめぐっては既に稲賀繁美の「絵画の黄昏」という画期的研究が1997年に発表され、本書も広い意味ではこの研究の影響下にあるといってよいが、稲賀の著作がマネの死没直後、いかなる制度や力が画家をモダニズムの鼻祖へと祭り上げて行ったかを分析した内容であったのに対して、この章ではサントネール、生誕100年を記念してオランジェリー美術館で1932年に開催されたマネ展が検証される。アカデミーと敵対し、生前は非難と嘲笑の的であったマネが「満場一致で承認」されるにいたってこの調停にはどのような力学が働いたか。ここで注目されるのは展覧会を組織したルーブル美術館学芸員、ポール・ジャモである。この人物についても初めて知ったが、生前のマネと全く接点のないジャモはマネを検証するにあたって、その絵画にいくつかの特質を見出す。まずそれが古典的であること。《草上の昼餐》の人物のポーズがラファエッロに由来することはよく知られた事実であるが、ここから革命家マネが実は古典的であったというかなり強引な解釈が引き出される一方で、「印象派の父」というよく知られた関係は否定される。そして絵画が帯びるポエジーがフランス的レアリズムを象徴し、そのような特性はル・ナン兄弟やシャルダンといったフランスの伝統的な絵画にも通底しているという主張がなされる。藤原はこのような主張をジャモの論文、さらにはあえて《笛を吹く少年》を用いた展覧会のポスター、そして先述のドニの天井画といったテクストとイメージを交えた様々なレヴェルで論証する。美術史の編纂をめぐって展覧会という制度、そして学芸員という職能が果たす役割もまた明らかになる。偶然ではあるがサントネールによってマネがフランス絵画史の新たな巨匠として迎えられる同じ時期にもう一人の画家の大展覧会が開かれていた。ジョルジュ・プティ画廊におけるピカソの大回顧展である。続く第三章ではこれら二人の画家の評価をめぐって興味深い議論が重ねられる。このあたりも本書の白眉であるから、私がここで単純な要約を試みるよりもまずは本書にあたっていただきたいが、ルネ・ユイグ、クリスティアン・ゼルヴォスといった名の知られた批評家たちによるそれぞれの立場からの応酬は次第にモダニズムという別の問題圏へと接続していく。

 一人の読み手として、本書の中でも圧倒的に面白かったのは第四章以降の展覧会をめぐる分析だ。学芸員として仕事を続けてきた私にはこれらの章で論じられる展示や収集をめぐる美術館の政治が実によく理解できるからだ。まず時代は少し遡ってマネの生誕100年展が開かれる半年前、パリではなくロンドンのロイヤル・アカデミーで開かれた「フランス美術 12001900年」という展覧会に焦点が当てられる。ロマネスク彫刻から印象派まで、合計1000点以上の作品が出品された大展覧会である。この展覧会は30年代に国名を冠した展覧会がしばしば有したプロパガンダ色を帯びてはいないが、フランス美術の全貌を示す最初の本格的な展覧会であり、ルーブル美術館副学芸員のルネ・ユイグが企画した。展示の構成には大きな偏りがあった。420点の絵画のうち、6割以上が19世紀絵画であり、これらの絵画の顕彰が図られていたことが理解される。名品が多く出品されていたことは図版からも理解できるが、出品された作家と作品は今日私たちが西欧の絵画史として了解する規範的な内容であり、逆にいえばこのような展覧会を介して、美術史が編纂されたことが暗示されている。私が感心したのは展示空間の分析である。展覧会とは選択と配列の政治であるから、19世紀絵画を中心に選んだ時点でそこには明確なメッセージが認められるのであるが、当然配置にも明確な意図がある。マネ、ルノアール、セザンヌらに広い空間を与え、フランス絵画の精華が現在にあることを示す一方で、ヴァトーやロマネスク彫刻の配置によってその連続性も示している藤原の指摘は説得的であり、展示に携わったことのある者であれば(本人が配置したかどうかは不明であるが)ユイグの意図も理解できる。かかる展示によってフランス美術の連続性と卓越が暗示された。引用される次の批評は最初に引いたフランスにはベラスケスもレオナルドもいないというコメントと対をなすかのようだ。

フランスにはレンブラントもフェルメールもいないし、ミケランジェロやティツィアーノに匹敵する天才もいない。しかし対照的に、フランスほど13世紀から比類なき19世紀にいたるまで、高水準の芸術作品を生産する連続性を取柄としている国はない。これが1932年の展覧会が示してみせた事実である。

しかしこのような効果がいわば偶然にもたらされたという興味深い事実についても事実関係が明らかにされる。展覧会が偶然の産物であることを私も実感しているが、まことにこのような偶然の中で「正史」がかたちづくられることも本書は明確に示している。

 かくして仮構されたフランス美術の連続性、そこにいかなる根拠を見出すかという点が次章のテーマとなる。ここでも一つの展覧会が焦点化される。1934年にオランジュリー美術館で開かれた「17世紀のフランスの現実の画家たち」である。タイトルからしてアナクロニズムであることが理解されよう。なぜなら現実、レアリズムとは19世紀フランス絵画で主題とされた問題であり、それを17世紀に遡って応用することにどのような意味があるのか。これに関する緻密な議論も本書の読みどころであるから、ここで単純に要約することがはばかられるのではあるが、おそらく読者も想像するとおり、この展覧会とロンドンの「フランス美術」展は相補的な関係にあり、19世紀フランス絵画のレアリズムはその起源を17世紀に仮構することによって、一つの連続性を徴されるのである。そして通常はラ・トゥールの再発見とともに記憶されるこの展覧会もまたジャモによって基本的な構図がかたちづくられていた点を藤原は指摘する。

 第六章以降の三つの章についても本書の精緻な議論の中で理解いただくべきであろうから、ここでは議論の方向性を示すに留める。これらの章で語られるのは1930年代に遂行された美術館の再編成と、それに伴うコレクションの再編に秘められた政治的な意図である。ルーブル美術館、リュクサンブール美術館、オランジュリー美術館、さらにジュ・ド・ポーム美術といったパリの主要な美術館が改築や展示プランの改訂を契機としてそれぞれのコレクションを移管しあい、コレクションの個性を形成していく過程が描かれる。現在の私たちであれば、19世紀以前の美術はルーブル、印象派以後はオルセ、モネの大壁画であればオランジュリー、さらに近現代美術はポンピドゥーといった展示作品の分類を自明のように感じているが、いうまでもなくこのような分類は歴史的、政治的な産物であり、展覧会や作品の寄贈、設備の改装といった多様な契機にかかる再編は進められた。藤原は1930年代に生起した様々なトピックを丹念に確認し、具体的な展示プラン、展覧会が企画された順番などにも配視しつつ、このようなコレクションと展示の再編がいかなる隠された意図に基づいていたかを明らかにする。この過程で浮かび上がるのは藤原が「近代ミュゼオロジーの特質」と呼ぶ二つの原理、「傑作の選別」と「芸術作品の自立化」である。興味深い指摘であり、その帰趨については本書をお読みいただくのがよい。このレヴューでは最後に、以上のような議論から私が連想した、それゆえ本書の中では中心的な話題からはやや逸れた三つのトピックについて触れておきたい。

 最初の問題は今挙げた二つの原理と深く関わる。本書には実は裏のテーマが存在する。「共和国の美術」であるからここでは最初からフランスという国家が想定されているが、ほぼ同じ時代に世界で初めて近代美術館を創設した「合衆国の美術」とその本丸たるニューヨーク近代美術館である。(MOMA1929年に開設)この美術館については第六章に「展示室の近代化」という主題と関連して言及があり、ロンドンのナショナル・ギャラリーと並んで展示室の写真が掲載されている。ルーブルとは異なったホワイトキューブが近代美術館の範例となった点はいうまでもないが、このような展示空間が可能としたのが、傑作の選別と芸術作品の自立化、そして作品の関係性の可視化であったとはいえないか。さらにいえばかかる前提を得て初めてモダニズム美術という発想は可能となる。「共和国の美術」はヨーロッパの中、イタリアやスペイン、フランドルといった地域の美術に対して優位に立つべく1930年代に美術史の再編成を図った訳であるが、本書では語られないそれ以後、すなわち第二次大戦後の美術史の編成という問題を論じるにあたっては「合衆国の美術」が強大なライヴァルとして登場するのであった。本書中、興味深く読んだエピソードとしては、フランスが国家の名前を銘打った展覧会をロンドンで開催することによって、フランス美術のアイデンティティーを樹立したことがある。このエピソードはこのブログでも触れたとおり、例えば1958年から59年にかけて「新しいアメリカ絵画」という展覧会がヨーロッパ8都市を巡回して、抽象表現主義以降の絵画の優位をヨーロッパに告知しようとした逸話と似ていないだろうか。そして国外での展覧会を通して初めて自分の国の美術を再編成するという試みはまさに日本の戦後美術の理解においても繰り返されたとはいえないか。

 モダニズム美術の話題と微妙に関連して、私は本書を通してアカデミーの美術が置かれた位置も興味深かった。通常、モダニズムに拮抗する美術としてはアカデミーないしサロンの美術が置かれようが、30年代美術をとおして、アカデミーやサロンは妙に居心地が悪い。むろん、アカデミーの画家たちは30年代を通じて主要なプレーヤーの一人であるから、本書においてもアカデミーの問題は常に論及される。しかし当時にあって圧倒的な政治力を有したはずのアカデミズムは美術館や展覧会から巧妙に排除されている印象があるのだ。これは例えば、今日の日本においても例えば日展という美術をめぐる権力の中枢にあるはずの組織がアーサー・ダント的な「アートワールド」ではほとんど無視されているという事態と共通している。一方、本書で論及されるアカデミーの作家を私たちは松方コレクションや大原コレクションといったフランス絵画の代表的なコレクションに含まれる無名の作家として目にする機会が多い。日本におけるフランス絵画の受容という問題と関連して、このあたりも今後の研究のテーマとしては興味深い。

 本書の最後に指摘される問題も極めて重要である。本書を通底する対立の一つとしてモダニズム美術と「共和国の美術」の錯綜した関係があることは明らかであるが、ルネ・ユイグは両者をどのようにとらえたか。ユイグの立場もきわめて複雑であるが、彼は例えばフォーヴィスムやキュビスムに一定の評価を与えつつも、フランス美術の本質が古典的感性である以上、進歩主義的モダニズムは否定され、次々に登場する新たな流行はジェットコースターにたとえられるべき乱痴気騒ぎとみなされた。言い換えるならば「共和国の美術」は自らの中に胚胎したモダニズム美術をすでに終わったものとして歴史化したのだ。かかるポスト・モダンの先取りが生み出した表現としてしばしば瓦礫と廃墟のイメージが多用され、かかる発想の背後にニーチェやシュペングラーの西欧の没落という思想があったことが暗示される。しかしここで例示される瓦礫や廃墟のイメージを描いた画家たちは今日ほとんど参照されることがない。「共和国の美術」を継いだのは「合衆国の美術」であり、それは抽象表現主義を視野に入れずとも、すでに1936年にニューヨーク近代美術館で開催された「キュビスムと抽象芸術」においてアルフレッド・バー・ジュニアが示した有名な近代美術のチャートの中に示されていたのだ。藤原はフランスの美術史家や学芸員たちがかかる視点を獲得しえなかった理由として一体的なフランス美術史という幻影を夢見たために、同時代美術をモダニズム美術の延長として認識することができなったとのではないかという説得的な仮説を示す。ボードレールによってモデルニテの概念が提起されながらも、それを同時代の美術に投影できなかったフランスに対して、アメリカの批評家たちはその未来を構想し、自国の若い作家たちの中にその萌芽を認めた訳である。本書はモダニズム美術の帰趨という主題に関しても実に新鮮な視野を提供している。

 ここまでに論じた問題は本書からほとばしるように提起されるいくつもの疑問や発見の一部に過ぎない。精読に値し、かつきわめて多産的な本書によって美術史そのものが更新される。そしてこの時、本書に後続する「合衆国の美術」の姿もおぼろげに浮かび上がってくるように感じられる。この問題についてはいつの日か私自身が本格的に論じてみたい。


# by gravity97 | 2023-05-23 20:22 | 近代美術 | Comments(0)

スティーヴ・ライヒ[18人の音楽家のための音楽]_b0138838_10564152.jpeg 初めて聴いたのは大学院在学時であったと記憶する。最初はレコードに針を落として聴取したスティーヴ・ライヒの[18人の音楽家のための音楽]のライヴ演奏に立ち会うことは私にとって長年の夢であった。実は2008年にこの楽曲はアンサンブル・モデルンによって日本でも演奏され、その際にはライヒ自身も参加しているが、情報を得ることができなかったために私は聴き逃している。これはライヒの二度目の来日であったはずだ。最初の来日、1991年のライヒのコンサートには大阪で立ち会った。それなりに感銘を受けたことを覚えているが、[ディファレント・トレインズ][セクステット]を中心とした渋めの選曲であったため、ライヒのミニマリズムの愛好者としてはやや不完全燃焼の思いがあった。ライヒ自身が来日しないことは当初から告知されていたとはいえ、このたびコリン・カリー・グループとシナジー・ヴォーカルズによって[18人の音楽家のための音楽]が15年ぶりに演奏されると知り、矢も楯もたまらず出かけた。いや、正直に告白すれば少し遅れて情報に接した私は、東京のみの二公演であるから今回もソールドアウトであろうと最初あきらめていたのだが、一週間前に数席のみ残されていることを知り、直ちに予約して駆けつけたような次第だ。1936年生まれのライヒは今年で89歳のはずだから、さすがに来日して長丁場の演奏に加わることは困難であっただろうが、元気そうなライヒからのヴィデオメッセージが公演に先んじて東京オペラシティのホームページに寄せられていた。

 今回の東京公演では三曲が演奏された。[ダブル・セクステット]と日本初演の[トラベラーズ・プレイヤー]、そして休憩後に満を持して[18人の音楽家のための音楽]。まずは最初の二曲について簡単にコメントしておこう。[ダブル・セクステット]、二重の六重奏曲は2007年に完成し、この曲を委嘱したエイス・ブラックバードというグループによって翌20083月に世界初演された。私はノンサッチレーベルから発売されたCDで聞いていた。CDのカヴァーにはジャスパー・ジョーンズのナンバーズが用いられている。フルート、クラリネット、ヴィブラフォン、ピアノ、ヴァイオリン、チェロによって構成され、FastSlowFastという三つの楽章から成り立っている点はライヒの多くの楽曲と共通している。[18人の音楽家のための音楽]との関連で注目すべきはダブル、二重という言葉だ。つまりこの曲は今挙げた六つの楽器から成る二編成のアンサンブルによって演奏されるが、実際にはもう一つの演奏方法がある。すなわち一つのアンサンブルがあらかじめ録音した楽曲に重ねて演奏する方法だ。実際に今手元にある初演時の記録ではこの曲を演奏したエイス・ブラックバードは今挙げた楽器から成る6人のグループであるから(そもそもこの曲は楽譜の出版社を介して彼らのために委嘱されたとライナーノーツに記されている)世界初演に際しては録音された音源に重ねて演奏されたはずだ。このような手法は録音技術の進歩によって初めて可能になったとはいえ、ライヒは早い時期から用いている。1967年の[ヴァイオリン・フェイズ]は一人のヴァイオリニストによる多重録音によって成立し、最近では加藤訓子が[ドラミング]を一人で演奏するという離れ業を演じたことも以前このブログで触れた。これに対して今回演奏したコリン・カリー・グループはクレジットされた演奏者だけでも20人を超える大所帯であり、それぞれの楽器について二人以上の演奏者がいるから文字通り二つのアンサンブルとしてこの曲を演奏することが可能なのである。当日配布されたパンフレットを参照するならば、このグループはイギリスを代表するパーカッショニストであるコリン・カリーによって結成された打楽器アンサンブルを基本とする集団であるという。以前よりライヒの曲を頻繁に演奏しており、ライヒからの信任も厚い彼らが、今回のセットリストにこの曲を加えたことに何の不思議もないし、私は舞台の上で六重奏が二つのグループによって演じられるのをやや漫然と聴いていた。私がこの演奏の意味に気づいたのは実はこのレヴューを書き始めてからである。

 二曲目の[トラベラーズ・プレイヤー]、旅行者の祈りとは2020年に作曲が始められた声楽を交えた作品。歌詞は聖書の創世記、出エジプト記、詩篇からの抜粋が用いられている。パンフレットに元々のヘブライ語からの訳詞が掲載されている。「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように」それぞれ出エジプト記、創世記、詩篇から抽出されたパッセージであり、ヘブライ語で歌われる。ヘブライ語の歌詞からは[テヒリム]が連想されるし、最初と最後の歌詞は[WTC]でも用いられているという。これらの詩句には共通点があり、いずれも交通機関を用いての旅、あるいはこの世からあの世への旅の無事を祈るときに唱えられるという。2021年にアムステルダムで初演され、テノールとソプラノが二人ずつ、ヴィブラフォン、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる16分ほどの曲はもちろん日本初演である。ライヒらしいカノン形式を用いた声楽曲は私にはかなり情緒的に感じられた。後述するとおりこの日の公演全般をとおして、コリン・カリー・グループの演奏はミニマリズムから連想される単調さとは異なった一種の情感に満ちていたように感じられた。[トラベラーズ・プレイヤー]はパンデミック前に作曲をはじめ、パンデミックの最中に完成されたとのことであるが、旅行を主題とした曲が旅行の禁じられていた期間に構想されたことは皮肉であろうか。なおライヒの声楽を用いた作品全般については公演パンフレットの中に前島秀国の簡潔で的確な解説が収録されている。

 スティーヴ・ライヒ[18人の音楽家のための音楽]_b0138838_10574412.jpegそしていよいよ[18人の音楽家のための音楽]である。74年に最初の構想を得て、76年にライヒを含めた音楽家たちによってニューヨークで初演されたこの作品はタイトルが示すとおり、大編成によって演奏される。今回のパンフレットには写真で示すレコードの裏面にあるライヒ自身の解説の翻訳が収録されているから、作曲家の意図するところを知ることはたやすい。演奏はヴァイオリン、チェロ、クラリネット2、女性ヴォーカル4、ピアノ4、マリンバ3、シロフォン2、ヴィブラフォンによって構成され、舞台上には所狭しと演奏家たちが並ぶ。長年にわたってライヴを体験したかった楽曲でもあるから、聴き慣れたパルスが響き始めるや、私は陶然とした気分になった。しかし聴き進めるうちに、この楽曲は音楽として楽しむのと同様に一つのスペクタクルとしても楽しめることに私は気づいた。演奏家たちは時に楽器を交替して舞台の上を移動しながら演奏を続ける。とりわけマリンバを担当していた奏者がこの曲のクライマックスとも呼ぶべきセクションにいたるやマラカスを振り始めたのには驚いた、基本的に断続的なパルスとして実現されるこの楽曲では、私が楽器に疎いこともあって、CDを聴いているだけでは使用されている楽器を区別することが難しい。今回私は女性のヴォーカルも完全に楽器として使用されていることをあらためて認識したが、まさかマラカスまで用いられているとは想像しなかった。公演パンフレットにはこの楽曲のタイトルは必ずしも18人で演奏しなければならない訳ではなく最小限18人で演奏可能な音楽を意味すると書かれている。しかし私が演奏中に確認したところ、実際の演奏者は16人であったのではなかろうか。私は見通しの悪い後方の席にいたから単なる勘違いの可能性もある。あるいは「18人で演奏可能」という言葉は常に18人が演奏しているという意味ではないかもしれない。人数が気になったのは演奏者が楽器を変えながら次々に新しいパルスを加えていくという、目まぐるしく変わる演奏のスタイルに驚いたためである。明らかに複数の楽器を演奏している奏者がおり、実際にはどのような編成で演奏されるのかを確認する中で演奏者の役割に関心が向いたのだ。あるいは途中でマリンバを演奏する男性が明らかに意図的に首を大きく振る動作を繰り返していた。その動作には何かの意味があったのだろうか。今回の演奏ではコリン・カリーもパーカッショニストとして加わり、指揮者は存在しなかった。よく知られているとおり、この楽曲はABCDCBAというアーチ構造をとり、13のセクションによって成立している。セクションの変化の瞬間にはいずれかの奏者による合図が必要であるはずだが、演奏者の身振りはそれと関係があったのだろうか。この楽曲の難度は高いから演奏には集中を必要とし、決してパフォーマティヴな演奏ではない。しかし私は演奏を十分に視覚的にも楽しんだ。

CDを聞く際には純粋に聴覚的な体験として、位相ずれや拍子の変化に意識を集中するこの楽曲が、実際の演奏の場にあってはパフォーマンスとしてもきわめて魅力的であったことは興味深い。なぜならこのようなスタイルはライヒが得意とした手法の対極にあるからだ。すなわち先にも触れた多重録音システムである。ライヒの楽曲の多くはあらかじめ録音した演奏に新たな演奏を加えることによって成立している。録音の重要性は最初期の言葉を用いた楽曲でも明らかであり、しばしば機械的な転調を加えることによって楽曲が成立していた。[ヴァイオリン・フェイズ]や[エレクトリック・ギター・フェイズ]といった私のお気に入りの楽曲も一人の奏者による多重録音を前提として作曲されている。これに対して[18人の音楽家のための音楽]は複数の演奏者の同時的な演奏を前提としない限り成立しないのだ。つまりそれは本質においてただ一度の演奏、反復して再現することが不可能な演奏として成立している。私はライヒという作曲家の中で、かかる一回性と反復性が共存している点に興味を抱くし、それは反復を基本原理とするミニマル・ミュージックの根幹と関わる問題ではないかと考えるのだ。先に述べたとおり、今回の公演で[ダブル・セクステット]が二編成の六重奏として演じられたことはこの問題と関わっている。さらにいえば今回の[18人の音楽家のための音楽]は76年の初演の際とかなり印象を違えているように感じられた。この楽曲は既にいくつかのグループによってCDの音源が発表されているが、今回の演奏で私が強烈な感銘を受けたのは、演奏の後半、SectionⅥのあたりから(ちょうどマリンバを演奏していた奏者がマラカスを振り始めたタイミングだ)演奏全体が一種の切迫感を増し、明らかに一種のクライマックスをめざして動き始めたことだ。きわめて個人的な印象であるが、60分近い楽曲は前半と後半で明らかに印象を異にしていた。一回性を刻印されたこの楽曲が緊張感に満ちていることはいうまでもないが、曲調が変化することはミニマリズムの原理とは本来的に相容れないはずだ。しかし私はこのような変化をむしろ好ましく感じた。おそらく今回の演奏はこの楽曲に関する新しい解釈であり、それゆえ感動的であった。

ミニマル・ミュージックの視覚性という問題もさらに検討されてよい。フィリップ・グラスが同時代の現代美術と深い関係にあったことは以前グラスの自伝についてレヴューした際にも論じたが、ライヒとグラスは1969年にホイットニー美術館で開かれた歴史的な展覧会「アンチ・イリュージョン 手続きと素材」にともに出品し、ライヒはマイクロフォンのハウリングを利用した[振り子の音楽]を発表している。あるいは初期の[シックス・ピアノズ]は録音ではなく六台のピアノによる合奏によって演じられたから(2005年発売の「キッチン・アーカイヴ」に収録された77年のライヴからその演奏を知ることができる)六台のピアノが並べられた情景を考えるだけで視覚的に圧倒されるではないか。今回、私は[18人の音楽家のための音楽]のライヴに立ち会って、この曲がはらむスケールとスペクタクル、そして演奏の難度が醸す緊張感を初めて知ることができたように感じた。私はこのブログのごく初期に[オクテット/ヴァイオリン・フェイズ/大アンサンブルのための音楽]を初めて聴いた際の衝撃について短い文章を記している。およそ40年足らずの時を隔てて、ライヒの名曲をライヴで体験した経験もまたそれに劣らず圧倒的であった。人生も終盤に向かう中で私は最近、美術や演劇、映画や読書において一生の中で出会った最上の瞬間に思いを巡らすことがある。この公演も疑いなくそのようなクライマックスの一つであった。

なお、今回のライヴの模様は近くNHKで放映されるというインフォメーションがあった。また同じグループによって演奏された[18人の音楽家のための音楽]は日本版も含めて既にCDとして410日に発売されている。ジャケットのイメージを示す。私の印象を確認していただく意味でも76年の演奏と聴き比べていただきたい。

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# by gravity97 | 2023-05-06 11:03 | 現代音楽 | Comments(0)

ドン・デリーロ『ホワイトノイズ』_b0138838_19574461.jpeg
 ドン・デリーロの小説についてレヴューするのは『墜ちてゆく男』『アンダーワールド』に続いて三冊目となる。私とて熱心な読者からは遠いが、これほどの実力のある作家が、日本でさほど人気がないのは残念だ。デリーロはアメリカの現在をみごとに活写する。「墜ちてゆく男」の場合は同時多発テロという現代アメリカのトラウマと呼ぶべき惨事、「アンダーワールド」の場合は広く20世紀後半のアメリカという時代全般が小説のテーマとされるが、デリーロがことにアメリカの「物質文明」に関心をいただいている点は明らかである。1985年に原著が刊行され、デリーロの名を一躍高めた本書もまた20世紀のアメリカのネガ写真であると同時に、今日の視点に立つ時、一種の予見性を秘めていたことが理解される。

 今までレヴューした二つの小説同様に本書も全三部のタイトルが暗示的だ。すなわち「波動と放射」「空中毒物事件」「ダイラーの大海」。それぞれが意味するところについては後述する。本書の主人公はブラックスミスという町に立地する、丘の上大学(カレッジ・オン・ザ・ヒル)のヒトラー学科の学科長である大学教授ジャック・グラッドニー。ヒトラー学科というのは文字通りアドルフ・ヒトラーを研究する学科であり、このような設定に何か特別な意図があるのか、私にはよくわからない。最初にグラッドニーの家庭が点描されるが、夫婦と子供たちから成る家族関係は非常に複雑である。冒頭の登場人物の一覧が役に立つ。51歳の大学教授ジャックにはバーバという愛称で呼ばれる妻バベットがいる。実はバベットはジャックにとって五番目の妻であり、最初と四番目の妻でCIAのエージェントでもあるダラ・ブリードラヴの間にはステファニーという9歳の娘、二番目の妻マザー・デヴィとの間にはハインリッヒという14歳の息子がおり、マザー・デヴィは現在僧院に入っている。三番目の妻トゥーディー・ブラウナーは既にマルコム・ハントという外交官と結婚しているが、グラッドニーとの間には12歳のビーという娘がおり、ワシントンに住むビーも物語の途中からこの家に滞在することになる。反対にバベットにも父を違える11歳のデニースと幼いワイルダーという二人の連れ子がおり、彼らもまたグラッドニー家に同居している。このほか登場人物の会話の中で言及される人物としてワイルダーの兄、ユージーンとステファニーの姉であるメアリー・アリスがいる。この二人はそれぞれオーストラリアとハワイに住んでいるため物語の中に直接登場することはない。

 第一部ではグラッドニー家の日常が点描されるとともに、何人かの関係者が登場する。丘の上大学の学科長アルフォンス、大衆文化専門の講師マーレイ、グラッドニーがドイツ語を習っているハワード・ダンロップ(グラッドニーはヒトラー学科の学科長でありながらドイツ語ができない)、バベットが読み聞かせのボランティアを務める盲目のトレッドウェル老人。グラッドニー家の日常はグラッドニーと子供たちとのたわいのない会話の連続であるが、ハインリッヒは次々に奇矯なコメントを発する。それらのコメントの多くはTVやタブロイド新聞によって伝えられた「真実」の受け売りだ。マーレイはTVこそがアメリカ人家庭における第一の力であると主張し、「波動と放射だよ」と断じる。「テレビは信じられない量の心霊的な情報を与えてくれる。天地開闢についての古代の記憶を開示してくれるし、僕らをグリッドの中に招き入れてくれる。映像を形作りながらブンブンうなっている小さな点の中に」私が本書からまず連想したのはアンディ・ウォーホルの一連の芸術だ。先にデリーロがアメリカの物質文明に関心を抱いているのではないかと述べたが、まさにそれを表象するのが大量生産、大量消費の表象、ウォーホルの作品ではないか。例えばこの小説の中には登場人物たちが繰り返し出会う一つの特権的な場所がある。それはスーパーマーケットであり、グラッドニー一家はそこで商品を満載したカートを引きながら今挙げた関係者たちと出会い、会話を重ねる。スーパーマーケットとそこに並べられた商品もまたポップ・アートの作家たちが偏愛したモティーフであった。豊かなパクス・アメリカーナの象徴、しかしそこにはベトナム戦争の影が落ちていたように、このセクションにもいくつもの不吉な挿話がひっそりと紛れ込んでいる。原因不明の頭痛や刺激を受けて、子どもたちが小学校から退避させられ、検査に来た男の一人が死んだという噂が広まる。ビーを迎えに空港に向かったグラッドニーは彼女が乗る前の便が墜落寸前の状態で着陸したことを知る。そして第三部の伏線として、バベットが隠れて服用しているらしいダイラーという錠剤が隠し場所で見つかる。

 第二部「空中毒物事件」で物語は急に動き始める。タイトルが暗示するとおり、ブラックスミス郊外で毒物を積んだタンク車が脱線し、毒ガスが大量に漏出したという知らせが報じられる。住民は避難を命じられ、グラッドニー一家も車に乗って避難を始める。漏出した毒物はナイオディンDという薬物で、実験用の鼠には死を、人には痙攣や昏睡、流産をもたらすらしい、そしてその影響は最初、既視感というかたちで現れるといった様々の真偽不明の情報が行き交う。ヒトラー学科の学科長をめぐる物語に毒ガスが登場する時、その暗喩は明らかであろうし、登場人物中、例えばマーレイはユダヤ人である。そして2023年に私たちがこの小説を読む時、誰もが連想するのは東日本大震災によって発生した原子力災害、放射能の雲から逃れて万を単位とする人々が国内を流浪するという現実である。混乱の中でグラッドニーは車のガソリンを入れ替えた際に毒物に汚染された黒い雲を吸い込み、死の恐怖にとらえられる。退避の途中でグラッドニーはバベットが何か錠剤のようなものを飲み込んだことに気づく。避難所の中でバベットは盲人や避難者たちの気晴らしに読み聞かせを行うが、そこで延々と読み上げられるのもUFOが地球を襲撃するとか、アトランティス大陸に住んでいた双子の生まれ変わりといったタブロイド紙に掲載された数々の記事である。災害とデマという主題に対して、今日、私たちは別の名前を知っている。いうまでもなくフェイクニュースというそれだ。

 混乱と騒擾に満ちた第二部は「家に帰っていい、と我々が言われるまで九日かかった」という一文で唐突に打ち切られる。日常が再開されるが、グラッドニーにとっては同じ日常ではない。空中毒物に汚染されることによって決定的な死への恐怖が芽生えたのである。実は死こそが本書の通奏低音であり主題である。本書の中に「もし死が音だとしたら」「電子的な雑音だな」「ずっと聞こえ続けるの。そこら中で音がする。なんて恐ろしいの」「恒常的で、白い」という会話がある。この小説のタイトルの意味が暗示され、それが死にほかならないことが明らかにされる箇所だ。再びウォーホルを想起するならば、ウォーホルも映画スターやセレブリティたちの華やかな肖像の傍らで「死と惨劇」という一連の作品を発表したことで知られている。航空機事故や食品中毒といったモティーフは本書中にも反響している。避難所での生活から解放された後も、グラッドニーは空中毒物に汚染されたことによって死の恐怖に脅える一方で、それからの救いとしてダイラーという薬の存在を知る。ウィリーという科学者によって作られたその薬は現実と仮想の境界をなくすことによって死の不安を取り除くという。ダイラーについては既に第一部でバベットが秘かに服用していることが報告され、第二部ではそれを服用する場面をグラッドニーは目にする。バベットはこの薬を入手するためにウィリーと関係したことを告白し、夫婦の関係は緊張し、ウィリーとバベットの密会の妄想に苦しめられるグラッドニーによって物語は一つのカタストロフに向かってゆるやかに進行していく。

この小説の粗筋を(第三部については大幅に省略して)紹介してみた。この小説は細部も精彩に富み、暗喩や暗示に満ちているから、以上を知ったとしても十分に楽しめるはずだ。私は本書を一種の神経強迫の記録として読んだ。舞台となるのは、同時代であるからおそらく1985年のアメリカであり、パクス・アメリカーナは過ぎ去ったとはいえ、なおもレーガンの「強いアメリカ」という神話が存在していた時代だ。しかしそこには常に一つの強迫観念が存在したのではないか。いうまでもなくホワイトノイズという言葉に象徴される「死」である。資本主義の繫栄と物質文明の絶頂の裏側に常に死が貼り付いていたという発見は先に述べたように、ウォーホルのごとき鋭敏なポップ・アーティストがすでに作品として提示した状況であった。私は本書とウォーホル、いずれからも「メメント・モリ」という西洋美術でよく知られた主題との深い関係を感じた。さらにマリリンやジャッキーといった大衆的なイメージを用いて、マス・メディアの発達した社会の中で拡散される情報やイメージの虚構性や不毛さを明らかにしたのも同じウォーホルであった。本書にはストーリーとは直接関係をもたないが、登場人物の口を介して、あるいはラジオやタブロイド紙を通して拡散し、時に人々に影響を与える真偽不明、おそらくは偽りのおびただしい情報が書き込まれている。空中毒物事件という一種のパニック状況を主題としている以上、デマの拡散という主題自体はある程度の必然性がある。しかし明らかに本書が指し示すのは、私たちに伝えられる情報の全てがこのような偽りではないかという疑いであり、インターネットという技術と引き換えに私たちはもはや語られる事実の真偽を自分たちで判定することができない世界の中に投げ出されてしまった。本書は一種の陰謀論をめぐる物語として読解することも可能であろうし、今やアメリカののみならず世界全体がかかる陰謀論に深く侵されていることを私たちは知っている。本書を予見的と呼んだ理由の一つはこの点にある。ウォーホルから60年、本書が発表されてから40年が経過した。かつて私たちが夢見たアメリカの世紀の所産、いやその最終的な形態さえも私たちは享受している。今や私たちは無数の選択肢の中から一番安い商品をキーボードのクリックだけで手に入れることができるし、いかなる問いであろうとAIによって最適化された回答を得ることが出来る。しかしながら果たしてそれは私たちが望んだ未来であったか。今世紀にあってこの奇妙な寓話はもはや私たちの現実といってよい。それは資本主義という体制の必然的帰結なのか、それとも私たちはどこかで道を誤ってしまったのか。分断と戦争の時代、今日にこそ味読されるべき小説であろう。


# by gravity97 | 2023-04-29 19:58 | 海外文学 | Comments(1)

吉村栄一『坂本龍一 音楽の歴史』_b0138838_09362058.jpeg
  本書を読んでいる最中に坂本の訃報に接した。坂本についてはすでに一度、自伝をレヴューしたことがある。2009年に『音楽は自由にする』が刊行された直後、このブログを初めてさほど間がない頃だ。今読み返してみると、わりと意地悪なことを書いている。次に記すとおり、私は決して坂本龍一の音楽のよき聴き手ではないし、時代の寵児とも呼ぶべきセレヴリティが急に環境問題や人権問題について発言するようになったことに漠然としたいかがわしさを感じていたのだと今になって思う。その後、東日本大震災に伴う原子力災害を経験して私たちの認識は大きく変わった。今回、本書を通読して私は初めて坂本の思いを知り、訃報を聞いてなんとも無念な思いを噛みしめている。

 吉村栄一という書き手の名前は初めて知った。これまでにも坂本やYMO、デヴィッド・ボウイについての著書があるから、音楽関係を専門とするライターであろう。書きぶりには好感がもてた。本書を書くにあたって吉村は完全に黒子に徹して、坂本との関係について語ることがない。実際には多くのインタビューを重ねて取材したのであろうが、常に坂本との間に適度の距離をとり、客観的な記述をこころがけている。通常、坂本ほどの有名人の評伝であれば、思い入れや追従が鼻につく場合があるが、小見出しとして西暦年が機械的に挿入される本書の記述はいわば展覧会カタログの年譜をテクスト化したようなドライな印象であり、感情的な起伏がない。あるいは坂本のオフィシャルな活動については詳細に記述する一方で、私生活、特に複数のパートナーと子どもたちの動静については(矢野顕子や坂本美雨といったパブリックな存在を除いて)事実のみが淡々と記述される。記述する対象との適切な距離、そして関係者に対するディーセンシーは好ましく思われる。

 私自身にとって坂本といえば、まずYMOの坂本であり、京都で開かれたプライヴェートなライヴ(本書を読んで特定することができた。2004年の法然院でのライヴだ)を含めて、数回公演に立ち会ったことがあるにせよ、YMOの初期と「戦場のメリークリスマス」、かろうじて「ラスト・エンペラー」くらいしか知らない。坂本のソロアルバムについては意識的に聴いた覚えがないから、私は典型的なミーハーなファンといえよう。本書を読んで、私は今まで知らなかった坂本の多様な活動をあらためて知った。まずは記述に沿って坂本の半生を追うことにしよう。

 すでに『音楽は自由にする』を読み、ほかにも対談や著述に目を通したことがあるから、坂本の出自と受けた教育についてはおおよその知識があった。坂本は東京の典型的なインテリのプチブル家庭に生まれた。父親の坂本一亀は河出書房の有名な編集者であり、埴谷雄高から高橋和巳にいたる一連の文学者たち、いわゆる第一次戦後派を世に送り出したことで知られる。確か前回も書いたが、ロレンス・ダレルの「アレキサンドリア・カルテット」の翻訳を進めていた高松雄一のもとを自転車の後ろに龍一を乗せた一亀がしばしば訪ねて進捗を確認したというエピソードが改訳版のあとがきにあった。母親は帽子のデザイナーであったという。坂本が音楽、ピアノに目覚めたのは母親の影響が大きかったようであるが、坂本は幼時より作曲に関して英才教育を受けて、東京藝術大学に何の苦もなくパスしたことがわかる。通っていた高校は名門の新宿高校。学生叛乱の激しい頃であったから、しばしば高校でもバリケード封鎖が行われ、坂本も参加したらしい。封鎖された構内で坂本がドビュッシーを弾いていたという伝説はよく知られているが、その真偽については本書でも不明とされている。時代背景も強く影響したのであろうが、大学での坂本は典型的なノンセクト・ラディカルで、かつて英才教育を受けた師でもあるゼミの教授に対して、つまらないから講義に出ないと宣言して学外での活動に熱中し、大学では音楽学部よりむしろ美術学部の学生たちと交流したという。長髪と無精髭、煮染めたようなジーンズを常時穿いていた坂本の当時のニックネームはアブさん、当時の水島新司の野球漫画のむさくるしい主人公からとられたというが、YMO以降のスタイリッシュな坂本に馴染んだ私たちには信じられない思いがする。学外でフォークやジャズ、ロックから演劇にいたる多様な才能と出会い、後に続く華麗な人脈を作る一方で、学内では作曲を学ぶ学徒として着実に研鑽を積み、実績を上げていく。吉村によれば同じ時期に坂本は「学習団」という組織を作って自らの音楽の理論化を図り、高橋アキが演奏する楽曲のための現代音楽のコンテストに応募した。本書を通読して私は坂本の中にアクティヴィストあるいはアジテーターとしての熱い一面と文字通り「教授」としての学究的で醒めた一面が常に共存していることを知ったが、大学院時代の坂本の活動にもこのような二面性は明らかであろう。

 スタジオ・ミュージシャンとして多くのミュージシャンと交流する中で一つの出会いが決定的な意味をもつ。世界進出を目指して新しいユニットを構想していた細野晴臣は知人を介して坂本を紹介され、以前からの知り合いであった高橋幸宏と三人でYMOを結成することとなる。1978年のことだ。ただしこの時期、坂本は自分のデビューアルバム「千のナイフ」を制作しており、私は初めて知ったが、このアルバムとYMOのファーストアルバムはほぼ同時にリリースされている。いずれも当初は理解されず、売り上げ自体は微々たるものであったが、幸運にもYMOはアルファレコードがA&Mレーベルと組んで日本人アーティストをアメリカで売り出す戦略に組み込まれて全米デビューが決まった。翌798月、最初はチューブスという人気バンドの前座として売り出したYMOはコンピュータを用いた独特の楽曲が人気を呼び、秋には単独でのワールドツアーが決定したという。このあたりの事情は私も記憶がある。私がYMOの名前を初めて知ったのは国内の音楽番組ではなく、毎週土曜の深夜に全米のレコード(この頃はまだCDがなかった)売上トップ40を報じるラジオ番組の中で、日本人の変わったバンドがアメリカで人気を呼んでいるといった、やや色物的なニュースの中であった。それからのYMOの快進撃は説明の必要もなかろう。またたくまに日本のヒットチャートに躍り出るだけでなく、人民服を摸した奇抜なファッション、独特のシニカルなスタイルは一種の風俗的流行として日本を席巻した。しかし注意すべきは、同じ時期に坂本はソロのアルバムも次々に発表していたことである。YMOの人気に対して坂本が当初から違和感をもっていたことは本書の端々からうかがえるし、このユニットに参加する条件として自分の音楽活動を続けることの保証を求めたという。確かに人気絶頂のグループに在籍しながら、そのメンバーがソロでアルバムを発表するという例はあまりないだろう。もともとYMOはそれぞれに異なった音楽性をもった三人が世界進出という目的のために一時的に結成したユニットであったから、互いを拘束する必要もなかった。YMOは一種の社会現象を引き起こした後、早くも83年には解散(確か彼らは散開という言葉を使っていた)してしまう。当時の私の印象としては彼らが発表するアルバムには一貫性が欠けていた。確かにファーストアルバムから「パブリック・プレッシャー」あたりまでは「ライディーン」に象徴されるテクノ・ロックの範疇で理解することができるが、それ以降の広がりというかまとまりのなさは私の理解を絶していた。このような姿勢が必然的であったことも本書を読めば納得できる。これ以後もYMOとの関係は坂本の活動に微妙な陰影を与える。一方で83年は「戦場のメリークリスマス」が公開された年でもあった。もちろん私もこの映画をリアルタイムで見た。大嶋渚は映画音楽について坂本の自由に任せ、結果として坂本の代名詞とも呼ぶべき名曲が生まれ、生涯にわたって続ける映画音楽との関わりが始まる。ロケ地となったラロトンガ島におけるデヴィッド・ボウイとのエピソードなどは微笑ましい。80年代を坂本は疾走する。映画と音楽を介して人脈は世界的に広がり、ベルナルド・ベルトルッチやデヴィッド・シルヴィアンといった映画監督やミュージシャンとの親交は生涯にわたって続くこととなる。さらにこの時期、坂本は美術やダンスといった領域にも音楽を介して進出する。後述するとおり、坂本は生涯にわたって先端的なテクノロジーに強い関心を抱いていたが、このような関心も他領域とのいわばマルチメディアの探求によって生まれたものである。この時期の坂本の活動は世界全域に及んでいたから、もはや東京を拠点とする必要もなかった。1990年に坂本はニューヨークに移住し、1992年にはバルセロナ・オリンピックの開会式でオーケストラを相手に自作の楽曲の指揮棒を振った。このような状況の中で1993年にはYMOが再結成される。しかし「YMOの再結成を強く望む音楽業界、関係者たちによって本人たちにその意思がないにもかかわらず、いつの間にか外堀を埋められるような形で再結成は決まってしまっていた」と吉村が記すとおり、この再結成はニューヨークでレコーディングされた「Technodon」というアルバムを生んだだけで短期に終わってしまった。私自身、「かつてのファンの多くが望んだであろう初期のカラフルでポップな曲調ではなく、アンビエント色が濃いモノ・トーンの雰囲気のアルバム」と評されたこのアルバムを聞いた覚えがない。世界的なミュージシャンたちとの人脈が形成された坂本にとって、もはや細野や高橋と組むことにさほどの必然性はなかったのであろう。一方でニューヨークでの生活は政治や社会に対する坂本の関心を醸成した。移住した90年にイラクへの多国籍軍の侵攻があり、それ以来アフガニスタンやイランに対しても終わりのない戦争を仕掛ける当事国で暮らすことがそれなりにストレスフルであったことは想像がつく。かかる暴力の行きつく先として2001年、坂本が住むマンハッタンで同時多発テロが発生する。坂本がニューヨークで暮らした20世紀末から21世紀の初めにかけて、私たちは世界を暴力が吹き荒れる時代を体験した。これに対して、やや前後するが、坂本は人類への光明としてオペラ「LIFE」を構想し、1999年、大阪で世界初演が実現する。ライヒやグラスを想起するまでもなく前衛的な作曲家が最後にオペラを手がける例は多いが、坂本の場合は単に楽曲のみならず、テクノロジーを駆使したスペクタクルとしてのオペラが構想されている。

 今世紀に入って坂本はアクティヴィストとしての活動に注力する。同時多発テロに対しては「非戦」を提唱し、環境問題には以前より深い関心を抱いていたが、それを実践するかのように自身が発表するCDのパッケージなどにも環境に負荷をかけることがないように配慮がなされ、ツアーの際にもカーボンオフセットが考慮された。2008年にはロンドンとスペインのヒホンでYMOとしてのコンサートを実施している。この時は一時的な復活であり、別々のCDが発売されたと記憶するが、吉村によれば、高橋の提案で中国当局による弾圧が続くチベット自治区と関連して「チベタン・ダンス」をコンサートに組み込むなど、彼ららしいプロテストの精神が隠されていたらしい。本書を読んで初めて知ったが、坂本は反原発運動にかなり早くから関わっている。2006年にグリーンピースのウェブサイトなどで六ケ所村の核燃料再処理工場問題を知った坂本は独自の反原発運動「no nukes, more trees」を開始し、独自の植林活動を始めた。現在では世界各地にこの名を冠した森が多く存在するという。したがって2011年の東日本大震災に伴う原子力災害に対して、坂本が強い言葉で応じたことは当然であった。吉村も指摘するとおり、坂本の「たかが電気」という発言は意図を曲解されて、右派の論壇誌などによるバッシングを生んだが、坂本が信念をもって反原発運動に取り組んだことはこれ以後の彼の行動を知る時、明らかであろう。そして震災との関係で言えば、震災後、東北ユースオーケストラの結成に関わり、若い世代の指導にあたったことも坂本のアクティヴィストとしての面目躍如たるものがある。むろんこれらの活動と同時に世界を舞台にした発表は続き、その詳細は本書に詳しい。しかし2014年、坂本は中咽頭癌に罹患していることを発表し、治療に専念することとなる。これ以後の部分を私は坂本の訃報後に読んだから、正直言って読み進むのが辛かった。坂本はおよそ10年にわたる闘病生活を続けたことになる。私は坂本の姿勢にこのブログでもレヴューしたスーザン・ソンタグの晩年を重ねてしまう。坂本は病名を含めてカミングアウトしていたから、私もその闘病については知っていたし、昨年から『新潮』に連載していたエッセーというか闘病記にも時折目を通していた。驚いたのは坂本が一度は癌を克服して、複数の映画音楽や新譜の発表を行っていたことである。私はあらためて坂本のヴァイタリティと強い使命感に感銘を受けた。しかし同時多発テロ、東日本大震災に続く三度目の災厄が私たちを襲った。新型コロナウイルス感染症の流行である。世界を飛び回る坂本にとって移動や越境が禁じられたことは大きな打撃であっただろうし、そもそもコンサートや演奏会自体が自粛を迫られる状況が続いた。2021年の初め、癌の直腸への転移が確認され、坂本は大手術と数ヶ月にわたる安静を強いられる。体力が衰えたためコンサートでの演奏を断念した坂本は日々書き留めた楽譜の中から12曲を選んで「12」という最後のアルバムをリリースした。今年の117日、坂本の71歳の誕生日のことである。本書が刊行されたのが一月後の226日、そしてそれから一月ほど後に坂本は天上に召された。

 本書を通読してあらためて坂本の音楽の特性に思い当たるところがあった。一つは西欧主導の音楽を相対化し、いわゆるワールドミュージックへの視野を備えている点だ。藝大時代に小泉文夫の講義を熱心に聴講したことと関係しているかもしれないが、デビューアルバムを出した同じ年に初めての海外旅行として、仕事絡みではあったがジャマイカを訪れたことに始まり、坂本は世界各地で現地の音楽に触れ、しばしば第三世界にも足を踏み入れた。日本でも沖縄の音楽への関心が知られている。早熟の天才として若くして西欧の伝統的な音楽を自家薬籠中の物とした坂本ならではの関心であろうが、思えばYMOも当初はその無国籍風の音響が話題になった。音楽を国家や民族に帰属させない発想は坂本の音楽の本質と関わっているように思われる。ワールドミュージックという空間的な発想に対して、時間に関してはどうか。坂本は常に時間の先端、つまり最新のテクノロジーへの一貫した執着を示す。坂本に「未来派野郎」というアルバムがあるが、「諸世紀の突端」に立つことを高らかに謳った未来派のように坂本もコンピュータとインターネットを用いた最新の作曲技法や音楽配信技法に積極的に取り組み、画期的な表現を次々に成立させていった。レコードからCD、そして配信にいたる音楽の流通テクノロジーの変化にも坂本は積極的に対応する。コンピュータ技術への関心はYMOのワールドツアーに協力した松武秀樹との交流に由来するのか本書からは判断できなかったが、ダムタイプの高谷史郎とは生涯を通じて密接な協同関係を築く。グローバリズムとデジタル・テクノロジーという今日最新の潮流が坂本という才能の中で一貫してみごとに溶け合っていたことが理解されよう。

 坂本は世紀末から今世紀初頭にかけてのいくつもの知的あるいは芸術的なサークルの中心にいた。音楽の領域に限っても武満徹から忌野清志郎にいたる多彩な才能と交流し、美術では高谷史郎からカールステン・ニコライ、映画であればベルトルッチから大嶋渚、かつて『批評空間』で浅田彰や柄谷行人らと親しく語らっていたことを想起してもよかろう。この時、私は坂本と相前後して逝去したもう一人の知識人に思いを向けざるをえない。いうまでもなく大江健三郎だ。大江もジャンルや国籍を超えていくつものサークルの中心であったことは、例えば古井由吉、伊丹十三、原広司、山口昌男、あるいはエドワード・サイードらの名を挙げれば理解できようし、武満徹は坂本と大江の両者と交流があった。大江がいわゆる戦後民主主義の体現者であったことは今日私たちに共有された認識であるが、私は坂本もまた戦後民主主義を継承し、正確にはそのヴァージョンアップを図ったのではないかと考える。大江も坂本も反原発集会に参加して発言した。為政者の不正に対してデモを仕掛ける、シュプレヒコールを上げる。この時期、戦後最悪の愚劣な宰相が政治を私したことを勘案するにせよ、二人の知識人がこの当然の行為の先頭に立ったことは私たちを勇気づけた。正当な権利を主張すること、不正を批判することが冷笑で迎えられるシニシズムの時代にあって二人の存在は大きかった。それゆえ私たちの喪失感もまた深い。

 最後にもう一言。なんという装丁方法かわからないが、天と地、小口をカバーと同じ幅で断ち切った本書の装丁はソリッドで硬質な坂本の音楽の本質を体現するかのようで美しく、坂本への深い敬意と理解が感じられた。


# by gravity97 | 2023-04-15 09:37 | 評伝・自伝 | Comments(0)