飯島洋一『建築と歴史』

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 飯島洋一の批評については以前『「らしい」建築批判』についてレヴューした。新国立競技場をめぐる騒動から語り始める『「らしい」建築批判』も安藤忠雄や伊藤豊雄の「らしい」建築を完膚なきまでに批判する攻撃的な論攷であったが、本書もまたきわめてポレミックな批評である。「建築と歴史」というタイトルは必ずしも内容を十分に反映しているとは思えない。もちろん建築や歴史について論じられる部分もあるのだが、私の考えでは本書のテーマは「日本の建築の歴史」がいかに他者、すなわち西欧によって捏造されたかという問題と関わり、一種のオリエンタリズム批判が主題とされている。そして次に述べる通り、前著同様に建築のみならず美術の分野にも拡張可能な思考が繰り広げられていた。
 本書は一昨年から昨年にかけて金沢21世紀美術館で開催された「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」に対する深い違和感から説き起こされ、この違和感は続く章においても繰り返し表明される。私は未見であるが、この展覧会はポンピドーセンターの副館長フレデリック・ミゲルーが企画したという。飯島がこの展覧会に加える批判は多岐にわたるが、まず日本の現代建築の「起源」として第二次世界大戦の戦災を出発点としてとらえ、さらに日本の場合、そのような「起源」が複数存在するという展覧会の構成に関するミゲルーの認識が「完全な誤り」であり「致命的な誤り」であると飯島は主張する。この点は続く章においていくつかの観点から分析されるが、その前に美術館にとっても看過できない問題が提起される。まず単純な疑問から始めよう。なぜフランスのポンピドーセンターの副館長が日本の現代建築に関する展覧会を企画するのか。飯島は建築とは芸術でありえないことを繰り返し主張してきたが、図面や模型が美術館に取り込まれることによって、美術品とみなされる風潮が一連のアンビルドの建築家(いうまでもなくその代表が先日急逝したザハ・ハディドだ)らの活動を契機に生じてきた。私はこのような状況を70年前後に作品の商品化を拒否したコンセプチュアル・アートが美術館に収蔵されていった過程と比較して検証したい誘惑に駆られる。本来ならば建築の施工とともに意味を失うはずの図面や模型を自らのコレクションに加えようという美術館の欲望を飯島は批判する。「この金沢での大規模な戦後日本建築展の終了後に行われる、展覧会そのものより重大なイベントは、今回、この会場に展示された日本の戦後建築の膨大なコレクションの、ポンピドーセンターによる、あるいはミゲルーによる『収集』のはずである。つまり、この展覧会の終了後に行われるのは、ミゲルーによる展示品の『買い取り』となるはずなのである。まずは、どの建築家のドローイングなり模型なりを買い取ろうか、その『オークションの場』が実はこの金沢の大規模な展覧会の真の正体なのである。つまり、この展覧会は、本来、展覧会がするべきことと、その結末が、全く逆転している。ミゲルーはこの展覧会を開いたから、その展示品を買い取りたくなったわけではない。事実はその逆である。彼は最初から図面や模型を買い取りたいからこそ、この展覧会を開いてみせたのである」飯島はこれを西欧の「異国趣味」の一例とみなして、ナポレオンからフランク・ロイド・ライトにいたるエキゾチックな遺物の収集の歴史を論じる。飯島はかかる欲望と一連のスター建築家にみられる、「建築におけるアート化現象」が連動してかかる展覧会として結実したとみなす。後者の問題は『「らしい」建築批判』で詳細に論じられたとおりである。私が関心をもったのは、ミゲルーのごときキューレーターの欲望が美術の領域でもしばしば認められることだ。この30年ほどの間に、外国人キューレーターの手によって日本の戦後美術を検証する展覧会が次々に企画されたことは知られているとおりである。同じポンピドーセンターであれば、1986年の「前衛の日本」、あるいは1994年、グッゲンハイム美術館ソーホー分館における「戦後日本の前衛美術」、最近ではこのブログでもレヴューしたニューヨークにおける具体美術協会や1960年の前後の東京に焦点を当てた展示。そこで提起された美術史観の妥当性について今は措く。問題は日本において自国の建築史や美術史がしばしば西欧という他者の目をとおしてかたちづくられてきたという事実である。もちろん私は千葉成夫や椹木野衣のそれなりに独特の研究や論考を高く評価するが、展覧会は現実の作品をとおして検証されるため、作品の所有という欲望と直結している。ミゲルーによる「買い取り」、すなわち展覧会によって権威づけた作品を関係者が購入するという一種のマッチ・ポンプは現代美術の領域ではさらに露骨に進められ、具体美術協会の一部の作家に明らかなとおり、投機的な様相さえ帯びている。しかしこれは単に西欧が日本を収奪するという単純な図式に収まる問題ではない。飯島は次のようにも説く。「展覧会の後に、自分たちの建築の図面や模型を、是非ともフランスの名のある美術館のパーマネント・コレクションとして収集してほしいという日本の建築家たちの現実主義的な願望も、十分に作動している」飯島はこれを建築家(非西洋、被支配者)とコレクター(西洋、支配者)の「共犯関係」と論じる。近年のにわかな日本の現代美術ブームを想起するならば、建築の分野に限定された問題とはいえないだろう。次いで飯島は「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の構成をいわば逐条的に批判する。この過程で例えばリーダーズ・ダイジェスト日本支社を設計し、展覧会で取り上げられているアントニン・レーモンドが一方で戦時中、アメリカ軍の空襲に際して焼夷弾の効果を最大にするために日本家屋のレプリカを作って燃やす実験において大きな役割を果たしたといういわば建築史の暗部を明らかにする。なんのことはない。日本建築の「起源」であり、無数の人々が惨死を遂げた空襲の焼野原、それに手を貸した人物が展覧会の中では顕彰されているのだ。
 本書の中ではむしろ余談に当たる部分であろうが、「コレクションの欲望」と題された最初の章の最後で語られる金沢21世紀美術館への批判は私も強く同意する。それは単に俎上に上げられた展覧会のみならず、この美術館の方針や建築と深く関わっている。飯島は初代館長が『超集客力革命―人気美術館が知っているお客の呼び方』(それにしてもなんというタイトルであろうか)の中に記した「極めて『下品』な物言い」(書き写すだけでも汚らわしいので直接本書を参照していただきたい)を引用した後、次のように述べる。「こうして美術館というものの本来の意味が、ますます薄れてきている。きちんとしたかたちで展示品を楽しみたい普通の人達のことを、公共美術館の責任者がまるで考えていない。お金儲けや有名になることばかりに、あるいは美術館としての金銭的な成功ばかりに熱心である。つまり、ここにあるのは資本主義の『下品な俗物趣味』だけなのである。「美術館冬の時代」にあってこの異形の美術館を華々しい成功例として称賛するばかりの美術ジャーナリズムの中にあって私は初めて真っ当な批判を聞いた思いがする。以前にも記したが、私は美術館の中でいつも迷子になり、次の順路を探すのに一苦労するSAANAによる建築が美術館として優れていると思ったことは一度たりともない。飯島も言及しているが、別の県で前身となった美術館の理念やコレクションを一顧だにせず、同じ建築家を用いて、新生美術館なる奇怪な構想を推進している人物がかつて21世紀美術館の立ち上げに関わり、先日レヴューした「キセイノセイキ」展において作品を検閲した学芸課長であることをここに書き留めておきたい。
 「近代の『起源』」と題された第二章においては「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の鍵概念たる「起源」の恣意性が写真やモードといったジャンルを引きながら論じられ、さらに「近代」という概念が多角的に検証される。「起源」という発想が恣意的であることは特に驚くべき指摘ではないが、ミゲルーは展覧会をとおしてルネッサンスという起源から直線的に進化する西欧の建築に対して、日本においては複数の起源が存在すると主張していた。飯島は近代、モダンという概念が直線的で不可逆的であり、「時間は反復不可能である」という感覚に根拠を置いていると説く。西欧とは別の根拠に根ざす場所として日本が想定されており、同様の認識のオリエンタリズムは飯島も説く通りロラン・バルトやレム・コールハースにも認められる。ここでも本書の問題圏からやや逸脱して、モダンが単線的で反復不可能であるという理念に対して、先日このブログで論じたカルロス・フェンテスの「テラ・ノストラ」の異質性を確認しておこう。この長大な小説が複数性と反復性を原理としていることは論じたとおりであり、この点はモダンとは異なった原理は日本のみならず西欧以外の地域にしばしば認められることを暗示している。いや、モダンという概念、単一の起源という発想こそ西欧という限定された場における特殊な事例ではないか。しかしその特殊が自らを絶対として他者を自分のために裁断する時、サイードのいうオリエンタリズムが発生するのだ。続く第三章「黒船の意味」において飯島は歴史を遡行し、文字通り黒船の来航、江戸末期から明治以降において「近代建築」がいかに日本に着生していったかを検証する。結論として飯島は明治以降、日本は西欧を全て真似ており、結果として日本も西洋近代と同様に一つの起源に依存していると結論づける。したがって複数の起源を主張するミゲルーの展覧会コンセプトは破綻している。飯島は次のように結語する。「日本は、明治以降、自分たちの『伝統』ですら、支配者である西洋人に、『これがそうだ、これがあなたたち日本人の「伝統」だ』と、教えてもらうのである。繰り返すが、こうして西洋人が見つけたものだけが『日本的なるもの』として、日本の建築史に書き込まれることになる」ミゲルーによる展覧会がこのような「日本の建築史」の最新の上書きであることはいうまでもないが、私はこの言葉が建築のみに向けられたものだとはとても思えない。美術史においても私たちは自らの「正史」を欧米によって書き留められている。以前、このブログでも触れたが、先年、ニューヨーク近代美術館で「TOKYO 1955-1970 ; A New Avant-garde」が開催された折に「戦後からポストモダンへ」という日本の戦後の美術批評のアンソロジーが刊行された。編集に日本の批評家も関わっているとはいえ、他国の美術のみならず美術批評を英語によって再編成しようとするMOMAの姿勢は端的に植民地主義のそれだ。もちろんそれに類した試みが日本でなされたことはないから、このようなアンソロジーは一定の意味をもつかもしれない。ただしそれはあくまでも英語を解す言語圏にとって手っ取り早い参照例としての意味にすぎない。しかしこのようにして非西洋、被支配者の美術史が西洋と支配者によって歴史化/上書きされていくのである。
 続く第四章「桂と伊勢」でも語られる問題は基本的に同一である。グロピウスやブルーノ・タウトらによって例えば桂離宮の「近代性」が「発見」される。日本人ではなく西欧の目を通してこれらの建築が「発見」されたことこそが重要であり、丹下健三らの「伝統論争」もこの射程の中にあると飯島は説く。そしてここでもMOMAの政治性が論じられる。1954年から55年まで近代美術館の中庭に吉村順三の手で書院造りの建築が設えられて評判を呼ぶ。飯島はこの経緯を丹念にたどったうえで、この背景にアーサー・ドレクスラーやロックフェラー三世といった近代美術館の関係者がおり、彼らの目的が「日本が共産主義に傾かないように監視し、アメリカは日本の文化に関心をもっているという戦略的な布石を投じていた」と説く。以前にこのブログでニューヨーク近代美術館が組織した1959年の「新しいアメリカ絵画」について論じた。この展覧会がアメリカ絵画の優位をヨーロッパに見せつけ、自由主義陣営の盟主たるアメリカの文化的優越を誇示するものだったとするならば、逆に極東に対しては被支配者の文化を支配者の中に取り込むという一種の懐柔策が用いられていたということであろう。日本の建築界も美術館が主導する冷戦下の文化戦略に組み込まれていた訳である。
 最も長い最終章「黒と戦災」では再び戦時下の日本における空襲の問題から語り起こされる。何度も論じる通り、問題とされた展覧会が戦災を起源として日本の建築史を見直すものであるから、かかる反復は意味をもつ。なぜ日本人が空襲あるいは原爆といった蛮行の犠牲とされたか。飯島はそこに欧米人の人種的偏見を認める。このような偏見は日本人に対するものだけであっただろうか。いうまでもなく答えは否だ。支配者である西洋、とりわけヨーロッパにおいてもユダヤ人という人種の最終解決=絶滅政策が進められていた。飯島はヴィシー傀儡政権によってフランスがかかる蛮行に積極的に加担した点を実証したうえで、植民地主義こそがかかる大量虐殺の起源でることを論じる。そしてミゲルーが展示の中で空爆による破壊を象徴する部屋を「黒」によって表現したことに着目し、「黒」の多義性を論じたうえで、いよいよ歴史という問題へと向かう。フーコーからハバーマス、デリダ、ポール・ド・マンそしてサイードといったビッグネームを次々に引用しながらポストモダン、歴史修正主義そして言語論的転回といった問題が自在に論及されるこの章は本書の白眉であり、簡単な要約を許す内容ではない。しかしながら高度で抽象的な問題を扱っているために、具体的な例証に欠け、建築との関係が希薄である印象も免れえない。ある程度予想されたことではあるが、本書は「支配者、西欧によって選び取られた日本の文化の最新版」である「クール・ジャパン」批判によって終わる。それは西欧の日本に対するエキゾティシズムの一変種に過ぎないからだ。
 私は美術に関わる問題意識に過度に引きつけて本書を読んだかもしれない。しかしここで語られる問題は近現代美術の領域においてもほぼ正確に反復されている思いがする。日本において「近現代美術史」なるものが果たして存在するか。私は千葉成夫が「戦後美術逸脱史」において無意識的に、椹木野衣が「日本・現代・美術」において意識的に問うた問題こそまさにこの点に関わっていると感じる。後者に通底するペシミズムについてはこれまでも何度か論じた。「建築と歴史」は次の一文で終えられる。「西洋と東洋の力の非対称性、あるいは力の差異こそが、黒船以来現在までずっと続いている、世界資本主義市場における日本の真の姿である。/このような日本が置かれている本質的な事態を皮肉にも再確認させてくれたのが、この「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」展の、唯一の功績であった、と言えるのかもしれない」飯島の結論もまたきわめてペシミスティックであることは偶然の一致であろうか。
 今や私たちは深いペシミズムに冒されている。「一億総活躍」やら「女性が輝く」やら、現政権が打ち上げる、戦前を連想させるスローガンに反して、かかるペシミズム、いやもはやニヒリズムは今の日本の社会に深く瀰漫しており、この国を蝕んでいるように感じられる。政治家はもとよりマスコミから大学まであらゆる領域で劣化が進行している。「戦災から震災まで」という本書のサブタイトルは暗示的だ。ミゲルーの展覧会があえて2010年で終わっている点を飯島は批判しているが、2011年以後、私たちは愚かな為政者たちのもとで「震災から戦災まで」を今まさに経験しつつあるのだ。
# by gravity97 | 2016-10-02 21:21 | 建築 | Comments(0)

やなぎみわ「日輪の翼」

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 やなぎみわ本人から「日輪の翼」を舞台化したいと聞いたのは東日本大震災の直後であった。あれから5年、ついに実現したこの公演に千秋楽の大阪会場で立ち会う。もっとも既に横浜や高松における公演の噂は耳にしていたし、舞台として使用される移動舞台車(ステージトレーラー)を私は二年前の横浜トリエンナーレ、昨年のPARASOPHIAの会場でも目にしていたから全く未知の舞台という訳でもない。それにしても中上健次の「日輪の翼」というそれ自体とんでもない小説を、やなぎが舞台化するのである。大きな期待とともに私は名村造船所大阪工場跡地を訪れた。今名前を挙げた二つの展覧会についてはすでにこのブログでレヴューしており、会場となった名村造船所についても「クロニクル・クロニクル」という展覧会のレヴューで触れている。様々な記憶が喚起される一夜となった。今回は小説と舞台の内容にも深く立ち入って論じる。
  「日輪の翼」のあらすじを述べることはさほど難しくない。中上の小説の中では最も読みやすいものの一つであり、私は大阪に向かう車中で再読して舞台に臨んだ。路地が消失した後、オバと呼ばれる七人の老婆(やなぎの舞台では五人とされていた)を冷凍トレーラーの荷台に乗せて巡礼の旅に出た若者たちの物語であり、熊野を起点に伊勢、一宮、諏訪から瀬田、出羽、恐山、そして東京へと日本各地の聖地をめぐるロードノベルである。道行きの途中で息の絶えるオバもいれば、失踪するオバもいる。淫蕩な血を引いた路地の若者たちは行く先々で女を漁り、女と交わる。高速道路を疾駆する鋼鉄の蛇のごときトレーラー。トレーラーは男根であり母胎でもある。卑猥な言葉で青年たちをからかい、どこであろうとオカイサンを炊くオバたち。ここには中上の小説でおなじみのイメージがかつてなく強い喚起力とともに繰り返し現れる。おそらくこの点もやなぎに舞台化を決意させた理由の一つであろう。そもそもオバという存在自体、やなぎの作品にとって異質ではない。My Grandmothers シリーズを連想すればよい。生命力をみなぎらせた老婆たちの姿に私たちは既に見慣れているし、複数の女性が同じコスチューム(今回は「浮浪者風」か)を身にまとうという発想も初期のエレベーターガールをモティーフした作品以来一貫しているではないか。若衆と老婆たちの旅路の果ては東京だ。皇居に参拝し、「天子様がここにおってくれるさか、わしらクズのような者が、生きておれるんやねェ」と嘆賞した老婆たちは忽然と消え去り、二人の若者だけが残される。「アニ、乗らんかい?これからまた、俺ら旅じゃ」最後までオバたちに付き添った二人の若者、ツヨシが田中さんに声をかける場面でこの小説は幕を閉じる。
 最初に中上の小説における「日輪の翼」の位置について説明しておこう。ヨクナパトーファならぬ紀州サーガと呼ばれる中上の小説群にはいくつかの系統が認められる。まず「岬」「枯木灘」「地の果て 至上の時」のいわゆる秋幸三部作は、路地と呼ばれる紀州の被差別部落に生を受けた秋幸という青年が異母妹との近親姦と異母弟の殺害という二つのタブーを犯す物語である。蝿の王とも呼ばれる秋幸の実父、龍造との葛藤も重要なテーマであり、「地の果て 至上の時」において龍造は自ら縊死するが、龍造の暗躍によって秋幸らの生活の場であった路地も消滅した。一方、中上には「千年の愉楽」から「奇蹟」にいたる淫蕩で美男、暴力的で短命な男たちの一生を描いた一連の作品を発表している。「日輪の翼」はこれら二つの系統が交差する場所に生まれている。すなわち一方で本書は路地が消滅した後、路地の若者たちがいかに生きたかという路地の後日譚であり、この系列からはさらに「日輪の翼」の続編とも呼ぶべき「讃歌」そして未完となった「異族」が派生する。一方で本書は路地に生を受けた若者たちの列伝の一部としても読むことができる。「日輪の翼」には二人の主人公、ツヨシと田中さん、そしてマサオとテツヤという四人の若者が登場する。不吉な宿命を帯びた若者たちのリストにはいくつもの名を追加することができる、今回の舞台でも名が呼ばれた半蔵とオリエントの康、あるいは郁男や文彦、「千年の愉楽」においては自らが産婆として取り上げ、美形で短命という宿命を生きた若者たちをオリュウノオバが回想する。私が好む記号論的な思考に立つならば前者の系列は路地をめぐる継起的で唯一的な換喩性と関わり、後者の系列は路地をめぐる範列的で選択可能な隠喩性と関わる。両者が交差する点に成立するのが「日輪の翼」である。
b0138838_21291916.jpg 舞台に戻ろう。私が知る限り、やなぎが原作を有する物語を舞台とするのは今回が最初である。しかし今述べた内容からも舞台化の困難さは理解できよう。原作においては移動が主題とされている。オバたちを乗せて高速道路を滑走する大型トレーラー。移動を主題とした物語を一つの場において演じることは可能か。やなぎは単純きわまりない解決策を提示した。すなわち現実の大型トレーラーを舞台とすることだ。台湾でカラオケやら選挙運動に使用される移動舞台車という特殊な車両と出会ったやなぎは、仕様を変更して日本に輸入した。満艦飾のトレーラーはそれ自体がオブジェであり、過去に大規模な国際展で披露されたことは先に述べた通りである。「日輪の翼」は熊野から皇居まで日本各地をめぐる息の長いロードノベルであるが、舞台でも原作に忠実にオバたちの行程がたどられる。ハツノオバの死、キクノオバの失踪、四つの乳房をもつララという風俗嬢との邂逅、原作のかなり細かいニュアンスまで織り込まれているため、直前に原作を再読していた私にとって演じられる物語を追うことはたやすかった。しかし二つの点で演劇特有の潤色がなされていた。まずこの舞台には「日輪の翼」のみならず、いくつかの中上の小説、とりわけ「聖餐」と「千年の愉楽」が色濃く反映されている。劇の中で「マザー、死のれ」という歌を繰り返す「死のう団」の歌手は小説「日輪の翼」においては「少年歌手」という名を与えられているが、「千年の愉楽」に登場した半蔵の息子であり、「聖餐」においては半蔵二世と呼ばれていた少年であるはずだ。あるいは劇中でオバらが歌う盆踊り歌は「枯木灘」から引用され、近親相姦の無残な結末を暗示した「きょうだい心中」であった。後述するとおりこの舞台は音楽劇でもあり、前半のクライマックスにおける歌とダンスの中には「千年の愉楽」に登場するオリエントの康の物語が挿入されている。もう一つの潤色は大型トレーラーの中で上演されるメインストーリーの脇にそれ以上に目を引く二つの舞台を配置したことだ。左側ではクレーン車から垂らされたロープを用いて二人の男女による曲芸的なパフォーマンスが行われ、右側のトラックの荷台ではポールダンスが繰り広げられる。いずれも相当に猥褻なパフォーマンスであり、「神さん、孕ましたろか」と伊勢神宮の石垣に股間を押しつけるツヨシの所作同様に、やなぎの知的で抽象的な舞台に親しんでいた私にはショッキングに感じられた。これまでのやなぎの演劇は映像が多用されることはあっても俳優の身体はさほど強調されることがなかったからだ。しかし「1924 Tokyo-Berlin」における香具師の口上が暗示していた見世物性、土俗性への関心が今回の作品には顕著に認められる。私は今回の舞台から寺山修司の一連の演劇を連想した。そもそもやなぎの写真作品も常に一種の見世物性を漂わせてはいなかっただろうか。
 先ほど述べた二つの潤色を経て、やなぎの「日輪の翼」はさらに深みを増して私たちの前に提示される。やなぎ自身が冒頭で述べるとおり、この劇は祝祭劇であり音楽劇である。原作においては明確に語られることがなかった「半蔵二世」つまり「少年歌手」を演劇の中に取り込むために、トレーラーの奥にはドラムのセットが設えられて、俳優たちは楽器をライヴで演奏し、タップダンスを披露する。野外劇で音楽が演奏される形式からは維新派が連想され、明らかにこの舞台は先日逝去した松本雄吉へのオマージュとしても構想されている。巻上公一らによる音楽も作品の大きな魅力を形作っている。「マザー、死のれ」という歌声は今も私の耳から離れない。これまでやなぎの演劇において、音声はイヤホン、電話やラジオといった媒介を伴い、間接的に伝えられる場合が多かった。これに対して今回はマイクロフォンが使用されていたとはいえ、俳優の肉声と楽器の生演奏が観衆に直接的に訴求し、生々しい印象を受けた。中上の原作を介すことによって演劇が血肉を得た思いがする。それにしても俳優たちが用いる紀州ダイアレクトは強烈だ。台詞の多くは中上の小説の話し言葉であるから、それは中上の言葉の強度でもあるだろう。今のところ具体的な典拠を中上の小説で確認することができていないが、冒頭でマクベスの三人の魔女ならぬ五人のオバたちが「きれいは汚い」という意味の言葉を発していたと記憶する。この傍らに「天子様がここにおってくれるさか、わしらクズのような者が、生きておれるんやねェ」という台詞を置く時、中上/やなぎのラディカリズムは明らかだ。ここでは天皇家と路地すなわち被差別部落の交換可能性が示唆されている。私は「日輪の翼」を初読した際にオバらが皇居を最終目的地としたことをやや不審に感じた。しかし俳優たちの肉声を通して、「アホな人」と「天子様」への思いが同等に語られる舞台を見て、この疑問は氷塊した。路地と皇居は等価であり、それゆえオバたちは失踪したのだ。路地はひとたび消滅することによっていまや熊野から東京の中心にまで遍在する。
 やなぎの「日輪の翼」を見ることによって、私は中上の「日輪の翼」について多くの新たな理解を得ることができた。しかしいまだに謎として残された問いもある。それはトレーラーの傍らで繰り返された曲芸やダンスである。右側のポールダンスについては由来を推測することができる。それは「軽蔑」の中で女主人公、真知子が得意としたダンスであろう。しかし巨大なクレーンから垂らされたロープにつかまってなされた男女の曲芸は一体いかなる意味があるのか。それが性交の暗喩であることはたやすく了解されるが、私はとぐろを巻くように置かれたロープは蛇の暗喩ではないかとも感じた。池に群がる蛇のエピソードは「日輪の翼」中、諏訪の章に記されている。さらにロープとポールが強い垂直性を秘めている点にも注目したい。「日輪の翼」はトレーラーによる移動という徹頭徹尾水平的なヴェクトルを有す小説である。秋幸の血統をめぐる時間的、あえていえば垂直的な物語が路地の消滅とともに終焉した後、かかる小説が執筆されたことは意味をもち、このような特性は「異族」においてさらにスケールアップされる。これに対して、演劇の中にあえて垂直的な軸を持ち込むことによって、私はやなぎが「日輪の翼」だけではとらえきれない中上の小説の豊かさを暗示しようとしたのではないかと感じた。それは血縁や家系と連なる物語であり、トレーラーの上でツヨシやオバたちの物語が進行する傍らで、男女二人の俳優によって、メインストーリーとは直接の関連をもたず、セックスを強く連想させる演技がひたすら続けられたことの意味ではないだろうか。
 やなぎの「日輪の翼」においても「アニ、乗らんかい?これからまた、俺ら旅じゃ」というツヨシの台詞とともに、トレーラーは私たちを置き去りにして出発する。あたかもそこで繰り広げられた情景がたまさかの夢であったかのように、トレーラーの周囲に配されていた舞台や小道具もいつのまにか撤収されている。夏芙蓉が描かれたトレーラーは大きなクラクションを一つ鳴らして夜の町へと疾走して去っていった。蛇行するトレーラーを見送りつつ、私はまた一つ素晴らしい舞台に立ち会えたことに感銘を覚えた。彼らと再び見(まみ)えることはあるだろうか。大阪公演の楽日、横浜、新宮、高松をめぐるツアーの文字通り千秋楽、なんとも深い余韻を残す感動的なフィナーレであった。
# by gravity97 | 2016-09-11 21:43 | 演劇 | Comments(0)
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 ブログの更新がこれほど滞ったのはこのブログを始めて以来ではないだろうか。もちろん本務に関連してかなりの量の原稿を執筆していたことも理由の一つであるが、まずは上の書影を見ていただきたい。ついに刊行されたカルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』、1000頁を超える超大作の威容である。この小説については既に36年前に存在を知っていた。大学に入学直後、友人から勧められてガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ際の衝撃についてはこのブログにも何度か記したが、当時のラテンアメリカ文学のブームの渦中、篠田一士がおそらく朝日新聞に書いた記事の黄ばんだ切り抜きを私は未だに所持している。「フェンテスのような作家が、どうしていままで大きく紹介されなかったのか不思議でならない。まあ、いくつかの偶然が重なった結果だろうが、ラテンアメリカ独自の想像力のありかたを、このメキシコ作家ほど根源的につきつめたひとはいない。数年前に発表された『ワレラノ大地』は長大さもさることながら、歴史小説とSFを同時進行させた、その奇想天外の構想にはおどろくばかりである」それ以来、私はこの小説が訳出されることを心待ちにしていた。実際にフェンテスの小説は順調に翻訳されてきた。長編に限っても既に私は「脱皮」「アルテミオ・クルスの死」そして「遠い家族」という三つの小説を読んでいるし、いずれの作品も傑作と呼ぶことを私は躊躇しない。機会があればレヴューしたい名作揃いである。「テラ・ノストラ」の翻訳も進行中との話は仄聞していたから、店頭で本書を見た時は驚きこそなかったが、これほどの分量とは思わなかった。そして翻訳にとりかかってから10年の年月を閲したという訳者のあとがきも十分に理解できる濃密な内容だ。生きているうちにこの作品を日本語で読むことができたことをまずは感謝しなくてはならない。しかしながらこの小説は決して一筋縄ではいかない。このブログの読者であればおわかりのとおり、私は長編を好むし、小説を読むスピードは相当に速いと自負しているが、その私ですらほぼ二月の間、この小説と格闘した。おそらく本書は今年の読書体験の絶頂であり、私としてもこれほど読むことに膂力の必要な小説はプルースト以来だ。
 前置きが長くなった。テラ・ノストラ、我らの大地という小説は「旧世界」「新世界」「別世界」という三部から成り立つ。後述するとおり三部という構成にも重要な意味がある。旧世界とはいうまでもなくヨーロッパ、ハプスブルグ家に連なるスペイン王家、新世界とはアメリカ大陸、フェンテスの母国であるメキシコを意味し、第三部の別世界において舞台は再びヨーロッパに戻り、ローマ皇帝ティベリウス帝の治世から1999年12月31日という千年紀の終わりまで多様な物語が次々に挿入される。本書で扱われるのは空間としてはヨーロッパとイスパノアメリカ、時間としてはヨーロッパの全歴史という途方もない時空であり、ラテンアメリカ文学を代表する作家フェンテス畢生の大作と呼ぶゆえんである。
 この長大な小説の内容を要約することは意味がない。単純な要約を許さない反復と変奏が延々と繰り返されるからである。抽象的な比喩となるが、本書の読後感は文中で言及される鏡で出来た牢獄をめぐる体験に近い。いくつものストーリーが相互に乱反射するかのように少しずつ角度を変えて反復される。鏡の迷宮の中を歩むように次々に姿を変えて反復される物語の流れに身を任せることが本書の醍醐味である。決して読みやすい小説ではないが、この点を認識して、出来事の意味とか因果関係、あるいはメインストーリーを確定しようという試みを早い段階で放棄してしまえば本書を読む愉しみは格段に増す。しかしながら本書をレヴューする以上、内容について語らない訳にはいかない。本書は無数の断章によって構成されている。ひとまず冒頭の「肉、天球、セーヌのほとりの灰色の目」と題された断章で何が語られたかを確認しよう。場所はパリ、時代は特定されていないがおそらくは現代、世紀末的な情景の中で33日と半日前にセーヌ川の水が沸き立つという奇怪な現象が発生する。実はこの小説は円環構造をとっており、最後の章まで読み進むと、冒頭の章は1999年12月というまさに千年紀の終わりを舞台としていることが了解される。隻腕のサンドイッチマン、ポーロ・フェーボは真冬のパリを彷徨し、マダム・ザハリアという門番の老婆が出産する場面に立ち会い、赤ん坊を取り上げる。ポーロのもとには生まれた子にヨハンネス・アグリッパなる洗礼名を与えよという手紙がルドビーコという署名付きで届けられる。生まれた嬰児には背中に赤い十字の印があり、足にはいずれも六本の指があった。なんとも奇怪な冒頭である。しかし例えば33日と半日という単位、隻腕、六本の足指といった身体の特徴、アグリッパあるいはルドビーコといった固有名詞には全て意味があり、この長大な小説の中で幾度となく反復されたことが読み終えた今ならばわかる。冒頭の章と「最後の都市」と題された最後の章のみが1999年のパリを舞台としており、そのほかの章は16世紀のスペインとメキシコを主たる舞台としている。「セニョールの足元」と題された二番目の章以下で本書の中心的な登場人物が明らかとなる。セニョールと呼ばれるのはスペイン国王フィリペ二世、フィリペ二世は実在の人物でスペイン帝国の最盛期にヨーロッパに君臨した偉大な王である。セニョールの父はフランドル出身でハプスブルグ家の血統を引くフィリペ美王、母は狂女王フアナ、さらにセニョーラと呼ばれるイサベルはフィリペ二世の王妃であり、イギリス出身のイサベルはセニョールの従妹にあたる。ここにはハプスブルグ家における近親婚の歴史が暗示されている。宮廷でセニョールに傅く何人かの人物として、セニョールを補佐し、その命を実行する残忍な勢子頭グスマン、宮廷画家のフリアン修道士、占星術師のトリビオ修道士、さらに名前をもたない宮廷付の年代記作家。加えてドン・ファンやセレスティーナといったスペイン文学中で名高い人物。この小説には実在の人物と文学史上の人物、架空の人物が時に姿や名前を変えながら、入り乱れて登場する。
 どのような物語が語られるか。多くがグロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語である。領主たるフィリペ美王は領主権(初夜権のことだ)を行使して、鍛冶職人の婚礼に乱入し、花嫁を犯すように息子のフィリペ二世に命ずる。息子に拒絶されるや、フィリペは自ら花嫁の処女を奪う。セレスティーナという花嫁は自分が悪魔と交わったと感じて自傷行為に及ぶ。王妃フアナはフィリペの死体に防腐措置を施して霊柩車に乗せ、領地をめぐる。男色の罪で若者が生きたまま火あぶりに処される。グスマンが操る猛犬に襲われた狂女王は四肢を切断され、首と胴体だけの姿になって壁龕に身を置く。セニョールはグスマンに対してキリストの正統性に関する異端的な思想を語り、難破した船から現れた美しい若者がセニョーラと交わる。セニョーラは黒魔術を用いて先王たちの死体から人造人間を作り出そうとする。今任意に羅列したエピソードから理解されるとおり、なんとも不吉な物語が相互に折り重なる。時間の継起や因果律を無視して語られるそれらの物語に私たちは幻惑される。まさに無数の鏡によって乱反射する迷宮の中に迷い込んだ思いだ。さらに私たちを困惑させるのは語り手である。多くの物語は語り手が判然とせず、しばしば「そなた」という二人称が用いられることによって誰に向かって語られるかも定かではない。脈絡ないまま繰り返される物語の果て、第一部の末尾でセニョールの寝室に招き入れられた青年が新大陸における自らの体験を語る。彼が語る奇譚こそ第二部「新世界」であり、この部分は一人の話者による直線的な語りであるため、比較的読みやすい。青年はコロンブスを連想させるペドロという老人とともに大西洋を西に向かい、多くの苦難の後、新大陸へと漂着する。彼がメキシコに漂着したことは、現地におけるピラミッドと生贄をめぐるエピソードが暗示している。新世界はキリスト教と文明とは無縁であるが、黄金と財宝に恵まれた土地である。新大陸における青年の謎めいた体験の数々が第二部を構成する。奇怪な幻視に彩られた青年の語りは、彼が流れ着いた16世紀のメキシコと古代メキシコの記憶を往還する。ここでも通常の物語を律する時間性は棄絶されている。本書においては無数の物語が反復されることによって、直線的なクロノスの時間に代わる円環と反復の時間、カイロスの時間が導入される。つまり時間は一方向に流れるのではなく無限に反復するという発想だ。このような時間観が多くのラテンアメリカの小説にも共通する点は興味深い。「新世界」の物語を経て、第三部「別世界」において私たちは再びフィリペ二世の宮廷へと帰還する。新世界をめぐる青年の報告は公にされることなく、青年は国王が建設を進める大宮殿の地下牢に幽閉される。宮廷に集う者たち、「夢想家」たち、そしてドン・キホーテやポンティス・ピラト(キリストが磔刑に処された際の行政長官)といった文学上、歴史上の人物が次々に物語に召喚される。とりわけ秘書であるデオドールスを介して語られる第二代ローマ皇帝ティベリウス帝の性的放縦をめぐる描写は圧巻である。国連職員たちのドライブの悲劇的な結末を描いた『脱皮』にせよ、完璧なゴシック・ロマン『遠い家族』にせよ、これまで私はフェンテスの小説からどちらかといえば抽象的で知的な印象を受けてきた。これに対して本書ではグロテスクな性愛のイメージが横溢するエピソードに圧倒される。同様のグロテスク・リアリズムは本書の最後で全身に膿瘍を患い、文字通り血と膿の塊と化し、糞便と汗にまみれて絶命する主人公セニョールの描写に明らかだ。第三部においても時間に信を置くことはできない。ローマ皇帝に関する語りに続いて、現代のベトナム戦争を連想させる記述が続く。読者は自分たちが見知った時間とは全く異なった時間が作品を統べていることを知る。巻末にいたっては、マルケスやコルタサル、ドノソら同時代のラテンアメリカ作家が創造した人物たちも物語に参入し、メタフィクションとして本書の位置を画定する。世界は一度きりではない。世界は何度も反復される。明らかにこれが本書の一つのモティーフだ。唇にタトゥーを入れた小姓、聖痕をもつ青年、三十段の階段、手紙が封入されたボトル、物語の中でいくつもの同一モティーフが繰り返されることはかかる原理と関わっている。
 ほかにもいくつかのテーマが本書を通底している。例えば数秘学的な発想だ。この小説では至る所で三という数が繰り返される。海から救い出された三人の若者、フィリペ美王の三人の非嫡出子、作品が三部構成として実現されていることもこれと関わる。実際に「数字の三」と題された断章においては、宇宙が三という単位によって構成されていることが語られ、完全数としての三が主張される。一方で本書には随所に対立し対比される二というモティーフも認められる。例えばオシリスとイシス、カインとアベル、煙る鏡と羽毛の蛇、ロムルスとレムス、これらの二者においてはしばしば一方が一方を滅ぼす点にも留意されたい。私はこの小説は二性と三性の相剋としてとらえることができるように感じる。後で論じる通り、地理的には二元対立である「旧世界」と「新世界」に対して、あえて「別世界」というセクションが置かれたことはこの問題と関わっている。
 絵画において三という単位を取り込むのはトリプティク(三連画)である。上に掲げた通り、本書の装丁にはプラド美術館所蔵のヒエロムス・ボッシュのトリプティク《悦楽の園》が用いられている。フランドル出身のフィリペ美王と関わる物語の装丁とはまことにふさわしい。本書の中にはセニョールがこのトリプティクを仔細に見る場面が詳細に描かれ、ボッシュの署名さえ書き込まれている。今、確認したところこの作品はフィリペ二世が建造したエル・エスコリアル修道院のタペストリーのモデルに選ばれているから、現実の歴史においてもセニョールが目にした可能性は高い。祭壇画でありながらなんと奇怪なイメージか。ここに描き分けられた三つの情景、地上の楽園と悦楽の園、そして地獄はこの小説の主題とみごとに対応している。例えばここに描かれた性的な逸脱の情景はフィリペの宮廷やティベリウス帝の宮殿における乱倫の図解のようではないか。余談となるが、同じフランドルの画家たちは日本の小説家にも多くのインスピレーションを与えている。野間宏には冒頭でブリューゲルの絵画の不気味な情景が延々と描写される「暗い絵」があり、井上光晴もボッシュの「乾草の車」をタイトルに冠した中編を残している。小説の中ではボッシュの三連画とともにイタリアのオルヴィエート大聖堂からもたらされたフレスコ画について何度も言及される。あとがきによればこのフレスコ画とはルカ・シニョレッリによる一連の作品であるらしい。フランドルとイタリア、フェンテスはこの小説の中に旧世界、ヨーロッパの美術の絶頂を持ち込む。今、絵画の例を挙げたが、小説の中では唐突にカフカの「変身」の冒頭を反映した記述があるかと思えば、次の記述はどうだ。「セニョーラ、もし貴女が盲人の目が見えるようにと願うなら、雲が満月の縁にかかるその瞬間に、剃刀でもって連中の目を切り裂いてごらんなさい」この描写からルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」を連想しないでいることは難しい。フェンテスは自らの博識を傾注して、美術、文学から映画にいたるヨーロッパ文化の精華を小説に投入する。いや文化のみならず、本書は哲学や宗教、本書はまず旧世界の価値観の百科全書、そしてそれへの批判として成立している。それでは旧世界の価値観が新世界に移入された時、いかなる事態が発生したか。私の考えではかかる問いこそがこの長大な小説の主題である。
 このような意識はメキシコ人として生を受けながら、外交官として父の仕事の関係でブラジル、アルゼンチン、アメリカを転々とし、ヨーロッパでも生活したコスモポリタンたる作家の、母国を外から見る姿勢と深く関わっている。ラテンアメリカの、メキシコの「歴史」はいつ成立したか。それは旧世界によって征服されることによってではなかったか。鏡の比喩はここでも有効だ。ラテンアメリカはヨーロッパという鏡をとおして初めて自分たちのアイデンティティーを確認した。しかしヨーロッパという鏡は実は血に塗れていたのではないか。「旧世界」におけるハプスブルグ家、ヨーロッパの王家の頂点を占めるスペイン王をめぐる無数の物語はいずれも一種、阿鼻叫喚とも呼ぶべき凄惨さを秘めていた。彼らが「新世界」に到達したとしても、そこに「別世界」は成立しただろうか。いや、そこではただ「旧世界」が反復されるのみであり、グロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語が繰り返されたのではないか。新世界、旧世界、別世界の三者は成立せず、三者性は二者性に屈従する。グスマン、セニョールの残忍な勢子頭は功績を認められ、ヨーロッパで食いはぐれた無頼の徒たちを連れて新世界へ派遣される。グスマンがピサロやコルテスといった多くのコンキスタドールを象徴していることはいうまでもない。彼らが新世界で犯した残酷な所業はセニョールへの報告として間接的に語られる。先住民族への暴虐を主題とした小説としてはコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」についてこのブログでも論じた。同じ主題を扱いながらも「テラ・ノストラ」の新大陸が異なるのは、新大陸メキシコにおいてもインディオたちによって残酷な生贄供儀が繰り返されていた点だ。古代と現代が混交する(篠田であればSF的と呼ぶであろう)幻想的な筆致の中に再び反復というモティーフが立ち現れる。かくしてこの長大にして驚異的な小説は、進歩や啓蒙、教化や脱魔術といった旧大陸に由来する人間性への信頼を一挙に相対化する。それはメキシコという国家、メキシコ人という自分の出自への問いでもある。フェンテスには登場人物が自らのアイデンティティーを問う作品が多い。「脱皮」と「遠い家族」もまさにそのような小説であったが、本書は個別的な登場人物どころか、「新世界」たるラテンアメリカが自らのアイデンティティーを「旧世界」という血塗れの鏡に映し出す物語とはいえないだろうか。アイデンティティーの探求という主題はラテンアメリカ文学においても比較的異質であるように感じられる。その理由はフェンテスの個人的な資質、メキシコという場のいずれに求められるだろうか。この問題をさらに深めるために最後に一言付け加えておこう。大江健三郎、河原温、そしてルイス・ブニュエル、全く共通点をもたないこの三人の芸術家がメキシコ滞在を契機として一種のアイデンティティー・クライシスを主題にした代表作とも呼ぶべき作品を発表したことにはいかなる必然性があるのだろうか。
 暑い夏にふさわしいまことに過剰で濃密な読書体験であった。本書は上下二段組みで1000頁を超え、6000円という価格にもかかわらず、聞くところによれば、最近再版が決まったという。志のある出版社に志のある読者が応えたということであろうか。
# by gravity97 | 2016-08-31 21:39 | 海外文学 | Comments(0)

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# by gravity97 | 2016-08-02 07:31 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
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 しばらく前にDIC川村記念美術館で見た「サイ・トゥオンブリーの写真 変奏のリリシズム」についてレヴューを残しておく。素晴らしい展覧会であることは直ちに感得されたが、レヴューまで時間がかかったことは端的にトゥオンブリーの作品について語ることの迷い、困難を暗示している。
 昨年の原美術館におけるワークス・オン・ペーパーが素晴らしかったこともあり、私はトゥオンブリーを絵画とドローイングの作家であると認識していた。したがって今回の展示が「サイ・トゥオンブリーの写真」と銘打たれていたことにまず驚いた。しかし会場に赴くならば、それらの写真はトゥオンブリーの絵画やドローイングとなめらかに連なり、それどころか写真を通してトゥオンブリーの作品の本質に触れた気さえした。この意味でこの展覧会に国内に所蔵された絵画や版画、さらにサイ・トゥオンブリー財団所蔵の彫刻とドローイングが加えられ、作家の創造を幅広いジャンルにわたって通覧できたことはきわめて適切であったように感じる。まず私はトゥオンブリーが早い時期から写真という表現に手を染めていたことに驚いた。展覧会に出品された作品のうち最も早い例は1951年のブラック・マウンテン・カレッジ時代に撮影されており、翌年のヨーロッパ旅行の際に撮影されたと思しき神殿のエンタシスの写真が続く。ロバート・ラウシェンバーグのアトリエを撮影した1954年の作品も興味深い。しかしこの後、写真作品は突然中断され、再開されるのは80年代に入ってからである。カタログのテクストによれば、それは50年代後半よりトゥオンブリーが絵画の制作に全力を傾注したためであり、写真同様に彫刻もしばらく制作されなかったという。むしろ驚くべきは四半世紀を経て1980年に再開された写真が、モノクロとカラーという差異こそあれ、それまでの作品と全く違和感なく連続していることである。このような断絶と連続から私はかつてやはり四半世紀ぶりに発表された埴谷雄高の『死霊』の第五章を『群像』誌上で読んだ際の驚きを連想した。その後、2011年に没するまでおよそ30年にわたって継続的に制作されたトゥオンブリーの写真はモティーフによっていくつかに分類することができる。室内や室内に置かれた彫刻を撮影したタイプ、野菜や花を近接して撮影したタイプ、自らの彫刻や絵画を撮影したタイプ、そして風景を撮影したタイプなどである。共通するのはいずれも意図的に焦点がぼかされて不明瞭であり、何が撮影されているかすら判然としない写真も多い。よく知られているとおり、トゥオンブリーについてはロラン・バルトが比較的長い論考を残しており、そこで提起された盲目性という概念と関連してしばしば論じられてきた。バルトといえば「明るい部屋」と題された写真論でも知られており、盲目/光の欠如、明るい部屋、写真という三つのコンセプトを並べるだけでもトゥオンブリーについて短い論文が書けそうだ。ただし私はバルト的な高踏さとは程遠い人間であるから、ここでは作品から受けたいくつかの感想をひとまず記すに留める。
 私が感じた印象の一つは事後性である。報道写真を例にとるとわかりやすいが、本来、写真という表現の一つの目的はなんらかの決定的瞬間を記録することであろう。同時性といってもよい。これに対してトゥオンブリーの写真は何かが終えられた後のように感じられないだろうか。廃墟や雑然とした室内、散らされた花々、これらのイメージは何事かが終えられた痕跡のようだ。しかも何が起きたかは明らかではない。一種、神秘性のオーラに包まれたイメージ。とりわけラウシェンバーグのアトリエを撮影した作品にこのような雰囲気は濃厚である。散らかったアトリエを撮影した写真には有名な先例がある。いうまでもなく描画するポロックを撮影したハンス・ネイムスの一連の写真であり、そこには作家のアクションのみならず様々の素材が放置されたアトリエが映し出されており、1967年のニューヨーク近代美術館におけるポロックの回顧展に際して展示されたそれらの写真がロバート・モリスやリチャード・セラらのアンチフォームあるいはプロセス・アートと呼ばれる作品にインスピレーションを与えた可能性があることが指摘されている。トゥオンブリーの写真は54年に撮影されているが、雑然としたラウシェンバーグのアトリエはモリスやセラのフロア・ピースの記録写真であるといっても違和感はないだろう。出品作の中でもかなり異質なこの写真がどのような経緯で撮影されたかは不明であるが、興味深い作例といえよう。そして事後性とはトゥオンブリーの絵画やドローイングにも認められる。ロザリンド・クラウスは『視覚的無意識』の中で次のように記している。「1955年までにトゥオンブリーは、表現主義の絵具をたっぷり含んだ刷毛による絵画をやめ、その代わり、尖った鉛筆の先端を用いて、なめらかに漆喰を塗ったカンヴァスの表面を傷つけ、引っ掻き、荒廃させ始めた。すなわち彼は落書きをする者や略奪者、まっさらな壁を毀損する者の攻撃の道をたどり始めた。そして毀損者のモデルとしたのが、ジャクソン・ポロックであることを彼は明らかにした」展示されていた《What Wing Can Be Held ? 》という絵画の表面に書き散らされた、時にエロティックなイメージがあえて言うならば便所の落書きを連想させることは意味がある。落書きとは完成されたイメージに対して事後に介入することであり、ひとたび落書きされるやイメージは永遠に毀損される。この意味においてトゥオンブリーの作品は事後的であり、絵画がはらむ緊張はこの問題と関連している。一つ間違えば全てのイメージがキャンセルされる緊張は今回展示されたドローイングからも濃厚に感じられた。
 私が感じたもう一つの印象は触覚性である。既に述べたとおり、多くの写真はピントがぼけており、写された対象が何であるか判然としない場合が多い。特に今回の展示では作品の横にキャプションが付されておらず、会場で配布されたフロアプランと突き合わせる必要があるため、写り込んでいるのがズッキーニであるかチーズであるかを一目で理解することは困難である。そもそもそのような確認の必要があるだろうか。彫刻のディテールを写し込んだ作品も多く出品されていたが、それらのイメージと食品を近接して撮影した作品はほとんど区別がつかない。写真とは視覚的な営みであるがトゥオンブリーの作品は、手を伸ばせば触れることができるような感覚、触覚的な印象が強い。彫刻や野菜、花、通常、触れることによって私たちがその存在を感知する対象が視覚的に判然としない状態で提示されている。展示の冒頭に「詩を読むことは目で聞くこと、詩を聞くことは耳でみること」というオクタビオ・パスのエピグラフが掲げられている。どのような意図で選ばれたかわからないが、確かにトゥオンブリーの写真の共感覚的な在り方を象徴する言葉である。そしてこのような作品の在り方はトゥオンブリーの絵画やドローイングにも共通しているのではなかろうか。今回は絵画の展示は少なかったが、私はかつてヒューストンでメニル・コレクションに収められた大作をまとめて見たことがある。しばしば小さく文字や数字が書き込まれた画面は時に身体のスケールに親密であるが、離れて一望するならば身体をはるかに超えるスケールを帯びている。近接して触覚的に対峙すべきか、離れて視覚的に一望すべきか、身の置きどころがはっきりとしない。今回、私は同様の感覚を同じ美術館のロスコ・ルームで圧倒的なロスコの作品の前に立った時にも味わったから、今回この美術館でトゥオンブリーの展覧会が開かれたことはおおいに意味がある。そしてこのような共感覚は別のレヴェルにも反映されているのではないか。すなわちトゥオンブリーの写真においていくつかの感覚が捩り合わされるように、トゥオンブリーは絵画とドローイング、彫刻と写真といった作品のジャンルも捩り合わす。いくつかの写真にはトゥオンブリーの彫刻や絵画が写り込んでいる。いうまでもなく、それらは作品の記録として撮影されたのではなく。近接し、焦点をずらすことによって不分明なままその姿を浮かび上がらせている。トゥオンブリーは明瞭さに抗う。モダニズム美術とは絵画や彫刻、ドローイングや写真といったメディウムをあらかじめ切り分けたうえでそれぞれのジャンルにおける純粋化をはかった。ジャンルを横断するトゥオンブリーの実践はかかる前提に抗う。この意味において今回の展示自体がトゥオンブリーの作品の本質に連なる問題意識に裏づけられていたといえよう。
 私はトゥオンブリーの作品の特質として事後性と触覚性を挙げた。これらはいずれもモダニズム絵画の原理に対する異議である。モダニズム美術にとっては現在性こそが恩寵であり、絵画とは事後ではなく現在として提示されるべきであるからだ。モダニズム絵画がなによりも視覚性を重視してきたことはいうまでもない。これまで私にとってトゥオンブリーの絵画は魅力的であるが、なんとも言語化しがたいものであった。今回の展示を見て、ようやく私は得心することができた。時に抽象表現主義との類似が論じられることがあったとしても、トゥオンブリーの絵画はその本質においてモダニズム美術への根底的な異議申し立てとして成立している。先ほども少し触れたが、このような作品の体験をロスコ・ルームにおいて作品を享受する体験と比較することは大きな意味をもつ。このブログで論じるにはあまりに大きな問題であるから、これ以上議論を敷衍することは控えるが、思いをめぐらせるならば数年前までこの美術館にはバーネット・ニューマンの《アンナの光》さえ展示されていたのだ。トゥオンブリーとロスコ、さらにニューマンの傑作を一つの場で体験できるような美術館を私は知らない。それはモダニズム絵画の絶頂、そしてその体験を様々な角度から検証するうえで、世界的にも例のない機会になったはずだ。この美術館がコレクションの中からレンブラントやルノアールではなく、ニューマンを売却したことの代償は限りなく重い。
# by gravity97 | 2016-07-19 22:33 | 展覧会 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック