ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

b0138838_2230681.jpg

 しばらく前にDIC川村記念美術館で見た「サイ・トゥオンブリーの写真 変奏のリリシズム」についてレヴューを残しておく。素晴らしい展覧会であることは直ちに感得されたが、レヴューまで時間がかかったことは端的にトゥオンブリーの作品について語ることの迷い、困難を暗示している。
 昨年の原美術館におけるワークス・オン・ペーパーが素晴らしかったこともあり、私はトゥオンブリーを絵画とドローイングの作家であると認識していた。したがって今回の展示が「サイ・トゥオンブリーの写真」と銘打たれていたことにまず驚いた。しかし会場に赴くならば、それらの写真はトゥオンブリーの絵画やドローイングとなめらかに連なり、それどころか写真を通してトゥオンブリーの作品の本質に触れた気さえした。この意味でこの展覧会に国内に所蔵された絵画や版画、さらにサイ・トゥオンブリー財団所蔵の彫刻とドローイングが加えられ、作家の創造を幅広いジャンルにわたって通覧できたことはきわめて適切であったように感じる。まず私はトゥオンブリーが早い時期から写真という表現に手を染めていたことに驚いた。展覧会に出品された作品のうち最も早い例は1951年のブラック・マウンテン・カレッジ時代に撮影されており、翌年のヨーロッパ旅行の際に撮影されたと思しき神殿のエンタシスの写真が続く。ロバート・ラウシェンバーグのアトリエを撮影した1954年の作品も興味深い。しかしこの後、写真作品は突然中断され、再開されるのは80年代に入ってからである。カタログのテクストによれば、それは50年代後半よりトゥオンブリーが絵画の制作に全力を傾注したためであり、写真同様に彫刻もしばらく制作されなかったという。むしろ驚くべきは四半世紀を経て1980年に再開された写真が、モノクロとカラーという差異こそあれ、それまでの作品と全く違和感なく連続していることである。このような断絶と連続から私はかつてやはり四半世紀ぶりに発表された埴谷雄高の『死霊』の第五章を『群像』誌上で読んだ際の驚きを連想した。その後、2011年に没するまでおよそ30年にわたって継続的に制作されたトゥオンブリーの写真はモティーフによっていくつかに分類することができる。室内や室内に置かれた彫刻を撮影したタイプ、野菜や花を近接して撮影したタイプ、自らの彫刻や絵画を撮影したタイプ、そして風景を撮影したタイプなどである。共通するのはいずれも意図的に焦点がぼかされて不明瞭であり、何が撮影されているかすら判然としない写真も多い。よく知られているとおり、トゥオンブリーについてはロラン・バルトが比較的長い論考を残しており、そこで提起された盲目性という概念と関連してしばしば論じられてきた。バルトといえば「明るい部屋」と題された写真論でも知られており、盲目/光の欠如、明るい部屋、写真という三つのコンセプトを並べるだけでもトゥオンブリーについて短い論文が書けそうだ。ただし私はバルト的な高踏さとは程遠い人間であるから、ここでは作品から受けたいくつかの感想をひとまず記すに留める。
 私が感じた印象の一つは事後性である。報道写真を例にとるとわかりやすいが、本来、写真という表現の一つの目的はなんらかの決定的瞬間を記録することであろう。同時性といってもよい。これに対してトゥオンブリーの写真は何かが終えられた後のように感じられないだろうか。廃墟や雑然とした室内、散らされた花々、これらのイメージは何事かが終えられた痕跡のようだ。しかも何が起きたかは明らかではない。一種、神秘性のオーラに包まれたイメージ。とりわけラウシェンバーグのアトリエを撮影した作品にこのような雰囲気は濃厚である。散らかったアトリエを撮影した写真には有名な先例がある。いうまでもなく描画するポロックを撮影したハンス・ネイムスの一連の写真であり、そこには作家のアクションのみならず様々の素材が放置されたアトリエが映し出されており、1967年のニューヨーク近代美術館におけるポロックの回顧展に際して展示されたそれらの写真がロバート・モリスやリチャード・セラらのアンチフォームあるいはプロセス・アートと呼ばれる作品にインスピレーションを与えた可能性があることが指摘されている。トゥオンブリーの写真は54年に撮影されているが、雑然としたラウシェンバーグのアトリエはモリスやセラのフロア・ピースの記録写真であるといっても違和感はないだろう。出品作の中でもかなり異質なこの写真がどのような経緯で撮影されたかは不明であるが、興味深い作例といえよう。そして事後性とはトゥオンブリーの絵画やドローイングにも認められる。ロザリンド・クラウスは『視覚的無意識』の中で次のように記している。「1955年までにトゥオンブリーは、表現主義の絵具をたっぷり含んだ刷毛による絵画をやめ、その代わり、尖った鉛筆の先端を用いて、なめらかに漆喰を塗ったカンヴァスの表面を傷つけ、引っ掻き、荒廃させ始めた。すなわち彼は落書きをする者や略奪者、まっさらな壁を毀損する者の攻撃の道をたどり始めた。そして毀損者のモデルとしたのが、ジャクソン・ポロックであることを彼は明らかにした」展示されていた《What Wing Can Be Held ? 》という絵画の表面に書き散らされた、時にエロティックなイメージがあえて言うならば便所の落書きを連想させることは意味がある。落書きとは完成されたイメージに対して事後に介入することであり、ひとたび落書きされるやイメージは永遠に毀損される。この意味においてトゥオンブリーの作品は事後的であり、絵画がはらむ緊張はこの問題と関連している。一つ間違えば全てのイメージがキャンセルされる緊張は今回展示されたドローイングからも濃厚に感じられた。
 私が感じたもう一つの印象は触覚性である。既に述べたとおり、多くの写真はピントがぼけており、写された対象が何であるか判然としない場合が多い。特に今回の展示では作品の横にキャプションが付されておらず、会場で配布されたフロアプランと突き合わせる必要があるため、写り込んでいるのがズッキーニであるかチーズであるかを一目で理解することは困難である。そもそもそのような確認の必要があるだろうか。彫刻のディテールを写し込んだ作品も多く出品されていたが、それらのイメージと食品を近接して撮影した作品はほとんど区別がつかない。写真とは視覚的な営みであるがトゥオンブリーの作品は、手を伸ばせば触れることができるような感覚、触覚的な印象が強い。彫刻や野菜、花、通常、触れることによって私たちがその存在を感知する対象が視覚的に判然としない状態で提示されている。展示の冒頭に「詩を読むことは目で聞くこと、詩を聞くことは耳でみること」というオクタビオ・パスのエピグラフが掲げられている。どのような意図で選ばれたかわからないが、確かにトゥオンブリーの写真の共感覚的な在り方を象徴する言葉である。そしてこのような作品の在り方はトゥオンブリーの絵画やドローイングにも共通しているのではなかろうか。今回は絵画の展示は少なかったが、私はかつてヒューストンでメニル・コレクションに収められた大作をまとめて見たことがある。しばしば小さく文字や数字が書き込まれた画面は時に身体のスケールに親密であるが、離れて一望するならば身体をはるかに超えるスケールを帯びている。近接して触覚的に対峙すべきか、離れて視覚的に一望すべきか、身の置きどころがはっきりとしない。今回、私は同様の感覚を同じ美術館のロスコ・ルームで圧倒的なロスコの作品の前に立った時にも味わったから、今回この美術館でトゥオンブリーの展覧会が開かれたことはおおいに意味がある。そしてこのような共感覚は別のレヴェルにも反映されているのではないか。すなわちトゥオンブリーの写真においていくつかの感覚が捩り合わされるように、トゥオンブリーは絵画とドローイング、彫刻と写真といった作品のジャンルも捩り合わす。いくつかの写真にはトゥオンブリーの彫刻や絵画が写り込んでいる。いうまでもなく、それらは作品の記録として撮影されたのではなく。近接し、焦点をずらすことによって不分明なままその姿を浮かび上がらせている。トゥオンブリーは明瞭さに抗う。モダニズム美術とは絵画や彫刻、ドローイングや写真といったメディウムをあらかじめ切り分けたうえでそれぞれのジャンルにおける純粋化をはかった。ジャンルを横断するトゥオンブリーの実践はかかる前提に抗う。この意味において今回の展示自体がトゥオンブリーの作品の本質に連なる問題意識に裏づけられていたといえよう。
 私はトゥオンブリーの作品の特質として事後性と触覚性を挙げた。これらはいずれもモダニズム絵画の原理に対する異議である。モダニズム美術にとっては現在性こそが恩寵であり、絵画とは事後ではなく現在として提示されるべきであるからだ。モダニズム絵画がなによりも視覚性を重視してきたことはいうまでもない。これまで私にとってトゥオンブリーの絵画は魅力的であるが、なんとも言語化しがたいものであった。今回の展示を見て、ようやく私は得心することができた。時に抽象表現主義との類似が論じられることがあったとしても、トゥオンブリーの絵画はその本質においてモダニズム美術への根底的な異議申し立てとして成立している。先ほども少し触れたが、このような作品の体験をロスコ・ルームにおいて作品を享受する体験と比較することは大きな意味をもつ。このブログで論じるにはあまりに大きな問題であるから、これ以上議論を敷衍することは控えるが、思いをめぐらせるならば数年前までこの美術館にはバーネット・ニューマンの《アンナの光》さえ展示されていたのだ。トゥオンブリーとロスコ、さらにニューマンの傑作を一つの場で体験できるような美術館を私は知らない。それはモダニズム絵画の絶頂、そしてその体験を様々な角度から検証するうえで、世界的にも例のない機会になったはずだ。この美術館がコレクションの中からレンブラントやルノアールではなく、ニューマンを売却したことの代償は限りなく重い。
# by gravity97 | 2016-07-19 22:33 | 展覧会 | Comments(0)

「1945年±5年」

b0138838_21592755.jpg
 事後の報告となるが、兵庫県立美術館で先日まで開催されていた「1945±5年」についてレヴューを残しておきたい。(7月30日から10月10日まで広島市現代美術館に巡回)昨年は戦後70周年ということで、第二次大戦とちなんだ多くの展覧会が開かれた。私も名古屋と東京でこれに連なる展覧会に足を運び、このうち藤田嗣治の展示についてはこのブログでもコメントした。展覧会が重なると重要な作品は取り合いとなってしまうから、あえて一年の間をおいたということであろうか。充実した展示であった。そしてこの一年でさらにきな臭くなった世情を背景に、画家と表現、戦争と美術といった問題を考えるうえでもこの展覧会は切実な問題を提起しているように感じられた。
 「1945年±5年」というタイトルが展覧会の内容を要約しており、出品作品も制作年の機械的な限定の中から選ばれている。戦争記録画をはじめ、いくつかの中心的な主題を指摘することはできるが、むしろいくつもの主題のゆるやかなつながりの中に10年間の表現を検証することにこの展示の意味があるだろう。展覧会は松本竣介の《街(自転車)》という作品から始まる。1940年の作品であるから、すでに日中戦争は始まっており、人々の生活は統制下にあったはずだが、そこに描かれるのはごく普通の街景である。実際に展覧会の導入部に展示された作品は戦争を感じさせることがない。松本と駒井哲郎による都市を描いた風景画、そして小磯良平の一連の肖像画、中でも有名な集団肖像画《斉唱》は1941年に制作されている。これらの作品は戦時にあっても日常的な情景が描かれていたという当たり前の事実を示しているが、次に述べるとおり、今挙げた画家たちが戦火の広がる中でどのように身を処したかという問題と重ねて考えてみる必要があるだろう。この展覧会は構成が巧みで、テーマに沿ってほぼ時系列に従って作品を見る中でカタログにカテゴライズされたいくつかの主題が浮かび上がる。戦時下の日常を描いた作品に続いて、ハルピンや京城、あるいは満州といった植民地の風景を描いた作品が展示される。ここでも多く日常の光景が描かれているから、この時点で私たちはそこに戦争という背景を見出すことは困難である。植民地の表象という問題は近年、美術の領域でも大きな注目を浴びており、私は同じ美術館で見た「官展にみる近代美術」という展覧会については既にレヴューしている。この展覧会では日本人作家が植民地を訪れた際の記録としての多く風景画が展示されており、一種のエキゾチシズムを漂わせている。文学に関する川村湊の仕事、あるいは先日物故した松本雄吉が率いる維新派に見られた南洋への志向、かつて日本の版図であった植民地をめぐる表現への関心はほかの領域でも高まっていることを指摘しておこう。
 しかし植民地は時に戦場でもありえた。展覧会では伊谷賢蔵の《楽土建設》のあたりから、戦時色が強まり、多くのいわゆる戦争記録画へとつながっていく。現在東京国立近代美術館に無期限貸与されている戦争記録画については近年研究も進み、いくつかの画集も刊行されて、私たちも馴染んできた。昨年の藤田嗣治の全作品展示の中で多くの戦争記録画が一堂に展示されたことも記憶に新しい。今回の展覧会を見て、そして企画者によるカタログのテクストを読んで私はあらためて思い当たったのであるが、戦争記録画に描かれた兵士たちは多く後姿もしくは横から描かれる場合が多い。論じられているとおり、それは報道カメラマンの視点である。従軍した画家たちは兵士たちと行動を共にするのであるから、常に同じ方向を向き、彼らを後ろからとらえることしかできない。兵士たちを正面からとらえる視点はむしろ敵の視点なのだ。カタログによればこの問題に関して、河田明久は興味深い指摘を加えている。すなわち日中戦争という理念のはっきりしない戦争を描く場合には登場人物が画面に背を向ける構造が多かったのに対し、欧米を排斥するという大義を得たアジア・太平洋戦争においては兵士たちが正面から描かれる演劇的な構図が増えたという。構図の問題については後で再び触れることにして、展示には花岡萬舟や清水登之といった画家の、私にとっては初見の作例が加えられ、さらに従軍画家ではなく徴兵されて戦地に赴いた画家たちの現地でのスケッチや家族に向けて描かれた手紙類も展示されていた。必ずしも発表することを前提としないそれらのスケッチや書簡も画家たちと戦争との関わりを知るうえでは興味深かった。今まで戦争という主題は多く戦争記録画と関連して論じられていたが、この展覧会では銃後を扱ったいくつかの絵画も目を引いた。勤労奉仕を扱った東山魁夷の作品、《貯蓄報国》と題された新海覚雄の作品、製鉄や炭鉱といった産業の振興を主題とした絵画はある意味で戦争記録画のカウンターパートとして戦時下の国民へ国家主義的な規範を提示していた。きわめつけは「女流美術家奉公隊」の手による《大東亜戦皇国婦女皆働之図》という奇怪な大作である。様々な場面で勤労奉仕する女性たちを描いた画面から「一億総活躍社会」という愚劣な政策を思い浮かべたのは私だけであろうか。よく言われることであるが、日本でかかるキッチュなプロパガンダ絵画が制作されていた同じ時期、アメリカでは抽象表現主義の画家たちがそれぞれのブレークスルーに向けて絵画の実験を深めていたのである。この展覧会に抽象絵画がほとんど出品されていないことは当然といえば当然であろうが、かかる対比によっても彼我の国力の差は歴然としていた。このパートには「銃後と総力戦」というタイトルが当てられている。須田国太郎の《学徒出陣壮行の図》、刑部人の《少年通信兵》あるいは杉全直の《整備教室》といった作品にはタイトルが暗示するとおり、多くの若者が描かれている。有為ある若者たちを戦場に駆り出して殺していったかつての日本という国家の非人間性の表象といえよう。
 展示においてはやや前後するが、この時期の表現にみられた特徴としては「大きな物語とミクロコスモス」と題されたパートも示唆的であった。戦意を鼓舞するためにいくつかの作品では神話や伝説が導入された。それは中山正實が描く神武天皇であり、花岡が描く楠木正成である。一方、和田三造は天皇の下にアジアの諸民族が集う、八紘一宇の図式化のごとき大作《興亜曼荼羅》を描いた。(出品されたのは下絵とのこと)いずれもイデオロギー装置としての絵画の機能が発揮された作品であるが、私が興味を抱いたのはむしろ「ミクロコスモス」と呼ばれた作品群、すなわち靉光や寺田正明、吉原治良といった画家が昆虫や蔬菜、鉢植えなどを対象に沈潜するかのように描いた一連の作品である。一様に暗く、濁ったこれらの画面に作家たちは何を込めたのであろうか。大戦の最中、戦意を鼓舞する絵画とは全く逆のベクトルをもつ絵画が制作されていたという事実は注目に値する。総力戦の後に敗戦が訪れた。この展覧会では「廃墟」というパートによってかかるテーマに一つの総括が与えられている。しかし企画者も述べるとおり、「廃墟」というテーマは一種の逆説を秘めている。戦時中に戦災による廃墟を描くことは許されるはずがなかったし、戦勝国が駐留した戦後においてもそれは一つのタブーであっただろう。このように考える時、丸木以里と赤松俊子による《原爆の図》の意味もまた明らかだ。この作品は第二次大戦によって私たちが受けた被害を、玉砕や名誉の戦死といった支配者側の言葉を経ることなしに伝えた稀有の例であるからだ。1950年に制作され、ぎりぎりでこの展示に収められたこの作品が展示の掉尾を飾ることは、日本において戦災を表象することがきわめて困難であったことを暗示しているだろう。たしかに私たちは東京大空襲や長崎の被爆を美術として表象した例をほとんど知らない。カタログの中に「敗者は映像をもたない」という大島渚の言葉が引かれているが、この問題は例えばホロコーストの表象不可能性といった問題の傍らに置く時、さらに示唆的ではないだろうか。
 以上、展示されていた作品を概観した。幻想的ではあるが、何気ない日常の風景を描いた松本峻介の《街》からシンガポール陥落を描いた藤田嗣治の戦争記録画までわずか二年の時間が経過したに過ぎない。この点は今日の私たちもわずか数年後には戦時体制に組み込まれているかもしれない可能性を示唆する。実際に虚言と食言を繰り返す現在の政権下ではいつ日本が戦時下となるやもしれず、自らの政権に危機が迫るや、安倍が中国に対して戦端を開くことを私は確信している。今回の展示を見て私が考えたのは次のような問題だ。愚劣な為政者の下で戦争が始まることはいつの時代でもありうる。そして画家はそれに協力するか否かの態度を迫られるはずだ。私は戦争記録画を描いた画家は程度の差こそあれ、戦争に翼賛したとみなされると思う。なぜならそのような時代にあっても戦争を描かなかった画家が存在するからだ。例えば松本峻介と小磯良平という対比を考えてみよう。この展覧会のメインヴィジュアルとして用いられた小磯の《斉唱》は、清楚な女子学生たちの合唱を描くことによって戦争記録画に対する免罪符とみなされてきた。もちろん新制作協会の俊英であった小磯は優秀であったからこそ従軍画家として大陸に派遣され、《娘子関を征く》をはじめとする戦争記録画を残したという弁明はありうる。しかし画家にとってそれを拒否するという選択肢はありえたはずだ。私はこの問題を再び画面の形式に引き戻してみたい。先に述べた通り人が描かれた場合、描かれた人物の視線はそれに眼差しをむける私たちと関係を結ぶ。この展覧会に出品された多くの小磯の肖像画において描かれた人物は私たちと視線を交わすことはない。《T嬢の像》においても《斉唱》においても描かれた女性たちは私たちから目を逸らしている。これに対して、この展覧会に出品されていないが、やはり同じ時期、1942年に制作された松本の《立てる像》において私たちは描かれた人物と視線を交わす。(ちなみにこの作品は先日の国立国際美術館における森村泰昌の展覧会でも取り上げられていた)私たちから目を逸らす小磯の少女たちが画家の無意識、従軍しても比較的穏健な情景を描いて戦争の真実を直視することがなかった小磯の無意識を反映しているとみなすのは厳しすぎるだろうか。それはあえて死屍累々たる風景を描いて描くことへのデーモニッシュな決意を示した藤田とは異なった、しかし同様に時流に抵抗することができなかった画家の姿ではないだろうか。一方で靉光に典型的にみられる「ミクロコスモス」、身辺の静物への沈潜は静かなプロテストとみなすことはできないだろうか。この展覧会にやはり静物画を出品している吉原治良は、当時の美術雑誌の座談会において検閲を担当する軍人の「この非常時にもかかわらず○や△を描いて遊んでいる非国民がいる」という発言が不気味であったという感慨を残しているが、この不安はもはや私たちにとってなじみのないものではない。先日、「キセイノセイキ」についてレヴューをアップしたが、このところ日本の多くの美術館で展示に関して当局からの検閲が強められ、さらには美術館上層部による自己規制といった信じられない事態が発生していることは知られているとおりだ。表現の自由にとって最後の砦たる美術館において学芸課長がなにものかの意志を忖度して、作家に対して作品の発表の自粛を要請するといった倒錯が現実にありうるのだ。いうまでもなくこれは一つの兆候である。数日後に迫った参議院選挙の結果いかんでは憲法が改悪される可能性がある。現在、自民党が発表している改憲草案21条に表現の自由についての規定があるが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」という現行の憲法の規定からわざわざ「これを」という言葉を削除したうえで、新たに第二項として「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、ならびにそれを目的として結社をすることは認められない」との文言が加えられているのだ。端的に表現の自由が否定されている。表現の自由のない社会とはどのようなものか、私にとっては想像することすらできない。しかし数日後の選挙の結果次第ではかかるディストピアが実現する可能性もきわめて高い。先日美術評論家連盟の有志が「表現の自由について」という簡潔な声明を発表したが、この声明は明らかにかかる状況を憂慮したものである。アメと鞭を使い分けた現政権のマスコミ操作の結果、これらの問題はほとんど議論されることがない。上に示したカタログの表紙には1945年を中心にして前後10年の年記が刻まれている。今、私たちはどのあたりにいるのだろうか。まもなく戦争が始まる。(それにしてもこのブログを始めた頃にはこれほどまでに状況が悪化するとはさすがに想像できなかった)表現に関わる者として、自らの立場をこの展覧会に出品したどの画家に定めるのか。批評を生業とする私を含めて決意が問われているように感じる。
# by gravity97 | 2016-07-07 22:03 | 展覧会 | Comments(1)

b0138838_2251675.jpg

 今日、桐山襲(きりやま・かさね)という名を聞いても、それが小説家の名であること、ましてや彼の書いた小説を知る人は少ないことと思う。実際、今、アマゾンで検索しても彼の小説を新刊として入手することは不可能のようだ。わずかにこのブログでも論じた集英社版の「文学×戦争」中の一巻「オキナワ 終わらぬ戦争」に収録された「聖なる夜、聖なる穴」を読むことは可能であるが、彼の小説を読み継いだ私としてはこれほどの才能が完全に埋もれている状況はおおいに遺憾に感じられる。よもや彼の小説の主題がこのような事態を招いた訳ではなかろうが、権力という暴力がここまでも厚顔無恥に私たちを恫喝する時期にこの評伝が刊行された意義は大きい。
 最初に本書に基づいて桐山の閲歴を簡単に紹介する。桐山は1949年に東京に生まれた。1968年に早稲田大学第一文学部に入学。この年の世情、特に大学をめぐるそれについては説明を要さないだろう。政治の季節の中で、桐山は解放派と呼ばれるセクトに属して大学闘争に加わる。「スターバト・マーテル」の最後の方に唐突に挿入された言葉が解放派の理論的支柱であったローザ・ルクセンブルグから引かれていることを私は本書を読んで初めて知った。大学を卒業した桐山は1972年に東京都教育庁に就職し、以後、公務員として勤務する傍らで小説の執筆に取り組む。しかし小説家、桐山襲が私たちの前に現れるまでにはしばらくの時を要した。1982年、『文藝』に投稿した「パルチザン伝説」が文藝賞の候補作となり、翌83年の10月号に掲載される。最終選考に残ったとはいえ前年に投稿された落選作を翌年の文芸誌に掲載することは陣野も述べるとおりかなり異例ではないだろうか。「パルチザン伝説」は二つの時代、二つの大逆の物語である。すなわち第二次大戦下、空襲によって炎上する東京においてアメリカ軍に呼応するかのように手製の爆弾を用いて都内、そして宮中内でパルチザン闘争を繰り広げる男たちの物語と、1974年8月14日に荒川鉄橋を爆破してお召列車ごと昭和天皇の爆殺を図ったグループの物語が重ねられる。時を隔てた二つの大逆の関係、それが精緻な語りの中に浮かび上がる様子は本書の中で詳しく分析されているからここでは触れない。日時が特定されていることから想像されるとおり、後者の事件には実在のモデルがある。それは東アジア反日武装戦線狼部隊による「虹作戦」であり、実際に橋梁に爆薬の配線まで行いながら、この計画は未遂に終わり、この時使用されなかった爆弾はその後、三菱重工本社ビルの爆破に使用され、多くの死傷者を出した。桐山の小説は文字通り事実と虚構を「文学的に」昇華しており、重い主題に見合った小説的技法、文体が駆使されている。しかしそこから「天皇暗殺」というスキャンダリズムのみを抽出したのが「週刊新潮」であった。新潮社という日本でも最大級の出版社から発行されているこの週刊誌は直ちに「おっかなビックリ落選させた『天皇暗殺』を扱った小説の『発表』」という煽情的で悪意に満ちた記事で応接した。週刊誌の発表を待っていたかのように右翼の街宣車が『文藝』の発行元である河出書房新社に押しかけ、脅迫的な街宣を繰り返し、雑誌の回収、作者の特定、出版社の謝罪、単行本化の中止を要求した。出版社は桐山と協議のうえ、このうち単行本化の中止を受け入れた。しかし「パルチザン伝説」をめぐる騒動はこれで終わらなかった。桐山はひそかに関係者とともに「パルチザン伝説刊行委員会」なる組織を結成し、ほかの出版社からの刊行を進めていた。しかしそれより以前にこの小説は作家本人の了承も得ぬまま、第三書館という左翼系の出版社から「天皇制アンソロジー」なる叢書に無関係なテクストと一緒に収録されて「海賊出版」されてしまったのだ。桐山は後述する「『パルチザン伝説』事件」の中に次の言葉を残している。「『天皇制アンソロジー』と銘打たれたその本は、様々な政治的文書といっしょに私の作品を収録していました。しかし、私の作品が政治的文書とは表現様式を異にする一個の文学的作品であってみれば、そのような出版形態は作品としての自殺行為以外の何ものでもありません。その出版社の意図は、作品から単に素材だけを抜き取っているという点で、例の週刊誌記事と同様の水準に立っているということができます。(中略)自分の作品が怪文書まがいの姿で書店に並べられていることは、表現者として耐え難いものがありました」右翼の攻撃と左翼による海賊出版という二重の苦難を味わった「パルチザン伝説」は紆余曲折を経て、84年6月に作品社から正式に刊行されるこの時点ですでに桐山は二つの中編小説を発表していた。「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」であり、いずれも芥川賞候補となっている。前者は連合赤軍事件、すなわち山岳におけるリンチ殺人とあさま山荘事件を主題とし、後者は具体的に特定されないが大学闘争の終焉期の暴力を主題としており、いずれも桐山の作家としての立場を明確に示している。「風のクロニクル」は後に桐山によって戯曲化もされた。このほかにも桐山は時事的な評論や書評などをいくつか発表しており、それらのテクストを陣野はていねいに確認している。そして86年、『文藝』の春季号に「聖なる夜、聖なる穴」が発表される。後でも述べるとおり、私は『文藝』に掲載されたこの小説で初めて桐山の作品に接した。さほど長い小説ではないが、これは紛れもない傑作であり、私は初読の際に受けた衝撃を今でもありありと思い出すことができる。もちろん「パルチザン伝説」をめぐる騒動は知っていた。しかし私は作品社から刊行された時点ではそれに目を通していない。私は直ちに単行本として入手可能であった「パルチザン伝説」と「風のクロニクル」を買い求め、これ以後も新作が発表さえるたびに心待ちに読み続けた。87年も桐山は旺盛な執筆活動を続けた。やはり『文藝』の春季号に「亜熱帯の涙」を発表し、「聖なる夜、聖なる穴」を単行本として上梓した。夏には「パルチザン伝説」をめぐる事件の顛末を記録した『「パルチザン伝説」事件』を作品社から刊行する。前年に日本文藝家協会に入会した際、桐山は「入会挨拶」として一連の事件を手短に要約して新潮社を批判し、「勿論、新潮社から本を出しているこの国の文学者にはそのようなこと(抗議行動を指す)は望むべくもありません。ですからここはやはり、自分自身の手によって報復を行うしかないと、私は考えています。もとより私は微力ではありますが、一寸の虫にも五分の魂、必ずや新潮社への報復を実現するでしょう。入会の挨拶といたします」というブラックユーモア的な文章を残しているが、この一文と「『パルチザン伝説』事件」の刊行によって彼なりにこの表現弾圧については一つの落とし前をつけたというべきであろうか。「亜熱帯の涙」は桐山には珍しく神話的、あるいは魔術的レアリズムと呼ぶべき想像力が横溢した長編であるが、楽園的な南島が帝国の暴力によって蹂躙されるというモティーフはいうまでなく「聖なる夜、聖なる穴」に連なっている。88年にも桐山は短編をいくつか発表しているが、この年、日本は異常な時代を経験した。いうまでもない、昭和天皇裕仁の病状が悪化し、来たるべきXデイに向けて異様な緊張と自粛モードが私たちを締めつけたのだ。東アジア反日武装戦線、連合赤軍、皇太子に火炎瓶を投擲する男、あるいは難波大助。一貫して「まつろわぬ者」の側に身を置いてきた桐山にとって耐え難い状況が続いたことは容易に想像できる。例えば次のような文章が残されている。「マスメディアの騒乱はとどまる処を知らない。ヒロヒトとアキヒトを賛美する大合唱は、連日の紙面と電波とを占拠している。(中略)だが注目すべきは、合唱団の中にひときわ『文学者』の姿の多いことであろう。とうに滅亡してよいはずの『文学者』という生き物を飼っておいたのは、この日のための支配者階級の英知だったと言わねばならない」裕仁は89年1月に没し、ほぼ前後して桐山は『都市叙景断章』を発表する。記憶を失った若者を通して断章形式で学生叛乱や連合赤軍事件が再話される桐山らしい長編である。なぜかくも「あの時代」に拘泥するのか。桐山は次のように語っている。「それはやはり、いまだ書かれざるあの時代、という思いが私の中に深くあるからでしょうね。全共闘の叙事詩というものは未出なんですよ」もし桐山が今も存命であったら果たして「全共闘の叙事詩」は書かれていたであろうか。今となっては詮無い問いかもしれないが、私は問わずにはおられない。89年は比較的多くの作品やエッセイが発表されたのに対して、90年に発表された作品を私は「神殿レプリカ」しか知らない。「神殿レプリカ」と大嘗祭との関係を指摘する佐木隆三の視点は興味深い。この年、桐山は執筆活動以上に永山則夫の文藝家協会入会問題に力を傾注していたことを私は本書を読んで知った。この年の暮れに桐山は悪性リンパ腫で入院し、闘病生活を綴ったいくつかの文章を残している。ただ、桐山は入院以来ずっと床についていた訳ではなく、翌年夏には退院して抗がん剤治療を続けながら公務員としての勤務さえこなしていたらしい。この生活の中で執筆された最後の小説「未葬の時」は死者が身体から離脱して、自分の死を外部から眺めるという一種の奇譚である。私の手元に初出の『文藝』92年夏季号がある。冒頭に「遺作」と記され。最後に92年2月22日脱稿と表記されており、まるで自身の死を見越したような、清冽でユーモアさえ漂う佳作である。脱稿からちょうど一月後の3月22日、桐山は入院先の病院で没した。享年42歳という若さであった。
 次に書誌的事実を確認しておこう。私が確認した範囲では桐山は生前没後を通して「天皇制アンソロジー」を除いて、9冊の小説と1冊の戯曲を公刊し、このうち「スターバト・マーテル」と「未葬の時」は文庫化されている。(ただし講談社文芸文庫に収められた「未葬の時」には「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」も収録されている)現在、これらはすべて絶版で入手は困難である。「天皇制アンソロジー」のみ版を重ねているというとも聞くが、事実であれば皮肉な話だ。桐山の読書体験については私と陣野はよく似ている。陣野は次のように記している。「小説に関しては、沖縄の歴史と現在に取材した『聖なる夜、聖なる穴』が『文藝』春季号に掲載された。私はこの小説を桐山作品の中で最初に読んだ。衝撃的だった。語りの多層性、人称の複雑さ、歴史に対する態度、そして乾いた抒情性」先にも述べたとおり、現在、この小説は集英社版の「文学×戦争」中の一巻に収録されており、入手することが可能であるから関心をおもちいただいた読者には是非お読みいただきたい。私のブログでも短く論じている。実はこの時期の『文藝』はきわめて刺激的であった。この前後にこの文芸誌は月刊から季刊に移行し、それゆえ内容が凝縮された印象があり、私は毎号買い求めていた。この小説が掲載された号が手元に見当たらないので具体的に述べることができないが、おそらくその号も桐山ではなく特集ないしほかの作品を目当てに買い求めたと記憶するが、「聖なる夜、聖なる穴」を一読して私は圧倒されてしまったのだ。私は当時在学していた大学の大学新聞に書評を寄せたことさえ記憶している。ちなみに同じ年の冬季号には「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線の真実を克明に描いた松下竜一の「狼煙を見よ」が掲載されており、私はこのノンフィクションからも深い感銘を受けたことを覚えている。大学がほぼ非政治化された80年代に大学の門をくぐった者として、70年代に自分と同世代の若者たちがかくも真摯に時代の不条理に向かいあっていたことを知ることは衝撃以外のなにものでもなかった。b0138838_2262496.jpg 書架を確認するならば、私は桐山の全ての主著を単行本と初出誌のかたちで所有しているが、「亜熱帯の涙」のみ欠いている。私はこの小説を読んだ記憶があるから、『文藝』誌上で読んだことは間違いない。単行本として所持していれば必ず残っているはずだが、雑誌であるためなんらかの機会に処分してしまったのであろうことが悔やまれる。
 ほとんどの小説が現在入手できないため、陣野がそれぞれの作品の紹介にかなりの頁を割いていることは私としては少々かったるい。「パルチザン伝説」によるデビューから死を予感するかのような「未葬の時」まで、10年にも満たない小説家としての桐山の活動を陣野はクロノロジカルにたどっていく。主要な作品については内容を紹介したうえで「解題」と称する短い分析がなされる。この中で多くの小説や文献が参照され、興味深い分析がなされる。例えばこのブログでも紹介した大道寺将司の句集「棺一基」が引用されていることは大道寺が「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線のメンバーで死刑囚として現在、病舎に収監されていることを考えるならば理解できよう。このほかにも古川日出男の「聖家族」や道浦母都子、船本洲治、奥崎謙三、さらにはやはり若くして自死した佐藤泰志の「海炭市叙景」そして最後に目取真俊の「面影と連れて」(偶然ではあるが、この短編については以前このブログで応接した)といった多様な書き手、多くまつろわぬ者たちが召喚され、桐山の小説との間に時に潜在的、時に顕在的な関係を結ぶ。私がことに興味をもったのは、桐山がラテン・アメリカ文学に強い関心をもっていたという指摘だ。桐山は「パルチザン伝説」が引き起こした騒動を避けるため沖縄に逃れ、その顛末を「亡命地にて」という短編に記している。(ただしこれはブラフであり、実際には桐山は東京で仕事を続けていたことが本書で明らかにされている)桐山は大学時代、日本に返還される前の沖縄を旅行したことがあり、本人にも作品にも一種の南島志向が求められる。陣野は「亜熱帯の涙」と類似した作品の存在を指摘している。それはロイド・ジョーンズというニュージーランド出身の作家による「ミスター・ピップ」という小説である。原著の刊行年は記されていないが、邦訳は2009年のことであり、おそらく桐山は原書を読んでいない。南島における革命、書物と記憶との関係など、両者を結ぶ主題の暗合は興味深い。この延長上にラテン・アメリカ文学への関心があるだろう。私は桐山と同じ時代を共有しているので、彼が生きた時代に日本でもラテン・アメリカ文学のブームがあったことを知っている。桐山はドノソやアストゥリアスへ言及しており、確かに「神殿レプリカ」における閉ざされた屋敷に跋扈する凶々しい存在から「夜のみだらな鳥」を、「亜熱帯の涙」の年代記から「グアテマラ伝説集」における物語の連なりを連想することは容易だ。「亜熱帯の涙」には「自分たちが最初の輝ける道として地上に姿を現すこと―ただそのことだけが問題だった」という一文があるが、「輝ける道」、センデロ・ルミノソとはペルーのゲリラ・グループの名前であることを陣野は正確に指摘している。この集団の名前はやはりこのブログで応接したリョサの「アンデスのリトゥーマ」にも認められる。フジモリが日本大使公邸を占拠したゲリラたちを無慈悲にも虐殺したように、そしてマルケスをはじめとする一連の独裁者小説に明らかなとおり、ラテン・アメリカには新しい文学の宝庫であると同時に軍政と独裁、戦前の日本を彷彿とさせる暴力的な体制が今なお残存している。「追い詰められた革命軍」がリンチ殺人の果てに斃れた北関東の山岳の氷雪の白と南島やラテン・アメリカの時に血にまみれた原色。両者の対比は鮮やかである。私は両者が桐山によるありうべき「全共闘の叙事詩」の中で総合されることを夢想する。
 それにしても桐山が今も生きていたとすれば、いかなる感慨を覚えただろうか。かつて少なくとも日中戦争や太平洋戦争、あるいは日本の軍隊という制度に関して文学者はそれなりの総括を残している。ひとまず大岡昇平と野間宏の名を挙げれば理解できるだろう。これに対して桐山が確信的に拘泥した70年前後の学生叛乱についてまともに総括した小説は果たして存在するだろうか。以前にもこのブログに記したが、三田誠広と立松和平という二人の当事者が残した小説の犯罪的な反動性を私たちはいかに理解すべきであろうか。あるいはあさま山荘事件について徹頭徹尾弾圧側に立って検証した原田眞人の「突入せよ!あさま山荘事件」の犯罪性に触れて若松孝二が「実録連合赤軍 あさま山荘への道程」の制作を決意したことについても以前論じた。この問題についての文学的総括として私はいまだに1973年に発表された大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」を超える作品を知らない。そしてこの評伝を通読して、私は桐山の小説の魅力でもあり、弱さでもある特質をあらためて思い知った気がする。それは叙情性である。「都市叙景断章」の分析の中で陣野はこの小説の最後を長々と引用した後、次のように記す。「小説はここで終わる。それにしても、この最後の数ページのなんとポエティックであることか!私的な夢想と呼んで差し支えないほどの、いわば小説の極北のような文章が小説を締めくくっている。そして、右の文章は、桐山襲という作家名義で書かれた最後の長編小説の末尾でもあった」確かに「都市叙景断章」は抒情性という点で桐山の作品でも群を抜いている。例えば「名前はたしか、真昼子…」という冒頭の一句にこのような特質は明らかであり、同様の抒情は「パルチザン伝説」以降、桐山の作品の通奏低音をかたちづくっている。桐山の小説は詩的である。しかしこの抒情性は連合赤軍や東アジア反日武装戦線といった叛逆者たちの叙事詩を描くには言葉として繊細すぎるのではないだろうか。おそらくこの点は桐山の小説が比較的短いこととも関係しているだろう。革命を扱った作品、例えば今述べた若松のフィルム、あるいはおそらくは桐山も親しんだであろう高橋和巳の「邪宗門」といった小説にみられる一種の即物性と桐山は無縁であった。もちろん抒情性こそ桐山の作品の魅力であるから、ないものねだりと言われても仕方なかろうし、何よりも作家の早すぎる死がこの優れた作家の別の可能性を断ち切ってしまった。
 私は本書に記された多くの事実をあえて十分に論じなかった。桐山が永山則夫の文藝家協会入会問題に深くコミットしたこと、天安門事件に対する意外な反応、あるいは南方熊楠への関心。それらの問題については本書を直接参照しながら、読者に思いをめぐらしていただきたいからだ。陣野は「この本を通じて、桐山襲の読者が一人でも生まれれば、幸甚である」と記している。私も同感だ。まず陣野の評伝を読み、それを入口として一人でも多くの人にこの夭折した才能とその小説に関心をもってほしい。おそらく大きな図書館に行けば、今でも彼の作品を読むことは可能なはずだ。このブログもその入口の一つとなればよいと願っている。
# by gravity97 | 2016-06-20 22:12 | 評伝・自伝 | Comments(0)

b0138838_2153571.jpg 半年ほど前に翻訳が刊行された際に買い求めたものの、しばらく書棚に積んだままであったスティーヴ・エリクソンの2012年の作品『きみを夢見て』を通読する。私はエリクソンの小説をほぼ全て読んでいるが、本書は彼の作品の中でも指折りの傑作といってよかろう。物語の内容にも立ち入って論じ、私のレヴューとしては珍しく一種の種明かしさえ行うつもりであるから、白紙の状態で初読の楽しみを味わいたい読者にはこのブログを読む前にまず本書に目を通すことをお勧めする。
 エリクソンの小説において物語の構造は常に錯綜する。しかし本書は例えば以前このブログで扱った『エクスタシーの湖』ほど難解ではなく、メインとなるストーリーを見定めることは比較的容易だ。主人公はロスアンジェルスに住む作家のアレクザンダー・ノルドック(ザン)。ザンにはヴィヴという妻とパーカーという12歳の息子、そしてエチオピアの孤児院から養子として迎えたシバという4歳の娘がいる。解説によればロスアンジェルスに住んでいる作家という設定のみならず、アフリカから養子をもらい受けた点でもザンはエリクソン自身の投影であるという。単純化するならばこの小説はザン一家が味わう試練とその克服の物語であるが、例によって物語は多重化され、現実と虚構の境目はあいまいだ。例えば最初に出会う次のテクスト。「この男が当選したというニュースが流れると、リビングルームは大騒ぎになる。『勝ったよ!』とパーカーがソファから、白い合成樹脂塗装を施した、雲の形の低いテーブルを飛び越えて、喜びを爆発させる。『勝った!勝った!勝った!』と、叫び続ける。ヴィヴも拍手をしている。『ザン』と、パーカーは茫然としている父親の姿に戸惑い、呼びかける。『勝ったんだよ』と、息子。『うれしくないの?』」本書が出版された時期を思い起こすまでもない。名指しこそされないものの「この男」とはバラク・オバマのことであり、本書はオバマ大統領の登場を寿ぐきわめて具体的なエピソードから始まる。後で述べるとおり、この挿話は本書の主題と深く関わり、本書の結末と呼応している。読み進めるうちに絡み合ういくつもの主題系列が明らかとなる。例えば音楽だ。本書のタイトル「きみを夢見て」、These Dreams of You とはロック歌手ヴァン・モリスンの曲名からの借用であるらしい。主人公ザンは地元のラジオ局でディスクジョッキーを務め、シバは内部から異国の音楽を響かせる。プレスリー、ビートルズあるいはレイ・チャールズ、本書には多くのミュージシャンへの言及がある。あるいはザンがロンドンの大学で講じる一連の講義には「衰退に直面する文学形式としての小説」というタイトルが付されている。小説という形式にきわめて自覚的なエリクソンにとってこのタイトルが一種の自己言及性を秘めていることは明らかであり、本書は衰退する形式としての小説を蘇生する試みととらえることもできるだろう。
 もう少し詳しく内容をたどろう。オバマの挿話から明らかなとおり、物語の背景とされる時代は特定されている。かつては作品を発表したが今は定職をもたない小説家のザン、写真家として将来を嘱望されながら有名な作家に作品を剽窃されて以来、(作品についての記述から判断するに有名な作家とはデミアン・ハーストである)作品によって収入を得る道を断たれたヴィヴの夫婦は深刻な経済的問題を抱えている。クレジットカードはいつ失効するかもわからず、彼らが暮らす家も銀行の抵当として遠からず差し押さえられる運命にある。八方ふさがりの状況の中で、ザンの知り合いでヴィヴのかつての恋人からザンに対して、ロンドンでの短い教授職が提案され、家族はロンドンへの短期逗留を決める。かねてより養女たるシバの血統についての調査を続けていたヴィヴはそのために雇ったジャーナリストから調査の継続が困難であることを告げられ、この機会に自ら調査のためロンドンを経由してエチオピアに向かうことを決意する。物語は最初これら四人の家族をめぐる比較的オーソドックスな語りによって幕を開ける。ヴィヴと別れたザンはパーカーとシバという肌の色の違う二人の子供とともにロンドンで生活を始め、いくつもの奇妙な体験を重ねる。ヴィヴからの連絡は次第に途絶え、講義のためにベビーシッターを探していたザンのもとにはまるで待ち構えていたかのようにモリーなる若い黒人女性が現れる。ヴィヴの消息を求めてロンドンのエチオピア大使館に出かけたザンとパーカーのもとから、今度はモリーとシバが姿を消す。パーカーはPCの掲示板にヴィヴの映像を見出すが、なぜか彼女はエチオピアではなくベルリンにいた。いくつものストーリーが重ね合わされるにつれて、審級の異なった語りが紛れ込む。一つはザンが久しぶりに書き始めた小説だ。その小説とはXという男がスキンヘッドの若者たちに襲われ、半殺しの状態で放置されるという内容だ。倒れているXに黒人の少女が近づき、一冊のぼろぼろのペーパーバックを残して走り去る。そこに残された書物は1919年という時点ではまだ発行されていないにもかかわらず、20世紀文学の未来全体を宿した小説であることが物語の中で暗示される。おそらくそれはジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」であろう。この時、直ちにいくつかの暗合が浮かび上がる。「ユリシーズ」とはブルームという男がダブリンを彷徨する物語であったことを想起するならば、ロンドンをさまようザンとの共通性は明らかだ。そしてブルームの妻の愛称はモリーではなかっただろうか。しかし唐突に挿入されたザンの小説は小説内小説というほどの持続性をもたず、断ち切られたまま、ザン一家をめぐる物語の中に断続的に挿入される。一方、本書のおおよそ半分あたりからやはり唐突に別の物語が始まる。それはレッグとジャスミンというイギリス人カップルの物語であるが、二人はロンドンのパブでアメリカ人の青年と杯を交わす。アメリカ人は名指しされることがないが、前後の状況からおそらくはジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディの若い頃であろうと推測される。ここにおいて本書がオバマの大統領就任のエピソードで始まる理由の一端が理解されよう。本書においては一つの家族をめぐるプライヴェイトな物語とアメリカという国家をめぐるそれが捩じり合わされている。ジャスミンはアメリカに渡り、ロバート・ケネディの選挙運動を手伝う。私も本書を読む過程で確認したのだが、ロバート・ケネディも兄と同様に暗殺されている。さらに同じ時代キング牧師も暗殺されたことを想起するならば、ジャスミンの物語はアメリカに暗殺の嵐が吹き荒れた1960年代後半を舞台にしていることが理解されよう。後にジャスミンはレコード会社で働き、多くのミュージシャンへの言及がなされる。ただし私がヴァン・モリスンを含めて言及されるミュージシャンについてあまりよく知らないこともあるかもしれないが、訳者があとがきで記すように本書を60年代から70年代にかけてのポップ・ミュージックへのオマージュとまでみなすのはいささか無理があるのではないか。この程度のポップ・ミュージックへの言及であれば作品の中で村上春樹が常に行っている。さて、ザンの一家とジャスミン、オバマとケネディの時代を隔てる物語は予想されたとおり、かなり屈折したかたちで結びついていく。ジャスミンが黒人女性であるという記述からジャスミンとモリーの関係を予想することはたやすい。ジャスミンとモリーの関係、そして彼女たちを巡る物語が、これまでに本書で語られた物語と時に必然的に、時にアクロバティックに結びついていく過程についてはここではあえて触れない。なぜならかかる照応、時に明示的、時に暗示的なそれを「テクスト的現実」の中に読み取っていくことこそ本書を、そしてエリクソンを読む醍醐味であるからだ。
 エリクソンの小説としては例外的に、本書には作家が得意とする幻視的なヴィジョンが描かれない。もちろんリムジンに向かって何度も衝突を繰り返すタクシー(本書の核となるイメージの一つだ)やアジスアベバの孤児院の風景など印象的な情景は存在するが、水没したロサンジェルス、凍りついたパリといった幻惑的で終末的なイメージは描かれることがない。ザンとパーカーの妻/母、娘/妹を探す旅をめぐる描写は比較的リアルである。しかし、物語のここかしこに挿入される無関係の物語が父と息子の探索のエピソードに一種の緊張を与える。今、探索という言葉を用いたが、本書には探索という主題が幾重にも張りめぐらされている。消え去ったヴィヴ、そしてシバを捜す旅はいうまでもなく、そもそもヴィヴの失踪の原因となったエチオピアへの旅行はシバの母親を探し出す目的で計画された。あるいはジャスミンも自らの父親を捜し、一枚の写真の中にそれを見出す。これらはすべて個人をめぐる探索の物語であるが、私はさらに大きな主題、つまり集合的無意識が自らを探索する物語として本書を読み替えることができないかと考えるのだ。回りくどい言い方はやめておこう。つまり本書は「アメリカ」が自己を探索する物語ではなかろうか。この物語がオバマ当選のエピソードで始められ、オバマへの期待が繰り返し語られる理由はそこにある。思い起こせば、エリクソンはいくつかの小説で大統領や大統領選をテーマとしている。『Xのアーチ』ではトマス・ジェファーソンと黒人女性の関係が描かれ、私は未読であるが『リープ・イヤー』は1996年の大統領選挙を取材して描かれたとのことである。本書においても暗示的な書きぶりでケネディ家の二人の大統領と大統領候補(ともに暗殺される)について執拗に言及される。今、「アメリカ」と記したが、ここで問題とされるのはもちろん国家としてのアメリカではない。言語や民族、人種を超えて形成される幻想の共同体としてのアメリカである。かかる超越的な存在は文学の主題としてまことにふさわしく、私はメルヴィルからエリクソンにいたるかかる系譜を「アメリカ文学」の中にたどってみたいという誘惑に駆られる。私の読みは次のとおりだ。先に無意識という言葉を用いたが、実は本書の語り手は「アメリカ」であり、本書で語られるのは「アメリカ」の無意識ではないか。本書に頻出するモティーフを並べてみよう。移民と暴力、移動と拝金主義、そしてポップ・ミュージック、これらはいずれも「アメリカ」的な主題とはいえないか。これらの主題それぞれを一巻のテーマとした小説のリストを作成することはたやすい。「アメリカ」の無意識としての「きみを夢見て」。それならば物語が錯綜し、頻繁に転換され、時に異なったレヴェルの物語が嵌入することの理由を形式ではなくて、物語の内容として説明することもできよう。そして私の推理は端的に本書の末尾からもたらされている。長くなるが感動的な一節を引用する。

 外から見れば、シバの夢はほんの一瞬にすぎないが、彼女は眠りながら、それが長い旅であることを理解している。船のへさきでバランスをとりながら、遠くからの歌を受信し、彼女を名付ける名前を求めて航海するのだ。その名前は、どこにも属さない人々のためのものであり、かつて人々が自分の所属する場所にちなんでつけていたように、まず自分の所属を探している人々のためのものであり、思い出せないが、忘れることのできない出来事を嘆きつづける悲しみのためのものである。少女と兄と母親と父親が船から岸に降りると、その名前は、楽園でも天国でもなく、ユートピアでも約束の地でもない。むしろ、ダメージを受けた名前である。かつて誰かがそれを最初に口にすると、すべての人を魅了したが、その後、それを汚して、ハイジャックして、搾取して、質を落として、中身のないものにして、その価値を見下しながらもその名前の響きだけを愛でている。とはいえ、その価値は、どうやっても否定できないものなのだ。(中略)いま娘と父親は、それと分からぬまま、その名前によって強く結ばれている。娘はその獰猛な核の中にその名前を宿し、一本指で喉を引き裂く仕草をしながら、その名前を守り抜く。その名前とはアメリカだ。

 ここでは一つの紐帯としてのアメリカが論じられている。国籍も人種も異なるシバを家族の一員として迎え入れることはザンとヴィヴにとって大きな決断であったはずだ。しかし彼らはかかる決断を下し、現実に対峙する。いうまでもなくアメリカもまたほかの民族、ほかの人種、ほかの言語を寛容とともに内部に迎え入れてきたし、オバマの登場はまさにその象徴であったといえよう。先にも述べたとおり、本書においてはザン一家と「アメリカ」が実に独特に照応している。ザンたちはロスアンジェルスに戻り、自宅が競売にかけられることを知る。最後に描かれる場面は自分たちの家から家財道具を運び出す家族たちの姿だ。しかし本書の結末にはエリクソンとしては珍しく希望がある。それは世界中に戦争をまき散らし、強欲なグローバリズムの起源であり、格差社会の極限であるアメリカにさえもなお希望が残されていることを作者が信じるからであり、それは冒頭で言及されるオバマの大統領就任という奇跡によってもたらされた希望であろう。
 オバマ大統領は先日来日し、広島で感動的なスピーチを行った。These Dreams of You のyouをオバマとみなすのはさすがに強引すぎるか。しかし今や、私たちはヒトラー並みの排外主義者がその後を襲う漠然とした危惧の中にいる。オバマが大統領に就任したのは2009年のことであった。それからわずか7年で世界はdream から nightmare に暗転するかもしれない。読了後の感動に一抹の不安が重なった。

09/11/2016追記 この悪夢は本日、現実のものとなった。エリクソンはどのような思いとともに本日の大統領選挙の結果を受け入れたのであろうか。
# by gravity97 | 2016-06-04 21:09 | 海外文学 | Comments(0)

b0138838_15445261.jpg 私はなぜ紀行文を愛好するのだろうか。このブログにおけるエントリーこそ少ないが、私は見知らぬ地を訪れた印象を記した文章が大好きなのだ。ロレンス・ダレルのコルフ島滞在記、中沢新一のバルセロナ紀行、チャトウィンのパタゴニア旅行記、これまで私は多くの紀行文に親しんできた。おそらくそれは何かに帰属することを好まないという私の気質によっているかもしれない。大学であろうと美術館であろうと私は一つの場所に留まることが好きではないし、所属する組織に帰属意識をもったことなど一度もない。私が四方田犬彦の一連の紀行文を好むのは四方田の生き方への憧憬があるのかもしれない。最近、河出文庫より増補されて再刊されたニューヨーク滞在記『ニューヨークより不思議』に次のような一節がある。

 いつ頃からだろう。旅と旅の境目がつかなくなり、一つの旅のなかにもう一つの新しい旅が、さらに次の旅が胚胎されるようになってしまったのは。日本への帰国はしだいに、この切れ目のない旅の途中にときおり刻みつけられた分節点の様相を呈するようになってきた。(中略)体力の自然の衰えを考えるとそういつまでも続けられるわけがないとは思いながらも、実のところ、無意識のうちに、自分の来たるべき亡命先を探しているのではないかという気がしてくる。

 さすがに私はこの境地まで達することは出来ないが、亡命先を求めて旅から旅を続ける姿勢にはおおいに共感する。本書は1979年から2014年まで、世界各地を訪れた33篇の比較的短い紀行文によって成立している。私は四方田がこれほど多くの土地を訪れていることにあらためて驚いた。というのは、同じ著者の著作を読み継いできた私は四方田がこれ以外にも多くの土地に長期にわたって滞在したことを知っているからだ。このあたりの事情を著者は次のように説明している。「わたしの書きものの中でも『モロッコ流謫』や『台湾の歓び』といった長編のトラヴェルエッセイがコンセプト・アルバムであるとするならば、33の短編からなるこの書物はさしずめ、シングル盤コレクションに似ているかもしれない」今回のレヴューでは四方田のほかの紀行や土地に関するエッセーにも触れながら若干のコメントを加えたいと思う。
 本書は編年体によって構成され、いずれの章も年記と土地の名のみが掲げられている。最初の章は「ソウル 1979」、そして最後の章が「ノーンカーイ 2014」である。ソウルはともかく、ノーンカーイとはどこか。そこがタイの国境の町であることは読み進めてようやく理解される。本書の特徴の一つは語られる土地が一見アト・ランダムに選ばれていることだ。ナポリ、テヘラン、ラサであれば私たちは漠然と土地についての知識をもっている。しかしカメドン、ウルル、テレジンであればどうか。それらの土地がイギリス、オーストラリア、チェコに帰属することを直ちに言い当てることができる者は多くないはずだ。土地も目的も、同行者や面会相手も全く異なったいくつもの紀行は旅行者としての著者を唯一の接点としてつなぎ合わされていく。
 最初の章の舞台がソウルであることは理解できる。四方田が最初に海外の大学で教えた経験はソウルの建国大学校であり、ソウルの経験を四方田は『われらが〈他者〉なる韓国』というエッセー集にまとめている。彼が滞在していた時期、独裁者であった朴正熙が暗殺されたことによって引き起こされた混乱についてはこのエッセー集の中で読んだ記憶があるが、本書の最初の章でも触れられている。ここでは暗殺事件の直後に教え子の女子大学生とフランス料理を共にするエピソードが語られるが、四方田の紀行の魅力は多く現地における食の記憶と関わっている。これに関しては同じ著者による『ひと皿の記憶』と関連させてこのブログでも論じた。そういえば『ひと皿の記憶』には北朝鮮、ピョンヤンにおける貧しい食事の記憶が語られていたのではなかったか。私も旅、あるいは外国での滞在の記憶はしばしばそこで食べた料理の記憶と結びつく。ベルリンでギャラリストに連れられて行ったイタリア料理の美味であったこと、真冬の街頭、ソウルの屋台で駆けつけに注がれた熱いスープ、今はなきワールド・トレード・センターの最上階のレストラン、ウインドウ・オブ・ザ・ワールドにおけるキューレーターたちとの会食、必ずしも豪勢な料理である必要はない。おそらくこれらの料理が記憶に残るのはそれらが旅と同様に一回的な経験であり人生の中で二度と反復されることがないからではなろうか。
 さて、本人が述懐するとおり、四方田はこれまでも何冊かの「コンセプト・アルバム」つまり一つの場所に拘泥した長編のエッセーを発表している。私が読んだものだけを列挙しても1987年のニューヨーク、コロンビア大学への留学を機に執筆された『ストレンジャー・ザン・ニューヨーク』(ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を引いていることはいうまでもない。先にも述べた通り、これに2015年のニューヨーク滞在の紀行を加えて近年『ニューヨークより不思議』として河出文庫から刊行された)、そして長い滞在というより数度にわたる渡航を背景に執筆され、1999年に刊行された『モロッコ流謫』、そして「パレスチナ・セルビア紀行」というサブタイトルとともに2005年に発表された『見ることの塩』、さらに紀行というより自らの住まう地に関する紀行的エッセーであるが1996年の『月島物語』といった系譜だ。台湾の滞在記である『台湾の歓び』については未読であるが、今タイトルを挙げた一連の著作を私は既に読んでいる。このうち『われらが〈他者〉なる韓国』は韓国を主題としているとはいえ雑多な機会に発表された文章がまとめられているからまとまりがない印象がある。逆に『ストレンジャー・ザン・ニューヨーク』はニューヨークで活動する東アジア人というかなり限られたテーマを設定しているため、エッセーに膨らみがない。四方田の紀行文のうち、私が深い感銘を受けたのは『モロッコ流謫』と『見ることの塩』であるが、両者は紀行文として対極に位置するように感じられる。二つの紀行の冒頭を書き写してみよう。
b0138838_21411187.jpg


 マドリッドを発った飛行機は、雲を突き抜けてしばらくすると、ゆっくりとした運行に入る。窓からは白い雲のあいだに、ちらちらと赤茶色の山並みが見える。握られた拳のようなイベリア半島の一番南、比喩を用いるならば小指の根元にあたるリバル山地のうえを、機は横切ろうとしている。

 イスラエルは既にドゴール空港を出発するときから始まっていた。ベン・グリオン空港へと向かうエール・フランス機に乗るため、二時間前に空港に到着すると、この便に乗る乗客たちだけが隔離され、他から離れた地下のチェッキング・カウンターのところに連れていかれた。ここですべての荷物がX線で調べられた。搭乗券を受け取って控え室に向かうと、もう一度荷物の検査があった。

 いずれも目的地に向かうフライトについての描写であるが、期待と緊張、その差異は明らかであり、この対比は二つの紀行を通底するモティーフと関わっている。『モロッコ流謫』はタイトルが示す通り、彼の地に流謫された人々をめぐる物語だ。ポール・ボウルズ、ジャン・ジュネ、ウィリアム・バロウズ、石川三四郎、そして表紙を飾るアンリ・マティス。あなたはこれら流刑の徒のうち、何人を知っているだろうか。モロッコを訪れるたび、四方田は焦点をあてる人物を違えて、いくつもの魅惑的なエピソードが語られる。中でも私が感銘を受けたのはモロッコ大使を務めていた折に四方田を歓待した三島由紀夫の兄、平岡千之という人物との交流である。貴族的な血統、スノビッシュな学識をもちながら、世界に対してシニカルで一種破滅的な達観を漂わせたこの人物は実に興味深く、モロッコという猥雑な土地との対比も鮮やかだ。両者は一種のエピキュリズムにおいて融合する。一方の『見ることの塩』はどうか。「私の見ることは、塩である/私の見ることには、癒しがない」という高橋睦郎のアフォリズムをタイトルとするこの紀行は2004年という同じ年にパレスチナ(正確には四方田が籍を置いたのはテルアヴィヴ大学であり、イスラエルである)とセルビア(同様に正確には四方田はベオグラード民族学博物館に籍を置いた)という二つの土地に文化庁の文化交流使として派遣された際の印象を記したものである。中東と東欧、地域こそ異なるがいずれもきわめて苛酷な土地、憎しみが人々を支配している地域である。あらゆる建物の前でガードマンが訪れる者を誰何し、巨大な壁が生活を分断する都市。名高いホテルが廃墟と化し、「民族浄化」の痕跡がここかしこに残る街。いずれの地においても四方田は現地の映画関係者を訪ね、宗教儀礼や歴史的遺物へ関心を向ける。興味深いことにはこの筆者の紀行としては珍しく、料理に関する言及がほとんどない。例外的に終章で二つの土地の共通点として、人々がブーレカと呼ばれる小麦粉を焼いた軽食を食べていたという記述があるが、マグレブ料理の異国趣味やボローニャの賑やかな田舎料理のとはかけ離れた質素な料理についての短いコメントは食もまたこれらの地では厳しいことを暗示しているかのようだ。通常の旅行記にみられるエキゾチシズムもオリエンタリズムも全く欠いた二つの土地の紀行は、それゆえ私に土地と生という問題についての反省を促した。本書にまとめられた多くの紀行は悦楽と禁欲、豪奢と索漠において二つの極をかたちづくるこれら二つの紀行の中間に位置する。ハバナやエクス・アン・プロヴァンスをめぐる旅は前者に近く、テヘランやチェジュドをめぐるそれは「癒しがない」。そして四方田の関心をプリズムとして様々な主題や人々が浮かび上がる。カルナック(エジプトではなくフランスの地名だ)やサルヴァドール、そしていうまでもなくルルドをめぐる紀行では宗教学者たる四方田は彼の地における宗教儀礼について思いをめぐらし、バーニョ・ヴィニョーニや鶴崗といったおそらく読者が初めて聞く土地に関して土地固有の映画的記憶が論じられる。ハバナでは国外脱出を望む女性に誘惑され、コロンボにおける美術史家若桑みどりとの邂逅をめぐる一章は爆笑を誘う。最初に土地がアト・ランダムに選ばれていると記したが、おそらく本書で言及される土地になんらかの共通点を求めるならば、大都市や観光地を避け、多くが地名を聞いてもどの国に位置するか判然としない小さな町への旅や逗留について記されている点であろう。交通や宿泊において決してアクセスが容易でない土地への偏愛はパレスチナやコソヴォといった苛烈な記憶が刻まれた土地をも旅したタフな旅行者たる四方田ならではのものであろう。さらにもう一点、私が注目するのは本書において今日のIT環境への言及がほとんど認められない点である。もちろん今日、四方田とてフライトや宿泊の手配においてはインターネットを活用しているに違いないし、まだインターネット環境が整備されていなかった90年代中盤まで、そしておそらく通信環境が整っていない辺境への旅は今なおITとは無関係であるかもしれない。しかし私は著者の姿勢に「グローバリズム」に対する静かな拒絶を感じるのだ。今日、世界のどこにいようと私たちは別の場所についての知識を得ることができる。いうまでもなくグーグルアースはこのような欲望を機械的に実現したものだ。グローバリズムとは世界を平準化し、最も安い賃金で生産した製品を最も高額で消費される地域へともたらすシステムの謂である。かかる世界観の下では、価値観を違えた複数の世界が存在してはならない。グローバリズムの進展とインターネットの整備が同期したことは必然的な理由を伴っている。しかしグ-グルアースを介して私たちはよりよく世界を知りうるだろうか。おそらく否である。私たちが別の土地を真に知るためにはそこに出かけて、身体をとおして「土地の精霊」を感受する以外に方法はない。本書がインターネット上にあふれかえる薄っぺらの「旅行記」と本質的に異なるはまさにこの点である。
 書名とされた「土地の精霊」とはラテン語でいうゲニウス・ロキのことだ。いかなる土地にもその土地固有の精霊が宿り、私たちは土地の歴史や風土を通じてこれらの精霊と見(まみ)える。私たちは旅をすることなしにゲニウス・ロキを知ることはない。大学で比較文学を専攻した四方田が論文のテーマとして選んだのがスウィフトの「ガリバー旅行記」であったことは本書の主題と深く関わっているだろう。あるいは四方田が偏愛するルイス・ブニュエルや中上健次といった表現者たちが生涯において何度か移動を繰り返したことも連想されよう。ブニュエルにおいてはメキシコ、中上においては韓国がいわば他者として彼らの表現の転回を促した。グローバリズムにおいて他者は収奪の対象でしかないが、これに対して彼らは他者に身を差し出し、身を預けることによって自らを刷新した。単なるツーリズムではなく、自らの内面を変える契機としての旅。「土地の精霊」と出会う旅の本分はおそらくはこの点にあるだろう。
# by gravity97 | 2016-05-29 15:52 | 紀行 | Comments(0)