Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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私が学生時代に描いていたような、いわゆる「抽象画」は現在の私の心にはほとんど訴えかけてこなかった。私はそのようなタイプの絵画にもう心を惹かれなかった。今の時点から振り返ってみれば、私がかつて夢中になって描いていた作品は、要するに「フォルムの追求」に過ぎなかった。青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられていた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にあるべき魂の深みにまでは手が届いていなかった。そのことが今ではよくわかった。私が当時手に入れることができたのは、比較的浅いところにある造形の面白みに過ぎなかった。強く心を揺さぶられるようなものは見当たらない。そこにあるのは、良く言ってせいぜい「才気」に過ぎなかった。



# by gravity97 | 2017-02-26 15:53 | PASSAGE | Comments(0)

池野絢子『アルテ・ポーヴェラ』

 b0138838_21253281.jpg 本書はイタリアの戦後美術において最も重要な動向の一つであるアルテ・ポーヴェラを主題とした研究であり、2014年度に京都大学大学院に提出された博士論文に加筆修正した内容であるという。日本においてアルテ・ポーヴェラはかつて『アール・ヴィヴァン』誌で特集されたことがあり、私は未見であるが、展覧会としても2005年に豊田市美術館で大規模な回顧展が開催されている。ヤニス・クネリスやジョゼッペ・ペノーネなどの作品は一部の美術館に収蔵されているから、日本でもその片鱗に触れることは不可能ではないが、ミニマル・アートやアンチフォームなどの関連する動向と同様、アルテ・ポーヴェラはこれまで紹介される機会が少ない美術運動であった。これから述べるとおり、その理由自体もこれらの動向の本質と深く関わっている。したがって本書はこれまで十分に論じられることのなかったこの運動に関して日本語で書かれた初めてのモノグラフといえよう。博士論文としては量的にやや物足りず、章ごとにテーマを違えた構成は必ずしもわかりやすくないが、この運動の本質と広がりを知るうえでは示唆に富む手引きといえよう。

 序章で著者も述懐するとおり、本書の構成は必ずしもクロノロジカルではないし、状況の検証、批評の分析、個々の作品の記述といったレヴェルの異なる議論が意図的に導入されている。しかし読み通すならば、この運動の輪郭のみならずデ・キリコやマグリットといった歴史的前提、ポップ・アートやミニマル・アートといった同時代の美術との関わり、さらには美術館の制度論や作品の同一性といった抽象的な問題にいたる多様な問題がアルテ・ポーヴェラという分光器を得て次々に浮かび上がって興味深い。巻末の年表と関連展覧会のリストは資料的な価値が高く、本文の中で語られる内容についても私にとって初めて知るエピソードが多かった。例によって章を追いながら本書の内容を確認しておこう。

 b0138838_21271465.jpg 1969年、ローマのラッティコ画廊に11匹の生きている馬を繋いだクネリスの衝撃的な《馬》の図版を冒頭に掲げた序章においては、ジェルマーノ・チェラントによって組織され、布や木材、石や鉄板といった素材を無媒介的に提示するアルテ・ポーヴェラの輪郭が粗描されるとともに本書の構成が簡単に説明される。注目すべきは各章の最終節でそれぞれ一人の作家を取り上げ、作家論的な記述がなされている点である。変則的な構成であるが、このような記述をとおして具体的な作家論と理論的な分析がシャッフルされてこの運動の理解に深みを与えるように感じた。第一章ではアルテ・ポーヴェラの登場前後の状況が検討される。いくつもの興味深い発見があった。例えばアルテ・ポーヴェラの「ポーヴェラ」、「貧しい」という言葉がポーランドの演出家イェジェイ・グロトフスキーの「貧しい演劇」に由来することを私は初めて知った。ただしここで池野が「貧しい」という概念をメディウム・スペシフィシティーと関連づけてクレメント・グリーバーグのフォーマリズム理論と対比するのは全くの見当違いであろう。私がアメリカ美術を専門としているためのないものねだりかもしれないが、本書を通読してやや残念なのは同時代のアメリカ美術との比較が十分になされていない点である。この章を読んで私はあらためてアルテ・ポーヴェラがアメリカの戦後美術を強く意識した運動であったことに思い至った。例えば今触れた「貧しい」という言葉である。アルテ・ポーヴェラの理論的指導者チェラントは1967年に「アルテ・ポーヴェラ―ゲリラ戦のためのノート」というテクストを発表している。ゲリラ戦とは穏やかではないが、当時アメリカの手によってベトナム戦争が続けられていたことを想起するならば、すでにこの言葉の選択に明確なメッセージが込められていたと考えてよかろう。それでは何に対するゲリラ戦か、チェラントは次のように説く。「あちら側には複雑な芸術があって、こちら側には貧しい芸術(アルテ・ポーヴェラ)がある」あちら側の複雑な芸術、ゲリラ戦の仮想敵は池野によればポップ・アート、オプ・アート、プライマリー・ストラクチュアであるという。いうまでもなくそれはアメリカの同時代の動向であり、大量消費社会のアイコンであるポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアにみられる華やかで工業用素材を使用した彩色彫刻を連想するならば、それらを豊かさの象徴とみなすことは理解できよう。そしてあらためてこの運動も美術の覇権をめぐるアメリカとヨーロッパの闘争の一つの局面であったことが理解される。興味深いことにはかかる応酬は国家間というよりも有力な批評家の間で交わされた。50年代のミシェル・タピエが失脚した後、ヨーロッパではチェラント、そしてハロルド・ゼーマンが新しい美術を唱導した。このブログでも取り上げたゼーマンの「態度がかたちになる時」がイタリア、アメリカ、ドイツの作家を中心に中立国スイスのベルンで開催されたという事実は興味深い。この章では最後の節でミケランジェロ・ピストレットのケース・スタディがなされる。鏡というこの作家特有の装置を介して、鑑賞者という要素が作品の中に取り入れられるという発想は興味深く、ミニマル・アートを連想させる一方でウンベルト・エーコの「読者の役割」とも結びつく。さらにジャック・ランシエールを援用して展開される議論はなお敷衍する十分な余地があるように感じられる。

 「トリノの地政学」と題された第二章も興味深い。この章ではタイトルのとおり、フィアットで知られる工業都市、トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの展開を論じている。池野は特にジャン・エンツォ・スペローネというギャラリストとデポジト・ダルテ・プレゼンテというオルターナティヴ・スペースが果たした役割について検証しつつ、作家たちが採用した手法がブリコラージュであったという重要な指摘を行っている。ブリコラージュという言葉から直ちに連想されるのはレヴィ・ストロースであり、必然的に構造主義との関係も視野に収められよう。デポジト・ダルテ・プレゼンテにおける作品の展示風景の写真も掲載されているが、この図版から連想されるのは「態度がかたちになる時」やホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」の会場風景だ。この時代の気風が浮かび上がるとともに、これらの作品が展示されるべき理想の空間は果たして美術館であったかという問題も浮上する。この問題は最後の章においてあらためて主題化される。この章で驚いたのはアルテ・ポーヴェラと映画監督として知られるピエル・パオロ・パゾリーニとの関係である。トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの牙城であったデポジト・ダルテ・プレゼンテにおいてパゾリーニは1968年に「オージー」という「言葉の演劇」の上演を試みたという。(「オージー」からウィーン・アクショニズムを連想するのは私だけだろうか)しかし両者の関係は必ずしも良好ではなく、この空間が閉鎖される遠因となったことが暗示されている。あるいは本書には同じ会場でアメリカのリヴィング・シアターによる公演の写真も掲載されている。行為の問題については続く第三章で論じられるが、美術のみならず、映画や演劇と関わる異才たちが当時のトリノに結集したことが理解されよう。この章の最終節で特集される作家はアリギエロ・ボエッティであるが、世界地図の作家として知られるこの作家についても多くのことを学んだ。私は初めて知ったのであるが、世界地図のそれぞれの領土を国旗として切り分けた有名な作品は実は作家の指示に従って、アフガニスタンの無名の女性たちが縫ったものであるという。インストラクションとタスク、ここには明らかにコンセプチュアル・アートにつながる発想が存在し、先日、このブログで応接したクレア・ビショップが言う「参加型アート」のきわめて早い例として考えることができるかもしれない。そして地図というモティーフはきわめて多様なコノテーションをはらんでいる。ルチアーノ・ファブロの名高い「吊されたイタリア」の写真も掲載されているが、地図とは国家の表象でもある。ボエッティがベトナムの地図をトレースする含意は先に述べた当時の国際情勢を考慮する時、明らかであろうし、池野も指摘するとおり同時代のランド・アートの作家たちもしばしば地図を作品の中に取り込んだ。さらにこの問題圏にアメリカの美術史家スヴェトラナ・アルパースが提起した「描写の芸術」、そしてハル・フォスターが説く「民族誌家としてのアーティスト」といった古今の理論的概念が召還される様子は刺激的である。ただしここでも問題の輪郭は文字通り、マッピングするにとどめられ、検証の余地があえて残されている。

 続く第三章「実践のパラダイム」においては行為という問題が導入される。アルテ・ポーヴェラからも9人の作家が参加した「態度がかたちになる時」の輪郭を粗描し、そこでは作品が脱物質化され、プロセスが重視されることを指摘される。このような回路を経て具体的な作品ではなく、生あるいは行為という問題の重要性が明らかとなり、チェラントはアルテ・ポーヴェラからアツィオーネ・ポーヴェラ(貧しい行為)への移行を提唱する。この状況は例えばトリノで開かれた「観想=行動」という展覧会で演じられたピストレットの「散歩彫刻」といったアクションによって説明されるが、68年という時代背景を念頭に置けば、行為のさらに過激な含意も明らかである。ヨーロッパ各地で学生叛乱が発生したこの年、ヴェネツィア・ビエンナーレは参加ボイコットを叫ぶ学生たちで占拠され、一時的に閉鎖された。ただし私たちはアルテ・ポーヴェラにおいて「行為」の質が大きな変貌を遂げていることに注目しなければならない。彼らに先んじて作家の行為に意味を見出したのはハロルド・ローゼンバーグであり、アクションとして定式化された。ローゼンバーグが引用するジャクソン・ポロックのアクションからアラン・カプローはさらにハプニングという概念を導出し、ハプニング芸術を提唱した。これら一連の活動にみられる行為が作家という主体を強く全面に押し出し、行為の成果としての作品、あるいは行為の前提としての環境を伴ったのに対してアルテ・ポーヴェラの作家たちの行為は作家性を欠く場合が多い。先に挙げたクネリスやボエッティもそうであるが、池野はこのような特質を1968年にアマルフィで開かれた「アルテ・ポヴェーラウ+アツィオーニ・ポーヴェレ」という暗示的なタイトルをもつ展覧会に即して詳しく報告している。これらの活動から私が連想したのはいうまでもなく「もの派」による一連の発表であり、クネリスと李禹煥の作品の近似性については以前何かで論じられていた覚えがある。この問題もさらに論じる余地はあるが、池野はむしろ作家性の喪失を「作者の死」という問題へと結びつけ、フーコーからバルト、さらにジョルジョ・アガンベンにおける芸術の主体について論じる。繰り返しとなるが、この運動の周囲に思いがけない問題圏を広げていく点こそが本書の大きな魅力である。そしてこの章では作者と作品との関係という軸に沿って、ジュリオ・パオリーニという比較的マイナーな作家の写真作品が詳しく検討される。

 「前衛以後の古典主義」と題された第四章は比較的短く、一つのテーマが設定される。それは何人もの作家を横断して認められる石膏像というモティーフである。まずクネリス、パオリーニらのパフォーマンスや作品における石膏像の使用が概観される。アルテ・ポーヴェラは集団としての結束力が弱く、どの時点をもって運動が解消されたとみなすかは難しい問題であるが、興味深い点としては彼らが石膏像を使用するのは1970年以後、池野の言葉を用いるならば「アルテ・ポーヴェラ以後」の出来事であることだ。この章ではイコノクラスム、シミューラークル、あるいは古典への回帰といったキーワードと関連させて議論が進められ、最後にアルテ・ポーヴェラが前衛と古典主義という、相反するベクトルを合わせもつ運動であるという注目すべき見解が示される。

 最後の章ではこの運動をめぐる最新の状況が論じられる。すなわち1984年にトリノ、マドリッド、ニューヨークを巡回した回顧展における展示である。チェラントによって組織されたこの展覧会においては初期の作品とともにそれぞれの作家の近作も展示されたという。このような展示においては作品の同一性が問題となることはいうまでもなかろう。この問題を池野は異なった会場に展示されたジョヴァンニ・アンセルモの作品のインスタレーションが異なった印象を与えた点から説き起こしているが、これは現代美術の展覧会を手がける学芸員にはおなじみの難問である。アルテ・ポーヴェラの作品においては布きれや藁、炎や植物といった永続性がなく、不定形の素材が用いられる場合が多い。最初の発表と同じ素材、同じ形状の作品を発表することは最初からありえない。かかる作品の同一性を何に求めるかという点に答えることは簡単ではない。もしそれが作家に帰属するならば、作家が死亡した後は作品の同一性を保証することは困難となる。いうまでもなくこの問題は同時代のアンチフォームやプロセスアート、さらにはもの派などにも共通する。この問題を傍らに置く時、第四章で論じられた「作者の死」、あるいはしばしば言及されるウンベルト・エーコの「開かれた作品」といった概念は新たな意味を宿すかもしれない。最初に述べたとおり、これらの運動を回顧することが困難であったのも同じ理由による。池野はこの章の冒頭にミケランジェロ・ピストレットの《ぼろ切れのヴィーナス》の二つの展示風景の写真を並置し1985年の展示風景においては建築との関係において作品の異化効果が強められていると述べている。つまり実体をもった作品であっても展示された場所との関係において別々の作品と見なされる場合さえあるのだ。しかしミニマル・アートを念頭に置く時、このような作品の特性は意外ではない。作品は場の函数として存在し、それゆえ作品のインスタレーションが問題とされるのだ。「再制作/再構築の(不)可能性」と題された第三節においては近年の注目すべき試みとして、このブログでも応接したヴェネツィアにおける「態度がかたちになる時 ベルン/1969年 ヴェネツィア/2013年」(2013)を挙げる。ブログで詳述したとおりこの展覧会はゼーマンの伝説的な展覧会を、会場を含めて完全に再現するという画期的な試みであった。この展覧会を検証しながら池野はアルテ・ポーヴェラの作品が常に同時的時間にしか存在しえないというアポリアを確認するとともにそれを再構築する試みが常にずれを伴うことを指摘する。興味深いことにこのような過去の展示のリテラルな再現は近年次々に試みられている。このブログで扱った展示だけでも2014年、ニューヨーク、ユダヤ美術館における「アザー・プライマリー・ストラクチュア」、そして2015年、東京国立近代美術館における「Re: play 1972/2015」などが挙げられる。再現不可能な作品に対する美術館の対応としては別の手法もある。本書においてニューヨーク近代美術館の館長ウィリアム・ルービンの言葉を引きながら、池野は「作品自体を収集することが不可能である場合、その代替物であるドキュメンテーションを収集する」手法を示す。この点も近年の美術館において注目を浴びている手法であり、奇しくも私は先日の国際美術館における「THE PLAY」に関する展覧会の展示と関連してこの問題を論じた。あるいはやはり近年、美術館において大きな注目を浴びているアーカイヴもこの問題と深く関わっているだろう。この章では最後にジョゼッペ・ペノーネの《流形彫刻の庭園》というプロジェクトに触れて作品と場の関係、作品の同一性の問題が論じられる。

 本書はアルテ・ポーヴェラという運動を扱いながらも、求心的というより遠心的であり、多様な主題を巻き込んでいく点が理解されたことと思う。半世紀前に繰り広げられた、必ずしも輪郭のはっきりしない運動でありながら、そこで提起された問題は「貧しい」どころか、今日においてもアクチュアリティーをもつ。参加型アート、展覧会の再現、アーカイヴとしての芸術、先に私が言及したいくつかのテーマは21世紀に入って鮮明となった主題であり、この運動の先見性を暗示している。アンチフォームやプロセスアートといった対応するアメリカの動向がフォーマリズムへの明確な批判として成立しているのに対して、かかる運動はいかなる出自をもつのであろうか。十分に深められていないが、先に触れた「前衛と古典主義の結合」という発想は一つの手がかりとなるかもしれない。現代美術が美術史学に登録されたことの証明は、そのテーマで博士論文が執筆されることであるという。私たちはようやく半世紀前の美術を美術史学の対象として検証する視座を得つつある。ラウシェンバーグ、具体、そしてアルテ・ポーヴェラ。近年上梓され、このブログでレヴューしたこれらの作家や運動についての優れたモノグラフの数々は現代美術が歴史化される過程を雄弁に語っている。



# by gravity97 | 2017-02-17 21:29 | 現代美術 | Comments(0)

三浦英之『五色の虹』

b0138838_15295242.jpg 本書はサブタイトルにあるとおり、日本が中国東北部を満州国として植民地化していた時代、現地に設置された満州建国大学の卒業生たちの人生をたどるドキュメントである。著者の三浦英之は朝日新聞の記者。三浦について、私は本書に先行して別の機会に知っていた。三浦は現在、アフリカ特派員としてヨハネスブルグの支局長を務めているが、以前よりツイッターを通してアフリカの現在を生々しく伝える情報を発信し、最近も現政権の下で日本の自衛隊が配置される南スーダンの苛酷な状況について、タイムリーなレポートを記していたように記憶する。恥ずかしげもなく首相の饗応に応じる御用編集委員がコラムを執筆するこの新聞社にあって、三浦や「メルトダウン」の大鹿靖明ら、きちんとした調査報道ができる若手記者が存在することはせめてもの救いだ。

 歴史の中にはいくつもの闇がある。以前、このブログで取り上げた北朝鮮への帰還事業しかり、中国での大飢饉しかり。あたかもそれがなかったように葬り去られた多くの真実は粘り強い調査を通じてようやく白日のもとに晒される。本書の主題である満州建国大学が闇に埋もれた理由は明らかである。それは満州という日本の植民地、ありえざる場につかのまに花開いたユートピアであったからだ。三浦はかつて新潟支局に赴任していたことを縁として、この大学の卒業生と知り合い、関心を抱いて取材を始める。町田、神戸と関係者を訪ねた後、朝日新聞社の許可を得て、三浦は三週間の取材旅行に出かける。目的地は大連、長春、ウランバートル、ソウル、台北、そしてカザフスタンという広い地域に及ぶ。必ずしも治安や日本との関係がよい地域ばかりではない。三浦によれば、「所属新聞社の推薦状がない限り、中国やモンゴル、カザフスタンなどの国々は取材に必要なビザを発給しない。万が一不正が発覚した場合には海外拠点で勤務する特派員にペナルティーが科せられる恐れがあるため、新聞記者という身分を有して取材にあたる以上、観光ビザで入国するという行為が私にはどうしてもとれなかった」後述するとおり、この取材にあたって検閲に近い妨害を三浦は体験することになるが、この記述は21世紀に入っても世界が厳しい緊張の中にあることを暗示している。実際に先般、社会病質者が下した「大統領令」によって私たちはいまや移動の自由さえ奪われている。この取材旅行に基づいて夕刊に四回にわたる記事が掲載されたとはいえ、2010年にこのような取材旅行が許可されたことに私は新聞社の度量を感じる。それというのも、本書はまさにこの時点に取材がなされたことによって可能になった記録であるからだ。高齢の関係者は次々に他界し、あとがきには取材から本書が刊行するまでに鬼籍に入った登場人物の名前が列挙されている。

 2010年に東京で開かれた建国大学の「最後の同窓会」の模様をプロローグとして、新潟からカザフサタンのアルトマイまで、記者が取材で赴いた地をタイトルとした11の章によって本書は構成されている。比較的短い期間の取材と三週間の海外取材を素材としているから徹底性には欠けるが、スピード感があって読み物としてまとまっている。卒業生を各地に訪ねる内容は一種のオムニバス形式といってよいだろう。卒業生のその後の人生は彼らが生きた国、生きた時期によって実に様々だ。その広がりこそが本書の主題であるといってもよかろう。最初にこの大学について簡単に述べておくならば、満州建国大学とはその名の通り、かつての満州国の首都、長春(新京)に1938年に開学し、敗戦による満州崩壊とともに1945年に消滅した。わずか10年に満たない時期の開設であったが、9期生1,400名の卒業生があったとウィキペディアにある。三浦によればこの大学の在学生は日本政府が傀儡国家満州国の運営を担わせるために日本全土と満州全域から選抜した戦前戦中のスーパーエリートであった。五族共和の実践をめざして開設されたこの大学は日本初の国際大学であり、国内の帝国大学とは異なり、日本人は定員の半分に制限され、残りは中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生に配分されていたという。使用言語についても日本語と中国語のほかに欧米諸言語を含めて自由な選択が許されていたという。さらに当時としてはまことに異例なことにこの大学においては言論の自由が認められていたという。学生の国籍や言語の選択はともかく、言論の自由が保障され、学内では日本政府への批判が公然となされていたという指摘にはその真偽は措くとしても驚かされるが、プロローグで語られる同窓会の席上で、同窓生の一人が様々な国籍の同窓生の名を呼び上げて慟哭するというエピソードに、そのような理想郷が存在しえたかもしれないという思いを強くする。

 先に述べたとおり、三浦は日本、中国、モンゴル、韓国、台湾、カザフスタンという六カ国をめぐって取材を続ける。このことからも満州国という傀儡国家の版図の広がりを理解することができるが、興味深いのはそれぞれの国に散らばった同窓生たちの運命が大きく異なることだ。例えば韓国で取材した姜英勲はかつて韓国で首相を務め金日成と会談まで行った人物である。三浦によれば韓国は終戦時より建国大学の出身者を積極的に登用し、政府や軍、大学や企業内に建国大学の人脈が出来ていたという。あるいは台湾で面会した李水清は台湾を代表する製紙企業のトップを務め、子供たちは全員アメリカの一流大学で博士号を取得している。一方、中国で面会を予定していた二人の卒業生はいずれもなお共産党の監視下にあり、終戦後、長春を包囲した共産党軍の籠城戦、多くの市民が餓死したいわゆる長春包囲戦について三浦が不用意な質問をしたため、その時点で取材がすべてキャンセルされた。モンゴルとカザフスタンに住む卒業生たちも監視こそされていないが、韓国や台湾の卒業生たちと比べるならば、決して恵まれた生活をしている訳ではない。本書は取材旅行というかたちをとるから基本的に彼らの現在に焦点を当てているが、おそらくそこまでに彼らがたどってきた道も一様ではない。本書においてもその一端が明かされているとおり、この大学に在籍した中国人、ロシア人、モンゴル人の学生たちは日本帝国主義への協力者とみなされて迫害を受け、殺された場合もあったという。そしてそのような事実を明かすことさえも現在の彼らに危害を及ぼす可能性があるという。本書には三浦の手によるインタビューイたちのポートレートも掲載されているから、おそらくそのような可能性を注意深く取り除いたうえでの刊行であろうが、戦中のある時期、一つの大学に在籍したという事実が半世紀以上も時を経た人々になおも重い影を投げかけているのだ。

 一方で述べたような状況にも関わらず、卒業生たちがなおも連絡を取り合い、同窓生名簿を作成し、同窓会を開くという事実もまた重い。建国大学は教育内容のみならず全寮制で学費も免除されるという厚遇を保証したから150人の定員に対して日本と満州から2万人の志願者があったという。三浦のいうスーパーエリートという比喩は誇張ではないし、実際に姜英勲のように戦後要職に就いた卒業生もいれば、日本でも国立大学の教授となったインタビューイもいる。彼らのポテンシャルはきわめて高い。建国大学への入学は本来ならば未来を嘱望されるべき出来事であったはずであるが、逆にそれが帝国主義への協力の徴、一種のスティグマとみなされた訳だ。独ソ戦においても祖国のために戦い、捕虜となった兵士たちがスパイの疑いをかけられて拷問や苦役の犠牲となった点を私はこのブログのいくつかの記事で検証したが、戦時においては真摯に生きたがゆえに汚名を着せられるという悲劇が洋の東西で繰り返された。したがってここにおいて同窓会名簿に登載されることは生命にまで及ぶ不利益を被る可能性がある。それにも関わらず、「彼らはたとえ国家間の国交が断絶している期間であっても、特殊なルートを使って連絡先をたどり、運良く連絡先が判明すると、手製の名簿に住所や電話番号を書き足していった」かかる熱意の由来を、私はこの大学が一つの理想を掲げ、少なくとも学生たちがそれを共有していたことに求めたいと思う。以前、このブログで「官展にみる近代美術」についてレヴューした。今読み返してみるならば、長春における「満州国美術展覧会」もまた満州国の瓦解まで8回にわたって開かれていた。出品者の中に白系ロシア人らしき名前が含まれていたことは述べたとおりだ。展覧会の開催期間は建国大学が存在した期間とほぼ同期しており、満州国においては敗戦にいたるおよそ8年間の間、五族共和の名の下に一種のコスモポリタニズムの気風が醸成されていたことを暗示している。もちろんそれは所詮満州国という日本の帝国主義が作り出した擬制の上に開いた徒花であったかもしれない。しかし少なくとも一抹の理想主義が存在したからこそ、卒業生たちは弾圧や迫害を承知のうえで、戦後も団結を続けたのではないだろうか。実際、本書の中では三浦が卒業生の一人に同行してカザフスタンを訪ね、同期生のロシア人の再会に立ち会う場面が一つのクライマックスをかたちづくっている。65年ぶりに再会した二人の老人の交流は胸をうつ。これに先んじてこのうちの一人、85歳の宮野泰が自宅にNHKのロシア語講座の教材を揃えていたというエピソードが示される。三浦の賞賛の言葉に宮野は「これでも建大生の端くれであるから」と返すが、それはコスモポリタンとしての自負ではなかっただろうか。満州については今なおあまりに多くのことが手つかずに残されている。建国大学についても「敗戦時に大学に関する資料の多くを焼却し、戦後、それぞれの祖国へと散った卒業生たちが、後世に記録として残されることをひどく嫌った」と本書中にある。しかし満州とは全否定されるべき対象であろうか。近年、文学と美術の領域でようやくそれらを相対化する試みが始まったことを私はこのブログで何度か論じた。民族も国籍も違えた若者たちが集い、時に宗主国である日本を批判するような談論が風発したという建国大学の気風は、たとえそれが選良主義と植民地性を前提にしていたとしても、世界市民という意識へと通じる可能性を秘めていたのではなかっただろうか。

 今や私たちはかつてない憎悪の奔流の中にいる。憎悪を焚きつける言葉が政治家やメディアの口からひっきりなしに流れ、差別と排除が公言される。なぜ国籍や民族が異なるだけで人は憎しみ合わなければならないのか。「五色の虹」の五つとはいうまでもなく五つの民族、虹とは三浦の現在の赴任地、南アフリカでネルソン・マンデラが他民族国家の調和を比喩した言葉である。現在も日本を含む五つの民族は複雑な関係の中にいる。しかしかつて私たちが満州という地で(スローガンとしての政治性は措くとして)「五族協和」という理念をなんとか実現させることができたとすれば、再び同じ理想のもとに手を携えることができない理由はないはずだ。



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# by gravity97 | 2017-02-05 15:34 | ノンフィクション | Comments(0)

「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」

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 既に終了した展覧会であるが、国立国際美術館で開かれた「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」についてレヴューを残しておきたい。会期の長い展覧会ではよくあることだが、私自身、会場を訪れたのは終了直前であり、すでに販売用のカタログは売り切れていた。もちろん彼らの活動については以前から知っていた。私は90年代に関西の美術館で開かれ、このグループが参加したいくつかの集団展を訪れているし、2011年に今回と同じ会場、同じ学芸員によって企画された「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム」も見ている。しかしそれらにおいては集団展の一角として紹介されたためであろうか、いずれの場合もさほど強い印象を受けることがなかった。しかし今回、あらためてその活動を回顧する展覧会に足を運び、多くの発見があった。この集団が世界的にみても類例のない特異な活動を繰り広げてきたことを今さらながら思い知る。
 今、発見という言葉を用いたが、むしろ私は今までこのグループについていかに無知であったかという点を今度の展示で認識した気がする。まず驚いたのは、プレイという集団が今もなお存在しており、活動を続けているということだ。確かに私は今触れた「風穴」、あるいは最近では2015年の堂島リバービエンナーレにおける発表に立ち会っているから近年の活動自体は知っていた。しかし私はそれらの発表を展覧会にあたって作品が再制作もしくは再演されたものだと思い、過去の活動から切り離して理解していた。しかし今回の展示とカタログを見て驚く。頻度こそ減っているものの、彼らは1990年代にも独自の活動を続けており、今日にいたるまで活動を継続しているのである。このような事情も含めて、まずカタログの冒頭に表記されたこのグループの「略歴」を引用しておく。

プレイ略歴
関西を中心に1967年から活動。現在プレイとして活動するのは池水慶一、小林愼一、鈴木芳伸、二井清治、三喜徹雄の5名。メンバーは流動的で、何らかのかたちでこれまでプレイに参加した人数は100名を超える。発泡スチロール製のイカダで川を下る。京都から大阪へ羊を連れて旅をする、山頂に丸太材で一辺20メートルの三角塔を建て雷が落ちるのを10年間待つなど、自然の中で「行為」を計画し、実行し、その体験を日常に持ち帰ることを繰り返している。

 活動を開始した時点は定められているが、終えたとは記されていない。67年から数えれば今年でちょうど半世紀である。私の知る限り、半世紀の長きにわたってハプニング(この言葉の当否については後で論じる)を繰り広げた集団は世界に類例がない。さらに構成員についての知識もお粗末であった。歴代のメンバーのうち、私は池水慶一と安土修三(ガリバー)の名しか知らない。彼ら二人が個人としても活動しているためであろうが、これは私の無知ばかりによるのではなく、プレイが固有名のない集団として活動したことを暗示している。同時代の二つの集団と比較することによってプレイの独自性を明らかにすることができるだろう。略歴の中に「流動的」という言葉があったが、この言葉から連想されるのはいうまでもなくフルクサスである。綱領なきハプニング集団という点で両者は共通するが、フルクサスにはたとえばジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズといったよく知られた作家が加わっており、私たちは集団というよりも、むしろこれらの作家が束ねられた共同体としてフルクサスをイメージする。彼らの活動は個別でばらばらな印象があり、必ずしも共通性をもたない。一方、プレイに先行して日本にもハイレッド・センターという集団が存在した。名称こそ高松、赤瀬川、中西の頭文字をとっているが、彼らの活動は匿名性をその本質としていた。ハイレッド・センターについては先般展覧会の形で検証され、このブログでもレヴューしたとおりである。活動期間は4年に満たず凝縮感は強い。これらと比べるならば、プレイの活動は固有名と匿名性をともに欠いたゆるやかな輪郭をもっている。彼らが活動を始めた時期を考えるならば、関西ではまだ具体美術協会が影響力を有しており、多くの美術団体も含めて、縦のヒエラルキーを有した集団が割拠していた。この一方、京都アンデパンダン展、さらに京都ビエンナーレなどを舞台に集団によらないアナーキーな作家たちの活動も時代の気風を形作っていた。(ここでは詳しく論じる余裕がないが、京都市美術館を舞台にしたこれらの展覧会は今なお十分に総括されていない。関係者が存命のうちに是非とも調査、ないし展覧会として検証する必要性を感じる)これらと比較する時、ゆるやかにまとまりつつ、プロジェクトごとに構成員を違えて活動を持続させるプレイの戦略は独特であり、結果的に半世紀にわたる活動の持続を可能にしたように感じる。今回の展覧会カタログではプレイの活動がクロノロジカルにまとめられており、活動を概括する充実したテクストとともに、今後貴重な資料となることだろう。
b0138838_20271641.jpg 展覧会の所感をいくつか記しておく。会場には「雷」と題されたプロジェクトにおいて京都府相楽郡、鷲峰山・大峰山の山頂に設えられた三角錐が再現され、「現代美術の流れ」において使用された矢印型の発泡スチロールのイカダが設置されている。しかしこれらを除いて、かたちを伴った「作品」は少ない。そもそもこれらもプロジェクトに使用された「道具」にすぎず、オリジナリティーや真正性が重視される「作品」ではない。展示されているのは映像を含めた資料が大半であり、会場はさながらプレイのアーカイヴのごとき様相を呈している。会期中にアーカイヴに関するシンポジウムがあったと記憶するし、アーカイヴの問題は今日の美術館にとって一つの焦点をかたちづくっているが、これについては措く。作品の不在は先に触れたハイレッド・センターの展覧会と鋭い対照を示している。ハイレッド・センターを回顧するにあたってはオブジェの展示が中心となり、作家たちはそれぞれに紐や梱包、あるいは洗濯挟みといったオブセッシヴな品や手法を用いて多くのオブジェを制作した。これに対して、今回の展示では作品ならざる資料、パンフレットや様々の記録、映像や写真が整然と配置され、半世紀にわたる彼らの活動をコンパクトに理解することができる。資料展示といえば通常無数の資料がケース内に積み重ねられた雑然としたそれを連想するが、今回は会場に並べられた同じ規格の木製パネルに資料類が整然と展示され、きわめてスタイリッシュな印象を受けた。会場の展示デザインは作家、学芸員のいずれの手によるものであろうか。近年、展示構成には展示デザイナーや建築家が関わる場合が多く、しばしば担当者の名前がクレジットされる。この点について会場もしくはカタログに説明があってもよかったのではなかろうか。インスタレーションならずとも現代美術の展示に関しては会場デザインを誰が決定するかという問題も今後、美術館や展覧会にとって一つの課題となるように感じるが、これについてもこれ以上は触れない。ここで私が確認したいのは、プレイの「ハプニング」が本質においてオブジェを志向していないという点である。この点は今回紹介された彼らのプロジェクトを一瞥する時、直ちに理解できる。落雷を待つ、イカダで川を下る、羊を連れて旅する、それらはすべて動詞形で示される。カタログの章立ても「旅する、暮らす、流れる」「風景を変える」「体験する」といった動詞によって区別されている点は象徴的である。かつてリチャード・セラも動詞のリストを掲げ、それに従って素材を加工した。セラのリストが他動詞であったのに対して、プレイのリストは自動詞だ。彼らの行為は何かに受肉されることがない。例えば1976年の「風」という作品は、北海道、宗谷のサロベツ原野を5日間にわたって風の吹いてくる方向に向かって歩くというものであり、確かに会場には前屈みに草原を歩く作家たちの姿を撮影した写真が展示されていたが、記録は残ったとしても、このハプニングは実体を伴わない。カタログテクストの中で富井玲子はプレイのハプニングをプロジェクト協働系と儀式系の二つに分けているが、野外に置かれた白い十字の布や巨大な旗が今回展示されていなかったことからも理解されるとおり、プレイの場合、儀式系のハプニングにおいて使用されたオブジェもフェティッシュ化されることがない点は注目されてよい。ハプニング芸術の創始者アラン・カプローの場合、「アッサンブラージュ、エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス」という著書のタイトルが暗示するとおり、ハプニングはオブジェの集積、演じられる環境と深い関係を有した。カプローが提唱するハプニングはポロックのアトリエや60年代の一連のジャンクアートにおける環境に由来し、プレイのそれとは起源を違えている。プレイは早い時期からハプニングという言葉を用いているようであるが、彼らの活動をカプローに由来するハプニングの変種とみなすか否かは微妙だ。この点を富井は彼女の言う「世界美術史」におけるローカル・ヒストリーの一つとして興味深い議論を展開している。私はプレイの「ハプニング」、オブジェに収斂しない行為を端的に一種の演劇とみなしてはどうかと考える。なぜならばプレイの場合、「ハプニング」はしばしば起点と終点をもつからだ。それは「現代美術の流れ」にみられるように宇治川塔之島付近から中之島東端までといった空間によって区切られる場合もあれば、「雷」の10年間、「風」の5日間といった具合に時間的に限定される場合もあるが、いずれにせよ始まりと終わりという時間的な枠組をもつ。このような構造は美術より演劇に近い。そして演劇という項を得て、新しい関係線が引かれる。プレイの場合、一つの「ハプニング」に要する時間はかなり長い。「現代美術の流れ」においては12時間、「羊」においては京都から神戸に向かう羊をつれた野宿の旅は当初8日間が予定されていた。(高槻で終了したのこと)あるいはウォルター・デ・マリアを連想させながらもそれより早い「雷」が10年間と期間を区切って続けられたことは述べたとおりだ。プレイの場合、メンバーたちが繰り広げる行為は作品の制作というより労働に近く、多くの場合集団的で肉体的な労働である。私はこれらの活動から「合宿」という言葉を想起した。一つの集団がある目的に向かって一定の期間、寝起きを共にして作品に向かう姿勢から私は維新派の野外劇を連想した。そもそも会場内に設置された丸太組から私は2010年に犬島で見た彼らの演劇を連想したのであるが、実際に松本雄吉とプレイは接触があったようである。今回のカタログの謝辞にも松本の名があり、ともに大阪教育大学の出身である。両者の関係については今後の研究が俟たれる。
b0138838_20284091.jpg 維新派とプレイの共通点はもう一つある。それは多くの場合、ハプニングが野外で演じられたことである。しかし時に維新派が屋内もしくは劇場で公演を行ったように(それらのレヴューは以前に記したとおりだ)、プレイも時に美術館を舞台とした発表を行っている。カタログの中で「美術館を解き放つ」と題された章で紹介された発表がそれだ。残念ながら私は未見であるが、いずれも相当にラディカルな試みだ。中でも1980年、兵庫県立近代美術館で開かれた「アート・ナウ ‘80」で発表された作品は会期中、美術館の東側の大窓を外し、展示室内に移動するという内容である。言うは易しという言葉通り、これがとんでもないことであることは学芸員ならずともすぐにわかるだろう。これによって展示室内の空調が無効化され(作家たちは「部屋が呼吸を始め、気流の中にある」と表現した)防犯上の問題も発生するはずだ。管理的、官僚的になった今日の美術館では不可能な試みであり、当時の美術館の度量を感じさせるエピソードである。窓が展示室の中にあることそれ自体は驚くに値しないかもしれないが、そのために必要とされた交渉、作業を想像することが見る側に試されるのだ。このような作品の在り方は私に重量物を移動させるマイケル・ハイザーの作品を連想させた。アースワークという補助線を引くならば、「京都ビエンナーレ 集団としての美術」、あるいは同じ兵庫県立近代美術館で開かれた「明日の美術館を求めて―美術劇場」に出品された作品はいずれも展示室内に設置された作品と野外に置かれた作品、もしくは特定の場所との関係を主題としている点においてロバート・スミッソンの「サイト/ノンサイト」を想起させないだろうか。これらに対して今回の展示では、同様に美術館を舞台としながらもかかる過激さが影を潜め、文字通りこれまでの活動の回顧に終始した印象がある。もっとも「風穴」の場合は会期終了後に展示されていたイカダを用いて「現代美術の流れ」の再現(カタログによれば「続き」)が演じられているから、今後この展覧会を契機として結成50周年を迎えたこの集団によって思いもかけないハプニングが挙行される可能性があることを指摘しておきたい。
 最後に論じておきたいのは記録の問題だ。先に述べたとおり、プレイの場合、行為はかたちをとらないが、彼らは概念を提示するコンセプチュアル・アートを目指している訳ではない。両者は明確に区別されなければならないだろう。この時、行為を記録することの重要性が浮かび上がる。興味深いことには、一連の記録写真にはイカダに乗り、巨大な卵を洋上に浮かべ、雷を待つ櫓を組み立てるメンバーたちの様子が記録されている。この点は行為する者を記録する者が外部にいたことを暗示している。行為に没入するのではなく、行為しつつ、それを記録するという冷静な意志がそこには存在していたのである。したがって彼らが三回にわたって新聞を発行し、四回にわたって詳細な資料集を刊行していたことは驚くに値しない。残念な点はこれらの資料を今日入手することが困難なことである。今回の展示を見て、なおも膨大な資料が残されていることを私は確信することができた。今後、これらの資料がアーカイヴとして整理され、可能であれば資料集もしくはインターネットを介して私たちもアクセス可能となることが望ましい。ハイレッド・センターそして九州派については近年美術館の手によって、活動の全幅を十分に参照することが可能な資料集が発行されている。黒田雷児の大著をはじめとして、痕跡を残さない行為を主体とした美術活動についてもようやく近年美術史の中に回収する作業が進められている。今回のカタログはコンパクトでわかりやすいが、個々のハプニングについての情報がやや少ない。彼らの活動を世界的に位置づけるうえでも、入手しやすくさらに詳細な資料集の整備を期待したい。

# by gravity97 | 2017-01-28 20:35 | 展覧会 | Comments(0)

ロベルト・ボラーニョ『2666』

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 毎年、年末年始には数巻にわたる長編を読むことにしている。このブログでもディケンズの『荒涼館』やロレンス・ダレルの「アヴィニョン・クインテット」について論じた。昨年から今年にかけて準備したのは私にとっても初めて読む作家、チリのロベルト・ボラーニョの大作『2666』。大判の単行本、上下二段組で850頁に及ぶ大長編である。読み終えて唖然とする。なんとも超絶的な怪作であった。
 最初に遺族による注記がある。遺族という言葉が暗示するとおり、ボラーニョは50歳で早世し、本書は彼の遺作である。後から論じるとおり、このような事情も本書の内容と無関係ではない。注記によれば作家は五章から成る本書を、それぞれ五巻の分冊として刊行することを遺言として遺した。しかし彼の友人であり文学上の助言者のアドバイスにしたがって分割せず一巻の書として刊行された。「病状が悪化して最悪の事態に至らなければ、彼はきっとそうしていたことでしょう」と注記の末尾にある。最初に種明かしをしてしまえば、五つの章はまさに絶妙の関係で結ばれている。この長大な小説にあっては末尾と呼ぶべき最後のわずか20頁ほどで一挙に視界が晴れるかのように、五つの章、五つの物語が焦点を結ぶ。私が超絶的と述べたのはこのことである。この点で今挙げたダレルの「アヴィニョン・クインテット」と比較することは意味があるだろう。アヴィニョン五重奏も複雑な構造をもつ小説であり、本書と同じ五つのパートから構成され、それぞれが独立した物語として、数年の間隔を空けて出版された。しかしアヴィニョン五重奏は全体として一つの物語のとしてのゆるやかな結構を保っており、五巻の物語をこの順番に違和感なく読み進むことができる。これに対して、「2666」において、読者は章ごとに次々に全く別の物語の中に投げ込まれるかのような思いにとらわれる。この印象をさらに強めるのは五つの章の量的な不均衡だ。最初の三つの章がそれぞれ150頁、60頁、100頁ほどであるのに対して、後半の二つの章は260頁と230頁余りの量がある。注記によれば分冊としての刊行ペースや出版社との契約金まで指示が残されていたとのことであるから、本書を完成された最終稿とみなしてもよかろうが、作者の死後に刊行されたという事情を勘案するならば、このようないびつな分量の配分が初めから意図されたものであったか否かについては若干の疑問が残るし、この点は作品の評価とも関わっているだろう。以下、今回は内容についてもかなり踏み込んで論じるため、白紙の状態でこの小説に向かいたい読者はまず書店か図書館へと足をお運びいただくのがよかろう。
 それにしても奇怪な小説である。「批評家たちの部」と題された第一章は次のような文章で始まる。「ジャン=クロード・ペルチエが初めてペンノ・フォン・アルチンボルディを読んだのは1980年のクリスマスのことだった。当時、彼は19歳で、パリの大学でドイツ文学を学んでいた」批評家たち、というタイトルが暗示するとおり、冒頭の章ではアルチンボルディというドイツの小説家をめぐり、彼の小説を研究する国籍を違えた四人の批評家たちが主人公となる。フランスのペルチエ、イタリアのピエロ・モリーニ、スペインのマヌエル・エスピローサ、そして紅一点、イギリスのリザ・ノートンである。アルチンボルディなるドイツ作家は架空の存在であり、言及される多くの小説も実在しない。四人の批評家たちはヨーロッパ各地で開催される学会やセミナーを通して互いを認知し、親密な交際が始まる。四人のうち、モリーニは多発性硬化症のため車椅子の生活を余儀なくされているが、世代が近いこともあり、四人は様々な機会をとらえてそれぞれが住む都市を行き来して次第に交流を深める。ペルチエとエスピローサは次第にノートンに好意を抱くようになり、性的関係をもつ。セックスは明らかに本書を通底する主題であり、彼らの関係は三人でのセックス(メナージュ・ア・トロワ)にまで発展する。第一章の隠れた主人公が作家アルチンボルディであることは言うまでもない。冒頭に1980年という年記があることから理解されるとおり、本書は近過去を舞台としており。アルチンボルディが1960年代から小説の発表を始めたことも記述されている。しかしアルチンボルディは公の場には決して姿を現さず、原稿は多く郵便を介して出版社に送りつけられる。四人の批評家たちはアルチンボルディの消息を探る。北海に面した寒村で偶然にアルチンボルディに出会った作家、出版元の社長夫人、彼らは作家と面識のある人物を訪ねるが、非常に背の高いドイツ人であることが判明しただけで、その行方は杳として知れない。トゥルーズで開かれたセミナーで彼らはつい最近アルチンボルディに会ったというメキシコ人と知り合う。彼を通してアルチンボルディがメキシコ北西部、アメリカ国境のソノラ州にあるサンタテレサという街を訪れたことを知った批評家たちはその街を訪ねてアルチンボルディの痕跡を探す。この街については彼らがそこへ赴く前に一つの不吉な噂が新聞記事として書きつけられていた。それによればこの街では100人を超す女性たちが殺されており、犯人は特定されていないというのだ。サンタテレサを訪れた批評家たちはサンタテレサ大学の文学部長から「アルチンボルディの専門家」であるアマルフィターノという教授を紹介され、彼とともに調査を続けるが収穫はない。報われない探索。劇的な展開を欠いたまま第一章が終わる。そして四人の批評家はこれ以後、この小説には一切登場しない。しかし既にこの章の中にあたかも通奏低音のごとく物語とは直接関係のない不吉なエピソードが散りばめられている。例えばエスピノーサとペルチエによるパキスタン人のタクシー運転手に対するほとんど理由のない暴行、民芸品の売り子をしている少女とエスピノーサのペドフィリア(小児性愛)に近いセックス、自ら右手を切り落とし、切り落とした腕に防腐処置を施したエドウィン・ジョーンズというイギリスの画家のエピソード。暴力と性愛というモティーフはこの長い小説につきまとい、後述するとおり第四部では直接的な主題となる。
 第二章は「アマルフィターノの部」と題されている。題名が示すとおり、この章では第一章に登場したサンタテレサ大学の哲学教授、アマルフィターノが焦点化される。メキシコ西北部の殺伐とした砂漠の町に娘と二人で住む大学教授はバルセロナからこの地に流れ着き、彼の妻は出奔したらしい。前章で彼がアルチンボルディの研究者であることが明らかとされているが、逆にこの章ではドイツ人作家についての言及はほとんどない。代わって美術史を学んだ者にとっては興味深いエピソードが開陳される。書斎に届いた箱の中からアマルフィターノはラファエル・ディエステという書き手の『幾何学的遺言』という見覚えのない本を見つけ(この本は実在するらしい)屋外に物干し用ロープに吊るすという奇妙な処置を施す。いささかのディレッタンティズムとともに私はこの一節を理解した。マルセル・デュシャンだ。デュシャンは1919年、滞在中のブエノスアイレスから妹のシュザンヌに幾何学の教科書をバルコニーに放置し、風に晒されたままの状態で放置せよという指示を与え、《不幸なレディメイド》と名づけて作品化した。今や写真のみによって知られるレディメイドの挿入に私は当惑した。先のエドウィン・ジョーンズの挿話、あるいは明らかにアルチンボルドを連想させる作家の名前、この小説の中にはさまざまなかたちで美術への謎めいた参照がなされる。そしてこの章においてもサンタテレサにおいて引き続く女性の連続殺害事件について言及される。続く第三章「フェイトの部」の主人公もアフリカ系のアメリカ人、新聞記者のオスカー・フェイトという全く未知の人物だ。フェイトは不慮の死を遂げた同僚の代わりにボクシングの試合の取材を命じられる。フェイトが赴いた土地の名を聞いて、私たちはようやくばらばらの物語の接点を知る。いうまでもなくメキシコ、ソノラ州のサンタテレサである。サンタテレサを訪れたフェイトは同じ試合の取材に訪れた記者たちのたまり場で現地の怪しげな男たちと知り合いとなり、若い女性をターゲットにした連続殺人事件が頻発していることを知る。荒廃した街でフェイトは第二章の主人公、アマルフィターノの娘、ロサと会い、二章と三章はかろうじて結びつく。メキシコシティからこの事件を取材に来た女性記者は、この事件を調査する新聞記者たちが何人も誘拐され、行方不明になっているという不気味な噂をフェイトに伝え、まもなく収監されている事件の容疑者と面会すると述べる。物語全体の輪郭は相変わらずあいまいなままであり、この章の最後に記された情景の意味はおそらく本書を読み通して初めて了解されるはずだ。
 続く「犯罪の部」という長大な章には誰もが圧倒されるだろう。なによりも300頁近い分量があるにもかかわらず、その大半は1993年に始まる連続女性殺人事件において死体が発見された状況の説明に終始するからだ。たとえばこんな感じだ。「二月半ば、サンタテレサの中心街の路地で、ゴミ収集人が新たな女性の遺体を発見した。年齢は30歳前後で、黒いスカートと胸元の開いた白いブラウスを着ていた。ナイフで刺し殺されていたが、腹と腹部には何度も殴られた形跡があった」ほとんどの場合、犯人は不明であるが、時に恋人や知人が犯人と名指しされることもあるから、この小説は犯人捜しのミステリーではない。「フェイトの部」の中の記述と殺害の状況が一致することによって犯人が漠然と想定される場合もあれば、犯人の特定とはつながらない何人かの容疑者が拘束される場面も描かれている。この小説において話者は神の視点をとるから、殺人者の語りを入れることも可能なはずであるが、そのような語りは意図的に排除されている。殺人の凄惨な状況は地の文の中で淡々と語られ、列挙される被害者の数、延々と続く殺害状況の説明の反復に読者は早々に呆然とする。終わることのない殺害状況の記述の間に、教会を荒らし大量の放尿をして立ち去る瀆聖者の暗躍、捜査官と精神病院院長との性愛、TVに出演して殺人を糾弾する千里眼の女、刑務所の中での容疑者の虐殺、FBIの専門家の訪問、関連しながらも雑然としたエピソードがいくつも重ねられる。この章を読むと、私たちは1990年代のメキシコの地方都市が置かれた殺伐とした状況をきわめて具体的に理解する。全くの偶然であるが、本書を読んでいる途中、私は『世界』で連載の始まったメキシコの麻薬戦争に関するルポルタージュを目にして驚いた。実はこの小説に描かれている状況はフィクションではなく、現実なのである。「マフィア国家という敵」と題されたルポルタージュにおいてもサンタテレサならざるシウダー・ファレスという街で実際に麻薬にからんだ誘拐、殺人、強姦といった犯罪が日常茶飯事のように発生していたことが報告されている。フィクションと現実の間を往還するこの長い章は97年の末に発見された身元不明の女性の遺体についての記述によって幕を閉じる。
 最後の章が「アルチンボルディの部」と題されていることに読者は驚かないだろう。この章に最初に登場するのは片目の母親と片足の父親の間に生まれたハンス・ライターという少年である。注意深い読者であればこの名前がすでに第一章の中に記されていたことを記憶しているだろうし、ライターが成長するにつれて巨人のような背丈となったという記述からライターとは何者か、想像することはさほど難しくない。早回りをして種を明かせば、この章はライター/アルチンボルディの伝記であり、一種のビルドゥングスロマンと読めないこともない。ライター少年は長じて兵士となって第二次大戦に従軍し、ルーマニアあるいはソビエトにおける奇怪な体験が記される。ベルリンでは後年彼のパートナーとなるインゲボルクという少女と出会う。戦闘で負傷したライターは療養中に滞在していた丸太小屋でボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記を発見し、アンスキーの手記は小説内小説として物語に奇妙な彩りを添える。さらに捕虜となり収容所で知り合ったツェラーという男の告白もまた小説の中に組み込まれたテクストだ。ある事件を介して自分の名を捨てる必要に迫られたライターは敗戦後のケルンで小説家アルチンボルディとして再生する。インゲボルクと再会し、小説の執筆を始めたアルチンボルディは次第に作家としての地歩を固めていく。その過程で第一部において「批評家たち」が訪ねた関係者が次々に登場する。
 大部の小説であるから、単純な要約を許すものではないが、ひとまず本書の粗筋を記した。この小説が分裂的な内容でありながら全体として一種の円環を閉じる独特の構造を有していることは理解いただけるだろう。最初に述べた通り、私にとってボラーニョの小説を読むのはこれが初めてであるから、ほかの小説と比較はできないが、それにしてもなんとも奇妙な小説だ。まず私が感じたのは、本書がこれまで耽読してきたラテンアメリカ文学とは全く異質であることだ。確かにメキシコという中米が舞台であり、作家自身メキシコに長く滞在している。しかしここにはラテンアメリカの小説にしばしば認められるエキゾティシズムや土俗性、神話性は存在しない。この小説に一番近いテイストを帯びた作家はボルヘスであろう。なるほど陰惨な殺人事件の状況の描写が小説の半分を占めているにもかかわらず、全体に抽象的、図式的な印象が強い。生々しい死体の描写も数限りなく繰り返されることによって相対化され、希薄化される。確かに第四章をこれほど書き込む必要があったかという点には疑問が残る。実際、以前このブログで触れた「ラテンアメリカ文学入門」において寺尾隆吉は「これほど頁を費やす必要があるとは思われない」と切り捨てている。作者がこの作品をさらにブラッシュアップする猶予があれば、あるいは優秀な編集者が助言を与えていたらこの章が短縮された可能性はおおいにあると私も感じる。さらに本書からボルヘスを連想した大きな理由はこの小説が小説や作家を主題とした一種のメタフィクションである点だ。第一章においては批評家たちが架空の作家、架空の小説について議論を続ける。アマルフィターノの章において象徴的に扱われるデュシャンのオブジェは何よりも書物を素材にしていることによって導入されたのではないだろうか。あるいは小説家の誕生を主題とした第五章においても小説の中の小説というよく知られた手法を用いて別の物語が入れ子状に組み込まれている。かかる自己参照性はポスト・モダニズムとの関係で論じられることが多い。ヨーロッパ、スペインに滞在したことがあるとはいえ、コスモポリタニズムからは程遠いチリという土地で、かかる意識がいかにして作家に芽生えたかという点に私は興味がある。
 このような抽象性の一方で、この小説はきわめて具体的な手触りも与える。サンタテレサ(先に触れたシウダー・ファレスをモデルにしていると解説にある)でなぜかくも多くの女性が殺されるのか。メキシコ北西部、アメリカと国境を接するという地理条件が大きく関わっている。この街に多くの若い女性が住んでいる理由は小説の中でも説明されている。この街にはマキラドーラと呼ばれるアメリカの下請け工場が無数に存在し、若い女性は安い労働力として搾取されているのだ。実際に小説の中で強姦されたうえで殺害される無数の女性はほとんどがマキラドーラの工員だ。低賃金ではあるが若い女性が簡単に仕事に就くことができる無数の工場が林立する工業都市としてのサンタテレサの光と闇については登場人物の口をとおして語られている。街の中に点在するスラム、度重なる不法投棄によって郊外に際限なく広がるごみ処理場、警察や刑務所の中にはびこる汚職と腐敗。この街の殺伐とした情景は何度も描写される。昨日、「アメリカ大統領」に就任した社会病質者ドナルド・トランプが口汚くののしるとおり、安い労働力を提供する国境の街とはグローバリズムの負の部分であり、したがってこの小説はグローバリズムの表象あるいはそれへの批判といえるもしれない。先にこの小説がいわゆるラテンアメリカ文学と異質であると述べたが、本書においてはボルヘスを連想させる抽象性、自己言及性とパルプノワールを思わせるグロテスクな身体性、具体性が合体し、いくつもの時代といくつもの場所を束ねながら一つの壮大な物語が浮かび上がる。
 それにしてもなぜドイツ人作家が主人公として選ばれたのであろうか。作家の略歴を参照するならば、ボラーニョは世界各地を転々としており、ヨーロッパでもフランス、スペインに滞在した経験はあるとのことだが、ドイツとの深いつながりは認められない。第五部で描かれる第二次大戦中から戦後にかけてのエピソード、ユダヤ人の虐殺や敗走するドイツ兵たちをめぐる奇譚の数々から、私はギュンター・グラスの一連の小説、とりわけ「ブリキの太鼓」と「犬の年」を連想した。グラスの名はカフカやデーブリンとともに作中で言及があるし、ボラーニョには「第三帝国」「アメリカ大陸のナチ文学」といった作品も発表しており、ドイツあるいはナチズムに対する思い入れがあるのかもしれない。しかしながらこれらの小説の紹介記事を読む限り、ここでも私の期待はみごとにはぐらかされることになりそうだ。さいわいにもこの何ともとらえどころのない小説家の作品については近年、多くが日本語に翻訳されている。ラテンアメリカの作家を読む楽しみがまた一つ増えたと感じるのは私だけでなかろう。
 最後に一点、タイトルの「2666」について。解説によればこれは2666年を示し、「小説の異なる部がそれぞれあるべき場所に収まるための消失点」であり、この年号についてはほかの小説でも言及があるとのことだ。しかし少なくとも本書を通読する範囲についてはこの謎めいた年号についての情報は一切与えられることがない。

# by gravity97 | 2017-01-21 19:58 | 海外文学 | Comments(0)