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Living Well Is the Best Revenge

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 ラテンアメリカ文学についてはこのブログでも何度もレヴューした。とりわけ今年は邦訳の刊行を鶴首して待っていたカルロス・フェンテスの大作「テラ・ノストラ」がついに訳出され、大きな興奮を味わったばかりだ。思うに日本におけるラテンアメリカ文学の紹介はこれまで三つほどのピークがあった。最初はピークというほどでもないが、「百年の孤独」に始まる名作群が新潮社の「新潮・現代世界の文学」シリーズと集英社の文学全集「世界の文学」をとおして堅調に翻訳された1970年代後半から80年前後の時期だ。早川良雄による前者の装丁と深緑色の後者の造本は強く印象に残り、実際にそれらは今も私の書斎の一角を占めている。何度も記すとおり、私が初めてラテンアメリカ文学に出会い、強い衝撃を受けたのは1980年、大学一年の夏にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ体験であった。それからまもなく日本にもラテンアメリカ文学のブームが到来する。1980年代中盤から90年代初めにかけてラテンアメリカ文学に関する二つの叢書、集英社版の「ラテンアメリカの文学」全18巻と現代企画室の「ラテンアメリカ文学選集」全15巻の刊行はまさに日本におけるラテンアメリカ文学受容の一つのピークをかたちづくるものであった。そしてこの数年、私はラテンアメリカ文学をめぐる三回目の関心の高まりが到来しているように感じる。具体的には水声社の「フィクションのエル・ドラード」、現代企画室の「ロス・クラシコス」といった個性的な叢書を介してスペイン語圏におけるこれまで比較的知られることのなかった作品、翻訳が待たれていた作品が次々に翻訳されている。先日も私は書店でかつて集英社版の「世界の文学」に収録されていたフリオ・コルタサルの「石蹴り遊び」が水声社から復刊されたことを知ったばかりだ。「ロス・クラシコス」の劈頭を飾るホセ・ドノソの傑作「別荘」については既にこのブログでも論じた。本書の著者である寺尾隆吉は「別荘」の翻訳者であり、そのほかにも多くのラテンアメリカ文学の翻訳を精力的に進めている。かつてラテンアメリカの文学といえば、鼓直、木村榮一といった翻訳者で知られていたが、翻訳者も世代が変わったということであろうか。
 日本でもラテンアメリカ文学に一定の受容があったとはいえ、これまでその全体を俯瞰する概説書はほとんど存在しない。唯一の類書は木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書)であろうが、タイトルが示す通り、それぞれの小説についての解説が中心となり、概観というには個別的であり、選ばれている作品のラインナップも今日ではやや古い。マルケスに関しては全集が刊行されているし、バルガス=リョサやルイス・ボルヘス、カルロス・フェンテスといった比較的紹介が進んでいる作家については作品の解説をとおして断片的ながらかなり多くの知識を得ることができるとはいえ、ラテンアメリカ文学を総体として理解するうえで、本書の刊行は画期的といえよう。私も多くの刺激的な知見を得ることができた。本書の意義をひとまず三つの点から論じておこう。
 まず一つはラテンアメリカ文学に歴史的な見取り図が与えられたことだ。本書ではラテンアメリカ文学の前史とも呼ぶべき20世紀以前のラテンアメリカの文学状況から説き起こし、いわゆるラテンアメリカ文学のブームの到来と消長を論じたうえで、未来を展望する時間軸が設定されている。私たちはこれらの小説を刊行された時系列とは無関係に、邦訳された順に読んできたが、本書によって初めてそれらがどのような時間的布置をかたちづくってきたかを知った。私はカルロス・フェンテスが1960年前後にラテンアメリカ文学そのものを牽引する重要な役割を果たしたこと、このブログでも取り上げ、寺尾がどちらかといえば批判的に論及するイザベル・アジェンデの「精霊たちの家」が「百年の孤独」のはるか後、1980年代に入って発表されたことにあらためて思い至った。寺尾に倣ってラテンアメリカ文学の通史を略述するならば、50年代から60年代にかけてアルゼンチンとメキシコの作家たちによって準備されたラテンアメリカ文学のブームは67年の「百年の孤独」の出版を一つの契機として一挙に爆発する。70年代にいたるやフェンテス、バルガス=リョサ、マルケス、コルタサルそしてドノソという五人組は次々に傑作を上梓して黄金時代を迎える。しかし70年代後半よりブームにも陰りがみえ、寺尾が「ベストセラー時代」と呼ぶブームの陰で一種の退廃と衰退が進行する。そして今世紀に入って新しい作家を得てラテンアメリカ文学は新たな展開の途につきつつある。このようなパースペクティヴが与えられるだけでも個々の作家たちについての認識はずいぶん深まる。
 同様の見取り図は空間に対しても与えられるだろう。後でも論じるとおり、ラテンアメリカ文学とは主にスペイン語によって執筆された多国籍文学であり、私たちは作家について確認することはあっても、国籍の違いをさほど気にしない。しかし本書によれば少なくとも初期においてラテンアメリカ文学の成熟を準備した土地はマルケスのコロンビアでも、バルガス=リョサのペルーでもなく、アルゼンチンとメキシコであったという。19世紀後半以降、アルゼンチンがとりわけエリート層の知的教養において世界屈指の国であったという指摘は興味深い。私たちは何の根拠もなく日本が文化や教育の分野でも先進国であると思いこんでいるが、以前より私は海外に行くたびに、少なくとも出版の分野で日本は相当な後進国であるという思いを強くしていた。本書の中に1958年にマドリードを訪れたバルガス=リョサがリマよりはるかに劣る文化的後進性に驚いたという記述がある。フランコ独裁下のマドリードはともかく、今日、日本が文化的なアドヴァンテイジを有していると考えることはナンセンスだ。書店の店頭に積まれたごみのような嫌韓本を見るだけでこの国の文化的劣等性は誰の目にも明らかではないか。アルゼンチンを代表する作家としてはまずボルヘスが挙げられよう。いわゆるラテンアメリカ文学のテイストとは異なる抽象的な小説で知られるモダニズムの極北のような作家が「第三世界」に出現したことは意外に感じられるが、この国の文化的風土の成熟を前提とするならば、何の不思議もない。ボルヘスがアルゼンチン幻想文学の系譜に連なるという指摘は示唆的である。モダニズムと幻想文学、通常であれば一致することがない系譜がボルヘスにおいては確かに結合しており、かかる伝統は(私は未読であるが)ビオイ・カサーレス、そしてコルタサルへとつながるという。それにしてもラテンアメリカ文学とは奇妙な呼称である。「国民文学」という概念が成立するかという問題はひとまず措くにせよ、ヨーロッパであればフランス文学やイギリス文学といった区別は存在するだろう。これに対して、彼の地では主にスペイン語が使用されているという理由によって、国を超えた壮大な広がりに対してラテンアメリカ文学という総称が与えられているのだ。本書を読むとこの理由もいくぶんかは推察することができる。つまり作家たちはそれぞれが属する国を超えた「ラテンアメリカ文学」というブランドを立ち上げることによって自らの小説に付加価値を与えようとした形跡がある。しかしひるがえって何がラテンアメリカ的であるのか。この問いに答えることは難しい。もちろん多くの者にとってそれは「百年の孤独」や「精霊たちの家」にみられる魔術的レアリズムであろうが、この一方でそこには「石蹴り遊び」の実験性や「遠い家族」にみられるゴシック・ロマンも共存している。果たしてそれをひとくくりにすることは可能なのか。後で触れるとおり、ラテンアメリカ文学はヨーロッパを鏡とすることなくしてはありえなかった。(この主題を小説として実現した作品が「テラ・ノストラ」である)アングロアメリカではなく、ヨーロッパとの強い紐帯は作家の多くがヨーロッパに長期滞在した経験をもち、それどころかラテンアメリカで小説家となるうえでは外交官となって時間的な余裕、あるいは身分的な保証を得ることが必要であったという現実も関わっているだろう。この結果、彼らは自分たちの他者性こそを自らの小説の主題とした。西欧に対する他者性という発想から浮かび上がるのはオリエンタリズムの問題であるが、私の考えではラテンアメリカ文学の豊饒さはオリエンタリズムの圏域をはるかに超えている。本書では十分に論じられていないし、新書の紙幅で扱うには大きすぎる問題であるが、ここで暗示されるモダニズム文学とラテンアメリカ文学の関係は今後も様々な角度から検証されるべきであろう。
 以上の問題とも関わっているが、本書を読んであらためて認識された三番目の問題は出版社やエージェントとの関わりである。今日でこそ、作家と出版社、エージェントの関係がしばしば話題となるが、本書で縷述されるとおり、ラテンアメリカ文学のブームは辣腕の出版関係者、エージェントの手によるところが大きい。文学賞や宣伝戦略といった作品の本質とはあまり関係をもたないとみなされている制度や手法をめぐって、きわめて巧妙な戦略がめぐらされ、本国ではなく旧大陸のスペイン、とりわけバルセロナの出版社やエージェントが深く関わっていた点が分析されている。驚くべきことに1970年前後、リョサとマルケス、ドノソは共にバルセロナに移り住んでおり、リョサとマルケスにいたっては1ブロック半の距離に居住して家族ぐるみの交友を続けていたという。1970年にアヴィニョン近郊で開かれたパーティーで今挙げた「ブームの五人組」は顔を揃えた。彼らが全員同じ場に集まったのはこの時だけであるという。かかる蜜月がヨーロッパを舞台としていたことは暗示的だ。腕利きのエージェントの売り込みがあったとはいえ、ラテンアメリカ文学が勃興するうえでは旧大陸の支持、具体的にはヨーロッパにおける出版社との関係が決定的に重要であった訳である。今触れたモダニズム文学との関係でいえば、フランスのヌーヴォーロマンに象徴される現代文学の貧血状態が明らかとなった1960年代にラテンアメリカ文学が注目された地政学的な意味も今後さらに検討されてよかろう。
 ひとまず歴史、空間、制度という面から本書について論じたが、本書はラテンアメリカ文学をめぐるエピソードの集積としても十分に楽しめる。あとがきによれば、本書は著者が大学のサバティカルでマドリードに滞在中、ラテンアメリカ文学のブームの当事者たちと親しく交わる経験をもとに構想されたものであり、確かに当事者でなければ知りえないエピソード、あるいはそれぞれの作家についてのかなり辛辣な月旦が随所に見受けられる。ラテンアメリカの作家たちの関係は常に良好であった訳ではない。ラテンアメリカ特有の軍事政権、独裁政権と作家たちとの関係は微妙な影をそれぞれの作家たちに落としている。ラテンアメリカでは多くの革命と反革命が発生した。チリの9・11、ピノチェットの軍事クーデターがドノソに、あるいはイザベル・アジェンデに与えた影響についてはそれぞれこのブログで論じた。CIAに後押しされたピノチェットの反革命に対しては等しく批判を加えた作家たちも、キューバにおけるカストロの革命の評価においては態度を違える。キューバ革命政府による詩人エベルト・パディージャの逮捕と弾圧に対して正面から批判を加えるバルガス=リョサ、なおも革命へのシンパシーを隠さぬマルケスの間には断絶が生じた。以前、やはり寺尾が翻訳し、このブログでも論じた「疎外と叛逆」の中でも触れられていたが、1976年にメキシコシティで開かれた映画の試写会の場において、リョサは笑顔で駆け寄ってきたマルケスを殴り倒す。ブームの終焉を画する事件であり、現在にいたるまでその原因は明らかにされていないが、キューバ革命についての評価が一因であることは間違いない。それにしても中上健次ならばともかく、ノーベル賞作家同士が殴り合うというマッチョな風景はラテンアメリカ文学ならではといえよう。
 この事件を境としてラテンアメリカ文学は次第に退潮する。マルケスをはじめ何人かの作家たちは政治化して、文学から離れてジャーナリズムや政治的発言へと接近し、多くの作家がこれ以後、回想録を執筆したこともかかる衰微の兆候と寺尾はみなしている。80年代以降も旺盛な執筆力を示すバルガス=リョサとフェンテスを除いて、ブームをかたちづくった作家にかつての勢いはない。そして21世紀に入ってラテンアメリカ文学を象徴する二人の巨人、マルケスとフェンテスが鬼籍に入ったことは知られているとおりだ。結果的に本書はラテンアメリカ文学をめぐる一種の盛衰史として読めなくもない。果たしてラテンアメリカ文学は20世紀文学の特異なエピソードして終わるのであろうか。「新世紀のラテンアメリカ小説」と題された最後の章で、寺尾は新しい才能としてチリのロベルト・ボラーニョについて論じる。2003年に50歳で早世したボラーニョについて寺尾はやや厳しい評価を下しており、まだポラーニョを読んだことのない私はこの判断の当否について論じる立場にない。ボラーニョを含めてこの章で論じられた作家について、私は近いうちに読んでみるつもりであるが、本書ではこのほかにも実に多くの作家、魅力的な作品についての言及がなされている。嬉しいことにはその多くは未訳である。ラテンアメリカ文学の豊かな鉱脈はまだしばらく尽きることはないことを確信しつつ本書を読み終えた。
# by gravity97 | 2016-11-01 21:04 | 海外文学 | Comments(0)

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# by gravity97 | 2016-10-15 21:03 | BOOKSHELF | Comments(0)

b0138838_22474677.jpg中島らもが急逝というか不慮の死を遂げてから、もう10年以上の歳月が経った。しばらく前であるが、ちくま文庫からエッセイ・コレクションに続いて短編小説コレクションが刊行された。編者は小堀純。かつて「ぷがじゃ」の編集長を務め、演劇批評でも知られている。今、「ぷがじゃ」という固有名を挙げたが、この雑誌は1980年代を関西で過ごした者にとっては懐かしく感じられるだろう。私が中島の名を初めて知ったのは正式名称を「プレイガイドジャーナル」というこの雑誌に連載されていたカネテツデリカフーズの「微笑家族」という奇怪な広告記事の制作者としてであったはずだ。ただし今確認したところ、「ぷがじゃ」は実質的に1987年に廃刊されているから、私がこの広告を初めて見たのが、この後、最初朝日放送が発行していた「Q」という情報誌を乗っ取るようなかたちで進出した東京資本の関西版「ぴあ」のいずれであったかは判然としない。ここに「Lマガジン」、通称エルマガを加えて、四半世紀前の関西における情報誌の乱立というか戦国時代もそれなりに興味深い問題ではあるが、それはこのレヴューの主題ではない。
b0138838_2249980.jpg  私はこれまでにずいぶん多くの中島の小説、エッセー、自伝的エッセーを読んできた。私が感じた共感は80年代から90年代の関西という自分の生活圏が中島とシンクロナイズしていたからであろうし、ことに阪神大震災以前の阪神間というトポスは私にとって懐かしいものであるからだ。私は中島がエッセーの中で言及する店や場所の多くに心当たりがあり、実際に訪れたこともある。中島の生活史を知るうえでは朝日新聞のサービス誌に連載された「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」を読むのがよかろう。尼崎の歯科医の息子として生まれた中島は灘校(灘中と灘高を総称してこう呼ぶらしい)に進む。しかしそこで完全にドロップアウトした中島は神戸で「フーテン」生活を送り、シュルレアリスムやロック、ドラッグに馴染んでいく。この後、中島は有名大学に進む友人たちを横目に大阪芸術大学に進学するが、富田林の地の果てに所在する大学にはほとんど通うことなく異能のコピーライターとして頭角を現す。中島自身も記す通り、中学高校における異様なテンションの高さと大学における暗転の対比は印象的である。しかし中島によるとさらにこの後、「超絶的に明るい、おじさん時代」が横たわっているとのことであり、私が知っているコピーライター、劇団の主宰者、放送作家や作家といういくつもの顔をもつ中島はこれ以後のことであろう。
 前置きが長くなった。本書には未発表の二編を含めて、1989年から2004年の間に執筆された15編の短編が収録されている。私は中島の短編をずいぶん読んだつもりであったが、それでも読んだことがある短編はごくわずかであった。もっともどの小説もテイストとしてはよく見知ったものであり、ホラーやロック、小噺、プロレスといったおなじみのテーマが満載されている。この中で未発表の二編、特に表題とされた「美しい手」は中島としてはかなり異質の、抒情性の高い佳作である。編者の解説によればこれらの小説の原稿は死後に発見され、おそらくは中島が広告代理店に勤務していた1983年から86年の間に執筆されたまま放置されていたであろうとのことだ。つまり中島としても最も初期の作品である。「美しい全ての手は哀しい。/封も切られず捨てられた手紙のように哀しい。夜明け前のガソリン・スタンドのように哀しい。ささくれたヴィオラの弓の馬の毛のように哀しい」という詩的な文章に始まり、断章風の文章が連ねられている。小噺風の断章もあれば、回想風の断章もあるが、最後に落ちをつけてまとめるあたり、才人たる中島の片鱗が早くもうかがえる。先に異質と記したが、確かに作家として正式にデビューする以前に執筆されたと思しき冒頭の二編は本書に収められたほかの短編とはテイストがやや異なる。しかしこのような抒情性は決してほかの小説に認められない訳ではない。例えば「今夜、すべてのバーで」という長編はアルコール依存症として入院した中島の自伝的な小説であり、例によって飲酒をめぐるドタバタの繰り返しであるが、読後になんともいえない寂寥感が残ったことを覚えている。おそらくそれは中島の破滅願望と関わっているだろう。周知のとおり、中島はしばしば著書の中で自らの自殺念慮について記しているし、2003年には大麻取締法で逮捕されている。突然の死も飲酒した後の階段からの転落が原因であった。躁鬱病、ドラッグ、アルコール依存は長編短編を問わず中島の小説の主題系を形成しており、エッセーもそれに関連した内容が多い。そしておそらくその裏返しであろうが、中島は人として常に一種の含羞を漂わせていたように感じる。私は中島とは面識がないが、彼の死後、多くの関係者が故人を偲ぶ文章を発表している。それらを参照する限りにおいても彼が過激な書きぶりとは対照的なナイーヴな性格であったことは間違いないだろう。この意味で「美しい手」と「“青”を売るお店」という繊細な味わいの二編を冒頭に置いた構成は作家本人をよく知る小堀ならではの配慮であり、「私は『美しい手』が出版されれば、もう編集者を辞めてもいいと思った。この作品が陽の目を見るまでは死ねないと思った」という述懐もあながち編者としての気負いばかりではなかろう。中島は早世したが、よい編集者に恵まれたと思う。
 ほかの作品にも触れておこう。いずれも甲乙つけがたい怪作揃いである。「日の出通り商店街 生き生きデー」は商店街の日常に年に一度、誰を殺してもよい日がめぐってくるという設定のドタバタ劇。筒井康隆の「銀齢の果て」なども連想されようが、中島らしく格闘技に関する蘊蓄が随所で語られる。格闘技といえば「お父さんのバックドロップ」も実在のプロレスラーを念頭に置いた一種のファンタジーである。「ねたのよい」と「寝ずの番」はそれぞれロックバンドのギタリストと噺家のプロフェッショナリズムと関わる短編。いずれも中島の実体験と関係しているのではないだろうか。前者は伝説のロッカー、山口富士夫へのオマージュと呼ぶべき作品であり(このレヴューを記すために確認したところ、山口も喧嘩の仲裁に入って突き飛ばされ、脳挫傷で2013年に没している。因縁というべきであろうか)、後者は噺家の師匠の死後に集った弟子たちによる師匠をめぐる艶笑小噺であり、この類の下ネタを中島が愛好していたことも想起される。「ココナッツ・クラッシュ」と「琴中怪音」はいずれもどこともしれない国における一種の奇譚であり、中島敦を連想させるなどと書けば褒めすぎであろうか。「邪眼」と「EIGHT ARMS TO HOLD YOU」はいずれもグロテスクな味わいの短編である。私はこれらが収められた「人体模型の夜」こそ、中島の短編集中のベストではないかと思う。この短編集に収められた短編は海外で言えばロアルド・ダールあたりを彷彿とさせる奇妙な後味を残す。小松左京や筒井康隆、かつては日本でもSFの分野を中心にこのような書き手、このような短編が多く発表されていたが、近年ではあまり読んだ記憶がない。「クロウリング・キング・スネイク」と「DECO-CHIN」も中島らしい短編だ。前者は蛇へと変身していく姉の姿をコミカルに描き、後者はロッカーによる自らの身体毀損、身体改造を主題としている。特に後者は相当にグロテスクで反倫理的な内容である。本書の巻末、「本書のなかには今日の人権意識に照らして不適切な語句や表現がありますが、時代的背景と作品の価値にかんがみ、また著者が故人であるためそのままとしました」という但し書きは明らかにこの短編を指している。しかし明治大正の小説ならばともかく、10年ほど前に書かれた小説に対して「今日の人権意識」もあるまい。逆にこの点は中島の確信犯的な悪趣味を反映している。そして転落事故の三日前に脱稿され、ゲラが出た時に著者は集中治療室にいたというこの短編をあえて選んだところに編者の思いが反映されているように感じた。
 本書に先だって刊行され、同様に「今日の人権意識」云々といったエクスキューズが付された「中島らも エッセイ・コレクション」とともに、本書は特に初めて中島に接する読者に対してはよい導入となるだろう。しかしこれはまだ序の口にすぎない。それぞれの短編をさらに過激にしたような長編がいくつも存在するし、そもそも小説、エッセーというカテゴリーからは抜け落ちる多くのテクスト、コントや悩み相談への回答、広告、漫画や対談の中にこそ、この作家の本質を垣間見ることができるのではないだろうか。テクストの無秩序な広がりこそが中島らもという鬼才の輪郭をかたちづくっており、それゆえ事故による早世が惜しまれるのだ。しかしあえて問うならば、かかる夭折を本人が無意識に欲していたということはありえないか。私は先に「阪神大震災以前の阪神間というトポス」について論じた。1980年代にあって阪神間モダニズムの揺籃の地、尼崎から神戸にいたる地域は気候においても風土においても一種のパラダイスであった。しかし1995年の阪神大震災によって、この地域は壊滅的な打撃を受けた。幼い頃より親しみ、とりわけ青年期を過ごした美しい街が文字通り灰燼に帰したことを中島はどのように受け止めただろうか。私の知る限り中島に阪神大震災に言及した文章やエッセーはないように思う。しかし逆にこの不自然な沈黙こそが、中島の思いを暗示しているのではないだろうか。最初に述べたとおり、本書に収められた小説はほとんど全てが震災以後に執筆されている。これに対して叙情性に富んだ二つの短編、あるいは「今夜、すべてのバーで」といった小説が震災以前に執筆されていたことは何かしらの意味があるのであろうか。中島の自己破壊衝動、生に対するペシミズムというよりニヒリズムについてはいくつかの理由を想定することができる。それは生来のものであったかもしれず、薬物やアルコール依存の副産物であったかもしれない。しかし私は震災のトラウマもまたそこに大きく働いているように感じるのだ。思うに中島が世に出た1980年代とはおそらくこの国にとっても最も幸せな時代であった。それから二つの震災を経験し、私たちは経済的な余裕、そして精神的な余裕を失っている。今日、私たちを蝕む自己破壊衝動とニヒリズムに対して、中島はいわば「炭鉱のカナリア」として自らの生を代償として警告したのではなかっただろうか。
# by gravity97 | 2016-10-12 23:02 | エンターテインメント | Comments(0)

飯島洋一『建築と歴史』

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 飯島洋一の批評については以前『「らしい」建築批判』についてレヴューした。新国立競技場をめぐる騒動から語り始める『「らしい」建築批判』も安藤忠雄や伊藤豊雄の「らしい」建築を完膚なきまでに批判する攻撃的な論攷であったが、本書もまたきわめてポレミックな批評である。「建築と歴史」というタイトルは必ずしも内容を十分に反映しているとは思えない。もちろん建築や歴史について論じられる部分もあるのだが、私の考えでは本書のテーマは「日本の建築の歴史」がいかに他者、すなわち西欧によって捏造されたかという問題と関わり、一種のオリエンタリズム批判が主題とされている。そして次に述べる通り、前著同様に建築のみならず美術の分野にも拡張可能な思考が繰り広げられていた。
 本書は一昨年から昨年にかけて金沢21世紀美術館で開催された「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」に対する深い違和感から説き起こされ、この違和感は続く章においても繰り返し表明される。私は未見であるが、この展覧会はポンピドーセンターの副館長フレデリック・ミゲルーが企画したという。飯島がこの展覧会に加える批判は多岐にわたるが、まず日本の現代建築の「起源」として第二次世界大戦の戦災を出発点としてとらえ、さらに日本の場合、そのような「起源」が複数存在するという展覧会の構成に関するミゲルーの認識が「完全な誤り」であり「致命的な誤り」であると飯島は主張する。この点は続く章においていくつかの観点から分析されるが、その前に美術館にとっても看過できない問題が提起される。まず単純な疑問から始めよう。なぜフランスのポンピドーセンターの副館長が日本の現代建築に関する展覧会を企画するのか。飯島は建築とは芸術でありえないことを繰り返し主張してきたが、図面や模型が美術館に取り込まれることによって、美術品とみなされる風潮が一連のアンビルドの建築家(いうまでもなくその代表が先日急逝したザハ・ハディドだ)らの活動を契機に生じてきた。私はこのような状況を70年前後に作品の商品化を拒否したコンセプチュアル・アートが美術館に収蔵されていった過程と比較して検証したい誘惑に駆られる。本来ならば建築の施工とともに意味を失うはずの図面や模型を自らのコレクションに加えようという美術館の欲望を飯島は批判する。「この金沢での大規模な戦後日本建築展の終了後に行われる、展覧会そのものより重大なイベントは、今回、この会場に展示された日本の戦後建築の膨大なコレクションの、ポンピドーセンターによる、あるいはミゲルーによる『収集』のはずである。つまり、この展覧会の終了後に行われるのは、ミゲルーによる展示品の『買い取り』となるはずなのである。まずは、どの建築家のドローイングなり模型なりを買い取ろうか、その『オークションの場』が実はこの金沢の大規模な展覧会の真の正体なのである。つまり、この展覧会は、本来、展覧会がするべきことと、その結末が、全く逆転している。ミゲルーはこの展覧会を開いたから、その展示品を買い取りたくなったわけではない。事実はその逆である。彼は最初から図面や模型を買い取りたいからこそ、この展覧会を開いてみせたのである」飯島はこれを西欧の「異国趣味」の一例とみなして、ナポレオンからフランク・ロイド・ライトにいたるエキゾチックな遺物の収集の歴史を論じる。飯島はかかる欲望と一連のスター建築家にみられる、「建築におけるアート化現象」が連動してかかる展覧会として結実したとみなす。後者の問題は『「らしい」建築批判』で詳細に論じられたとおりである。私が関心をもったのは、ミゲルーのごときキューレーターの欲望が美術の領域でもしばしば認められることだ。この30年ほどの間に、外国人キューレーターの手によって日本の戦後美術を検証する展覧会が次々に企画されたことは知られているとおりである。同じポンピドーセンターであれば、1986年の「前衛の日本」、あるいは1994年、グッゲンハイム美術館ソーホー分館における「戦後日本の前衛美術」、最近ではこのブログでもレヴューしたニューヨークにおける具体美術協会や1960年の前後の東京に焦点を当てた展示。そこで提起された美術史観の妥当性について今は措く。問題は日本において自国の建築史や美術史がしばしば西欧という他者の目をとおしてかたちづくられてきたという事実である。もちろん私は千葉成夫や椹木野衣のそれなりに独特の研究や論考を高く評価するが、展覧会は現実の作品をとおして検証されるため、作品の所有という欲望と直結している。ミゲルーによる「買い取り」、すなわち展覧会によって権威づけた作品を関係者が購入するという一種のマッチ・ポンプは現代美術の領域ではさらに露骨に進められ、具体美術協会の一部の作家に明らかなとおり、投機的な様相さえ帯びている。しかしこれは単に西欧が日本を収奪するという単純な図式に収まる問題ではない。飯島は次のようにも説く。「展覧会の後に、自分たちの建築の図面や模型を、是非ともフランスの名のある美術館のパーマネント・コレクションとして収集してほしいという日本の建築家たちの現実主義的な願望も、十分に作動している」飯島はこれを建築家(非西洋、被支配者)とコレクター(西洋、支配者)の「共犯関係」と論じる。近年のにわかな日本の現代美術ブームを想起するならば、建築の分野に限定された問題とはいえないだろう。次いで飯島は「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の構成をいわば逐条的に批判する。この過程で例えばリーダーズ・ダイジェスト日本支社を設計し、展覧会で取り上げられているアントニン・レーモンドが一方で戦時中、アメリカ軍の空襲に際して焼夷弾の効果を最大にするために日本家屋のレプリカを作って燃やす実験において大きな役割を果たしたといういわば建築史の暗部を明らかにする。なんのことはない。日本建築の「起源」であり、無数の人々が惨死を遂げた空襲の焼野原、それに手を貸した人物が展覧会の中では顕彰されているのだ。
 本書の中ではむしろ余談に当たる部分であろうが、「コレクションの欲望」と題された最初の章の最後で語られる金沢21世紀美術館への批判は私も強く同意する。それは単に俎上に上げられた展覧会のみならず、この美術館の方針や建築と深く関わっている。飯島は初代館長が『超集客力革命―人気美術館が知っているお客の呼び方』(それにしてもなんというタイトルであろうか)の中に記した「極めて『下品』な物言い」(書き写すだけでも汚らわしいので直接本書を参照していただきたい)を引用した後、次のように述べる。「こうして美術館というものの本来の意味が、ますます薄れてきている。きちんとしたかたちで展示品を楽しみたい普通の人達のことを、公共美術館の責任者がまるで考えていない。お金儲けや有名になることばかりに、あるいは美術館としての金銭的な成功ばかりに熱心である。つまり、ここにあるのは資本主義の『下品な俗物趣味』だけなのである。「美術館冬の時代」にあってこの異形の美術館を華々しい成功例として称賛するばかりの美術ジャーナリズムの中にあって私は初めて真っ当な批判を聞いた思いがする。以前にも記したが、私は美術館の中でいつも迷子になり、次の順路を探すのに一苦労するSAANAによる建築が美術館として優れていると思ったことは一度たりともない。飯島も言及しているが、別の県で前身となった美術館の理念やコレクションを一顧だにせず、同じ建築家を用いて、新生美術館なる奇怪な構想を推進している人物がかつて21世紀美術館の立ち上げに関わり、先日レヴューした「キセイノセイキ」展において作品を検閲した学芸課長であることをここに書き留めておきたい。
 「近代の『起源』」と題された第二章においては「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の鍵概念たる「起源」の恣意性が写真やモードといったジャンルを引きながら論じられ、さらに「近代」という概念が多角的に検証される。「起源」という発想が恣意的であることは特に驚くべき指摘ではないが、ミゲルーは展覧会をとおしてルネッサンスという起源から直線的に進化する西欧の建築に対して、日本においては複数の起源が存在すると主張していた。飯島は近代、モダンという概念が直線的で不可逆的であり、「時間は反復不可能である」という感覚に根拠を置いていると説く。西欧とは別の根拠に根ざす場所として日本が想定されており、同様の認識のオリエンタリズムは飯島も説く通りロラン・バルトやレム・コールハースにも認められる。ここでも本書の問題圏からやや逸脱して、モダンが単線的で反復不可能であるという理念に対して、先日このブログで論じたカルロス・フェンテスの「テラ・ノストラ」の異質性を確認しておこう。この長大な小説が複数性と反復性を原理としていることは論じたとおりであり、この点はモダンとは異なった原理は日本のみならず西欧以外の地域にしばしば認められることを暗示している。いや、モダンという概念、単一の起源という発想こそ西欧という限定された場における特殊な事例ではないか。しかしその特殊が自らを絶対として他者を自分のために裁断する時、サイードのいうオリエンタリズムが発生するのだ。続く第三章「黒船の意味」において飯島は歴史を遡行し、文字通り黒船の来航、江戸末期から明治以降において「近代建築」がいかに日本に着生していったかを検証する。結論として飯島は明治以降、日本は西欧を全て真似ており、結果として日本も西洋近代と同様に一つの起源に依存していると結論づける。したがって複数の起源を主張するミゲルーの展覧会コンセプトは破綻している。飯島は次のように結語する。「日本は、明治以降、自分たちの『伝統』ですら、支配者である西洋人に、『これがそうだ、これがあなたたち日本人の「伝統」だ』と、教えてもらうのである。繰り返すが、こうして西洋人が見つけたものだけが『日本的なるもの』として、日本の建築史に書き込まれることになる」ミゲルーによる展覧会がこのような「日本の建築史」の最新の上書きであることはいうまでもないが、私はこの言葉が建築のみに向けられたものだとはとても思えない。美術史においても私たちは自らの「正史」を欧米によって書き留められている。以前、このブログでも触れたが、先年、ニューヨーク近代美術館で「TOKYO 1955-1970 ; A New Avant-garde」が開催された折に「戦後からポストモダンへ」という日本の戦後の美術批評のアンソロジーが刊行された。編集に日本の批評家も関わっているとはいえ、他国の美術のみならず美術批評を英語によって再編成しようとするMOMAの姿勢は端的に植民地主義のそれだ。もちろんそれに類した試みが日本でなされたことはないから、このようなアンソロジーは一定の意味をもつかもしれない。ただしそれはあくまでも英語を解す言語圏にとって手っ取り早い参照例としての意味にすぎない。しかしこのようにして非西洋、被支配者の美術史が西洋と支配者によって歴史化/上書きされていくのである。
 続く第四章「桂と伊勢」でも語られる問題は基本的に同一である。グロピウスやブルーノ・タウトらによって例えば桂離宮の「近代性」が「発見」される。日本人ではなく西欧の目を通してこれらの建築が「発見」されたことこそが重要であり、丹下健三らの「伝統論争」もこの射程の中にあると飯島は説く。そしてここでもMOMAの政治性が論じられる。1954年から55年まで近代美術館の中庭に吉村順三の手で書院造りの建築が設えられて評判を呼ぶ。飯島はこの経緯を丹念にたどったうえで、この背景にアーサー・ドレクスラーやロックフェラー三世といった近代美術館の関係者がおり、彼らの目的が「日本が共産主義に傾かないように監視し、アメリカは日本の文化に関心をもっているという戦略的な布石を投じていた」と説く。以前にこのブログでニューヨーク近代美術館が組織した1959年の「新しいアメリカ絵画」について論じた。この展覧会がアメリカ絵画の優位をヨーロッパに見せつけ、自由主義陣営の盟主たるアメリカの文化的優越を誇示するものだったとするならば、逆に極東に対しては被支配者の文化を支配者の中に取り込むという一種の懐柔策が用いられていたということであろう。日本の建築界も美術館が主導する冷戦下の文化戦略に組み込まれていた訳である。
 最も長い最終章「黒と戦災」では再び戦時下の日本における空襲の問題から語り起こされる。何度も論じる通り、問題とされた展覧会が戦災を起源として日本の建築史を見直すものであるから、かかる反復は意味をもつ。なぜ日本人が空襲あるいは原爆といった蛮行の犠牲とされたか。飯島はそこに欧米人の人種的偏見を認める。このような偏見は日本人に対するものだけであっただろうか。いうまでもなく答えは否だ。支配者である西洋、とりわけヨーロッパにおいてもユダヤ人という人種の最終解決=絶滅政策が進められていた。飯島はヴィシー傀儡政権によってフランスがかかる蛮行に積極的に加担した点を実証したうえで、植民地主義こそがかかる大量虐殺の起源でることを論じる。そしてミゲルーが展示の中で空爆による破壊を象徴する部屋を「黒」によって表現したことに着目し、「黒」の多義性を論じたうえで、いよいよ歴史という問題へと向かう。フーコーからハバーマス、デリダ、ポール・ド・マンそしてサイードといったビッグネームを次々に引用しながらポストモダン、歴史修正主義そして言語論的転回といった問題が自在に論及されるこの章は本書の白眉であり、簡単な要約を許す内容ではない。しかしながら高度で抽象的な問題を扱っているために、具体的な例証に欠け、建築との関係が希薄である印象も免れえない。ある程度予想されたことではあるが、本書は「支配者、西欧によって選び取られた日本の文化の最新版」である「クール・ジャパン」批判によって終わる。それは西欧の日本に対するエキゾティシズムの一変種に過ぎないからだ。
 私は美術に関わる問題意識に過度に引きつけて本書を読んだかもしれない。しかしここで語られる問題は近現代美術の領域においてもほぼ正確に反復されている思いがする。日本において「近現代美術史」なるものが果たして存在するか。私は千葉成夫が「戦後美術逸脱史」において無意識的に、椹木野衣が「日本・現代・美術」において意識的に問うた問題こそまさにこの点に関わっていると感じる。後者に通底するペシミズムについてはこれまでも何度か論じた。「建築と歴史」は次の一文で終えられる。「西洋と東洋の力の非対称性、あるいは力の差異こそが、黒船以来現在までずっと続いている、世界資本主義市場における日本の真の姿である。/このような日本が置かれている本質的な事態を皮肉にも再確認させてくれたのが、この「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」展の、唯一の功績であった、と言えるのかもしれない」飯島の結論もまたきわめてペシミスティックであることは偶然の一致であろうか。
 今や私たちは深いペシミズムに冒されている。「一億総活躍」やら「女性が輝く」やら、現政権が打ち上げる、戦前を連想させるスローガンに反して、かかるペシミズム、いやもはやニヒリズムは今の日本の社会に深く瀰漫しており、この国を蝕んでいるように感じられる。政治家はもとよりマスコミから大学まであらゆる領域で劣化が進行している。「戦災から震災まで」という本書のサブタイトルは暗示的だ。ミゲルーの展覧会があえて2010年で終わっている点を飯島は批判しているが、2011年以後、私たちは愚かな為政者たちのもとで「震災から戦災まで」を今まさに経験しつつあるのだ。
# by gravity97 | 2016-10-02 21:21 | 建築 | Comments(0)

やなぎみわ「日輪の翼」

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 やなぎみわ本人から「日輪の翼」を舞台化したいと聞いたのは東日本大震災の直後であった。あれから5年、ついに実現したこの公演に千秋楽の大阪会場で立ち会う。もっとも既に横浜や高松における公演の噂は耳にしていたし、舞台として使用される移動舞台車(ステージトレーラー)を私は二年前の横浜トリエンナーレ、昨年のPARASOPHIAの会場でも目にしていたから全く未知の舞台という訳でもない。それにしても中上健次の「日輪の翼」というそれ自体とんでもない小説を、やなぎが舞台化するのである。大きな期待とともに私は名村造船所大阪工場跡地を訪れた。今名前を挙げた二つの展覧会についてはすでにこのブログでレヴューしており、会場となった名村造船所についても「クロニクル・クロニクル」という展覧会のレヴューで触れている。様々な記憶が喚起される一夜となった。今回は小説と舞台の内容にも深く立ち入って論じる。
  「日輪の翼」のあらすじを述べることはさほど難しくない。中上の小説の中では最も読みやすいものの一つであり、私は大阪に向かう車中で再読して舞台に臨んだ。路地が消失した後、オバと呼ばれる七人の老婆(やなぎの舞台では五人とされていた)を冷凍トレーラーの荷台に乗せて巡礼の旅に出た若者たちの物語であり、熊野を起点に伊勢、一宮、諏訪から瀬田、出羽、恐山、そして東京へと日本各地の聖地をめぐるロードノベルである。道行きの途中で息の絶えるオバもいれば、失踪するオバもいる。淫蕩な血を引いた路地の若者たちは行く先々で女を漁り、女と交わる。高速道路を疾駆する鋼鉄の蛇のごときトレーラー。トレーラーは男根であり母胎でもある。卑猥な言葉で青年たちをからかい、どこであろうとオカイサンを炊くオバたち。ここには中上の小説でおなじみのイメージがかつてなく強い喚起力とともに繰り返し現れる。おそらくこの点もやなぎに舞台化を決意させた理由の一つであろう。そもそもオバという存在自体、やなぎの作品にとって異質ではない。My Grandmothers シリーズを連想すればよい。生命力をみなぎらせた老婆たちの姿に私たちは既に見慣れているし、複数の女性が同じコスチューム(今回は「浮浪者風」か)を身にまとうという発想も初期のエレベーターガールをモティーフした作品以来一貫しているではないか。若衆と老婆たちの旅路の果ては東京だ。皇居に参拝し、「天子様がここにおってくれるさか、わしらクズのような者が、生きておれるんやねェ」と嘆賞した老婆たちは忽然と消え去り、二人の若者だけが残される。「アニ、乗らんかい?これからまた、俺ら旅じゃ」最後までオバたちに付き添った二人の若者、ツヨシが田中さんに声をかける場面でこの小説は幕を閉じる。
 最初に中上の小説における「日輪の翼」の位置について説明しておこう。ヨクナパトーファならぬ紀州サーガと呼ばれる中上の小説群にはいくつかの系統が認められる。まず「岬」「枯木灘」「地の果て 至上の時」のいわゆる秋幸三部作は、路地と呼ばれる紀州の被差別部落に生を受けた秋幸という青年が異母妹との近親姦と異母弟の殺害という二つのタブーを犯す物語である。蝿の王とも呼ばれる秋幸の実父、龍造との葛藤も重要なテーマであり、「地の果て 至上の時」において龍造は自ら縊死するが、龍造の暗躍によって秋幸らの生活の場であった路地も消滅した。一方、中上には「千年の愉楽」から「奇蹟」にいたる淫蕩で美男、暴力的で短命な男たちの一生を描いた一連の作品を発表している。「日輪の翼」はこれら二つの系統が交差する場所に生まれている。すなわち一方で本書は路地が消滅した後、路地の若者たちがいかに生きたかという路地の後日譚であり、この系列からはさらに「日輪の翼」の続編とも呼ぶべき「讃歌」そして未完となった「異族」が派生する。一方で本書は路地に生を受けた若者たちの列伝の一部としても読むことができる。「日輪の翼」には二人の主人公、ツヨシと田中さん、そしてマサオとテツヤという四人の若者が登場する。不吉な宿命を帯びた若者たちのリストにはいくつもの名を追加することができる、今回の舞台でも名が呼ばれた半蔵とオリエントの康、あるいは郁男や文彦、「千年の愉楽」においては自らが産婆として取り上げ、美形で短命という宿命を生きた若者たちをオリュウノオバが回想する。私が好む記号論的な思考に立つならば前者の系列は路地をめぐる継起的で唯一的な換喩性と関わり、後者の系列は路地をめぐる範列的で選択可能な隠喩性と関わる。両者が交差する点に成立するのが「日輪の翼」である。
b0138838_21291916.jpg 舞台に戻ろう。私が知る限り、やなぎが原作を有する物語を舞台とするのは今回が最初である。しかし今述べた内容からも舞台化の困難さは理解できよう。原作においては移動が主題とされている。オバたちを乗せて高速道路を滑走する大型トレーラー。移動を主題とした物語を一つの場において演じることは可能か。やなぎは単純きわまりない解決策を提示した。すなわち現実の大型トレーラーを舞台とすることだ。台湾でカラオケやら選挙運動に使用される移動舞台車という特殊な車両と出会ったやなぎは、仕様を変更して日本に輸入した。満艦飾のトレーラーはそれ自体がオブジェであり、過去に大規模な国際展で披露されたことは先に述べた通りである。「日輪の翼」は熊野から皇居まで日本各地をめぐる息の長いロードノベルであるが、舞台でも原作に忠実にオバたちの行程がたどられる。ハツノオバの死、キクノオバの失踪、四つの乳房をもつララという風俗嬢との邂逅、原作のかなり細かいニュアンスまで織り込まれているため、直前に原作を再読していた私にとって演じられる物語を追うことはたやすかった。しかし二つの点で演劇特有の潤色がなされていた。まずこの舞台には「日輪の翼」のみならず、いくつかの中上の小説、とりわけ「聖餐」と「千年の愉楽」が色濃く反映されている。劇の中で「マザー、死のれ」という歌を繰り返す「死のう団」の歌手は小説「日輪の翼」においては「少年歌手」という名を与えられているが、「千年の愉楽」に登場した半蔵の息子であり、「聖餐」においては半蔵二世と呼ばれていた少年であるはずだ。あるいは劇中でオバらが歌う盆踊り歌は「枯木灘」から引用され、近親相姦の無残な結末を暗示した「きょうだい心中」であった。後述するとおりこの舞台は音楽劇でもあり、前半のクライマックスにおける歌とダンスの中には「千年の愉楽」に登場するオリエントの康の物語が挿入されている。もう一つの潤色は大型トレーラーの中で上演されるメインストーリーの脇にそれ以上に目を引く二つの舞台を配置したことだ。左側ではクレーン車から垂らされたロープを用いて二人の男女による曲芸的なパフォーマンスが行われ、右側のトラックの荷台ではポールダンスが繰り広げられる。いずれも相当に猥褻なパフォーマンスであり、「神さん、孕ましたろか」と伊勢神宮の石垣に股間を押しつけるツヨシの所作同様に、やなぎの知的で抽象的な舞台に親しんでいた私にはショッキングに感じられた。これまでのやなぎの演劇は映像が多用されることはあっても俳優の身体はさほど強調されることがなかったからだ。しかし「1924 Tokyo-Berlin」における香具師の口上が暗示していた見世物性、土俗性への関心が今回の作品には顕著に認められる。私は今回の舞台から寺山修司の一連の演劇を連想した。そもそもやなぎの写真作品も常に一種の見世物性を漂わせてはいなかっただろうか。
 先ほど述べた二つの潤色を経て、やなぎの「日輪の翼」はさらに深みを増して私たちの前に提示される。やなぎ自身が冒頭で述べるとおり、この劇は祝祭劇であり音楽劇である。原作においては明確に語られることがなかった「半蔵二世」つまり「少年歌手」を演劇の中に取り込むために、トレーラーの奥にはドラムのセットが設えられて、俳優たちは楽器をライヴで演奏し、タップダンスを披露する。野外劇で音楽が演奏される形式からは維新派が連想され、明らかにこの舞台は先日逝去した松本雄吉へのオマージュとしても構想されている。巻上公一らによる音楽も作品の大きな魅力を形作っている。「マザー、死のれ」という歌声は今も私の耳から離れない。これまでやなぎの演劇において、音声はイヤホン、電話やラジオといった媒介を伴い、間接的に伝えられる場合が多かった。これに対して今回はマイクロフォンが使用されていたとはいえ、俳優の肉声と楽器の生演奏が観衆に直接的に訴求し、生々しい印象を受けた。中上の原作を介すことによって演劇が血肉を得た思いがする。それにしても俳優たちが用いる紀州ダイアレクトは強烈だ。台詞の多くは中上の小説の話し言葉であるから、それは中上の言葉の強度でもあるだろう。今のところ具体的な典拠を中上の小説で確認することができていないが、冒頭でマクベスの三人の魔女ならぬ五人のオバたちが「きれいは汚い」という意味の言葉を発していたと記憶する。この傍らに「天子様がここにおってくれるさか、わしらクズのような者が、生きておれるんやねェ」という台詞を置く時、中上/やなぎのラディカリズムは明らかだ。ここでは天皇家と路地すなわち被差別部落の交換可能性が示唆されている。私は「日輪の翼」を初読した際にオバらが皇居を最終目的地としたことをやや不審に感じた。しかし俳優たちの肉声を通して、「アホな人」と「天子様」への思いが同等に語られる舞台を見て、この疑問は氷塊した。路地と皇居は等価であり、それゆえオバたちは失踪したのだ。路地はひとたび消滅することによっていまや熊野から東京の中心にまで遍在する。
 やなぎの「日輪の翼」を見ることによって、私は中上の「日輪の翼」について多くの新たな理解を得ることができた。しかしいまだに謎として残された問いもある。それはトレーラーの傍らで繰り返された曲芸やダンスである。右側のポールダンスについては由来を推測することができる。それは「軽蔑」の中で女主人公、真知子が得意としたダンスであろう。しかし巨大なクレーンから垂らされたロープにつかまってなされた男女の曲芸は一体いかなる意味があるのか。それが性交の暗喩であることはたやすく了解されるが、私はとぐろを巻くように置かれたロープは蛇の暗喩ではないかとも感じた。池に群がる蛇のエピソードは「日輪の翼」中、諏訪の章に記されている。さらにロープとポールが強い垂直性を秘めている点にも注目したい。「日輪の翼」はトレーラーによる移動という徹頭徹尾水平的なヴェクトルを有す小説である。秋幸の血統をめぐる時間的、あえていえば垂直的な物語が路地の消滅とともに終焉した後、かかる小説が執筆されたことは意味をもち、このような特性は「異族」においてさらにスケールアップされる。これに対して、演劇の中にあえて垂直的な軸を持ち込むことによって、私はやなぎが「日輪の翼」だけではとらえきれない中上の小説の豊かさを暗示しようとしたのではないかと感じた。それは血縁や家系と連なる物語であり、トレーラーの上でツヨシやオバたちの物語が進行する傍らで、男女二人の俳優によって、メインストーリーとは直接の関連をもたず、セックスを強く連想させる演技がひたすら続けられたことの意味ではないだろうか。
 やなぎの「日輪の翼」においても「アニ、乗らんかい?これからまた、俺ら旅じゃ」というツヨシの台詞とともに、トレーラーは私たちを置き去りにして出発する。あたかもそこで繰り広げられた情景がたまさかの夢であったかのように、トレーラーの周囲に配されていた舞台や小道具もいつのまにか撤収されている。夏芙蓉が描かれたトレーラーは大きなクラクションを一つ鳴らして夜の町へと疾走して去っていった。蛇行するトレーラーを見送りつつ、私はまた一つ素晴らしい舞台に立ち会えたことに感銘を覚えた。彼らと再び見(まみ)えることはあるだろうか。大阪公演の楽日、横浜、新宮、高松をめぐるツアーの文字通り千秋楽、なんとも深い余韻を残す感動的なフィナーレであった。
# by gravity97 | 2016-09-11 21:43 | 演劇 | Comments(0)