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 毎年、年末年始には数巻にわたる長編を読むことにしている。このブログでもディケンズの『荒涼館』やロレンス・ダレルの「アヴィニョン・クインテット」について論じた。昨年から今年にかけて準備したのは私にとっても初めて読む作家、チリのロベルト・ボラーニョの大作『2666』。大判の単行本、上下二段組で850頁に及ぶ大長編である。読み終えて唖然とする。なんとも超絶的な怪作であった。
 最初に遺族による注記がある。遺族という言葉が暗示するとおり、ボラーニョは50歳で早世し、本書は彼の遺作である。後から論じるとおり、このような事情も本書の内容と無関係ではない。注記によれば作家は五章から成る本書を、それぞれ五巻の分冊として刊行することを遺言として遺した。しかし彼の友人であり文学上の助言者のアドバイスにしたがって分割せず一巻の書として刊行された。「病状が悪化して最悪の事態に至らなければ、彼はきっとそうしていたことでしょう」と注記の末尾にある。最初に種明かしをしてしまえば、五つの章はまさに絶妙の関係で結ばれている。この長大な小説にあっては末尾と呼ぶべき最後のわずか20頁ほどで一挙に視界が晴れるかのように、五つの章、五つの物語が焦点を結ぶ。私が超絶的と述べたのはこのことである。この点で今挙げたダレルの「アヴィニョン・クインテット」と比較することは意味があるだろう。アヴィニョン五重奏も複雑な構造をもつ小説であり、本書と同じ五つのパートから構成され、それぞれが独立した物語として、数年の間隔を空けて出版された。しかしアヴィニョン五重奏は全体として一つの物語のとしてのゆるやかな結構を保っており、五巻の物語をこの順番に違和感なく読み進むことができる。これに対して、「2666」において、読者は章ごとに次々に全く別の物語の中に投げ込まれるかのような思いにとらわれる。この印象をさらに強めるのは五つの章の量的な不均衡だ。最初の三つの章がそれぞれ150頁、60頁、100頁ほどであるのに対して、後半の二つの章は260頁と230頁余りの量がある。注記によれば分冊としての刊行ペースや出版社との契約金まで指示が残されていたとのことであるから、本書を完成された最終稿とみなしてもよかろうが、作者の死後に刊行されたという事情を勘案するならば、このようないびつな分量の配分が初めから意図されたものであったか否かについては若干の疑問が残るし、この点は作品の評価とも関わっているだろう。以下、今回は内容についてもかなり踏み込んで論じるため、白紙の状態でこの小説に向かいたい読者はまず書店か図書館へと足をお運びいただくのがよかろう。
 それにしても奇怪な小説である。「批評家たちの部」と題された第一章は次のような文章で始まる。「ジャン=クロード・ペルチエが初めてペンノ・フォン・アルチンボルディを読んだのは1980年のクリスマスのことだった。当時、彼は19歳で、パリの大学でドイツ文学を学んでいた」批評家たち、というタイトルが暗示するとおり、冒頭の章ではアルチンボルディというドイツの小説家をめぐり、彼の小説を研究する国籍を違えた四人の批評家たちが主人公となる。フランスのペルチエ、イタリアのピエロ・モリーニ、スペインのマヌエル・エスピローサ、そして紅一点、イギリスのリザ・ノートンである。アルチンボルディなるドイツ作家は架空の存在であり、言及される多くの小説も実在しない。四人の批評家たちはヨーロッパ各地で開催される学会やセミナーを通して互いを認知し、親密な交際が始まる。四人のうち、モリーニは多発性硬化症のため車椅子の生活を余儀なくされているが、世代が近いこともあり、四人は様々な機会をとらえてそれぞれが住む都市を行き来して次第に交流を深める。ペルチエとエスピローサは次第にノートンに好意を抱くようになり、性的関係をもつ。セックスは明らかに本書を通底する主題であり、彼らの関係は三人でのセックス(メナージュ・ア・トロワ)にまで発展する。第一章の隠れた主人公が作家アルチンボルディであることは言うまでもない。冒頭に1980年という年記があることから理解されるとおり、本書は近過去を舞台としており。アルチンボルディが1960年代から小説の発表を始めたことも記述されている。しかしアルチンボルディは公の場には決して姿を現さず、原稿は多く郵便を介して出版社に送りつけられる。四人の批評家たちはアルチンボルディの消息を探る。北海に面した寒村で偶然にアルチンボルディに出会った作家、出版元の社長夫人、彼らは作家と面識のある人物を訪ねるが、非常に背の高いドイツ人であることが判明しただけで、その行方は杳として知れない。トゥルーズで開かれたセミナーで彼らはつい最近アルチンボルディに会ったというメキシコ人と知り合う。彼を通してアルチンボルディがメキシコ北西部、アメリカ国境のソノラ州にあるサンタテレサという街を訪れたことを知った批評家たちはその街を訪ねてアルチンボルディの痕跡を探す。この街については彼らがそこへ赴く前に一つの不吉な噂が新聞記事として書きつけられていた。それによればこの街では100人を超す女性たちが殺されており、犯人は特定されていないというのだ。サンタテレサを訪れた批評家たちはサンタテレサ大学の文学部長から「アルチンボルディの専門家」であるアマルフィターノという教授を紹介され、彼とともに調査を続けるが収穫はない。報われない探索。劇的な展開を欠いたまま第一章が終わる。そして四人の批評家はこれ以後、この小説には一切登場しない。しかし既にこの章の中にあたかも通奏低音のごとく物語とは直接関係のない不吉なエピソードが散りばめられている。例えばエスピノーサとペルチエによるパキスタン人のタクシー運転手に対するほとんど理由のない暴行、民芸品の売り子をしている少女とエスピノーサのペドフィリア(小児性愛)に近いセックス、自ら右手を切り落とし、切り落とした腕に防腐処置を施したエドウィン・ジョーンズというイギリスの画家のエピソード。暴力と性愛というモティーフはこの長い小説につきまとい、後述するとおり第四部では直接的な主題となる。
 第二章は「アマルフィターノの部」と題されている。題名が示すとおり、この章では第一章に登場したサンタテレサ大学の哲学教授、アマルフィターノが焦点化される。メキシコ西北部の殺伐とした砂漠の町に娘と二人で住む大学教授はバルセロナからこの地に流れ着き、彼の妻は出奔したらしい。前章で彼がアルチンボルディの研究者であることが明らかとされているが、逆にこの章ではドイツ人作家についての言及はほとんどない。代わって美術史を学んだ者にとっては興味深いエピソードが開陳される。書斎に届いた箱の中からアマルフィターノはラファエル・ディエステという書き手の『幾何学的遺言』という見覚えのない本を見つけ(この本は実在するらしい)屋外に物干し用ロープに吊るすという奇妙な処置を施す。いささかのディレッタンティズムとともに私はこの一節を理解した。マルセル・デュシャンだ。デュシャンは1919年、滞在中のブエノスアイレスから妹のシュザンヌに幾何学の教科書をバルコニーに放置し、風に晒されたままの状態で放置せよという指示を与え、《不幸なレディメイド》と名づけて作品化した。今や写真のみによって知られるレディメイドの挿入に私は当惑した。先のエドウィン・ジョーンズの挿話、あるいは明らかにアルチンボルドを連想させる作家の名前、この小説の中にはさまざまなかたちで美術への謎めいた参照がなされる。そしてこの章においてもサンタテレサにおいて引き続く女性の連続殺害事件について言及される。続く第三章「フェイトの部」の主人公もアフリカ系のアメリカ人、新聞記者のオスカー・フェイトという全く未知の人物だ。フェイトは不慮の死を遂げた同僚の代わりにボクシングの試合の取材を命じられる。フェイトが赴いた土地の名を聞いて、私たちはようやくばらばらの物語の接点を知る。いうまでもなくメキシコ、ソノラ州のサンタテレサである。サンタテレサを訪れたフェイトは同じ試合の取材に訪れた記者たちのたまり場で現地の怪しげな男たちと知り合いとなり、若い女性をターゲットにした連続殺人事件が頻発していることを知る。荒廃した街でフェイトは第二章の主人公、アマルフィターノの娘、ロサと会い、二章と三章はかろうじて結びつく。メキシコシティからこの事件を取材に来た女性記者は、この事件を調査する新聞記者たちが何人も誘拐され、行方不明になっているという不気味な噂をフェイトに伝え、まもなく収監されている事件の容疑者と面会すると述べる。物語全体の輪郭は相変わらずあいまいなままであり、この章の最後に記された情景の意味はおそらく本書を読み通して初めて了解されるはずだ。
 続く「犯罪の部」という長大な章には誰もが圧倒されるだろう。なによりも300頁近い分量があるにもかかわらず、その大半は1993年に始まる連続女性殺人事件において死体が発見された状況の説明に終始するからだ。たとえばこんな感じだ。「二月半ば、サンタテレサの中心街の路地で、ゴミ収集人が新たな女性の遺体を発見した。年齢は30歳前後で、黒いスカートと胸元の開いた白いブラウスを着ていた。ナイフで刺し殺されていたが、腹と腹部には何度も殴られた形跡があった」ほとんどの場合、犯人は不明であるが、時に恋人や知人が犯人と名指しされることもあるから、この小説は犯人捜しのミステリーではない。「フェイトの部」の中の記述と殺害の状況が一致することによって犯人が漠然と想定される場合もあれば、犯人の特定とはつながらない何人かの容疑者が拘束される場面も描かれている。この小説において話者は神の視点をとるから、殺人者の語りを入れることも可能なはずであるが、そのような語りは意図的に排除されている。殺人の凄惨な状況は地の文の中で淡々と語られ、列挙される被害者の数、延々と続く殺害状況の説明の反復に読者は早々に呆然とする。終わることのない殺害状況の記述の間に、教会を荒らし大量の放尿をして立ち去る瀆聖者の暗躍、捜査官と精神病院院長との性愛、TVに出演して殺人を糾弾する千里眼の女、刑務所の中での容疑者の虐殺、FBIの専門家の訪問、関連しながらも雑然としたエピソードがいくつも重ねられる。この章を読むと、私たちは1990年代のメキシコの地方都市が置かれた殺伐とした状況をきわめて具体的に理解する。全くの偶然であるが、本書を読んでいる途中、私は『世界』で連載の始まったメキシコの麻薬戦争に関するルポルタージュを目にして驚いた。実はこの小説に描かれている状況はフィクションではなく、現実なのである。「マフィア国家という敵」と題されたルポルタージュにおいてもサンタテレサならざるシウダー・ファレスという街で実際に麻薬にからんだ誘拐、殺人、強姦といった犯罪が日常茶飯事のように発生していたことが報告されている。フィクションと現実の間を往還するこの長い章は97年の末に発見された身元不明の女性の遺体についての記述によって幕を閉じる。
 最後の章が「アルチンボルディの部」と題されていることに読者は驚かないだろう。この章に最初に登場するのは片目の母親と片足の父親の間に生まれたハンス・ライターという少年である。注意深い読者であればこの名前がすでに第一章の中に記されていたことを記憶しているだろうし、ライターが成長するにつれて巨人のような背丈となったという記述からライターとは何者か、想像することはさほど難しくない。早回りをして種を明かせば、この章はライター/アルチンボルディの伝記であり、一種のビルドゥングスロマンと読めないこともない。ライター少年は長じて兵士となって第二次大戦に従軍し、ルーマニアあるいはソビエトにおける奇怪な体験が記される。ベルリンでは後年彼のパートナーとなるインゲボルクという少女と出会う。戦闘で負傷したライターは療養中に滞在していた丸太小屋でボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記を発見し、アンスキーの手記は小説内小説として物語に奇妙な彩りを添える。さらに捕虜となり収容所で知り合ったツェラーという男の告白もまた小説の中に組み込まれたテクストだ。ある事件を介して自分の名を捨てる必要に迫られたライターは敗戦後のケルンで小説家アルチンボルディとして再生する。インゲボルクと再会し、小説の執筆を始めたアルチンボルディは次第に作家としての地歩を固めていく。その過程で第一部において「批評家たち」が訪ねた関係者が次々に登場する。
 大部の小説であるから、単純な要約を許すものではないが、ひとまず本書の粗筋を記した。この小説が分裂的な内容でありながら全体として一種の円環を閉じる独特の構造を有していることは理解いただけるだろう。最初に述べた通り、私にとってボラーニョの小説を読むのはこれが初めてであるから、ほかの小説と比較はできないが、それにしてもなんとも奇妙な小説だ。まず私が感じたのは、本書がこれまで耽読してきたラテンアメリカ文学とは全く異質であることだ。確かにメキシコという中米が舞台であり、作家自身メキシコに長く滞在している。しかしここにはラテンアメリカの小説にしばしば認められるエキゾティシズムや土俗性、神話性は存在しない。この小説に一番近いテイストを帯びた作家はボルヘスであろう。なるほど陰惨な殺人事件の状況の描写が小説の半分を占めているにもかかわらず、全体に抽象的、図式的な印象が強い。生々しい死体の描写も数限りなく繰り返されることによって相対化され、希薄化される。確かに第四章をこれほど書き込む必要があったかという点には疑問が残る。実際、以前このブログで触れた「ラテンアメリカ文学入門」において寺尾隆吉は「これほど頁を費やす必要があるとは思われない」と切り捨てている。作者がこの作品をさらにブラッシュアップする猶予があれば、あるいは優秀な編集者が助言を与えていたらこの章が短縮された可能性はおおいにあると私も感じる。さらに本書からボルヘスを連想した大きな理由はこの小説が小説や作家を主題とした一種のメタフィクションである点だ。第一章においては批評家たちが架空の作家、架空の小説について議論を続ける。アマルフィターノの章において象徴的に扱われるデュシャンのオブジェは何よりも書物を素材にしていることによって導入されたのではないだろうか。あるいは小説家の誕生を主題とした第五章においても小説の中の小説というよく知られた手法を用いて別の物語が入れ子状に組み込まれている。かかる自己参照性はポスト・モダニズムとの関係で論じられることが多い。ヨーロッパ、スペインに滞在したことがあるとはいえ、コスモポリタニズムからは程遠いチリという土地で、かかる意識がいかにして作家に芽生えたかという点に私は興味がある。
 このような抽象性の一方で、この小説はきわめて具体的な手触りも与える。サンタテレサ(先に触れたシウダー・ファレスをモデルにしていると解説にある)でなぜかくも多くの女性が殺されるのか。メキシコ北西部、アメリカと国境を接するという地理条件が大きく関わっている。この街に多くの若い女性が住んでいる理由は小説の中でも説明されている。この街にはマキラドーラと呼ばれるアメリカの下請け工場が無数に存在し、若い女性は安い労働力として搾取されているのだ。実際に小説の中で強姦されたうえで殺害される無数の女性はほとんどがマキラドーラの工員だ。低賃金ではあるが若い女性が簡単に仕事に就くことができる無数の工場が林立する工業都市としてのサンタテレサの光と闇については登場人物の口をとおして語られている。街の中に点在するスラム、度重なる不法投棄によって郊外に際限なく広がるごみ処理場、警察や刑務所の中にはびこる汚職と腐敗。この街の殺伐とした情景は何度も描写される。昨日、「アメリカ大統領」に就任した社会病質者ドナルド・トランプが口汚くののしるとおり、安い労働力を提供する国境の街とはグローバリズムの負の部分であり、したがってこの小説はグローバリズムの表象あるいはそれへの批判といえるもしれない。先にこの小説がいわゆるラテンアメリカ文学と異質であると述べたが、本書においてはボルヘスを連想させる抽象性、自己言及性とパルプノワールを思わせるグロテスクな身体性、具体性が合体し、いくつもの時代といくつもの場所を束ねながら一つの壮大な物語が浮かび上がる。
 それにしてもなぜドイツ人作家が主人公として選ばれたのであろうか。作家の略歴を参照するならば、ボラーニョは世界各地を転々としており、ヨーロッパでもフランス、スペインに滞在した経験はあるとのことだが、ドイツとの深いつながりは認められない。第五部で描かれる第二次大戦中から戦後にかけてのエピソード、ユダヤ人の虐殺や敗走するドイツ兵たちをめぐる奇譚の数々から、私はギュンター・グラスの一連の小説、とりわけ「ブリキの太鼓」と「犬の年」を連想した。グラスの名はカフカやデーブリンとともに作中で言及があるし、ボラーニョには「第三帝国」「アメリカ大陸のナチ文学」といった作品も発表しており、ドイツあるいはナチズムに対する思い入れがあるのかもしれない。しかしながらこれらの小説の紹介記事を読む限り、ここでも私の期待はみごとにはぐらかされることになりそうだ。さいわいにもこの何ともとらえどころのない小説家の作品については近年、多くが日本語に翻訳されている。ラテンアメリカの作家を読む楽しみがまた一つ増えたと感じるのは私だけでなかろう。
 最後に一点、タイトルの「2666」について。解説によればこれは2666年を示し、「小説の異なる部がそれぞれあるべき場所に収まるための消失点」であり、この年号についてはほかの小説でも言及があるとのことだ。しかし少なくとも本書を通読する範囲についてはこの謎めいた年号についての情報は一切与えられることがない。
# by gravity97 | 2017-01-21 19:58 | 海外文学 | Comments(0)
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 ミン・ティアンポが2011年にシカゴ大学出版局から刊行した『GUTAI Decentering Modernism』がこのたび翻訳された。2013年のニューヨーク、グッゲンハイム美術館における回顧展以来、このグループが再び注目を集め、何人かの作家の絵画が信じられないような価格で取引されるようになったことは知られているとおりだ。ミンとアレクサンドラ・モンローによって企画されたこの展覧会を私も見たが、かつてこのブログでもレヴューしたとおり、批判的な印象を抱いた。したがって同じ企画者がこの集団をどのように英語で検証しているか、多少の危惧の念をもって本書を読み始めた訳であるが、実に興味深い内容であった。最後に述べる通り、私には同意できない部分もあるとはいえ、本書は具体美術協会(以下、具体)についての全く新しいアプローチであり、具体をとおしてモダニズム美術史観を相対化するきわめて野心的な研究である。ひるがえって本書は今触れた展覧会の意味を再考する契機ともなるように感じた。
 具体というグループを扱いながら、本書は通史のかたちをとらない。確かに理論的フレームワークを論じる序章に続いて、リーダーの吉原治良の経歴に始まり、日本の戦後美術の前史を高橋由一まで遡って論じる第一章以降、具体の活動はほぼクロノロジカルに検証されているが、それは意図されたものではなく、各章ごとに興味深いテーマが設定されている。それらを個別に述べるならば、「距離の相互詩学」と題された第二章においては郵便システム、第三章では『具体』という機関誌、第四章ではメルクマールとなる三つの具体美術展、すなわち1955年の東京、58年のニューヨーク、59年のトリノにおける展示が取り上げられる。そして第五章以降においては資料が少ないことを理由にこれまでほとんど論じられることのなかったいくつもの展示に光を当てられる。第五章では62年のグタイピナコテカの開設と65年、アムステルダムにおける「ヌル1965」、そして同年パリにおける具体美術展、第六章では「ヌル1965」の数カ月後にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展、67年、阪神パークにおける「グタイグループによる宇宙時代の美術展」、そしてよく知られた70年、大阪万国博での発表である。このような構成を確認するだけでこれまでの具体研究にはありえなかった二つの視点が導入されていることが理解されよう。それはまず具体の活動を広く世界的な規模で確認することであり、第二にこれまで低い評価しか与えられることがなかった60年代以降の具体の活動に新しい意味を与えることである。具体の評価についてはすでに一つのクリシェがかたちづくられている。それは初期具体の野外展やアクションに大きな意義を認め、1957年のミシェル・タピエとの接触によってアンフォルメル絵画へと転身することによってそのオリジナリティーが殺がれたという見解であり、かかる発想は具体の活動時から今日まで、例えば最近ではミンも引用する現代美術に関するエンサイクロペディアとも呼ぶべき『Art Since 1900』の中でイヴ=アラン・ボアが論じるところでもある。本書はこのような通説に対する根底的な批判である。しかしこれにあたって彼女が提起する「文化重商主義 cultural mercantilism 」という概念は必ずしも有効ではない。本書の意義は単純にその実証性に求められるべきであり、新しい理論的モデルの構築は必要なかったように感じる。むしろハロルド・ブルームの「影響の不安」という概念を拡張することによって事足りたのではなかろうか。
 ミンは大学院時代にインターンとして、当時、芦屋市立美術博物館に移管されていた具体に関する資料、ことに吉原治良旧蔵の資料の整理にあたっており、具体の研究者としてのアドバンテージの一端はこの経験に負っている。この成果は本書にも十分に反映されている。一例を挙げよう。ミンは吉原が具体を回顧した文章を引用しつつ、その典拠として『具体』誌の13号を挙げる。この箇所を一読し、私は不審に感じた。なぜなら『具体』誌は10号と13号を欠号としているからだ。しかし註を参照するならば、ミンは吉原のアトリエに遺された資料中、吉原の手書きによって13号の雛形に添えられたコメントを例証としてかかる記述を行っている。緻密な資料調査に感心するとともに、この点に本書の一つの限界も存しているように感じた。現在は大阪新美術館準備室に保管されているこれらの資料はまだアーカイヴとして整えられていないため、参照することが容易ではない。つまり本書においては典拠をこれらの資料群に置いた記録や発言について、関係者以外はその真正性を確認することが容易ではない。もちろんこれはミンの責任ではないし、世界的にみても資料として第一級の価値がある(それゆえ芦屋市立美術博物館の経済的危機が叫ばれた際には、海外の美術機関が一括して買い付けるのではないかという噂が流れた)これらの資料が遠からずアーカイヴとして整備され、可能であればインターネットを介した検索が可能となることを望むのは私だけではないだろう。
 やや話が逸れた。本書の理論的枠組とオリジナリティーの問題を扱った序章と第一章は抽象度が高く、先にも述べたとおり作業仮設もうまく機能しているとは思えない。筆者は序章の最後の箇所で本書の目的を次のように記している。

本書は非大都市型モダニズムのトランスナショナルな研究の拡大に寄与するものだと考えている。こうした研究はモダニズムを漸進的に再考する方向に向かってきたが、本書ではよりラジカルな視座を提唱したい。つまり、いかに文化重商主義の言説が影響という概念を通じて非西洋のモダニズムを周縁化したかを分析し、作家間の相互詩学的関係を考察するための正確かつ柔軟な方法を提案したい。この方法論を用いて、本書はモダニズムの物語、領域、そしてそれらの核心となる特徴さえも再考する方法論を構築する。

 翻訳の問題もあろうが、わかりにくい文章である。読者はここで立ち止まって考えるより次章に進むのがよい。「作家間の相互詩学的関係」が具体的に論証されるからだ。続く第二章でミンはまず具体と海外の作家たちの「トランスナショナル」な関係が郵便というシステムを用いて深められたことを説得的に論証する。郵便を用いた交渉は多様なレヴェルにわたっている。例えば裕福な実業家であった吉原のアトリエに戦前より海外の美術雑誌や展覧会カタログが国際郵便によってほぼリアルタイムで届けられていたことは既に指摘されてきた。この中で彼女は1951年、『アートニューズ』5月号に掲載されたロバート・グッドノーの有名な記事「ポロックが絵画を描く」に注目する。ミンによればこのテクストを吉原はわざわざ書き写し、その中には「抽象から具体(concrete)をめざす」という言葉があったという。この言葉が具体という集団の名称、あるいは具体美術宣言に影響を与えたとするならば、興味深い指摘であろうし、具体とポロックの関係を強く暗示する挿話である。郵便システムに関しては、郵送によって世界中の作家や批評家に送られた『具体』誌をめぐるそれが連想されようが(その一部がポロックのアトリエに届いたことはいうまでもない)、ミンは意外な主題につなげる。それは年賀状である。IT環境の発達した今日においても年賀状は視覚的な情報発信の手段であるが、当時会員間で交わされた年賀状に着目したミンはそれがメールアートの先例であったこと、さらにそれが小さなサイズのオリジナル作品という発想を導出し、第11回具体美術展の際に会場に置かれた「具体カードボックス」という作品カードの「自動」販売機へと展開されたと論じる。本書にはかつて具体からルドルフ・スタドラーに送られた多数の年賀状の図版も掲出されているが、年賀状をミニチュア絵画ととらえる発想は示唆に富み、具体におけるコンセプチュアル・アートの萌芽をこの点に求めることも可能であろう。かかるポータビリティは1960年に大阪高島屋上空に下絵を拡大した海外作家の作品をアドバルーンで吊り下げた「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」、さらに60年代には一連の海外での作品発表の際におけるインストラクションへと展開されるという。実はこの問題は『具体』誌とも深く関わっている。この冊子をめぐっては具体初期を彩る神話がよく知られているが、ミンが注目するのは1962年に発行される予定であった第13号であった。知られているとおりこの号はグタイピナコテカ開設時のパンフレットにその予告が写真とともに掲載された幻の雑誌であり、その詳細は今日もよく知られていない。ミンは次のように解説する。「1962年に具体がグタイピナコテカの開館に合わせて『具体』誌の特別記念号を出版する計画を立てた時、メンバーは表現媒体と展覧会場としての機関誌という初期の試みに立ち返った。(中略)構造としては13号の前半ではひとりにつき2作品の割り当てで作品掲載の予定だったようだ。それぞれ絵画作品の複製と葉書大の手描きのマルティプルの実物を貼り込んで併置するというアイデアである」具体がきわめて早い時期にマルティプルという発想を美術に持ち込んでいたことはこれまで指摘されることのなかった重要なポイントである。ここからはデュシャンやコンセプチュアル・アートと具体という新しい関係線を引くことも可能であろう。さらにミンは『具体』誌の発行部数や配布先についても詳細に言及するとともに、フランスで発行された『ロボ』という雑誌について言及する。ジャン・クレイ(あの美術史家のジャン・クレイであろうか)によって編集されたこの雑誌は1971年に発行された5/6号で具体の特集を組み、しかもそこではタピエへの批判的な視点が加えられていたという。この雑誌についてはこれまでの具体研究ではほとんど言及がない。このような新しい知見が得られることも本書の大きな魅力であり、それは世界各地で調査を続けた筆者の行動力と語学力に多くを負っている。
 しかしこれらの新知見以上に、私は本書をとおして具体が置かれた状況について全く新しい光が当てられたことに注目したい。私がそれを強く感じたのは「具体美術展の地政学」と名づけられた第四章である。ここでは具体の活動の中心であった具体美術展を軸にまさに美術の地政学が論じられる。最初に述べたとおり、タピエとの接触を機にアンフォルメルの一翼としての立場を鮮明にした具体は1958年、日本各地を巡回した「新しい絵画世界展」において、ヨーロッパのアンフォルメル、アメリカの抽象表現主義そして日本の具体という新しい国際様式のフロントを大胆に示した。このあたりの事情を確認したうえで、ミンは同じ年、ニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーで開かれた第6回具体美術展と翌年トリノで開かれた第7回具体美術展に注目する。これら二つの具体美術展に関する今までの定説は、ニューヨークの展覧会は抽象表現主義の亜流として酷評され、トリノの展示は資料が残されていないから詳細が不明というものであった。海外で開催された展示であるから資料調査が困難であることは当然とはいえ、この二つの展覧会は具体研究における一種のブラックボックスとなっていた。ミンは当時の資料を読み込んで前者についての批評が、具体におけるアクションや実験的な側面にあえて目を閉ざし、絵画に集中することによってもたらされた意図的な批判であった点を実証する。私が感心したのはミンがニューヨークとパリの間の美術の覇権をめぐる闘争の一端としてこのような状況を実証的に分析している点である。具体の様々な前衛性に関する情報は十分に与えられていたにもかかわらず、ニューヨークの美術界は具体の活動を単に絵画の問題へ矮小化して否定した。具体を尖兵としたタピエとジャクソンの世界戦略は破綻する。確かに時期といい場所といい、ニューヨークの具体展はパリとニューヨークの間の美術をめぐる覇権争いのメルクマールとなる出来事であった。私は日本の作家集団がこの歴史的局面に深く関与したことをあらためて思い知った。そしてさらに興味深いのはかかる現代美術のパワーゲームの中で具体は単に欧米の批評に左右される存在ではなく、時に自らもプレーヤーとして欧米の美術界に伍したという指摘である。ニューヨークにおける批評家たちの反発を目の当たりにした吉原はトリノの展示においては戦略を違える。いうまでもなく絵画そしてアンフォルメルの要素を切り詰めて、具体の前衛性を正面に押し出したのである。このうえでも雑誌が大きな役割を果たしたことは注目に値する。具体はあらかじめ『NOTIZIE』誌の特集を用いて自分たちの活動を紹介し、東洋の未知の前衛集団として自らをアピールした。ニューヨークでの冷遇に対してヨーロッパでの成功は続く60年代の具体の評価と密接に結びつくこととなる。
 かかる視点を得る時、先に述べたアドバルーンを用いた展示、「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」の評価も変わってくる。この国際展の開催、そして出品者の顔ぶれは具体の世界的な認知、針生一郎の言葉を借りるならば「国際的同時性」を暗示している。したがってミンはタピエとの接触によって具体の創造性が衰えたという通説には与しない。それどころかまさにこの接触を契機として具体は自らの表現の同時代性を意識し、さらに新しい冒険に乗り出した。その答えの一つが62年に開設された常設展示場、グタイピナコテカであることは言を俟たないだろう。ミンはそこを訪れた著名な作家や批評家を列挙してその国際性を強調する。さらに65年、アムステルダムのステデリック美術館で開催された「ヌル1965」と実現にはいたらなかったがその後、やはりオランダのスヘフェニンゲンで企画された「海上のゼロ」の構想についての詳細な検証からは、60年代にあって具体が再び絵画からオブジェや立体へと活動の中心を移そうとしていた様子がうかがえる。一方でタピエもまた具体の絵画によって巻き返しを図る。奇しくも同じ65年にパリ、スタドラー画廊で開かれた具体パリ展であり、展示は絵画のみで構成されていた。私たちはこれまでこれらの展示を同じ年にヨーロッパで開かれた具体による連続デモンストレーションとみなしてきたが、そこには美術の主流、海外での認知をめぐる関係者の激烈な暗闘が隠されていたのである。そして疑いなく吉原のリーダーシップに基づいて、具体はかかるパワーゲームに主体的に参加していた。
 かかる問題意識に立って、ミンは同じ65年にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展に具体の一つのピークを認める。吉原が円によるハードエッジ抽象に転じ、キネティック・アートやオップ・アートに分類される多様な作品が発表されたこの展示は初期のアンフォルメルの牙城として具体とは一線を画すものの、これまでむしろ初発時の創造性の衰退を示すものとして否定的に言及されることが多かった。これに対してミンはこのような多様性を肯定し、それが端的に「ヌル1965」に参加したことによって得られた自信に裏打ちされていると説く。これは同時に具体におけるアンフォルメルの終焉を画す意味をもち、タピエによる具体の専横の終焉であった。この後、具体はいくつかのインターメディア系の展示に参加し、多くの前衛作家が反対を表明した万国博覧会にもあえて「具体美術祭り」で応えた。しかし具体にはもはやさほどの時間は残されていなかった。72年、オランダでのスカイ・フェスティヴァル再現についてオランダ大使と電話で会話中、吉原は脳出血で倒れ、まもなく他界する。傑出したリーダーに支えられた具体にとって吉原の不在は集団の解消を意味した。かくして60年代に具体が提起した国際的同時性という問題は十分に深められることなく、またその後の具体研究においても等閑視されてきたことをミンはあらためて指摘する。
 実際にはミンの議論は相当に入り組んでおり、単純な要約を許すものではないが、以上で少なくとも本書の核心についておおよその見取り図を与えたことと思う。最初に述べたとおり、このような研究は語学に通じ、日本人ではない研究者によって初めて可能な発想である。本書を読んで、私は近年きわめて近似した意識に基づいて執筆された研究が上梓されたことを想起した。本ブログでもレヴューした池上裕子の「越境と覇権」である。池上も時間的な影響関係ではなく、空間的な交渉を主題として、1964年のラウシェンバーグの活動を論じたが、本書においても具体という集団の歴史ではなく、空間的な関係が主題とされている。資料の綿密な調査、存命の関係者へのインタビューといった点においても共通点を有する二つの研究が、1960年代中盤、モダニズムの首都の座をめぐってパリとニューヨークが角逐を繰り広げていた時期に焦点を当てていることは偶然ではないだろう。(いうまでもなくこの点がミンの具体研究の独自性でもある)モダニズムにおいては中心と周縁という関係が成立する。モダニズムの中心において洗練された前衛は変形を被りながら、周縁へと伝播する。キュビスムからシュルレアリスムまで私たちはこのようなモデルをいくつも指摘することができる。これに対して池上においては移動、ミンにおいては相互詩学や同時性といったキーワードを介して、時間ではなく空間、伝播ではなく同期が論じられる。中心はもはや一つではなく複数、さらに「脱中心化」というモデルさえも提出される。これらの発想はモダニズムがもはや金科玉条ではなく、その相対化が図られた1990年代より顕著となり、展覧会としては、1989年、ポンピドーセンターで開かれた「大地の魔術師たち」、1998年、ロスアンジェルス現代美術館における「アウト・オブ・アクションズ」、1999年、クイーンズ美術館における「グローバル・コンセプチュアリズム」などが連なる。私はソビエト連邦が崩壊した時期よりかかる趨勢が力を得たことは偶然ではないと考えるし、美術史研究の分野に応用されて多くの成果を生んだ「グローバル・アート・ヒストリー」の研究者の多くが非欧米系の女性であることもまた一種の必然性を秘めていると感じる。
 本書はきわめて独特の研究であり、多くの新しい知見を得ることができたが、最後に私の立場からいくつかの問題点を指摘しておきたい。まず60年代中盤の具体に対する肯定的な評価に私は同意することができない。これまでにも具体の活動がその全幅において回顧された機会は何度かある。近くは2012年に国立新美術館で開かれた「具体 ニッポンの前衛 18年の軌跡」がこのような展示であった。このブログでもレヴューしたとおり、具体の作品が歴史的に概観された場合、60年代以降の作品の脆弱さは誰が見ても明らかであり、この印象は今回本書に掲出された、例えば第15回具体美術展の会場写真を見ても変わることがない。作品はばらばらで展示も散漫で希薄に感じられる。「新たな自信とエネルギーに満ちた具体メンバーは素材、テクノロジー、空間、そして動きを使って、真に革新的成果をみせた」というコメントは過褒に過ぎる。第五章以降、国際性や同時代性に注目するあまり、本書からは作品に対する価値判断という視点が失われたように感じられる。国際性を論じるうえでは62年の常設の展示施設の設立は決定的に重要であり、それゆえミンは従来の三期区分に対して、グタイピナコテカ設立以前と以後という具体の二分法さえ提起する。しかし私はこのような国際的同時性の検証は60年代ではなく、むしろ初期から中期の具体についてこそ試みられるべきではないかと考える。むろんそこにはタピエという毀誉褒貶の激しいプレーヤーが介在した。しかしモダニズムの核心とも呼ぶべき彼らのオリジナリティーはミンも説くとおり、この時期にこそ横溢しており、さらに当時の彼らには明らかに国際的同時性への自覚があった。歴史に「もし」はありえないとはいえ、私はタピエなき具体を夢想する。タピエが介在せずとも、具体の絵画が当時において世界的な評価を受けたと考えるのはあまりに無邪気な認識であろうか。しかし実際にタピエと接触する以前に具体の絵画はサイズや物質性、あるいはアクションの介在といった点において、すでに抽象表現主義に比肩しうる資質を獲得していたと私は考えるのだ。つまりタピエやヌル、あるいはゼロを経由せずとも、すでに複数のモダニズムは存在していたのではないか。そして本書には具体の絵画についての言及がきわめて少ない。印刷物に掲載された写真、マルティプルのミニチュア作品、下絵を引き延ばしてアドバルーンから吊り下げた作品、それらはモダニズムの外部にあって興味深いエピソードではあるが、本書を読む限り、少なくとも初期の具体の活動の中心に絵画が存在し、しかも高いクオリティーを秘めていたことを理解することは困難である。絵画を軽視することは具体にとってその可能性の中心を素通りする偏った見解である。
 あらためてグッゲンハイムにおける具体展を振り返るならば、本書における主張が随所に取り込まれていることがわかる。児童美術や具体カードボックス、「間主観的な」落書板といった本書で言及されたアイテムが展示に組み込まれ、遊戯性やインターメディア性が強調される一方で、絵画はその自立性を意図的に弱めて展示されていた。これらへの批判はすでにこのブログで行っているので繰り返さないし、逆に本書を読むことによってあらためてこの展覧会の暗黙の意図を了解することができた。私は日本の戦後美術史にそれなりに通暁しているから本書をある程度相対化して論じることができる。しかし多くの英語圏の読者にとっては今後、本書とグッゲンハイムの展覧会カタログが具体に関する理解の基礎となるはずだ。それなりに興味深い視点であるが、今述べたとおり、私はそれらによって具体の達成の本質が検証されたとは考えない。自らの国で成立したきわめて独自な運動であるにもかかわらず、その評価において私たちはいまだ「中心」からはるかに離れた「周縁」にいるのかもしれない。
# by gravity97 | 2017-01-05 21:00 | 現代美術 | Comments(0)

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# by gravity97 | 2016-12-25 19:40 | MY FAVORITE | Comments(0)
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 東京国立近代美術館に「endless 山田正亮の絵画」を訪ねる。素晴らしい展示であったが、それゆえ山田正亮という画家の不幸についてあらためて思いをめぐらす。山田については1990年に美術出版社から作品集が刊行され、生前の2005年には府中市美術館で展覧会が開催されているから、これまでもその画業を知ることは必ずしも困難ではなかった。しかし山田については経歴、そして作品についてかねてから疑問が呈され、これらが枷となって国立美術館レヴェルでの回顧的な作品の検証が困難であった。展覧会の挨拶にある「2010年の画家の逝去を経て6年、今私たちは、彼の社会へのある種独特な向き合い方に対して毀誉褒貶が重ねられてきた生前の状況から距離を取り、山田正亮の生と作品の総体を冷静にみわたすことができるようになったといえるでしょう」というもってまわった言い回しはこういった事情を暗示している。多くの困難を克服して開催された今回の展覧会については関係者の労を多とするとともに、そもそもかかる困難も作品の本質と深く関わっていたのではないかと思う。
 私の知る限り、山田については作家と作品に対して、二つの疑惑が指摘されていた。一つは当初、画家の経歴として記されていた「東京大学文学部中退」が詐称であるとされた事件であり、これによって同じ東京国立近代美術館でかつて予定されていた回顧展がキャンセルされたという。一方、作品についても制作年代を偽った、あるいは近作を過去作として発表したという疑惑がささやかれてきたという。今回の展覧会カタログでは巻末の「編集されざるもの―年譜にかえて」という企画者による長い注記によって両方の疑問について答えられている。すなわち前者については1990年頃までの出版物に記載されていた「1954年 東京大学文学部中退」という履歴の記載が1994年の『美術手帖』1月号において「東京府立工業高専卒」と修正されたが、いずれについても記録による裏付けはなされていないというものであり、後者については展覧会を準備するにあたって計1,100点以上の作品を実見し、そのうち4割以上については専門家による科学的調査を行った結果、「1.100点のうち数点、画面に損傷が生じた作品について、作者本人が経年後手を加え、その結果当初の画面をとどめていないと判断できるものが見出された。とはいえ、新作を意図的に旧作として発表するという『年代詐称』にあたるようなケースは見られなかった」と記されている。慎重な物言いではあるが、この展覧会を開くことの意義を強く確信した企画者の思いが伝わる内容である。しかしそもそもモダニズムの画家にとってこれらは問題となるような瑕疵であろうか。むろん学歴詐称は不正である。しかしながら私たちがモダニズムの絵画に求めるのは作品の質であって作家の意図や人格、ましてや学歴ではない。例えば藤枝晃雄のごとき日本におけるフォーマリズム批評の第一人者がこの点を理由に山田をことさらに批判することに私はかねてより不審を感じていた。これについては事実関係の確認の問題であるから今後の検証に任せるとして、私にとってより重要に感じられるのは作品の制作年の問題である。これについても例えば制作年を偽って作品を売買したような事実があれば、一種の犯罪であろうが、今引用した箇所からも明らかなとおりそのような事実はない。今回のカタログに作品の科学的分析についての論文が寄せられ、会場にも同じ問題に関する説明パネルが掲出されている点は、かかる批判への反証であろう。
 作品の本質と無関係なゴシップ的な話題に紙幅を費やすことは消耗的であるが、学歴の問題はともかく作品の制作年の問題は山田のみならずモダニズム絵画の在り方全般と関わる。私の理解ではモダニズムの絵画は多く次のような特質を秘めている。まず作家は多作であり、作品はシリーズによって深められ、シリーズによる作品の変化は劇的である。例えばピカソが好例だ。ピカソほど旺盛な作品制作で知られる作家はほかに例がなく、青の時代に始まり、キュビスムからシュルレアリスム、ばら色の時代へと同じ作家とは思えないほどの激しい変化をみせながらも常に時代の先端で活動を続けた。戦後においても多作とシリーズ制作で知られる作家としては例えばモーリス・ルイスとフランク・ステラを挙げることができよう。ルイスは早世したにもかかわらず600点に及ぶ作品を制作し、しかもほとんどがヴェイル、アンファールッド、ストライプという三つの類型のいずれかに分類される。ステラもことに初期から中期にかけてはブラック・ペインティングに始まるいくつものシリーズによって作品を深めてきた。このうちルイスについては初期に制作したアンフォルメル系の絵画については作品を処分したため、今日カタログ・レゾネを参照しても確認することが困難である。画家がある時点で意に沿わなくなった過去の作品を処分するこということは決して珍しいことではない。独特の静物画で知られるジョルジョ・モランディが自らのイメージを固定化するために一部の作品を破棄し、のみならず批評家による批評にまでも介入した点については岡田温司がモノグラフの中で詳細に論じている。もっとも作品の成立にどの程度まで作家が関与するかという問題は単純ではない。以前の作品に後年作家が手を加えることは比較的よくあることであり、美術館泣かせである。私も作家が修復という名目で手を入れたため、美術館が収集した当時と様相を違えてしまった作品をいくつか知っている。あるいはデ・クーニングの有名な《女Ⅰ》も個展で発表され、ニューヨーク近代美術館が購入を決めた後も収蔵されるまでに作家が手を入れたというエピソードが残っていたと記憶する。
 山田の画業は典型的なモダニストのそれだ。展覧会の挨拶においては「絵画との契約」と表現された圧倒的な専心の結果、油彩と紙作品をあわせて5,000点にのぼる作品が残された。山田の作品がいくつものシリーズに分類されることは明らかであるが、山田はシリーズを名付けることすらせず、Workという総称の後に、50年代であればB、60年代であればCといった機械的な分類番号を割り振っている。初期の静物画から抽象に移行した後は、同心矩形やストライプといった一目で識別可能ないくつかのパターンをそれこそ数限りなく試行し、しかも新しいパターンへの移行は劇的である。海外の作家を視野に入れたとしても、先に述べたモダニズム絵画の条件をこれほど過不足なく満たした作家を思いつくことは困難であろう。このような作家に対して作家の成長とか作品の成熟といったクロノロジカルなモデルを適応することに果たして積極的な意味が見出せるだろうか。例えばルイスが制作した無数のヴェイル絵画に時間的な展開を求めることは困難であり、作品はいずれも非時間的な類型のヴァリエーションとして成立している。山田正亮の絵画もまた時間的な契機を欠いているのではないか。後で述べる通り、Workがアラベスク、同心矩形、ストライプの順に制作されたことは間違いない。しかし個々のシリーズ内のクロノロジーはたとえ作品番号がそれを暗示しているとしても確証がないし、そもそもそれを問うことに意味がない。制作された年代の不確定性が山田の絵画の本質と関わるというのはこのような意味においてである。
b0138838_20425376.jpgモダニズム絵画の範例として、山田の作品はこれまで形式的な観点から論じられることが多かった。さいわいにも今回の展覧会を契機として企画者の中林和雄、あるいは松浦寿夫、早見堯といった批評家たちが力のこもった作品論を発表しており、その一部は今回の展覧会カタログ、そして『ART TRACE PRESS』の02号、今回の展覧会に合わせるかのように発行された04号に掲載されている。また私は未読であるが、この研究会の報告書とも呼ぶべき書籍としてこのたび水声社から刊行された『絵画との契約-山田正亮再考』もミュージアムショップで目にした。今回、あらためてこれらの論文や鼎談のいくつかを読んで感じるのは、山田の絵画とフォーマリスティックな分析の親和性である。実際、『ART TRACE PRESS』の04号に掲載された対談においては、府中市美術館での展示の際になされた松浦と林道郎の公開対談に際して、当時、府中市美術館の館長であり、山田についても興味深い論文を執筆している本江邦夫が、話題が形式に集中し過ぎている点を叱責したといったエピソードも披露されている。実際、私は今回、今述べたいくつかの論文を集中的に読んで、山田の絵画についてのフォーマリスティックな分析はこれらにほぼ尽きているという印象さえもった。これに対して、本江、そして本江の論文を評価する峯村敏明はやや異なった観点から山田に論及している。知られているとおり、山田は1978年の康画廊での連続個展まで日本の美術界からほとんど黙殺され、学歴詐称問題が浮かび上がった頃からは一種の禁忌のごとく扱われていたから、この機会にこれらの目利きたちによる多くの批評を得たことは作家にとって幸いであった。しかしむしろこのような機会は作家の生前にこそ準備されるべきではなかったかと感じる。
 これほど多くの山田の絵画が公開されたことは初めてであり、私も大きな感銘を覚えた。今触れた文章の中で多くの論者も指摘しているとおり、山田の絵画は大きく三つの時期に分けることができるように思われる。まずStill Life と名づけられて番号が振り当てられた初期の静物画を中心とした具象的な作例。これらもあらためて通覧するならば実に興味深く、今後多くの研究を生むであろう。続いてWork という総称が与えられ、山田の作品の大半を占める膨大な作品群。これらの一連の作品は50年代後半にアラベスクとかジグソーパズルと呼ばれる Work B と呼ばれる作品群に始まる。これらのオールオーバー絵画も実に豊饒だ。山田の色彩感覚はすでにこの時点で完成していることが理解されるし、アンフォルメル旋風が吹き荒れていた当時の日本の美術界の中でかかる作品をこつこつと制作していた点は驚くべきことと感じられる。同心矩形をモティーフに扱った一連の作品に続いて、1960年頃より Work C と呼ばれる代表作、ストライプ絵画の制作が始まる。ヴァリエーションを伴いつつ会場に並べられた無数のストライプは圧巻である。続いて山田は一連のグリッド絵画、そして均等に機械的なストライプが反復される絵画を制作する。Work C と Work D に分類されるこれらの絵画も山田の代表作であり、この時期の最後、先に述べた康画廊における発表で山田は広く注目を浴びることになった。この後、80年代の Work E のあたりから作風はやや変化する。筆触が強調され、それまで描かれることのなかった斜交する線が描かれることとなるのだ。おそらく康画廊の個展である程度体系的に作品を通覧したこと、そしてもしかするとニューペインティングの抬頭も影響を与えていたかもしれない。ただし Work E そして90年代に始まる Work F は時に大きなサイズの作品が制作されることはあっても、これまでの作品と比べてやや甘く感じられることを何人かの論者が指摘しており、今回作品を実見して私も同じ印象をもった。そして三番目の時期を画すのは1997年に始まる Color と呼ばれる作品群だ。いくつもの色彩が塗り込められたそれぞれに異なるほぼモノクロームの色面から成る最晩年の作品は、作家がタイトルを違えたことが示唆するとおり、Workとは別の構造によって成り立っている。ただし今回の展示では冒頭に Color の連作が置かれているから、山田の作品を何の予備知識もなくまとめて見る者にとっては画業の展開を理解することは容易でないかもしれない。あらためてこれらを通覧して私は先に述べた二番目の疑惑が全く根拠のないものであることを確信した。山田の絵画の展開は決してわかりやすいものではない。しかしそこにはぶれることのない歩みがある。これほど真摯に絵画に向かい合った画家が意図的に作品を改作したり、過去作を模した作品を制作することはありえないだろう。むしろ私が関心をもったのは、Color における作品の突然の転調である。作家はこの理由を明確に語っている。すなわち1995年の時点で Work シリーズは「その円環を形成した」として、作家自らによって完了を宣言され、続くColor シリーズが始められたのである。峯村は山田のこのような物言いに「うそ臭さ」を感じたと述懐しているが、それは直線的に展開し、「円環を閉じる」ことがないモダニズム美術との間の違和感ではないだろうか。山田の場合、何がかかる円環を保証したか。展覧会を見て私はこの点を理解することができた。それは1948年から1972年までの年記をもつ自筆の制作ノート56冊である。その詳細についてもカタログ中で説明されているが、なんとも中途半端な年代の幅、その存在が知られたのが今世紀に入ってからであること、ノートでありながら配列や構成については可変的な可能性が残されていることなど、なお多くのテクスト・クリティークの必要が残されている。展覧会場にはこれらのノートも陳列され、カタログにもその一部が収録されている。絵画のスケッチとそれについてのコメント、日記的時事的な記録が混在するこのノートが制作に関する一種の覚え書であることは明らかだ。確かにこのノートには個々の作品についてのかなり具体的な説明や図示があるから、両者の密接な関係は明らかである。おそらく今後も両者の関係の究明は関係者によって続けられようし、文献や書誌を好む「美術史家」にとってかかるノートが恰好の研究材料であることもまた明らかである。しかし同時にこのようなノートの存在はモダニズム絵画の本質に反する。なぜならモダニズム絵画とは直接性によって特徴づけられており、図表や写真、なかんずく言語の介在を許容しないからである。この展覧会は典型的なモダニズムの画家の中心的な画業の展開を、間接的、言語的な二次資料によって保証するという倒錯を示しているとはいえないだろうか。
 かかる保証が成立しえない Color を、山田が初期作品同様に自らの画業から意図的に切断したことはおおいにありうる。さらにいえば、モダニズム絵画という圏域の外にあってもColorは画業の上に屹立しているという自負もありえたかもしれない。私はひとまずこれらの絵画についての判断を保留する。今回、あまりにも多くの作品を一度に見たため、山田の絵画を見る体験がいわば飽和状態に達して、個別の作品についての判断を下しかねるためだ。このような経験は私にとってもまれであるが、きわめて幸福な体験であったことを言い添えておく必要があるだろう。Color が図表的、言語的な補助を必要としない作品であったことは書き留めておく意味がある。そもそも色彩とは図示できず、言語による説明が困難な絵画の要素である。山田が「絵画との契約」の果てにかかる絵画へと逢着したことは私にはなにかしら暗示的な出来事であったように感じられるのだ。
 本ブログにおける展覧会のレヴューとしてはきわめて異例なことに、具体的な作品について論じる以前にほぼ紙数が尽きてしまった。最初に述べたとおり、かかる迂回を経たうえでなければ作品へと向かえないことは作家にとって不幸であるかもしれないが、私は山田の作品は総体として一つの体系をかたちづくっており、作品と同様にかかる体系、あるいは体系の外部について語ることを不可避的に要求すると考える。先に言及した関連文献において何人かの論者が指摘するとおり、かかるシステムは直ちに言語のそれを連想させる。したがって私は記号論を援用することによって、このような体系そして個々の作品についてさらに深い分析を加えることができるのではないかと考える。実際に今回のカタログに収められたテクストにおいては沢山遼がロマン・ヤコブソンを援用しながら、山田の作品を分析している。私はもう一度会場に足を運び、子細に山田のノートを確認しつつ、作品とあらためて向き合う必要を感じる。さいわい東京での会期は長く、終了後、京都国立近代美術館への巡回も予定されている。私は今後何度かこの展覧会に足を運ぶつもりだ。そしておそらくはもう一度、作品のレヴェルにおいて山田の画業について論じることとなるだろう。
# by gravity97 | 2016-12-23 20:44 | 展覧会 | Comments(1)
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 ボードレールのLes paradis artificiels から引用されたのであろうか、楽園ならぬ「人工地獄」という奇妙なタイトルをもつ本書は20世紀の、そしてとりわけ1970年代以降、今日まで連なる、いわゆる「参加型」の美術の系譜を緻密に論じ、今日の美術の一つの趨勢を検証するきわめて興味深い研究である。ただしタイトル、そして構成は必ずしもわかりやすいものではない。「人工地獄」は本書の第二章のタイトルでもあるが、明確にその意味が提示されることがないため、一見したところ本書の内容はとらえがたいし、サブタイトルの「現代アートと観客の政治学」も抽象的でわかりにくい。本書を手に取り、レヴューすることが遅れた理由の一つはこの点に由来する。さらに序論と「社会的転回:コラボレーションとその居心地の悪さ」と題された第一章でいきなり本書の核心となる理論的枠組が語られるが、この箇所は全体の議論に慣れていない状態では相当に難度が高い。例えば第一章では本書の問題意識を反映した例として2001年、ジェレミー・デラーというイギリスの作家が発表した《オーグリーヴの戦い》と呼ばれる作品が参照される。おそらく日本の読者にとっては美術関係者であってもほとんど知ることのないこの作品は、確かに本書を通読するならば、議論の中で一つの参照点たりうることが理解されるが、最初に提示された際には本書の中でどのような位置づけを与えられているか判断することが困難である。逆にこの二つの章を通過するならば、論理の展開を追うことはさほど難しくない。第二章以降は「参加型」の美術の系譜が歴史的に概観される。ただしビショップがとる手法は網羅的な概観ではなく、いわばケース・スタディによって徴候をたどるそれだ。ケース・スタディとして選ばれた対象を列挙するだけでも本書の特色は明らかとなる。すなわち第二章においては20世紀の三つの前衛運動、未来派、ロシア・アヴァンギャルド、パリ・ダダが取り上げられ、続く第三章ではシチュアシオニスト・インターナショナル、視覚芸術探求グループ、そしてジャン=ジャック・ルベルによるハプニングについて論じられる。第二章の対象がよく知られているのに対して、第三章で論じられるグループや作家は相当にマニアックであるが、これらの連なりからは20世紀におけるパフォーマンス芸術の系譜が浮かびあがり、本書の類書として例えば翻訳も存在するローズリー・ゴールドバーグの『パフォーマンス』なども連想されよう。ただしゴールドバーグと比較するならば本書の特異性も明らかだ。すなわち本書においては、これまでパフォーマンスの歴史を語る際に必ず論及され、例えば同じテーマの展覧会としては過去最大級、日本にも巡回した「アウト・オブ・アクションズ」で中心的に取り上げられた北米におけるパフォーマンスが無視されているのである。このような姿勢がいかなる意味をもつかについては後で論じることにして、本書の概観を続けよう。続く第四章と第五章ではこれまで日本でほとんど紹介されることがなかった重要な動向について論じられる。すなわち1960年代から70年代にかけてのアルゼンチン、東欧、そしてソビエト連邦で繰り広げられたパフォーマンスの系譜である。先日、寺尾隆吉の「ラテンアメリカ文学入門」についてレヴューした際に、1960年代にアルゼンチンの文学がきわめて高い水準にあり、それを受容する知的に洗練された教養層が同伴したことについて論じたが、美術においても同様の深まりが認められる点は興味深い。例えばオスカル・ボニーという全く未知の作家が発表した、労働者の一家を「展示」するという試みは直ちにマリーナ・アブラモヴィッチやギルバート&ジョージを連想させよう。あるいはチェコスロヴァキアのミラン・クニージャークという作家については名前のみ知っていたが、本書を読んでパフォーマンスの詳細を確認することができた。以前よりラテンアメリカ、そして東欧がパフォーマンスにおいて多くの過激かつ重要な作品を生み出した地域であることを耳にしていたが、本書はパフォーマンスに関して、欧米中心の現代美術史とは別の美術史が脈々と存在することを説得的に論証している。ここで興味深いのは60年代のラテンアメリカ、70年代の東欧といった場がいずれも軍事政権や共産主義国家の圧政が支配する全体主義社会であったことだ。本書で紹介されるクニージャークの作品は圧政下での抵抗という文脈と複雑に絡み合っている。あるいはモスクワ・コンセプチュアリズムと深く関わる「集団行為」の一連のパフォーマンスは共産党の独裁という体制と深く結びついているだろう。これらの場における実践は実に興味深いが、詳細については本書を参照していただこう。第六章では再び西欧、イギリスにおける70年代の動向が論じられる。過激なパフォーマンスを繰り広げたジョン・レイサムの名は耳にしていたが、彼が芸術家斡旋グループ(APG)という活動に関わっていたことを初めて知った。作家と企業、産業をつなぐ興味深いプロジェクトは文字通りもはやパフォーマンスというよりプロジェクトと呼ぶべき内容である。著者の出身地であるイギリスにはこのような活動の長い歴史があることが、続くブラッキーやインターアクションといった運動との関係において検証される。第七章においても1990年以降、時にソーシャル・エンゲージド・アートと呼ばれる動向がドイツやフランスを舞台に様々な結実をもたらしたことが丹念に検証される。かかる傾向は単に作家のみならずドクメンタやミュンスター彫刻プロジェクトにおいてはキューレーションの問題とも深く関わっている。第八章で論じられる「委任されたパフォーマンス」の問題も私には実に新鮮に感じられた。「委任されたパフォーマンス」とは作家自身が行為するのではなく、「プロではない人々を雇い、一定の時間、一定の場所にアーティストの代理として存在し、アーティストの指示に従ってパフォーマンスを遂行する」試みである。この章を読んで私はとりわけ今世紀に入ってから世界の多くの場所で実見しながらも、その本質をつかめなかった一連の作品におおいに得心がいった思いがする。偶然ではあるが、私は先日、国立西洋美術館の「クラーナハ」展を訪れた。現代美術とクラーナハを交差させた興味深い展覧会についても機会があればレヴューしたいと考えるが、そこに出品されていたレイラ・バズーキというイランの作家の作品は、名画の模写によって生計を立てる中国の職人たちに制限時間内にクラーナハを模写させるというワークショップを課した結果の集積であった。アイ・ウェイウェイでもよい、田中功起でもよい。私は近年に発表された「他者によって代行されるパフォーマンス」の実例をいくつでも挙げることができる。本書の視点を得て、これらのなんとも名状しがたい試みに対して、目から鱗が落ちた思いがした。著者が「本書の執筆にあたって最大の難関となる」と述べる最後の章、第九章においては「教育におけるアート・プロジェクト」が論じられる。早くも60年代のヨーゼフ・ボイスによって創始されたペタゴジック(教育的)プロジェクトは今世紀に入って多くの作家、キューレーター、あるいは美術学校といった多様な関係者によって深められる。特にキューバ出身のタニア・ブルゲラ、アメリカのポール・チャン、ポーランドのパヴェウ・アルトハメル、そしてパリを拠点とするトーマス・ヒルシュホーンという四人の作家の実践が詳細に検証される。私はチャンのみ名前を聞いた覚えがある。ビショップが論じるチャンのプロジェクト、2007年の「ニューオリンズでゴドーを待ちながら」はハリケーン、カトリーナによって壊滅的な被害を受けたニューオリンズでベケットの演劇を上演するというものであり、単なる上演ではなく上演にいたる一連の教育プログラムがプロジェクトとみなされるという。このプロジェクト/作品は最近、そのアーカイヴがニューヨーク近代美術館に購入されたということであるが、この出来事はかかるプロジェクトと美術館の関係においても示唆的である。そういえば、おそらくは今も私たちも東京国立近代美術館のコレクション展を訪れるならば、ロビーで上映されている田中功起のプロジェクトを見ることができるはずだ。さらに私はここで今述べたチャンの作品を、1993年にスーザン・ソンタグが内戦下のサラエヴォでやはり「ゴドーを待ちながら」を上演した事例と比較したい誘惑に駆られる。終章においては本書の総括がなされるとともにアントニー・ゴームリーのトラファルガー広場を用いた「ワン・アンド・アザー」という公共的なプロジェクト、そしてドイツのクリストフ・シュリンゲンズィーフという映画監督/作家の「オーストリアを愛してくれ」という挑発的なプロジェクトに論及される。本書の最後で社会性の強い二つのプロジェクトが紹介されたことは暗示的である。
 以上、本書の内容を簡単に要約したが、このような概観からもこの研究が時間的にも空間的にも広い対象を扱い、リサーチに多くの時間を要する労作であることが理解されよう。本書全般について論じることは私の手に余るが、いくつかの所感を書き留めておきたい。本書は基本的にクロノロジカルに構成されているが、それは網羅的な通史を意味しない。先にも述べたとおり、ケース・スタディの連続によって一つの主題が深められている。第七章の冒頭でビショップは、かかる美術の系譜にいくつかの高まりがあることを指摘する。それは1917年、1968年、そして1989年という年記によって示される。これらの年代が革命や動乱とともに記憶に刻まれていることは偶然ではないだろう。すなわちロシア革命、五月革命、ソビエト連邦の崩壊であり、おそらくこの点は本書において北米についての言及が少ないことと関わっており、ここで論じられた試みが本質において「抵抗の美術」であることを暗示している。同じ箇所でビショップは1989年以降の美術の本質を次のようにまとめている。「私が1989年以後の芸術において重要だと考える意味での『プロジェクト』は、有限の物的対象としての芸術表現から離れ、可変=継続的(オープン・エンデッド)な特性、ポスト・スタジオ的なもの、リサーチ方式、社会的過程、長い期間をかけて拡張していくもの、そして柔軟性を形式とするものへの移行を希求する」プロジェクトという言葉からは直ちにヴィレム・フルッサーの「投企」といった概念なども連想されるが、議論をこれ以上拡張することは避けよう。可変=継続性という概念は本書の鍵概念の一つであり、参加型の美術の判定にあたっては一つの指標となるだろう。今述べたようないくつかの特性は具体的な作品のかたちをとらず、往々にして展覧会のかたちをとる。いわばモノからコトへの転換によって、作家以上にキューレーターが重要な役割を果たし、より正確には作家がキューレーターの役割を果たす場合が多かったことを本書は論証している。ユニテ・プロジェクト、中間の時間、インターポールといった私が初めて聞く展覧会/プロジェクトをとおしてかかる試みの成功や挫折が論じられる第七章は実に興味深く、個々に論じたい事例も多いが紙幅がない。
 「委任されたパフォーマンス」と題された第八章も問題提起的だ。私にとって本書はパフォーマンスとして一括りにされがちな20世紀中葉のそれと20世紀末から今世紀にかけてのそれとの間に明確な断絶を指摘し、理論化した点において画期的であるように感じる。例えば次の二つのパフォーマンスを比較してみよう。自らの下腹部を剃刀で星形に切り裂くマリーナ・アブラモヴィッチのマゾヒスティックなパフォーマンスと対価を支払うことを条件に応募者の背中にタトゥーの線を入れるサンチャゴ・シエラの作品。肉体を毀損するという点においては共通しているが、両者の相違もまた明らかだ。作家自身の身体を傷つける前者と金銭的契約を介して他者の身体に介入する後者。このうちシエラについては本書中にも言及がある。身体、契約、刻印、様々なコノテーションをはらんだシエラの作品をビショップは一つの言葉で要約する。「プロではない人々へ外部委託(アウトソース)されたアクション」アウトソースとはまさに今、私たちが日本の社会において目撃している不条理であり暴力ではないか。シエラの作品が可能であったのは、中南米においては低い対価を目当てに一生残る刻印を受け入れる、グローバリゼーションのしわ寄せを受けた低所得者層が存在しているためである。ここでは作家に帰属する身体ではなく、私たちが置かれた不均等な世界が作品の主題とされているのだ。そしてこの問題を作品の真正性と読み替える点にこそビショップの議論の鋭利さがある。彼は次のように説く。「アーティストはパフォーマーに権利を委任する。ただし委任は一方通行の上意下達というだけではない。ひるがえってパフォーマーもまたアーティストに一定のものを委任するのだ。それはもっぱら表象に取り組むアーティストには通常与えられていない、日々の社会的現実に接しているという真正性の保証である。支配的かつ自己規定的な真正性は、(裸であったり、自慰をしたり、腕に発砲したりする)単独のアーティストの存在から離れて、否定しようのない(ホームレス、人種、移民、障害といった)社会的、政治的な問題を換喩(メトニミー)として表す、そうしたパフォーマーの集団的存在に向けて再編される」作家自身が裸になったり、自慰をしたりする60年代のパフォーマンスに対して、半世紀後のそれはホームレスや移民といった代行者を得ることによって社会構造における真正性を獲得するという指摘は重要である。私はシエラの作品がはらむ反社会性あるいは反倫理性をいかに評価すべきか長い間考えあぐねていたが、本書を読んでようやく理解することができたように感じる。50年代において作家の肉体が素材とされたことは、よりリアルな感触を美術に持ち込むためであった。しかしもはや「作家の身体」はかかるリアリティーをもちえない。権力や暴力が不可視された世界において現実を取り込むためにはより巧妙な戦略が必要とされるのだ。この点をビショップは次のように指摘している。「この図式では倫理は重視されない。なぜなら芸術は既存の価値体系へとたえず疑問を投げかけるものとみなされ、そしてそこでは倫理観についても問われるためだ。より重要なのは、社会における矛盾を表象し、それを問題として取り上げるための、新しい語法を打ち立てることなのだ。社会的な視座の言説では、倫理観の欠如と実効性の無さをかどに、芸術的な視座の言説が批判される。なぜなら、世界を提示および複製すること、またはそれについて考察することだけでは、不十分だからだ。そこで重視されるのは、社会を変化させることなのだ」私はここで暗に示された、例えばアブラモヴィッチやヴィトー・アコンチ、クリス・バーデンらのアクションもまた既存の価値体系への批判であると考える。パフォーマンスが本質において「抵抗の美術」であったことを想起するならば、それは何の不思議もない。しかし本書が論証するのはもはやそのような戦略においては作品が社会と切り結ぶうえでの真正性が確保されないという認識である。それに代わる新しい戦略を導出し、新しい「抵抗の美術」を生み出すことが求められている。そして本書を読む限り、私たちは悲観的になる必要はない。今世紀に入って次々と発表された「参加型アート」は新しい抵抗の地平を広げつつあるからだ。本書においてアジアでの実践について全く触れられていないことはやや残念に感じる。先にアイ・ウェイウェイの名を挙げたが、かつてのアルゼンチンや東欧と同様に全体主義体制下にある現在の中国におけるアヴァンギャルドの沸騰は本書の問題意識と深く関わっているはずだ。そして例えば前回のブログで論じた小泉明郎をはじめ、美術館の検閲を受けつつも実施された「キセイノセイキ」における発表などを想起する時、今や戦時体制下にある日本においても美術家における抵抗が組織されていることを知る。本書は彼らにとって大きな励みとなるはずだ。まことに時宜を得た翻訳であり、私たちは抵抗しなければならない。
# by gravity97 | 2016-12-16 22:43 | 現代美術 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック